無上の覚りを修めるには、あるいは知識による導きを必要とする、
このにいう知識とは、
経巻とは、
を上げて全自己のものとする経巻のことである。
全仏祖を併せて一とする自己、
その自己は自己と他が関わり合い引き裂かれているものではない。
眼だ、活き活きとした拳だ。
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この「ただ経で眼をふさごうとしているだけだ」は薬山の眼が自ずから一切経を説いている
というのだ。眼が一切経によってふさがれているのだ、経は目に飲み込まれているのだ、
全眼が経になっているのだ。一切経を挙げて眼としてるのだ。眼が経によってふさがれている
とは一切経のなかに目を開いているのだ、一切経の内に目が働くのだ、だから目の上にさらに
一枚の皮がそっているのだ。それは全法界を飲み込んだ目である、眼が自ずと全法界を
吞み込んでいるのだ。そうであるから、眼の経でないならば、一切経によって眼がふさがる
という事態は起こりえないのだ。
18
現在禅院では多くの看経の儀則がある。
以下、24まで具体的なやり方が書かれている。
今日、看経というと大きな声をあげて「観自在菩薩・・・・」
看経と言われていますが、道元禅師の「看経」
必ずしもそういうふうに声をあげて経典を読むという事ではなしに
読んで経典の意味を理解し考えるという事が「看経」
思います。この経典を読むという事については、元来、
の問題ではないという立場からしますと、
軽く見るという考え方もあるわけであります。
その一つの典型的な例は、「不立文字教外別伝」
その一つの典型的な例は、「不立文字教外別伝」
「不立文字」というのは、文字を立てない、
あるいは本を読んで仏道を理解するという事をやらない。「
教えというのは抽象的な理論・教えという意味があるわけで、
の他に、釈尊以来、別に伝えるものがあるという思想が「
思想であります。この思想は臨済系の坐禅をやる人々の間では、
そういう点では「仏道とは理屈ではない悟りだ!」
その「仏道とは理屈ではない悟りだ!」という主張を、この、「
という言葉で表現しているわけであります。
ところが道元禅師はこの「不立文字教外別伝」
ところが道元禅師はこの「不立文字教外別伝」
しておられない。だから「正法眼蔵」の別の巻で、この「
思想を否定しておられるところがある。
が単なる理屈ではないという事、
それと同時に経典を読むこと、
その点では看経というものにも意味を認めておられたし、
その点では看経というものにも意味を認めておられたし、
書かれた字を読むという事だけでなしに、
巻いている宇宙全体が経典そのものなのであるから、
教えを読み取るという事、
考え方に立って、この「看経」
思うわけであります。
我々の住んでいる宇宙を「蘊界」と言う。その意味は「五蘊」
五つの集合体とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つを言う。
色蘊(物質的なものの集まり) 受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)
想蘊(
色蘊(物質的なものの集まり) 受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)
想蘊(
従って自分の体を動かして様々の行動をする働き) 識蘊(その行動の結果、
自分の心や頭の中に形成された意識のあり方)
この五種類の集合体の中にもわが身を置かないという事は、
この五種類の集合体の中にもわが身を置かないという事は、
我々の住んでいる世界は頭の中で考えて、色蘊だ、受蘊だ、
というふうに分析的に捉えられた世界ではない。
一所懸命生きている現在の瞬間以外にない。
坐禅というものの本質が何かと言う事を、
坐禅というのは体育としての一面があるということを強く感じるわ
こういう考え方をすると宗教というものをいろいろ勉強しておられ
というものを勉強しておられる人々はあまり歓迎しない。
宗教とか仏教とかというのは精神の問題であり心の問題であるから
なんていうのはあまり適当ではないと、
したがって、「体育としての一面がある」
したがって、「体育としての一面がある」
と言う批評を受けがちなわけでありますが、「正法眼蔵」
考えておりますと、
考えざるを得ない。たとえば「正法眼蔵」の中に「心身学道」
「心身学道」というのは、体と心で真実を学ぶ。普通、
常識でありますけれども、仏教の場合は、
それが他の宗教と仏教という考え方の大きな違い、
それが他の宗教と仏教という考え方の大きな違い、
ですから、我々が坐禅をやっておって、
筋肉が発達して、
腰骨が正しく維持できると、その上に背骨が正しくのっかって、
のっかるということで、
姿勢が正しくなる基礎というのは、
そういう腰の保持の仕方ができてくると、
そういう腰の保持の仕方ができてくると、
あるいは心配したりと言う事が起きなくなる。日常生活で、
立ち止まっておっても、あるいは寝ておっても、
という事がいえると思います。それが仏道だ。
ではなしに、体からつくっていかないと実現しないもんだと、
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ではなく、
そのために、「自己」の定義も以下のようにされるのである。
阿耨多羅三藐三菩提の修証、あるひは知識をもちい、そこで、この菩提そのものの修証として、或従知識・あるひは経巻を 
もちいる。知識といふは、全自己の仏祖なり。経巻といふは、全自己の 
経巻なり。全仏祖の自己、全経巻の自己なるがゆえに、かくのごとくなり。 
自己と称すといへども我你の拘牽にあらず、これ活眼睛なり、活拳頭なり。 
承けて、さらに経巻と自己との関係を発起する方途として、「
この場合、ただ「経を看る」という意味ではない。
しかあれども念経、看経、誦経、書経、受経、持経あり、調度この文章に出たが、「仏経」巻との関連性が指摘されており、ともに仏祖の修証なり。 
しかあるに仏経にあふことたやすきにあらず。於無量国中、乃至名字不可得聞なり。 
於仏祖中、乃至名字不可得聞なり。於命脈中、乃至名字不可得聞なり。 
仏祖にあらざれば、経巻を見聞読誦解義せず。仏祖参学よりかつかつ経巻を 
参学するなり。
の事実を説いたのが、「仏経」巻であるとすれば、この「看経」
修行に力点を於いて説かれたものである。そして、この仏経=
この語は、本来の意味は「眼の相手をさせる」
「蔽われた眼」の意味で、眼にとって一切が経巻、
ことを指した言葉である。
なお、同巻に於ける特徴として、
なお、同巻に於ける特徴として、
「看経法」が示されている。その詳細は同項参照のこと。
 
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