ただここで道元禅師が言っておられるのは、仏教と言うのはやはり善悪を非常に重視す
る思想だ。だから大乗仏教の善悪を問題にしない思想と言うものが中心で、小乗仏教の
様に善悪を問題にするのは、仏教の区分けからすると地位が低いというふうな考え方が
あるけれども、それは必ずしも正しくない。また一方善悪と言うのは基準によって様々
に解釈できる。だからAの人が善いことだと思っておることが、Bの人にとっては悪い
ことだというふうな、立場が変わると善悪が入れ替わるということはいくらでもある。
だからそういう点では、善悪そのものがなかなか難しい問題を含んでおる。
そういうふうな問題も含めて、仏教においては善悪と言うものが非常に大事だ。ただそ
の善悪と言うものは人間の具体的な現実の状況に即して理解されなければならない。だ
からそれは頭の中だけで善いとか悪いとかというふうに考えるべきものではなくて、人
間の行動として善いとか悪いとかということを考えていかなければならないということ
を述べておられるわけであります。その考えにおける善悪と行いにおける善悪との違い
について、この「正法眼蔵」の諸悪莫作の巻では、一番最後のところに中国人の詩人で
ある白楽天と道林禅師と言う僧侶との問答が載せてある。
その話はどういうことかと言うと、白楽天は仏教に関心が深くて、林道禅師のところで
も一所懸命修行をしておった。ある時師匠の林道禅師に白楽天は「仏教というのは一体
どういう教えですか」と言う質問をした。それに対して、林道禅師が「悪いことをやら
ない、善いことをやる、それが仏道だ」と言う返事をした。ところが白楽天は仏道と言
うのはもっと哲学的な、もっと高尚な教えだと思っておった。そこで「もし仏教と言う
のがそういうふうなものであるならば、三才の子供でもそういうことなら言えそうだ」
というふうに反問した。ところがそれに対する師匠の返事が「確かに三才の子供でも言
えるかもしれないけれども、八十才の老人になっても実行は不可能だ」と言われた。で
、白楽天も「なるほど」というふうに感じたので、その場を引き下がったという話がこ
の「諸悪莫作」の巻の最後のところに載っておる。
そういう話から推察できるところは、善悪と言うものを理屈をこねて「あれがいい」「
これが悪い」と言うことをいうのはいくらでもできる。誰でもできる。ただ自分自身が
主役になって善いことをやり、悪いことをやらんということが出来るか出来ないかとい
うことが仏道の問題であり、非常に大切な問題。口先だけで人に聞こえて都合のいいこ
とばかりしゃべっておっても、自分自身で実際に行動できるかどうかということが仏道
の問題。だから普通の思想と言うものは、頭の中だけで「これがいい」「これが悪い」
「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言う思想が多いけれども、仏道では実際問題とし
て、実際に行動できるか行動できないかということを問題にするわけです。そういう点
でこの「諸悪莫作」の巻は説かれておるわけであります。
諸悪莫作の巻、本文に入ります。
過去における真実を得られた方々が言われている言葉に、諸悪莫作(様々の悪をなすこ
となく)、衆善奉行(様々の善いことを実際に行うべきである)。そうすれば自然にその
心が清くなっていく。過去において沢山の真実を得られた方々が共通に説かれた教えと
は、この「諸悪を作さず、衆善を行う」ということに尽きる。
01
釈迦牟尼は云った、
「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)、自浄其意
(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
諸悪は作ることがない、われわれはもろもろの善をおこなうのである、自らその
心を清浄にするのは、是諸覚者の教えである」と
02
これは釈迦牟尼に至る7仏の通戒偈として、それより以前の覚者から後の覚者へ
伝えたものである。
03
すべての現象と存在は時である。善悪は時である。しかし時は善悪とはかかわりがない。
善悪は現象である。しかし現象は善悪とかかわりがない。現象と言えば現象であり、
悪と言えば悪である、現象と言えばげんしょうであり、善と言えば善である。
04
このように、無上の覚りを学ぶ時、教えを聞き、覚りを得るとき、深く、遠く、
玄妙である。この無上の覚りをあるいは師に導かれて聞き、あるいは経巻によって
学ぶ時はじめて、「諸悪は作ることがない」と理解するのである。
「諸悪を造ることがない、あることがない」と理解しないあならば、仏道ではない、
俗説である。
知らねばならない、「諸悪は作ることなし」と理解するのが、正しいのである。
これを諸悪を作ることなかれ」というのは、修行を積まない凡夫が世俗の道徳として
云い始めたものではない、覚りの言葉とされ教えとして聞き、そのように理解
したのである。
12
諸悪とは「作なしてはならない」という意識であると把握するとき、修行の全過程
において、諸悪は「なしてはならない」から「作つくることなし」に本質的に位相を
変える、諸悪は因縁によって生ずるものではないから、ただ「作ることなし」と
転換するのである。諸悪は因縁によってなくなるものではないから、ただ「作ることなし」
である。現象のなかにこれは悪だと定義されるものはない、諸悪がもし現象である
ならば、諸現象としてすべてと平等である。、、、、
このように諸悪はないのではない、「作ることなかれ」であり、その本質は「作ることなし」
である。
莫作について
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょう
ごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
過去における真実を得られた方々が、言われた言葉に『諸悪莫作衆善奉行』
があります。
諸悪莫作----さまざまの悪というものをなす事なく
衆善奉行----さまざまの善い事を実際に行うべきである。
諸悪莫作衆善奉行を行えば、自然にその心が清くなっていく。
過去において、たくさんの真実を得られた方々がおられるけれども、その方々が共通に
説かれた教えは、この『諸悪ヲ作サズ、衆善ヲ行ナウ』と言うことに衝きます。
釈尊の説かれた教えは、釈尊が初めて説かれたところではあるけれども、その考え方と
は、非常に古い時代からあったと言う事が信仰の基礎になっています。
釈尊の説かれた教えは、単に釈尊が生きられた時代に初めて始まった事ではない。
その考え方・その原理は、ほとんど無限と言っていいくらい古い時代からすでに現存し
ていた。
そしてまた、無限と言っていいくらい今後も続くものだと言う信仰である。
釈尊の前に六人の真実を得られた方々があって、釈尊をあわせて七人の仏がいるという
考え方です。
私は、この巻を読むまでは、「諸悪莫作」は、「もろもろの悪をなすことなかれ」とい
う戒めの言葉だと思っていた。
道元禅師もこの巻のなかで、仏の教えをはじめて聞いたときにこのように聞こえるの
は正しいことだと言っておられる。むしろ、このように聞こえないのは、魔説だと言っ
ておられる。
しかし、この言葉は菩提語であり、その願いをもって仏が修行された力によって「も
ろもろの悪はなさず」が現成し、全世界、全宇宙を支配しているとされる。
「莫」は、「なかれ」とも読むが「なし」とも読む。
この言葉が漢訳される前の仏典ではどのように書かれていたのだろうか。
原始仏典の一つである「ダンマパダ(真理の言葉)」では、パーリ語で、
「すべての悪をなさず、
善いことを実現し、
自分の心を清らかにすること。
これが目覚めた人たちの教えである。」
と書かれているそうである。(中村元さんの日本語訳です。)
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P156
「諸悪莫作」を「諸悪なすことなかれ」ではなく、「諸悪がつくられざる」と
読む事を必然とする。本来の次元へ自己を帰順させることが悟りであると考える。
すなわち、本来の自分に帰還するならば、仏法への背反は存在しない。つまり、
悪はもはや存在しない。それを道元は、「諸悪はすでにつくられずなりゆえ」
と言っている。
P223
道元の因果観
・不昧因果
・深信因果
・善因善果
・悪因悪果
深信因果の巻では、「およさ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは
堕し、修善のものはのぼる。蒙厘もたがわざるなり」(因果の道理は明白であり、
不動のものである。悪を為す者は地獄や畜生道、餓鬼道に堕ち、善を為す者は
人間や天に生まれ変わり、ほんの少しの誤りもない)と言われている。
しかし、12巻本では、「不昧因果(因果の理は明々白々であり自分のなしたこと
の報いは自分が受けると言う事が強調され、過去、現在、未来の三世を
貫く因果応報がが説かれている。
因果同時について、
「諸悪莫作」の巻で「この善の因果、同じく奉行の現成公案なり。因はさき、果は
のちになるにあらざれども、因円満し、果円満す。因等法等、果等法等なり。
因にまたれて果感ずといえども、前後にあらず、前後等の道あるゆえに。」という
言葉はまさにこの因果同時を意味している。
また、「衆善奉行(もろもろの善を修行せよ)」では、善である因も善である果も
等しく「奉行(修行)」によって顕現されたものであり、因も果も等しく、
その意味で、前後関係ではなく、同時であると述べている。修行と悟りとは、お互いが
因となり果となりあっており、それを時間的な表現によって示すならば、
因果同時であり、修証一等ともなる。
存在の代表としてあげられているのが、春の松、秋の菊、諸仏、露中灯篭、払子シュ杖
そして、自己である。松や菊は、「渓声山色」の巻で、「春松の操アリ、秋菊の秀
ある、即是(真理の端的な現れ)なるのみ」といわれる。
露柱灯篭、払子シュ杖は「有事」の巻で、「有事シュ杖払子ほっす、有事露柱灯篭
のようにそれぞれの存在の実相を現す。ここでは、諸仏、自己も松も菊もすべて
同等の資格で並列されている。
ーーーーーーーーーー
諸悪莫作 (しょあくまくさ) 【訳】 悪を為すことなく
衆善奉行 (しゅうぜんぶぎょう) 善いことを行なって
自浄其意 (じじょうごい) 自己の心を浄めること、
是諸仏教 (ぜしょぶっきょう) これが諸仏の教えである。
掲題の偈(げ、経)は、「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈」と言われるものです
。誰もが学生時代に、仏教のこの有名な教えに関して一度や二度は目に触れ耳に聴いた
ことがあるのではないでしょうか。私も中学のときに習って、「諸悪莫作(しょあくま
くさ)、悪いことをしてはいけない。善いことをする。」と、そのように口ずさんでい
た時期があります。
これは、「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」といわれるものです。七仏とは
過去七仏と云われる毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃ
ふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(
かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。お釈迦さまは自分は古仏
の跡を歩んだのであるとされ、この過去七仏の存在を説かれました。そして、この過去
七仏も同じく説いたという意味で「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」という
のです。つまり、これはお釈迦さまだけが説かれるのではなく、昔よりこの世にあらわ
れた諸仏がみな同じように説いている普遍の真理なのだという教えをあらわしたもので
す
仏の教えというと難しいことを考えますが、四苦八苦なるこの人生を「生きているこ
とは尊いことだ」「生きていることは有り難いことだ」、この人生を最善に生すとはど
ういうことかということでしょう。それを、つきつめれば、「諸悪莫作・衆善奉行」な
のです。簡単でわかりやすい教えなのですが、身体でその真理を受けとめることになる
というと簡単な修行ではありません。
白楽天という詩人がいました。本名は白居易。唐の代表的な詩人で、晩年は、詩と酒
と琴を「三友」として、悠々自適の生活をおくったという知識人です。白楽天の詩はご
存じかと思いますが、在世中から民衆に親しまれ、牛追いや馬子までがこれを口ずさん
だといわれています。
林間に酒を温めて紅葉を焼く
遺愛寺の鐘は 枕をそばだてて聴き
香炉蜂の雪は 簾をかかげて看る
などの詩歌は、『長恨歌』や『琵琶行』とともに、わが国でもよく知られています。
白居易は、大暦七年(772年〕、河南省の新鄭に地方官吏の次男として生まれまし
た。彼は29歳で官吏登用試験に合格し進士となります。順調に官界コースを歩んでい
ましたが、40歳のとき母の死にあい、重ねて幼い娘の死に遭遇します。ここに彼は、
儒教では解決しがたい人間の「死」の問題に直面し、道教や仏教に関心を強めました。
しかも、しばらくして白居易は政治的に失脚し、左遷!。いよいよ彼は、仏教・道教に
傾斜していきます。白居易、50歳の時です。彼はみずから求めて、杭州刺史となって
赴任します。刺史とは州の長官、今の県知事に当たりますが、首都の権力闘争を避けて
、彼は地方に出たのです。
杭州の秦望山には、鳥彙道林(ちょうかどうりん)と呼ばれる名物禅僧がいました。
この禅僧、山中の松の木の上に巣をつくって稜み、木の上で坐禅をしていました。白居
易は、この和尚の噂を聞いて、ある日、面会に出かけて行きます。白居易は、木の上で
坐禅している道林を見るなり、こう叫んだ。
「禅師の住処、甚だ危険なり!」
白居易は、少しは仏教を学んでいる。それで、鳥彙道林をへこましてやろうとする気
があったのでしょう。わざわざ木の上で坐禅をする。そんな奇をてらった和尚にいささ
か反発も感じていたのでしょうか。だが、鳥彙道林和尚は半端な禅者ではなかったので
す。和尚はすぐに応じた。
「太守、あなたのほうが、もっと危険ですぞ!」
木の上にいるわしを危険だと言うあなたは、自分自身の危険を忘れているのではない
か。あなたのいる世界には、左遷・失脚・裏切り・寝返り・犠牲などがいっばいある。
おまえさんたちは、そんな危険を忘れてのほほんとしておる。あなたのほうが、もっと
危険ではないのか -- というわけです。
白居易は返答できず、みごとに一本取られます。そこで、さらに問答を重ねます。
「仏法の大意とはつまるところ何なのか?」
道林和尚「諸悪莫作・衆善奉行」(悪いことをするな、善いことをせよ〕
これはいたって平凡な解答です。どこかのおじいちゃん、おばあちゃんでも言いそうな
言葉です。偉い禅師の言葉とは思えぬ、そう思ったのでしょう。
白居易は言う「そんなことは、三歳の童子でも知っていますよ」
だが、鳥彙和尚は動ずることなく「三歳の子供が知っていても、八十の老人すらこれを
実行することはむずかしいぞ!」と応じるのです。
一切の悪いことをするな、善いことをせよということは簡単な教理ですが、簡単なこ
とほど実行するのは難しいところがあります。分かることと、行うこととはまったく別
なのです。禅はなによりも「行」を根本とします。この教えも、三歳の子供でもわかり
そうなことでも、実際のところは八十の老人にしても実行することは難しいと説くので
す。
ところで、七仏通戒の偈は往々にして命令形に「諸の悪を作す(なす)莫れ、諸の善
を奉行せよ」と読まれがちです。漢文はいろいろに読むことができるので、命令形に読
むのをまちがいというのではありませんが、仏教的には他からの強制や禁止・命令によ
らず、自分から進んでする自由意志によるのを旨としますから、命令形に読み下すのは
好ましくないのです。
たとえば、最も古い経典の一つの「法句経」の183句に、
田麦俣 七ツ滝 H17年撮影
ありとある悪を作さず
ありとある善きことは
身をもって行い
おのれのこころをきよめん
これ諸仏のみ教えなり
仏教の善悪の教えとは、 「正しいこと」とは自他を活かし、共に喜ぶことであり、
「悪いことと」とは自他を殺し、悲しませることです。
同、法句経に「悪の報いは自分にはこないと、小さい悪事を軽くみてはいけない。水
のしたたり落ちる一滴一滴の水が、やがて水瓶をいっぱいにするように、愚かなる人は
、ついに悪を満たすなり」とあるように、善きことを思い、善きことをなせば、幸福は
必ず実現する。反対に、一時はずる賢く要領のいい人間がはびころうと、因果の法則は
くらますことはできないという教えは人生の鉄則といってもいいでしょう。
道元禅師は七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)は菩提の語として悟りの境地を
示したものであると「諸悪莫作の巻」で説かれています。
つまり、悪いことはしまいと願い、悪いことはしないように心がけているうちに修行
の功徳力があらわれて悪いことを行うことがないようになるというのですが、さらに、
修行力が現成している人は、悪事をなしそうな場所にあったり、悪事をなしそうな機縁
や悪事をなしそうな友と交際しているようであっても、悪事は自らなされなくなるもの
であると示されるのです。「悉有仏性」の立場においての「止悪行善の戒」とは、道徳
や倫理の善悪ではなく、自主自律的に守られるであろう誓願であり聖戒なのです。
ーーーーーーーーーー
「諸悪莫作」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。
ただここで道元禅師が言っておられるのは、仏教と言うのはやはり善悪を非常に重視す
る思想だ。だから大乗仏教の善悪を問題にしない思想と言うものが中心で、小乗仏教の
様に善悪を問題にするのは、仏教の区分けからすると地位が低いというふうな考え方が
あるけれども、それは必ずしも正しくない。また一方善悪と言うのは基準によって様々
に解釈できる。だからAの人が善いことだと思っておることが、Bの人にとっては悪い
ことだというふうな、立場が変わると善悪が入れ替わるということはいくらでもある。
だからそういう点では、善悪そのものがなかなか難しい問題を含んでおる。
そういうふうな問題も含めて、仏教においては善悪と言うものが非常に大事だ。ただそ
の善悪と言うものは人間の具体的な現実の状況に即して理解されなければならない。だ
からそれは頭の中だけで善いとか悪いとかというふうに考えるべきものではなくて、人
間の行動として善いとか悪いとかということを考えていかなければならないということ
を述べておられるわけであります。その考えにおける善悪と行いにおける善悪との違い
について、この「正法眼蔵」の諸悪莫作の巻では、一番最後のところに中国人の詩人で
ある白楽天と道林禅師と言う僧侶との問答が載せてある。
その話はどういうことかと言うと、白楽天は仏教に関心が深くて、林道禅師のところで
も一所懸命修行をしておった。ある時師匠の林道禅師に白楽天は「仏教というのは一体
どういう教えですか」と言う質問をした。それに対して、林道禅師が「悪いことをやら
ない、善いことをやる、それが仏道だ」と言う返事をした。ところが白楽天は仏道と言
うのはもっと哲学的な、もっと高尚な教えだと思っておった。そこで「もし仏教と言う
のがそういうふうなものであるならば、三才の子供でもそういうことなら言えそうだ」
というふうに反問した。ところがそれに対する師匠の返事が「確かに三才の子供でも言
えるかもしれないけれども、八十才の老人になっても実行は不可能だ」と言われた。で
、白楽天も「なるほど」というふうに感じたので、その場を引き下がったという話がこ
の「諸悪莫作」の巻の最後のところに載っておる。
そういう話から推察できるところは、善悪と言うものを理屈をこねて「あれがいい」「
これが悪い」と言うことをいうのはいくらでもできる。誰でもできる。ただ自分自身が
主役になって善いことをやり、悪いことをやらんということが出来るか出来ないかとい
うことが仏道の問題であり、非常に大切な問題。口先だけで人に聞こえて都合のいいこ
とばかりしゃべっておっても、自分自身で実際に行動できるかどうかということが仏道
の問題。だから普通の思想と言うものは、頭の中だけで「これがいい」「これが悪い」
「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言う思想が多いけれども、仏道では実際問題とし
て、実際に行動できるか行動できないかということを問題にするわけです。そういう点
でこの「諸悪莫作」の巻は説かれておるわけであります。
諸悪莫作の巻、本文に入ります。
過去における真実を得られた方々が言われている言葉に、諸悪莫作(様々の悪をなすこ
となく)、衆善奉行(様々の善いことを実際に行うべきである)。そうすれば自然にその
心が清くなっていく。過去において沢山の真実を得られた方々が共通に説かれた教えと
は、この「諸悪を作さず、衆善を行う」ということに尽きる。
これは過去七仏(釈尊以前の六人の仏と釈尊を含めて七人)の共通の戒めであり、古仏(
過去の真実を得た人)から、その後の世の仏(真実を得た人)に対して正しく伝えられて
いるところであり、後の時代の仏は、その前の時代の仏からこの教えを代々受け継いで
今日に至ったのである。この教えは単に過去七仏の教えというだけでなくて、その他諸
々のたくさんの仏の教えに他ならない。この七仏の通戒が述べている基本的な考え方と
言うものを、十分に努力して勉強してみる必要がある。
ここで言われている七人の真実を得られた方々の教えというものは、本来それが持って
いる本質的な特徴を具えている。その伝承してきた教えの内容は何か言うと、善悪の基
準と言うものが遠い理想ではなくて、日常生活の現在の瞬間瞬間においてその事態と言
うものがよくわかっていると言う事に他ならない。この「七仏通戒の偈」とは、単に七
仏だけの教えではなくて、百人の仏、千人の仏、万人の仏というふうな無数のたくさん
の真実を得られた方々の教えであり、行いであり、体験である。
※西嶋先生解説
「七仏」と言うのは、釈尊が現れる以前の時代に六人の仏(真実を得た人)がいたという
信仰を基礎にして、釈尊も合わせて七仏と言う信仰があるわけです。道元禅師は「諸悪
莫作」という巻においては、まず最初に七仏の通戒と言うものを掲げられて、仏教の基
本的な考え方を示されました。
今ここにいうところの悪い事とは、善性・悪性・無記性(善でもない悪でもない性質)の
中の悪である。この悪と言う性質は、突然どこからか生れて来るというふうなものでは
ない。そして善や無記もまた、悪の場合と同じようにいずれもどこからか生まれて来る
、何か汚れと言うものと関係があるものではなくて、善も悪も無記も、いずれもこの我
々の住んでいる世界の現実の姿である。そしてこのような善も悪も無記いずれも、その
現れ方には様々の姿がある。
しかもこの悪という性質には、娑婆世界とそれ以外の世界によって大きな違いがある。
この娑婆世界では善いとされているものも、よその世界にいけば悪い事と考えられる。
住んでいる世界によって善悪は色々入れ替わる。また時代が変われば善悪について大き
な違いがある。善とか悪とかと言う事は必ず時間と共に起きる。しかしながら、時間に
常に善とか悪とかと言う性質がある訳ではない。善とか悪と言う出来事は必ず時間にお
いて生まれて来る訳だけれども、時間そのものに、善とか悪とかと言うけじめはない。
善とか悪と言うことは、我々が住んでいるこの世界における現実の実態で、現実の実態
というものには、善とか悪とかを超越したものがあって、いちいちそれを善とか悪とか
と言うふうに割り切る訳には行かない。
悪も、現実の問題として現実の世界に安定した存在としてある。善もこの現実の世界が
均衡した形であると同じように、善もまた均衡した姿でこの現実の世界にあるに他なら
ない。我々が釈尊の説かれた最高にして正しく、かつ均衡のとれた真実を学ぶにあたり
、教えを聞き、修行をし、体験する場合、その内容たるや、奥深く、偉大であって、微
妙である。
道元禅師の説示は続きます。
この最高の教えというものを、ある場合には徳の高い僧侶から聞き、ある場合には経典
から聞くのであるが、最初、人間の耳にどう響いてくるかと言うと、「悪い事をするな
」と聞こえるのである。「悪い事をするな」と聞こえない教えは、釈尊の教えではない
。悪魔の教えであろう。銘記せよ。「悪い事をするな」と聞こえる教えこそ、まさに釈
尊の説かれた教えである。
しかし、この「悪い事をするな」と言う教えは、各人が勝手に自分の頭で考えて、教え
を自分で作ってそれが釈尊の教えだと考えることではない。言葉として説かれた釈尊の
教えと言うものを素直に聞いていると、自然に「悪いことをするな」と聞こえてくるに
過ぎない。「悪い事をするな」と聞こえて来ることが、最高の教えが言葉になったとこ
ろの姿である。この様な教えというものは、真実の言葉であり、また真実を語ることで
ある。
この様に真実の教え(最高の教え)と言うものが人によって説かれ、またそれを聞いてそ
れによってだんだん自分自身が変化していくことによって、自分自身でも悪いことはや
るまいという希望を持ち、悪いことをしないということで日常生活を変えて様々の悪が
行われなくなってゆくところに、その実践の効力がたちまち現実のものとなる。しかも
善悪と言うものは非常に大きな要素を持っている、善悪と言うものは、宇宙と同じ大き
さの量を持ち、時間を持ち、広さを持っている。ではその大きさと言うのは何かという
と、悪と言うものについて「やらない」と言う大きさを持っている。
悪いことをやりたいと思っても、ぐっと我慢をしてやらないでいるということは、まさ
にその様な時において、そのやりたいことをやらずにぐっと我慢をしている当人は、当
然周囲の環境からすれば悪いことをせざるを得ないような環境に置かれており、そうい
う環境に出入りして、どうしても悪いことをせざるを得ないような対象と真正面で向き
合っておりながら、またどうしても悪い事をしなければならないような友達が周囲にい
る環境に置かれていながら、自分自身がやめておこうとぐっと我慢するところに、悪と
言うものの生まれて来る余地がなくなってしまうのである。
※西嶋先生解説。
だから人間は、善悪の問題をいうと、「環境が悪かった」「自分の育った環境が悪かっ
たからこうなった」とよく言う。しかし、道元禅師はそういうとらえ方をしておられな
い。どんなに悪い事をしなければならない様な環境に置かれていても、グッと我慢する
だけだ。「莫作」 と言うのはどういうことかと言うと、ぐっと我慢するということ。
善悪の問題と言うのは理屈でもなんでもない。やりたいと思っても悪いと思ったら、ぐ
っと我慢するということに尽きる。そういう点では、どのような誘惑に満ちた悪に陥り
やすい環境にあっても、悪いことをすまいと言う心がけを持っておれば、出てくるはず
がない。
道元禅師の説示は続きます。
物質を基礎に我々の日常生活が着々と行われていく事から生まれてくる力が、日常生活
をより善い方向に持っていってくれる。山、河、大地、太陽、月、星と言うふうな自然
の環境を舞台にして、我々が日常生活をし、そして善悪の実践を行っていくのであるが
、その事は我々が住んでいる世界の環境である山、河、大地、太陽、月、星等が、我々
自身に修行をさせる、我々自身に実践をさせる、我々自身に善悪を誤りのないように行
わせてくれる。
それは一定の時点における見方だけの問題ではない。さまざまの時点において、常に活
き活きとした見方が我々を助けてくれるのである。日常生活における瞬間瞬間が、我々
に活き活きとした眼を与えてくれることが実情であるから、そういう瞬間瞬間が真実を
得た人々を実際に修行させ、実践させ、教えを聞かせ、その成果を得させると言う事に
なるのである。そしてこのような仏道の世界においては、真実を得られた方は今日まで
、その教え、その行い、その体験というものを純粋に具体的に実現しておられるのであ
るから、抽象的な教え、行い、体験というものが真実を得られた人々の邪魔をし汚れに
なるという事もない。
このような形で 我々の日常生活は瞬間瞬間に行われていくものであるから、過去・現
在・未来における様々の行動に関連して、行動の行われる直前、行動の行われる直後に
、実際の行動の世界というものは逃げようとしても逃げようがない。真実を得られた方
々はどんな場面においても逃げ回ることなしに、一所懸命に実践してこられた。
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