2017年1月26日木曜日

唯仏与仏の巻

日本人の心の歴史P185 唯仏与仏について

たとえば、ある人にであったとき、その折りの、その際の、その人の顔かたちをみて、
これこれであったと覚え込み、そしてそのうえで、あの人はいつもこういう顔かたち
だと決めてしまうことがある。また花や月も、状況によってさまざまに違うのに、
その時みた花や月を、やがて花、月一般に及ぼして花はこういうもの、月はしかじかの
と、自分の心でみた光色を加えて月の光、花の色を断定してしまう。また、春はただ春ながらの
心、秋の美しいのもまた美しからざるのもまた秋ながらのおのづからのあらわれで、
それはそれぞれにいたしかたのないものである。春、秋の景色を己とは関係ないもの
だと判断するのはむずかしいことではあるが、然し、たとえば自分自身の姿恰好
のことを考えてみればわかることである。自分自身にも、逃れようとしても逃れられない
何ものかがある。さて、この春の声、秋の声が、己と関係があるのか、それとも
無関係なものなのか、よくよく考えてみるべきである。春、秋の表情は己の心に
つもりに積もって固定してしまった観念でもない。また今の自分の心に抱いている
イメージでもない。
右の事を押し広めていけば、いまの四大五薀うん、地水火風も、色受想行識も、
そのおのおのを、我とすべきにもあらず、ということになる。だから、花や月
のもよおす心の色もまた我とすべきではない道理であるのに、それを我と思ってしまう。
われにあらぬを、われと思うも、されは「さもあらばあれ」詮方ない。だが、
顔をそむけるような嫌いな色も捨てようとしても捨てられず、また好んでそれに
近寄りたい思う色もまた長くとどまらない。そういう取捨選択を離れ、自分の
すききらいを超えて、花、月を見るのが、不染汚ふぜんなの面目である。
ここにいう不染汚とは無頓着ということである。先に引いた言葉で言えば、
「自己を忘れる」ということ、さらに言えば、そのわするることで、それが即ち
「心身脱落」に外ならぬ。身の垢、心の垢、嗜好や固定観念を洗い落として、
生まれたばかりの「ありのまま」になることである。
ありのままをありのままに見る、ありのままがありのままにうつるということが
どんなに難しいことであるか。そうするためにはまず自分自身が不染汚のありのまま
にならねばならぬ。「ならねばならぬ」が修行というものであろうが、その
「ねばならぬ」がもう一度超えられて、ありのままがありのままに現成するのが、
無上の菩薩、覚りだというのだ。




仏法は、人の知るべきにはあらず。この故に昔しより、凡夫として仏法を悟なし、二乗
として 仏法をきはむるなし。独り仏にさとらるる故に、唯仏与仏、乃能究尽ないのう
ぐうじんと云ふ。

其れをきはめ悟る時、われながらも、かねてより悟るとは各こそあらめとあもはるるこ
とはなきなり。

縦ひおぼゆれども、そのおぼゆるにたがはぬ悟にてなきなり。悟りもおぼえしが如にて
なし。

かくあれば、兼ねて思ふ、そのようにたつべきにあらず。悟りぬる折りは、いかにあり
ける故に 悟りたりとおぼえぬなり。是にてかへりみるべし、悟りより先に、兎角おも
ひけるは、悟りの用に あらぬと。・・・


【解説】仏法は、人が知ることのできるものではない。したがって昔から、凡夫で仏法
を悟った者は いないし、二乗(声聞乗・縁覚乗に代表される小乗仏教の徒)で仏法を究
めた者はいない。

ただ仏にだけ悟られるので、唯仏与仏、乃能究尽(唯だ仏と仏と、乃ち能く究尽す)と言
う。
(ここでは『妙法蓮華経』「方便品」の「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」という語句
が踏まえ られている。)

それを究め悟る時には、自分としても以前から悟るとはこのようなことであろうと思わ
れて いたようなものではないのだ。たとい憶測していたとしても、その憶測に相違し
ない悟りでは ないわけである。悟り方も、憶測していたようなふうではない。そんな
わけで、以前に思って いたことは、それが役に立つはずがないのである。悟った際に
は、どのようなふうであったから 悟ったとは、気づかないのだ。これによって回顧し
てみるがよい、あれこれと思っていたことは 悟りの役には立たなかったのだというこ
とを。・・・


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妙法蓮華経方便品第二には「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」と説かれている。

訓読「唯(ただ)仏と仏と、乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽したまえり。」

この「唯仏与仏」の意味を道元禅師は『正法眼蔵』に於いて以下の如く説いている。

「仏法は、人のしるべきにあらず、このゆゑに、むかしより、凡夫として仏法をさとる
なし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑ

唯仏与仏乃能究尽
(ゆいぶつよぶつないのうくじん)といふ。」

仏の覚知した「諸法実相」の理(ことわり)は甚だ深く、決して言語表現を超えている
から、言葉をたよりに物事を理解しようとする凡人には悟ることはできない。

結局は、仏法とは諸法実相を覚知した仏のみがよく、その仏の到達した諸法実相を究め
尽くしているのであり、凡夫や二乗の知るところではない、ということです。

だから、「『仏』と『仏のみ』とは2人、仏がいる」という意味ではなくて、ただ仏の
みがよく、仏の知っている諸法の実相を究め尽くしているのである、という意味です。

文章は一区切りまで読まないと可笑しな解釈を生むことになるので御注意ください。

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