2017年1月26日木曜日

説心説性の巻、百不当の一老

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菩提心を起こし、仏道修行についてからは、難行を大切に行ずるにあたって、
どのように修行しても、百の矢を射ても1つも当たることのないのがふつうである。
そのようではあるが、あるいは知識に学び、あるいは経巻に学ぶうちに、ようやく
一当を得るのである。いま得た一当はむかし百の矢を射た努力の賜物である、当たらなかった
百の矢に籠った努力が熟したのである。教えを聞き、道を修め、証を得るのは、
皆このようにしてである。きのうの説心説性は百の当たらなかった矢であるが、
きのうの説心説性の百の当たらない矢があってこそ、たちまち今日の一当となるのだ。
仏道修行の初心の時は、未だ努力が熟さず道に通達しないにしても、仏道を捨てて
他の道によって仏道に達することはない。仏道修行とはどのようなものであるか
に通達しない者たちは、このような徒労のような努力によってこそ道は自在に通じる
という道理が分からないのである。



百不当の一老
菩提心をおこし、仏道修行におもむく後よりは、難行を懇ろに行うとき、行うといえど
も百行に一当なし。しかあれども、或従知識、或従経巻して、ようやく当たることを得
るなり。いまの一当は、むかしの百不当の力なり、百不当の一老な
道元禅師 『正法眼蔵 説心説性の巻』
(仏道を求める心をおこして修行に取り組むのだが、一生懸命修行を続けても一向に真
実の教えが腹に落ちない。だけども、有徳の僧の指示や教えを素直に行じていくうちに
、やがて真実の道を得ることができるようになる。つまり、それまでの百の不承当があ
ったからこそ、一つの老熟した承当がここに現れて来るのである)
「百不当」とは、例えて言えば弓で的を射ることです。弓で的を射ようとしても一向に
当たりません。百回やって百回とも当たらないのです。しかし、その当たらない矢をあ
きらめずに何本も放って修練を積むうちに、その修練の力によってやがて当たるように
なるのです。その的を打ち抜いた矢、つまり一当は、それまでの「百不当の力」であり
、「百不当の一老」、「百不当の蓄積」であります。
私は若い頃から音楽、特にピアノが大好きで、毎日一生懸命ピアノの練習に打ち込みま
した。大学も音楽の分野へ進学しました。そして四年生の時にはオーケストラとモーツ
ァルトのピアノ協奏曲を演奏するくらいにまでなりました。今、その大学時代を振り返
ってみますと、まさに朝から晩までピアノ練習漬けの毎日でした。一日平均六~八時間
の練習をするのです。
弓でもピアノでもおよそ「道どう」とつくものは、みなそうだと思いますが、一日練習
を怠ればその分を取り返すには何倍もの修練が必要です。上達への近道は、有効な練習
を毎日勤勉に繰り返し行う以外には有り得ないのです。
ピアノで一つの曲を完全に弾きこなせるようになるまでの過程を山登りに例えてみます
と、曲をマスターするのは山の頂上に立つことです。
一合目~三合目~五合目と登ってきて、最後の八合目~頂上にかけての道程は、それま
でのものと比較すると、はるかに難しく困難なものです。難しい箇所を何度も練習する
のですが、なかなか上手に弾くことが出来ません。
しかし、良き先生(指導者)のアドバイスを受けたり、偉大なピアニスト達(先人)の
演奏テープを聴いて参考にし、出来ない箇所を片手ずつゆっくりと何度も繰り返したり
するうちに、ある日突然スラスラと弾けるようになるのです。これが即ち「百不当の一
老」なのです。
努力に比例して成果が上がれば問題は簡単ですが、努力しても成果が上がらない。そこ
で止めてしまえば「骨折り損のくたびれ儲け」で終わってしまうことになります。
そうではなくて、一見無駄と思えることでも努力を続けていくと、その無駄が全部生き
ていて、予想外の成果を上げることができるようになるものです。これが「百不当の一
老」ということです。
更にこの言葉を深めていきますと、目的や結果にかかわらず、今自分が為すべきことを
粛粛と真面目に修していく。そのことに価値観を定めていくことが大切だということに
気が付きます。
仏道に例えれば、一つ一つの動作を、仏としての行であると自覚して真剣に行う、とい
うことです。大切なのは、単なる形式ではなくて、それを真剣に大切に行うことであり
ます。「威儀作法の中に真実の仏法がある」と云うのはこのことを指すのでしょう。
「修行」の本来の意味も「反復すること」「繰り返すこと」です。つまり「むかしの百
不当」です。食事なら食事、洗面なら洗面、排泄なら排泄、という一つ一つの営みを大
切に行いなさい、ということです。
修行というと何か特別なことをするように思いますがそうではありません。毎日毎日同
じことを繰り返して生きていく。これが修行であり、人生です。当たり前のことを、当
たり前に大切に行っていくということ、その繰り返しが修行です。ですから、死ぬまで
修行に「終わり」はないということにもなります。日常生活を送る上で、お互いこのこ
とをよくよく肝に銘じたいものです。

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