2016年11月18日金曜日

坐禅とマインドフルネス

道元の教え、坐禅
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。

道元はその教えの基本は、坐禅と言っている。
「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への旅立ち)
を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」というものを書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に四大軽安、精神爽利、
正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。すでに能く発明せば、謂つべし、
竜の水を得るが如く、虎の山によるに似たりと」と言っている。
いずれもが、どこまで理解をできるかは別にして、心の安寧を得る一つには違いない。
と言う。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは1つである。
「正法眼蔵随聞記」には、 「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。 学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人 よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき ではない。」と言っている。 坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの世界をありのままに
見ることが成就するであろう」というのだ。

覚りを得るなどと言う大袈裟なことを考えずに、日頃の自分を見直し、次への
活力とするだけでも良いのではないだろうか。
道元の坐禅のやり方と昨今企業などでも使われているマインドフルネスのやり方を
見ることで、少しでも落ち着いた日々を送りたいもの。

1.坐禅儀より
坐禅の悪い所は、一般の人に何か大変なもの、苦痛が伴うものという怖れを引き起こす
ような導きかたをしているからではないだろうか。
正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、雨露を
もらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下にあてなさい。
風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。
また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的な
ことから日常茶飯事のことまで追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で
壁に向かい坐禅することで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。

正法眼蔵 第11、坐禅儀 (ざぜんぎ)
参禅は坐禅なり。
坐禅は静処よろし。坐蓐あつく敷くべし。風烟をいらしむることなかれ、雨露をもらし
むることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛の上に坐し、盤石の上に坐する蹤
跡あり、かれらみな草をあつく敷きて坐せしなり。坐処あたたかなるべし、昼夜暗から
ざれ。冬暖夏涼をその術とせり。
所縁を放捨し、万事を休息すべし。
善也不思量なり、悪也不思量なり。
心意識にあらず、念想観に非ず。
作仏を図することなかれ、坐臥を脱落すべし。

飲食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふが如く坐禅を好むべし。黄梅山の
五祖、異なる営みなし、唯務坐禅のみなり。坐禅のとき、袈裟をかくべし、蒲団を敷く
べし。蒲団は全跏に敷くには非ず、跏趺の半ばよりは後ろに敷くなり。然れば、累足
の下は坐蓐にあたれり、脊骨の下は蒲団にてあるなり。これ仏々祖々の坐禅のとき坐す
る法なり。
あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐す。
結跏趺坐は、右の脚をひだりの股の上に置く。左の足を右の股の上に置く。左の足を右
の股の上に置く。脚の先、各々股と等しくすべし。参差なることえざれ。
半跏趺坐は、ただ左の足を右の股のうへに置くのみなり。

衣衫を寛繋して斉整ならしむべし。右手を左足の上に置く。左手を右手の上に置く。
二つのおほ指、先あひささふ。両手斯くの如くして身に近づけ置くなり。二つのおほ指
のさし合わせたる先を、ほぞに対して置くべし。正身端坐すべし。左へそばだち、右へ
傾き、前にくぐまり、後ろへあふのくことなかれ。必ず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべ
し。舌は、かみのあぎにかくべし。息は鼻より通ずべし。唇・歯あひつくべし。目は開
すべし、不張不微なるべし。

斯くの如く身心を調へて、欠気一息あるべし。
兀々「ごつごつ」と坐定して思量箇不思量底なり。

不思量底如何思量。
これ非思量なり。
これすなはち坐禅の法術なり。

坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり。

基本的には、後述するマインドフルネスのやり方とあまり変わらない。道元は、生活の1つ1つが
修行であり、覚りへの道と考えたので、食事の細かい作法まで決めている。だが、心根に
安寧を求めるだけであれば、坐禅のやり方を含め、すべてを「坐禅儀」にある事細かな作法を
することが重要とは思えない(浅学非才だろうが)。

もっとも、以下のような道元の教えもあるが、
「すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。常に初心の覚りがあって上での
修行である、初心の坐禅修行はそのまま本証の全体なのだ」。
さらに、
「一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような知覚分別
も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、坐禅の修行
の妨げにはならないのである。ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を
包括せしめ、あらゆる繋縛を抜け出て生仏一如と修行するものである。
この生仏一如という重大な関門を超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、
諸境界の節目にも関わりはなくなるのである」。

こんな言葉を聞くと、難しさの思いが先に立ち、中々に前に進めない。
我が凡庸を嘆くのみか。

2.ポジティブ心理より
様々な自己確認評価手法と同様のものがある。例えば、具体的な項目をタル・ベン・シャハー
が学生向けに、多くのワークの実践方法を述べている。
本来の自分を知るとは、本来の自分に戻る時間を持つこと。信頼する友人に気持ちを
語ったり、心に浮かぶあらゆることを日記に書いたり、自分の部屋で一人で過ごす時間を作る。
以下の文章を思いつくままに書く。
例えば、
・自分の気持ちにあと少し正直になるためには、
・自分が恐れていることにあと少し気付くことが出来れば、
・あと少し本来の自分に戻るためには、
・文章をジックリ見直し、実行すること。
・行動の一つとして、自身の「分からない」を受け入れるもある。
・知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。

「ただ歩くこと」を習慣とするのも重要といわれている。
外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の息遣い、静けさ、森の生命力など、
五感を最大限に使い感じる。

これは、山水経に通じている。
古仏雲門はいう、「山是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是れやまと言っているのではない。山は是れやまと言っている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質が現れる。
山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、祖師の聖を現している。
山水はそのまま仏経である。

ポジティブの中で「自然に身を置くことで自身を見直す」ことを推奨している。
以下の手順の実践で、今、自分が感じていることを感じるままに受け入れること。
①楽な姿勢で座る。②深く域を吸い、ゆっくりと吐く。③自らの感情、感覚に集中する。
④自分を許し、あるがままに自身を解放する。⑤想像の中で、様々な感情を味わう。

正法眼蔵から見る坐禅の世界とポジティブ心理にて実践されるマインドフルネス、
それらは異なる文化の中で育った人間修養であり、坐禅、マインドフルネスいずれもが
数えるほどの体験でしかなく、その浅はかなる所為である事は認識してはいるものの、
その根底は何故か一つの流れの中にあるように思える。
マインドフルネスとは、単純に言えば、その一瞬に全力を傾けること。
一般に言われる、マインドフルネスについては、「今という瞬間に、余計な判断を加えず、
自分の人生がかかっているかのように真剣に、意識して注意を向けること」
と定義している。
専門家はマインドフルネス効用を幾つか上げている。
①常に新しいカテゴリーを創造する:マインドフルネスな状態であれば、
旧来の分類方法やレッテルにとらわれることなく、状況や文脈に注意を払い、
新たな特徴を見出すことができる。
例えば、レンガを単なる建材と見るのではなく、ブックエンドや武器、
ドアストッパーなど、いろいろな利用法を思いつくことができる。
②新たな情報を積極的に受け入れ、物事をさまざまな視点から捉える:
マインドフルネスな状態は、カテゴリーを創造できるだけでなく、常に新たな
情報を受け取り、新たな可能性に対してオープンになることも意味する。
例えば、あなたとパートナーはいつも自分のやり方にこだわって、同じこと
で喧嘩ばかりしているかもしれません。けれども、相手の視点に対して
オープンになることで変化が生まれる可能性がある。
③結果よりも過程を重視する:マインドフルネスな状態は、結果について
あれこれ心配するのでなく、ひとつずつのステップに意識の焦点を当てる
状態。
例えば、テストの出来を心配するより、その教科を本当の意味で学ぶこと。
つまり、マインドフルネスとは、すべての経験に焦点を合わせ、より意識的
になることであり、「だから何?」と思う人もいるが、マインドフルネスを
高めれば、集中力が増し、創造性や幸福感、健康、リラックス感が高まり、
もっと自分をコントロールできるようになる可能性がある。
しかし、マインドフルネスは、直ぐにその成果が出るものではない
けれども、徐々に高めていくことはできる。
マインドフルネスを実践するには、どんなに忙しくても、どんなにストレスの
たまる状況でも、いつも意識を研ぎ澄ましていなくてはいけない。
例えば食事中であれば、フォークを置くたびに、「一噛み一噛み味わって食べる」
という目標を思い出すようにするとか、職場でなら、「1時間ごとの時報」など
のリマインダーを設定して、ちょっと休憩をはさむと良い。
マインドフルネスの具体的な実践には、以下の6つのステップがある。
①背筋を伸ばして座り、足を組んで、視線を下に向ける。
②自然に浮かんでくる思いと、人為的な考えとを区別する。
③三繰り返し過去を思い出したり、未来への不安で気が散るようなら、
それそれを最小限に抑えるために、こう考え直してみる。
「過去も未来も、現在の私の心の中の想像にすぎない」。
④瞑想中は、ちょうど船の「錨」のように、呼吸が集中をつなぎ止めてくれる。
⑤息を吐くたびにひとつ数を数え、21まで数えたらまた1に戻る
⑥思いが浮かんでくるのを無理に抑えようとせず、心を自然に任せる。
この一連の手順は、マインドフルネス瞑想として知られており、
マインドフルネスを育む最高の方法のひとつ。
これは一種の脳のエクササイズで、普段の生活を送りながらでも実践できる
(続けやすくするひとつの戦略は、シャワーや犬の散歩など、毎日の日課の
最中にこの訓練を行うこと)。
最後にひとつ注意事項すべきは、マインドフルネスの実践はとても有益だが、
心を自然に任せたほうが良い時もあるということ。ある報告では、創造性や
洞察力のためには、ぼんやりしたり空想にふけったりすることが
必要である可能性を紹介しているし、高度にマインドフルネスな状態は、
「潜在的学習」(無意識のうちに、新しいスキルや習慣を学ぶこと)における
効率の低さと相関している可能性があるとのこと。
最近、企業でも活用されているという「マインドフルネス」そのやり方は
道元の説く(もっとも、坐禅としては禅宗全体でも大きな違いはないと思うが)
「坐禅儀」とほぼ同じであろう。これが説かれたのが、寛永元年(1624)と
言われているから400年ほど前にもこの実践手法はあったということだ。
人間が大きく変わっていないのであるから、当然なのかもしれないが。
マインドフルネスと坐禅の実践手法をもう一度振り返り、どちらでもよいので
実践し、私も含め日ごろのちょっとやる仕草程度で頑張って行きたいもの。

2016年10月2日日曜日

維摩経

維摩居士は『維摩経』(ゆいまきょう)の主人公です。『維摩経』は仏典ですが、あとで説明するように、大乗仏典のなかでもかなり初期に編集されたきわめてユニークなお経です。
 そもそも主人公の維摩居士が仏僧ではない。出家したプロの僧侶ではありません。在家なのです。古代インドの大商人で、しかも富豪です。
 富豪なんですが、惜しみなく喜捨をする。誰彼かまわず援助する。なんとも羨ましいことですが、富の贈与と知の互酬性に徹することが身上なのです。それも、仏道の根本に従ったまでだという達観でやっているらしい。そういう男です。
 維摩居士がぼくのとっておきのモデルなのは、気っ風がよくて気前がいいからだけではありません。仕事をしたまま仏道をいとなみ、それなのにそんじょそこいらの出家者をいつも手玉にとるほどに、訳知りたちを翻弄した。その生き方や世間との付き合い方がめっぽうおもしろい。
 この男にはさしものブッダの名うての弟子筋たちも、並みいる菩薩たちも、きりきり舞いさせられた。そういう維摩居士の噂は当時から四方に知れわたっていたようです。
比叡山延暦寺の維摩居士坐像
 ともかく変わっている。変わっているのに、ある意味ではどんな菩薩道を踏んだ高僧や高潔たちより高く深く、かつざっくばらんです。意外性に富んでいるのに、なんだかやたらに説得力がある。大胆思考の仏者なのです。
 プロではないのだからアマなのですが、たんなるアマちゃんでもない。商人なのに仏者なのです。そういう維摩居士を「仕事をする仏教者」とか「マーチャント・ブディスト」とか、もっと今風にいえば「仏教する仕事人」と言っていいかもしれません。
 このような維摩居士を主人公にした経典が『維摩経』です。
 経典ではあるけれど、ほとんどドラマ仕立てになっているレーゼドラマです。主人公がそうとう変わっていて、経典が読みやすいドラマ仕立てになっているのだから、このドラマはおもしろくないわけがない。半沢直樹なんてものじゃない。活殺自在なプロットとエピソードがいっぱい詰まっている。つまらない100冊の小説を読むなら、『維摩経』をゆっくり3度くらい読んだほうがずっと興奮するでしょう。
白隠による維摩居士
 どんな話になっているのか、あらかじめ『維摩経』の筋立ての眼目をバラしておきます。
 商人でありながら高徳の士であって、きっと高額の布施や喜捨を躊うことなくふるまってきたであろうに、決して出家しようとしない維摩居士が、このところ病気で臥せっているらしいというのです。
 そこでブッダが気になって、弟子たちに「私の代わりに居士のお見舞いに行ってほしい」と言う。むろん大師匠の言うことだから弟子は受けざるをえません。次々に見舞いの候補者がたてられます。
 ところが、最初の代役立候補になった舎利弗(しゃりほつ:シャーリプトラ)は、これを辞退した。苦手なことはしたくないと言うのです。苦手なこと? どうも意味がわからない。そこで次に大目連(だいもくれん:マハーモッガラーナ)に命じると、私もあの人を見舞うのはごめん蒙りたいと言う。それだけではなく次の摩訶迦葉(まかかしょう:マハーカッサバ)も須菩提(しゅぼだい:スブーティ)も、釈迦十大弟子のことごとくが苦りきって辞退するのです。
 いったいどういうことかとブッダが訝ると、みんなどこかで維摩居士にやっつけられた経験があるからだと言う。全員が痛い目にあっている。
 『維摩経』の前半4分の1くらいは、こうした弟子たちや菩薩たちが維摩居士に「やっつけられる過去の場面」を次々に紹介するのです。
 こうして、最後の最後に指名を受けた文殊菩薩(文殊師利:マンジュシュリー)が見舞いを引き受けます。天下第一の智慧を代表する文殊が行くならというので、これまで尻込みしていた連中も様子を見たくってついていく。そんな連中をぞろぞろ引き連れた文殊が維摩の家に行ってみると、居士の家はなんと“もぬけの殻”だった。
 どうも本人が病気だなんて、ウソだったようなのです。呆れる文殊に、ここでいよいよ登場してきた維摩がとんでもない弁才縦横の説法をしてみせる。そのやりとりが思いもかけないほどに、大胆でおもしろい‥‥。ざっとはこういうふうに話が展開していくのです。
興福寺の維摩居士像(左)と文殊菩薩坐像(右)
法隆寺五重塔の東面にある維摩居士と文殊菩薩との問答の場面
 維摩居士は漢訳名で、維摩詰(ゆいまきつ)ともいいます。本名(インド名)はヴィマラキールティ。それゆえ『維摩経』は「ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ」(Vimalakirti-nirdesá-Sûtra)という。
 長らくサンスクリット語の原本は紛失したままにあると思われていた経典なのですが、ごく最近の1999年7月、チベットのポタラ宮殿の一隅でサンスクリット原典の忠実な写本が、発見されました。ターラの木の葉(貝多羅葉、略して貝葉)79枚に墨で筆写されていた。
 大正大学総合仏教研究所の学術調査団が発見したものです。さっそくその翻訳にとりくんだ植木雅俊さん(1300夜)は「仏教史学上20世紀最大の快挙」と言っています。
 それまでは長らく鳩摩羅什(1429夜)の漢訳経典が、もっぱら日本人の信仰者や研究者が依拠する経典でした。羅什はサンスクリット語の「ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ」を「維摩詰所説経」と訳し、これが日本にも伝わったのです。聖徳太子に『維摩経義疎』があるのはその最も早い受容例ですし、その直後には斉明天皇が藤原鎌足の病いを平癒させるために、法明尼に『維摩経』問疾品を読誦させたという記録がのこっています。
 そのため鎌足はたちまち回復して、熱心な『維摩経』の信者となり、高僧の福亮を招いて維摩講義をさせた。これが「維摩会」(ゆいまえ)の最初で、以降は興福寺が10月10日からの7日間の維摩会の法会を開いています。
 ひるがえって鳩摩羅什の弟子だった僧肇(そうじょう)が、そもそも漢訳注釈の泰斗でした。『註維摩』を書いた。それから天台や三論や法相の中国仏教各宗派の大成者たちも維摩に浸って注釈しています。
 ぼくはなかでも、南朝の士大夫(したいふ)たちが「竹林の七賢」と維摩詰のイメージをだぶらせたあたりの顛末が興味深く、それが中国絵画史を画期した王維(おうい)をして「王摩詰」と名のらせた経緯となっていったところに、ひとつの維摩居士像の頂点を見ています。
維摩会と勅使『春日権現験記絵』巻第11部分
(陽明文庫蔵)※『興福寺国宝展』図録より
狩野芳崖による「維摩居士図」
 維摩居士という男がはたして実在したのかどうかはわかりません。おそらく近いモデルはいたはずです。リッチャヴィ族の長者の一人だったろうということまでは、歴史学上の見当がついています。
 だいたい『維摩経』は『般若経』よりもあと、『法華経』(1300夜)よりも前に編集著作された初期大乗仏典ですから、おそらく紀元1世紀くらいに原型ができて、そのあと100年ほどで完成形になったとみられます。ということはキリスト教の「新約聖書」の成立期とほぼ相前後していたということですが、大編集者パウロについての研究がだいぶん進んでいるようには、『維摩経』編集集団の詳しいことはさっぱりわかっていない。
 でも、舞台は古代インドのヴァイシャーリー(毘耶離)という町であって、維摩居士ことヴィマラキールティはその町に住むお金持ちの商人だったという設定になっていますから、まあ、紀元前1~2世紀あたりにそういうモデルに当たる人物がいたのだろうと思います。それがずっと噂や話題になって仏教徒のあいだであれこれ伝聞され、あるとき(この「あるとき」というのが重要ですが)、『維摩経』としてまとまった。
 ということは、経典にはブッダの十大弟子が維摩居士を訪ねたというふうに書いてあるものの、ブッダ没後のだいぶんあとの話だったわけです。このあたりは適宜、場所・時代・人物・因果関係を入れ替えて編集したのでしょう。なにしろ仏典の古代編集力は、その実態はまだわかっていませんが、できあがった経典群から見て、アジア随一のものなんです。
BC100〜AD299までの『情報の歴史』(NTT出版)
般若経から華厳経までの世界中の歴史の流れを一望できる。
 維摩居士が住んでいたというヴァイシャーリーという町は、現在の中インドのベンガル州パトナの北のベーサール付近に同定されます。
 ここは仏教史においても甚だ由緒あるところで、仏典の第2期結集(けつじゅう)がおこなわれました。ブッダ入滅から100年ほどのちのこと、紀元前5世紀前後のことで、この結集のあと、紀元前3世紀半ばにはアショーカ王が仏教に帰依して第3回の仏典結集がなされます。
 この第2回の仏典結集の前後、それまでの戒律(これを十事という)があまりに厳しすぎるので、ヴァイシャーリーの出家者たちがその緩和を要求しました。けれども戒律こそが仏道なんだと確信している連中は、そんなことを認めない。とくに高僧たちが許さない。よくあることです。
 そうこうするうちに、ブッダ教団は伝統を重んじる保守派の「上座部」(じょうざぶ)と、現実的で生活的な「大衆部」(だいしゅぶ)とに分裂します。これが仏教史上に有名な「根本分裂」ですが、その後も分派と分裂はもっと進み(枝末分裂)、初期仏教の結社の大半が「部派仏教時代」になります。
 こうしていわゆる「小乗仏教」が広まって、自己中心の解脱をめざす方向に初期仏教の全容が凝りかたまっていく。
ヴァイシャーリー(毘耶離)
古代インドの十六大国の1つヴァッジ国内にあった商業都市。
 しばらくたつと、時代社会というのはいつだってそういうものですが、どうもそれはおかしいんじゃないかという連中が出てきます。
 この新しい連中は、仏道というものは自分だけが救済されるのではなく、他者も一緒に救済するものなのではないか、修行だって自分のためだけではなく他人のためにおこなうのじゃないかと考えます。つまり「利他行」(りたぎょう)を主張する。そのほうが真の菩提(悟り)になると主張する。
 やがてこのような他者救済を唱える連中がだんだんふえて、その教えや行いを「菩提薩埵」(ボーディサットヴァ)と呼ぶようになります。「菩提」とは真の悟りのこと、それをやっているのが菩提薩埵、略していわゆる菩薩たちに当たります。この、他者を含む菩提を重視するムーブメントが「菩提乗」(菩薩道)で、そのことに矜持をもった連中が自らを「大乗」(マハーヤーナ)と呼称します。自分たちでそう名のったので、これに対してあいかわらず自己覚醒にこだわる部派仏教の連中を「小乗」(ヒーナヤーナ)と蔑称しました。
 こうして大乗仏教と小乗仏教とが分かれるのです。最近の仏教学は小乗仏教という名称が語弊があるというので部派仏教と呼んでいる。
仏教が伝播した流れ
 おそらく維摩居士は、こうした大乗仏教の勃興期の社会でそうとう目立っていた人物だったろうと思います。小乗と大乗のリミナルな分かれ目で目立ったのだろうと思います。
 それというのも、菩提乗はたとえば「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の「六波羅蜜」をまっとうするのを本来の活動の主旨とするのですが、維摩は在家にありながらも、この六波羅蜜に徹しているからです。六波羅蜜は六つの波羅蜜(パラミター)ということで、彼岸に到達するための六つの行目(ぎょうもく)です。“param”(彼岸)に“ita”(到った)という語源です。
 ところが、ここがおもしろいところなのですが、『維摩経』に次から次へと出てくる登場人物の多くも大半が菩薩たちで、当然ながら六波羅蜜をはじめとする彼岸修行をしてきたのに、それゆえのちのちの大乗仏教史を飾るほどのお歴々になったのに、それが維摩の前ではさっぱり立つ瀬がないのです。ウダツが上がらない。それどころか、仕事人でマーチャントな男にこてんぱんにやられ、その説教にほとほと聞きほれているのです。
 いったいなぜこんなふうになっているのか。維摩居士のどこが凄いのか。
 一言でいえば、矛盾を怖れていないからです。矛盾を「内」に感じるのではなく、「外」に使えるからです。
 矛盾というもの、よく見ればリバースモードになっています。行って来たり、入ったり出たり、表になったり裏になったりしている。それが絡まってどこかに止まってしまうのが矛盾です。だったらこれを内外に動かせばいい。
 ただしそうできるには、自分にも付着しているはずの諸矛盾を怖れていては、いけない。どうすればいいか。修行も大事だけれど、維摩は矛盾を怖れないだけでなく、自身の矛盾めく姿をあえて相手に見せるという方法に気がついたのです。
 維摩はこうすることによって、相手の立つ瀬の「瀬」や「際」をずばずば問うていくのです。自分の諸矛盾や弱さを平気で外に出し、それをもって相手に編集をかけるのです。そして、このときには容赦をしない。
 いったい維摩は相手に対してどんなふうにその「瀬」や「際」に迫るのか。『維摩経』を読む醍醐味は、その「瀬」や「際」をめぐる謎に擽られていくところにあります。
 『維摩経』は全部で14章立てになっています。仏典ではチャプターのことを古来から「品」(ほん)と訳してきたので、14品。長い経典ではありません。読み出すとあまりにおもしろくて、息継ぐ暇なくあっというまに読めるはずです。とりあえず構成一覧を示しておくと、次のようになっています。
 1「仏国品」(ぶっこくほん)
   ‥‥ブッダの集会説法。「理想の国土」(仏国土)
     とは何かが説かれる。
 2「方便品」(ほうべんほん)
   ‥‥維摩居士の話題に入るのだが、
     本人は病気らしくて登場してこない。
 3「弟子品」(でしほん)
   ‥‥ブッダの弟子たちが維摩の見舞いを断った
     経緯をいろいろ説明する。
 4「菩薩品」(ぼさつほん)
   ‥‥弥勒や宝積らの菩薩たちも尻込みをして
     しまった理由をいろいろ説明する。
 5「問疾品」(もんしつほん)
   ‥‥いよいよ文殊が見舞いに行って維摩居士
     との切磋琢磨の問答の火花を散らせる。
 6「不思議品」(ふしぎほん)
   ‥‥維摩による大胆な「無限定の限定」という
     解脱感覚論が披露される。
 7「観衆生品」(かんしゅじょうほん)
   ‥‥なんとジェンダーを超えて天女や女身を
     論じたりして、「人間」の意味が見えてくる。
 8「仏道品」(ぶつどうほん)
   ‥‥矛盾がこびりついた煩悩とそれを解きほぐす
     菩薩の意味があきらかになっていく。
 9「入不二法門品」(にゅうふにほうもんほん)
   ‥‥ついに語られる「不二の哲学」のリバースモード
     と恐るべき「維摩の一黙」。
 10「香積仏品」(こうしゃくぶつほん)
   ‥‥超菩薩のキャラクタリゼーションをめぐって
     メタファーがいろいろ駆使される。
 11「菩薩行品」(ぼさつぎょうほん)
   ‥‥これまで見舞いに行った連中が一人ずつ
     本音の感想を述べていく。
 12「見阿閦仏品」(けんあしゅくぶつほん)
   ‥‥自己と他者をめぐる真実の見方が語られ、
     維摩の正体が暗示される。
 13「法供養品」(ほうくようほん)
   ‥‥世界にひそむ因縁の本質の説明がなされ、
     天帝から大絶賛を受ける。
 14「嘱累品」(しょくるいほん)
   ‥‥ふたたびブッダが登場して、
     かくてなにもかもが大団円へ。
 これでだいたいの流れがわかるでしょうが、このうちの第4品までを序分、後半を正宗分(しょうしゅうぶん)といいます。文殊がご一党を引き連れて居士の家を訪れた第5「問疾品」からが正宗分というメインディッシュです。
 かんたんなドラマの仕立てとテーマ展開をかいつまんでおくと、冒頭の1「仏国品」はかなりおおげさです。仏典はどんな経典(スートラ)も開闢シーンがたいていおおげさで、あまり本気で読まないほうがいい。ハリウッド・アドベンチャーの冒頭シーンだと思って、お気楽に読めばいい。
 『維摩経』もヴァイシャーリーのアームラパーリー(菴羅樹園)の一角にどっかと坐ったブッダ(世尊)が、8000人の大比丘衆と32000人の菩薩を前に説法をしているという、一大ページェントから始まります。サッカー場か野球場並の群衆のごとく阿羅漢たちが集まったというべらぼうな話ですが、むろんそんなことはない。大きくケタを変えてある。菴羅樹園はマンゴーの森のことです。
 そこへ宝積(ほうしゃく)菩薩がしずしずとあらわれて、長者が多いリッチャヴィ族の500人の若者たちとともに日傘を捧げてブッダに供養します。すると、ブッダがたちまち500の傘を一つの巨きな傘に変じるという幻術のようなことをおこす。これも仏典にはよくあるマジックショーのようなもので、インド人特有の針小棒大な光景の描写によって、これからおこることが有り難いことなのだと知らせているわけです。いまでも東京ドームや武道館のイベントの開幕シーンで見せていることです。今夜の紅白歌合戦もそういう演出でしょう。
 こうして仏国土とは何か、理想の世界とは何かという説法がじょじょにくりひろげられ、ブッダは理想世界の建設のためには「直心・深心・菩提心」という三心が肝要だと言います。三心だけでなく、六度、四無量心、四摂法(ししょうぼう)、十善など、次々に九行ものメルクマールを説く。これらを認識して実行すれば、世界は浄化されて浄土になると言うのです。
刺繍釈迦如来説法図
 しかし、こんなことばかり並べられても、まさにお題目ばかりでよくわからない。実際にも舎利弗(シャーリプトラ)がブッダに質問をします。世尊はそんなことをおっしゃるが、この世界は浄土どころか穢土(えど)ばかりではないですか。これは矛盾しているのではないか。
 ちなみに実際の歴史上の舎利弗は釈迦十大弟子のトップを切る者で、ブッダよりも年長者だったためブッダの後継者になるだろうと期待されていたのですが、先に死んでしまいます。だからこの場面では、舎利弗はまだ悟りを開けないでいる段階の舎利弗ということで、小乗仏教が好きな声聞(しょうもん)の立場から質問しているという設定になっています。
 ともかくも、このように舎利弗は正直な質問をしたのですが、ブッダはこのとき自分の足指で地面をほぐして、三千大千世界を無数の宝飾でキラキラに輝かせましたとあって、ほかには何ら説得力がない。
舎利弗像(しゃりほつぞう) 乾漆造 彩色 奈良時代 像高 152.7cm
釈迦は舎利弗には一目置き、弟子の中でも上首に置きます。学問と徳行にすぐれ、人々の教化に努め、智恵第一の人と称されました。
 そこで『維摩経』は2「方便品」に移ります。ここはやっと維摩居士の姿があらわれるはずの章なのですが、実際に登場してくるのではなく、維摩がどういう人物なのか、その噂が語られるだけなのです。たいへん巧みな編集です。
 こんなふうです。「毘耶離城に長者にして維摩詰と名づくる者あり。かつて無量の諸仏を供養して、深く善本を植え、無生忍(むしょうにん)を得て弁才無碍なり。神通に遊戯(ゆげ)し、もろもろの総持を逮して無所畏を得て、魔の労怨を降(くだ)す。深法(じんぽう)の門に入り、智度をよくし、方便に通達し、大願成就す」。
 ニーチェ(1023夜)に『この人を見よ』という快著がありますが、まさにこの章は「この人を見よ」というふうになっている。維摩というとんでもない在家の仏者がいる、その男はいまは病気で臥せっているのでこの場には姿を見せられないが、これこれしかじかの凄い男なのだということが語られるのです。
 それにしてもやっと維摩が出てきたのに、その姿がなく、病気の維摩を通してその偉大がヴァーチャルに語られるのは、意外です。なぜこんなふうになっているかというと、これは維摩の方便なのです。作戦であり、魂胆なのです。
 というわけで、ここからはブッダが次々に弟子たちを見舞いに行かせようとする3「弟子品」、続いて菩薩たちを行かせようとした4「菩薩品」というふうになっていきます。
 しかし、さきほども紹介したように、全員がことごとく維摩に恐れをなして辞退してしまうことになる。これまたまことに奇妙な展開です。奇妙な展開だけれど、その理由を各自が次々に述べるという構成になっているので、その各自の体験報告から「見えない維摩」の驚くべき弁才無碍がしだいに立ち上がってくるようになっていきます。憎い編集構成です。
 たとえば、かつて維摩は大目連には「法(ダルマ)を説くなら混じりっけなしでいきなさい」と言い、摩訶迦葉には「かっこつけて貧者ばかりを応援するな」と言ったらしいのです。貧者ばかりというのは、慈悲心を示すために富者を避けて貧しい者ばかりのところで説法しているという批判なのですが、これはかなりきつい批判です。維摩は偽善を許さない。そんなことでメセナやCSRをやっていると思いなさんなよ、それより矛盾を吐き出しなさい、という勢いです。
 須菩提には、君は行乞(ぎょうこつ)をしているようだが、本気で物乞いするのなら君自身が落魄しなければいけないと諭したようです。これもかなりのパンチアウトです。そして、かの弥勒菩薩に対してさえ、あなたは未来の世でブッダ(覚者)になることを約束されているようだが、ではいったいその悟りのモデルはどこから得たものなのか、それが過去だと言うなら、未来とは何かと問い、弥勒を困らせたらしい。
呉道玄による維摩詰
 こういうことをみんながかつて維摩から言い渡されたので、それで誰もが怖じけづいてしまったのでした。
 ぼくが気にいっているのは光厳童子のエピソードです。光厳童子が毘耶離の大城を出ようとしたとき維摩に出会ったので、「どこからいらしたのですか」と訊いたところ、「道場からやってきた」と答えた。そのころ道場といえばブッダガヤの道場のことだから、ずいぶん遠いところからお見えになったのですねと訝ったところ、維摩は「どこもかしこも道場だ」と答えたというのです。まさにその通り。ジンセー、どこもかしこも道場です。
 このたぐいの話が次から次へと提示されるのですが、読めば読むほど引き込まれるとともに、維摩とはどんな男なのか、好き勝手を言っているだけじゃないか、実はそれほどたいした男じゃないのではないか、これで大乗仏教や菩薩道を説明することになるのだろうかとか、それにしてもつねに大胆不敵で、電光石火の問答を切り結むものだとか、いろいろ興味や疑問や期待が沸いてきます。
「人生が道場だ」
『維摩経講話』(鎌田茂雄著)より
 こうして4「問疾品」で、いよいよ最後の切り札の文殊菩薩が満を持して見舞いに行くということになるのですが、行ってみたら、なんと仮病だった、維摩はウソをついていたという意想外の事態が待っていたわけです。
 『維摩経』のレーゼドラマ全篇の進行を劇的なものにしているのは、この、病気で臥せっている維摩のところへ見舞いに行ったところ、それが仮病だったという最初のどんでん返しです。これですべてが劇的効果満点になっていく。これ、「伏せて、開ける」というぼくが大好きなやりかたでした。
 はたしてヴァイシャーリー(毘舎離)にいた維摩が実際にもそういう手を使ったのか、それとも仏典のハイパーエディターたちがそのように脚色したのかははっきりしませんが、おそらくは似たようなことがあったのだと思います。
 利休が秀吉に「庭の朝顔がみごとに咲いています。どうぞ明日の朝茶へお越しください」と言って、秀吉が行ってみたところ、その朝顔が全部ちょん切られていた。ムッとした秀吉が躙口(にじりぐち)から入ってみると、薄暗い茶室の床に一輪だけ朝顔が活けられて光輝くようであったという、あの話に通じる劇的効果です。いや、価値の本来を気付かせる方便です。
 この仮病の仕立てによって、維摩が文殊と問答をする「際」が俄然切り立ってきて、「問疾品」がぐいぐい迫ってくるのです。
文殊菩薩(莫高窟壁画)
 文殊との問答には、ぼくもいろいろヒントをもらいましたが、そのひとつは維摩が文殊に「不来の相にして来たり、不見の相にして見る」と言った場面です。
 これは文殊がたくさんの連中を引き連れてやってくるというので、部屋という部屋をからっぽにしておいて、ひとつだけ寝台をのこしてそこに悠然と横たわっていたので、文殊たちがびっくりしたとき、言い放った言葉です。
 維摩は「文殊たちよ、よく来たね。諸君は来ないで来て、見ないで見ているのだよ」と言ったのです。まったく怖いことを言うものです。ところがその意味が一同にはわからない。ついつい「なぜ部屋はからっぽなんですか」とか、「椅子ひとつないのはどうしてですか」と聞かざるをえなかった。
 すると維摩は「君たちは椅子がほしくて来たのか」「からっぽなのはこの部屋だけか」と強い問答を強いてくる。これにはみんなギャフンです。
 しかし、そう言われれば、そうなのです。誰も椅子に坐るために来たのではなく、維摩の話を聞きたくて来たのだし、部屋がからっぽだからといって維摩居士がそこにいればそれでいいはずでした。
 それにからっぽなのは、その部屋のことだけであるはずもない。からっぽは、どこにでもありうる。ブッダはとっくに「諸行無常、諸法無我」と言っていたのです。しかし菩薩たちは維摩を前にしては、そこをそのように単刀直入できないでいるのです。
 かくて維摩はここで「空」とはどういうものか、「席」とはどういうものかを説明する。たんにその主題を訳知りに論じるのではなく、まさに目の前で「空の部屋」「なくなっている席」を見せたうえでの菩薩道の議論です。『維摩経』はここに大乗仏教最大のテーマである「空」をとりあげたのです。
 それでも文殊たちは、まだどうしてもわからないことがある。それは、なぜ維摩が仮病の手をつかったのかということです。そこで維摩は、病気が真実か虚偽かをどこで決めるのかを問います。そもそも虚妄に陥る心だって病気かもしれないのです。実際、現代の精神病理学ではそうした虚妄を精神病とみなしている。つまり、病気は誰かが決めた席の症状にすぎないのです。
 こうして維摩は菩薩たちに「客塵煩悩」(かくじんぼんのう)を説き、諸君の心の中ですべての塵(矛盾)を“客なるもの”とみなせば、ふだんから煩悩から離れられるはずなのだと言い放つのです。
維摩居士(莫高窟壁画)
 以降の『維摩経』でも、ぼくが気にいっているところは幾つもあるのですが、とりわけ6「不思議品」と9「入不二法門品」が白眉です。
 『維摩経』が説いていることを仏教学的に集約すると、「空」と何か、「不可思議解脱」とは何か、「不二法門」とは何か、という3点に尽きています。そのうちの最大のテーマ「空」(空観)については、つまり大乗仏教がおこった最大のエンジンとなった「空」については、一応は『空の思想史』(846夜)や『大乗とは何か』(1249夜)にも千夜千冊してみたので、いまは省きます。
 そのかわり今夜は諸君を「不可思議解脱」と「不二法門」に向けて大晦日の行方知れずを誘い、除夜の鐘とともにおわりたいと思います。
 6「不思議品」のドラマは「問疾品」を受けて、舎利弗との「椅子」と「席」をめぐる議論に始まり、維摩が「無住」また「本来無住」を示唆すると、そもそも師子座とはどういうものかと問うところから、一気に加速します。
 師子座というのは古代インドで国王や貴人や高僧が坐る台座のことですが、仏教ではブッダの座をさします。それならば、このブッダの座はいつからあったのか。ブッダがいたからその座になったのか、だったらそのブッダはいつから覚悟していたのか。
 いろいろ推理してみると、この座は前世のブッダが雪山童子と呼ばれていたころから想定されていたというふうになります。しかし、過去にそういう座が物理的にあったわけではない。そうだとすると、師子座は何かの想定の中にあるもので、それが現在まで続いている。その想定には五蘊(ごうん)や三界や十二処や十八界がくっついているはずですから、現在まで引っ張ってくるうちに、これは世界大というものになるわけです。たんなる「椅子」なんて、どこにもないのです。
 ということは、何かを悟るということ、すなわち解脱(げだつ)するということは、このように部分をあまねくものの想定にすることができるかということにほかならず、それはさまざまなことが同事=同時であるように自身を仕向けることなのです。
狩野福信(洞春)による「中維摩居士・雲龍図」
 仏教では四摂法(ししょうぼう)といって、布施・愛語・利行・同事を重視します。布施は与えること、愛語は優しい言葉、利行は思いやりの行為、そして同事は相手と同じ立場に入って何かの先に導くことをいう。
 この同事を同時におこすべく、仏道では六波羅蜜を研ぎ澄まし、顛倒(てんどう)がいつでもおこるように準備し、あたかも芥子の中に須弥山を入れてしまうかのように、どんな部分と全体の関係も、どんな過去と現在の関係も、自在にリバース観相できるようにするわけです。それを維摩はふわりと「不可思議解脱」と呼ぶのです。
 『維摩経』にはこう書かれています。「諸仏菩薩に解脱あり。不可思議と名づく。もし菩薩、この解脱に住すれば、須弥の高広を以て芥子の中に入るるに増減するところなし」。どんなに部分と全体を入れ替えても、そこには不可思議という「不」が関与して、万事平気になるものだというのです。
 ひるがえって、維摩の仮病もからっぽ作戦も「不」の介在に果敢であったということなのです。かくして、ここから「不二法門」へ話がとんでいく。
「維摩図」東朱
栃木県立博物館所蔵
 われわれはつねづね精神と物質とか、生と死とか、黒白つけるとか、組織と個人のどちらを優先するとか、現実感と想像力をくらべるとか、勝ち組と負け組に分けるとか、罪と罰、優美とがさつ、思慮と行動、「きれい」と「ぶさいく」とか、都会と田舎とかとか、理系と文系とかとか、何であれ二つのものを対立させて見がちです。ダイコトミー(二分法)です。
 対立して見ているうちに、どちらかに加担しすぎたり、その絡みぐあいに巻き取られます。これが新たな矛盾や葛藤になって自分を襲ってくるのですが、仏教ではこれを「分別」と呼んで要注意に扱っている。
 当然、われわれの思惟や思考は世の中向けになっていますから、ふだんの基本活動は分類的にできていて、それゆえ物事や仕事を進めるには分別知は欠かせないのですが、だからこそ法や科学やスポーツなどの勝負事が確立してきたのですが、とはいえ、そのどちらかが絶対化される必要はないはずです。そもそも分別は「差別」(しゃべつ)だったのです。
 ですから二分法的に物事や仕事を考えていくと、どうしてもそのどちらかを選択するだけになります。この分別にのみ陥ってしまうところから抜け出るにはどうすればいいのか。ここをあえて高次に脱出しようというのが維摩の言う「不二法門」という方法です。二つのものをダイナミックな一つのものの動きやはたらきと見るのです。高次に見るというのが維摩の眼目です。
王振鵬による「維摩居士と不二法門の説法」
(Vimalakirti and the Doctrine of Nonduality)
 維摩は不二法門の一挙的把握のための例示や比喩や説得などを、9「入不二法門品」だけではなく、『維摩経』のそこかしこでぶっとばすがごとくに連打します。これが禅問答めいていてたいへん痛快なのです。
 たとえば、健康と病気。これも二分です。むろん健康であることや「亭主元気で留守がいい」のがいいに決まっているようですが、では健康であろうとしてそれに囚われるのはどうか。病気だからといって落胆してしまうのはどうか。
 ぼくの体験からしても、病気や手術はいろいろなことを気付かせてくれました。だから健康がマルで、病気がバツとは言えない。そのどちらでもありうるところにいるといい。これはまさしくリバース・エンジニアリングの高次編集状態が必要なのです。こういうとき維摩は、健康でも病気でもない「不二法門」に入ると言うのです。
「維摩居士図」狩野山雪筆 福井・善導寺
 不二法門は、いいかえればコンティンジェントであるということです。コンティンジェントとは「別様の可能性をもっている」ということですから、二者択一を超えているのです。
 またたとえば、仕事がうまくいくか、いかないか。これを売上高でみればコトの黒白が決まるけれど、スタッフの働きぐあいやクライアントの学習ぐあいからすると、成功とも言えないし、失敗とも言えない。そういう仕事はしょっちゅうあります。でも、これを最初から効率のいい仕事ばかりを前提にしてしまうと、すべてがルーチン化して、市場や技術の動向による転換ができなくなりかねない。
 こういうとき、あらかじめ不二法門に入っておいて、そこから次を窺うようにする。そのほうがずっと高次になっていく。
 不二とは「2にあらず」ということです。2ではないというのは、2になったら1に戻るか、もっと多くの数に入ってそこから「不二」という新たな自信をもつか、それともふだんから2が来たら、どんな2も1、1というふうに、別の2が来たらそれも1、1と見るようにするか、このどれかです。
 三浦梅園(993夜)はそこを「一即一一」と言った。1の中にいつも1、1を見た。これはものすごい見方です。反観合一という高次な方法です。維摩のやりくちもこの方法に近い。次のように言います。
 「世間と出世間とを二となす。世間の性として空なる、すなわちこれ出世間なり。その中において、入らず、出でず、溢れず、散ぜざる、これを不二法門に入るとなす」。「生死(しょうじ)と涅槃とを二となす。もし生死の性を見れば、すなわち生死なし。縛なく解なく、生ぜず滅せず。かくのごとく解せば、これを不二法門に入るとなす」。「有所得の相を二となす。もし無所得ならばすなわち取捨なし。取捨なきもの、これを不二法門に入るとなす」。
 この3つ目の言い分は、われわれはついつい報酬を求めることで何かをなそうとしているが、「取」と「捨」を同一の次元にとらえる高次な立場に立てば、取捨の区別なく、したがって報酬と無報酬を超えられるはずだというのです。
 かつて幸田露伴(983夜)は『閑窓三記』に「捨」というエッセイを綴り、「取ることを知りて、捨つることを知らぬは、大いなる過ちなり」と記しました。さすが、古典日本と近代日本を分割しなかった露伴です。
三浦梅園による「一二精麁図(麁=粗)」
 不二法門については、文殊もこう言います。「我が意の如くんば、一切の法において言(ごん)もなく、説(せつ)もなく、示(じ)もなく、識(しき)もなし。これら諸々の問答を離るる。これを不二法門に入るとなす」。
 これは不二に入るには、まず守って、次にこれを破って、さらにそこから離れるという「守・破・離」に似たことを説明しています。しかし、文殊の理解は不二のために言語からも離れようとしている。言語を離れるために言語を用いた。これは不二なのか、不二ではないのか。
 のちの経典『大乗起信論』では、絶対の真如は言葉で解くことはできないが、「言説(ごんせつ)の極、言(ごん)に依って言(ごん)を遣(や)る」と説明します。ぼくも30代半ばに、『遊学Ⅰ』(中公文庫)に「言葉から出て言葉へ出る」と書きました。道元(988夜)についての文章でうっすら見えたことでした。
 では、では、そこで維摩はどうしたかというと、これこそ『維摩経』全篇のなかで最も有名な場面になるのですが、悠然と、黙っていたのです。ただ黙したのです。一堂は凍りつきました。これが後世に有名な「維摩の一黙、響き雷の如し」と言われてきた、驚くべき結末です。
「維摩一黙(ゆいまいちもく)」(平櫛田中作)
足立美術館収蔵
 維摩居士は一黙した。たんに沈黙したのではありません。一黙という凝然不動を見せたのです。鈴木大拙(887夜)はこれをずばり「維摩拠坐」と名付けたものでした。座禅の境地と同じだというのです。
 いやいや、たいへんな結末です。こういうところが維摩居士という男の変なところであり、不抜にものすごいところなのです。ぼくはそういう維摩にコンティンジェント・モデルを感じてきたのです。
 以上、大晦日の告解でした。維摩居士が「仏教する仕事人」であったことに、すべてのヒントがあります。ぼくもそんな居士でありたいとも思っています。それでは、諸君、くれぐれもよい年を迎えてください。そして一黙。あけましておめでとうございます。

⊕維摩経⊕
∃ 訳注:長尾雅人(ながお・がじん)
∃ 発行者:中村仁
∃ 発行所:中央公論新社
∃ 印刷:三晃印刷
∃ 製本:小泉製本
⊂ 1983年7月10日 第1刷発行
⊗ 目次情報 ⊗
∈ 一 仏国土の清浄
∈ 二 考え及ばぬほどに巧みな方便
∈ 三 弟子たちと菩薩たちの病気見舞い
∈ 四 病気の慰問
∈ 五 不可思議解脱の法門
∈ 六 天女
∈ 七 如来の家系
∈ 八 不二の法門にはいる
∈ 九 仏陀の食事をもらう
∈ 十 有尽と無尽という法の贈り物
∈ 十一 妙喜世界と無動如来
∈ 十二 過去の物語と法の委嘱
∈∈ 訳注 
∈∈ 解説 
⊗ 著者略歴 ⊗
長尾雅人(ながお・がじん)
明治40(1907)年、仙台市に生まれる。京都帝国大学文学部哲学科卒業。京都大学名誉教授。文学博士。学士院会員。昭和34(1959)年、学士院賞受賞。昭和40(1965)~41(1966)年、ウィスコンシン大学招聘教授。著書に『蒙古學問寺』『西蔵仏教研究』『梵文中辺分別論釈』などがあり、学位論文「中観哲学の根本的立場」のほか、「転換の論理」その他多数の論文がある。

2016年9月16日金曜日

元号と西暦

645年=大化元年 藤原鎌足ら蘇我入鹿暗殺
650年=白薙元年 663年.白村江の戦
686年=朱鳥元年 672年.壬申の乱        ↓
701年=大宝元年 694年.藤原京        1125年=天治元年
704年=慶雲元年               1126年=大治元年
708年=和銅元年 710年.平城京        1131年=天承元年
715年=霊亀元年               1132年=長承元年
717年=養老元年               1135年=保延元年
724年=神亀元年               1141年=永治元年
729年=天平元年               1142年=康治元年
749年=天平勝宝元年 751年.カロリング朝   1144年=天養元年
757年=天平宝字元年             1145年=久安元年
765年=天平神護元年             1151年=仁平元年
767年=神護景雲元年             1154年=久寿元年
770年=宝亀元年               1156年=保元元年
781年=天応元年               1159年=平治元年 1159年.平治の乱
782年=延暦元年 794年.平安京        1160年=永暦元年
806年=大同元年               1161年=応保元年
810年=弘仁元年               1163年=長寛元年
824年=天長元年               1165年=永万元年
834年=承和元年 835.年空海没        1166年=仁安元年
848年=嘉祥元年               1168年=嘉応元年
851年=仁寿元年               1171年=承安元年
854年=斉衡元年               1175年=安元元年
857年=天安元年               1177年=治承元年
859年=貞観元年               1181年=養和元年
877年=元慶元年               1182年=寿永元年
885年=仁和元年               1186年=文治元年
889年=寛平元年               1190年=建久元年 1192年.鎌倉幕府
898年=昌秦元年               1199年=正治元年
901年=延喜元年               1201年=建仁元年
923年=延長元年               1204年=元久元年
931年=承平元年               1206年=建永元年
938年=天慶元年               1207年=承元元年
947年=天暦元年               1211年=建暦元年
957年=天徳元年               1213年=建保元年 1215年.マグナカルタ
961年=応和元年 962年.神聖ローマ帝国    1219年=承久元年
964年=康保元年               1222年=貞応元年
968年=安和元年               1224年=元仁元年
970年=天禄元年               1225年=嘉禄元年
973年=天延元年               1227年=安貞元年
976年=貞元元年               1229年=寛喜元年
978年=天元元年               1232年=貞永元年
983年=永観元年               1233年=天福元年
985年=寛和元年               1234年=文暦元年
987年=永延元年               1235年=嘉禎元年
995年=永祚元年               1238年=暦仁元年
990年=正暦元年               1239年=延応元年
995年=長徳元年               1240年=仁治元年
999年=長保元年               1243年=寛元元年
1004年=寛弘元年              1247年=宝治元年
1012年=長和元年              1249年=建長元年
1017年=寛仁元年              1256年=康元元年
1021年=治安元年              1257年=正嘉元年
1024年=万寿元年              1259年=正元元年
1028年=長元元年              1260年=文応元年
1037年=長暦元年              1261年=弘長元年
1040年=長久元年              1264年=文永元年 1274年.元寇
1044年=寛徳元年              1275年=建治元年
1046年=永承元年              1278年=弘安元年 1281年.元寇2
1053年=天喜元年              1288年=正応元年
1058年=康平元年              1293年=永仁元年
1065年=治暦元年              1299年=正安元年 1299年.オスマントルコ
1069年=延久元年              1302年=乾元元年
1074年=承保元年              1303年=嘉元元年
1077年=承暦元年 1077年.カノッサ事件   1306年=徳治元年
1081年=永保元年              1308年=延慶元年
1084年=応徳元年              1311年=応長元年
1087年=寛治元年              1312年=正和元年
1094年=嘉保元年              1317年=文保元年
1096年=永長元年 1096年.第一回十字軍   1319年=元応元年
1097年=承徳元年              1321年=元亨元年
1099年=康和元年              1324年=正中元年 1324年.マルコポーロ没
1104年=長治元年              1326年=嘉暦元年
1106年=嘉承元年              1329年=元徳元年
1108年=天仁元年              1331年=元弘元年 1333年.鎌倉幕府滅亡
1110年=天永元年              1334年=建武元年
1113年=永久元年              1336年=延元元年 1337年~百年戦争
1118年=元永元年              1340年=興国元年 1338年.南北朝時代~
1120年=保安元年              1346年=正平元年 1368年.明成立
       →               1370年=建徳元年
                       1372年=文中元年
                       1375年=天授元年
                       1381年=弘和元年
                       1385年=元中元年
                       1393年=明徳元年 1392年.李氏朝鮮
                       1394年=応永元年 1392年.室町幕府
                       ↓ 

1400年=応永7年  1400年頃.グーテンベルク生
1428年=応永35年
1428年=正長元年
1429年=正長2年
1429年=永享元年  1431年.ジャンヌダルク処刑、1432年.太田道灌生、北条早雲生
1441年=永享13年
1441年=嘉吉元年
1444年=嘉吉4年
1444年=文安元年
1449年=文安6年
1449年=宝徳元年
1452年=宝徳4年  1453年.百年戦争終結
1452年=享徳元年  1451年.コロンブス生、1452年.ダヴィンチ生
1455年=享徳4年
1455年=康正元年  1455年~ばら戦争
1457年=康正3年
1457年=長禄元年
1460年=長禄4年
1460年=寛正元年
1466年=寛正7年
1466年=文正元年
1467年=文正2年  1467年.応仁の乱始まる
1467年=応仁元年  1468年.グーテンベルク没
1469年=応仁3年
1469年=文明元年  1483年.ルター生、1486年.太田道灌没
1487年=文明19年
1487年=長享元年
1489年=長享3年
1489年=延徳元年  1488年.ディアズ喜望峰到達
1492年=延徳4年  1492年.イスラムを駆逐しスペイン統一
1492年=明応元年  1494年.斉藤道三生、1497年.毛利元就生
1500年=明応9年  1498年.ガマのカリカット到達
1501年=明応10年
1501年=文亀元年
1504年=文亀4年  1506年.コロンブス没、1517年.宗教改革始まる
1504年=永正元年  1519年.ダヴィンチ没、1519年.北条早雲没、今川義元生
1521年=永正18年  1522年.マゼラン部下世界一周
1521年=大永元年  1521年.武田信玄生、1522年.三好長慶生、1526年.蜂須賀小六生
1528年=大永8年  1524年.ドイツ農民戦争
1528年=享禄元年  1530年.上杉謙信生
1532年=享禄5年
1532年=天文元年  1534年.織田信長生、1536年.豊臣秀吉生、1542年.徳川家康生
1555年=天文24年  1543年.鉄砲伝来、1546年.ルター没、1549年.ザビエル来日
1555年=弘治元年  1556年.斉藤道三没
1558年=弘治4年  1564年.シェークスピア生
1558年=永禄元年  1560年.今川義元没、1564年.三好長慶没
1570年=永禄13年  1562年~1598年.フランスユグノー戦争
1570年=元亀元年  1571年.毛利元就没、1573年.武田信玄没、室町幕府滅亡
1573年=元亀4年  
安土桃山時代
1573年=天正元年  1578年.上杉謙信没、1582年.本能寺の変、1586年.蜂須賀小六没
1592年=天正20年  1581年.オランダがスペインから独立、1590年.秀吉天下統一
1592年=文禄元年  1588年.スペイン無敵艦隊イギリス海軍に敗れる
1596年=文禄5年  1592,1597年朝鮮出兵
1596年=慶長元年  1598年.豊臣秀吉没
1600年=慶長5年  1603年.江戸幕府
1615年=慶長20年  1614年.大阪冬の陣、1615年.大阪夏の陣
江戸時代
1615年=元和元年  1616年.徳川家康没、1618年.ドイツ30年戦争勃発
1624年=元和十年  1616年.シェークスピア没
1624年=寛永元年  
1644年=寛永21年  1644年.明滅亡
1644年=正保元年  1643年.類4世生、1644年.松尾芭蕉生
1648年=正保5年  1648年.ウェストファリア条約
1648年=慶安元年
1652年=慶安5年
1652年=承応元年
1655年=承応3年
1655年=明暦元年  
1658年=明暦4年
1658年=万治元年
1661年=万治4年
1661年=寛文元年  1661年.清中国統一
1673年=寛文13年
1673年=延宝元年
1681年=延宝8年
1681年=天和元年
1684年=天和3年
1684年=貞享元年  1685年.バッハ生
1688年=貞享4年  1688年.イギリス名誉革命
1688年=元禄元年  1694年.松尾芭蕉没
1700年=元禄12年
1704年=元禄16年
1704年=宝永元年
1711年=宝永8年
1711年=正徳元年  1715年.類4世没
1716年=正徳6年
1716年=享保元年  1716年.徳川吉宗8代将軍就任
1736年=享保21年  1724年.カント生
1736年=元文元年  1740年.マリア・テレジア生、フリードリヒ大王生
1741年=元文6年  1740~48年.オーストリア相続戦争
1741年=寛保元年
1744年=寛保4年
1744年=延享元年
1748年=延享5年
1748年=寛延元年  1750年.バッハ没
1751年=寛延3年  1756~63年.オーストリアプロシア七年戦争
1751年=宝暦元年  1756年.モーツアルト生、1760年.葛飾北斎生
1764年=宝暦13年
1764年=明和元年  1769年.ナポレオン生
1772年=明和9年  1776年.アメリカ独立宣言
1772年=安永元年  1780年.マリア・テレジア没
1781年=安永9年  1786年.フリードリヒ大王没
1781年=天明元年
1789年=天明9年  1789年.フランス革命
1789年=寛政元年  1791年.モーツアルト没
1800年=寛政11年
1801年=寛政12年
1801年=享和元年
1804年=享和4年  1804年.カント没
1804年=文化元年  1814年.ウィーン会議
1818年=文化15年
1818年=文政元年  1821年.ナポレオン没、1825年.スチブンソン汽車
1830年=文政13年
1830年=天保元年  1830年.西郷隆盛生、1840年.アヘン戦争
1844年=天保14年
1844年=弘化元年
1848年=弘化4年  1853年.ゴッホ生、クリミア戦争
1848年=嘉永元年  1849年.葛飾北斎没、1853年.ペリー来航、
1854年=嘉永7年
1854年=安政元年  1857年.セポイの反乱
1860年=安政6年
1860年=万延元年
1861年=万延元年
1861年=文久元年  1863年.リンカーン奴隷解放令
1864年=文久4年
1864年=元治元年
1865年=元治2年
1865年=慶応元年  1867年.ええじゃないか
1868年=慶応4年  1866年.版籍奉還、1868年.戊辰戦争
それ以降
1868年=明治元年  1871年.廃藩置県、1877年.西郷隆盛没、1879年.沖縄県強制設置
1900年=明治33年  1871年.パリ・コミューン
1912年=明治45年  1890年.ゴッホ没
1912年=大正元年  1914年.第一次世界大戦勃発
1926年=大正15年  1917年.ロシア革命
1926年=昭和元年  1947年.日本国憲法施行
1989年=昭和64年
1989年=平成元年
2000年=平成12年
2009年=(=`(∞)´=)

なお、旧暦は一ヶ月程遅くずれているので、西暦と元号が一部合わない
所もあります。例えば、旧暦の12月は西暦の翌年の1月になっているので、
その間に元号の変更があった場合は、西暦の方に合わせてあります。

2016年9月12日月曜日

坐禅儀

http://www.teishoin.net/zazen/zazengi.html

「思量 箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の要術なり。坐禅は修禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり」
 この巻は「寛元元年十一月越前吉田郡吉峰寺にて説示」とあります。この巻は坐禅について具体的にその儀規について説かれたものであります。この一節の意味はおよそ坐禅をするとき心に思うことは、それはあれこれと考え巡らす以前の心境、有無の差別観を超越した境地を現成することであります。そのような境地とはどのようにして達成するのかといえば、妄想雑念を離れ、身心脱落して、本来の自己を現成することである。これがすなわち坐禅の心構えであります。坐禅というのは、悟りを得るための手段として、訓練修行するものではありません。それはそのままが大安楽、つまり涅槃、寂静、解脱そのものであります。なんのまじりけもなき修行であり、それが証そのものであります。


坐禅儀の所作

參禪は坐禪なり。
坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、
雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。
かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれら
みな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、
晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。

諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。
心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、
坐臥を脱落すべし。

飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪
をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。

坐禪のとき、袈裟をかくべし、蒲團をしくべし。蒲團は全跏にしく
にはあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。しかあれば、
累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。
これ佛佛祖祖の坐禪のとき坐する法なり。

あるいは半跏趺坐し、あるいは結果趺坐す。結果趺坐は、みぎのあし
をひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。
あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。
半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。
 衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。
左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。
兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。
ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし。


 正法眼蔵九十五巻の中には坐禅についての巻が数巻あります。例えば坐禅儀の他に坐禅箴・弁道話・三昧王三昧・自証三昧などがそれであります。また、普勧坐禅儀・学道用心集なども坐禅についての道元さまのお考えを述べられたものであります。道元さまは坐禅箴の中で正しい坐禅について中国の薬山禅師を紹介し、坐禅の本旨を次のように説いておられます。それは薬山禅師が坐禅をしておられた時、(ある僧が「あなたは山のように不動の姿で坐禅をしておられますが、今何を心にお考えでしょうか」とたずねました。すると薬山禅師は「何も考えていない」と答えられました。そごで僧がさらに「では何も考えないとはどうゆうことですか」とたずねました。薬山禅師は「それはあれこれと考えることを超越した境地である」と答えられました)というのであります。道元さまは「坐禅は非思量、即ち思量、情識を超越した解脱の境地である」と説いておられます。悟りを得た禅僧は坐禅中に、例えば物音がするといたします。すると当然その物音を耳に感じます。それは普通の人と全く同じ感覚器官の働きであります。しかし、普通の人と異なることは、次の瞬間にはまた以前の静寂な状態にもどります。つまり心の動揺が全く無いのであります。脈拍の乱れもありません。心の平安が常に保たれているのであります。そして悟りを得た人は、中国の永嘉禅師が悟りの境地をうたわれた「証道歌」にもありますように「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静、体安然、縦ひ鋒刀に遭うとも常に坦々、・・」の境地であります。つまり悟りを得た人は行住坐臥すべて正しい坐禅の境地であって、お釈迦様が悟られた如来禅そのものであり、絶対無為の大人格、絶学無為の閑道人の境地であります。身心一如という言葉がありますが、形だけは正しい坐禅であっても、悟りを目的とした坐禅は真実の坐禅ではありません。真実の坐禅は「作仏をはかることなかれ」、仏となることを目的としてはならないのであります。坐禅そのものが修行であり、坐禅そのものが証であります。修証一如とはこのようなことであり、心が肝心であります。坐禅は作仏を求めない行仏の体現であります。自己が坐禅になり、坐禅が自己になることであります。坐禅と自己が融合一体になることであります。
 坐禅の真髄で私たちは日常生活を送りたいものであります。花の心になって花をつくる。お米の心になってお米をつくる。そこには何の邪念もなく、花を生かすこと、お米を生かすことでもあります。この境地は般若心経の心でもあります。そして禅の真髄でもあります。一日一時でもお仏壇に線香一本を真っ直ぐに立て背筋を真っ直ぐにして、心静かに坐り自己を見つめ直すことが大切であります。

2016年9月7日水曜日

恁麼(いんも)

ここにいわれているところは、「人が本来のままの事象を理解しようとおもうならば、
当然この物は本来の人である。すでにこの者は本来人である。どうして己がありのまま
であることを愁うことがあろうか」である。この趣旨は人が翻然と無常の覚りを願い
有無の世界、現象の世界を超越し透脱したいと願うことを、ここでは「恁麼」の言葉
によって開示している。

ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)
をしたおかげである!
そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。
なんとか 道得なり?

04
「そのような事象」が「そのよう」であるのも、驚くに当たらない。たとえ驚き怪しま
れる
ような「そのよう」があろうとも、それもまた「そのよう」であるほかはない。
驚くには当たらない事象としての「そのよう」もあるのだ。こうした事象は覚りによっ
て
推量されるものではない、心の作用によってすいりょうされるものではない、現象とし
て
推量されるものではない、現実世界によって推量されるものではない、ただまさに
「本来人は恁麼人である、どうして愁えることがあろう、人はどのようであれ普遍の
理法を備えている何ものかである、何事も理法の中にある作用である何事である、
何の愁えることがあろうか」である。


恁麼 【心経と西洋哲学】

「恁麼物恁麼来(いんもぶついんもらい) 平成20年2月2日追補 

仏教が哲学であることは松岡正剛氏も千夜千冊で 述べておられる。
松岡正剛 千夜千冊 道元 「正法眼蔵」
第九百八十八夜【0988】04年6月9日 
道元にアランやハイデガーやベルグソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、
ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、・・・
・・。
さて、ここで正法眼蔵の各巻についての簡単な解説があるのだが、そのなかに
十 七「恁麼」。「いんも」と訓む。「そのような、そのように、どのように」という
ようなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁
麼なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁
麼あるなり」というふうに。
とのコメントがある。さらに
訳注 増谷文雄 正法眼蔵 「恁麼」の開題には
「恁麼」という言葉は、よく知られているように、禅門の人々が好んで口にし、筆にす
るところのものである。そのことばは、もと宋代の俗語にいずるところであって、・・
・。俗語の意味としては「このような」とか、「このとおり」とか、そのとおり」とか
いうことであり、それが形容詞にも、名詞にも、また疑問詞にも用いられているようで
ある。だから、試みに「恁麼物恁麼来」なる句を、和文でも俗語風に訳して
みるならば、「こげん物がどげんして来よったのじゃ」といった具合にもなろうと
いうものである。
では、いったい、そんな俗語に託して、禅門の人々がいわんとするところは
何であるか。
それは、はなはだ微妙であって、ずばりということは難しい。いま、道元がこの一巻を
もって語ろうとしていることも、その微妙なる意味を、なにとぞして説かんとするので
ある。
とかかれている。この「恁麼」なることばはかなりのくせものである。
一つにいかで「恁麼」なるほどの粗野な言いようをするのかということ。
二つには 多様なそのもちいかたである。
恁麼の「それ・これ」は何を示すのか?

いくつかの恁麼の用例をみてみると「そげんこつ」はどうも
「無上菩提上(むじょうぼだいじょう)」の 諸々の在り様 いわゆる「陀羅尼・真言
あるいは諸法」など をさし示していると見取される。なれば
禅門の恁麼人といえども 「そげんこつ」を問著せん! とするとき、
いささかなりとも「間接的な表現」を取らざるを得まい。「陀羅尼・真言あるいは諸法
」などなどは あからさまに問著されるものではあるまい。
恁麼とは「縁起なるもの」の代名詞ではないか?
ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)
をしたおかげである!
そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。
なんとか 道得なり?
旧タイトル 心経と西洋哲学
放送大学の共通科目 「現代を生きる哲学」 を拝聴した。
「哲学」の講義を受けたのははるか遠い昔である。教養課程の一単位として哲学を選択
したものの、その難解な言葉に恐れおののいたことだけ 記憶に残っている。
しかし今回の講義を「般若心経」と読み比べてみると、あまりにも類似していることに
驚嘆する。
ヘラクレイトスの言葉といわれる「万物は流転する」は 仏教の根本思想である「無常
=恒常であるものは無い」の肯定的表現であり、カントの超越論的または先験的理性と
はアーラヤ識・マナ識といった唯識に通ずるものであろう。
「色即是空」とはフッサールにおける「主観・客観を融合した意識流、(色空本より不
二なり=空海)」であり 、
「不垢不淨」はライプニッツのモナード論「予定調和」になろう。
「不増不減」はエネルギー保存の法則であり、
マッハにおける時間空間の関数的見解は八不の「不来不去」を思い起こさせる。
「諸法空相」はボームの「顕然秩序・内蔵秩序」そのもののようである。
なんて事だ!「心経」の266文字のうちに、コントの総てが包含されている。
しかしこれはあくまで「是故空中無色・・・・」 を
「これゆえ空のなかは無・・・・」と読む「漢文の読み方」ではなく、
「これゆえ空は中である。無・・・・」と読解した帰結である。
羯諦  羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶!



(十六)【本文】冀こいねがわくは其れ参学の高流こうる 久しく摸象もぞうに習つて
真龍を恠あやしむこと勿れ。 直指じきし端的の道に精進し、絶学無為むいの人を尊貴
そんきし、仏ぶつ仏の菩提に合沓がっとうし、祖そ祖の三昧ざんまいを嫡嗣てきしせよ
。 久しく恁麼いんもなることを為なさば須く是れ恁麼なるべし。 宝蔵ほうぞう自ら開
ひらけて受用じゅよう如意にょいならん。

【意訳】 どうか、「参学の高流」即ち仏道を学ぶ修行者の方々に、お願いしたいもの
だ。これからもずっと、「摸象に習って」即ち迷悟・喜怒哀楽など一時の生命活動の表
情・景色に振り回されずに、自我意識発現以前の生命本来の尽十方界真実(人体)を実
践していただきたい。また「真龍を恠しむこと勿れ」即ち自分が理想とするさとりを得
ようとするような自己満足追求を放棄して、本来の尽十方界真実(真の悟)を実修実証
してもらいたい。
そして「直指端的の道」即ち尽十方界真実の実践そのものである只管打坐の坐禅を努め
励むと共に、「絶学無為の人」即ち仏(尽十方界真実人体)を尊重し、「仏仏の菩提」
即ち全ての真実実践者の真実の修行生活に、自らを「合沓」即ち重ね合わせ、「祖祖」
即ち歴代の仏祖方(仏と祖師)の「三昧」即ち正伝の坐禅を正しく受け継いでもらいた
い。 とこしえに、「恁麼なること」即ち尽十方界真実の実践(坐禅)に徹するならば
、まさに「恁麼」即ち仏(尽十方界真実人体)が実際に実現しているであろう。
そしてその時、「宝蔵」即ち我々にとって最高の宝である身体本来の生命活動により、
「受用如意」即ち自我意識が支配する人生(人間生活)は棚上げされて、誰でも自我(
人間生活)に伴う行き詰まりが自然に無くなっているのである。

2016年9月3日土曜日

礼拝得髄

【定義】

①師の下で参学し、誠を尽くして礼拝するところに、得髄=仏法を得るということ。二
祖慧可大師の得法に基づく語。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では8巻、75巻本では28巻。なお、95巻
本に収録されている28巻本系統は、仁治元年(1240)冬節前日に興聖寺で記され、75巻
本系統は延応2年(1240)清明日に興聖寺にて記されている。ただし、現在では本来28
巻本の方が下書きとしてあったものを、75巻本では省略して途中までのものを収録した
とされている。真実を得られた方々がつくられた結界の土地に一度でも足を踏み入れた
者は、どの様な
人でも釈尊の与える恵みを受け取るのである。それは戒律を犯すことのできない恵みで
あり、浄い状態を得るところの恵みである。その様にしてつくられた結界と言うものは
、ほんの一部の地域を結界として定めたとしても、すぐさま宇宙全体がすべて結界にな
るのである。また一部の重要なところを結界として定めることにより、宇宙全体が結界
となるのである。

この「礼拝得髄」の巻では、
女性であれ、あるいは老人であれ、子供であれ、真実を得た人は真実を得たと言うこと
の
ために尊敬せられるべきであり、また尊敬すべきであるということを繰り返し述べてお
られる。特にその中心は道元禅師の持っておられた女性観。この女性観を通して拝読し
てみると、実に徹底した男女平等の思想。男女平等ということは、昭和二十年以降しき
りに唱えられて、一所懸命そうしようと思って各人が考えているわけだけれども、心の
中ではなかなか完全に平等という信念に徹している人ばかりではない。


ある場合には水によって結界をつくり、ある場合には心の中だけで結界をつくる。ある
場合には空間を定めてそれを結界とすることもあり、そのやり方は師匠から弟子へと代
々言い伝えてきたやり方と言うものを知って行うべきである。そして結界をつくる時に
は、洒水を行った後、仏に対しての礼拝を終わり、さらに地域を浄めたうえで、「この
我々が住んでいる一切の世界と言うものが、何らかの作為なしにきわめて自然に結界と
なってすでに浄いものになった」と唱えるのである。この事を日ごろから「結界」と言
葉を口にして女性を立ち入らせない先輩達は知っているかどうか。思うにあなた方は結
界をつくることによって、宇宙全体が結界となってしまうということを知らないのであ
る。

結局あなた方は、理屈を唱えて仏道を勉強しようとしている人々の教えに騙されて、ほ
んのわずかの狭い地域というものを大きな偉大な世界だと考えるに過ぎない。願わくば
日頃の迷いや酔いが早く醒めて、真実を体得された方々の偉大な世界を踏み外す事のな
いことを。釈尊が全ての人々を救われると言うことの趣旨は、あれは救うけれどもこれ
は救わないと言う事ではない。男性は救うけれども女性は救わないと言う事ではない。
生きとし生けるもの誰でもが釈尊の教化を受けると言う性質を知って、それを礼拝し、
それを敬うべきである。この様にして釈尊の救いというものを礼拝し恭敬するならば、
誰がこれを釈尊の教えの真髄を得た人と言わない事があろう。
     
              「正法眼蔵礼拝得髄」
              1239年 清明の日(春分後15日にあたる日)  
              観音導利興聖宝林寺においてこれを書き記した。

※西嶋先生の話
以上が「礼拝得髄」の巻の全体ということになるわけ。この「礼拝得髄」の巻では、女
性であれ、あるいは老人であれ、子供であれ、真実を得た人は真実を得たと言うことの
ために尊敬せられるべきであり、また尊敬すべきであるということを繰り返し述べてお
られる。特にその中心は道元禅師の持っておられた女性観。この女性観を通して拝読し
てみると、実に徹底した男女平等の思想。男女平等ということは、昭和二十年以降しき
りに唱えられて、一所懸命そうしようと思って各人が考えているわけだけれども、心の
中ではなかなか完全に平等という信念に徹している人ばかりではない。

そんなことを言ったってちょっと違うんだというふうな事を考えがちだけれども、七百
年、八百年以前に道元禅師が持っておられた思想と言うのは徹底して平等ということを
考えておられた。仏道の立場からそういうことを考えておられたということは、この「
礼拝得髄」の巻を読むと非常にはっきりする。この様な男女平等観と言うものを持って
おられた方と言うのは、過去においては非常に少ないんではないか。これ程徹底して男
女平等ということを説かれた方と言うのは、おそらく道元禅師以外には過去においては
きわめて少ないのではないかというふうに感じられる。

・「礼拝得髄」の巻き:

 「究極の悟りを修業するときには、指導の師を得ることが、特に難しい。その師とは
、男女に関わらず、大丈夫たるべきだ。既に指導の師に遭遇したからには、一切の係わ
り合いを捨てて、わずかな時間でも無駄にすごさず、精進して仏道を明らかにすべきだ
。あたかも頭に付いた火を払うように、又、足を爪立てて待ち望むように、寸暇を惜し
んで学ぶべきである。
 仏祖の真髄を得て、仏法を伝えることは、必ず至誠の心により、信心による。いささ
かでも法よりも我が身を省みることが重いときは、法は決して伝わらないし、仏道も得
られない。
 たとえ相手が野原に立っている棒くいであろうと、灯篭であろうと、諸仏であっても
、野狐であっても、鬼神であっても、男であっても女であっても、若し大法を保持して
、その真髄を得た者であれば、我が身心をその方の御座となして、どこまでも奉仕すべ
きである。身心を得るは易い。だが仏法に巡り会うことは難い。

 シャカ仏は述べた。「究極の悟りを説き示す師匠に巡り会おうと思うなら、その人の
家柄にこだわってはならぬ。風貌も見てはならぬ。欠点を嫌っては成らぬ。行為を考え
ては成らぬ。只仏法の智恵を尊重するがために、日々の食事に百千両の黄金を尽くすべ
きだ。天上の食事を贈って供養すべきだ。日々に、朝昼夜の3時に、礼拝し恭敬して、
決して煩わしいと思う心を発しては成らぬ。そうすれば悟りの道は必ず実現する。私は
菩提心を起こしてよりこの方、この様に修業して、今日究極の悟りを得たのである」と
。そういう訳であるから、樹や石も仏法を説いてくれるようにと願うべきである。
 妙信尼は、仰山慧寂の弟子だった。仰山が、会計や渉外の役僧を選ぶにあたり、誰が
適任かを古参僧や・役職経験者に広く尋ねた。仰山は遂に、「妙信尼は女人ではあるが
、大丈夫の志気をもっている。まさしくこの役の適任者だ」といった。僧衆は皆これを
了承したと言う。
 妙信尼がその職にあるとき、蜀の国の僧17人が仰山の下へ行こうとして、たまたま
妙信尼の院で宿を取った。休息中、6祖慧能の「風・幡」(はたが揺れるのは、はたが
揺れているのか、風が揺れているのか、それともそう見る人間の心が揺れているのか)
が話題になった。ところが17人のめいめい言うのが、皆道にかなっていない。その時
妙信尼は壁の外から言った。「17頭のめくらロバよ、惜しいことにどれ程の草鞋を履き
潰したか。仏法は未だ夢にもご存じない」
 僧たちは自分達の至らないことを恥じ、衣服を整え、院主(妙信尼)を礼拝して尋ね
た。院主は「これは風が動くのでもない、幡(はた)が動くのでもない、心が動くので
もない」といった。17人ははっと気付き、そこで礼を述べ、師弟の礼をとった。17人は
直ちに蜀に帰り、仰山の所へは行かなかったと言う。

 現在、大宋国の寺院には比丘尼の修業している者が居り、その尼僧が得法すると、官
より尼寺の住職になるようにとの詔が下りる。すると尼僧はその寺で説法する。すると
衆僧が皆参集し、立ったまま説法を聞く。これが昔からの決まりだ。
 得法したからには、1人の真実の仏であるから、最早昔の誰それという気持ちで相ま
みえては成らぬ。
 甚だしい愚か者が思うことは、女人は淫欲の対象であると言う考え方を改めずに女人
を見ることだ。仏教者はそうであってはならない。淫欲の対称になるからと忌むならば
、全ての男子もまた忌むべきであることになる。昔、唐の時代に、愚かな僧がいて、「
一生涯、女人を見まい」と決めた人がいたと言う。この様な願は一体何の道理によるの
だろうか?女人に何のとががあるというのか?男子に何の徳が有るのか?男子にも悪人
はいるし、女人にも善人はいる。女人で悟りを開く人がいて、その説法を聞けなくなっ
たらどうするのだ?」
(「礼拝得髄」の巻終わる)


礼拝得髄 

【定義】

①師の下で参学し、誠を尽くして礼拝するところに、得髄=仏法を得るということ。二
祖慧可大師の得法に基づく語。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では8巻、75巻本では28巻。なお、95巻
本に収録されている28巻本系統は、仁治元年(1240)冬節前日に興聖寺で記され、75巻
本系統は延応2年(1240)清明日に興聖寺にて記されている。ただし、現在では本来28
巻本の方が下書きとしてあったものを、75巻本では省略して途中までのものを収録した
とされている。

【内容】

①この得髄とは達磨大師から慧可大師に附法した事実が典拠になっている。
第二十八祖、門人に謂て曰く、「時将に至りなんとす、汝等盍ぞ所得を言はざるや」。
時に門人道副曰く、我が今の所見の如きは、文字を執せず、文字を離れず、しかも道用
をなす」。祖云、「汝、吾が皮を得たり」。尼総持曰、「我が今の所解の如きは、慶喜
の阿?仏国を見しに、一見して更に再見せざりしが如し」。祖云、「汝、吾が肉を得た
り」。道育曰、「四大本空なり、五蘊有にあらず、しかも我が見処は、一法として得べ
き無し」。祖云、「汝、吾が骨を得たり」。最後に恵可、礼三拝して後、位に依つて立
てり。祖云、「汝、吾が髄を得たり」。果して二祖として、伝法伝衣せり。 『正法眼
蔵』「葛藤」巻

得たところの仏法を道得せよと迫る達磨に対して、慧可はただ礼拝だけをもって示した
ところ、達磨は「吾が髄を得たり」として印可証明した。誠の礼拝が、そのまま仏法に
契うことを、礼拝得髄というのである。

②道元禅師は、①に挙げた「礼拝得髄」を取り上げながら、まさに慧可大師が法を重ん
じて断臂まで行ったことを讃歎しながら、不惜身命の修行の用心を説かれる。
髄をうること、法をつたふること、必定して至誠により、信心によるなり。誠心ほかよ
りきたるあとなく、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするな
り。

また、世俗的には就くべき師については、見た目であるとか、生まれであるとか、行い
などを「基準」にしてその善し悪しを決める傾向にあるが、道元禅師は、法を重んじて
、法を基準にして、師を選ぶべきであると説く。
釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、
容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若
を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、
天華を散じて供養すべし。日日三時に礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむるこ
となかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ発心よりこのか
た、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。

つまり、真実の仏法を説く師については、毎日多くの黄金や食事を運ぶことが求められ
ており、道元禅師もまた、全てを抛って師に仕えたからこそ、仏道を体得したことが説
かれているのである。しかし、世俗的には、様々な理由を付けて、仏法ではない、別の
基準を入れようとしている。それを批判される道元禅師は、得法の事実には、性別も関
係無いとして、得道された女人について、様々な記事を採り上げられているのである。
特に、趙州従?、潅渓志閑、末山尼、妙信尼などの行実が本文には引用されている。
たとへば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏および三賢十聖もきたりて礼拝問
法せんに、比丘尼この礼拝をうくべし。男児なにをもてか貴ならん。虚空は虚空なり、
四大は四大なり、五蘊は五蘊なり。女流も又かくのごとし、得道はいづれも得道す。た
だし、いづれも得法を敬重すべし。男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり
。

そして、道元禅師は中国では女性であっても格式の高い寺院の住持として招かれる例を
説きながら、日本における女性差別を批判するのである。ただし、それは女性が素晴ら
しいからではなくて、先にも挙げたように、「得法」に基準を置かれるからである。

【28巻本系統】

得法に基準を置かれる道元禅師は、法を得た事実ではなくて、ただ女性であるからとか
、子供であるから、といった世俗的価値観を仏祖に対して当てはめることを批判される
。そして、さらに日本に於いては、女性の天皇がいたことも挙げて、本来女性差別はな
いことを示されるのである。
また、和漢の古今に、帝位にして女人あり、その国土、みなこの帝王の所領なり、人み
なその臣となる。これは、人をうやまふにあらず、位をうやまふなり。比丘尼もまたそ
の人をうやまふことは、むかしよりなし。ひとへに得法をうやまふなり。

ここで、人間中心の考え方ではなくて、法や位を重んじる考え方に転換していることが
理解できる。あくまでも、男女という性別が問題なのではなくて、天皇という位、法を
得ている仏祖現成の事実が重要なのである。余談的だが、この一文は道元禅師の「国土
観」「天皇観」を知ることができる貴重な箇所となっている。ただ、内容を見る限り、
いわゆる律令制度に対して反抗的だったとは思えず、その出自も影響してか、皇室崇敬
の念が確認される。それは「看経」巻でも同様である。

さて、同巻では、女性差別の事例を挙げて、それが如何に仏法に叶わないかを指摘して
いるが、その根拠となるのは、絶対平等の仏法にあって、男女という差別を入れること
の無意味さを批判するものである。具体的には、女性は男性から見れば、淫欲を起こさ
せるからというものだが、道元禅師は女性に限っていないとされて、女性差別の根拠を
無化する。また、男性の社会に生きることで、女性には一切関わらないことを宣言した
中国の澄観をも、「衆生無辺誓願度(四弘誓願の一句)」と願を立てる仏祖にはあるま
じき行為であると断罪される。

また、日本には女人禁制の修行道場などがあるが、これは愚かも甚だしいとされるので
ある。
また、日本国にひとつのはらひごとあり。いわゆるあるひは結界の境地と称し、あるひ
は大乗の道場と称して、比丘尼・女人等を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、人
わきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。あるひは
権者の所為と称し、あるひは古先の遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人
の腸もたえぬべし。権者とはなにものぞ、賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等
覚か妙覚か。また、ふるきをあらためざるべくは、生死流転をばすつべからざるか。

そして、女人禁制の結界などは無意味であるとして、仏法の上からは平等なる男女の性
別を主張されるのである。なお、同巻の末尾には、道元禅師が当時行っていた「結界」
の作り方が示されているため、よく学ばれたい。
いはんや結界のとき、灑甘露ののち、帰命の礼をはり、乃至浄界等ののち、頌に云、「
茲の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり」。

現在でも、いわゆる洒水によって結界を作る儀式があるが、本来はこの方法に依存すべ
きなのである。