2017年1月20日金曜日

無情説法の巻

03
釈迦の教えはこのようであるから、諸仏が説法を用いた様に、諸仏は説法を用いるのである。
諸仏が説法を正伝したように、諸仏は説法を正伝することから、古仏から7仏に正伝し、
7仏から今に正伝するのである。それは全宇宙の時間空間を超越し人間の分別智を
超えた説法である。それが無情説法である。この無情説法において諸仏祖は、仏祖
たりうるのである。釈迦の「私はいままた教えを説く」の言葉を、正伝されたものではない
新しい教えを説くことだと思ってはならない。また、昔から伝えられたものは、古く怪しげな
モノと考えてはならない。

01
普遍の理法を天地自然のままに説く説法は、仏祖が仏祖に付託する仏法の現成である。
仏祖の説法とは、真理そのままが真理を説くを説くのである。それは人間の情識を具えた
ものとしてするのではない。また草木のような自然存在としてするのではない。
無情説法とは諸法実相を説くものであって、また人間の境界においてなされるものではない。
だが人間の境界をはなれたものでもない。その言葉は有為無為といった因縁を対象
として用いられるものではなく、因縁の跡を留めないものである。

06
無情説法の姿はどのようなものであるか審らかに心に学ぶべきである。
愚者が思う様に、木々が枝を鳴らし、花々や木の葉が開いては落ちる姿を無情説法だと
考えるのは、仏法を学ぶものではない。もし無情説法がそのようなものであるなら、だれが
それを知らないものがあろう、誰か無情説法を聞かないものがあろうか、このような
自然界の声は誰もが知る所であり聞くところである。


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【定義】

①無情である自然の草木国土障壁瓦礫等が、仏の真理を説いていること。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では53巻、75巻本では46巻。寛元元年(
1243)10月2日に越前吉峰寺にて修行僧に示された。

【内容】

①元々無情説法は、中国禅宗六祖慧能の弟子である大証国師南陽慧忠禅師が説いたもの
である。それを受けて、曹洞宗の系統では、仏法については絶対の働きを如何にして感
じとるかが問題であり、そこでは人という主体を立てて説法を聞くという常識程度の理
解を超えなくてはならなかった。そこで、洞山良价禅師の師である雲巖曇晟禅師は以下
のように説いている。
雲巖曰く、無情説法し、無情聞得す、と。 『景徳伝燈録』巻15、洞山良价章

②道元禅師は①の見解を受けて、さらにその意義を深められている。つまり、この尽十
方界が一切全て無常なる事実の現成であれば、尽界は仏法の働きが?礙することなく発
揮されており、仏法現成の事実の上では、命有るものとしての有情も、命無きものとし
ての無情も、その区別はなくなってしまう。有無相対を絶した「情」の説法を、道元禅
師は無情説法だとされる。
説法於説法するは、仏祖付属於仏祖の、見成公案なり。この説法は法説なり。有情にあ
らず、無情にあらず、有為にあらず、無為にあらず、有為・無為の因縁にあらず、従縁
起の法にあらず。しかあれども鳥道に不行なり、仏衆に為与す。

また、この意義を敷衍するために、『妙法蓮華経』「方便品」や南陽慧忠禅師の問答、
①で採り上げた雲巖曇晟-洞山良价の問答、そして投子大同の問答などが採り上げられ
ている。これらの問答を解釈した道元禅師は、同巻の重要な問題として、有無相対を絶
した説法であれば、同時にそれは有無相対を絶した聞法でもあるとされる。
たとひ眼処聞声を体究せずとも、無情説法・無情得聞を体達すべし、脱落すべし。

そして、結論として無情説法の事実とは、仏祖の存在そのものであることを宣言して終
えられるのである。
しるべし無情説法は、仏祖の総章これなり。


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この巻の主題は「説法」にあると思っている。「無情」については、おそらく付け足し
だ。それが証拠に、冒頭の文章は、以下の通りである。

説法於説法するは、仏祖附嘱於仏祖の見成公案なり。この説法は法説なり。有情にあら
ず、無情にあらず、有為にあらず、無為にあらず、有為・無為の因縁にあらず、従縁起
の法にあらず。しかあれども、鳥道に不行なり、仏衆に為与す。大道十成するとき、説
法十成す、法蔵附嘱するとき、説法附嘱す。拈華のとき、拈説法あり、伝衣のとき、伝
説法あり。このゆえに、諸仏諸祖、おなじく威音王以前より、説法に奉覲しきたり、諸
仏以前より、説法に本行しきたれるなり。説法は、仏祖の理しきたるとのみ参学するこ
となかれ、仏祖は、説法に理せられきたるなり。この説法、わづかに八万四千門の法蘊
を開演するのみにあらず、無量無辺門の説法蘊あり。
    同巻

冒頭では、「説法」の道理について、仏祖が仏祖に附属してきたものであるという。そ
して、説法とは、仏祖が法を説くというだけではなくて、法が説くものでもある。だか
らこそ、この法に着目してみれば、有情や無情というような対立は全て脱落されていく
といえる。また、大道を成就するというのは、説法が十成したものであり、法蔵の附属
は説法の附属、拈華とは説法をつまみ上げ、伝衣とは説法を伝えたものである。いわば
、「説法」とは、法のはたらくさまをいう。

だからこそ、「説法は、仏祖の理しきたるとのみ参学することなかれ、仏祖は、説法に
理せられきたるなり」は重要である。説法について、仏祖が用いるものとばかり考えて
はならない。むしろ、仏祖こそが説法によって、その存在の根源を保護されていること
になる。つまり、説法によって仏祖は存在しているのである。この時、「説」とは、言
語的な「説く」ばかりを意味しない。むしろ、存在論的に「あらしめる」機能を保持し
ていると理解されなければならない。「無情説法」に於いて、「説法」が重視されると
すれば、この「説」が「あらしめる」機能を持っているためであり、そこに有情・無情
の違いは無い。

しかあれば、無情説法の儀、いかにかあるらんと、審細に留心参学すべきなり。愚人お
もはくは、樹林の鳴条する、葉華の開落するを、無情説法と認ずるは、学仏法の漢にあ
らず。もししかあらば、たれか無情説法をしらざらん、たれか無情説法をきかざらん。
しばらく廻光すべし、無情界には草木・樹林ありやなしや、無情界は有情界にまじはれ
りやいなや。しかあるを、草木・瓦礫を認じて無情とするは、不遍学なり、無情を認じ
て草木・瓦礫とするは、不参飽なり。
    同巻

「無情説法の儀」については、審細に心を留めて、学ぶべきであるという。そして、有
情=命あるもの、無情=命なきものとのみ考えて、草木などが鳴る様子を、無情説法だ
とするのは誤りだという。先ほども既に述べたが、この時の「無情」とは、「有情」と
対する存在として考えられていない。分かりやすくいうならば、「無情」とは、説法の
普遍なる道理をいう。

曩祖雲巌曰、無情説法、無情得聞。この血脈を正伝して、身心脱落の参学あるべし。い
はゆる無情説法、無情得聞は、諸仏説法、諸仏得聞の性相なるべし。無情説法を聴取せ
ん衆会、たとひ有情・無情なりとも、たとひ凡夫・賢聖なりとも、これ無情なるべし。
    同巻

曩祖雲巖とは、曹洞宗の系譜に連なり、また一般的に曹洞宗の開祖とされる洞山良价禅
師の本師である雲巖曇晟禅師のことである。雲巖禅師こそが、従来、大証国師・南陽慧
忠が提示するに留まっていた無情説法を、まさしく曹洞宗の宗旨の根幹に据えた人であ
るといえる。雲巖禅師は、無情説法・無情得聞であるとした。まさに、これこそが身心
脱落の参学である。我々が保持している、この相対的な身心を脱落しきったところにあ
る法そのものである。そして、その法に「説=あらしめ」られて、仏祖は現成している
ため、諸仏の説法も諸仏の得聞も、ここをその性相(本質と姿)としている。そして、
その諸仏の無情説法を聴取している衆会(諸仏の「説」によってあらしめられているあ
らゆる存在)は、有情・無情であっても、凡夫・賢聖であっても、「これ無情」なので
ある。

ここで、「無情」の意味が、二重化していることをお分かりいただけたであろうか。前
者はまだ、有情と相対する無情、それこそ草木などである。後者は、その対立を脱落し
きったところの、諸仏或いは法の「説」によってあらしめられている一切の存在を指し
ている。ここまで行けば、「無情説法」巻に残るテーマは、この「無情説法の伝承」の
みである。同巻の後半は、いわゆる「嗣法論」となっている。参究されねばならない。

 曩祖道、我説法汝尚不聞、何況無情説法也。これは、高祖、たちまちに証上になほ証
契を証しもてゆく現成を、曩祖、ちなみに開襟して、父祖の骨髄を印証するなり。
 なんぢなほ我説に不聞なり。これ凡流の然にあらず、無情説法たとひ万端なりとも、
為慮あるべからず、と証明するなり。このときの嗣続、まことに秘要なり。凡聖の境界
、たやすくおよびうかがふべきにあらず。
    同巻

何故、無情説法で嗣法が問題となるのか、それは、「得聞」に掛かっている。「説」が
ある以上、「聞」が無ければならないが、その「聞」を審細に参究していくと、「聞報
」を経由して、「嗣法」に繋がっていく。曩祖雲巖禅師が指摘したのは、「我が説法、
汝尚聞かず。何に況んや、無情説法をや」である。ここで「聞かず」とあると、ただ聞
いていないという話になりそうだが、もちろん、そう考えるのは凡流である。雲巖禅師
の真意は、「無情説法たとひ万端なりとも、為慮あるべからず」である。よって、聞者
が感覚的に聞いたことにはならない。

よって、この時の雲巖禅師の「証明」に基づく「嗣続」とは、「まことに秘要」である
。この「秘」とは、現実に於いて自覚することが難しい様子を指す。だが、既に「説法
」によってあらしめられている歴代の仏祖にとって、「嗣法」とは、その事実に生きる
ことに他ならない。そして、一切の積極的表現を適用することが出来ない。無・不・非
・秘などの語句をひたすらに繋いで表現するしかない。だが、それは相対を破し、今こ
ここそが、無情説法のまっただ中であることを示すためである。既に無情説法の中に生
き、これからも同様であるならば、この説法を「聞く」と言うことは、一体「何時」の
話になるのか?いや、「何時」としか表現できないのである。

まさに、洞山良价禅師が仰るように、「無情説法不思議」なのである。

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