2017年2月3日金曜日

身心学道の巻

02
仏道を学ぶに、まず2つのことがある。いうところの心を持って学び、身を持って学ぶのである。
心をもって学ぶというのは、あらゆる諸所の心をもって学ぶのである。その諸所の心とは
質多心、汗栗駄心、い栗駄心、である。また、衆生の心に仏の心が感応して、菩提心
を起こしたのちに、覚者の大道にしたがい菩提心のなす行いを学ぶのである。



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永平高祖道元禅師は主著「正法眼蔵」の中に「身心学道」の一巻
を著わし、仏家修行者の真実の学道について説示しておられる。
学道と云うならば、平常は心の学道の如く考えられ、学道その物
をして心の成長、発展の問題と結びつけて人格の統治とする様に思
考せられておるけれ共、道元禅師は、真実の学道とは身の学道であ
る。いうならば、身心の学道でなければならぬとしている。従って
禅師の学道とは、仏祖の行李を学習することにあるのであって、身
心両面の不二一体の参学を示しているのである。「身心学道」の冒
頭仏に、
道は不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり、南獄
大慧禅師のいはく、修証はなきにあらず、汚染することえじ、仏
道を学せざれば、すなはち外道・閲提等の道に堕在す、このゆえ
に前仏後仏かならず仏道を修行するなりと示されて、

仏道修行の功に酬いて、証を得るのではなく、あくま
でも不汚染の修証でなければならない。修行をして不待、証を不期
修行と参学せねばならない事の、本証妙修の真随を説示されたもの
である。これは、本覚門的修証観に立つ道元禅師の教えが非常に解
りやすく如実に知見し得る所である。

さて、今ここに引用の本文であるが、仏道に不道、不学という言
葉があるけれ共、仏道とは、大道を離れようとしても所詮離れられ
ざる、一切処一切時が道なる故に迷うても、悟っても仏祖の大道を
出ずるものではあり得ない。云うなれば「修証はなきにあらず」は
修証一等、或は修証不二の本覚門的修証観を示し、「染汚すること
をえじ」は、不染汚の修証を云っているのである。対待なき真実の
学道を云うのである。

従って、禅師からすれば、修といっても証と云っても一方究尽で
あって、一方証すれば一方はくらし、の如く修の時は修のみにて他
方は一法もあり得ない。尽法界修の一元となる。不染汚の修証、つ
まり身心不二であって仏祖道における真実の学道とは、かかる身心
の学習を云うのであって、衆生の立場を修行の出発的とすれば、見
性待悟の禅となり、仏の立場より修行すれば道元禅の修行となるの
である。祈発心より現成公案にあって迷惑せず。顛到せざる自己を
看取せよの立場である。
衆生を仏に変らすと云うのではなく、無限に仏を証しもていくの
である。

禅師が已下に示される身心学道の全文も、かかる修証観から拮提
されるのであって、一元的もの呉見方、捉え方が明確である。道元
禅師の仏法の真随を示すものはかかる全一的かつ何物にも捉われず
又束縛を受けず、自受用三昧を行くもので、遍界無障である。従っ
てここでは、心学道のみの参究に止めるが、身学道としても全くこ
のことは何ら異るものではない。つまり心学道と身学道は二つのも
のではなく、本来一つのものを説示する上に二つに分けて説いてい
るのである。身心は不離不待であって、身心が二つならば、心常相
滅の邪見とえらぶ所はない。本証妙修に立つ禅師が、かかる二元観
に立つことはあり得ない。

禅師が「心をもて学し、身をもて学すなり」と云っているのも、
凡夫の具足せる慮知念覚の心を似って学ぶ法とか、或は繊身仏道を
修行するのではなく、心は即ち身であるから、只身心学道と名付け
たる為に、心の学、身の学と云うのであるが、「以法界を学し、以
眼学し、以耳学し、以山学し、以見学し、以水学すとも無尽に云う
べきなり、しかしてこの身則学なり、此心則学なり」なのである。
身とは学であり、心とは学なのだとされる。身と学とを初り離し
て考えるのではなく、心を学と二別せず、尽十方界を」穎の明珠と
して心一元に生きること、その時に自己は学としての身になり切り
心としての学になり切っている。

従ってそれは心に徹底して生きること、それ自体が学なのであるとなる。
従って禅師が「あらゆる諸心をもて学すなり」と云っても、諸心とは仏心
を云っているのであって、質多心も汗粟駄心も皆我らが日頃具足したる
心を云っているのではない。
帰依とは心の外の何物でもないのであるから、前も後
も習心なのであって、前後ありとはならない。菩提心の行李とは菩
提心を発す為の行李を云うのではなく、自性清浄の自己の本心のめ
ざめを云うのである。いわば、慮知心と菩提心の二心があるのでは
なく、仏心の具体的現実相を慮知心としているのであるから、菩提
を行ずることの上には、慮知心も衆生心もなく皆菩提心なのである
しかし乍ら、この発菩提心は末だおこらずとも、菩提心をおこせ
し仏祖の法をならふことが、発菩提心であるとしている。そして菩
提心とは赤心片片であり、古仏心であり、平常心であり、三界一心
であるとされる。

そして、これらの心を放下し或は拮挙して学道する。それは心の
上に思量すとも不思量すとも、尽十方界が心の究尽せる時節におい
ては心の一元であるから、非思量と云うも同じことなのだとされる
のである。つまり、心をもって放つとも拮挙 (とる) とも云うもそ
の心地は、云うなれば心のありようを云うのである。その心の具体
的姿としては、剃髪染衣も釈迦老子の王城を捨て檀特山に入山せる
姿も皆[心と心得るべきなのである。即ち、尽十方界にあらゆる一
全てが心に外ならず、心外無外法の心地をかくの如く説いているの
である。山に入る事、それは山と入とのあはひとしてみるならば、
入山は世の所捨であって、これを非思量と心得るべきであり、又山
からみれば、所入なる山も所捨と同格であって、紅櫨上の調度なの
である。つまりは、思量箇不思量底の道理を云い、更に非思量の道
理を云ったものである。参本に「所入所捨、斎挙頭兀兀地と」は、
これを示すと考えられる。

その心は無辺際であって眼晴に団し来たる業識に弄し来たるを、
暫二一二斜とも千万端と云うも同事で、不依数量なるのである。以
の道理を眼晴とも業識と云うとも、それが真諦俗諦両門と区分して
受けるべきではない。要は、学道を指すのであって二三斜千万端は
学道を云うのであって、数量を示すのではない。心の参学に徹し切
ること自体は尽界心一元、自己が徒らに凡夫としての一人間ではな
く、尽法界の中に自己を帰し、自己に尽法界を帰すことなのである
から、そこは無辺際であって、数量真俗の区別観は存し得ないので
ある。

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