2017年1月20日金曜日

道心、中有について

 「仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。」
 「わがこころをさきとせざれ、仏のとかせたまひたるのりをさきとすべし」
 「法のためには、身をもいのちをも、おしまざるべし。」
 「つぎには、ふかく仏法僧三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、
三宝を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。」
 この巻は道元さまがいつ説かれたのか明確ではありません。大変短い巻でありますが
仏教者にとって仏道を求むる心の重要性について説かれた巻であります。
 この場合「心」が先か「行動」が先かということは問題でありますが、道元さまはこ
の巻では「仏道を求むるには、まづ道心をさきとすべし」と説かれました。つまり「心
」が先とも受け取れます。しかし道元さまはもともとこの「心」と「行動」との後先を
考えておられた訳ではありません。心には必ずなんらかの行動が付随するものでありま
すし、その逆に行動から心が起こることもあります。つまり心と行動とは不離一体のも
のであります。
 さて、道心とは仏道を求める心のことでありまして、菩提心とも申します。仏道修行
を志す者はこの道心を前提といたします。ところがこの道心を持っているという人に真
実の道心がそなわっていなかったり、その逆に真の道心をそなえているのにそうは見え
ない人もいます。しかし、光明の巻においてお話しいたしましたように、真の道心をそ
なえている人はどこか違うものであります。道心は悟りを求める心でもあります。それ
は自己が悟りを得たからといって、もうそれで良いというものではなく、生涯が道心の
連続であります。終わり無き修行であります。それは横目をふらずただひたすらに仏さ
まをうやまい、その説かれた法を先として、昼夜つねに悟りを求める心を保ち続けるこ
とであります。法のためには身命をもなげうつ覚悟が必要であります。
 仏道を求め、悟りを求めるものはまず仏法僧の三宝を敬い奉るべきであります。これ
は仏教徒にとっての第一に守るべきことであります。どの様な境遇に生まれようともこ
れは例外なく守るべきことであります。そして寝ても覚めても南無帰依仏 南無帰依法
 南無帰依僧と唱え奉るべきであります。この心を片時たりとも忘れてはなりません。
 道心という心と南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧とお唱えする行動とは不離一体
でなければなりません。例えば行動があって、心が無ければこれもなにもなりません。
空念仏という言葉がありますが、それではなにもなりません。その逆も、また言えまし
ょう。
 人間は今生が終わり、次の生に生まれかわる間に中有というものが在るということが
、言われているのでありますが、そのことを道元さまはこの巻きに引用されておられま
す。人間が死んでからのことを述べておられる方は少ないのでありますが、道元さまは
それをこの巻で説いておられます。「中有ということあり」という言葉がそれでありま
して、このことは正法眼蔵のなかでも大変特異な巻であります。

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 「正法眼蔵 道心」

 仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり
。あきらかにしれらん人に問ふべし。
よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人に
しられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、おろかにあしき人
のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこころをさきとせざれ、仏のとかせたま
ひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにか
けて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、ねがひいのるべし。
 世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常
にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のは
かなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我
がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。
 つぎには、ふかく仏法三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝
を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三宝の功をおもひ
たてまつるべし、ねてもさめても三宝をとなへたてまつるべし。たとひこの生をすてて
、いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり。そのいのち七日なる
、そのあひだも、つねにこゑもやまず三宝をとなへたてまつらんとおもふべし。七日を
へぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて七日あり。いかにひさしといへども
、七七日をばすぎず。このとき、なにごとを見きくもさはりなきこと、天眼のごとし。
かからんとき、心をはげまして三宝をとなへたてまつり、南無帰依仏、南無帰依法、南
無帰依僧ととなへたてまつらんこと、わすれず、ひまなく、となへたてまつるべし。
 すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまへてあひかまへて
、正知ありて託胎せん処胎藏にありても、三宝をとなへたてまつるべし。むまれおちん
ときも、となへたてまつらんこと、おこたらざらん。六根にへて、三宝をくやうじたて
まつり、となへたてまつり、帰依したてまつらんと、ふかくねがふべし。
 またこの生のをはるときは、二つの眼たちまちにくらくなるべし。そのときを、すで
に生のをはりとしりて、はげみて南無帰依仏ととなへたてまつるべし。このとき、十方
の仏、あはれみをたれさせたまふ。ありて悪趣におもむくべきつみも、転じて天上にむ
まれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりをきくなり。
 眼の前にやみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三帰依となへたてまつること
、中有までも後生までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生々世々をつくして
となへたてまつるべし。仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ仏菩薩の
おこなはせたまふみちなり。これを深く法をさとるとも云ふ、仏道の身にそなはるとも
云ふなり。さらにことおもひをまじへざらんとねがふべし。
又、一生のうちに仏をつくりたてまつらんといとなむべし。つくりたてまつりては、三
種の供養じたてまつるべし。三種とは、草座、石蜜漿、燃燈なり。これをくやうじたて
まつるべし。
 又、この生のうちに、法華経つくりたてまつるべし。かきもし、摺寫もしたてまつり
て、たもちたてまつるべし。つねにはいただき、礼拝したてまつり、華香、みあかし、
飮食衣服もまゐらすべし。つねにいただきをよくして、いただきまゐらすべし。
 又、つねにけさをかけて坐禅すべし。袈裟は、第三生に得道する先蹤あり。すでに三
世の仏の衣なり、功はかるべからず。坐禅は三界の法にあらず、仏の法なり。

 徒然草 第三十段

 人のなきあとばかり悲しきはなし。
 中陰のほど、山里などにうつろひて、便あしくせばき所にあまたあひゐて、後のわざ
ども營みあへる、心あわたゞし。日數のはやく過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日
は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我かしこげに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行
きあかれぬ。もとのすみかに歸りてぞ、更に悲しき事は多かるべき。「しかじかのこと
は、あなかしこ、跡のためいむなる事ぞ」などいへるこそ、かばかりのなかに何かはと
、人の心はなほうたておぼゆれ。
 年月へても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しといへることなれば、さ
はいへど、其のきはばかりは覺えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひぬ。からはけ
うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかりまうでつゝ見れば、ほどなく卒都姿も苔む
し、木の葉ふりうづみて、夕の嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
 思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そも又ほどなく失せて、聞きつたふるば
かりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名
をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐に
むせびし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。そのかただに
なくなりぬるぞ悲しき。

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