2017年1月26日木曜日

唯仏与仏の巻

日本人の心の歴史P185 唯仏与仏について

たとえば、ある人にであったとき、その折りの、その際の、その人の顔かたちをみて、
これこれであったと覚え込み、そしてそのうえで、あの人はいつもこういう顔かたち
だと決めてしまうことがある。また花や月も、状況によってさまざまに違うのに、
その時みた花や月を、やがて花、月一般に及ぼして花はこういうもの、月はしかじかの
と、自分の心でみた光色を加えて月の光、花の色を断定してしまう。また、春はただ春ながらの
心、秋の美しいのもまた美しからざるのもまた秋ながらのおのづからのあらわれで、
それはそれぞれにいたしかたのないものである。春、秋の景色を己とは関係ないもの
だと判断するのはむずかしいことではあるが、然し、たとえば自分自身の姿恰好
のことを考えてみればわかることである。自分自身にも、逃れようとしても逃れられない
何ものかがある。さて、この春の声、秋の声が、己と関係があるのか、それとも
無関係なものなのか、よくよく考えてみるべきである。春、秋の表情は己の心に
つもりに積もって固定してしまった観念でもない。また今の自分の心に抱いている
イメージでもない。
右の事を押し広めていけば、いまの四大五薀うん、地水火風も、色受想行識も、
そのおのおのを、我とすべきにもあらず、ということになる。だから、花や月
のもよおす心の色もまた我とすべきではない道理であるのに、それを我と思ってしまう。
われにあらぬを、われと思うも、されは「さもあらばあれ」詮方ない。だが、
顔をそむけるような嫌いな色も捨てようとしても捨てられず、また好んでそれに
近寄りたい思う色もまた長くとどまらない。そういう取捨選択を離れ、自分の
すききらいを超えて、花、月を見るのが、不染汚ふぜんなの面目である。
ここにいう不染汚とは無頓着ということである。先に引いた言葉で言えば、
「自己を忘れる」ということ、さらに言えば、そのわするることで、それが即ち
「心身脱落」に外ならぬ。身の垢、心の垢、嗜好や固定観念を洗い落として、
生まれたばかりの「ありのまま」になることである。
ありのままをありのままに見る、ありのままがありのままにうつるということが
どんなに難しいことであるか。そうするためにはまず自分自身が不染汚のありのまま
にならねばならぬ。「ならねばならぬ」が修行というものであろうが、その
「ねばならぬ」がもう一度超えられて、ありのままがありのままに現成するのが、
無上の菩薩、覚りだというのだ。




仏法は、人の知るべきにはあらず。この故に昔しより、凡夫として仏法を悟なし、二乗
として 仏法をきはむるなし。独り仏にさとらるる故に、唯仏与仏、乃能究尽ないのう
ぐうじんと云ふ。

其れをきはめ悟る時、われながらも、かねてより悟るとは各こそあらめとあもはるるこ
とはなきなり。

縦ひおぼゆれども、そのおぼゆるにたがはぬ悟にてなきなり。悟りもおぼえしが如にて
なし。

かくあれば、兼ねて思ふ、そのようにたつべきにあらず。悟りぬる折りは、いかにあり
ける故に 悟りたりとおぼえぬなり。是にてかへりみるべし、悟りより先に、兎角おも
ひけるは、悟りの用に あらぬと。・・・


【解説】仏法は、人が知ることのできるものではない。したがって昔から、凡夫で仏法
を悟った者は いないし、二乗(声聞乗・縁覚乗に代表される小乗仏教の徒)で仏法を究
めた者はいない。

ただ仏にだけ悟られるので、唯仏与仏、乃能究尽(唯だ仏と仏と、乃ち能く究尽す)と言
う。
(ここでは『妙法蓮華経』「方便品」の「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」という語句
が踏まえ られている。)

それを究め悟る時には、自分としても以前から悟るとはこのようなことであろうと思わ
れて いたようなものではないのだ。たとい憶測していたとしても、その憶測に相違し
ない悟りでは ないわけである。悟り方も、憶測していたようなふうではない。そんな
わけで、以前に思って いたことは、それが役に立つはずがないのである。悟った際に
は、どのようなふうであったから 悟ったとは、気づかないのだ。これによって回顧し
てみるがよい、あれこれと思っていたことは 悟りの役には立たなかったのだというこ
とを。・・・


ーーーーーーーーーー

妙法蓮華経方便品第二には「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」と説かれている。

訓読「唯(ただ)仏と仏と、乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽したまえり。」

この「唯仏与仏」の意味を道元禅師は『正法眼蔵』に於いて以下の如く説いている。

「仏法は、人のしるべきにあらず、このゆゑに、むかしより、凡夫として仏法をさとる
なし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑ

唯仏与仏乃能究尽
(ゆいぶつよぶつないのうくじん)といふ。」

仏の覚知した「諸法実相」の理(ことわり)は甚だ深く、決して言語表現を超えている
から、言葉をたよりに物事を理解しようとする凡人には悟ることはできない。

結局は、仏法とは諸法実相を覚知した仏のみがよく、その仏の到達した諸法実相を究め
尽くしているのであり、凡夫や二乗の知るところではない、ということです。

だから、「『仏』と『仏のみ』とは2人、仏がいる」という意味ではなくて、ただ仏の
みがよく、仏の知っている諸法の実相を究め尽くしているのである、という意味です。

文章は一区切りまで読まないと可笑しな解釈を生むことになるので御注意ください。

説心説性の巻、百不当の一老

06
菩提心を起こし、仏道修行についてからは、難行を大切に行ずるにあたって、
どのように修行しても、百の矢を射ても1つも当たることのないのがふつうである。
そのようではあるが、あるいは知識に学び、あるいは経巻に学ぶうちに、ようやく
一当を得るのである。いま得た一当はむかし百の矢を射た努力の賜物である、当たらなかった
百の矢に籠った努力が熟したのである。教えを聞き、道を修め、証を得るのは、
皆このようにしてである。きのうの説心説性は百の当たらなかった矢であるが、
きのうの説心説性の百の当たらない矢があってこそ、たちまち今日の一当となるのだ。
仏道修行の初心の時は、未だ努力が熟さず道に通達しないにしても、仏道を捨てて
他の道によって仏道に達することはない。仏道修行とはどのようなものであるか
に通達しない者たちは、このような徒労のような努力によってこそ道は自在に通じる
という道理が分からないのである。



百不当の一老
菩提心をおこし、仏道修行におもむく後よりは、難行を懇ろに行うとき、行うといえど
も百行に一当なし。しかあれども、或従知識、或従経巻して、ようやく当たることを得
るなり。いまの一当は、むかしの百不当の力なり、百不当の一老な
道元禅師 『正法眼蔵 説心説性の巻』
(仏道を求める心をおこして修行に取り組むのだが、一生懸命修行を続けても一向に真
実の教えが腹に落ちない。だけども、有徳の僧の指示や教えを素直に行じていくうちに
、やがて真実の道を得ることができるようになる。つまり、それまでの百の不承当があ
ったからこそ、一つの老熟した承当がここに現れて来るのである)
「百不当」とは、例えて言えば弓で的を射ることです。弓で的を射ようとしても一向に
当たりません。百回やって百回とも当たらないのです。しかし、その当たらない矢をあ
きらめずに何本も放って修練を積むうちに、その修練の力によってやがて当たるように
なるのです。その的を打ち抜いた矢、つまり一当は、それまでの「百不当の力」であり
、「百不当の一老」、「百不当の蓄積」であります。
私は若い頃から音楽、特にピアノが大好きで、毎日一生懸命ピアノの練習に打ち込みま
した。大学も音楽の分野へ進学しました。そして四年生の時にはオーケストラとモーツ
ァルトのピアノ協奏曲を演奏するくらいにまでなりました。今、その大学時代を振り返
ってみますと、まさに朝から晩までピアノ練習漬けの毎日でした。一日平均六~八時間
の練習をするのです。
弓でもピアノでもおよそ「道どう」とつくものは、みなそうだと思いますが、一日練習
を怠ればその分を取り返すには何倍もの修練が必要です。上達への近道は、有効な練習
を毎日勤勉に繰り返し行う以外には有り得ないのです。
ピアノで一つの曲を完全に弾きこなせるようになるまでの過程を山登りに例えてみます
と、曲をマスターするのは山の頂上に立つことです。
一合目~三合目~五合目と登ってきて、最後の八合目~頂上にかけての道程は、それま
でのものと比較すると、はるかに難しく困難なものです。難しい箇所を何度も練習する
のですが、なかなか上手に弾くことが出来ません。
しかし、良き先生(指導者)のアドバイスを受けたり、偉大なピアニスト達(先人)の
演奏テープを聴いて参考にし、出来ない箇所を片手ずつゆっくりと何度も繰り返したり
するうちに、ある日突然スラスラと弾けるようになるのです。これが即ち「百不当の一
老」なのです。
努力に比例して成果が上がれば問題は簡単ですが、努力しても成果が上がらない。そこ
で止めてしまえば「骨折り損のくたびれ儲け」で終わってしまうことになります。
そうではなくて、一見無駄と思えることでも努力を続けていくと、その無駄が全部生き
ていて、予想外の成果を上げることができるようになるものです。これが「百不当の一
老」ということです。
更にこの言葉を深めていきますと、目的や結果にかかわらず、今自分が為すべきことを
粛粛と真面目に修していく。そのことに価値観を定めていくことが大切だということに
気が付きます。
仏道に例えれば、一つ一つの動作を、仏としての行であると自覚して真剣に行う、とい
うことです。大切なのは、単なる形式ではなくて、それを真剣に大切に行うことであり
ます。「威儀作法の中に真実の仏法がある」と云うのはこのことを指すのでしょう。
「修行」の本来の意味も「反復すること」「繰り返すこと」です。つまり「むかしの百
不当」です。食事なら食事、洗面なら洗面、排泄なら排泄、という一つ一つの営みを大
切に行いなさい、ということです。
修行というと何か特別なことをするように思いますがそうではありません。毎日毎日同
じことを繰り返して生きていく。これが修行であり、人生です。当たり前のことを、当
たり前に大切に行っていくということ、その繰り返しが修行です。ですから、死ぬまで
修行に「終わり」はないということにもなります。日常生活を送る上で、お互いこのこ
とをよくよく肝に銘じたいものです。

看経かんきん

01
無上の覚りを修めるには、あるいは知識による導きを必要とする、あるいは経巻を必要とする
このにいう知識とは、全天全地森羅万象をもって事故の全身とした諸ぶっそのことである
経巻とは、般若心経や法華経や金剛経などが全天全地森羅万象を説くように、全現象世界
を上げて全自己のものとする経巻のことである。師の教えを聞き経を読む自己とは、古来の
全仏祖を併せて一とする自己、全経巻を併せて一とする自己であるからだ。ここに自己といっても
その自己は自己と他が関わり合い引き裂かれているものではない。それは生き生きとした
眼だ、活き活きとした拳だ。

15
この「ただ経で眼をふさごうとしているだけだ」は薬山の眼が自ずから一切経を説いている
というのだ。眼が一切経によってふさがれているのだ、経は目に飲み込まれているのだ、
全眼が経になっているのだ。一切経を挙げて眼としてるのだ。眼が経によってふさがれている
とは一切経のなかに目を開いているのだ、一切経の内に目が働くのだ、だから目の上にさらに
一枚の皮がそっているのだ。それは全法界を飲み込んだ目である、眼が自ずと全法界を
吞み込んでいるのだ。そうであるから、眼の経でないならば、一切経によって眼がふさがる
という事態は起こりえないのだ。

18
現在禅院では多くの看経の儀則がある。
以下、24まで具体的なやり方が書かれている。





今日、看経というと大きな声をあげて「観自在菩薩・・・・」と大声に唱えるのが
看経と言われていますが、道元禅師の「看経」の巻のお考えというものは、
必ずしもそういうふうに声をあげて経典を読むという事ではなしに、むしろ静かに
読んで経典の意味を理解し考えるという事が「看経」の意味になるとみてよいかと
思います。この経典を読むという事については、元来、仏道というのは抽象的な論議
の問題ではないという立場からしますと、経典を読むことを比較的軽視する、
軽く見るという考え方もあるわけであります。
その一つの典型的な例は、「不立文字教外別伝」という思想があるわけであります。
「不立文字」というのは、文字を立てない、つまり言葉を使って論議をしない、
あるいは本を読んで仏道を理解するという事をやらない。「教外別伝」というのは、
教えというのは抽象的な理論・教えという意味があるわけで、そういう抽象的な理論・教え
の他に、釈尊以来、別に伝えるものがあるという思想が「不立文字教外別伝」という
思想であります。この思想は臨済系の坐禅をやる人々の間では、非常にやかましく言う。
そういう点では「仏道とは理屈ではない悟りだ!」という事をしきりに言う。
その「仏道とは理屈ではない悟りだ!」という主張を、この、「不立文字教外別伝」
という言葉で表現しているわけであります。
ところが道元禅師はこの「不立文字教外別伝」という考え方に対して、必ずしも賛成
しておられない。だから「正法眼蔵」の別の巻で、この「不立文字教外別伝」という
思想を否定しておられるところがある。そういうところから見ると、道元禅師は仏道
が単なる理屈ではないという事、これは非常に強く主張されたわけでありますけれども、
それと同時に経典を読むこと、仏道を理論的に勉強することも決して否定しておられなかった。
その点では看経というものにも意味を認めておられたし、またそのことが単に紙に
書かれた字を読むという事だけでなしに、道元禅師のお立場からすれば、我々を取り
巻いている宇宙全体が経典そのものなのであるから、我々の世界が示してくれておる
教えを読み取るという事、これもまた経典を読むことであり看経であると、そういう
考え方に立って、この「看経」の巻を説いておられるという事が言えようかと
思うわけであります。


我々の住んでいる宇宙を「蘊界」と言う。その意味は「五蘊」五つの集合体の事である。
五つの集合体とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つを言う。
色蘊(物質的なものの集まり) 受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)
想蘊(その感覚的に受け入れたものを頭の中であれこれと考える働き) 行蘊(その考えに
従って自分の体を動かして様々の行動をする働き) 識蘊(その行動の結果、
自分の心や頭の中に形成された意識のあり方)
この五種類の集合体の中にもわが身を置かないという事は、どういうことかと言うと、
我々の住んでいる世界は頭の中で考えて、色蘊だ、受蘊だ、想蘊だ、行蘊だ、識蘊
というふうに分析的に捉えられた世界ではない。それは現在の瞬間であり、
一所懸命生きている現在の瞬間以外にない。五種類の考え方を使って解釈する世界ではない。

坐禅というものの本質が何かと言う事を、時々考えるわけでありますが、最近よく感ずる事は、
坐禅というのは体育としての一面があるということを強く感じるわけであります。
こういう考え方をすると宗教というものをいろいろ勉強しておられる人々、あるいは仏教
というものを勉強しておられる人々はあまり歓迎しない。それはどう言う事かというと、
宗教とか仏教とかというのは精神の問題であり心の問題であるから、体の問題を持ち出す
なんていうのはあまり適当ではないと、そういう考え方が強いわけであります。
したがって、「体育としての一面がある」というようなことをいうと「解釈が非常に浅薄だ」
と言う批評を受けがちなわけでありますが、「正法眼蔵」を読みながら坐禅というものを
考えておりますと、坐禅というのはどうしても体育としての一面がある、と言うふうに
考えざるを得ない。たとえば「正法眼蔵」の中に「心身学道」という巻がある。
「心身学道」というのは、体と心で真実を学ぶ。普通、宗教は心で勉強するものというのが
常識でありますけれども、仏教の場合は、体でも勉強するという考え方が非常に強いわけであります。
それが他の宗教と仏教という考え方の大きな違い、という事もいえると思います。
ですから、我々が坐禅をやっておって、どういう変化が出てくるかと言うと、腰の周辺の
筋肉が発達して、腰骨が正しく保持で出来る様になるという事があると思います。
腰骨が正しく維持できると、その上に背骨が正しくのっかって、その上に首の骨が正しく
のっかるということで、いわゆる姿勢が正しくなるという問題があるわけでありますが、
姿勢が正しくなる基礎というのは、腰骨が正しいかどうかという事にあるようであります。
そういう腰の保持の仕方ができてくると、気持ちが不安定にならない。クヨクヨしたり、
あるいは心配したりと言う事が起きなくなる。日常生活で、街を歩いておっても、
立ち止まっておっても、あるいは寝ておっても、気持ちの不安定というものがない
という事がいえると思います。それが仏道だ。だから仏道と言うのは、単に心の問題
ではなしに、体からつくっていかないと実現しないもんだと、そういうことがいえると思います。

ーーーーーー
【定義】

①経文を看読すること。黙読・念経・諷経・誦経・転読などの方法がある。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では21巻、75巻本では30巻。
仁治2年(1241)に宇治の興聖寺にて示衆された。

【内容】

まず、道元禅師は「看経」の事実について、自分から見た対象として経典として
ではなく、まさに自己そのものが経巻であることを示そうとされる。
そのために、「自己」の定義も以下のようにされるのである。
阿耨多羅三藐三菩提修証、あるひは知識をもちい、あるひは経巻を
もちいる。知識といふは、全自己の仏祖なり。経巻といふは、全自己の
経巻なり。全仏祖の自己、全経巻の自己なるがゆえに、かくのごとくなり。
自己と称すといへども我你の拘牽にあらず、これ活眼睛なり、活拳頭なり。
そこで、この菩提そのものの修証として、或従知識・或従経巻とされたことを
承けて、さらに経巻と自己との関係を発起する方途として、「看経」があるのだが、
この場合、ただ「経を看る」という意味ではない。
しかあれども念経、看経、誦経、書経、受経、持経あり、ともに仏祖の修証なり。
しかあるに仏経にあふことたやすきにあらず。於無量国中、乃至名字不可得聞なり。
於仏祖中、乃至名字不可得聞なり。於命脈中、乃至名字不可得聞なり。
仏祖にあらざれば、経巻を見聞読誦解義せず。仏祖参学よりかつかつ経巻を
参学するなり。
調度この文章に出たが、「仏経」巻との関連性が指摘されており、当に仏=経として
の事実を説いたのが、「仏経」巻であるとすれば、この「看経」巻は、それを叢林での
修行に力点を於いて説かれたものである。そして、この仏経=看経としての故事を挙げて、
それぞれに提唱されながら、一巻をまとめておられる。

用いられた公案は、「薬山陞座」や「東印請祖」や「薬山看経」など、他多数であるが、
それらについて、道元禅師は「仏祖の屋裏に、承当あり、不承当ありといへども、
看経請益は、家常調度なり。」という巻尾の言葉で締めくくられている。
また、義雲禅師著語で指摘したように、「薬山看経」で示された「遮眼」も重要であろう。
この語は、本来の意味は「眼の相手をさせる」という中国の俗語だが、ここでは、
「蔽われた眼」の意味で、眼にとって一切が経巻、いや眼そのものが経巻である
ことを指した言葉である。

なお、同巻に於ける特徴として、道元禅師が中国で直接に見聞してきたものであろう、
看経法」が示されている。その詳細は同項参照のこと。

2017年1月20日金曜日

法性の巻

法性
【定義】

①梵語[dharmata]の翻訳であるが、意味は多様であり、存在や存在のありよう、存在
のありように即して説かれた仏の教えなど。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では54巻、75巻本では48巻。寛元元年(
1243)孟冬に越前の吉峰寺にて示衆された。

【内容】

①事物の本質、或いは不変の本性を意味する。
「法」は、事物の構成要素としての「諸法」という意味を中心にしながら、
縁起などの意味も併せ持っており、そこで、構成要素としての諸法と、本質としての
法性とに二分化されるようになった。
なお、あくまでも「法」としての本質であるため、「空性」或いは「法身」
という意味である。

②道元禅師は同巻の冒頭にて、まず仏道修行のありようについて以下のように
示される。
あるひは経巻にしたがひ、あるひは知識にしたがひて参学するに、無師独悟するなり。
無師独悟は、法性の施為なり。たとひ生知なりとも、かならず尋師訪道すべし。
たとひ無生知なりとも、かならず功夫弁道すべし。

ここで、「無師独悟」を単純に師に就かなくても良いと理解してはならない。そうでは
なくて、師に就こうと経典を読もうと、仏法は自己に於いて知られ、同時に自己に於い
て知られるということは、それは法性によって悟らされるのである。したがって、生ま
れつき悟りを知っていようと、師に就いて教えを聞く必要があり、また知らなくても必
ず修行すれば法性によって仏法を知らされるのである。さらに、仏祖と法性とは、相対
する関係ではなく、法性の働きの事実として仏祖は現成する。
馬祖道の法性は、法性道の法性なり、馬祖と同参す。法性と同参なり。すでに聞著あり
、なんぞ道著なからん。法性騎馬祖なり、人喫飯、飯喫人なり。法性よりこのかたかつ
て法性三昧をいでず、法性よりのち法性をいでず、法性よりさき法性をいでず、法性と
ならびに無量劫は、これ法性三昧なり。

馬祖道一による法性三昧の説法を用いて、道元禅師は馬祖と法性とが「同参」すること
を説かれるが、馬祖と法性との関係は、単純な即是の論理でも捉えられない。
いま見聞する三界十方撲落してのち、さらに法性あらはるべし。かの法性はいまの万象
森羅にあらずと邪計するなり。法性の道理、それかくのごとくなるべからず。この森羅
万象と法性と、はるかに同異の論を超越せり、離即の談を超越せり。

この一切の存在と法性との関係は、同巻の最大の問題であり、最後までこの問題が突き
つめられていくのだが、最終的に解決したとは思われない。むしろ、この問題は読者で
ある学人の側に於いて把握されるべきなのである。
もし法性をよんで衆生とせば、是什麼物恁麼来なり。もし衆生をよんで衆生とせば、説
似一物即不中なり。速道速道。


01
人は、あるいは経典に親しみ、あるいは師の指導の基で学ぶうちに、自ずと独梧するのであって、
覚りは常に独梧であるほかはない。自ずと独梧するのは、普遍的な本性としての人の自性がもたらす
ものである。たとえ生まれながらに優れた知恵があろうと、かならず師を尋ねて教えを請わねばならない。
たとえ生まれつきが凡庸であっても、かならず努めて学ばねばならない。うまれながらの智慧が
優れていようと凡庸であろうと、いずれにせよ生まれながらの智慧を具えていないものはいないので
あって、修行の成果を得るまで経典に親しみ師に従って学ぶのだ。

02
知らねばならない、経典に親しみ師に出会って諸現象諸存在の無難純一な普遍的な
本性を身心に独梧するのを生知というのである。つまり自他の過去世の生死の相を
知る智を得るのだ、つまりは過去現在未来の三世の相の本質を知るのである、これが
無上の覚りを証すことなのだ。修行者は経典と師と広大な生知に出会って自己に属する
生知を学習するのである。修行の中で、おのずから智と、経典と師に具わっている広大な
自然の智に出会うのである、自己に属する自性の智と、それより広大な自然の智を正伝する
のである。

03
もしこのような生知の力によらなければ、経典と師に出会っても、仏法が保持している
森羅万象の普遍的な本性を知ることが出来ず、証すこともできない。自らを知り、森羅万象の本質を
知ろうとするのは、人が飲水を飲めば、冷たさ暖かさを知りうるといった単なる経験値ではない。
一切の諸覚者および一切の修行者、または一切の衆生は、皆このような生知の力に
よって、普遍的な本性の中に仏道を明らめるのである。経典と師に従って、諸現象の
実相、実相に示される普遍性を明らめること、それがそのまま自己の本質を明らめることなのだ。
このようなものとして経典は実相であり、自己の実相を開示しているのである。師もまた
実相であり、自己の実相を開示しているのである。実相は師そのものであり、実相は事故に属する
者として開示されるのだ。本来性とはもともとの自己であるから、外道や仏教を破る魔の類
がいうような自己ではない。外道魔党がいう、霊魂としての不滅の自己とか真我とかの
自己とは異なるのだ。

諸悪莫作

ただここで道元禅師が言っておられるのは、仏教と言うのはやはり善悪を非常に重視す
る思想だ。だから大乗仏教の善悪を問題にしない思想と言うものが中心で、小乗仏教の
様に善悪を問題にするのは、仏教の区分けからすると地位が低いというふうな考え方が
あるけれども、それは必ずしも正しくない。また一方善悪と言うのは基準によって様々
に解釈できる。だからAの人が善いことだと思っておることが、Bの人にとっては悪い
ことだというふうな、立場が変わると善悪が入れ替わるということはいくらでもある。
だからそういう点では、善悪そのものがなかなか難しい問題を含んでおる。

そういうふうな問題も含めて、仏教においては善悪と言うものが非常に大事だ。ただそ
の善悪と言うものは人間の具体的な現実の状況に即して理解されなければならない。だ
からそれは頭の中だけで善いとか悪いとかというふうに考えるべきものではなくて、人
間の行動として善いとか悪いとかということを考えていかなければならないということ
を述べておられるわけであります。その考えにおける善悪と行いにおける善悪との違い
について、この「正法眼蔵」の諸悪莫作の巻では、一番最後のところに中国人の詩人で
ある白楽天と道林禅師と言う僧侶との問答が載せてある。

その話はどういうことかと言うと、白楽天は仏教に関心が深くて、林道禅師のところで
も一所懸命修行をしておった。ある時師匠の林道禅師に白楽天は「仏教というのは一体
どういう教えですか」と言う質問をした。それに対して、林道禅師が「悪いことをやら
ない、善いことをやる、それが仏道だ」と言う返事をした。ところが白楽天は仏道と言
うのはもっと哲学的な、もっと高尚な教えだと思っておった。そこで「もし仏教と言う
のがそういうふうなものであるならば、三才の子供でもそういうことなら言えそうだ」
というふうに反問した。ところがそれに対する師匠の返事が「確かに三才の子供でも言
えるかもしれないけれども、八十才の老人になっても実行は不可能だ」と言われた。で
、白楽天も「なるほど」というふうに感じたので、その場を引き下がったという話がこ
の「諸悪莫作」の巻の最後のところに載っておる。

そういう話から推察できるところは、善悪と言うものを理屈をこねて「あれがいい」「
これが悪い」と言うことをいうのはいくらでもできる。誰でもできる。ただ自分自身が
主役になって善いことをやり、悪いことをやらんということが出来るか出来ないかとい
うことが仏道の問題であり、非常に大切な問題。口先だけで人に聞こえて都合のいいこ
とばかりしゃべっておっても、自分自身で実際に行動できるかどうかということが仏道
の問題。だから普通の思想と言うものは、頭の中だけで「これがいい」「これが悪い」
「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言う思想が多いけれども、仏道では実際問題とし
て、実際に行動できるか行動できないかということを問題にするわけです。そういう点
でこの「諸悪莫作」の巻は説かれておるわけであります。


諸悪莫作の巻、本文に入ります。

過去における真実を得られた方々が言われている言葉に、諸悪莫作(様々の悪をなすこ
となく)、衆善奉行(様々の善いことを実際に行うべきである)。そうすれば自然にその
心が清くなっていく。過去において沢山の真実を得られた方々が共通に説かれた教えと
は、この「諸悪を作さず、衆善を行う」ということに尽きる。


01
釈迦牟尼は云った、
「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)、自浄其意
(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
諸悪は作ることがない、われわれはもろもろの善をおこなうのである、自らその
心を清浄にするのは、是諸覚者の教えである」と

02
これは釈迦牟尼に至る7仏の通戒偈として、それより以前の覚者から後の覚者へ
伝えたものである。

03
すべての現象と存在は時である。善悪は時である。しかし時は善悪とはかかわりがない。
善悪は現象である。しかし現象は善悪とかかわりがない。現象と言えば現象であり、
悪と言えば悪である、現象と言えばげんしょうであり、善と言えば善である。

04
このように、無上の覚りを学ぶ時、教えを聞き、覚りを得るとき、深く、遠く、
玄妙である。この無上の覚りをあるいは師に導かれて聞き、あるいは経巻によって
学ぶ時はじめて、「諸悪は作ることがない」と理解するのである。
「諸悪を造ることがない、あることがない」と理解しないあならば、仏道ではない、
俗説である。
知らねばならない、「諸悪は作ることなし」と理解するのが、正しいのである。
これを諸悪を作ることなかれ」というのは、修行を積まない凡夫が世俗の道徳として
云い始めたものではない、覚りの言葉とされ教えとして聞き、そのように理解
したのである。        

12
諸悪とは「作なしてはならない」という意識であると把握するとき、修行の全過程
において、諸悪は「なしてはならない」から「作つくることなし」に本質的に位相を
変える、諸悪は因縁によって生ずるものではないから、ただ「作ることなし」と
転換するのである。諸悪は因縁によってなくなるものではないから、ただ「作ることなし」
である。現象のなかにこれは悪だと定義されるものはない、諸悪がもし現象である
ならば、諸現象としてすべてと平等である。、、、、
このように諸悪はないのではない、「作ることなかれ」であり、その本質は「作ることなし」
である。





莫作について
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょう
ごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
過去における真実を得られた方々が、言われた言葉に『諸悪莫作衆善奉行』
があります。
 諸悪莫作----さまざまの悪というものをなす事なく
 衆善奉行----さまざまの善い事を実際に行うべきである。

諸悪莫作衆善奉行を行えば、自然にその心が清くなっていく。
過去において、たくさんの真実を得られた方々がおられるけれども、その方々が共通に
説かれた教えは、この『諸悪ヲ作サズ、衆善ヲ行ナウ』と言うことに衝きます。
釈尊の説かれた教えは、釈尊が初めて説かれたところではあるけれども、その考え方と
は、非常に古い時代からあったと言う事が信仰の基礎になっています。
釈尊の説かれた教えは、単に釈尊が生きられた時代に初めて始まった事ではない。
その考え方・その原理は、ほとんど無限と言っていいくらい古い時代からすでに現存し
ていた。
そしてまた、無限と言っていいくらい今後も続くものだと言う信仰である。
釈尊の前に六人の真実を得られた方々があって、釈尊をあわせて七人の仏がいるという
考え方です。


私は、この巻を読むまでは、「諸悪莫作」は、「もろもろの悪をなすことなかれ」とい
う戒めの言葉だと思っていた。

 道元禅師もこの巻のなかで、仏の教えをはじめて聞いたときにこのように聞こえるの
は正しいことだと言っておられる。むしろ、このように聞こえないのは、魔説だと言っ
ておられる。

 しかし、この言葉は菩提語であり、その願いをもって仏が修行された力によって「も
ろもろの悪はなさず」が現成し、全世界、全宇宙を支配しているとされる。


 「莫」は、「なかれ」とも読むが「なし」とも読む。
 この言葉が漢訳される前の仏典ではどのように書かれていたのだろうか。

 原始仏典の一つである「ダンマパダ(真理の言葉)」では、パーリ語で、
 「すべての悪をなさず、
  善いことを実現し、
  自分の心を清らかにすること。
  これが目覚めた人たちの教えである。」
 と書かれているそうである。(中村元さんの日本語訳です。)
--------
P156
「諸悪莫作」を「諸悪なすことなかれ」ではなく、「諸悪がつくられざる」と
読む事を必然とする。本来の次元へ自己を帰順させることが悟りであると考える。
すなわち、本来の自分に帰還するならば、仏法への背反は存在しない。つまり、
悪はもはや存在しない。それを道元は、「諸悪はすでにつくられずなりゆえ」
と言っている。

P223
道元の因果観
・不昧因果
・深信因果
・善因善果
・悪因悪果
深信因果の巻では、「およさ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは
堕し、修善のものはのぼる。蒙厘もたがわざるなり」(因果の道理は明白であり、
不動のものである。悪を為す者は地獄や畜生道、餓鬼道に堕ち、善を為す者は
人間や天に生まれ変わり、ほんの少しの誤りもない)と言われている。
しかし、12巻本では、「不昧因果(因果の理は明々白々であり自分のなしたこと
の報いは自分が受けると言う事が強調され、過去、現在、未来の三世を
貫く因果応報がが説かれている。
因果同時について、
「諸悪莫作」の巻で「この善の因果、同じく奉行の現成公案なり。因はさき、果は
のちになるにあらざれども、因円満し、果円満す。因等法等、果等法等なり。
因にまたれて果感ずといえども、前後にあらず、前後等の道あるゆえに。」という
言葉はまさにこの因果同時を意味している。
また、「衆善奉行(もろもろの善を修行せよ)」では、善である因も善である果も
等しく「奉行(修行)」によって顕現されたものであり、因も果も等しく、
その意味で、前後関係ではなく、同時であると述べている。修行と悟りとは、お互いが
因となり果となりあっており、それを時間的な表現によって示すならば、
因果同時であり、修証一等ともなる。


存在の代表としてあげられているのが、春の松、秋の菊、諸仏、露中灯篭、払子シュ杖
そして、自己である。松や菊は、「渓声山色」の巻で、「春松の操アリ、秋菊の秀
ある、即是(真理の端的な現れ)なるのみ」といわれる。
露柱灯篭、払子シュ杖は「有事」の巻で、「有事シュ杖払子ほっす、有事露柱灯篭
のようにそれぞれの存在の実相を現す。ここでは、諸仏、自己も松も菊もすべて
同等の資格で並列されている。

ーーーーーーーーーー

諸悪莫作 (しょあくまくさ)      【訳】  悪を為すことなく
  衆善奉行 (しゅうぜんぶぎょう)       善いことを行なって
  自浄其意 (じじょうごい)            自己の心を浄めること、
  是諸仏教 (ぜしょぶっきょう)         これが諸仏の教えである。

 掲題の偈(げ、経)は、「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈」と言われるものです
。誰もが学生時代に、仏教のこの有名な教えに関して一度や二度は目に触れ耳に聴いた
ことがあるのではないでしょうか。私も中学のときに習って、「諸悪莫作(しょあくま
くさ)、悪いことをしてはいけない。善いことをする。」と、そのように口ずさんでい
た時期があります。


これは、「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」といわれるものです。七仏とは
過去七仏と云われる毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃ
ふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(
かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。お釈迦さまは自分は古仏
の跡を歩んだのであるとされ、この過去七仏の存在を説かれました。そして、この過去
七仏も同じく説いたという意味で「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」という
のです。つまり、これはお釈迦さまだけが説かれるのではなく、昔よりこの世にあらわ
れた諸仏がみな同じように説いている普遍の真理なのだという教えをあらわしたもので
す

 仏の教えというと難しいことを考えますが、四苦八苦なるこの人生を「生きているこ
とは尊いことだ」「生きていることは有り難いことだ」、この人生を最善に生すとはど
ういうことかということでしょう。それを、つきつめれば、「諸悪莫作・衆善奉行」な
のです。簡単でわかりやすい教えなのですが、身体でその真理を受けとめることになる
というと簡単な修行ではありません。


 白楽天という詩人がいました。本名は白居易。唐の代表的な詩人で、晩年は、詩と酒
と琴を「三友」として、悠々自適の生活をおくったという知識人です。白楽天の詩はご
存じかと思いますが、在世中から民衆に親しまれ、牛追いや馬子までがこれを口ずさん
だといわれています。


林間に酒を温めて紅葉を焼く
遺愛寺の鐘は 枕をそばだてて聴き
香炉蜂の雪は 簾をかかげて看る

などの詩歌は、『長恨歌』や『琵琶行』とともに、わが国でもよく知られています。
 白居易は、大暦七年(772年〕、河南省の新鄭に地方官吏の次男として生まれまし
た。彼は29歳で官吏登用試験に合格し進士となります。順調に官界コースを歩んでい
ましたが、40歳のとき母の死にあい、重ねて幼い娘の死に遭遇します。ここに彼は、
儒教では解決しがたい人間の「死」の問題に直面し、道教や仏教に関心を強めました。
しかも、しばらくして白居易は政治的に失脚し、左遷!。いよいよ彼は、仏教・道教に
傾斜していきます。白居易、50歳の時です。彼はみずから求めて、杭州刺史となって
赴任します。刺史とは州の長官、今の県知事に当たりますが、首都の権力闘争を避けて
、彼は地方に出たのです。
 杭州の秦望山には、鳥彙道林(ちょうかどうりん)と呼ばれる名物禅僧がいました。
この禅僧、山中の松の木の上に巣をつくって稜み、木の上で坐禅をしていました。白居
易は、この和尚の噂を聞いて、ある日、面会に出かけて行きます。白居易は、木の上で
坐禅している道林を見るなり、こう叫んだ。
「禅師の住処、甚だ危険なり!」
 白居易は、少しは仏教を学んでいる。それで、鳥彙道林をへこましてやろうとする気
があったのでしょう。わざわざ木の上で坐禅をする。そんな奇をてらった和尚にいささ
か反発も感じていたのでしょうか。だが、鳥彙道林和尚は半端な禅者ではなかったので
す。和尚はすぐに応じた。
「太守、あなたのほうが、もっと危険ですぞ!」
 木の上にいるわしを危険だと言うあなたは、自分自身の危険を忘れているのではない
か。あなたのいる世界には、左遷・失脚・裏切り・寝返り・犠牲などがいっばいある。
おまえさんたちは、そんな危険を忘れてのほほんとしておる。あなたのほうが、もっと
危険ではないのか -- というわけです。
白居易は返答できず、みごとに一本取られます。そこで、さらに問答を重ねます。

 「仏法の大意とはつまるところ何なのか?」
 道林和尚「諸悪莫作・衆善奉行」(悪いことをするな、善いことをせよ〕
これはいたって平凡な解答です。どこかのおじいちゃん、おばあちゃんでも言いそうな
言葉です。偉い禅師の言葉とは思えぬ、そう思ったのでしょう。
白居易は言う「そんなことは、三歳の童子でも知っていますよ」
だが、鳥彙和尚は動ずることなく「三歳の子供が知っていても、八十の老人すらこれを
実行することはむずかしいぞ!」と応じるのです。

 一切の悪いことをするな、善いことをせよということは簡単な教理ですが、簡単なこ
とほど実行するのは難しいところがあります。分かることと、行うこととはまったく別
なのです。禅はなによりも「行」を根本とします。この教えも、三歳の子供でもわかり
そうなことでも、実際のところは八十の老人にしても実行することは難しいと説くので
す。
 ところで、七仏通戒の偈は往々にして命令形に「諸の悪を作す(なす)莫れ、諸の善
を奉行せよ」と読まれがちです。漢文はいろいろに読むことができるので、命令形に読
むのをまちがいというのではありませんが、仏教的には他からの強制や禁止・命令によ
らず、自分から進んでする自由意志によるのを旨としますから、命令形に読み下すのは
好ましくないのです。
たとえば、最も古い経典の一つの「法句経」の183句に、


田麦俣 七ツ滝 H17年撮影
 ありとある悪を作さず
 ありとある善きことは
 身をもって行い
 おのれのこころをきよめん
 これ諸仏のみ教えなり

 仏教の善悪の教えとは、 「正しいこと」とは自他を活かし、共に喜ぶことであり、
「悪いことと」とは自他を殺し、悲しませることです。
 同、法句経に「悪の報いは自分にはこないと、小さい悪事を軽くみてはいけない。水
のしたたり落ちる一滴一滴の水が、やがて水瓶をいっぱいにするように、愚かなる人は
、ついに悪を満たすなり」とあるように、善きことを思い、善きことをなせば、幸福は
必ず実現する。反対に、一時はずる賢く要領のいい人間がはびころうと、因果の法則は
くらますことはできないという教えは人生の鉄則といってもいいでしょう。

 道元禅師は七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)は菩提の語として悟りの境地を
示したものであると「諸悪莫作の巻」で説かれています。
 つまり、悪いことはしまいと願い、悪いことはしないように心がけているうちに修行
の功徳力があらわれて悪いことを行うことがないようになるというのですが、さらに、
修行力が現成している人は、悪事をなしそうな場所にあったり、悪事をなしそうな機縁
や悪事をなしそうな友と交際しているようであっても、悪事は自らなされなくなるもの
であると示されるのです。「悉有仏性」の立場においての「止悪行善の戒」とは、道徳
や倫理の善悪ではなく、自主自律的に守られるであろう誓願であり聖戒なのです。
 
ーーーーーーーーーー

「諸悪莫作」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

ただここで道元禅師が言っておられるのは、仏教と言うのはやはり善悪を非常に重視す
る思想だ。だから大乗仏教の善悪を問題にしない思想と言うものが中心で、小乗仏教の
様に善悪を問題にするのは、仏教の区分けからすると地位が低いというふうな考え方が
あるけれども、それは必ずしも正しくない。また一方善悪と言うのは基準によって様々
に解釈できる。だからAの人が善いことだと思っておることが、Bの人にとっては悪い
ことだというふうな、立場が変わると善悪が入れ替わるということはいくらでもある。
だからそういう点では、善悪そのものがなかなか難しい問題を含んでおる。

そういうふうな問題も含めて、仏教においては善悪と言うものが非常に大事だ。ただそ
の善悪と言うものは人間の具体的な現実の状況に即して理解されなければならない。だ
からそれは頭の中だけで善いとか悪いとかというふうに考えるべきものではなくて、人
間の行動として善いとか悪いとかということを考えていかなければならないということ
を述べておられるわけであります。その考えにおける善悪と行いにおける善悪との違い
について、この「正法眼蔵」の諸悪莫作の巻では、一番最後のところに中国人の詩人で
ある白楽天と道林禅師と言う僧侶との問答が載せてある。

その話はどういうことかと言うと、白楽天は仏教に関心が深くて、林道禅師のところで
も一所懸命修行をしておった。ある時師匠の林道禅師に白楽天は「仏教というのは一体
どういう教えですか」と言う質問をした。それに対して、林道禅師が「悪いことをやら
ない、善いことをやる、それが仏道だ」と言う返事をした。ところが白楽天は仏道と言
うのはもっと哲学的な、もっと高尚な教えだと思っておった。そこで「もし仏教と言う
のがそういうふうなものであるならば、三才の子供でもそういうことなら言えそうだ」
というふうに反問した。ところがそれに対する師匠の返事が「確かに三才の子供でも言
えるかもしれないけれども、八十才の老人になっても実行は不可能だ」と言われた。で
、白楽天も「なるほど」というふうに感じたので、その場を引き下がったという話がこ
の「諸悪莫作」の巻の最後のところに載っておる。

そういう話から推察できるところは、善悪と言うものを理屈をこねて「あれがいい」「
これが悪い」と言うことをいうのはいくらでもできる。誰でもできる。ただ自分自身が
主役になって善いことをやり、悪いことをやらんということが出来るか出来ないかとい
うことが仏道の問題であり、非常に大切な問題。口先だけで人に聞こえて都合のいいこ
とばかりしゃべっておっても、自分自身で実際に行動できるかどうかということが仏道
の問題。だから普通の思想と言うものは、頭の中だけで「これがいい」「これが悪い」
「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言う思想が多いけれども、仏道では実際問題とし
て、実際に行動できるか行動できないかということを問題にするわけです。そういう点
でこの「諸悪莫作」の巻は説かれておるわけであります。


諸悪莫作の巻、本文に入ります。

過去における真実を得られた方々が言われている言葉に、諸悪莫作(様々の悪をなすこ
となく)、衆善奉行(様々の善いことを実際に行うべきである)。そうすれば自然にその
心が清くなっていく。過去において沢山の真実を得られた方々が共通に説かれた教えと
は、この「諸悪を作さず、衆善を行う」ということに尽きる。

これは過去七仏(釈尊以前の六人の仏と釈尊を含めて七人)の共通の戒めであり、古仏(
過去の真実を得た人)から、その後の世の仏(真実を得た人)に対して正しく伝えられて
いるところであり、後の時代の仏は、その前の時代の仏からこの教えを代々受け継いで
今日に至ったのである。この教えは単に過去七仏の教えというだけでなくて、その他諸
々のたくさんの仏の教えに他ならない。この七仏の通戒が述べている基本的な考え方と
言うものを、十分に努力して勉強してみる必要がある。

ここで言われている七人の真実を得られた方々の教えというものは、本来それが持って
いる本質的な特徴を具えている。その伝承してきた教えの内容は何か言うと、善悪の基
準と言うものが遠い理想ではなくて、日常生活の現在の瞬間瞬間においてその事態と言
うものがよくわかっていると言う事に他ならない。この「七仏通戒の偈」とは、単に七
仏だけの教えではなくて、百人の仏、千人の仏、万人の仏というふうな無数のたくさん
の真実を得られた方々の教えであり、行いであり、体験である。

※西嶋先生解説
「七仏」と言うのは、釈尊が現れる以前の時代に六人の仏(真実を得た人)がいたという
信仰を基礎にして、釈尊も合わせて七仏と言う信仰があるわけです。道元禅師は「諸悪
莫作」という巻においては、まず最初に七仏の通戒と言うものを掲げられて、仏教の基
本的な考え方を示されました。

今ここにいうところの悪い事とは、善性・悪性・無記性(善でもない悪でもない性質)の
中の悪である。この悪と言う性質は、突然どこからか生れて来るというふうなものでは
ない。そして善や無記もまた、悪の場合と同じようにいずれもどこからか生まれて来る
、何か汚れと言うものと関係があるものではなくて、善も悪も無記も、いずれもこの我
々の住んでいる世界の現実の姿である。そしてこのような善も悪も無記いずれも、その
現れ方には様々の姿がある。

しかもこの悪という性質には、娑婆世界とそれ以外の世界によって大きな違いがある。
この娑婆世界では善いとされているものも、よその世界にいけば悪い事と考えられる。
住んでいる世界によって善悪は色々入れ替わる。また時代が変われば善悪について大き
な違いがある。善とか悪とかと言う事は必ず時間と共に起きる。しかしながら、時間に
常に善とか悪とかと言う性質がある訳ではない。善とか悪と言う出来事は必ず時間にお
いて生まれて来る訳だけれども、時間そのものに、善とか悪とかと言うけじめはない。
善とか悪と言うことは、我々が住んでいるこの世界における現実の実態で、現実の実態
というものには、善とか悪とかを超越したものがあって、いちいちそれを善とか悪とか
と言うふうに割り切る訳には行かない。

悪も、現実の問題として現実の世界に安定した存在としてある。善もこの現実の世界が
均衡した形であると同じように、善もまた均衡した姿でこの現実の世界にあるに他なら
ない。我々が釈尊の説かれた最高にして正しく、かつ均衡のとれた真実を学ぶにあたり
、教えを聞き、修行をし、体験する場合、その内容たるや、奥深く、偉大であって、微
妙である。


道元禅師の説示は続きます。

この最高の教えというものを、ある場合には徳の高い僧侶から聞き、ある場合には経典
から聞くのであるが、最初、人間の耳にどう響いてくるかと言うと、「悪い事をするな
」と聞こえるのである。「悪い事をするな」と聞こえない教えは、釈尊の教えではない
。悪魔の教えであろう。銘記せよ。「悪い事をするな」と聞こえる教えこそ、まさに釈
尊の説かれた教えである。 

しかし、この「悪い事をするな」と言う教えは、各人が勝手に自分の頭で考えて、教え
を自分で作ってそれが釈尊の教えだと考えることではない。言葉として説かれた釈尊の
教えと言うものを素直に聞いていると、自然に「悪いことをするな」と聞こえてくるに
過ぎない。「悪い事をするな」と聞こえて来ることが、最高の教えが言葉になったとこ
ろの姿である。この様な教えというものは、真実の言葉であり、また真実を語ることで
ある。

この様に真実の教え(最高の教え)と言うものが人によって説かれ、またそれを聞いてそ
れによってだんだん自分自身が変化していくことによって、自分自身でも悪いことはや
るまいという希望を持ち、悪いことをしないということで日常生活を変えて様々の悪が
行われなくなってゆくところに、その実践の効力がたちまち現実のものとなる。しかも
善悪と言うものは非常に大きな要素を持っている、善悪と言うものは、宇宙と同じ大き
さの量を持ち、時間を持ち、広さを持っている。ではその大きさと言うのは何かという
と、悪と言うものについて「やらない」と言う大きさを持っている。

悪いことをやりたいと思っても、ぐっと我慢をしてやらないでいるということは、まさ
にその様な時において、そのやりたいことをやらずにぐっと我慢をしている当人は、当
然周囲の環境からすれば悪いことをせざるを得ないような環境に置かれており、そうい
う環境に出入りして、どうしても悪いことをせざるを得ないような対象と真正面で向き
合っておりながら、またどうしても悪い事をしなければならないような友達が周囲にい
る環境に置かれていながら、自分自身がやめておこうとぐっと我慢するところに、悪と
言うものの生まれて来る余地がなくなってしまうのである。

※西嶋先生解説。
だから人間は、善悪の問題をいうと、「環境が悪かった」「自分の育った環境が悪かっ
たからこうなった」とよく言う。しかし、道元禅師はそういうとらえ方をしておられな
い。どんなに悪い事をしなければならない様な環境に置かれていても、グッと我慢する
だけだ。「莫作」 と言うのはどういうことかと言うと、ぐっと我慢するということ。
善悪の問題と言うのは理屈でもなんでもない。やりたいと思っても悪いと思ったら、ぐ
っと我慢するということに尽きる。そういう点では、どのような誘惑に満ちた悪に陥り
やすい環境にあっても、悪いことをすまいと言う心がけを持っておれば、出てくるはず
がない。


道元禅師の説示は続きます。

物質を基礎に我々の日常生活が着々と行われていく事から生まれてくる力が、日常生活
をより善い方向に持っていってくれる。山、河、大地、太陽、月、星と言うふうな自然
の環境を舞台にして、我々が日常生活をし、そして善悪の実践を行っていくのであるが
、その事は我々が住んでいる世界の環境である山、河、大地、太陽、月、星等が、我々
自身に修行をさせる、我々自身に実践をさせる、我々自身に善悪を誤りのないように行
わせてくれる。

それは一定の時点における見方だけの問題ではない。さまざまの時点において、常に活
き活きとした見方が我々を助けてくれるのである。日常生活における瞬間瞬間が、我々
に活き活きとした眼を与えてくれることが実情であるから、そういう瞬間瞬間が真実を
得た人々を実際に修行させ、実践させ、教えを聞かせ、その成果を得させると言う事に
なるのである。そしてこのような仏道の世界においては、真実を得られた方は今日まで
、その教え、その行い、その体験というものを純粋に具体的に実現しておられるのであ
るから、抽象的な教え、行い、体験というものが真実を得られた人々の邪魔をし汚れに
なるという事もない。

このような形で 我々の日常生活は瞬間瞬間に行われていくものであるから、過去・現
在・未来における様々の行動に関連して、行動の行われる直前、行動の行われる直後に
、実際の行動の世界というものは逃げようとしても逃げようがない。真実を得られた方
々はどんな場面においても逃げ回ることなしに、一所懸命に実践してこられた。

無情説法の巻

03
釈迦の教えはこのようであるから、諸仏が説法を用いた様に、諸仏は説法を用いるのである。
諸仏が説法を正伝したように、諸仏は説法を正伝することから、古仏から7仏に正伝し、
7仏から今に正伝するのである。それは全宇宙の時間空間を超越し人間の分別智を
超えた説法である。それが無情説法である。この無情説法において諸仏祖は、仏祖
たりうるのである。釈迦の「私はいままた教えを説く」の言葉を、正伝されたものではない
新しい教えを説くことだと思ってはならない。また、昔から伝えられたものは、古く怪しげな
モノと考えてはならない。

01
普遍の理法を天地自然のままに説く説法は、仏祖が仏祖に付託する仏法の現成である。
仏祖の説法とは、真理そのままが真理を説くを説くのである。それは人間の情識を具えた
ものとしてするのではない。また草木のような自然存在としてするのではない。
無情説法とは諸法実相を説くものであって、また人間の境界においてなされるものではない。
だが人間の境界をはなれたものでもない。その言葉は有為無為といった因縁を対象
として用いられるものではなく、因縁の跡を留めないものである。

06
無情説法の姿はどのようなものであるか審らかに心に学ぶべきである。
愚者が思う様に、木々が枝を鳴らし、花々や木の葉が開いては落ちる姿を無情説法だと
考えるのは、仏法を学ぶものではない。もし無情説法がそのようなものであるなら、だれが
それを知らないものがあろう、誰か無情説法を聞かないものがあろうか、このような
自然界の声は誰もが知る所であり聞くところである。


ーーーーーーーーーーーー

【定義】

①無情である自然の草木国土障壁瓦礫等が、仏の真理を説いていること。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では53巻、75巻本では46巻。寛元元年(
1243)10月2日に越前吉峰寺にて修行僧に示された。

【内容】

①元々無情説法は、中国禅宗六祖慧能の弟子である大証国師南陽慧忠禅師が説いたもの
である。それを受けて、曹洞宗の系統では、仏法については絶対の働きを如何にして感
じとるかが問題であり、そこでは人という主体を立てて説法を聞くという常識程度の理
解を超えなくてはならなかった。そこで、洞山良价禅師の師である雲巖曇晟禅師は以下
のように説いている。
雲巖曰く、無情説法し、無情聞得す、と。 『景徳伝燈録』巻15、洞山良价章

②道元禅師は①の見解を受けて、さらにその意義を深められている。つまり、この尽十
方界が一切全て無常なる事実の現成であれば、尽界は仏法の働きが?礙することなく発
揮されており、仏法現成の事実の上では、命有るものとしての有情も、命無きものとし
ての無情も、その区別はなくなってしまう。有無相対を絶した「情」の説法を、道元禅
師は無情説法だとされる。
説法於説法するは、仏祖付属於仏祖の、見成公案なり。この説法は法説なり。有情にあ
らず、無情にあらず、有為にあらず、無為にあらず、有為・無為の因縁にあらず、従縁
起の法にあらず。しかあれども鳥道に不行なり、仏衆に為与す。

また、この意義を敷衍するために、『妙法蓮華経』「方便品」や南陽慧忠禅師の問答、
①で採り上げた雲巖曇晟-洞山良价の問答、そして投子大同の問答などが採り上げられ
ている。これらの問答を解釈した道元禅師は、同巻の重要な問題として、有無相対を絶
した説法であれば、同時にそれは有無相対を絶した聞法でもあるとされる。
たとひ眼処聞声を体究せずとも、無情説法・無情得聞を体達すべし、脱落すべし。

そして、結論として無情説法の事実とは、仏祖の存在そのものであることを宣言して終
えられるのである。
しるべし無情説法は、仏祖の総章これなり。


ーーーーーーーーー

この巻の主題は「説法」にあると思っている。「無情」については、おそらく付け足し
だ。それが証拠に、冒頭の文章は、以下の通りである。

説法於説法するは、仏祖附嘱於仏祖の見成公案なり。この説法は法説なり。有情にあら
ず、無情にあらず、有為にあらず、無為にあらず、有為・無為の因縁にあらず、従縁起
の法にあらず。しかあれども、鳥道に不行なり、仏衆に為与す。大道十成するとき、説
法十成す、法蔵附嘱するとき、説法附嘱す。拈華のとき、拈説法あり、伝衣のとき、伝
説法あり。このゆえに、諸仏諸祖、おなじく威音王以前より、説法に奉覲しきたり、諸
仏以前より、説法に本行しきたれるなり。説法は、仏祖の理しきたるとのみ参学するこ
となかれ、仏祖は、説法に理せられきたるなり。この説法、わづかに八万四千門の法蘊
を開演するのみにあらず、無量無辺門の説法蘊あり。
    同巻

冒頭では、「説法」の道理について、仏祖が仏祖に附属してきたものであるという。そ
して、説法とは、仏祖が法を説くというだけではなくて、法が説くものでもある。だか
らこそ、この法に着目してみれば、有情や無情というような対立は全て脱落されていく
といえる。また、大道を成就するというのは、説法が十成したものであり、法蔵の附属
は説法の附属、拈華とは説法をつまみ上げ、伝衣とは説法を伝えたものである。いわば
、「説法」とは、法のはたらくさまをいう。

だからこそ、「説法は、仏祖の理しきたるとのみ参学することなかれ、仏祖は、説法に
理せられきたるなり」は重要である。説法について、仏祖が用いるものとばかり考えて
はならない。むしろ、仏祖こそが説法によって、その存在の根源を保護されていること
になる。つまり、説法によって仏祖は存在しているのである。この時、「説」とは、言
語的な「説く」ばかりを意味しない。むしろ、存在論的に「あらしめる」機能を保持し
ていると理解されなければならない。「無情説法」に於いて、「説法」が重視されると
すれば、この「説」が「あらしめる」機能を持っているためであり、そこに有情・無情
の違いは無い。

しかあれば、無情説法の儀、いかにかあるらんと、審細に留心参学すべきなり。愚人お
もはくは、樹林の鳴条する、葉華の開落するを、無情説法と認ずるは、学仏法の漢にあ
らず。もししかあらば、たれか無情説法をしらざらん、たれか無情説法をきかざらん。
しばらく廻光すべし、無情界には草木・樹林ありやなしや、無情界は有情界にまじはれ
りやいなや。しかあるを、草木・瓦礫を認じて無情とするは、不遍学なり、無情を認じ
て草木・瓦礫とするは、不参飽なり。
    同巻

「無情説法の儀」については、審細に心を留めて、学ぶべきであるという。そして、有
情=命あるもの、無情=命なきものとのみ考えて、草木などが鳴る様子を、無情説法だ
とするのは誤りだという。先ほども既に述べたが、この時の「無情」とは、「有情」と
対する存在として考えられていない。分かりやすくいうならば、「無情」とは、説法の
普遍なる道理をいう。

曩祖雲巌曰、無情説法、無情得聞。この血脈を正伝して、身心脱落の参学あるべし。い
はゆる無情説法、無情得聞は、諸仏説法、諸仏得聞の性相なるべし。無情説法を聴取せ
ん衆会、たとひ有情・無情なりとも、たとひ凡夫・賢聖なりとも、これ無情なるべし。
    同巻

曩祖雲巖とは、曹洞宗の系譜に連なり、また一般的に曹洞宗の開祖とされる洞山良价禅
師の本師である雲巖曇晟禅師のことである。雲巖禅師こそが、従来、大証国師・南陽慧
忠が提示するに留まっていた無情説法を、まさしく曹洞宗の宗旨の根幹に据えた人であ
るといえる。雲巖禅師は、無情説法・無情得聞であるとした。まさに、これこそが身心
脱落の参学である。我々が保持している、この相対的な身心を脱落しきったところにあ
る法そのものである。そして、その法に「説=あらしめ」られて、仏祖は現成している
ため、諸仏の説法も諸仏の得聞も、ここをその性相(本質と姿)としている。そして、
その諸仏の無情説法を聴取している衆会(諸仏の「説」によってあらしめられているあ
らゆる存在)は、有情・無情であっても、凡夫・賢聖であっても、「これ無情」なので
ある。

ここで、「無情」の意味が、二重化していることをお分かりいただけたであろうか。前
者はまだ、有情と相対する無情、それこそ草木などである。後者は、その対立を脱落し
きったところの、諸仏或いは法の「説」によってあらしめられている一切の存在を指し
ている。ここまで行けば、「無情説法」巻に残るテーマは、この「無情説法の伝承」の
みである。同巻の後半は、いわゆる「嗣法論」となっている。参究されねばならない。

 曩祖道、我説法汝尚不聞、何況無情説法也。これは、高祖、たちまちに証上になほ証
契を証しもてゆく現成を、曩祖、ちなみに開襟して、父祖の骨髄を印証するなり。
 なんぢなほ我説に不聞なり。これ凡流の然にあらず、無情説法たとひ万端なりとも、
為慮あるべからず、と証明するなり。このときの嗣続、まことに秘要なり。凡聖の境界
、たやすくおよびうかがふべきにあらず。
    同巻

何故、無情説法で嗣法が問題となるのか、それは、「得聞」に掛かっている。「説」が
ある以上、「聞」が無ければならないが、その「聞」を審細に参究していくと、「聞報
」を経由して、「嗣法」に繋がっていく。曩祖雲巖禅師が指摘したのは、「我が説法、
汝尚聞かず。何に況んや、無情説法をや」である。ここで「聞かず」とあると、ただ聞
いていないという話になりそうだが、もちろん、そう考えるのは凡流である。雲巖禅師
の真意は、「無情説法たとひ万端なりとも、為慮あるべからず」である。よって、聞者
が感覚的に聞いたことにはならない。

よって、この時の雲巖禅師の「証明」に基づく「嗣続」とは、「まことに秘要」である
。この「秘」とは、現実に於いて自覚することが難しい様子を指す。だが、既に「説法
」によってあらしめられている歴代の仏祖にとって、「嗣法」とは、その事実に生きる
ことに他ならない。そして、一切の積極的表現を適用することが出来ない。無・不・非
・秘などの語句をひたすらに繋いで表現するしかない。だが、それは相対を破し、今こ
ここそが、無情説法のまっただ中であることを示すためである。既に無情説法の中に生
き、これからも同様であるならば、この説法を「聞く」と言うことは、一体「何時」の
話になるのか?いや、「何時」としか表現できないのである。

まさに、洞山良价禅師が仰るように、「無情説法不思議」なのである。

仏経の巻2

01
諸覚者の覚りが言葉となって現れる、それが仏経である。それは仏祖が仏祖のために説くのであり、
教えが正しく伝わるために説くのである。これが各社の説法であり、威儀である。この教えが最も
活き活きと働く精神の場に、諸仏祖を出現させ、諸仏祖をして十分に解脱させる。この諸仏祖は
必ず一塵の場に出現する。それは一塵の場においての解脱の出現である。それは世界を尽くす
解脱の出現である。一刹那の出現でありつつ、しかも海のごとき長時間に亘る出現である。
そうであるが、一塵の極微の場、一刹那の極微の時間に出現しながら、仏教の本質をすべて
十全に具えている。それは尽世界と海のごとき永遠の時間の出現であり、何か欠けたところ
を補うような働きではない。こうしたことであるから、朝に成道し夕べに死を迎えた諸覚者にあっても、
彼に仏教の本質が欠けていることはない。もしたったの一日ではせっかくの利益が少ない
というなら、人間の生きる八十年も長いものではないのである。人間の八十年を十劫二十劫に
比べれば、その一日は八十年のようなものではないか。時間の長短によって比べるなら、この覚者が
ある日にえた仏教の本質を、またかの釈尊が八十年に得た仏教の本質を理解することは
出来ないだろう。永遠にわたってある所の仏教の本質と釈迦八十年の仏教の本質をあげて
比べてみれば時間の長短が問題ではないことは疑いを持つまでもない。
このように、仏教の仏教とは普遍不変の理法の教えである。


ーーーーーーー

仏教」
 この仏教の巻は、次のような構成でできています。
ⅰ まず、「諸仏の道現状、これ仏教なり。」で始まる総論があります。これが、この
巻の核心であり、結論であります。この正法眼蔵では、多くの巻で冒頭に結論が述べら
れます。
ⅱ 次に二つのエピソードが紹介され、道元禅師の考え方が 示されます。
 ① ある僧が巴陵に尋ねる。「祖意と教意は、同じか、それとも別のものであるのか
。」と。
   これに対して、巴陵は「鶏が寒いと樹に上り、鴨は寒いと 水に入る。」と応え
る。
 ② 僧が玄沙に尋ねる。「三乗十二分教は即ち不要なり、如何ならんか是祖師西来の
意。」と。
   これに対して、玄沙は「三乗十二分教総に不要なり。」と応える。
ⅲ 具体的な仏教の形について説かれます。
 ①三乗十二分教
 ②九分教

教外別伝と仏教
 皆さんは、教外別伝という言葉をご存知でしょう。仏教の核心は教外別伝だと聞いて
いる、そういうものだというふうに理解しているという方は、多くおられると思います
。
 ところが、この冒頭で、このようなことを説く輩は、たとえ大先輩であっても仏法を
知らないものであるとされます。仏教の他に一心ありとする汝の仏教はいまだ仏教でな
いと言われます。

仏教の巻 後半
  三乗十二分教について
 まず、三乗の説明があります。すなわち、
声聞乗、縁覚乗と菩薩乗の三乗です。
 声聞乗では、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四諦によって得道する修行について道元禅師
の考え方が示されます。
 縁覚乗では、十二因縁による修行についての考え方が示されます。
 また、菩薩乗では、利他を図る六波羅密の修行によって真理を得ることをめぐって説
かれます。
 ここで、波羅密とは彼岸に到ることだが、到るとは現成することであって彼方に真理
があると思ってはならないと説かれます。
 
十二分教について
 十二分教とは、経典を形式と内容によって十二に分類してものです。まず、如何なる
基準で分類されているかを示された後、これは衆生を悦ばしめんが為に、十二分教を起
こされたのだと言われる。
 そして、この各々は、仏祖の眼睛であり、骨髄であり、光明であり、荘厳であり、国
土であり、十二分教をみることは仏祖をみることであるとされます。
 九分教について
 仏教の内容を九に分類したものであり、ここで、釈迦牟尼仏の「我がこの九部の法は
、衆生に随順して説く。大乗に入らんはこれ本なり。」との言葉を引かれています。


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 「諸仏の道現成、これ仏教なり。これ仏祖の仏祖のためにするゆえに、教の教のため
に正伝するなり、これ転法輪なり。この法輪の眼埵裏に諸仏祖を現成せしめ、諸
仏祖の般涅槃せしむ。その諸仏祖、かならず一塵の出現あり、一塵の涅槃あり、尽界の
出現あり、尽界の涅槃あり。・・・仏および教は大小の量にあらず、善悪無記等の性に
あらず、自教教他のためにあらず」
 道元さまの時代に「仏道」とか「仏法」という言葉は使われていましたが「仏教」と
いう言葉はほとんど使われていませんでした。仏教という言葉がよく使われるようにな
ったのは明治以後のことであり、西洋よりキリスト教等の他の宗教が日本に入って来る
ようになり、それ等の宗教と区別する意味で、お釈迦様の教えを総じて仏教と言ったの
であります。

しかし道元さまが使われたこの「仏教」という言葉は他宗教と区別する意味での「仏教
」
ということではありません。道元さまは弟子たちにこの「仏教」という
言葉を説く必要性があったのであります。そして「仏道」「仏法」「仏教」の三つが総
合してこそ意味があるのであります。やや理屈っぽくなりましたが、この「仏道」と「
仏法」という言葉についてまず説明させていただきます。

 「仏道」はお釈迦さまがお説きになった悟りに到るための最上の実践規範、悟りへの
最上の修行のあり方を意味しております。「仏法」は仏道修行の行われる舞台としての
世界を意味しています。しかしこれらは「仏教」という言葉を説明するために区別して
説明させていただいたのでありまして、一般的には三者の区別をいたしません。

 さて道元さまは仏教を「諸仏の道現成、これ仏教なり」と明快に説明されました。こ
の意味はお釈迦さまはじめ諸仏諸祖のお説きになった言葉(真理)のあるがままの現れ
であります。つまり仏教とは諸仏諸祖がお説きになった仏道や仏法の理論的、哲学的側
面を強調して言われた言葉であります。それは哲学的論議(三乗)や経典(十二分教)
などの文字による教えも軽視すべきでないということを道元さまはこの巻で述べられた
のであります。

 さて「仏祖の仏祖のためにする」とか「教の教のために・・」ということは諸仏諸祖
の説かれた教えは「真理」でありもともと存在するものでありますので、相手を意識し
て説くことによって価値が生まれるというものではないということであります。そして
それは悟りを開かれた方が自身の為に説くのであり、仏教がそれ自身真理として正しく
伝えられるのであります。仏が仏に教えを伝えるということは真理を悟った者にのみ伝
えられるということであります。それでお釈迦さまより歴代の祖師方に嫡々相承して正
しく伝えられてきたのであります。このことは仏の教が凡夫つまりまだ悟りに到ってい
ない人に説かれなかったということではありません。

このことにつきまして道元さまは
正法眼蔵随聞記という教えの中に「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあ
り、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成
りしなり」という段があります。未だ悟りの境地に到っていない私どもも、常に求めて
悟りを得ようと願い修行を重ねるならば、悟りの境地に到るということであります。道
元さまが中国天童山如浄禅師より正しい仏法を伝えられたのも嫡々相承であり、仏道が
仏道に伝え仏法が仏法に伝え仏教が仏教に伝えたのであります。つまり如浄さまによっ
て道元さまが「真理」「悟り」への目が開かれたのであります。
 さて道元さまがこの巻で説かれようとされたことは仏教の理論的側面を否定して実践
のみを重視する偏った考えを戒められ、理論的側面をも軽視すべきではないと説かれた
のであります。ただし修証一如という言葉がありますように実践なくして悟りは無いの
であり、実践と理論とが両者あいまっていなければなりません。やや難解な巻ではあり
ましたが「諸仏の道現成、これ仏教なり」であります。

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仏心は文字や言葉によって伝えることのできない「不立文字、教外別伝」であるから悟
りの境涯によってのみ理解できるものだと述べました。
さらに誤解のないように申せば、それは観念に囚われてはならないということであり、
けっして経や教典が劣っているというものでは全くありません。

道元禅師は正法眼蔵(仏教の巻)の中で、とくに「経」に対する態度について強く教示
されています。
「諸仏の道現成、これ仏教なり。」(もろもろの仏のことばの実現したるもの、それが
仏教にほかならない)と冒頭で示されています。
ここでいう「仏教」とは「もろもろの仏のことば」すなわち「経」の意味だととらえて
ください。

そして「教外別伝の謬(あやま)った説を信じて、仏の教えをあやまってはならない」
と明言されております。
教外別伝の「教」とは「経」のことであり、それは同時に「仏心」そのものです。
「別伝」ということばに惑わされると「経」と「仏心」が別物だと謬ってしまうのです
。ここに禅師は釘を刺されているのです。

「その正伝した一心を教外別伝という。それは三乗十二分教、すなわちもろもろの経典
の語るところとは、まったく別のものである、と。
また、その一心こそ最上のものであるから、直指人心、見性成仏と説くのである、とい
う。 そのいい方は、けっして仏教のものではない。

そこには自由にいたる活路もなく、全身にそなわる修行の輝きもない。
そんな男は、たとい数百年数千年の先輩であろうとも、そんなことを言うようでは、仏
法も仏道もまだ分かってはいない、通じてはいないのだと知るがよい。」(正法眼蔵・
仏教 増谷文雄氏訳)
道元禅師は「教典の他にも法がある」「教典は戯れである」「一心と教典は別のもので
ある」「一心こそ最高のものでありそれを感知した者でなければ成仏できない」などと
いう解釈はまったくの謬(あやま)りであり仏法でも仏道でもないと批判されているの
です。

さらに、「仏の教えが一心であることも知らず、一心がすなわち仏の教えであることも
学ばないから、一心のほかに仏の教えがあるなどという。その汝がいう一心は、まだ一
心ではあるまい。また仏の教えのほかに一心があるなどという、その汝がいう仏の教え
とは、けっして仏の教えではない。」(正法眼蔵・仏教)

禅師は、「一心」と「教典」を区別して「教外別伝」を解釈することはまったくの誤り
である。「仏の教えが一心であり、一心がすなわち仏の教えである」と繰り返し主唱さ
れているのです。

「かくて、知るがよい。仏心というのは、仏の眼睛である。破木杓(はもくしゃく)で
ある、もろもろの存在である、三界であるがゆえに、山海国土・日月星辰である。
つまり、仏教というのは森羅万象である。」(正法眼蔵・仏教)

「仏心」とは、仏の眼であり、壊れて役に立たない物であり、山海国土であり、月や星
である。
つまり三界に存在する森羅万象が仏心であり仏教であるというのです。

破木杓(はもくしゃく)とは、こわれた柄杓とか底の抜けた桶とかのことで、なんの用
も立たない物の例えです。
三界とは、「三界六道」といわれる輪廻転生の世界を欲界(よっかい)・色界(しきか
い)・無色界(むしきかい)の三つに区分した世界のことです。

三界も六道も同じ輪廻の世界のことですが三界は精神面からの区分であり、六道は苦楽
のありさまからの区分であるのです。
六道はご存知のように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つですが、では三界と
はどんな世界なのでしょうか。

欲界とは、地獄界から人間界までの欲望の世界のことです。
色界とは、その欲望のない物質だけの世界のことです。般若心経の「色即是空」の「色
」つまり「物質」の世界だと解釈すればよいでしょう。
従って、無色界とは、その物質の存在を超えた世界ですから「空」の世界だと理解した
らよいでしょう。

禅師は正法眼蔵「三界唯心」の冒頭でつぎのようにも示されています。
「釈迦牟尼仏は仰せられた。『三界とはただ一つの心である。心のほかにまた別の法は
ない。心といい、仏といい、衆生というもこの三つは別のものではない』 この一句の
表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである・・・「三界唯心」とは、如来のさ
とりのすべてである。一代のすべてがこの一句に結晶しているのである。」

「華厳経」の中の「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」を引用された
ものであり、「三界は一心である」「衆生も一心である」「一心以外のものはない」「
三界は一心であり如来の悟りのすべてである」と明示されているのです。

そこで注意すべきは、そうか、仏教は結局は「唯心論」か、などと思ってはなりません
。
禅師はそんな誤解のないように「三界はすなわち心といふにあらず」と言われています
。
これは唯心論に陥らないようにという意味のことばですから誤解のないように願います
。仏教は唯心論とはまったく別次元のものです。

禅師はさらに法華経・譬喩品のなかの句をあげられて仏と三界の関係について説かれて
います。
「このゆえに、釈迦大師道、『今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是我子』」 (また
釈迦牟尼仏はおおせられた。『今この三界は、みなこれ我がものなり。
そのなかの衆生は、ことごとくこれわが子である』)「正法眼蔵・三界唯心」

お釈迦さまは申されました。
「今この三界はすべてわたしのものであり、衆生もすべてわたしの子どもである」と。
このことばこそ仏教の真骨頂だと拙僧は思うのですが、いかがでしょう。

お釈迦さまのこの「教(経)」こそ大慈悲心であり、それを信じきった者こそ救われる
のです。
それを確信するためにはこの「今」と「我」と「子ども」についてしっかりとした理解
が必要なのです。

この「今」とは、過去・現在・未来のすべてが含まれている「今」なのです。
仏法でいう「今」には過去も現在も未来もありません。言い換えれば過去も現在も未来
も「今」に集約されてしまっているのです。

だからお釈迦さまは過去の仏さまではなく今でも生きておられるのです。
だからわれわれはみな「今」お釈迦さまの「こども」なのです。
「こども」といっても親子に上下関係はありません。
「惟一心」を持った親子ですからその関係はまったく平等なのです。

お釈迦さまの申される「我」とは、応身仏・化身仏・法身仏のことであり、それはお釈
迦さま自身であり同時に森羅万象それ自体であるのです。
だからお釈迦さまと「わたし」とは久遠の仏親子なのです。

「三界唯一心」・・・わたし自身かけがえのない存在であり、わたし自身が久遠の仏で
あることを教えてくれているのです。