無上の覚りを修めるには、あるいは知識による導きを必要とする、 あるいは経巻を必要とする
このにいう知識とは、 全天全地森羅万象をもって事故の全身とした諸ぶっそのことである 。
経巻とは、 般若心経や法華経や金剛経などが全天全地森羅万象を説くように、 全現象世界
を上げて全自己のものとする経巻のことである。 師の教えを聞き経を読む自己とは、古来の
全仏祖を併せて一とする自己、 全経巻を併せて一とする自己であるからだ。ここに自己といっても
その自己は自己と他が関わり合い引き裂かれているものではない。 それは生き生きとした
眼だ、活き活きとした拳だ。
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この「ただ経で眼をふさごうとしているだけだ」は薬山の眼が自ずから一切経を説いている
というのだ。眼が一切経によってふさがれているのだ、経は目に飲み込まれているのだ、
全眼が経になっているのだ。一切経を挙げて眼としてるのだ。眼が経によってふさがれている
とは一切経のなかに目を開いているのだ、一切経の内に目が働くのだ、だから目の上にさらに
一枚の皮がそっているのだ。それは全法界を飲み込んだ目である、眼が自ずと全法界を
吞み込んでいるのだ。そうであるから、眼の経でないならば、一切経によって眼がふさがる
という事態は起こりえないのだ。
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現在禅院では多くの看経の儀則がある。
以下、24まで具体的なやり方が書かれている。
今日、看経というと大きな声をあげて「観自在菩薩・・・・」 と大声に唱えるのが
看経と言われていますが、道元禅師の「看経」 の巻のお考えというものは、
必ずしもそういうふうに声をあげて経典を読むという事ではなしに 、むしろ静かに
読んで経典の意味を理解し考えるという事が「看経」 の意味になるとみてよいかと
思います。この経典を読むという事については、元来、 仏道というのは抽象的な論議
の問題ではないという立場からしますと、 経典を読むことを比較的軽視する、
軽く見るという考え方もあるわけであります。
その一つの典型的な例は、「不立文字教外別伝」 という思想があるわけであります。
その一つの典型的な例は、「不立文字教外別伝」
「不立文字」というのは、文字を立てない、 つまり言葉を使って論議をしない、
あるいは本を読んで仏道を理解するという事をやらない。「 教外別伝」というのは、
教えというのは抽象的な理論・教えという意味があるわけで、 そういう抽象的な理論・教え
の他に、釈尊以来、別に伝えるものがあるという思想が「 不立文字教外別伝」という
思想であります。この思想は臨済系の坐禅をやる人々の間では、 非常にやかましく言う。
そういう点では「仏道とは理屈ではない悟りだ!」 という事をしきりに言う。
その「仏道とは理屈ではない悟りだ!」という主張を、この、「 不立文字教外別伝」
という言葉で表現しているわけであります。
ところが道元禅師はこの「不立文字教外別伝」 という考え方に対して、必ずしも賛成
ところが道元禅師はこの「不立文字教外別伝」
しておられない。だから「正法眼蔵」の別の巻で、この「 不立文字教外別伝」という
思想を否定しておられるところがある。 そういうところから見ると、道元禅師は仏道
が単なる理屈ではないという事、 これは非常に強く主張されたわけでありますけれども、
それと同時に経典を読むこと、 仏道を理論的に勉強することも決して否定しておられなかった。
その点では看経というものにも意味を認めておられたし、 またそのことが単に紙に
その点では看経というものにも意味を認めておられたし、
書かれた字を読むという事だけでなしに、 道元禅師のお立場からすれば、我々を取り
巻いている宇宙全体が経典そのものなのであるから、 我々の世界が示してくれておる
教えを読み取るという事、 これもまた経典を読むことであり看経であると、そういう
考え方に立って、この「看経」 の巻を説いておられるという事が言えようかと
思うわけであります。
我々の住んでいる宇宙を「蘊界」と言う。その意味は「五蘊」 五つの集合体の事である。
五つの集合体とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つを言う。
色蘊(物質的なものの集まり) 受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)
想蘊( その感覚的に受け入れたものを頭の中であれこれと考える働き) 行蘊(その考えに
色蘊(物質的なものの集まり) 受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)
想蘊(
従って自分の体を動かして様々の行動をする働き) 識蘊(その行動の結果、
自分の心や頭の中に形成された意識のあり方)
この五種類の集合体の中にもわが身を置かないという事は、 どういうことかと言うと、
この五種類の集合体の中にもわが身を置かないという事は、
我々の住んでいる世界は頭の中で考えて、色蘊だ、受蘊だ、 想蘊だ、行蘊だ、識蘊
というふうに分析的に捉えられた世界ではない。 それは現在の瞬間であり、
一所懸命生きている現在の瞬間以外にない。 五種類の考え方を使って解釈する世界ではない。
坐禅というものの本質が何かと言う事を、 時々考えるわけでありますが、最近よく感ずる事は、
坐禅というのは体育としての一面があるということを強く感じるわ けであります。
こういう考え方をすると宗教というものをいろいろ勉強しておられ る人々、あるいは仏教
というものを勉強しておられる人々はあまり歓迎しない。 それはどう言う事かというと、
宗教とか仏教とかというのは精神の問題であり心の問題であるから 、体の問題を持ち出す
なんていうのはあまり適当ではないと、 そういう考え方が強いわけであります。
したがって、「体育としての一面がある」 というようなことをいうと「解釈が非常に浅薄だ」
したがって、「体育としての一面がある」
と言う批評を受けがちなわけでありますが、「正法眼蔵」 を読みながら坐禅というものを
考えておりますと、 坐禅というのはどうしても体育としての一面がある、と言うふうに
考えざるを得ない。たとえば「正法眼蔵」の中に「心身学道」 という巻がある。
「心身学道」というのは、体と心で真実を学ぶ。普通、 宗教は心で勉強するものというのが
常識でありますけれども、仏教の場合は、 体でも勉強するという考え方が非常に強いわけであります。
それが他の宗教と仏教という考え方の大きな違い、 という事もいえると思います。
それが他の宗教と仏教という考え方の大きな違い、
ですから、我々が坐禅をやっておって、 どういう変化が出てくるかと言うと、腰の周辺の
筋肉が発達して、 腰骨が正しく保持で出来る様になるという事があると思います。
腰骨が正しく維持できると、その上に背骨が正しくのっかって、 その上に首の骨が正しく
のっかるということで、 いわゆる姿勢が正しくなるという問題があるわけでありますが、
姿勢が正しくなる基礎というのは、 腰骨が正しいかどうかという事にあるようであります。
そういう腰の保持の仕方ができてくると、 気持ちが不安定にならない。クヨクヨしたり、
そういう腰の保持の仕方ができてくると、
あるいは心配したりと言う事が起きなくなる。日常生活で、 街を歩いておっても、
立ち止まっておっても、あるいは寝ておっても、 気持ちの不安定というものがない
という事がいえると思います。それが仏道だ。 だから仏道と言うのは、単に心の問題
ではなしに、体からつくっていかないと実現しないもんだと、 そういうことがいえると思います。
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ではなく、 まさに自己そのものが経巻であることを示そうとされる。
そのために、「自己」の定義も以下のようにされるのである。
或従経巻とされたことを
阿耨多羅三藐三菩提の修証、あるひは知識をもちい、そこで、この菩提そのものの修証として、或従知識・あるひは経巻を
もちいる。知識といふは、全自己の仏祖なり。経巻といふは、全自己の
経巻なり。全仏祖の自己、全経巻の自己なるがゆえに、かくのごとくなり。
自己と称すといへども我你の拘牽にあらず、これ活眼睛なり、活拳頭なり。
承けて、さらに経巻と自己との関係を発起する方途として、「 看経」があるのだが、
この場合、ただ「経を看る」という意味ではない。
当に仏=経として
しかあれども念経、看経、誦経、書経、受経、持経あり、調度この文章に出たが、「仏経」巻との関連性が指摘されており、ともに仏祖の修証なり。
しかあるに仏経にあふことたやすきにあらず。於無量国中、乃至名字不可得聞なり。
於仏祖中、乃至名字不可得聞なり。於命脈中、乃至名字不可得聞なり。
仏祖にあらざれば、経巻を見聞読誦解義せず。仏祖参学よりかつかつ経巻を
参学するなり。
の事実を説いたのが、「仏経」巻であるとすれば、この「看経」 巻は、それを叢林での
修行に力点を於いて説かれたものである。そして、この仏経= 看経としての故事を挙げて、
この語は、本来の意味は「眼の相手をさせる」 という中国の俗語だが、ここでは、
「蔽われた眼」の意味で、眼にとって一切が経巻、 いや眼そのものが経巻である
ことを指した言葉である。
なお、同巻に於ける特徴として、 道元禅師が中国で直接に見聞してきたものであろう、
なお、同巻に於ける特徴として、
「看経法」が示されている。その詳細は同項参照のこと。
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