法性 【定義】 ①梵語[dharmata]の翻訳であるが、意味は多様であり、存在や存在のありよう、存在 のありように即して説かれた仏の教えなど。 ②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では54巻、 75巻本では48巻。寛元元年( 1243)孟冬に越前の吉峰寺にて示衆された。 【内容】 ①事物の本質、或いは不変の本性を意味する。
「法」は、事物の構成要素としての「諸法」という意味を中心にしながら、
縁起などの意味も併せ持っており、そこで、構成要素としての諸法と、本質としての
法性とに二分化されるようになった。
なお、あくまでも「法」としての本質であるため、「空性」或いは「法身」
という意味である。 ②道元禅師は同巻の冒頭にて、まず仏道修行のありようについて以下のように
示される。 あるひは経巻にしたがひ、あるひは知識にしたがひて参学するに、無師独悟するなり。 無師独悟は、法性の施為なり。たとひ生知なりとも、 かならず尋師訪道すべし。
たとひ無生知なりとも、かならず功夫弁道すべし。 ここで、「無師独悟」を単純に師に就かなくても良いと理解してはならない。そうでは なくて、師に就こうと経典を読もうと、 仏法は自己に於いて知られ、同時に自己に於い て知られるということは、 それは法性によって悟らされるのである。したがって、生ま れつき悟りを知っていようと、師に就いて教えを聞く必要があり、 また知らなくても必 ず修行すれば法性によって仏法を知らされるのである。さらに、 仏祖と法性とは、相対 する関係ではなく、法性の働きの事実として仏祖は現成する。 馬祖道の法性は、法性道の法性なり、馬祖と同参す。 法性と同参なり。すでに聞著あり 、なんぞ道著なからん。法性騎馬祖なり、人喫飯、飯喫人なり。 法性よりこのかたかつ て法性三昧をいでず、法性よりのち法性をいでず、 法性よりさき法性をいでず、法性と ならびに無量劫は、これ法性三昧なり。 馬祖道一による法性三昧の説法を用いて、 道元禅師は馬祖と法性とが「同参」すること を説かれるが、馬祖と法性との関係は、 単純な即是の論理でも捉えられない。 いま見聞する三界十方撲落してのち、さらに法性あらはるべし。 かの法性はいまの万象 森羅にあらずと邪計するなり。法性の道理、 それかくのごとくなるべからず。この森羅 万象と法性と、はるかに同異の論を超越せり、 離即の談を超越せり。 この一切の存在と法性との関係は、同巻の最大の問題であり、 最後までこの問題が突き つめられていくのだが、最終的に解決したとは思われない。 むしろ、この問題は読者で ある学人の側に於いて把握されるべきなのである。 もし法性をよんで衆生とせば、是什麼物恁麼来なり。 もし衆生をよんで衆生とせば、説 似一物即不中なり。速道速道。
人は、あるいは経典に親しみ、 あるいは師の指導の基で学ぶうちに、自ずと独梧するのであって、
覚りは常に独梧であるほかはない。自ずと独梧するのは、 普遍的な本性としての人の自性がもたらす
ものである。たとえ生まれながらに優れた知恵があろうと、 かならず師を尋ねて教えを請わねばならない。
たとえ生まれつきが凡庸であっても、 かならず努めて学ばねばならない。うまれながらの智慧が
優れていようと凡庸であろうと、 いずれにせよ生まれながらの智慧を具えていないものはいないので
あって、修行の成果を得るまで経典に親しみ師に従って学ぶのだ。
02
知らねばならない、 経典に親しみ師に出会って諸現象諸存在の無難純一な普遍的な
本性を身心に独梧するのを生知というのである。 つまり自他の過去世の生死の相を
知る智を得るのだ、 つまりは過去現在未来の三世の相の本質を知るのである、これが
無上の覚りを証すことなのだ。 修行者は経典と師と広大な生知に出会って自己に属する
生知を学習するのである。修行の中で、おのずから智と、 経典と師に具わっている広大な
自然の智に出会うのである、自己に属する自性の智と、 それより広大な自然の智を正伝する
のである。
03
もしこのような生知の力によらなければ、経典と師に出会っても、 仏法が保持している
森羅万象の普遍的な本性を知ることが出来ず、 証すこともできない。自らを知り、森羅万象の本質を
知ろうとするのは、人が飲水を飲めば、 冷たさ暖かさを知りうるといった単なる経験値ではない。
一切の諸覚者および一切の修行者、または一切の衆生は、 皆このような生知の力に
よって、普遍的な本性の中に仏道を明らめるのである。 経典と師に従って、諸現象の
実相、実相に示される普遍性を明らめること、 それがそのまま自己の本質を明らめることなのだ。
このようなものとして経典は実相であり、 自己の実相を開示しているのである。師もまた
実相であり、自己の実相を開示しているのである。 実相は師そのものであり、実相は事故に属する
者として開示されるのだ。本来性とはもともとの自己であるから、 外道や仏教を破る魔の類
がいうような自己ではない。外道魔党がいう、 霊魂としての不滅の自己とか真我とかの
自己とは異なるのだ。
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