2017年1月20日金曜日

仏経の巻2

01
諸覚者の覚りが言葉となって現れる、それが仏経である。それは仏祖が仏祖のために説くのであり、
教えが正しく伝わるために説くのである。これが各社の説法であり、威儀である。この教えが最も
活き活きと働く精神の場に、諸仏祖を出現させ、諸仏祖をして十分に解脱させる。この諸仏祖は
必ず一塵の場に出現する。それは一塵の場においての解脱の出現である。それは世界を尽くす
解脱の出現である。一刹那の出現でありつつ、しかも海のごとき長時間に亘る出現である。
そうであるが、一塵の極微の場、一刹那の極微の時間に出現しながら、仏教の本質をすべて
十全に具えている。それは尽世界と海のごとき永遠の時間の出現であり、何か欠けたところ
を補うような働きではない。こうしたことであるから、朝に成道し夕べに死を迎えた諸覚者にあっても、
彼に仏教の本質が欠けていることはない。もしたったの一日ではせっかくの利益が少ない
というなら、人間の生きる八十年も長いものではないのである。人間の八十年を十劫二十劫に
比べれば、その一日は八十年のようなものではないか。時間の長短によって比べるなら、この覚者が
ある日にえた仏教の本質を、またかの釈尊が八十年に得た仏教の本質を理解することは
出来ないだろう。永遠にわたってある所の仏教の本質と釈迦八十年の仏教の本質をあげて
比べてみれば時間の長短が問題ではないことは疑いを持つまでもない。
このように、仏教の仏教とは普遍不変の理法の教えである。


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仏教」
 この仏教の巻は、次のような構成でできています。
ⅰ まず、「諸仏の道現状、これ仏教なり。」で始まる総論があります。これが、この
巻の核心であり、結論であります。この正法眼蔵では、多くの巻で冒頭に結論が述べら
れます。
ⅱ 次に二つのエピソードが紹介され、道元禅師の考え方が 示されます。
 ① ある僧が巴陵に尋ねる。「祖意と教意は、同じか、それとも別のものであるのか
。」と。
   これに対して、巴陵は「鶏が寒いと樹に上り、鴨は寒いと 水に入る。」と応え
る。
 ② 僧が玄沙に尋ねる。「三乗十二分教は即ち不要なり、如何ならんか是祖師西来の
意。」と。
   これに対して、玄沙は「三乗十二分教総に不要なり。」と応える。
ⅲ 具体的な仏教の形について説かれます。
 ①三乗十二分教
 ②九分教

教外別伝と仏教
 皆さんは、教外別伝という言葉をご存知でしょう。仏教の核心は教外別伝だと聞いて
いる、そういうものだというふうに理解しているという方は、多くおられると思います
。
 ところが、この冒頭で、このようなことを説く輩は、たとえ大先輩であっても仏法を
知らないものであるとされます。仏教の他に一心ありとする汝の仏教はいまだ仏教でな
いと言われます。

仏教の巻 後半
  三乗十二分教について
 まず、三乗の説明があります。すなわち、
声聞乗、縁覚乗と菩薩乗の三乗です。
 声聞乗では、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四諦によって得道する修行について道元禅師
の考え方が示されます。
 縁覚乗では、十二因縁による修行についての考え方が示されます。
 また、菩薩乗では、利他を図る六波羅密の修行によって真理を得ることをめぐって説
かれます。
 ここで、波羅密とは彼岸に到ることだが、到るとは現成することであって彼方に真理
があると思ってはならないと説かれます。
 
十二分教について
 十二分教とは、経典を形式と内容によって十二に分類してものです。まず、如何なる
基準で分類されているかを示された後、これは衆生を悦ばしめんが為に、十二分教を起
こされたのだと言われる。
 そして、この各々は、仏祖の眼睛であり、骨髄であり、光明であり、荘厳であり、国
土であり、十二分教をみることは仏祖をみることであるとされます。
 九分教について
 仏教の内容を九に分類したものであり、ここで、釈迦牟尼仏の「我がこの九部の法は
、衆生に随順して説く。大乗に入らんはこれ本なり。」との言葉を引かれています。


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 「諸仏の道現成、これ仏教なり。これ仏祖の仏祖のためにするゆえに、教の教のため
に正伝するなり、これ転法輪なり。この法輪の眼埵裏に諸仏祖を現成せしめ、諸
仏祖の般涅槃せしむ。その諸仏祖、かならず一塵の出現あり、一塵の涅槃あり、尽界の
出現あり、尽界の涅槃あり。・・・仏および教は大小の量にあらず、善悪無記等の性に
あらず、自教教他のためにあらず」
 道元さまの時代に「仏道」とか「仏法」という言葉は使われていましたが「仏教」と
いう言葉はほとんど使われていませんでした。仏教という言葉がよく使われるようにな
ったのは明治以後のことであり、西洋よりキリスト教等の他の宗教が日本に入って来る
ようになり、それ等の宗教と区別する意味で、お釈迦様の教えを総じて仏教と言ったの
であります。

しかし道元さまが使われたこの「仏教」という言葉は他宗教と区別する意味での「仏教
」
ということではありません。道元さまは弟子たちにこの「仏教」という
言葉を説く必要性があったのであります。そして「仏道」「仏法」「仏教」の三つが総
合してこそ意味があるのであります。やや理屈っぽくなりましたが、この「仏道」と「
仏法」という言葉についてまず説明させていただきます。

 「仏道」はお釈迦さまがお説きになった悟りに到るための最上の実践規範、悟りへの
最上の修行のあり方を意味しております。「仏法」は仏道修行の行われる舞台としての
世界を意味しています。しかしこれらは「仏教」という言葉を説明するために区別して
説明させていただいたのでありまして、一般的には三者の区別をいたしません。

 さて道元さまは仏教を「諸仏の道現成、これ仏教なり」と明快に説明されました。こ
の意味はお釈迦さまはじめ諸仏諸祖のお説きになった言葉(真理)のあるがままの現れ
であります。つまり仏教とは諸仏諸祖がお説きになった仏道や仏法の理論的、哲学的側
面を強調して言われた言葉であります。それは哲学的論議(三乗)や経典(十二分教)
などの文字による教えも軽視すべきでないということを道元さまはこの巻で述べられた
のであります。

 さて「仏祖の仏祖のためにする」とか「教の教のために・・」ということは諸仏諸祖
の説かれた教えは「真理」でありもともと存在するものでありますので、相手を意識し
て説くことによって価値が生まれるというものではないということであります。そして
それは悟りを開かれた方が自身の為に説くのであり、仏教がそれ自身真理として正しく
伝えられるのであります。仏が仏に教えを伝えるということは真理を悟った者にのみ伝
えられるということであります。それでお釈迦さまより歴代の祖師方に嫡々相承して正
しく伝えられてきたのであります。このことは仏の教が凡夫つまりまだ悟りに到ってい
ない人に説かれなかったということではありません。

このことにつきまして道元さまは
正法眼蔵随聞記という教えの中に「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあ
り、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成
りしなり」という段があります。未だ悟りの境地に到っていない私どもも、常に求めて
悟りを得ようと願い修行を重ねるならば、悟りの境地に到るということであります。道
元さまが中国天童山如浄禅師より正しい仏法を伝えられたのも嫡々相承であり、仏道が
仏道に伝え仏法が仏法に伝え仏教が仏教に伝えたのであります。つまり如浄さまによっ
て道元さまが「真理」「悟り」への目が開かれたのであります。
 さて道元さまがこの巻で説かれようとされたことは仏教の理論的側面を否定して実践
のみを重視する偏った考えを戒められ、理論的側面をも軽視すべきではないと説かれた
のであります。ただし修証一如という言葉がありますように実践なくして悟りは無いの
であり、実践と理論とが両者あいまっていなければなりません。やや難解な巻ではあり
ましたが「諸仏の道現成、これ仏教なり」であります。

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仏心は文字や言葉によって伝えることのできない「不立文字、教外別伝」であるから悟
りの境涯によってのみ理解できるものだと述べました。
さらに誤解のないように申せば、それは観念に囚われてはならないということであり、
けっして経や教典が劣っているというものでは全くありません。

道元禅師は正法眼蔵(仏教の巻)の中で、とくに「経」に対する態度について強く教示
されています。
「諸仏の道現成、これ仏教なり。」(もろもろの仏のことばの実現したるもの、それが
仏教にほかならない)と冒頭で示されています。
ここでいう「仏教」とは「もろもろの仏のことば」すなわち「経」の意味だととらえて
ください。

そして「教外別伝の謬(あやま)った説を信じて、仏の教えをあやまってはならない」
と明言されております。
教外別伝の「教」とは「経」のことであり、それは同時に「仏心」そのものです。
「別伝」ということばに惑わされると「経」と「仏心」が別物だと謬ってしまうのです
。ここに禅師は釘を刺されているのです。

「その正伝した一心を教外別伝という。それは三乗十二分教、すなわちもろもろの経典
の語るところとは、まったく別のものである、と。
また、その一心こそ最上のものであるから、直指人心、見性成仏と説くのである、とい
う。 そのいい方は、けっして仏教のものではない。

そこには自由にいたる活路もなく、全身にそなわる修行の輝きもない。
そんな男は、たとい数百年数千年の先輩であろうとも、そんなことを言うようでは、仏
法も仏道もまだ分かってはいない、通じてはいないのだと知るがよい。」(正法眼蔵・
仏教 増谷文雄氏訳)
道元禅師は「教典の他にも法がある」「教典は戯れである」「一心と教典は別のもので
ある」「一心こそ最高のものでありそれを感知した者でなければ成仏できない」などと
いう解釈はまったくの謬(あやま)りであり仏法でも仏道でもないと批判されているの
です。

さらに、「仏の教えが一心であることも知らず、一心がすなわち仏の教えであることも
学ばないから、一心のほかに仏の教えがあるなどという。その汝がいう一心は、まだ一
心ではあるまい。また仏の教えのほかに一心があるなどという、その汝がいう仏の教え
とは、けっして仏の教えではない。」(正法眼蔵・仏教)

禅師は、「一心」と「教典」を区別して「教外別伝」を解釈することはまったくの誤り
である。「仏の教えが一心であり、一心がすなわち仏の教えである」と繰り返し主唱さ
れているのです。

「かくて、知るがよい。仏心というのは、仏の眼睛である。破木杓(はもくしゃく)で
ある、もろもろの存在である、三界であるがゆえに、山海国土・日月星辰である。
つまり、仏教というのは森羅万象である。」(正法眼蔵・仏教)

「仏心」とは、仏の眼であり、壊れて役に立たない物であり、山海国土であり、月や星
である。
つまり三界に存在する森羅万象が仏心であり仏教であるというのです。

破木杓(はもくしゃく)とは、こわれた柄杓とか底の抜けた桶とかのことで、なんの用
も立たない物の例えです。
三界とは、「三界六道」といわれる輪廻転生の世界を欲界(よっかい)・色界(しきか
い)・無色界(むしきかい)の三つに区分した世界のことです。

三界も六道も同じ輪廻の世界のことですが三界は精神面からの区分であり、六道は苦楽
のありさまからの区分であるのです。
六道はご存知のように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つですが、では三界と
はどんな世界なのでしょうか。

欲界とは、地獄界から人間界までの欲望の世界のことです。
色界とは、その欲望のない物質だけの世界のことです。般若心経の「色即是空」の「色
」つまり「物質」の世界だと解釈すればよいでしょう。
従って、無色界とは、その物質の存在を超えた世界ですから「空」の世界だと理解した
らよいでしょう。

禅師は正法眼蔵「三界唯心」の冒頭でつぎのようにも示されています。
「釈迦牟尼仏は仰せられた。『三界とはただ一つの心である。心のほかにまた別の法は
ない。心といい、仏といい、衆生というもこの三つは別のものではない』 この一句の
表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである・・・「三界唯心」とは、如来のさ
とりのすべてである。一代のすべてがこの一句に結晶しているのである。」

「華厳経」の中の「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」を引用された
ものであり、「三界は一心である」「衆生も一心である」「一心以外のものはない」「
三界は一心であり如来の悟りのすべてである」と明示されているのです。

そこで注意すべきは、そうか、仏教は結局は「唯心論」か、などと思ってはなりません
。
禅師はそんな誤解のないように「三界はすなわち心といふにあらず」と言われています
。
これは唯心論に陥らないようにという意味のことばですから誤解のないように願います
。仏教は唯心論とはまったく別次元のものです。

禅師はさらに法華経・譬喩品のなかの句をあげられて仏と三界の関係について説かれて
います。
「このゆえに、釈迦大師道、『今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是我子』」 (また
釈迦牟尼仏はおおせられた。『今この三界は、みなこれ我がものなり。
そのなかの衆生は、ことごとくこれわが子である』)「正法眼蔵・三界唯心」

お釈迦さまは申されました。
「今この三界はすべてわたしのものであり、衆生もすべてわたしの子どもである」と。
このことばこそ仏教の真骨頂だと拙僧は思うのですが、いかがでしょう。

お釈迦さまのこの「教(経)」こそ大慈悲心であり、それを信じきった者こそ救われる
のです。
それを確信するためにはこの「今」と「我」と「子ども」についてしっかりとした理解
が必要なのです。

この「今」とは、過去・現在・未来のすべてが含まれている「今」なのです。
仏法でいう「今」には過去も現在も未来もありません。言い換えれば過去も現在も未来
も「今」に集約されてしまっているのです。

だからお釈迦さまは過去の仏さまではなく今でも生きておられるのです。
だからわれわれはみな「今」お釈迦さまの「こども」なのです。
「こども」といっても親子に上下関係はありません。
「惟一心」を持った親子ですからその関係はまったく平等なのです。

お釈迦さまの申される「我」とは、応身仏・化身仏・法身仏のことであり、それはお釈
迦さま自身であり同時に森羅万象それ自体であるのです。
だからお釈迦さまと「わたし」とは久遠の仏親子なのです。

「三界唯一心」・・・わたし自身かけがえのない存在であり、わたし自身が久遠の仏で
あることを教えてくれているのです。

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