「光明」という概念は「光明思想」として
位置づけられており、思想的な展開を示している概念である。その点、重要な
思想展開の基本。
07
明々たる光明は森羅万象である、森羅万象の光明と言えば、すべての草草の根と
言わず茎と言わず枝と言わず葉と言わず、花の光色も、光明であるほかはない、
自然の自性はそのまま光明であるほかはない。地獄道、餓鬼道、畜生道、人間道、
天に光明がある、修羅道に光明がある。これらの諸世界がどのようであるかを、
一切は巧妙であるほかはないと説いているのである。それは、どのように山河大地
を生ずるかを言うのである。光明の放光は山河大地の生と等しいのだ。
長沙がいう「尽十方界は、是自己の光明である」の言葉を、審らかに学ばねばならない。
光明こそが自己の尽十方界であることに学ばねばならない。
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尽十方界の語を駆使して、仏法を表現した有名な語句が『正法眼蔵』「光明」巻に採り
挙げられており、以下にそれらの語句を紹介してみる。
尽十方界是沙門の全身
尽十方界の真実に忠実な修行、即ち自我を超えた生命の在り方を実修実証(坐禅)して
いる沙門(出家僧)にとっては、人生上の苦楽、幸不幸等諸般の事実も、気候の変化等
自然の様相と同様にそのまま素直に受け入れる。
人生上(自我世界)の諸般の事実を超越して大自然に生きて、尽十方界真実規模の人生
を全うする。
「大自然にあっては、どのようなことがあっても当り前」(後述「平常心是道」)であ
り、天災地変等も人間世界において問題になるだけである。
尽十方界に生きる沙門には、如何なることがあっても平常底(何とも無し)に過ぎない
。この様に沙門の生活は、この宇宙そのものをそのまま全身としている。
尽十方界是沙門の家常カジョウの語
我々が生きている事実が大自然そのものの姿である。
出家の生活は、尽十方界がその規模であり、彼の日常生活(「家常」)の活動全てが、
尽十方界真実の実践(自己満足追求の放棄)であり、宇宙そのものの表現である。
尽十方界是沙門の一隻セキ眼
出家の生活(眼)は尽十方界を規模としている。即ち身体は大自然そのものであり、自
分の所有物ではない。
自我意識に引っ張り回されず、個人的なもの一切を超えて、宇宙の真実を実修し実証す
るのが仏道修行者であり、それが沙門である。
本来の大自然のあり方に忠実に生きるのが出家者の在り方である。
尽十方界是自己の光明
自己の存在(身体)は宇宙・大自然そのものである。大自然の光明(恩寵)により、我
々は生かされて生きている。これを「尽有光明」とも言う。
尽十方界一人として是自己に非ずということなし
我々にとって、この世界のありとあらゆるものは、如何なるものであろうと身内(親密
な関係)で無いものは何一つない。
常に全ては自己の全身であり、誰でも尽十方界真実を生きている。自他の対立なし。
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「仏祖の光明は、尽十方界なり。尽仏尽祖なり。唯仏与仏なり。仏光なり、光仏なり
。仏祖は仏祖を光明とせり。この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す」「尽十方
界これ自己の光明なり。尽十方界は自己の光明の裏にあり。尽十方界、これ一人の自己
にあらざるなし。仏道の参学、かならず勤学にすべし。転疏転遠なるべからず。」
「明明の光明は百草なり。」
「尽十方界は是自己なり、是自己は尽十方界なり。」
「人々ことごとく光明の在るあり。」
この巻は仁治三年六月二日、興聖宝林寺において、三更四点といいますから、夜の十
一時半過ぎに修行僧達に説かれたものであります。時は梅雨期旧暦六月、外はしとしと
と降る雨の音、軒先よりしたたり落ちる滴水の音が道元さまの説示の声とともに聞こえ
てまいります。
なぜ道元さまはこのような夜中に僧を集めて、この光明の巻を説かれたのでしょうか。
十一時半といえば陽の終わりの時間、陰の始まろうとする時間であります。なにか象
徴的なものを感じさせるものがあると思われます。世の中は陰と陽に分けられます。そ
して光明は陽であります。人間は陰から陽に向かって進むのが常であります。そしてお
釈迦さまはじめ歴代の祖師方は全て陽であり、光明を放っておられました。目に見えな
い光、エネルギーを持っておられました。例えばお寺におまつりされている仏さまには
後背があり、光の輪がありますが、これが光明であります。
道元さまは「仏さまやお祖師さまの光明というのは一切世界のことであり、一切世界
は佛であり、佛は真理の体現である。それは光明であり、光明を放っている。悟りをひ
らかれた仏祖はすべて光明である。光明が光明に、仏が仏に仏法を伝えて来たのである
。この光明を体現するために修行するのである。」と言われ「一切世界は自己の光明で
あり、自己の光明の内にある。一切世界のものごとで自己でないものはなく、自己即一
切世界、一切世界即自己である。悟りを求めようとするものは怠けることなく勤勉に学
習し修行すべきである。」「光り輝く光明は百草であり、百草とは一切世界である」そ
して「だれしも人々には光明があるのだ」と説かれました。
例えばお釈迦さまには多くの弟子がありました。そのお弟子さんはお釈迦さまの姿を
一目拝むだけで自然に引き寄せられ、法を聞く前にすでにその弟子になっていたとさえ
言われます。永平寺や総持寺の禅師さまがお授戒会などにお越しになり、そのお姿に接
するだけで自然に手が合わさるものです。これが光明であり、よく言われる「オーラ」
というものでしょう。禅師さまから目に見えないエネルギーが出ているのであります。
道元さまはじめ各宗の開祖さまにも、この光明が放たれていたのであり、陽気が放たれ
ていたのであります。
道元さまは一切世界が光明を持っており、それぞれがあるがままに真理を現している
といわれ、光明を放っていると説かれました。
例えば現代社会においても、繁栄する会社は社長さんが陽であり、光を放っているも
のであります。トップが暗く陰気であれば自然にエネルギーがなくなり、会社は衰退す
るものであります。家庭でも社会でも同じことが言えるでしょう。トップがしっかりし
て光明を放っていることが国栄え、社会や家庭が繁栄することになるのであります。し
たがってこの光明を放つように指導者をはじめ世の人々はだれしも精進しなければなら
ないのであります。
正法眼蔵一顆明珠の巻にも「全身これ真実体なり・・全身これ光明なり」という言葉
がありますが、光明はだれしも持っているものであり、これを本来の面目といい、仏性
といいます。光明を顕現させ、諸仏諸祖の光明と一体化しなければなりません。道元さ
まは当時宇治で修行しておりました修行僧に対してこの巻を説示されたのではあります
が、このことは現代社会に生きる私たちも心しなければならないことであります。
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今回は永平道元禅師によって口述され、狐雲懐弉(建久九[1198]年~弘安三[1280]年)に
よって書写されたと言われている『正法眼蔵』の「第十五巻の光明」の巻より「生死[
しょうじ]去来[こらい]は光明の去来なり」を中心に『形而上学の道』を探っていきた
いと思います。
それは、[生死去来は光明の去来なり。超凡越聖[ちょうぼんおっしょう]は、光明の藍
朱[らんしゅ]なり。作仏[さぶつ]、作祖[さそ]は光明の玄黄[げんおう]なり。修証はな
きにあらず、光明の染汚[ぜんな]なり。草木牆壁[しょうへき]、皮肉骨髄、これ光明の
赤白[しゃく、びゃく]なり。烟霞水石[えんかすいしゃく]、鳥道玄路、これ光明の廻環
[ういかん]なり。自己の光明を見聞するは値仏[ちぶつ]の証験なり、見仏の証験なり。
尽十方界は是自己なり。是自己は尽十方界なり。廻避[ういひ]の余地ある、べからず。
たとえ、廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。而今[しきん]の髑髏七尺、すなわち
尽十方界の形なり、象[しょう]なり。仏道に修証する尽十方界は、髑髏形骸[けいがい]
、皮肉骨髄なり。(生死去来は光明ですし、光明は生死去来なのです。光明の青や赤が
凡人や聖人からの超越となりますし、光明の黒や黄が諸仏や仏祖となるのです。修証と
は光明の染汚に他なりません。光明の赤や白が草木や土壁、身体の皮肉骨髄と現成しま
すし、光明の往還の内こそが、靄やかすみ、水や石、渡り鳥の飛ぶ道なのです。自己の
光明、それは自身仏となりますし、その体験となるのです。全世界は自己ですし、非自
己も全世界なのです。このように肯定すなわち否定という原理のすべては全世界に貫徹
していると言えるのです。たとえ避難すべき地にあろうとも、それも悟りへの道とつな
がるのです。今この身体こそが、それはそのままでも全世界の姿、形なのです。全世界
が自己の身心であるということこそが、仏道修業、悟りへの道となるのです)。」と。
そして、光明の染汚すなわち修証とは修証不二のことです。修証不二すなわち修証一等
とは只管打坐そのものなのです。実は光明の去来すなわち生死去来こそが正法眼蔵涅槃
妙心そのものなのです。また、この正法眼蔵涅槃妙心の人こそが超凡越聖の人と言える
のです。さらに、人が人として生きる目的とは実は諸仏や仏祖になることを言うのです
。その上で全世界すなわち自己ですから、自己こそが全世界と言えるのです。つまり、
この自己すなわち身心一如こそが正法眼蔵涅槃妙心の現成に他ならないのです。
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『正法眼蔵』における光明について(粟谷)
論題に示した「光明」という語は、仏典ハ・祖録において頻
繁に用いられており、仏教とは非常に縁の深い言葉である。
インドに仏教が創始されて以来、中国仏教、日本仏教におい
ても頻出する言葉であり、何か教理的な背景のあることを示
唆しているようにも思われるのである。言うまでもなく、イ
ンド仏教における「光明」という概念は「光明思想」として
位置づけられており、思想的な展開を示している概念である
と言ことができる。
イソド仏教において展開した「光明思想」は、その後、中
国や日本において如何なる経緯で展開して行ったのであろう
か。筆者においては大いに関心を抱かせる問題である。
日本曹洞宗の開祖である道元は、著書『正法眼蔵』におい
て、特に「光明」の巻を著しており、仏教が伝えてきた「光
明」に対して強い関心を抱いていたことを窺い知ることがで
きる。特に「光明」の巻ばかりではなく、著書『正法眼蔵』
の処々に「光明」の語を用いた記述を多く見いだすことがで
きる。このことは、道元の思想の根底に「光明」の概念が組
み込まれているであろうことを強く予想させるものである。
そこで、本論文においては、特に『正法眼蔵』に限定し
て、道元が「光明」について如何なる見解を有していたかを
論じることにしたい。まず、道元は、『正法眼蔵』において
「光明」の概念を如何なる典拠に基づいて述べているかにつ
いて述べ、次に、道元が「光明」に対して如何なる解釈を展
開しているかについて述べることとする。
二
まず、道元が用いている「光明」の典拠についてである
が、『正法眼蔵』中、「光明」の巻に三箇所、その他の巻に三
箇所、それぞれ典拠を明確にして「光明」の語を引用してい
る箇所を指摘することができる。すなわち、『正法眼蔵』中、
(1)大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云、尽十方界、是沙門
眼、尽十方界、是沙門家常語。尽十方界、是沙門全身。尽十方
界、是自己光明。尽十方界、在自己光明裏。尽十方界、無一人
不是自己。(光明、道元禅師全集上一一六頁)
(2)雲門山大慈匡真大師は、如来世尊より三十九世の児孫なり。
法を雲峯真覚大師に嗣す。仏衆の晩進なりといへども、祖席の
英雄なり。たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん。ある
とき、上堂示衆云、人人尽有光明在、看時不見暗昏昏、作麿生
是諸人光明在。衆無対。自代云、僧堂・仏殿・廣庫・山門。
(光明、道元禅師全集上一一九頁)
(3)張拙秀才は、石霜の俗弟子なり。悟道の碩をつくるにいは
く、光明寂照遍河沙。(空華、道元禅師全集上一一二頁)
(4)唐憲宗皇帝は、穆宗・宣宗両皇帝の帝父なり。敬宗文宗
武宗三皇帝の祖父なり。仏舎利を拝請して、入内供養のちなみ
に、夜放光明あり。皇帝大悦し、早朝の群臣、みな賀表をたて
まつるにいはく、陛下の聖徳聖感なり。ときに一臣あり、韓愈
文公なり、字は退之といふ。かつて仏祖の席末に参学しきたれ
り。文公ひとり賀表せず。憲宗皇帝宣問す、「群臣みな賀表を
たてまつる、卿なんぞ賀表せざる。」文公奏対す、「微臣かつて
仏書をみるにいはく、仏光は青黄赤白にあらず。いまのはこれ
龍神衛護の光明なり。」皇帝宣問す、「いかにあらんかこれ光明
なる。」文公無対なり。(光明、道元禅師全集上一一七ー一一八
頁)
(5)第十祖波栗湿縛尊者は、一生脇不至席なり。…・: 中略……尊
者の在胎六十年なり、出胎髪白なり、誓不屍臥、名脇尊者。乃
至暗中手放光明、以取経法。これ生得の奇相なり。(行持上、
道元禅師全集上一二四頁)
(6)長沙いはく、尽十方界、真実人体。尽十方界、自己光明裏。
(諸法実相、道元禅師全集上三七一頁)
と示される箇所であり、都合、六箇所において「光明」の語
が典拠を明記して引用されている。まず、とに示した箇
所では長沙景券に典ハ拠を求めており、『景徳伝灯録』巻第十
の長沙景雰章(大正蔵第五十一巻二七四頁上)に基づいた引用
であると思われる。次に、に示した箇所では雲門匡真に典ハ
拠を求めており、『円悟仏果禅師語録』巻第十九(大正蔵第四
十七巻八〇三頁上)からの引用であると思われる。次に、に
示した箇所では張拙秀才に典拠を求めており、『聯灯会要』
巻第二十二(卍続蔵第一三六冊三九七左上)からの引用である
と思われる。次に、に示した箇所では憲宗皇帝と韓愈文公
の問答に典拠を求めており、『宗門統要集』巻第七(三十三
裏)からの引用であると思われる。そして、に示した箇所
では第十祖波栗湿縛尊者の伝記に典ハ拠を求めており、『止観
輔行伝弘決』巻第一之一(大正蔵第四十六巻一四六頁上)からの
引用であると思われる。
このように、『正法眼蔵』では五種の出典より「光明」の
語を引用しており、伝統的に広範囲に「光明」の語が用いら
れていたことを示唆している。すなわち、複数の典拠を明記
することにより、教理的に「光明」の語が重要な概念を示す
言葉であることを暗示しているものと思われるのである。ま
た、道元が複数の典ハ拠を明記して「光明」の語を引用してい
るということは、その背景に道元の意図が看取されるのであ
り、強く訴えなければならなかった当時の時代的な趨勢を感
じ取ることができるのである。
三
道元が明記して引用している「光明」の典拠は以上の五種
六箇所なのであるが、前にも述べたように、イソド仏教以
来、中国・日本においても「光明」の語は多く用いられてい
る。以下、この問題について少しく言及しておくことにす
る。まず、『正法眼蔵』「光明」の巻には、
震具国後漢の孝明皇帝、帝誰は荘なり、廟号は顕宗皇帝とまう
す。光武皇帝の第四の御子なり。孝明皇帝の御宇、永平十年戊辰
の年、摩騰迦・竺法蘭、はじめて仏教を漢国に伝来す。焚経台の
まへに、道士の邪徒を降伏し、諸仏の神力をあらはす。それより
のち、梁武帝の御宇、普通年中にいたりて、初祖みつから西天よ
り南海広州に幸す。これ正法眼蔵正伝の嫡嗣なり。釈迦牟尼仏よ
り二十八世の法孫なり。ちなみに嵩山少室峯少林寺に掛錫しまし
ます。法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曽な
り。それよりさきは仏祖光明を見聞せるなかりき。いはんや自
己の光明をしれるあらんや。(道元禅師全集上一一六頁)
とあり、仏教が中国へ伝来された状況について記述されてい
る。この中で、永平十年に中国へ仏教が伝来されたと述べて
いるのであるが、「正法眼蔵」が中国へ正伝されたのは菩提
達磨の西来を最初としているのである。また、中国における
「仏祖光明」の伝来についても菩提達磨を最初としているの
である。そして、更には「法を二祖大祖禅師に正伝せりし、
これ仏祖光明の親曽なり、それよりさきは、仏祖光明を見聞
せるなかりき。いはんや自己の光明をしれるあらんや。」と
述べており、永平十年に仏教が中国に伝来されたにもかかわ
らず、達磨が中国に渡来するまでは中国において「仏祖光
明」は伝来されていなかったことを赤裸々に強調しているこ
とが理解されるのである。すなわち、このことより、道元の
求める仏教とは、「正法眼蔵」であり、「仏祖光明」であると
言うことができる。
道元が述べている「光明」とは、この箇所を見る限り、勿
論、「正法眼蔵」のことではあるが、「仏祖の光明」と「自己
の光明」との二種に言い表される「光明」であると言うこ
とができる。このうち、「自己の光明」は道元が長沙の言葉
として引用している典拠の中に見いだすことができる。しか
し、「仏祖の光明」については道元が引用している典拠の中
には見いだすことができない。このことより、「仏祖の光明」
は、長沙の「自己の光明」に基づいた道元の解釈とも予測す
ることができる
ずれにせよ、道元の主張する「正法眼蔵」
としての「光明」は、「仏祖の光明」であり、「自己の光明」
であると言うことができる。
道元の主張は「仏祖の光明」と「自己の光明」にあると述
べたのであるが、道元は、この二種に言い表された「光明」
に対する誤った解釈を紹介し、その誤った解釈に対する厳し
い批判的な見解を主張している。特に「仏祖の光明」につい
ては、『正法眼蔵』「坐禅箴」の巻において、
仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参学するな
り、おろかなるともがらは、仏光明をおやまりて、日月の光明の
ごとく、珠火のごとくあらんずるとおもふ。日月光耀は、わつか
に六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。(道元禅
師全集上九六頁)
と述べており、「おろかなるともがら」の誤った解釈に対す
る道元の批判的な見解が展開されている。誤った見解とは
「仏祖の光明」を「日月の光明」ないし「珠火の光耀」と解
釈することであり、このような解釈に対し、「六道輪廻の業
相」と述べて厳しく批判している。すなわち、この箇所よ
り、道元は少なくとも「仏祖の光明」を「日月の光明」ない
し「珠火の光耀」とは解釈していないと言うことができる。
また、『正法眼蔵』「光明」の巻では、
転疏転遠の臭皮袋おもはくは、仏光も自己光明も、赤白青黄にし
て、火光・水光のごとく、珠光・玉光のごとく、龍天の光のごと
く、日月の光のごとくなるべしと見解す。或従知識し、或従経巻
すといへども、光明の言教をきくには、蛍光のごとくならんとお
もふ、さらに眼晴頂額の参学にあらず。漢より晴・唐・宋および
而今にいたるまで、かくのごとくの流類おほきのみなり。文字の
法師に習学することなかれ、禅師胡乱の説きくべからず。(道元
禅師全集上一一七頁)
と述べており、「転疏転遠の臭皮袋」などの誤った解釈が指
摘されている。この箇所では、「仏祖の光明」ばかりではな
く、「自己の光明」についても言及されている。まず、「転疏
転遠の臭皮袋の」誤った解釈として、「仏祖の光明」ないし
「自己の光明」を「青黄赤白」の「火光」、「水光」、「珠光」、
「玉光」、「龍天の光」、「日月の光」と解釈する見解であるこ
とを指摘している。更に、誤った見解として、「光明」を
「蛍光」と解釈する見解を指摘しているOそして、続いて、
「漢より晴・唐・宋および而今にいたるまで、かくのごとく
の流類おほきのみなり。」と述べており、仏教が中国へ伝来
した漢代より道元存命の時代に至るまでの間、誤った「光明
解釈」が横行していたことを強く訴えている。
中国では勿論のこと、特に「而今にいたるまで」と述べて
いるところより、道元が著書『正法眼蔵』を執筆していた頃
の日本においても誤った「光明解釈」が横行していたことを
窺い知ることができる。その批判の対象として「文字の法
師」と「禅師胡乱の説」を指摘しているのであるが、それら
が具体的に誰を指すかは明記されていない。また、「光明の
言教」という指摘であるが、この表現は単なる「光明」の言
葉のみを指しているのではなく、教理学的な背景を有してい
る「光明」としての教えを指して述べているように受け取る
ことができる。具体的に何を指しているかは不明であるが、
道元の心中においては具体的なターゲットが銘記されていた
ものと思われるのである。特に「而今」の「光明の言教」と
いうことになれぽ、日本における具体的なターゲットが想定
されることになり、道元の心中穏やかならぬ批判の矛先が秘
められているということになる。
このように、間違った「光明解釈」に対する道元の批判
は、その対象を「おろかなるともがら」、「転疏転遠の臭皮
袋」、「文字の法師」、「禅師胡乱の説」と述べているだけであ
り、具体的なターゲットの名称については残念ながら明記さ
れていない。すなわち、今の時点では、その具体的批判対象
については知ることができない。そのような状況の中で、
「光明」についての具体的な問題として、『正法眼蔵』「光明」
の巻に、
唐憲宗皇帝は、穆宗・宣宗両皇帝の帝父なり。……中略……文公
奏対す、「微臣かつて仏書をみるにいはく、仏光は青黄赤白にあ
らず。いまのはこれ龍神衛護の光明なり。」皇帝宣問す、「いかに
あらんかこれ光明なる。」文公無対なり。いまこの文公、これ在
家の士俗なりといへども、丈夫の志気あり、回天転地の材といひ
ぬべし。かくのごとく参学せん、学道の初心なり。不如是学は非
道なり。たとひ講経して天華をふらすとも、いまだこの道理にい
たらずば、いたづらの功夫なり。たとひ十聖三賢なりとも、文公
と同口の長舌を保任せんとき、発心なり、修証なり。しかありと
いへども、韓文公なほ仏書を見聞せざるところあり。いはゆる仏
光非青黄赤白等の道、いかにあるべしとか学しきたれる。卿もし
青黄赤白をみて仏光にあらずと参学するちからあらば、さらに仏
光をみて青黄赤白とすることなかれ。憲宗皇帝もし仏祖ならんに
は、かくのごとくの宣問ありぬべし。(道元禅師全集上一一七ー 一一八頁)
と示されている箇所がある。この箇所は、唐の憲宗皇帝と韓
愈文公の問答と道元の拮提を示した箇所であり、憲宗皇帝と
韓愈文公の両者に対して道元の緩やかな批判が示されている
箇所である。特に韓愈文公については「丈夫の志気」、「回天
転地の材」、「学道の初心」と述べて評価を加えており、「光
明」の解釈についても「仏光は青黄赤白にあらず。」と述べ
ている点については一応の評価を加えている。ただ、文公が
「龍神衛護の光明」と述べている点については「仏光をみて
青黄赤白とすることなかれ。」と述べて批判を加えている。
また、憲宗皇帝に対しては文公に対する最後の一言が不足し
ている点を戒めており、彼に対しても完壁な「光明解釈」を
要求している。この箇所より言えることは、第一には「青黄
赤白の光」を「仏祖の光明」と解釈してはいけないというこ
とであり、第二には「仏祖の光明」を「青黄赤白の光」と解
釈してはならないということである。すなわち、道元の主張
は「仏祖の光明」と「青黄赤白の光」とは全く異なるもので
あるという点にある。
ところで、前には「光明」の典拠を明記した出典が五種あ
ると述べたのであるが、道元の主張を考慮するならば、憲宗
皇帝と韓愈文公の問答と第十祖波栗湿縛尊者の伝記について
は道元の主張する「光明」の典拠と言うことはできない。
四
以上、『正法眼蔵』における「光明」についての序論的な
問題に関して述べてきたのであるが、以下の点を指摘してお
くことができる。
第一に、『正法眼蔵』では「光明」の典拠を長沙景零と雲門
匡真と張拙秀才に求めていると言うことができる。第二に、
『正法眼蔵』では「光明」を特に「仏祖の光明」と「自己の
光明」の二種の言い方により主張していると言うことができ
る。第三に、道元の主張する「仏祖の光明」と「自己の光
明」の中国への伝来は菩提達磨を最初としている点を指摘す
ることができる。すなわち、道元は中国に仏教が伝来された
とされている永平十年には正法眼蔵である「仏祖の光明」や
「自己の光明」は伝えられなかったことを主張している。第
四に、『正法眼蔵』では「仏祖の光明」や「自己の光明」を
「日月の光明」、「珠火の光明」、「火光」、「水光」、「珠光」、
「玉光」、「龍天の光」、「蛍光」、と解釈する見解を厳しく批判
しており、そのような見解を「おろかなるともがら」、「転疏
転遠の臭皮袋」、「文字の法師」、「禅師胡乱の説」と述べて斥
けている点を指摘することができる。これは「仏祖の光明」
や「自己の光明」を誤って解釈している事例を示していると
言うことができる。第五に、道元の「光明解釈」は「青黄赤
白の光」を「仏祖の光明」と見誤らないことであり、同時に
「仏祖の光明」を「青黄赤白の光」と見誤らないことである
と言うことができる。
以上の点を指摘することができるのであるが、本論文では
「光明」についての序論的な問題の指摘に留まってしまった。
道元の主張する「仏祖の光明」や「自己の光明」については
別の機会に譲ることする。
〈キーワード〉正法眼蔵、光明、仏祖の光明、自己の光明
(曹洞宗宗学研究所
ーーーーーーーーー
正法眼蔵 第十五 光明
大宋國湖南長沙招賢大師、上堂示衆云、
盡十方界、是沙門眼。
(盡十方界、是れ沙門の眼)
盡十方界、是沙門家常語。
(盡十方界、是れ沙門の家常語)
盡十方界、是沙門全身。
(盡十方界、是れ沙門の全身)
盡十方界、是自己光明。
(盡十方界、是れ自己の光明)
盡十方界、自己在光明裏。
(盡十方界、自己の光明裏に在り)
盡十方界、無一人不是自己。
(盡十方界、一人として是れ自己にあらざる無し)
佛道の參學、かならず勤學すべし。轉疎轉遠なるべからず。これによりて光明を學得せ
る作家、まれなるものなり。
震旦國、後漢の孝明皇帝、帝諱は莊なり、廟號は顯宗皇帝とまうす。光武皇帝の第四の
御子なり。孝明皇帝の御宇、永平十年戊辰のとし、摩騰、竺法蘭、はじめて佛を漢國に
傳來す。焚經臺のまへに道士の邪徒を降伏し、佛の力をあらはす。それよりのち、梁武
帝の御宇、普通年中にいたりて、初みづから西天より南海の廣州に幸す。これ正法眼藏
正傳の嫡嗣なり、釋牟尼佛より二十八世の法孫なり。ちなみに嵩山の少室峰少林寺に掛
錫しまします。法を二太禪師に正傳せりし、これ佛光明の親曾なり。それよりさきは佛
の光明を見聞せるなかりき、いはんや自己の光明をしれるあらんや。たとひその光明は
頂より擔來して相逢すといへども、自己の眼睛に參學せず。このゆゑに、光明の長短方
圓をあきらめず、光明の卷舒斂放をあきらめず。光明の相逢を却するゆゑに、光明と光
明と轉疎轉遠なり。この疎遠たとひ光明なりとも、疎遠に礙せらるるなり。
轉疎轉遠の臭皮袋おもはくは、佛光も自己光明も、赤白黄にして火光水光のごとく、珠
光玉光のごとく、龍天の光のごとく、日月の光のごとくなるべしと見解す。或從知識し
、或從經卷すといへども、光明の言をきくには、螢光のごとくならんとおもふ、さらに
眼睛頂の參學にあらず。漢より隋唐宋および而今にいたるまで、かくのごとくの流類お
ほきのみなり。文字の法師に學することなかれ、禪師胡亂の、きくべからず。
いはゆる佛の光明は盡十方界なり、盡佛盡なり、唯佛與佛なり。佛光なり、光佛なり。
佛は佛を光明とせり。この光明を修證して、作佛し、坐佛し、證佛す。このゆゑに、此
光照東方萬八千佛土の道著あり。これ話頭光なり。此光は佛光なり、照東方は東方照な
り。東方は彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、拳頭の中央なり。東方を礙すといへ
ども、光明の八兩なり。此土に東方あり、他土に東方あり、東方に東方ある宗旨を參學
すべし。萬八千といふは、萬は半拳頭なり、半心なり。かならずしも十千にあらず、萬
萬百萬等にあらず。佛土といふは、眼睛裡なり。照東方のことばを見聞して、一條白練
去を東方へひきわたせらんがごとくに憶想參學するは學道にあらず。盡十方界は東方の
みなり、東方を盡十方界といふ。このゆゑに盡十方界あるなり。盡十方界と開演する話
頭すなはち萬八千佛土の聞聲するなり。
唐憲宗皇帝は、穆宗、宣宗、兩皇帝の帝父なり。敬宗、文宗、武宗、三皇帝の父なり。
佛舍利を拜して、入内供養のちなみに、夜放光明あり。皇帝大し、早朝の群臣、みな賀
表をたてまつるにいはく、陛下の聖聖感なり。
ときに一臣あり、韓愈文公なり。字は退之といふ。かつて佛の席末に參學しきたれり。
文公ひとり賀表せず。
憲宗皇帝宣問す、群臣みな賀表をたてまつる、卿なんぞ賀表せざる。
文公奏對す、微臣かつて佛書をみるにいはく、佛光は黄赤白にあらず。いまのこれ龍衞
護の光明なり。
皇帝宣問す、いかにあらんかこれ佛光なる。
文公無對なり。
いまこの文公、これ在家の士俗なりといへども、丈夫の志氣あり。囘天轉地の材といひ
ぬべし。かくのごとく參學せん、學道の初心なり。不如是學は非道なり。たとひ講經し
て天花をふらすとも、いまだこの道理にいたらずは、いたづらの功夫なり。たとひ十聖
三賢なりとも、文公と同口の長舌を保任せんとき、發心なり修證なり。
しかありといへども、韓文公なほ佛書を見聞せざるところあり。いはゆる佛光非黄赤白
等の道、いかにあるべしとか學しきたれる。卿もし黄赤白をみて佛光にあらずと參學す
るちからあらば、さらに佛光をみて黄赤白とすることなかれ。憲宗皇帝もし佛ならんに
は、かくのごとくの宣問ありぬべし。
しかあれば明明の光明は百草なり。百草の光明、すでに根莖枝葉、花菓光色、いまだ與
奪あらず。五道の光明あり、六道の光明あり。這裏是什麼處在なればか、光明する。云
何忽生山河大地なるべし。長沙道の盡十方界、是自己光明の道取を審細に參學すべきな
り。光明、自己、盡十方界を參學すべきなり。
生死去來は光明の去來なり。超凡越聖は、光明の藍朱なり。作佛作は、光明の玄黄なり
。修證はなきにあらず、光明の染汚なり。草木牆壁、皮肉骨髓、これ光明の赤白なり。
烟霞水石、鳥道玄路、これ光明の廻環なり。自己の光明を見聞するは、値佛の證驗なり
、見佛の證驗なり。盡十方界は是自己なり。是自己は盡十方界なり。廻避の餘地あるべ
からず。たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。而今の髑髏七尺、すなはち盡
十方界の形なり、象なり。佛道に修證する盡十方界は、髑髏形骸、皮肉骨髓なり。
雲門山大慈雲匡眞大師は、如來世尊より三十九世の兒孫なり。法を雪峰眞覺大師に嗣す
。佛衆の晩進なりといへども、席の英雄なり。たれか雲門山に光明佛の未曾出世と道取
せん。
あるとき、上堂示衆云、人人盡有光明在、看時不見暗昏昏、作麼生是人光明在(人人盡
く光明の在る有り、看る時見ず暗昏昏なり。作麼生ならんか是れ人の光明在ること)。
衆無對(衆、對ふること無し)。
自代云(自ら代て云く)、堂佛殿廚庫三門。
いま大師道の人人盡有光明在は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、
傍觀の現成といはず。人人、自有、光明在と道取するを、あきらかに聞持すべきなり。
百千の雲門をあつめて同參せしめ、一口同音に道取せしむるなり。人人、盡有、光明在
は、雲門の自構にあらず、人人の光明みづから拈光爲道なり。人人盡有光明とは、渾人
自是光明在なり。光明といふは人人なり。光明を拈得して、依報正報とせり。光明盡有
人人在なるべし、光明自是人人在なり、人人自有人人在なり、光光自有光光在なり、有
有盡有有有在なり、盡盡有有盡盡在なり。
しかあればしるべし、人人盡有の光明は、現成の人人なり。光光、盡有の人人なり。し
ばらく雲門にとふ、なんぢなにをよんでか人人とする、なにをよんでか光明とする。
雲門みづからいはく、作麼生是光明在。
この問著は、疑殺話頭の光明なり。しかあれども、恁麼道著すれば、人人、光光なり。
ときに衆無對。
たとひ百千の道得ありとも、無對を拈じて道著するなり。これ佛使用傳の正法眼藏涅槃
妙心なり。
雲門自代云、堂佛殿廚庫三門。
いま道取する自代は、雲門に自代するなり、大衆に自代するなり、光明に自代するなり
。堂佛殿廚庫三門に自代するなり。しかあれども、雲門なにをよんでか堂佛殿廚庫三門
とする。大衆および人人をよんで堂佛殿廚庫三門とすべからず。いくばくの堂佛殿廚庫
三門かある。雲門なりとやせん、七佛なりとやせん。四七なりとやせん、二三なりとや
せん。拳頭なりとやせん、鼻孔なりとやせん。いはくの堂佛殿廚庫三門、たとひいづれ
の佛なりとも、人人をまぬかれざるものなり。このゆゑに人人にあらず。しかありしよ
りこのかた、有佛殿の無佛なるあり、無佛殿の無佛なるあり。有光佛あり、無光佛あり
。無佛光あり、有佛光あり。
雪峰山眞覺大師、示衆云、堂前、與人相見了也(堂前に、人と相見し了れり)。
これすなはち雪峰の通身是眼睛時なり、雪峰の雪峰を見する時節なり。堂の堂と相見す
るなり。
保、擧問鵞湖、堂前且置、什麼處望州亭、烏石嶺相見(保、擧して鵞湖に問ふ、堂前は
且く置く、什麼の處か望州亭、烏石嶺の相見なる)。
鵞湖、驟歩歸方丈(鵞湖、驟歩して方丈に歸る)。
保、便入堂(保便ち堂に入る)。
いま歸方丈、入堂、これ話頭出身なり。相見底の道理なり、相見了也堂なり。
地藏院眞應大師云、典座入庫堂(典座庫堂に入る)。
この話頭は、七佛已前事なり。
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