01
仏道を求めるrには、まず道心を先とせねばならぬ。道心のあり様を、
知る人は少ない。明らかに知っている人尋ねなければならぬ。
02
末世には、真心ある道心者は、だいたいいない。しかしながら、つねに心を無常にかけて、
世のはかなく、人の命がいつも危ういことを忘れてはならない。己に固執する人は、
世がはかないと思うことを知らないだろう。己を捨てて、仏法を重んじ、わが身命
を軽んじなければならない。仏法のためには、身も命も、惜しんではならぬ。
03
次には、深く仏法僧の三宝を敬うのである。次の生に身を変えても、三宝を供養し、
敬い奉ろうと願わねばならない。寝ても覚めても、三宝の功徳を思わねばならぬ。
寝ても、覚めても、三宝を唱え奉らねばならぬ。たとえこの生を捨てても、
命が終わるに臨み、まだ次の生に生まれぬまでの、その間に、忠有ということがある、
その間は七日であるが、その間にも、つねに声を止めずに、三宝を唱え奉ろうと
思わねばならぬ。七日を過ぎれば、中有は死んで、また中有の身を受けて、七日
がある。その間がいかに長いといっても、四十九日を過ぎることはない。
この中有で、何事を見、何事を聞いても、仏を信じることによって障りなく天上に
生まれることは、明らかである。
このような時、心を励まして、三宝を唱えたtrまつり、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧
と、唱え奉ろうとすることを忘れず、途切れなく唱え奉るのだ。
04
すでに中有を過ぎて、次の生の父母のそばに近づこうとするときも、必ず心にかけて、
三宝を唱え奉らねばならぬ。仏法のままに母体に宿りその中にあっても、三宝を
唱え奉らねばならぬ。生まれおちようとするときも、唱え奉ることを怠っては
ならぬ。六根のすべてによって、三宝を供養し奉り、唱えたてまつり、帰依し
たてまつろうものと、深く願わねばならぬ。またこの生が終わるとき、二つの眼は
たちまち暗くなるだろう。そのときを、もはや生の終わりと知って、励んで、南無帰依仏
と、唱え奉るのだ。このとき十方の諸仏は、憐みを垂れさせたまうのである。
05
縁あって悪趣に赴かねばならぬ罪人も、転じて天上に生まれ、仏のみまえに
生まれて、仏を拝みたてまつり、仏が説かれる教えを聞くのである。眼前に
闇が迫ってきたならば、そののちは、弛まず励んで、三帰依を唱えたてまつることは
中有までも、後生までも、怠ってはならぬ。
06
また一生のうちに、仏像を造りたてまつろうとせねばならぬ。仏像を御造りしたら、
3種の供養をしたてまつらねばならぬ。三種とは、草座、砂糖水、燈火である。これを供養し
たてまつらねばならぬ。
ーーーーーーーーー
「正法眼蔵 道心」
仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり
。あきらかにしれらん人に問ふべし。
よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人に
しられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、おろかにあしき人
のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこころをさきとせざれ、仏のとかせたま
ひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにか
けて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、ねがひいのるべし。
世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常
にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のは
かなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我
がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。
つぎには、ふかく仏法三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝
を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三宝の功をおもひ
たてまつるべし、ねてもさめても三宝をとなへたてまつるべし。たとひこの生をすてて
、いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり。そのいのち七日なる
、そのあひだも、つねにこゑもやまず三宝をとなへたてまつらんとおもふべし。七日を
へぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて七日あり。いかにひさしといへども
、七七日をばすぎず。このとき、なにごとを見きくもさはりなきこと、天眼のごとし。
かからんとき、心をはげまして三宝をとなへたてまつり、南無帰依仏、南無帰依法、南
無帰依僧ととなへたてまつらんこと、わすれず、ひまなく、となへたてまつるべし。
すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまへてあひかまへて
、正知ありて託胎せん処胎藏にありても、三宝をとなへたてまつるべし。むまれおちん
ときも、となへたてまつらんこと、おこたらざらん。六根にへて、三宝をくやうじたて
まつり、となへたてまつり、帰依したてまつらんと、ふかくねがふべし。
またこの生のをはるときは、二つの眼たちまちにくらくなるべし。そのときを、すで
に生のをはりとしりて、はげみて南無帰依仏ととなへたてまつるべし。このとき、十方
の仏、あはれみをたれさせたまふ。ありて悪趣におもむくべきつみも、転じて天上にむ
まれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりをきくなり
。
眼の前にやみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三帰依となへたてまつること
、中有までも後生までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生々世々をつくして
となへたてまつるべし。仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ仏菩薩の
おこなはせたまふみちなり。これを深く法をさとるとも云ふ、仏道の身にそなはるとも
云ふなり。さらにことおもひをまじへざらんとねがふべし。
又、一生のうちに仏をつくりたてまつらんといとなむべし。つくりたてまつりては、三
種の供養じたてまつるべし。三種とは、草座、石蜜漿、燃燈なり。これをくやうじたて
まつるべし。
又、この生のうちに、法華経つくりたてまつるべし。かきもし、摺寫もしたてまつり
て、たもちたてまつるべし。つねにはいただき、礼拝したてまつり、華香、みあかし、
飮食衣服もまゐらすべし。つねにいただきをよくして、いただきまゐらすべし。
又、つねにけさをかけて坐禅すべし。袈裟は、第三生に得道する先蹤あり。すでに三
世の仏の衣なり、功はかるべからず。坐禅は三界の法にあらず、仏の法なり。
徒然草 第三十段
人のなきあとばかり悲しきはなし。
中陰のほど、山里などにうつろひて、便あしくせばき所にあまたあひゐて、後のわざ
ども營みあへる、心あわたゞし。日數のはやく過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日
は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我かしこげに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行
きあかれぬ。もとのすみかに歸りてぞ、更に悲しき事は多かるべき。「しかじかのこと
は、あなかしこ、跡のためいむなる事ぞ」などいへるこそ、かばかりのなかに何かはと
、人の心はなほうたておぼゆれ。
年月へても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しといへることなれば、さ
はいへど、其のきはばかりは覺えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひぬ。からはけ
うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかりまうでつゝ見れば、ほどなく卒都姿も苔む
し、木の葉ふりうづみて、夕の嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そも又ほどなく失せて、聞きつたふるば
かりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名
をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐に
むせびし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。そのかただに
なくなりぬるぞ悲しき。
|
0 件のコメント:
コメントを投稿