2016年9月7日水曜日

恁麼(いんも)

ここにいわれているところは、「人が本来のままの事象を理解しようとおもうならば、
当然この物は本来の人である。すでにこの者は本来人である。どうして己がありのまま
であることを愁うことがあろうか」である。この趣旨は人が翻然と無常の覚りを願い
有無の世界、現象の世界を超越し透脱したいと願うことを、ここでは「恁麼」の言葉
によって開示している。

ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)
をしたおかげである!
そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。
なんとか 道得なり?

04
「そのような事象」が「そのよう」であるのも、驚くに当たらない。たとえ驚き怪しま
れる
ような「そのよう」があろうとも、それもまた「そのよう」であるほかはない。
驚くには当たらない事象としての「そのよう」もあるのだ。こうした事象は覚りによっ
て
推量されるものではない、心の作用によってすいりょうされるものではない、現象とし
て
推量されるものではない、現実世界によって推量されるものではない、ただまさに
「本来人は恁麼人である、どうして愁えることがあろう、人はどのようであれ普遍の
理法を備えている何ものかである、何事も理法の中にある作用である何事である、
何の愁えることがあろうか」である。


恁麼 【心経と西洋哲学】

「恁麼物恁麼来(いんもぶついんもらい) 平成20年2月2日追補 

仏教が哲学であることは松岡正剛氏も千夜千冊で 述べておられる。
松岡正剛 千夜千冊 道元 「正法眼蔵」
第九百八十八夜【0988】04年6月9日 
道元にアランやハイデガーやベルグソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、
ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、・・・
・・。
さて、ここで正法眼蔵の各巻についての簡単な解説があるのだが、そのなかに
十 七「恁麼」。「いんも」と訓む。「そのような、そのように、どのように」という
ようなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁
麼なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁
麼あるなり」というふうに。
とのコメントがある。さらに
訳注 増谷文雄 正法眼蔵 「恁麼」の開題には
「恁麼」という言葉は、よく知られているように、禅門の人々が好んで口にし、筆にす
るところのものである。そのことばは、もと宋代の俗語にいずるところであって、・・
・。俗語の意味としては「このような」とか、「このとおり」とか、そのとおり」とか
いうことであり、それが形容詞にも、名詞にも、また疑問詞にも用いられているようで
ある。だから、試みに「恁麼物恁麼来」なる句を、和文でも俗語風に訳して
みるならば、「こげん物がどげんして来よったのじゃ」といった具合にもなろうと
いうものである。
では、いったい、そんな俗語に託して、禅門の人々がいわんとするところは
何であるか。
それは、はなはだ微妙であって、ずばりということは難しい。いま、道元がこの一巻を
もって語ろうとしていることも、その微妙なる意味を、なにとぞして説かんとするので
ある。
とかかれている。この「恁麼」なることばはかなりのくせものである。
一つにいかで「恁麼」なるほどの粗野な言いようをするのかということ。
二つには 多様なそのもちいかたである。
恁麼の「それ・これ」は何を示すのか?

いくつかの恁麼の用例をみてみると「そげんこつ」はどうも
「無上菩提上(むじょうぼだいじょう)」の 諸々の在り様 いわゆる「陀羅尼・真言
あるいは諸法」など をさし示していると見取される。なれば
禅門の恁麼人といえども 「そげんこつ」を問著せん! とするとき、
いささかなりとも「間接的な表現」を取らざるを得まい。「陀羅尼・真言あるいは諸法
」などなどは あからさまに問著されるものではあるまい。
恁麼とは「縁起なるもの」の代名詞ではないか?
ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)
をしたおかげである!
そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。
なんとか 道得なり?
旧タイトル 心経と西洋哲学
放送大学の共通科目 「現代を生きる哲学」 を拝聴した。
「哲学」の講義を受けたのははるか遠い昔である。教養課程の一単位として哲学を選択
したものの、その難解な言葉に恐れおののいたことだけ 記憶に残っている。
しかし今回の講義を「般若心経」と読み比べてみると、あまりにも類似していることに
驚嘆する。
ヘラクレイトスの言葉といわれる「万物は流転する」は 仏教の根本思想である「無常
=恒常であるものは無い」の肯定的表現であり、カントの超越論的または先験的理性と
はアーラヤ識・マナ識といった唯識に通ずるものであろう。
「色即是空」とはフッサールにおける「主観・客観を融合した意識流、(色空本より不
二なり=空海)」であり 、
「不垢不淨」はライプニッツのモナード論「予定調和」になろう。
「不増不減」はエネルギー保存の法則であり、
マッハにおける時間空間の関数的見解は八不の「不来不去」を思い起こさせる。
「諸法空相」はボームの「顕然秩序・内蔵秩序」そのもののようである。
なんて事だ!「心経」の266文字のうちに、コントの総てが包含されている。
しかしこれはあくまで「是故空中無色・・・・」 を
「これゆえ空のなかは無・・・・」と読む「漢文の読み方」ではなく、
「これゆえ空は中である。無・・・・」と読解した帰結である。
羯諦  羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶!



(十六)【本文】冀こいねがわくは其れ参学の高流こうる 久しく摸象もぞうに習つて
真龍を恠あやしむこと勿れ。 直指じきし端的の道に精進し、絶学無為むいの人を尊貴
そんきし、仏ぶつ仏の菩提に合沓がっとうし、祖そ祖の三昧ざんまいを嫡嗣てきしせよ
。 久しく恁麼いんもなることを為なさば須く是れ恁麼なるべし。 宝蔵ほうぞう自ら開
ひらけて受用じゅよう如意にょいならん。

【意訳】 どうか、「参学の高流」即ち仏道を学ぶ修行者の方々に、お願いしたいもの
だ。これからもずっと、「摸象に習って」即ち迷悟・喜怒哀楽など一時の生命活動の表
情・景色に振り回されずに、自我意識発現以前の生命本来の尽十方界真実(人体)を実
践していただきたい。また「真龍を恠しむこと勿れ」即ち自分が理想とするさとりを得
ようとするような自己満足追求を放棄して、本来の尽十方界真実(真の悟)を実修実証
してもらいたい。
そして「直指端的の道」即ち尽十方界真実の実践そのものである只管打坐の坐禅を努め
励むと共に、「絶学無為の人」即ち仏(尽十方界真実人体)を尊重し、「仏仏の菩提」
即ち全ての真実実践者の真実の修行生活に、自らを「合沓」即ち重ね合わせ、「祖祖」
即ち歴代の仏祖方(仏と祖師)の「三昧」即ち正伝の坐禅を正しく受け継いでもらいた
い。 とこしえに、「恁麼なること」即ち尽十方界真実の実践(坐禅)に徹するならば
、まさに「恁麼」即ち仏(尽十方界真実人体)が実際に実現しているであろう。
そしてその時、「宝蔵」即ち我々にとって最高の宝である身体本来の生命活動により、
「受用如意」即ち自我意識が支配する人生(人間生活)は棚上げされて、誰でも自我(
人間生活)に伴う行き詰まりが自然に無くなっているのである。

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