2017年1月20日金曜日

行持2

行持、日々の修行、修行の持続


【定義】

①行は修行のこと、持は護持・持続のこと。仏祖の大道を修行し、永久に持続して懈怠
させないこと。菩提の道を失わないように修行し、究竟道に至っても退転することなく
続けられる無限の修行のこと。現在の曹洞宗では、「日分行持」「月分行持」「年分行
持」などのように、日々に行われる修行のことを行持という。詳細は、『行持軌範』参
照のこと。
②仏行の一。
是れ菩薩、実の如く、仏力持・法持・業持・煩悩持・時持・願持・先世持・行持・劫寿
持・智持を知るべし。 『華厳経』「十地品」

③道元禅師の『正法眼蔵』の巻の一。仁治3年(1242)4月5日に、興聖寺にて示衆され
た。95巻本では30巻、75巻本では16巻、60巻本では16・17巻に上下巻と
して分割編集される。なお、下巻の部分のみ、道元禅師の真筆が熊本県広福寺に伝わる
。

【内容】

行持の語意については、古来から様々な定義付けがなされた。
仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、
しばらくの間隙あらず、行持道環なり。 『正法眼蔵』「行持(上)」巻

このように、同巻冒頭にて、仏祖の大道には必ず無上の行持があり、それが道環される
様子を示される。なお、これを受けて、同巻の真筆には、奥書の標題に「仏祖行持」と
する。
此行持の行の字、教行証の行にあらず、証を不待。ゆへに所詮以仏祖名行持也。 『正
法眼蔵御抄』

行は常に、悟りに至るための手段化されることが多いわけだが、道元禅師の直弟子達は
、それを否定する。
行は即ち修行、持は即ち護持。発菩提心を修行し護持する所以なり。 『面山述賛』

江戸時代の学僧・面山瑞方師は、護持という観点を容れて、修行の前提となる発菩提心
を修行し護持する重要性を説かれる。
作麼生か是れ行持、大道通達なり。仏々祖々厳修無量の行持、人々各自の行持によりて
現成するなり。故に行は仏行、行仏の威儀なり。持は実相総持なり。 『正法眼蔵那一
宝』

江戸時代の学僧・父幼老卵師は、大道通達という観点から、修行の無量、或いは持につ
いては実相総持とされる。総持とは、陀羅尼の意であり、その原意に持続があることか
ら、こちらも修行の持続の意が入る。

【定義】にも示したが、道元禅師の『正法眼蔵』「行持」巻は、編集上内容は上下に分
かれていて、特に60巻本の編集では、別個の巻にしている。それに耐えうるほどに同巻
は長大であり、『正法眼蔵』中最長の巻である。内容は、世界の一切が行持に依って現
成することを述べ、釈尊以下、インド・中国の各祖師の行跡について具体的に示し、終
わりには学人に対して、仏祖の行持に参入することを説いている。

また、『正法眼蔵』の写本には、採り上げられる機縁などを解題の形で付すものがある
が、75巻本系統の写本で能登・龍門寺所蔵本(『永平正法眼蔵蒐書大成』第2巻に影印
が所収)を参照すると、次のような内容となる。

●上巻分
・釈尊十九深山行持三十成道
・迦葉十二頭陀行跡
・第十祖波栗湿縛尊者行持
・六祖最初行持
・馬祖坐禅二十年
・雲巖与道吾同薬山参学
・三平義忠機縁
・趙州自六十一発心求道
・大梅法常機縁
・五祖法演機縁
・太白山宏智機縁
・大慈寰中説得一丈話
・雲居説時無行路
・南岳曹渓参執持
・香厳撃竹
・唐宣宗憲宗事跡
・雪峰機縁

●下巻分
・梁武無功徳
・達磨少林面壁
・二祖機縁
・三祖機縁
・玄沙機縁
・大?機縁
・芙蓉楷機縁
・馬祖機縁
・四祖機縁

これらの機縁などを採り上げながら、道元禅師による巧みな提唱が付されており、修行
者にとっては参究すべき第一級の祖録ともなっている。また、「行持道環」の概念など
も入るなど、各箇所にて、行に於ける重要な概念も見える。『修証義』は第五章を「行
持報恩」というが、ここにも「行持」の語が使われ、明治時代以降熱心に敷衍した様子
も窺える。

【参考書】

非常に重要な巻ということもあってか、古来から提唱された宗乗家も多かった。なお、
近年の研究成果なども踏まえた参考書となると、以下の通り。

・安良岡康作著『正法眼蔵・行持〈上・下〉』講談社学術文庫・上下巻とも2002年
・石井修道著『正法眼蔵行持に学ぶ ― 道元禅師』禅文化研究所・2007年

ーーーーーーーーー
仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環(ドウカン)して断絶せず。発心修行(ホ
ッシン シュギョウ)、菩提涅槃(ボダイ ネハン)、しばらくの間隙(カンゲキ)あら
ず、行持道環(ギョウジ ドウカン)なり。

仏祖の大道には、必ず無上の行持(修行の持続)があり、それは輪のように循環して絶
えることがありません。つまり、仏道に発心し、仏道を修行し、仏道を悟り、仏道を成
就する、これらのことが、少しの間隙もなく循環して修行が持続されるのです。

このゆゑに、みづからの強為(ゴウイ)にあらず、他の強為にあらず、不曾染?(フゾ
ウ ゼンナ)の行持なり。この行持の功徳、われを保任(ホニン)し、他を保任す。

このために、この修行は自ら強いて行うものでも、他に強いられて行うものでもありま
せん。何物にも汚されることのない行持の修行なのです。この行持の功徳は、真実の我
を保持し、他を保持するのです。

その宗旨は、わが行持すなはち十方の?地漫天(ソウチ マンテン)、みなその功徳を
かうむる。他もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。

その教えの要旨は、自分の行持はこの世界全体に及んで、皆その功徳を受けるというこ
とです。そのことを他も知らず、自分も知らないとしても、そうなのです。

このゆゑに、諸仏諸祖の行持によりて、われらが行持見成(ギョウジ ゲンジョウ)し
、われらが大道通達(ダイドウ ツウダツ)するなり。われらが行持によりて、諸仏の
行持見成し、諸仏の大道通達するなり。

このために、諸々の仏や祖師が行持されたことによって、我々は今行持することが出来
るのであり、我々は仏祖の大道に通ずることが出来るのです。また、我々の行持によっ
て諸仏の行持が行われ、諸仏の大道が世に行き渡るのです。

われらが行持によりて、この道環の功徳(クドク)あり。これによりて、仏仏祖祖(ブ
ツブツ ソソ)、仏住(ブツジュウ)し、仏非(ブツヒ)し、仏心(ブッシン)し、仏
成(ブツジョウ)して、断絶せざるなり。

また、我々の行持によって、このような大道循環の功徳が現れるのです。このようにし
て、仏祖は仏として道場に住持し、仏を否定し、仏の慈悲心を起こし、仏を成就して、
大道は絶えることがないのです。

この行持によりて日月星辰(ニチガツ ショウシン)あり、行持によりて大地虚空(ダ
イチ コクウ)あり。行持によりて依正身心(エショウ シンジン)あり、行持によりて
四大五蘊(シダイ ゴウン)あり。

この行持によって太陽や月や星があり、この行持によって大地や大空があり、この行持
によって今の身心があり、この行持によって万物の四大元素(地水火風)や物質と精神
の五蘊世界(色受想行識)があるのです。

行持これ世人の愛処(アイショ)にあらざれども、諸人の実帰(ジッキ)なるべし。

行持は世の人の愛し好むところではありませんが、人々の真実に帰すべきところなので
す。


過去 現在 未来の諸仏の行持によりて、過去 現在 未来の諸仏は現成(ゲンジョウ)す
るなり。

過去 現在 未来の諸仏の行持によって、過去 現在 未来の諸仏は現れるのです。

その行持の功徳(クドク)、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行(ホッシン シュ
ギョウ)す。その功徳、ときにあらはれず。かるがゆゑに見聞覚知(ケンモン カクチ
)せず。

その行持の功徳は、時に隠れることなく現れます。そのために発心し修行するのです。
又、その功徳は時に現れません。そのために気付くことがありません。

あらはれざれども、かくれずと参学すべし。隠顕存没(オンケン ゾンモツ)に染?(
ゼンナ)せられざるがゆゑに。

しかし、功徳は現れなくても、隠れることはないと学びなさい。仏道は有る無しという
見方に汚されることはないからです。

われを見成(ゲンジョウ)する行持、いまの当穏(トウオン)に、これいかなる縁起(
エンギ)の諸法ありて行持すると不会(フエ)なるは、行持の会取(エシュ)、さらに
新条の特地にあらざるによりてなり。

真の自己を実現する行持に於いて、今のように功徳が見えない時に、この行持がどのよ
うな縁起の法による行持なのか分からないのは、行持で会得するものが、決して新しい
特別なものではないからです。(この訳不確実)

縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学(クフウ サンガク)を審細
にすべし。

縁起の法は行持であり、行持は縁起しないものであると、詳細に学びなさい。(この訳
不確実)

かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。

諸仏の行持を実現する行持とは、我々の今の行持なのです。

行持のいまは、自己の本有元住(ホンヌ ガンジュウ)にあらず。行持のいまは、自己
に去来出入するにあらず。

行持の今は、自己に元からあるものではありません。また行持の今は、自己に去来出入
するものでもありません。
いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。

今という道は、行持より前にあるのではなく、行持が行われる時を今というのです。

しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

ですから、この一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持なのです。

この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供
養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死(ドウショウ ドウシ)せず、同学同参せざる
なり。

この行持によって諸仏が現れ、諸仏の行持が行われるのに、行持しないでいることは、
諸仏を嫌がり、諸仏を供養しないことであり、また諸仏の行持を嫌がり、諸仏と生死を
共にせず、大道を共に学ばないことなのです。



いまの華開葉落(ケカイ ヨウラク)、これ行持の現成(ゲンジョウ)なり。磨鏡破鏡
(マキョウ ハキョウ)、それ行持にあらざるなし。

今日の、花が開き、葉が落ちることも、日々の行持の姿です。自らの鏡を磨いて清浄に
することも、その清浄な鏡さえ割って、それに捕らわれないようになることも、行持で
ないものはありません。

このゆゑに、行持をさしおかんと擬(ギ)するは、行持をのがれんとする邪心をかくさ
んがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこ
れ行持をこころざすににたれども、真父(シンプ)の家郷に宝財をなげすてて、さらに
他国〇?(タコク レイヘイ)の窮子(グウジ)となる。

このために、行持を後回しにしようとする者は、行持を逃れたい邪心を隠すために、行
持をしないことも行持の一つであると言って、それで仏道修行をしようとするのですが
、それは一見行持を志しているように見えますが、父の故郷に財宝を投げ捨てて、困窮
して他国にさまよう息子になることなのです。

〇?(レイヘイ)のときの風水(フウスイ)、たとひ身命を喪失せしめずといふとも、
真父の宝財なげすつべきにあらず。

その放浪の時の風雨で、たとえ身命を失わなくても、父の財宝は投げ捨てるべきではあ
りません。

真父の法財なほ失誤(シツゴ)するなり。このゆゑに、行持はしばらくも懈惓(ケゲン
)なき法なり。

行持がなければ、父の法財をまた誤って失うことになるのです。このために、行持は暫
くも怠ることのない法なのです。

慈父大師(ジフ ダイシ)釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)、十九歳の仏寿より、深山に
行持して、三十歳の仏寿にいたりて、大地有情 同事成道(ダイチ ウジョウ ドウジ ジ
ョウドウ)の行持あり。八旬(ハチジュン)の仏寿にいたるまで、なほ山林に行持し、
精藍(ショウラン)に行持す。

慈父であり大師である釈尊は、十九歳の時から深山で行持され、三十歳の時には、大地
の生きとし生けるものと共に、仏道を成就する行持をされました。そして八十歳に至る
まで、そのまま山林で行持され、精舎で行持されたのです。

王宮(オウグウ)にかへらず、国利(コクリ)を領せず。布僧伽梨(フソウギャリ)を
衣持(エジ)し、在世に一経(イッキョウ)するに互換(ゴカン)せず、一盂(イチウ
)在世に互換せず、一時一日も独処することなし。

故郷の王宮に帰らず、王位を継いで国を治めることもありませんでした。釈尊は、ただ
僧衣をまとって一生それを換えず、食事の鉢を一生取り換えず、修行僧と共にあって、
一時一日たりとも一人で過ごされることはありませんでした。

人天の閑供養(カンクヨウ)を辞せず、外道(ゲドウ)の?謗(センボウ)を忍辱(ニ
ンニク)す。おほよそ一化(イッケ)は行持なり。浄衣乞食(ジョウエ コツジキ)の
仏儀(ブツギ)、しかしながら行持にあらずといふことなし。

人々が利益のためにする供養を拒まず、外道の誹謗を忍ばれました。およそ釈尊ご一代
の教化は、行持の日々でありました。清らかな袈裟を身に着けて、日々人々に食を乞う
釈尊でしたが、その行いはすべて行持でないものはなかったのです



第八祖 摩訶迦葉尊者(マカ カショウ ソンジャ)は、釈尊(シャクソン)の嫡嗣(テ
キシ)なり。生前(ショウゼン)もはら十二頭陀(ヅダ)を行持して、さらにおこたら
ず。

第八祖 摩訶迦葉尊者は、釈尊の法を継がれた方です。生前には、専ら十二頭陀という
欲を捨てた生活を行って、決して怠ることがありませんでした。

十二頭陀といふは、
一つには、人の請(ショウ)を受けず、日(ヒビ)に乞食(コツジキ)を行ず。亦(マ
タ)比丘僧(ビクソウ)の一飯食分(イッパンジキブン)の銭財(センザイ)を受けず
。

十二頭陀とは、次のような生活法です。
一つには、人から食事に招かれても それを受けず、日々人々に食を乞うて生活する。
また僧の一食分の金銭を受け取らない。

二つには、山上に止宿(シシュク)して人舎(ニンシャ)郡県(グンケン)聚落(ジュ
ラク)に宿(シュク)せず。

二つには、山の上に宿泊し、人家や土地の集落には宿泊しない。

三つには、人に従って衣被(エヒ)を乞うことを得ず。人の与うる衣被も亦 受けず。
但(タダ)丘塚(キュウチョウ)の間の死人の棄(ス)つる所の衣を取って、補治(ホ
ジ)して之(コレ)を衣(キ)る。

三つには、人に衣服を乞い求めず、また人の与える衣服も受け取らない。ただ丘の墓場
に捨ててある死人の衣服を取って、繕い直して着る。

四つには、野田(ヤデン)の中、樹下(ジュゲ)に止宿す。

四つには、野の畑の中や樹の下に宿泊する。

五つには、一日に一食(イチジキ)す。一(アルイハ)は僧迦僧泥(スンカスンナイ)
と名づく。

五つには、一日に一回だけ食事をする。これを僧迦僧泥と呼ぶ。

六つには、昼夜不臥(チュウヤ フガ)なり、但(タダ)坐睡(ザスイ)経行(キンヒ
ン)す。一(アルイハ)は僧泥沙者傴(スンナイサシャキュウ)と名づく。

六つには、昼夜に亘って横臥せず、ただ坐して眠り、または静かに歩いて過ごす。これ
を僧泥沙者傴と呼ぶ。

七つには、三領衣(サンリョウエ)を有(タモ)ちて余衣(ヨエ)有ること無し。亦 
被中(ヒチュウ)に臥(ガ)せず。

七つには、三枚の衣(袈裟)だけを持って、他には衣を持たない。また布団の中には寝
ない。

八つには、塚間(チョウカン)に在(ス)んで仏寺(ブツジ)の中(ウチ)に在(ス)
まず、亦 人間(ジンカン)に在(ス)まず。目に死人の骸骨を視て、坐禅求道(ザゼ
ン グドウ)す。

八つには、墓場の辺りに住んで、寺の中には住まず、また人の中に住まず。死人の骸骨
を見て、坐禅して修行をする。

九つには、但(タダ)独処を欲(オモ)いて人を見んと欲(オモ)はず。亦 人と共に
臥(ガ)せんと欲(オモ)はず。

九つには、ただ独りでいることを願って、人に会おうと思わない。また、人と共に寝よ
うと願わない。

十には、先に果?(カラ)を食(ジキ)し、却(オワ)りて飯(ハン)を食す。食し已
(オワ)りて、復(マタ)果?を食することを得ず。

十には、まず木の実や草の実を食べ、その後でご飯を食べる。食べ終わってから、また
木の実や草の実を食べない。

十一には、但(タダ)露臥(ロガ)を欲(オモ)って樹下(ジュゲ)屋宿(オクシュク
)に在(ス)まず。

十一には、ただ野宿を願って、樹の下の小屋には住まない。

十二には、肉を食せず、亦 醍醐(ダイゴ)を食せず。麻油(マユ)を身に塗(ヌ)ら
ず。

十二には、肉を食べず、また乳製品を食べない。麻油を身体に塗らない。

これを十二頭陀(ヅダ)といふ。摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不転(フタイテン)な
り。如来の正法眼蔵を正伝(ショウデン)すといへども、この頭陀を退することなし。

これを十二頭陀と言います。摩訶迦葉尊者は、よく一生の間これを守り通しました。釈
尊の正法を受け継いだ後も、この頭陀を止めることはありませんでした。


あるとき、仏言(ブツゴン)すらく、「なんぢすでに年老なり、僧食(ソウジキ)を食
(ジキ)すべし。」

ある時、釈尊は迦葉尊者に言いました。「あなたは、もう老年なのですから、修行僧の
食事を食べなさい。」と。

摩訶迦葉尊者(マカ カショウ ソンジャ)いはく、「われもし如来の出世にあはずば、
辟支仏(ビャクシブツ)となるべし。生前(ショウゼン)に山林に居(コ)すべし。さ
いはひに如来の出世にあふ、法のうるほひあり。しかりといふとも、つひに僧食を食す
べからず。」 如来 称讃(ショウサン)しまします。

迦葉尊者は答えました。「私が、もし如来に出会わなかったならば、独りで悟りを求め
る修行者になって、一生山林に住んでいたことでしょう。幸いにも如来に出会い、法の
潤いを得ることが出来ました。しかし私は、最後まで僧の食事を食べることはありませ
ん。」と。釈尊は、迦葉尊者の志を褒めたたえました。

あるいは迦葉、頭陀(ヅダ)行持のゆゑに形体(ギョウタイ)憔悴(ショウスイ)せり
。衆みて軽忽(キョウコツ)するがごとし。

又、迦葉尊者は、厳しい頭陀行のために、身体が痩せ衰えていました。他の僧たちは、
その姿を見て尊者を軽んじているようでした。

ときに如来、ねんごろに迦葉をめして、半座をゆずりまします。迦葉尊者、如来の座に
坐す。

その時に釈尊は、懇ろに迦葉尊者を招いて、自分の座を半分譲られました。迦葉尊者は
、釈尊の座に坐られたのです。

しるべし、摩訶迦葉は仏会(ブツエ)の上座なり。生前の行持、ことごとくあぐべから
ず。

知ることです、このように摩訶迦葉尊者は釈尊の僧団の長老なのです。その生前の行跡
は数えきれません。

第十祖 波栗湿縛尊者(バリシバ ソンジャ)は、一生脇不至席(イッショウ キョウフ
シセキ)なり。これ八旬(ハチジュン)老年の辨道(ベンドウ)なりといへども、当時
すみやかに大法を単伝す。

第十祖 波栗湿縛尊者は、生涯 身体を横たえて休むことがありませんでした。この方は
、八十歳の老年になってから修行を始められた方ですが、その当時、短期間の中に大法
を受け継ぎました。

これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、わづかに三箇年の功夫(クフウ)なりとい
へども、三菩提(サンボダイ)の正眼(ショウゲン)を単伝す。尊者の在胎六十年なり
。出胎(シュッタイ)白髪なり。

尊者は、月日を無駄に過ごさなかったことにより、僅か三ヶ年の精進でしたが、仏の正
法を受け継ぐことが出来たのです。この尊者は、母の胎内に在ること六十年といわれ、
生まれた時には白髪であったそうです。

「誓って屍臥(シガ)せず、脇尊者(キョウ ソンジャ)と名づく。乃至(ナイシ)暗
中に手より光明(コウミョウ)を放って、以て経法を取る。」 これ生得(ショウトク
)の奇相(キソウ)なり。

「死人のように横臥しないと誓ったために、脇尊者と呼ばれた。又 暗闇の中では、手
から光明を放って経典を取り上げたといわれる。」
このように生まれながら不思議な相を得ていました。




脇尊者(キョウ ソンジャ)、生年(ショウネン)八十にして捨家染衣(シャケ センネ
)せんと垂(ス)。城中の少年、便(スナワ)ち之(コレ)を誚(セ)めて曰く、

脇尊者は、八十歳になって出家しようとしました。すると市中の若者が、これを責めて
言いました。

「愚夫朽老(グフ キュウロウ)なり、一(ヒトエ)に何ぞ浅智(センチ)なる。夫れ
出家は、二業(ニゴウ)有り。一には則(スナワチ)習定(シュウジョウ)、二には乃
ち誦経(ジュキョウ)なり。而今(イマ)衰耄(スイモウ)せり、進取(シンシュ)す
る所無けん。濫(ミダ)りに清流に迹(アト)し、徒(イタズラ)に飽食(ホウジキ)
することを知らんのみ。」

「愚かな年寄だ、なんて浅はかなんだろう。そもそも出家には二つの務めがある。一つ
は坐禅であり、二つには経文を唱えることである。そんな老いぼれた身では、何一つ出
来ないであろう。むやみに清浄な出家の仲間に入っても、無駄に徒食することになるだ
けだ。」と。

時に脇尊者、諸々の譏議(キギ)を聞いて、因みに時の人に謝して、而(シカ)も自ら
誓って曰く、

その時に脇尊者は、多くの非難の言葉を聞いて、その人達に感謝して、自ら誓って言い
ました。

「我 若(モ)し、三蔵(サンゾウ)の理を通ぜず、三界の欲を断ぜず、六神通(ロク
ジンツウ)を得ず、八解脱(ハチゲダツ)具せずば、終に脇を以て席に至(ツ)けじ。
」

「もし私が、一切経の教理に通ぜず、現世の欲を断たず、聖者の神通力を得ず、解脱の
法を得ることが出来なければ、決して横になって休みません。」と。

爾(ソレ)より後、唯(タダ)日も足らず、経行(キンヒン)宴坐(エンザ)し、住立
(ジュウリュウ)思惟(シユイ)す。昼は則(スナワチ)理教を研習し、夜は乃ち静慮
(ジョウリョ)凝神(ギョウシン)す。

それから後、尊者はひたすら日を惜しみ、静かに歩いては坐り、立ち止まっては仏道を
思惟しました。昼は経典を研究して学び、夜は静かに坐禅をしたのです。

三歳を綿歴(メンレキ)するに、学は三蔵(サンゾウ)を通じ、三界(サンガイ)の欲
を断じ、三明(サンミョウ)の智を得る。時の人 敬仰(キョウゴウ)して、因みに脇
尊者と号す。

そのようにして三年を経て、学は一切経に通じ、現世の欲を断ち、聖者の智慧を得たの
です。そこで当時の人々は、尊者を讃え敬って脇尊者(横臥しない聖者)と名づけまし
た。


しかあれば、脇尊者(キョウ ソンジャ)、処胎(ショタイ)六十年、はじめて出胎(
シュッタイ)せり。胎内の功夫(クフウ)なからんや。

このように、脇尊者は、母の胎内に留まること六十年にして、初めて生まれたと言われ
ます。ですから胎内での精進工夫があったのではないでしょうか。

出胎よりのち、八十にならんとするに、はじめて出家学道をもとむ。託胎(タクタイ)
よりのち、一百四十年なり。

尊者は、生まれてから八十歳になろうとする時に、初めて仏道に志して出家を求めまし
た。それは胎内に宿ってから百四十年後のことでした。

まことに不群(フグン)なりといへども、朽老(キュウロウ)は阿誰(アスイ)よりも
朽老ならん。処胎にて老年なり、出胎にても老年なり。

まことに群を抜く優れた人でしたが、老いていたことは誰よりも老いていたことでしょ
う。胎内で老年であり、生まれてからも老年であったのです。

しかあれども、時人(ジニン)の譏嫌(キゲン)をかへりみず、誓願の一志不退なれば
、わづかに三歳をふるに、辨道(ベンドウ)現成(ゲンジョウ)するなり。

しかし、当時の人々の謗りを顧みず、誓願の志を貫いたので、わずか三年の間に仏道修
行を成就したのです。

たれか見賢思斉(ケンケンシセイ)をゆるくせん、年老(ネンロウ)耄及(モウギュウ
)をうらむることなかれ。

誰が、この先賢を見倣いたいと思わないものでしょうか。ですから、自分が老年で耄碌
(モウロク)していることを恨みに思ってはいけません。

この生(ショウ)しりがたし。生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。四見(
シケン)すでにおなじからず、諸類(ショルイ)の見おなじからず。

この生は知り難いものです。生であるか生でないか、老であるか老でないかは、見る者
によって見方が異なり、人さまざまに考えは同じではありません。

ただ志気(シイキ)を専修にして、辨道功夫すべきなり。辨道に生死(ショウジ)をみ
るに相似(ソウジ)せりと参学すべし、生死に辨道するにはあらず。

ですから、ただ志を専らにして仏道に精進するべきです。仏道修行の中に生死を見ると
いうように学びなさい。生死の中で修行するのではありません。

いまの人、あるいは五旬(ゴジュン)六旬(ロクジュン)におよび、七旬八旬におよぶ
に、辨道をさしおかんとするは至愚(シグ)なり。

今の人々で、五十歳六十歳になり、または七十歳八十歳になって、修行を止めようとす
るのは、大変愚かなことです。

生来(ショウライ)たとひいくばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人間の精魂(
セイコン)の活計(カッケイ)なり。学道の消息(ショウソク)にあらず。

生まれてから、たとえ どれほど多くの年月を経たといっても、これはただ、人間の日
常の営みの年月であり、仏道を学ぶ様子ではありません。

壮齢(ソウレイ)耄及(モウギュウ)をかへりみることなかれ、学道究辨(ガクドウ 
キュウベン)を一志(イッシ)すべし。脇尊者に斉肩(セイケン)なるべきなり。

自分が若いか年寄りかを顧みてはなりません。ただ仏道を学び究めることに志しなさい
。脇尊者と肩を並べて修行することを願いなさい。

塚間(チョウカン)の一堆(イッタイ)の塵土(ジンド)、あながちにをしむことなか
れ、あながちにかへりみることなかれ。一志に度取(ドシュ)せずば、たれかたれをあ
はれまん。

終には墓場の土となるこの身を、強いて惜しんではいけません。強いて顧みてはいけま
せん。自らを志を立てて済度しなければ、誰があなたを哀れむというのでしょうか。

無主の形骸、いたづらに?野(ヘンヤ)せんとき、眼睛(ガンゼイ)をつくるがごとく
正観(ショウカン)すべし。

主のいない亡骸が、空しく山野に散らばる時のことを、眼を付けるようにして正しく観
察しなさい。
六祖は新州の樵夫(ショウフ)なり、有識(ウシキ)と称(ショウ)しがたし。いとけ
なくして父を喪(ソウ)す、老母に養育せられて長(チョウ)ぜり。

中国の六祖、大鑑慧能禅師(ダイカン エノウゼンジ)は、もと新州の樵(キコリ)で
あり、学問があるとは言えません。彼は幼くして父を喪い、老母に養育されて成長しま
した。

樵夫の業(ゴウ)を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞経(モンキョウ)より
のち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。

そして樵の業で母を養い生計を立てていました。ある日、街頭の十字路で経文の一句を
聞いてから、にわかに老母を捨てて大法を探し求めました。

これ奇代(キダイ)の大器なり、抜群の辨道(ベンドウ)なり。断臂(ダンピ)たとひ
容易なりともこの割愛(カツアイ)は大難なるべし、この棄恩(キオン)はかろかるべ
からず。

この人は世にまれな大器であり、抜群の求道者でした。慧可が法のために臂を断つこと
は、、たとえ容易であったとしても、この情愛を断ち切ることは大変困難です。この恩
愛を棄てる行いは、決して軽いものではありません。

黄梅(オウバイ)の会(エ)に投(トウ)じて、八箇月ねぶらずやすまず、昼夜に米を
つく。夜半に衣鉢(エハツ)を正伝(ショウデン)す。

彼は、黄梅山 大満弘忍禅師(ダイマン コウニンゼンジ)の道場に入って、八か月 眠
らず休まず昼夜に米をつきました。そして、弘忍禅師から夜半に衣鉢を譲り受け、正法
を受け継いだのです。

得法已後(トクホウ イゴ)、なほ石臼(イシウス)をおひありきて、米をつくこと八
年なり。出世度人説法(シュッセ ドニン セッポウ)するにも、この石臼をさしおかず
、希世(キセイ)の行持なり。

彼は大法を得た後も、なお石臼を背負って米をつくこと八年でした。世に出て人々に説
法する時にも、この石臼を離さず、世にも希な修行をされた方でした。

江西(コウゼイ)馬祖(バソ)の坐禅することは二十年なり。これ南嶽(ナンガク)の
密印を稟受(ボンジュ)するなり。

江西の馬祖道一禅師(バソ ドウイツゼンジ)は、坐禅すること二十年でした。この人
は南嶽懐譲禅師(ナンガク エジョウゼンジ)から悟りを証明されて大法を受け継いだ
人です。

伝法済人(デンポウ サイニン)のとき、坐禅をさしおくと道取(ドウシュ)せず。参
学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。

彼は、人々に法を伝えて導く時にも、坐禅を疎かにはしませんでした。仏道を学ぶ者が
始めて来た時には、必ず仏心の印である坐禅を親しく授けました。

普請作務(フシン サム)のところに、かならず先赴(センプ)す。老にいたりて懈惓
(ケゲン)せず。いまの臨済(リンザイ)は江西の流(リュウ)なり。

皆で労働する時には、必ず先に立って働き、老年になっても怠ることはありませんでし
た。今の臨済宗は、この江西(コウゼイ)の門流です。

雲巌和尚(ウンガン オショウ)と道吾(ドウゴ)と、おなじく薬山(ヤクサン)に参
学して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味(イチミ)参究す。法
を洞山(トウザン)の悟本大師(ゴホン ダイシ)に伝付(デンプ)す。

雲巌曇晟(ウンガン ドンジョウ)和尚と道吾円智(ドウゴ エンチ)和尚は、同じく薬
山惟厳(ヤクサン イゲン)禅師に学んだ人であり、共に誓いを立てて四十年 身を横た
えず、純一に修行しました。そして法を洞山の悟本大師に伝えました。

洞山いはく、「われ一片に打成(タジョウ)せんと欲して、坐禅辨道すること已(スデ
)に二十年なり。」 いまその道、あまねく伝付せり。

その洞山大師が言うことには、「私は、一つに成りきろうとして、坐禅修行すること既
に二十年である。」 と。今、その洞山の仏道は、世に広く伝えられています。



雲居山(ウンゴザン)弘覚大師(コウガク ダイシ)、そのかみ三峰庵(サンポウアン
)に住せしとき、天厨(テンチュウ)送食(ソウジキ)す。大師あるとき洞山(トウザ
ン)に参じて、大道を決擇(ケッチャク)してさらに庵にかへる。

雲居山の弘覚大師(雲居道膺禅師)が、以前、三峰庵に住んでいた時、天界の料理人が
食事を送っていました。大師はある時、洞山(洞山良价禅師)に見えて、大道を悟って
再び庵に帰りました。

天使また食(ジキ)を再送して師を尋見(ジンケン)するに、三日を経て師をみること
をえず、天厨をまつことなし。大道を所宗(ショシュウ)とす、辨肯(ベンコウ)の志
気(シイキ)、おもひやるべし。

そこで、天人は又食事を送って師を尋ねたのですが、三日たっても師に会うことが出来
ませんでした。師は天界の給仕を必要としなくなったのです。師の大道を尊ぶ固い志に
思いをはせなさい。

百丈山(ヒャクジョウザン)大智禅師(ダイチ ゼンジ)、そのかみ馬祖(バソ)の侍
者(ジシャ)とありしより、入寂(ニュウジャク)のゆふべにいたるまで、一日も為衆
為人(イシュ イニン)の勤仕(ゴンジ)なき日あらず。

百丈山の大智禅師(百丈懐海禅師)は、以前、馬祖(馬祖道一禅師)の侍者を務めてい
た時から、亡くなる日の夕べに至るまで、一日たりとも修行者のために務めない日はあ
りませんでした。

かたじけなく、一日不作(イチニチ フサ)一日不食(イチニチ フジキ)のあとをのこ
すといふは、百丈禅師、すでに年老臘高(ネンロウ ロウコウ)なり。

かたじけないことに、「一日なさざれば、一日食らわず」という足跡を残したのは、百
丈禅師がすでに長年修行を積み重ね、年老いてからのことです。

なほ普請作務(フシン サム)のところに、壮齢(ソウレイ)とおなじく励力(レイリ
キ)す。衆これをいたむ、人これをあはれむ、師やまざるなり。つひに作務のとき、作
務の具をかくして、師にあたへざりしかば、師、その日一日不食なり。

師は老いても尚、皆で労働する時には、若い僧と同じように励まれたのです。修行僧は
これに心を痛め、人はこれを気の毒に思いましたが、師は止めようとしませんでした。
そこで、とうとう労働の道具を隠して師に与えないようにすると、師はその日一日食事
をしなかったのです。

衆の作務にくははらざることをうらむる意旨(イシ)なり。これを百丈の、一日不作一
日不食のあとといふ。

それは、修行僧の労働に加わらなかったことを残念に思っての事でした。これを百丈禅
師の「一日なさざれば一日食らわず。」の足跡と言います。

いま大宋国に流伝(ルデン)せる臨済(リンザイ)の玄風(ゲンプウ)、ならびに諸方
の叢林(ソウリン)、おほく百丈の玄風を行持するなり。

今、大宋国に広まっている臨済の宗風や、各地の禅道場では、その多くが百丈禅師の宗
風を受け継いでいるのです。

鏡清和尚(キョウセイ オショウ) 住院(ジュウイン)のとき、土地神(ドジジン)か
つて師顔(シガン)をみることえず。たよりをえざるによりてなり。

鏡清和尚が寺院に住持している時、そこの土地神は全く師に会うことが出来ませんでし
た。修行に隙がなく消息を得られなかったからです。

三平山(サンペイザン)義忠禅師(ギチュウ ゼンジ)、そのかみ天厨送食す。大?(
ダイテン)をみてのちに、天神(テンジン)また師をもとむるに、みることあたはず。

三平山の義忠禅師は、以前 天界の料理人が食事を送っていました。しかし、師が大?
(大?宝通和尚)に会ってからは、天神が師を探しても会うことは出来ませんでした。
後大?和尚(ゴダイイ オショウ)いはく、「我 二十年 ?山(イサン)に在って、?
山の飯を喫し、?山の?(ア)を?し、?山の道に参ぜず。只一頭の水?牛(スイコギ
ュウ)を牧得して、終日露回回(シュウジツ ロカイカイ)なり。」

後大?(長慶大安)和尚が言うことには、「私は二十年 ?山に居て、?山の飯を食べ
、?山の厠で用を足して、?山禅師の道を学ぶことはなかった。ただ一頭の水牛(本来
の自己)を放牧して、終日ぐるぐる歩き回っていただけである。」 と。

しるべし、一頭の水?牛は、二十年 在?山(ザイ イサン)の行持より牧得せり。この
師かつて百丈(ヒャクジョウ)の会下に参学しきたれり。

知ることです、一頭の水牛は、二十年来の?山での行持によって放牧することが出来た
のです。この師は、かつて百丈禅師の下で学んでいました。

しづかに二十年中の消息おもひやるべし、わするる時なかれ。たとひ参?山道(サン 
イサンドウ)する人ありとも、不参?山道(フサン イサンドウ)の行持はまれなるべ
し。

静かに師の二十年間の修行を思いやり、その志しを忘れてはなりません。たとえ?山禅
師の道を学ぶ人はあっても、?山禅師の道を学ばない行持は希です。

趙州(ジョウシュウ)観音院 真際大師(シンサイ ダイシ)従?和尚(ジュウシン オ
ショウ)、とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道(ホッシン グドウ)をこころざ
す。

趙州 観音院の真際大師 従?和尚は、六十一歳の時に初めて発心し求道を志しました。

瓶錫(ビョウシャク)をたづさへて行脚(アンギャ)し、遍歴諸方(ヘンレキ ショホ
ウ)するに、つねにみづからいはく、「七歳の童子なりとも、若し我よりも勝れば、我
 即ち伊(カレ)に問うべし。百歳の老翁(ロウオウ)なりとも、我に及ばざれば、我 
即ち他(カレ)を教うべし。」

水瓶と錫杖を携えて行脚し、諸方を巡り歩いて、常に自ら言うことには、「七歳の子供
でも、私より優れていれば教えを受けよう。百歳の老人でも、私に及ばなければ、教え
てあげよう。」と。

かくのごとくして南泉(ナンセン)の道を学得する、功夫(クフウ)すなはち二十年な
り。年至(ネンシ)八十のとき、はじめて趙州城東(ジョウシュウ ジョウトウ)観音
院に住して、人天(ニンデン)を化導(ケドウ)すること四十年来(ネンライ)なり。

このようにして、南泉禅師の道を学んで精進すること二十年でした。そして八十歳の時
に、初めて趙州城東の観音院に住持して、人々を導くこと四十年に亘りました。

いまだかつて一封の書をもて檀那(ダンナ)につけず。僧堂おほきならず、前架(ゼン
カ)なし、後架(ゴカ)なし。

その間、一度も喜捨を求める書を信者に託しませんでした。その僧堂は大きくなく、堂
の前後の設備も整っていませんでした。

あるとき牀脚(ジョウキャク)をれき。一隻(イッシャク)の焼断(ショウダン)の燼
木(ジンボク)を、縄をもてこれをゆひつけて、年月を経歴(キョウリャク)し、修行
するに、知事(チジ)この牀脚をかへんと請(ショウ)するに、趙州ゆるさず。古仏(
コブツ)の家風きくべし。

ある時、住持の椅子の脚が折れたので、趙州和尚は一本の焦げた木を椅子に縛りつけて
、長い間修行していました。係りの僧が椅子の修理を申し出たところ、趙州和尚はそれ
を許しませんでした。いにしえの仏祖の家風を我々は学ぶべきです



趙州(ジョウシュウ)の趙州に住(ジュウ)することは、八旬(ハチジュン)よりのち
なり、伝法よりこのかたなり。正法正伝(ショウボウ ショウデン)せり。諸人これを
古仏(コブツ)といふ。

趙州従?和尚が趙州の観音院に住したのは、八十歳以後であり、南泉普願禅師の法を受
け継いでからのことです。彼は仏祖の正法を正しく伝えた人です。そこで人々は、彼を
古仏と呼んで讃えました。

いまだ正法正伝せざらん余人(ヨニン)は、師よりもかろかるべし。いまだ八旬にいた
らざらん余人は、師よりも強健(ゴウケン)なるべし。

まだ仏祖の正法を受け継いでいない他の人は、師よりも立場が軽いことでしょう。まだ
八十歳にならない他の人は、師よりも身体が強健なことでしょう。

壮年にして軽爾(キョウニ)ならんわれら、なんぞ老年の崇重(スウチョウ)なるとひ
としからん、はげみて辨道行持(ベンドウ ギョウジ)すべきなり。

壮年で軽い立場の人が、どうして老年で尊く重い師と等しいものでしょうか。我々は、
励んで行持に精進するべきなのです。

四十年のあひだ、世財をたくはへず、常住(ジョウジュウ)に米穀(ベイコク)なし。
あるいは栗子(リス)、椎子(スイス)をひろうて食物(ジキモツ)にあつ、あるいは
旋転飯食(センデン ボンジキ)す。

師は四十年の間、世の財を畜えることがなかったので、道場には米もありませんでした
。そこで栗や椎の実を拾い集めて食料としたり、僧が交替で食事を取ったりしました。

まことに上古龍象(ジョウコ リュウゾウ)の家風なり、恋慕すべき操行(ソウギョウ
)なり。

実にこれは、昔の優れた修行者の家風であり、慕うべき行いです。

あるとき、衆(シュ)にしめしていはく、「?(ナンジ)若し一生 叢林(ソウリン)
を離れず、不語(フゴ)なること十年五載(ゴサイ)すとも、人の?を喚(ヨ)んで唖
漢(アカン)と作すことなからん。已後(イゴ)には諸仏もまた?を奈何(イカン)と
もせじ。」

師はある時、修行僧たちに教えて言いました。「お前たちが、もし一生道場を離れず、
無言で五年十年と坐禅をしても、誰もお前たちのことを唖とは言わないであろう。そし
て後には諸仏でさえも、お前たちをどうすることも出来ないであろう。」 と。

これ行持をしめすなり。しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似(ソウジ)せり
といへども、不離叢林(フリ ソウリン)の功夫(クフウ)によりて、不語なりといへ
ども唖漢にあらざらん。

これは行持について教えているのです。知ることです、五年十年の無言の坐禅は愚かな
ようですが、道場を離れない修行精進によって、無言であっても唖ではないのです。

仏道かくのごとし。仏道声(ブツドウショウ)をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理
あるべからず。

仏道とはそのようなものです。ですから、仏の説法を聞かない者には、無言の唖ではな
い人という道理はないのです。



しかあれば、行持の至妙(シミョウ)は不離叢林(フリ ソウリン)なり。不離叢林は
脱落(ダツラク)なる全語(ゼンゴ)なり。

このように、最も優れた行持は修行道場を離れないことです。修行道場を離れないこと
は、脱落(解脱)の全てを語っているのです。

至愚(シグ)のみづからは、不唖漢(フアカン)をしらず、不唖漢をしらせず。阿誰(
アスイ)か遮障(シャショウ)せざれども、しらせざるなり。

この無言の、まことに愚かな人自身は、唖でない人を知らず、唖でない人を他に知らせ
ません。誰かが妨げている訳ではありませんが、それを知らせないのです。

不唖漢なるを、得恁?(トク インモ)なりときかず、得恁?なりとしらざらんは、あ
はれむべき自己なり。

この無言の唖でない人が、脱落を得ていると聞かず、脱落を得ていると知らないことは
、哀れな自己です。

不離叢林の行持、しづかに行持すべし、東西の風に東西することなかれ。

ですから、修行道場を離れない行持を静かに続けなさい。東西の風に吹かれるままに東
西に赴いてはいけません。

十年五載の春風秋月、しられざれども、声色透脱(ショウシキ トウダツ)の道あり。
その道得(ドウトク)、われに不知(フチ)なり、われに不会(フエ)なり。

道場を離れない五年十年の春風秋月(歳月)には、自ら知ることがなくても、万境を脱
落する道があるのです。そのことは、その人自身、知らないことであり、その人自身、
分からないことなのです。

行持の寸陰(スンイン)を可惜許(カシャッコ)なりと参学すべし。不語を空然(クウ
ネン)なるとあやしむことなかれ。

行持の寸時を大切にして学びなさい。無言の坐禅を空しいことと疑ってはいけません。

入之(ニュウシ)一叢林(イチソウリン)なり、出之(シュッシ)一叢林なり、鳥路(
チョウロ)一叢林なり、?界(ヘンカイ)一叢林なり。

修行道場を離れない行持とは、入るところも道場であり、出るところも道場であり、鳥
の道も道場であり、全世界が一つの道場であるということです。
大梅山(ダイバイサン)は慶元府(ケイゲンフ)にあり、この山に護聖寺(ゴショウジ
)を草創(ソウソウ)す、法常禅師(ホウジョウ ゼンジ)その本元(ホンゲン)なり
。禅師は襄陽人(ジョウヨウニン)なり。

大梅山は慶元府にあり、この山に護聖寺を草創した法常禅師が開山です。禅師は襄陽の
人です。

かつて馬祖(バソ)の会(エ)に参じてとふ、「如何是仏(ニョガ ゼブツ)」と。 
馬祖いはく、「即心是仏(ソクシン ゼブツ)」と。 法常このことばをききて、言下
大悟(ゴンカ ダイゴ)す。

法常は、以前に馬祖(道一禅師)の道場を訪れて尋ねました。 「仏とは、どのような
ものでしょうか。」  馬祖は、「即心是仏(この心がそのまま仏である。)」 と答
えました。 法常はこの言葉を聞いて、言下に大悟しました。

ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて、人倫(ジンリン)に不群(フグン)なり、草庵に独
居す。松実(ショウジツ)を食(ジキ)し、荷葉(カヨウ)を衣(エ)とす。かの山に
小池(ショウチ)あり、池に荷(カ)おほし。

そこで法常は、大梅山の絶頂に登って人々に群せず、独り草庵に住みました。そして松
の実を食べ、蓮の葉を衣にして日々を送ったのです。その山には小さな池があり、池に
は蓮がたくさん生えていたのです。

坐禅辨道(ザゼン ベンドウ)すること三十余年なり。人事(ニンジ)たえて見聞(ケ
ンモン)せず、年暦(ネンレキ)おほよそおぼえず、四山青又黄(シザン セイユウコ
ウ)のみをみる。おもひやるは、あはれむべき風霜(フウソウ)なり。

法常は、この地で坐禅修行すること三十年余りでした。その間、世間の事をまったく見
聞きせず、年数も覚えることなく、ただ周りの山々が緑や黄色に色付くのだけを見てい
ました。思えば、気の毒な修行の年月でした。

師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく。如載宝冠(ニョサイ ホウカン)なり。
この塔を落地却(ラクチキャク)せしめざらんと功夫(クフウ)すれば、ねぶらざるな
り。

師が坐禅する時には、八寸の鉄塔を頭の上に置いて、宝冠をかぶっているようでした。
この塔を落とさないように努めることで、眠らなかったのです。

その塔、いま本山にあり、庫下(クカ)に交割(コウカツ)す。かくのごとく辨道する
こと、死にいたりて懈惓(ケゲン)なし。

その塔は今、大梅山にあり、護聖寺の庫院に代々引き継がれています。法常禅師は、こ
のような修行を死ぬまで怠らなかったのです。


かくのごとくして年月を経歴(キョウリャク)するに、塩官(エンカン)の会(エ)よ
り一僧きたりて、やまにいりて?杖(シュジョウ)をもとむるちなみに、迷山路(メイ
サンロ)して、はからざるに師の庵所にいたる。不期(フゴ)のなかに師をみる。

このようにして年月を経たある日のこと、塩官(斉安国師)の道場から一人の僧が来て
、山に入って?杖(僧の使う杖)にする木を探していると、道に迷って偶然に法常禅師
の庵に着きました。そして期せずして師に会ったのです。

すなはちとふ、「和尚(オショウ)この山に住してよりこのかた、多少時也(タショウ
ジヤ)。」
師いはく、「只見四山青又黄(シケン シザン セイユウコウ)。」
この僧またとふ、「出山路(シュッサンロ)、向什?処去(コウ シモショコ)。」
師いはく、「随流去(ズイリュウコ)。」

そこで僧は尋ねました。「和尚は、この山に住んで、どれほどになりますか。」
師は答えて、「ただ、周りの山々が緑や黄色に色付くのを見ていただけだ。」
僧はまた尋ねました。「山を出る道は、どこへ続いていますか。」
師は答えて、「水の流れのままに続いている。」

この僧、あやしむこころあり。かへりて塩官に挙似(コジ)するに、塩官いはく、「そ
のかみ江西(コウゼイ)にありしとき、一僧を曾見(ゾウケン)す、それよりのち消息
(ショウソク)をしらず。莫是此僧否(マクゼ シソウヒ)。」

この僧は不思議に思い、帰って塩官に話すと、塩官は言いました。「昔、私が江西(馬
祖道一禅師)の所にいた時、ある僧に会ったことがある。その後の消息は知らないが、
それはこの僧ではなかろうか。」

つひに僧に命じて師を請(ショウ)するに、出山(シュッサン)せず。偈(ゲ)をつく
りて答するにいはく、
「摧残(サイザン)せる枯木(コボク)、寒林に倚(ヨ)る。
 幾度(イクタビ)か春に逢うて心を変ぜず。
 樵客(ショウカク)、之(コレ)に遇うて猶(ナオ)顧(カエリ)みず。
 郢人(エイジン)、那(ナン)ぞ苦(ネンゴロニ)追尋(ツイジン)することを得ん
。」つひにおもむかず。

そこで塩官は、僧に命じて師を招いたところ、師は山を下りずに詩を作って答えました
。
「切り残された枯れ木が、冬の林に立っている。
 この木は何度春を迎えても、心を変えることはなかった。
 樵でさえ、この木を見て相手にしないのに、
 大工さんが、どうしてそれを求めることが出来ましょうか。」
師は遂にその招きに応じませんでした。
これよりのちに、なほ山奥(サンオウ)へいらんとせしちなみに、有頌(ウジュ)する
にいはく、
「一池(イッチ)の荷葉(カヨウ)、衣(キ)るに尽くること無し。
 数樹(スウジュ)の松華(ショウカ)、食(ジキ)するに余り有り。
 剛(カエッ)て、世人(セニン)に住処を知られて、
 更に茅舎(ボウシャ)を移して深居に入る。」 つひに庵を山奥にうつす。

その後、法常禅師は、さらに山奥へ入ろうとして、詩を作って言うに、
「この池の蓮の葉は、衣にするには十分であり、
 数本の松の実は、食べきれないほどである。
 しかし、世間に住みかを知られてしまったので、
 更に草庵を移して山奥に住むとしよう。」 そしてついに庵を山奥へ移しました。

あるとき、馬祖(バソ)ことさら僧をつかはしてとはしむ、
「和尚そのかみ馬祖を参見(サンケン)せしに、得何道理(トクガ ドウリ)、便住此
山(ビンジュウ シザン)なる。」
師いはく、「馬祖われにむかひていふ、即心是仏(ソクシン ゼブツ)。すなはちこの
山に住す。」
僧いはく、「近日(キンジツ)仏法また別なり。」
師いはく、「作?生(ソモサン)別なる。」
僧いはく、「馬祖いはく、非心非仏(ヒシン ヒブツ)とあり。」
師いはく、「這老漢(シャロウカン)、ひとを惑乱すること、了期(リョウゴ)あるべ
からず。任他非心非仏(ニンタ ヒシン ヒブツ)、我祗管即心是仏(ガシカン ソクシ
ン ゼブツ)。」

あるとき、馬祖は試しに師の所へ僧を遣わして質問しました。
「和尚は以前、馬祖に見えて、どんな道理を会得して、この山に住むようになったので
すか。」
師は答えて、「馬祖は私に、即心是仏(この心がそのまま仏である)と言った。それで
この山に住んでいる。」
僧が言うには、「馬祖の近頃の仏法は、それとは違います。」
師が言うに、「どのように違うのか。」
僧が答えるに、「馬祖は、非心非仏(心でも仏でもない)と言っています。」
師が言うに、「この老人は、また人を惑わせているようだな。非心非仏と言うなら言っ
ておればよい。私はひたすら即心是仏だ。」

この道をもちて馬祖に挙似(コジ)す。馬祖いはく、「梅子熟也(バイス ジュクヤ)
。」

師は、この言葉で馬祖に答えたのです。これを聞いた馬祖は言いました。「梅の実は熟
したようだ。」と。


この因縁(インネン)は、人天(ニンデン)みなしれるところなり。天龍(テンリュウ
)は師の神足(ジンソク)なり。?胝(グテイ)は師の法孫なり。

この法常禅師の因縁は、人間界天上界に広く知られているところです。天龍和尚は師の
優れた門人であり、?胝和尚は師の法孫にあたります。

高麗(コウライ)の迦智(カチ)は、師の法を伝持して、本国の初祖なり。いま高麗の
諸師は、師の遠孫(オンソン)なり。

高麗(朝鮮)の迦智和尚は、師の法を受け継いで、本国(朝鮮)に伝えた初祖です。今
の高麗の禅僧たちは、皆 師の遠孫なのです。

生前(ショウゼン)には、一虎一象よのつねに給侍(キュウジ)す、あひあらそはず。
師の円寂(エンジャク)ののち、虎象(コゾウ)いしをはこび、泥をはこびて師の塔を
つくる。その塔、いま護聖寺(ゴショウジ)に現存せり。

師の生前には、一頭の虎と象がいつも仕えていて、互いに争うことはありませんでした
。師が亡くなった後に、この虎と象は、石や泥を運んで師の墓塔を造りました。その塔
は今でも護聖寺にあります。

師の行持、むかしいまの知識とあるは、おなじくほむるところなり。劣慧(レッテ)の
ものはほむべしとしらず。

師の行持を、古今の仏法の師とされる人たちは、皆同じように褒めています。智慧の劣
った者は、師が褒めるべき人であることを知りません。

貪名愛利(トンミョウ アイリ)のなかに仏法あらましと強為(キョウイ)するは、小
量の愚見(グケン)なり。

名利を貪り愛することの中にも、仏法があるだろうと強いて願うことは、小人の愚かな
考えなのです。



五祖山の法演禅師(ホウエン ゼンジ)いはく、師翁(シオウ)はじめて楊岐(ヨウギ
)に住せしとき、老屋敗椽(ロウオク ハイテン)して風雨の弊(ヘイ)はなはだし。

五祖山の法演禅師は皆に話した。
私の師、白雲守端和尚(ハクウン シュタン オショウ)が始めて楊岐山に住した時には
、寺院の家屋が老朽して、雨漏りや隙間風がひどかった。

ときに冬暮(トウボ)なり、殿堂(デンドウ)ことごとく旧損(クソン)せり。そのな
かに、僧堂ことにやぶれ、雪霰満牀(セッサン マンショウ)、居不遑処(キョフコウ
ショ)なり。

ある冬の夕暮れ時のこと、堂宇は皆古く傷んでいたが、その中でも僧堂は特に傷んでい
て、雪や霰が床に満ちて、安らかに過ごせなかった。

雪頂(セッチョウ)の耆宿(ギシュク)、なほ澡雪(ソウセツ)し、厖眉(モウミ)の
尊年、皺眉(シュウビ)のうれへあるがごとし。衆僧やすく坐禅することなし。

白髪の老僧は雪を浴び、眉の豊かな老人は、顔をしかめて愁えているようであった。修
行僧たちは安らかに坐禅することが出来なかったのである。

衲子(ノッス)投誠(トウジョウ)して修造(シュウゾウ)せんことを請せしに、師翁
(シオウ)却之(キャクシ)いはく、

そこで修行僧たちは、誠を尽くして僧堂の修築を師に願い出ると、師はそれを退けて言
ったのである。

「我が仏、言へること有り。時 減劫(ゲンゴウ)に当たって、高岸深谷(コウガン シ
ンコク)、遷変(センペン)して常ならず。安(イヅ)くんぞ円満如意(エンマン ニ
ョイ)にして、自ら称足(ショウソク)なるを求むることを得んならん。

「我々の釈尊は、このように言われたことがある。時まさに、人の寿命の減りつつある
時代にあり、高い崖や深い谷でさえ移り変わって永久ではない。それなのに、どうして
全て自分の意のままに満足することを求められようかと。

古往(コオウ)の聖人(ショウニン)、おほく樹下露地(ジュゲ ロジ)に経行(キン
ヒン)す。古来の勝躅(ショウチョク)なり、履空(リクウ)の玄風なり。

昔の聖人たちは、おおかた樹下や露地で修行されたものである。これが古来の修行者の
優れた足跡であり、仏法の空を実践する家風なのである。

なんだち出家学道する、做手脚(サシュキャク)なほいまだおだやかならず。わづかに
これ四五十歳なり、たれかいたづらなるいとまありて、豊屋(ホウオク)をこととせん
。」 ついに不従(フジュウ)なり。

お前たちは出家して仏道を学んでいるが、まだ手足の振る舞いさえ穏やかではない。一
生に修行出来る年月は、わずか四五十年ほどである。誰に無用な暇があって、立派な建
物に専念する時間があろうか。」 と師は言って、遂に修行僧の申し出には従わなかっ
たのである。



翌日に上堂(ジョウドウ)して、衆(シュ)にしめしていはく、
「楊岐(ヨウギ)乍(ハジ)めて住す、屋壁(オクヘキ)疎(オロソ)かなり。満牀(
マンショウ)に尽く雪の珍珠(チンジュ)を撒(チ)らす。項(ウナジ)を縮却(シュ
クキャク)して暗に嗟嘘(サキョ)す。翻(カエ)って憶(オモ)ふ、古人(コジン)
樹下に居せしことを。」

その翌日、守端は法堂に上って修行僧たちに説いた。
「私が楊岐山にはじめて住してみると、屋根も壁も隙間だらけで、床一面に雪の粒が舞
い散っていた。その有り様に、首を縮めて人知れずため息をついたものだが、返って昔
の仏祖は樹下で修行をされたことを懐かしく思うのである。」と。

つひにゆるさず。しかあれども、四海五湖(シカイ ゴコ)の雲衲(ウンノウ)霞袂(
カベイ)、この会(エ)に掛錫(カシャク)するをねがふところとせり。

こうして師は僧堂の修築を遂に許しませんでした。それでも天下の修行僧たちは、この
道場に入門することを願いとしたのです。

耽道(タンドウ)の人おほきことをよろこぶべし。この道こころにそむべし。この語み
に銘ずべし。

このように、深く仏道に志す人たちの多いことを喜びなさい。そして、この守端和尚の
道を心に深く受け止めなさい。この言葉を身に刻み付けなさい。
演和尚(エン オショウ)、あるときしめしていはく、「行(ギョウ)は思(シ)を越
ゆることなく、思は行を越ゆることなし。」 この語おもくすべし。

法演和尚は、ある時、修行僧に教えて言いました。「行いは思いを越えることなく、思
いは行いを越えることがない。」 と。 この言葉を重んじなさい。

日夜に之(コレ)を思い、朝夕(チョウセキ)に之を行(オコナ)ふべし。いたづらに
東西南北の風にふかるるがごとくなるべからず。

日夜にこの教えを思い、朝夕にこの教えを行いなさい。いたずらに東西南北の風に吹か
れたようになってはいけません。

いはんやこの日本国は、王臣(オウシン)の宮殿(グウデン)なほその豊屋(ホウオク
)あらず、わづかにおろそかなる白屋(ハクオク)なり。

言うまでもなく、この日本国は、国王大臣の宮殿でさえ、大きな家ではありません。簡
素な茅葺きの家です。

出家学道の、いかでか豊屋に幽棲(ユウセイ)するあらん。もし豊屋をえたる、邪命(
ジャミョウ)にあらざるなし、清浄(ショウジョウ)なるまれなり。もとよりあらんは
論にあらず、はじめてさらに経営することなかれ。

まして、出家して仏道を学ぶ者が、どうして大きな家に閑居することがありましょうか
。もし大きな家を得たならば、それは悪い生活でない者はなく、清浄であることは希で
す。もとからある場合は問題ではないが、改めて建造してはなりません。

草庵白屋は古聖(コショウ)の所住なり、古聖の所愛なり。晩学したひ参学すべし、た
がゆることなかれ。

草庵、茅葺きは昔の聖人の住まいであり、昔の聖人が愛好したものです。晩学後進の人
は、この先人を慕い学びなさい。これに背いてはなりません。
黄帝(コウテイ)、堯(ギョウ)、舜(シュン)等は、俗なりといへども草屋(ソウオ
ク)に居(コ)す、世界の勝躅(ショウチョク)なり。

黄帝や堯帝 舜帝などは俗人でしたが、草葺きの家に住みました。これは世界の優れた
先人の足跡です。

尸子(シシ)に曰(イハ)く、
「黄帝の行(ギョウ)を観(ミ)んと欲(オモ)はば、合宮(ゴウキュウ)に於いてす
べし。堯舜(ギョウシュン)の行を観んと欲はば、総章(ソウショウ)に於いてすべし
。黄帝の明堂(メイドウ)は、草を以て之(コレ)を蓋(フ)く、名づけて合宮と曰(
イ)ふ。舜の明堂は、草を以て之を蓋く、名づけて総章と曰ふ。」

尸子には、このように述べられています。
「黄帝の行いを見たければ、合宮を見なさい。堯帝、舜帝の行いを見たければ、総章宮
を見なさい。黄帝が政務を執った宮殿は草で葺かれ、名付けて合宮といい、舜帝が政務
を執った宮殿は草で葺かれ、名付けて総章宮といわれた。」と。

しるべし、合宮、総章は、ともに草をふくなり。いま黄帝、堯、舜をもて、われらにな
らべんとするに、なほ天地の論にあらず。これなほ草蓋(ソウガイ)を明堂とせり。

知ることです、合宮や総章宮は、共に草葺きだったのです。この黄帝 堯帝 舜帝と、我
々の身分とを比べれば、それは天地の比ではありません。それでも彼らは草葺きの宮殿
で政務を執り行ったのです。

俗なほ草屋に居す、出家人いかでか高堂大観(コウドウ タイカン)を所居(ショコ)
に擬(ギ)せん、懺愧(ザンキ)すべきなり。古人(コジン)の樹下に居し、林間にす
む、在家、出家ともに愛する所住なり。

俗人でさえ草葺きの家に住むのです。出家の人が、どういう訳で大きくて立派な建物に
住もうとするのでしょうか。恥じるべきです。昔の人が樹下や林間に住んだのは、在家
者も出家者も、共に好んだ住所であったからです。

黄帝は??道人広成(コウドウ ドウニン コウセイ)の弟子なり。広成は??といふ巌
(イワ)のなかにすむ。いま大宋国の国王、大臣、おほくこの玄風をつたふるなり。

黄帝は、??山(コウドウサン)の道人、広成の弟子です。広成は、??という岩の中
に住んでいました。今の大宋国の国王や大臣たちは、大方この気風を伝えているのです
。

しかあればすなはち、塵労中人(ジンロウチュウニン)なほかくのごとし。出家人いか
でか塵労中人よりも劣ならん、塵労中人よりもにごれらん。

このように、俗世間の人でさえこうなのです。出家の人がどうして俗世間の人よりも劣
ってよいものでしょうか。俗世間の人たちよりも汚れてよいものでしょうか。



向来(コウライ)の仏祖のなかに、天の供養をうくるおほし。しかあれどもすでに得道
のとき、天眼(テンゲン)およばず、鬼神(キジン)たよりなし。そのむねあきらむべ
し。

これまでに、仏や祖師の中で天界から供養を受けた人は多い。しかし、仏道を悟った後
は、天人の眼も届かず、鬼神が訪れることも無くなるのです。その意味するところを明
らかにしなさい。

天衆(テンシュ)、神道(シンドウ)、もし仏祖の行履(アンリ)をふむときは、仏祖
にちかづくみちあり。

天人衆や鬼神たちが、もし仏祖の行いを習えば、仏祖に近づく道もあります。

仏祖あまねく天衆、神道を超証(チョウショウ)するには、天衆、神道はるかに見上(
ケンジョウ)のたよりなし、仏祖のほとりにちかづきがたきなり。

しかし、仏祖がすべての天人衆や鬼神の世界を越えてしまうと、天人衆や鬼神は、ずっ
と会いに訪れることが無くなるのです。それは仏祖のそばには近付き難いからです。

南泉(ナンセン)いはく、「老僧修行のちからなくして鬼神に?見(ショケン)せらる
。」 しるべし、無修(ムシュ)の鬼神に?見せらるるは、修行のちからなきなり。

南泉(普願和尚)が言うことには、「私は修行の力が無くて、鬼神に様子を見られてし
まった。」と。 知ることです、修行していない鬼神に様子を見られてしまうのは、修
行の力が無いからです。

太白山(タイハクサン)宏智禅師(ワンシ ゼンジ)正覚和尚(ショウガク オショウ)
の会(エ)に、護伽藍神(ゴガランジン)いはく、「われきく、覚和尚(カク オショ
ウ)この山に住すること十余年なり。つねに寝堂(シンドウ)にいたりてみんとするに
、不能前(フノウゼン)なり、未之識也(ミシシキナリ)。」 まことに有道(ウドウ
)の先蹤(センショウ)にあひあふなり。

また、太白山の宏智禅師 正覚和尚の道場に住む寺の守護神が言うことには、「私が聞
く所によると、正覚和尚は、この山に住んで十数年になるという。そこで、いつも和尚
の部屋に行って会おうとするのだが、どうしても部屋に入って行けない。それで、まだ
和尚のことを知らない。」と。 これは、まことに道心のある先人の足跡に会うと言う
べきです。


この天童山(テンドウザン)は、もとは小院なり。覚和尚(カク オショウ)の住裏(
ジュウリ)に、道士観(ドウシカン)、尼寺(ニジ)、教院(キョウイン)等を掃除(
ソウジョ)して、いまの景徳寺(ケイトクジ)となせり。

この天童山は、もとは小さな寺院でした。それを正覚和尚が住持している間に、道教の
寺院や尼寺、教院などを取り除いて、今の景徳寺にしたのです。

師 遷化(センゲ)ののち、左朝奉大夫(サチョウブダイフ)侍御史(ジギョシ)王伯
庠(オウハクショウ)、ちなみに師の行業記(ギョウゴウキ)を記するに、ある人いは
く、「かの道士観、尼寺、教寺をうばひて、いまの天童寺となせることを記すべし。」

正覚和尚が亡くなった後、左朝奉大夫 侍御史の王伯庠が、ゆかりで師の伝記を記した
時に、ある人が言うには、「師は、あの道教の寺や尼寺、教院を奪い取って、今の天童
寺(景徳寺)にしたことを書いてください。」と。

御史いはく、「不可なり、此の事、僧の徳に非ず。」ときの人、おほく侍御史をほむ。
しるべし、かくのごとくの事は、俗の能なり、僧の徳にあらず。

侍御史はそれに答えて、「それはいけない。このことは、僧の徳行ではない。」と言い
ました。そこで当時の人の多くが侍御史を褒めました。知ることです、このようなこと
は、俗人の能力であって、僧の徳行ではないのです。

おほよそ仏道に登入(トウニュウ)する最初より、はるかに三界(サンガイ)の人天(
ニンデン)をこゆるなり。三界の所使(ショシ)にあらず、三界の所見(ショケン)に
あらざること、審細(シンサイ)に咨問(シモン)すべし。

およそ僧は、仏道に入る最初から、遙かに世間の人々を越えているのです。僧は世間に
使われるものではなく、世間に見られるものではないことを、詳しく尋ねなさい。

身口意(シンクイ)および依正(エショウ)をきたして、功夫参究(クフウ サンガク
)すべし。

身の振る舞い、話す言葉、心に思うこと、そして自分の身体と環境のすべてを使って修
行に精進しなさい。

仏祖行持の功徳、もとより人天を済度(サイド)する巨益(コヤク)ありとも、人天さ
らに仏祖の行持にたすけらるると覚知せざるなり。

仏祖の行持の功徳には、もともと人間界天上界の人々を済度する大きな利益があるので
すが、人間界天上界の人々は、少しも仏祖の行持に助けられているとは自覚しないので
す。
いま仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠(ダイイン ショウイン)を論ずることなく
、聡明鈍癡(ソウメイ ドンチ)をいふことなかれ。

今、仏祖の大道を行持するには、その場所が町の中であるか、深い山の中であるかは問
題ではなく、その人が聡明であるか、愚鈍であるかは関係ありません。

ただながく名利(ミョウリ)をなげすてて、万縁に繋縛(ケバク)せらるることなかれ
。光陰(コウイン))をすごさず、頭燃(ズネン)をはらふべし。

ただどこまでも名声や利益を投げ捨てて、あらゆる世間の縁に束縛されてはいけません
。月日を無駄に過ごさず、頭に降りかかる火の粉を振り払う気持ちで修行しなさい。

大悟をまつことなかれ、大悟は家常(カジョウ)の茶飯(サハン)なり。不悟(フゴ)
をねがふことなかれ、不悟は髻中(ケイチュウ)の宝珠(ホウジュ)なり。

修行に於いて大悟を待ち望んではいけません。大悟とは我々の日常の茶飯そのものであ
るからです。それならばと、悟らないことを願ってはなりません。悟らないことは、自
らの髻(モトドリ)の中の宝石を知らないことだからです。

ただまさに、家郷(カキョウ)あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名
あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらん
は親族をはなるべし。

ですから、ただまさに故郷のある人は故郷を離れ、恩愛のある人は恩愛を離れ、名声の
ある人は名声を逃れ、利益のある人は利益を逃れ、田園のある人は田園を逃れ、親族の
ある人は親族を離れなさい。

名利等なからんも、又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理、あ
きらかなり。それすなはち一条の行持なり。

名利などが無い人も、又これらのことから離れなさい。既にある人が離れるべきなので
すから、無い人も離れなければならない道理は明らかです。それが一筋の行持というも
のです。

生前(ショウゼン)に名利をなげすてて、一事を行持せん、仏寿長遠(ブツジュ チョ
ウオン)の行持なり。

生きている間に、名利を投げ捨てて、仏道の一事を行持することは、釈尊の寿命を永遠
のものにする行持なのです。

いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心(シンジン)、
みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。

今のこの行持は、必ず行持することによって行持されていくものなのです。この行持を
する自分の身心を、自ら大切にしなさい。この身心を自ら敬いなさい。



 大慈寰中禅師(ダイジ カンチュウ ゼンジ)いはく、「一丈(イチジョウ)を説得(
セットク)せんよりは、一尺(イッシャク)を行取(ギョウシュ)せんに如(シ)かず
。一尺を説得せんよりは、一寸(イッスン)を行取せんに如かず。」

 大慈寰中禅師が言うことには、「法を一丈説くよりも、一尺を行ずるほうがよい。一
尺説くよりも、一寸を行ずるほうがよい。」と。

これは、時人(ジニン)の行持おろそかにして、仏道の通達(ツウダツ)をわすれたる
がごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是(フゼ)とにはあらず
、一尺の行(ギョウ)は一丈説よりも大功(ダイコウ)なるといふなり。

これは、当時の人が修行を疎かにして、仏道に通暁することを忘れているのを戒めてい
るようですが、一丈の説法が無駄という訳ではありません。一尺の行は一丈の説法より
も功が大きいと言っているのです。

なんぞただ丈尺(ジョウシャク)の度量(ドリョウ)のみならん、はるかに須弥(シュ
ミ)と芥子(ケシ)との論功(ロンコウ)もあるべきなり。

しかしそれは、単に丈と尺ほどの違いだけでしょうか、遙かに須弥山と芥子粒ほどの功
の違いがあると論じてもよいのです。

須弥に全量あり、芥子に全量あり。行持の大節(ダイセツ)、これかくのごとし。

しかし、須弥山には須弥山としての功の全量があるのであり、芥子粒には芥子粒として
の功の全量があるのです。行持する上で守るべき大切な事柄とは、このようなことです
。

いまの道得(ドウトク)は、寰中の自為道(ジイドウ)にあらず、寰中の自為道なり。

今の寰中禅師の言葉は、寰中の自らの言葉ではありません。寰中の自らの仏道なのです
。(この訳不確実)

 洞山悟本大師(トウザン ゴホン ダイシ)道(イハク)、「行不得底(ギョウ フト
クテイ)を説取(セッシュ)し、説不得底(セツ フトクテイ)を行取(ギョウシュ)
す。」

 洞山悟本大師が言うことには、「行ずることが出来ないことを説き、説くことが出来
ないことを行ずる。」と。

これ高祖の道(ドウ)なり。その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通
ずるみちあり。

これが高祖洞山の道です。その教えの主旨は、行は説かれたことに精通する道を明らか
にし、説かれたことには行に精通する道があるということです。

しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。その宗旨は、行不得底を行取し、説
不得底を説取するなり。

ですから、終日説いて終日行うのです。その教えの主旨は、行ずることの出来ないこと
を行じ、説くことの出来ないことを説くということです。

 雲居山弘覚大師(ウンゴザン コウガク ダイシ)、この道を七通八達(シッツウ ハ
ッタツ)するにいはく、「説の時は行の路なく、行の時は説の路なし。」

 雲居山弘覚大師が、この洞山の道を自在に説いて言うには、「説く時には行えず、行
う時には説けない。」と。

この道得は、行説(ギョウセツ)なきにあらず、その説時(セツジ)は、一生不離叢林
(イッショウ フリ ソウリン)なり。その行時(ギョウジ)は、洗頭到雪峰前(セント
ウトウ セッポウゼン)なり。

この言葉は、行うことや説くことがないと言うのではありません。その説く時というの
は、一生道場を離れないことです。その行う時というのは、昔ある僧が頭を洗い、雪峰
禅師の前に来て、髪を剃ってもらったという、このことです。

説時無行路(セツジ ムギョウロ)行時無説路(ギョウジ ムセツロ)、さしおくべから
ず、みだらざるべし

この「説く時には行えず、行う時には説けない」という言葉を解明せずに放って置いた
り、いいかげんにしてはいけません。



古来(コライ)の仏祖いひきたれることあり、いはゆる、「若(モ)し人、生(イ)け
らんこと百歳ならんに、諸仏の機(キ)を会(エ)せざらんは、未だ生けらんこと一日
にして、能(ヨ)く之(コレ)を決了(ケツリョウ)せんには若(シ)かず。」

昔から仏祖が言って来たことがあります。それは、「もし人が百年生きたとしても、諸
仏の働きを会得しなければ、一日の命でこれを会得した者には及ばない。」ということ
です。

これは一仏二仏のいふところにあらず、諸仏の道取(ドウシュ)しきたれるところなり
。諸仏の行取(ギョウシュ)しきたれるところなり。

これは一人二人の仏の言葉ではありません。すべての仏が説いてきたことであり、すべ
ての仏が行じてきたことなのです。

百千万劫(ヒャクセン マンゴウ)の回生回死(カイショウカイシ)のなかに、行持あ
る一日は、髻中(ケイチュウ)の明珠(ミョウジュ)なり、同生同死(ドウショウ ド
ウシ)の古鏡(コキョウ)なり、よろこぶべき一日なり。行持力みづからよろこばるる
なり。

百千万劫の無限の時間にわたって生死をめぐり続ける中で、行持のある一日は、髻の中
の宝石にも譬えられる本来の自己であり、また古い鏡にも譬えられる生死を共にする自
己の仏性であり、喜ぶべき一日なのです。この行持の力によって自ら喜ばしくなるので
す。

行持のちからいまだいたらず、仏祖の骨髄うけざるがごときは、仏祖の身心(シンジン
)ををしまず、仏祖の面目(メンモク)をよろこばざるなり。

行持の力がまだ足りず、まだ仏祖の骨髄を受けていない者は、仏祖の身心を大切に思わ
ず、仏祖の真実の姿を喜ぶことが出来ないのです。

仏祖の面目骨髄、これ不去(フコ)なり、如去(ニョコ)なり、如来(ニョライ)なり
、不来(フライ)なりといへども、かならず一日の行持に稟受(ボンジュ)するなり。

仏祖のまことの姿 骨髄というものは、去ることもなく、来ることもなく、ただありの
ままの姿の中にあるとはいえ、それは必ず一日の行持によって受けることが出来るので
す。

しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月な
り、かなしむべき形骸(ケイガイ)なり。

ですから、この一日は大切なのです。徒に百年生きたならば、それは残念な月日であり
、悲しい人身です。

たとひ百歳の日月は声色(ショウシキ)の奴婢(ヌヒ)と馳走(チソウ)すとも、その
なか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生(タショ
ウ)をも度取(ドシュ)すべきなり。

たとえ百年の月日を、万境の奴隷となって駆け回ったとしても、その中の一日の行持を
我がものにすることが出来れば、一生の百年を我がものに出来るだけでなく、その百年
の他生をも救うことが出来るのです。
この一日の身命は、たつとぶべき身命なり、たつとぶべき形骸(ケイガイ)なり。かる
がゆゑに、いけらんこと一日ならんは、諸仏の機を会(エ)せば、この一日を曠劫多生
(コウゴウ タショウ)にもすぐれたるとするなり。

この一日の身命は、尊ぶべき身命であり、尊ぶべき人身です。それ故に、一日の命の者
が、諸仏の働きを会得すれば、その一日は永劫の多くの生よりも優れているというので
す。

このゆゑに、いまだ決了(ケツリョウ)せざらんときは、一日をいたづらにつかふこと
なかれ。この一日は、をしむべき重宝(チョウホウ)なり。尺璧(セキヘキ)の価直(
ケジキ)に擬(ギ)すべからず。驪珠(リジュ)にかふることなかれ。古賢(コケン)
をしむこと、身命よりもすぎたり。

この故に、まだ会得していないのなら、一日を無駄に使ってはいけません。この一日は
、大切にすべき宝なのです。これを一尺の宝玉の価値と比べてはいけません。驪竜(リ
リュウ)の玉と取り換えてはいけません。昔の賢者は、この一日を身命よりも大切にし
たのです。

しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。一生百歳のうち
の一日は、ひとたびうしなはん、ふたたびうることなからん。いづれの善巧方便(ゼン
ギョウ ホウベン)ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事(キジ)の
書にしるさざるところなり。もしいたづらにすごさざるは、日月(ニチゲツ)を皮袋(
ヒタイ)に包含(ホウガン)して、もらさざるなり。

静かに考えてみなさい。驪竜の玉は求めることも出来ましょう。一尺の宝玉は得ること
もあるでしょう。しかし、一生百年の中の一日は、一度失えば二度と得られないのです
。どのようなうまい手段があって、過ぎた一日をまた取り返すことが出来ましょうか。
歴史の書にも、そのような例は書きしるされていないのです。もし一日を徒に過ごさな
ければ、月日を身体に包み込んで漏らすことはないのです。

しかあるを、古聖先賢(コショウ センケン)は、日月ををしみ、光陰ををしむこと、
眼睛(ガンゼイ)よりもをしむ。国土よりもをしむ。

そのために、昔の聖人や賢人たちは、月日を惜しみ時を惜しむこと、自分の眼よりも惜
しみ、国土よりも惜しんだのです。

そのいたづらに蹉過(シャカ)するといふは、名利(ミョウリ)の浮世(フセイ)に濁
乱(ジョクラン)しゆくなり。いたづらに蹉過せずといふは、道(ドウ)にありながら
、道のためにするなり。

その月日を徒に過ごすとは、名利の浮世に惑わされていくことです。月日を徒に過ごさ
ないとは、道にありながら道のために日々行ずることです。

すでに決了することをえたらん、又一日をいたづらにせざるべし。ひとへに道のために
行取(ギョウシュ)し、道のために説取(セッシュ)すべし。

すでに道を会得した者は、また一日を無駄にしてはいけません。ひたすら道のために行
じ、道のために説きなさい。



このゆゑにしりぬ、古来の仏祖、いたづらに一日の功夫(クフウ)をつひやさざる儀(
ギ)、よのつねに観想すべし。

このために知られることは、昔から仏や祖師が、一日の修行を無駄に費やさなかったこ
とを、常日頃 思い返しなさいということです。

遅遅(チチ)たる華日(カジツ)も、明窓(メイソウ)に坐(ザ)しておもふべし。蕭
蕭(ショウショウ)たる雨夜(ウヤ)も、白屋(ハクオク)に坐してわするることなか
れ。

このことを、日の長いのどかな春にも、明るい窓辺に坐して思いなさい。物寂しい雨の
夜にも、草庵に坐して忘れてはいけません。

光陰(コウイン)なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫(
タゴウ)の功徳をぬすむ。光陰とわれと、なんの怨家(オンケ)ぞ。

月日はどうして私の修行を盗むのであろうか。一日の修行を盗むだけでなく、その永劫
の功徳をも盗む。月日と私とは、何の怨みがあるというのだろうか。

うらむべし、わが不修(フシュ)のしかあらしむるなるべし。われ、われとしたしから
ず、われ、われをうらむるなり。

うらみに思うことは、それは自分が修行しないことの結果であろうということです。自
分が自分と親しくないので、自分が自分をうらみに思うのです。

仏祖も恩愛なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。仏祖も諸縁なきにあらず、し
かあれどもなげすてきたる。

仏祖も恩愛の情が無いわけではありません。しかしそれを投げ捨てて来たのです。仏祖
も様々な世俗の縁が無いわけではありません。しかしそれらを投げ捨てて来たのです。

たとひをしむとも、自他の因縁をしまるべきにあらざるがゆゑに、われもし恩愛をなげ
すてずば、恩愛かへりてわれをなげすつべき云為(ウンイ)あるなり。

たとえそれらを惜しんでも、自他の因縁は惜しみ尽くせるものではないので、自分がも
し恩愛を投げ捨てなければ、恩愛がかえって自分を投げ捨てるということがあるのです
。

恩愛をあはれむべくは、恩愛をあはれむべし。恩愛をあはれむといふは、恩愛をなげす
つるなり。

恩愛をいとおしむのなら、恩愛をいとおしみなさい。恩愛をいとおしむとは、恩愛を投
げ捨てることなのです。



南岳(ナンガク)大慧禅師(ダイエ ゼンジ)懐譲和尚(エジョウ オショウ)、そのか
み曹谿(ソウケイ)に参じて、執侍(シュウジ)すること十五秋(ジュウゴシュウ)な
り。しかうして伝道授業(デンドウ ジュゴウ)すること、一器水瀉一器(イッキスイ 
シャイッキ)なることをえたり。古先(コセン)の行履(アンリ)、もとも慕古(モコ
)すべし。

南嶽の大慧禅師 懐譲和尚は、昔 曹谿(六祖 大鑑慧能禅師)に入門して、十五年間 そ
ばに仕えました。そして六祖の道を、一器の水を一器に移し替えるように受け継ぎまし
た。この古聖の行跡は、最も慕うべきものです。

十五秋の風霜(フウソウ)、われをわづらはすおほかるべし。しかあれども、純一に究
辨(キュウベン)す、これ晩進(バンシン)の亀鏡(キキョウ)なり。

六祖に仕えた十五年間は、さぞ自分を煩わすことも多かったことでしょう。しかし、た
だひたすらに仏道を究明したのです。これは後輩のよき手本です。

寒爐(カンロ)に炭なく、ひとり虚堂(キョドウ)にふせり。涼夜に燭(ショク)なく
、ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解(イッチハンゲ)なくとも、無為(ムイ)の絶
学(ゼツガク)なり。これ行持なるべし。

冬の囲炉裏に炭はなく、一人で空の堂に臥したのです。涼しい夜には燭もなく、一人で
月明かりの窓辺に坐ったのです。たとえ少しも悟るところが無くても、それは無為の仏
道でした。これが行持というものです。

おほよそひそかに貪名愛利(トンミョウ アイリ)をなげすてきたりぬれば、日日に行
持の積功(シャック)のみなり。このむね、わするることなかれ。

およそ密かに名利を愛する心を投げ捨てれば、日々に行持の功徳が積まれていくだけな
のです。この道理を忘れてはいけません。

説似一物即不中(セツジイチモツ ソクフチュウ)は、八箇年の行持なり。古今のまれ
なりとするところ、賢不肖(ケンフショウ)ともにこひねがふ行持なり。

懐譲和尚の「自分を一物と説くことは適切でありません。」という言葉は、八ヶ年の行
持により得たものです。これは古今にも希なことであり、賢い人も愚かな人も、共に願
い望む行持です。



香厳(キョウゲン)の智閑禅師(シカン ゼンジ)は、大?(ダイイ)に耕道(コウド
ウ)せしとき、一句を道得(ドウトク)せんとするに、数番つひに道不得(ドウフトク
)なり。

 香厳寺の智閑禅師は、大?禅師(?山霊祐)の下で修行していた時、大?に生まれる
前の自己を問われて、幾度も答えようとしましたが、遂に答えることが出来ませんでし
た。

これをかなしみて、書籍(ショジャク)を火にやきて、行粥飯僧(ギョウシュクハンソ
ウ)となりて、年月を経歴(キョウリャク)しき。

智閑はこれを悲しんで、持てる書物を焼いて、粥飯を給仕する僧となって月日を送りま
した。

のちに武当山(ブトウザン)にいりて、大証の旧跡をたづねて、結草為庵(ケッソウ 
イアン)し、放下幽棲(ホウゲ ユウセイ)す。

後に武当山に入り、大証国師の旧跡を訪ねて草庵を結び、全てを捨てて静かに住んでい
ました。

一日わづかに道路を併浄(ヘイジョウ)するに、礫(カワラ)のほとばしりて、竹にあ
たりて声をなすによりて、忽然(コツネン)として悟道す。

ある日のこと、少し道路を掃き清めていると、小石が飛び散って竹に当たり、音を立て
たことで、たちまち仏道を悟りました。

のちに香厳寺(キョウゲンジ)に住して、一盂一衲(イチウ イチノウ)を平生(ヘイ
ゼイ)に不換(フカン)なり。奇巌清泉(キガン セイセン)をしめて、一生偃息(イ
ッショウ エンソク)の幽棲(ユウセイ)とせり。行跡おほく本山にのこれり。平生に
山をいでざりけるといふ。

智閑は、後に香厳寺に住んで、平生 一衣一鉢を換えない簡素な生活を送りました。山
中の奇岩や清泉を場所として、一生安息の住み処としたのです。智閑禅師の行跡は、武
当山に数多く残っています。禅師は平生、山を出ることはなかったといいます。

 臨済院 慧照大師(リンザイイン エショウ ダイシ)は、黄檗(オウバク)の嫡嗣(
テキシ)なり。黄檗の会(エ)にありて三年なり。純一に辨道(ベンドウ)するに、睦
州 陳尊宿(ボクシュウ チン ソンシュク)の教訓によりて、仏法の大意(タイイ)を
黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫(キッ)す。

 臨済院の慧照大師(臨済義玄)は、黄檗(希運禅師)の法を嗣いだ人です。黄檗の道
場にあって三年の間 純一に修行していた時に、睦州 陳尊宿(道明)の教えによって、
三度 仏法の大意を黄檗に尋ね、重ねて六十棒を受けました。

なほ励志(レイシ)たゆむことなし。大愚(タイグ)にいたりて大悟することも、すな
はち黄檗、睦州 両尊宿(リョウ ソンシュク)の教訓なり。

それでもなお求道の志は弛むことがありませんでした。大愚和尚(高安大愚)の所に行
って大悟したことも、黄檗禅師と睦州和尚の二人の教えによるものです。
祖席(ソセキ)の英雄は臨済(リンザイ)徳山(トクサン)といふ。しかあれども、徳
山いかにしてか臨済におよばん。

祖師の中で傑出した人物は、臨済(義玄)と徳山(宣鑑)であるといわれます。しかし
、徳山はどうして臨済に及びましょうか。

まことに臨済のごときは、群に群せざるなり。そのときの群は、近代の抜群よりも抜群
なり。

まことに臨済のような人物は、修行者の中でも跳び抜けた人でした。しかもその時代の
修行者は、近代の抜群の修行者よりも優れていたのです。

行業(ギョウゴウ)純一にして行持(ギョウジ)抜群せりといふ。幾枚幾般(イクマイ
 イクハン)の行持なりとおもひ擬(ギ)せんとするに、あたるべからざるものなり。

臨済の行いは純一で、その修行は抜群であったと言われます。どれほど様々な行持をさ
れたかを想像し推量しようとしても、出来るものではありません。

師、黄檗(オウバク)に在(ア)りしとき、黄檗と与(トモ)に杉松(サンショウ)を
栽(ウ)うる次(ツイ)でに、黄檗、師に問うて曰(イハ)く、「深山の裏(ウチ)に
許多(ソコバク)の樹を栽えて作?(ナニカセン)。」
師曰く、「一には山門の与(タメ)に境致(キョウチ)と為(ナ)し、二には後人の与
に標榜(ヒョウボウ)と為す。」 乃(スナハ)ち鍬(クワ)を将(モッ)て地を拍(
ウ)つこと両下(リョウゲ)す。

臨済が黄檗禅師の所にいた時、黄檗と共に杉や松を植える作業をしていると、黄檗は臨
済に尋ねました。「この山奥にたくさんの木を植えてどうしようというのかね。」
臨済は答えて、「一つには、この寺のために境内の風光とし、二つには、後世の人のた
めに目印とするのです。」 そう言って鍬で地面を二度打ちました。

黄檗、?杖(シュジョウ)を拈起(ネンキ)して曰く、「然(シカ)も是(カク)の如
くなりと雖も、汝 已(スデ)に我が三十棒を喫(キッ)し了(オワ)れり。」
師、嘘嘘声(キョキョセイ)をなす。黄檗曰く、「吾(ワ)が宗、汝に到って大いに世
に興らん。」

すると黄檗は杖を手に取って言いました。「そう答えても、お前はとっくに私の三十棒
を受けてしまったぞ。」
臨済はハーッと大きく息を吐きました。
黄檗は言いました。「私の教えは、お前の代で大いに世に興るであろう。」

しかあればすなわち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄(シ
ュウヘイ)をたづさへけるとしるべし。

このように、臨済は悟りを得た後も、杉や松を植えるのに、わざわざ自分の手で鍬を取
ったことを知りなさい。

吾宗到汝大興於世(ゴシュウ トウニョ ダイコウ オセ)、これによるべきものならん
。

黄檗の「私の教えは、お前の代で大いに世に興るであろう。」 という言葉も、臨済の
この修行力によるものでしょう。

栽松道者(サイショウ ドウシャ)の古蹤(コショウ)、まさに単伝直指(タンデン ジ
キシ)なるべし、黄檗も臨済とともに栽樹(サイジュ)するなり。

臨済は、栽松道者と呼ばれた五祖 大満(ダイマン)禅師の行跡を、まさにそのまま伝
えているのです。黄檗も臨済と共に木を植えたのです。


ーーーーーーーーー

01
仏祖の仏道修行には、かならず一生を捧げる行持がある。
それは環のように切れ目がなく、発心と修行と覚りと涅槃の境地との間には、少しの隙間もない、
これらは別々のものではないのである。こうしたことから、行事は自らに強いてするものではんく、
他から強いられるものではない、なにものにも妨げられぬ自ずとなる修行の持続である。

07
12頭陀という修行の項目がある。
例えば、
日々乞食をし、修行僧に定められた1食分を金銭では受け取らぬこと。
山上に止宿し、人家や郡県の聚落に宿らぬこと。
ただ、墳墓の間の死人のもので棄てられた衣を縫って着ること。
、、、、、

36
古来の仏祖たちが言い伝えてきた言葉がある。それは「もし人が、百歳を生きたとしても、
仏としての覚りを得なければ、ただ一日を生きて、よくこれを成就するには及ばない」。
諸処の覚者が己の言葉としてきたのである。無限の生死流転のなかにあって、
修行による一日は自分自身の中にある明洙である、巡り巡る生死の中にある己自身の
古鏡である。それは喜びに充ちた一日である。己の行持の力によって己自身が
喜びに充たされるのである。、、、
何の生きがいもなく百年を過ごすならば、悔いのみが充ちる月日であり、悲しむべき
形ばかりの一生である。たとえ百歳の月日を肉体の奴隷として駆け回ろうと、
そのなかに一日の行持を行うならば、百歳の一生を受け取るばかりでなく、他人の
百歳をも救うことができる。この一日の命は尊ばねばならない命である、尊ぶにあたいする
骸である。このようなところから、一日が一日を生ききる一日となるために、仏の覚りを
受け取るならば、この一日を永遠の生命にも優るとするのである。いまだ覚りを体得
しきらぬときは、一日を疎かにしてはならぬ。この一日は大切にし重んじなければならない
宝である。一日の価値を一尺の宝石の価値に比べてはならない、龍の珠にも替えては
ならないのである。古来の賢者は大切にする一日を、身にも命にも替えないのである。

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