われわれが住んでいる世界(欲界・色界・無色界)は、たった一つの心と理解する事が出来る。
心というものを離れて、別の実在というものは存在しない。心と、真実と、衆生の三
つのものは、区別する事が出来ない。 我々の住んでいる世界の内側も、外側も、中間
も、あるいは我々自身を基準にするならば、 自分自身の内側も、外側も、中間も、
あるいは過去・現在・未来のどの時間においてもすべて欲界・色界・無色界と言う
三種類の世界の中に入ってしまう。
01
釈迦は言った、
三界唯一心、心外無別法(三界は唯一心にして、心外に別法無し)
心仏及衆生、是三無差別(心仏及び衆生、是の三に差別なし)
世界はただ心の現れである、心のほかには何もない。心と仏と衆生、
この三つに差別はない。
この一句の言葉は釈迦が一代の全力を挙げて言われたものである。一代の力を挙げて
説いたものである。たとえ強引なものであっても、ありのままに述べたものである。
このようであるから、この釈迦如来が説く「三界はただ心の現れである」とは、
釈迦の心のすべてが現れているのだ。釈迦の全一生はこの一句に現成している。
三界とは全世界である、しかし三界が衆生の心そのものだというのではない。
その理由は、心が八面玲瓏と透き通っても、三界を離れない。心は因果の世界から
離れていると強いて思おうとしても、それは錯覚であり、またそうはいかない。
どの空間の現象も、どの時間の現象も、みな欲、色、無色の三界から離れてはいない。
02
この三界はここに見るごとくである。三界はもともとあるものではなく、現世でもない。
三界はあらたに現われる者でもない。三界は因縁によって生じているものではない。この三界
は時間として生起するものではない。迷悟を解脱した境地も、今この三界にある。
この境地は仏性のはたらきと覚者の心の働きとが出会い、葛藤が葛藤をからんで
成長しているのだ。今この三界にあるという境地は、三界の姿そのものである。
ここに言われている姿は、釈迦が三界において見る姿である。
釈迦は三界の真実と一女如となって解脱している。これこそ「三界のすべては是我が
所有なり」である。
≪正法眼蔵 三界唯心≫
偉大な師匠である釈尊が言われた。
我々が住んでいる世界(欲界・色界・無色界)は、たった一つの心と理解する事が出来る
。心というものを離れて、別の実在というものは存在しない。心と、真実と、衆生の三
つのものは、区別する事が出来ない。 我々の住んでいる世界の内側も、外側も、中間
も、あるいは我々自身を基準にするならば、 自分自身の内側も、外側も、中間も、あ
るいは過去・現在・未来のどの時間においてもすべて欲界・色界・無色界と言う三種類
の世界の中に入ってしまう。
ではその欲界・色界・無色界と言う三種類の世界はどんな世界かと言うと、我々が現に
見ているありのままの世界そのものである。
■「三界唯心」の「三界」とは欲界・色界・無色界と言う三つの世界を言います。
「欲界」とは、通常は欲望の世界と考えられていますが、意欲の世界、頭で考えられた
世界と理解すべきではなかろうかと考えます。
「色界」の色とは、ル-パと言う物質を意味する言葉ですから、物質の世界、物の世界
と理解すべきではなかろうかと考えます。
「無色」とは、物質の世界を乗り越えた世界と言う事で、従来は精神の世界、心の世界
と考えられていました。
この三界の他に「法界」と言う言葉を加えまして、この四つの世界を仏教特有の考え方
である「四諦」の考え方に割り当てますと理解がしやすくなります。
苦――欲界(意欲の世界)・集――色界(物質の世界)・滅――無色界(行為の世界)・道-
法界(宇宙全体)
「三界唯心」の巻も、仏教哲学の一番基本にあるところの、我々の主観と周囲を取り巻
いている客観との相互関係がどうなっているかと言う事の説明と、こういうふうに見る
事が出来る訳です。
(正法眼蔵提唱録 西嶋 和
夫 著より)
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はじめに
「三界唯心」なる語句が、道元禅師の仏法を的確に表
現するものであることは、『正法眼蔵抄』中第一現成公案より第十
五光明までに限つて見ても、十五巻中十三巻六十七箇所にこの語句
が見られ、また三昧王三昧の巻の『経豪抄』に、「祖門ノ心ハ、三界
唯心ヲ以テ為レ心ユヘニ……」とあることによつてもそのことが裏
付けられるのであり、「三界唯心」を正しく捉えることが『正法眼
蔵』(以下『眼蔵』と略す)における心の正しい理解につながるもの
と考えられる。禅師は『眼蔵』中一巻を三界唯心の巻として「三界
唯心」の説示にあてられている。ここには三界と心との関係につい
て、(一)三界即心(二)三界は心にあらず、三界は三界なりという内
容を持つた、一見矛盾する二つの表現がなされている。「三界唯
心」と言えば、壁頭にも引用されているように『華厳経』にその語
は発し、インドにおいてその唯心思想を発展体系づけたのは、喩伽
行派の唯識説である。『眼蔵』の研究は、ともすると禅師の仏法の特
異性が強調される傾向にあるが、この小論では、華厳・喩伽の思想
とも比較しながら、先の(一)(二)の二つの表現を手がかりとして、『眼
蔵』における「三界唯心」を、比較的観点より捉えてみたい。
(一) 三界即心-『眼蔵』において「唯心」とは、ただ心のみという
ことであつて、心の外に別に三界が有るのではなく、三界が即ち心
にほかならないとされる。それゆえ、有慮知念覚のみが心ではなく、
無慮知念覚・矯壁瓦礫・山河大地も、また青黄赤白・長短方円・生
死去来・年月日時等も心であると説かれる。『経豪抄』では、これ
だけに限らず、百千無量の詞をあげて心と談ずべきであると言つて
いるが、このことは、一切法が心であるということであり、この種
の表現は、『眼蔵』の各所に見られるものである。
ところで『華厳経』の唯心説では、次に述べる喩伽行派の唯識説
とは異なり、四大種の存在を認め、それが認識されうるのは心の虚
妄分別によると説かれるのである。
また、喩伽行派の論書の『摂大乗論』に、「青黄赤白これ心なり、
長短方円これ心なり」等の『眼蔵』の表現を想起させる、身識・身
者識・受者識等の十一識が説かれるが、これは、アーラヤ識より十
一識が顕現することを述べているのであつて、識の差別は一切法の
差別を表わしており、一切法即ち心であるという『眼蔵』の表現と
非常によく似ている。しかし、識(心)のほかに境(三界)の存在
を認めてはおらず、この立場に立つて十一識が説かれるのである。
『眼蔵』においては、『華厳経』の四大種の存在を認め、それが
認識されうるのは心の虚妄分別によるという説、あるいは、単に心
のみが有り、三界は心より顕現(pratibhasa)したものであつて実
在するものではない(唯識無境)という喩伽行派の説とも異なり、
心と言えばすべてが心であり、三界が存在しない(無境)のではな
く、「三界即心」なのであつて、両者は明らかに異なつている。
三界は心にあらず、三界は三界なりi「三界即心」ではあるが、
三界と心という二つのものがあつて、それが「即」であると言うの
ではない (三界は心にあらず)。三界という場合にはすべてが三界
であり(三界は三界なり)、心という場合にはすべてが心である。
ここには主観(心)と客観(三界)の関係はなく、三界が三界それ自
身を見ることが正しい三界の捉え方であると述べられている。三界
が三界を見るということは、換言すれば、心が心を見るということ
でもある。三界が三界を見、心が心を見るのであるから、もはや客
観としての三界、主観としての心ではない。主観客観を離れ、三界
を如実に捉えるということである。そして、この三界は、仏の身体
そのもの(「如来の我有」)であると説かれる。如実に捉えられた三
界が、仏の姿そのものとなるのである。それゆえ、矯壁瓦礫等及び
過現未の三世、即ち一切法が仏そのものであり、それが即心である
とするならば、それは仏心であると言える。
次に、『華厳経』の唯心偶を解釈して、山口益博士は、無量無辺
の有情界は心の顕現であり、有情界の顕現が仏の証悟の質料因とな
ると述べられているが、このことから、有情界の顕現が仏の証悟そ
のものと考えてよいであろう。この点において、心仏衆生の三者は
無差別と言われるのであり、これは、三界は即ち心であり、その三
界は仏そのものであるとする道元禅師の説に通じるものがある。
また喩伽行派の『中辺分別論』において、凡夫は識より顕現した
所取能取(grahya-grahaka)を実在するかの如く執著しているので
あるが、この二取の執著を離れたのが空性(sunyata)であると説
かれる。その空性においても虚妄分別即ち識は依他起性であるから
縁起的に生起している。しかし、所取(境)の無により能取(識)
は無となり、単に識は有としての面のみではなくして、無としての
面も持つている。これらのことが知られ得るのは聖者(仏)であり、
聖者は智(prajna)によつて如実に依他起性を見るのである。喩伽
行派においても、上田義文博士が述べられているように、主観客観
対立の思惟を脱し、ものをそのものの内から見るということによつ
て有るがままに見るということが説かれるのであり、そのように万
物を見ることが真如を知ることであり、諸法の実相を見ることなの
である。この点は『眼蔵』においても、「三界は三界の所見のごと
し」という表現によつて説かれており、『聞書』では明らかに「三
界唯心」と「諸法実相」とを同じ意味として用いている。
むすび-以上『眼蔵』の三界唯心の巻の唯心ということと、『華
厳経』の唯心説及び喩伽行派の唯識説とを比較しながら考察してき
たのであるが、日で述べたごとく、三界唯心の意味が両者の間にお
いて異なるのは、川田熊太郎博士が述べられているように、「唯心」
は喩伽行派においては最も重要な主張ではなく、『華厳経』におい
ても第六地の説であり、修行の過程におけるものであるが、これを
道元禅師は不十分なものとは見ず、仏法を十分に表現したものであ
るという立場より解釈されているからである。しかし、見たご
とく、両者に類似した点があるのは、後者に説かれている内容が究
極の立場、即ち仏の立場からのものである場合にそうであつて、こ
のことは、禅師の説示が仏(本証)の立場より常になされているこ
とを意味するものである。これまでの研究において、他の大乗仏教
の唯心説とは異なるという点のみが強調される傾向にあつたのは、
一方は本証の面から、他方は証への過程として「唯心」ということ
が説か酒ているという、その違いが明確にされていなかつたためと
思われる。しかし、その違いを除けば、両者の説は究極の所におい
て、むしろ非常に類似した内容を持つたものであると言うことがで
きよう。
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