2016年11月18日金曜日

坐禅とマインドフルネス

道元の教え、坐禅
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。

道元はその教えの基本は、坐禅と言っている。
「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への旅立ち)
を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」というものを書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に四大軽安、精神爽利、
正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。すでに能く発明せば、謂つべし、
竜の水を得るが如く、虎の山によるに似たりと」と言っている。
いずれもが、どこまで理解をできるかは別にして、心の安寧を得る一つには違いない。
と言う。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは1つである。
「正法眼蔵随聞記」には、 「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。 学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人 よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき ではない。」と言っている。 坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの世界をありのままに
見ることが成就するであろう」というのだ。

覚りを得るなどと言う大袈裟なことを考えずに、日頃の自分を見直し、次への
活力とするだけでも良いのではないだろうか。
道元の坐禅のやり方と昨今企業などでも使われているマインドフルネスのやり方を
見ることで、少しでも落ち着いた日々を送りたいもの。

1.坐禅儀より
坐禅の悪い所は、一般の人に何か大変なもの、苦痛が伴うものという怖れを引き起こす
ような導きかたをしているからではないだろうか。
正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、雨露を
もらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下にあてなさい。
風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。
また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的な
ことから日常茶飯事のことまで追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で
壁に向かい坐禅することで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。

正法眼蔵 第11、坐禅儀 (ざぜんぎ)
参禅は坐禅なり。
坐禅は静処よろし。坐蓐あつく敷くべし。風烟をいらしむることなかれ、雨露をもらし
むることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛の上に坐し、盤石の上に坐する蹤
跡あり、かれらみな草をあつく敷きて坐せしなり。坐処あたたかなるべし、昼夜暗から
ざれ。冬暖夏涼をその術とせり。
所縁を放捨し、万事を休息すべし。
善也不思量なり、悪也不思量なり。
心意識にあらず、念想観に非ず。
作仏を図することなかれ、坐臥を脱落すべし。

飲食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふが如く坐禅を好むべし。黄梅山の
五祖、異なる営みなし、唯務坐禅のみなり。坐禅のとき、袈裟をかくべし、蒲団を敷く
べし。蒲団は全跏に敷くには非ず、跏趺の半ばよりは後ろに敷くなり。然れば、累足
の下は坐蓐にあたれり、脊骨の下は蒲団にてあるなり。これ仏々祖々の坐禅のとき坐す
る法なり。
あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐す。
結跏趺坐は、右の脚をひだりの股の上に置く。左の足を右の股の上に置く。左の足を右
の股の上に置く。脚の先、各々股と等しくすべし。参差なることえざれ。
半跏趺坐は、ただ左の足を右の股のうへに置くのみなり。

衣衫を寛繋して斉整ならしむべし。右手を左足の上に置く。左手を右手の上に置く。
二つのおほ指、先あひささふ。両手斯くの如くして身に近づけ置くなり。二つのおほ指
のさし合わせたる先を、ほぞに対して置くべし。正身端坐すべし。左へそばだち、右へ
傾き、前にくぐまり、後ろへあふのくことなかれ。必ず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべ
し。舌は、かみのあぎにかくべし。息は鼻より通ずべし。唇・歯あひつくべし。目は開
すべし、不張不微なるべし。

斯くの如く身心を調へて、欠気一息あるべし。
兀々「ごつごつ」と坐定して思量箇不思量底なり。

不思量底如何思量。
これ非思量なり。
これすなはち坐禅の法術なり。

坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり。

基本的には、後述するマインドフルネスのやり方とあまり変わらない。道元は、生活の1つ1つが
修行であり、覚りへの道と考えたので、食事の細かい作法まで決めている。だが、心根に
安寧を求めるだけであれば、坐禅のやり方を含め、すべてを「坐禅儀」にある事細かな作法を
することが重要とは思えない(浅学非才だろうが)。

もっとも、以下のような道元の教えもあるが、
「すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。常に初心の覚りがあって上での
修行である、初心の坐禅修行はそのまま本証の全体なのだ」。
さらに、
「一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような知覚分別
も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、坐禅の修行
の妨げにはならないのである。ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を
包括せしめ、あらゆる繋縛を抜け出て生仏一如と修行するものである。
この生仏一如という重大な関門を超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、
諸境界の節目にも関わりはなくなるのである」。

こんな言葉を聞くと、難しさの思いが先に立ち、中々に前に進めない。
我が凡庸を嘆くのみか。

2.ポジティブ心理より
様々な自己確認評価手法と同様のものがある。例えば、具体的な項目をタル・ベン・シャハー
が学生向けに、多くのワークの実践方法を述べている。
本来の自分を知るとは、本来の自分に戻る時間を持つこと。信頼する友人に気持ちを
語ったり、心に浮かぶあらゆることを日記に書いたり、自分の部屋で一人で過ごす時間を作る。
以下の文章を思いつくままに書く。
例えば、
・自分の気持ちにあと少し正直になるためには、
・自分が恐れていることにあと少し気付くことが出来れば、
・あと少し本来の自分に戻るためには、
・文章をジックリ見直し、実行すること。
・行動の一つとして、自身の「分からない」を受け入れるもある。
・知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。

「ただ歩くこと」を習慣とするのも重要といわれている。
外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の息遣い、静けさ、森の生命力など、
五感を最大限に使い感じる。

これは、山水経に通じている。
古仏雲門はいう、「山是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是れやまと言っているのではない。山は是れやまと言っている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質が現れる。
山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、祖師の聖を現している。
山水はそのまま仏経である。

ポジティブの中で「自然に身を置くことで自身を見直す」ことを推奨している。
以下の手順の実践で、今、自分が感じていることを感じるままに受け入れること。
①楽な姿勢で座る。②深く域を吸い、ゆっくりと吐く。③自らの感情、感覚に集中する。
④自分を許し、あるがままに自身を解放する。⑤想像の中で、様々な感情を味わう。

正法眼蔵から見る坐禅の世界とポジティブ心理にて実践されるマインドフルネス、
それらは異なる文化の中で育った人間修養であり、坐禅、マインドフルネスいずれもが
数えるほどの体験でしかなく、その浅はかなる所為である事は認識してはいるものの、
その根底は何故か一つの流れの中にあるように思える。
マインドフルネスとは、単純に言えば、その一瞬に全力を傾けること。
一般に言われる、マインドフルネスについては、「今という瞬間に、余計な判断を加えず、
自分の人生がかかっているかのように真剣に、意識して注意を向けること」
と定義している。
専門家はマインドフルネス効用を幾つか上げている。
①常に新しいカテゴリーを創造する:マインドフルネスな状態であれば、
旧来の分類方法やレッテルにとらわれることなく、状況や文脈に注意を払い、
新たな特徴を見出すことができる。
例えば、レンガを単なる建材と見るのではなく、ブックエンドや武器、
ドアストッパーなど、いろいろな利用法を思いつくことができる。
②新たな情報を積極的に受け入れ、物事をさまざまな視点から捉える:
マインドフルネスな状態は、カテゴリーを創造できるだけでなく、常に新たな
情報を受け取り、新たな可能性に対してオープンになることも意味する。
例えば、あなたとパートナーはいつも自分のやり方にこだわって、同じこと
で喧嘩ばかりしているかもしれません。けれども、相手の視点に対して
オープンになることで変化が生まれる可能性がある。
③結果よりも過程を重視する:マインドフルネスな状態は、結果について
あれこれ心配するのでなく、ひとつずつのステップに意識の焦点を当てる
状態。
例えば、テストの出来を心配するより、その教科を本当の意味で学ぶこと。
つまり、マインドフルネスとは、すべての経験に焦点を合わせ、より意識的
になることであり、「だから何?」と思う人もいるが、マインドフルネスを
高めれば、集中力が増し、創造性や幸福感、健康、リラックス感が高まり、
もっと自分をコントロールできるようになる可能性がある。
しかし、マインドフルネスは、直ぐにその成果が出るものではない
けれども、徐々に高めていくことはできる。
マインドフルネスを実践するには、どんなに忙しくても、どんなにストレスの
たまる状況でも、いつも意識を研ぎ澄ましていなくてはいけない。
例えば食事中であれば、フォークを置くたびに、「一噛み一噛み味わって食べる」
という目標を思い出すようにするとか、職場でなら、「1時間ごとの時報」など
のリマインダーを設定して、ちょっと休憩をはさむと良い。
マインドフルネスの具体的な実践には、以下の6つのステップがある。
①背筋を伸ばして座り、足を組んで、視線を下に向ける。
②自然に浮かんでくる思いと、人為的な考えとを区別する。
③三繰り返し過去を思い出したり、未来への不安で気が散るようなら、
それそれを最小限に抑えるために、こう考え直してみる。
「過去も未来も、現在の私の心の中の想像にすぎない」。
④瞑想中は、ちょうど船の「錨」のように、呼吸が集中をつなぎ止めてくれる。
⑤息を吐くたびにひとつ数を数え、21まで数えたらまた1に戻る
⑥思いが浮かんでくるのを無理に抑えようとせず、心を自然に任せる。
この一連の手順は、マインドフルネス瞑想として知られており、
マインドフルネスを育む最高の方法のひとつ。
これは一種の脳のエクササイズで、普段の生活を送りながらでも実践できる
(続けやすくするひとつの戦略は、シャワーや犬の散歩など、毎日の日課の
最中にこの訓練を行うこと)。
最後にひとつ注意事項すべきは、マインドフルネスの実践はとても有益だが、
心を自然に任せたほうが良い時もあるということ。ある報告では、創造性や
洞察力のためには、ぼんやりしたり空想にふけったりすることが
必要である可能性を紹介しているし、高度にマインドフルネスな状態は、
「潜在的学習」(無意識のうちに、新しいスキルや習慣を学ぶこと)における
効率の低さと相関している可能性があるとのこと。
最近、企業でも活用されているという「マインドフルネス」そのやり方は
道元の説く(もっとも、坐禅としては禅宗全体でも大きな違いはないと思うが)
「坐禅儀」とほぼ同じであろう。これが説かれたのが、寛永元年(1624)と
言われているから400年ほど前にもこの実践手法はあったということだ。
人間が大きく変わっていないのであるから、当然なのかもしれないが。
マインドフルネスと坐禅の実践手法をもう一度振り返り、どちらでもよいので
実践し、私も含め日ごろのちょっとやる仕草程度で頑張って行きたいもの。

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