2016年5月5日木曜日

弁道話

この「弁道話」の巻は、「正法眼蔵」九十五巻本の一番最初に載せるのが最も適切だと
考えられているように、非常にわかりやすくて、仏教というものがどういうものかとい
う事を、きわめて具体的に書いてあります。だから最初にやる「巻」としては適切な「
巻」という事になるわけです。道元禅師は「功夫弁道」という言葉を、「正法眼蔵」の
中でもよく使われます。「功夫弁道」とは、努力する、釈尊の教えを一所懸命勉強する
という意味ですが、

具体的には「弁道」という言葉で「坐禅」という事を意味している。
だから、この弁道話と言うのは、坐禅についての説明という意味にとって
差し支えない。

この巻は寛喜三年(一二三一)道元さまが宋の国から帰国されて間もない、まだ深草の
安養院に偶居されていた頃に書かれた巻であります。この巻は最初は正法眼蔵に組み込
まれていなかったのであり、後江戸中期京都の公家の屋敷より発見されたものでありま
す。しかし、その内容は正法眼蔵の中でも現成公案の巻、佛性の巻と並んで、道元さま
の教えを伝える大変重要な巻であります。なおその時道元さまは三十一歳でありました
。道元さまはその教えを日本に広めようと決意され、日本における曹洞宗立教開宗の宣
言書というべきがこの「弁道話」であります。

ここに紹介いたしました一節は佛教の根本である悟りと坐禅との関係について説かれ
たものであります。そして悟りを得る最上の方法について説かれ、端坐参禅こそ、その
妙術であると説いておられます。それは、「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿ノク
菩提を証するに、最上無為の妙術あり。・・すなわち自受用三昧、その標準なり。・・
端坐参禅を正門とせり。この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ
修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」であります。


この悟りを得るとは仏智を得ることでありまして、仏智には四つの智慧があります。
それは
大円鏡智(鏡の如き明鏡止水の智慧)
平等性智(だれにも等しく与えられる平等の慈悲の智慧)
妙観察智(真理を正しく観察する智慧)
成所作智(一切の日常の行為が仏行となる智慧)
であります。その阿ノク菩提すなわち悟証とは自受用三昧でなければなりません。

自受用三昧とは悟りを自ら悟証すること、つまり自らそれを受用し体験し体現
することであります。
つまりお釈迦さまから嫡々相承された正伝の仏法・悟りの世界
を自己の生活の全てに実践体現することであります。
そして道元さまはそれを体験し体現し体顕する正門は坐禅であると説かれました。

悟りの世界とは特別なものではなく、天地自然、有情非情の万物が有るべきように、
有るべきところにあることであり、それを神ともいい佛ともいうのであります。
つまり人類共有の世界であります。
そして一時なりとも三昧に端坐するとき、遍法界、尽虚空、この世の世界が全て佛印
つまり悟りの世界、真如を現すというのであります。

只管打坐・ひたすらに坐るとき自己が無限に関連する絶対的世界の中に溶け込み、
融合して自他の境界が無くなり侵すものも侵されるものも無くなり、あらゆる世界が
時間も空間も悟りの世界として見直されるのであります。

そのとき逆に「このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事をなすをもて、
そのおこすところの風水の利益にあずかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に
冥資せられてちかきさとりをあらわす。」となり、悟りの世界が自己を包み込む
のであります。これが坐禅の功徳であります。



ーーーーーーー

禅としての基本である「脚下を照顧せよ」はここでいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。
⇒ポジティブでも、生活行動のすべてが自身のポジティブアップにつながると考えてい
る。

弁道話(はんとうわ)
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿のく菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これただ、ほとけ仏にさずけてよこしまなることなきは、すなわち自受三昧、
その標準也。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
01
諸諸の仏祖には、みな方便によらぬ法が具わっており、無上の覚りを明らめるに
あたって、作為にわたらぬ最も優れた妙術がある。人は人それぞれでありながら、
この妙術が、仏祖から仏祖に授け伝えられて誤ることがないのは、それが
ただただ己が受用し一人一人が己の煩悩から開放してゆくことに、準拠
しているからである。
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。

06
仏法を正しく伝える宗門では、仏法が各々の資質のままに実現する誤りのない座禅修行
こそ、最上の中の最上であるとして、修行者が初めて師に参じたときから、焼香、
礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、ただひたすら打坐して心身脱落することを
得よと教えるのである。

12
ただまさに知るべきである。七仏から伝えられた坐禅という妙法は、得道しこころの
明らかな宗師に、その心に通じ仏法を会得した学人が従って正伝すれば、嫡々の宗旨
はかくれもなく受持されるのである。それは文字法師の知識が及ぶものではない。
このようであるから、徒らに疑い迷うことことをやめて、正師の教えによって
坐禅に努めて、諸仏の自受三昧を身につけるべきである。

13
われわれにはもともと無上の覚りがかけているのではない。それは常に己自身
に具わっているのであるが、まともに体験されず身心によって承認し得ない
ところから、みだりに知的な認識や観察的な知識を用いることが習慣となっており、
このような己の知覚が作ったものを追いかけることから、真の覚りをうっかり
と見逃しているのである。このような主観と客観の入り混じる知見によって、空花
はいく通りにも表れるのである。それをあるいは無明、行識、名色、六処、
触、受、愛、取、有、生、老、死の十二の因縁による輪廻転生だと思い、欲界
の四悪趣、須弥四州、六欲天、色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、無色界
の四空処天など、二十五有の境界だと考えるのだが、これは覚りではなく、声聞、
縁覚、菩薩、人、天の三乗とか五乗とか、仏は有であるか仏は無であるかなどと
処々の見解は尽きることがないのである。このような知識を習うことが、仏法
修行の正道と思ってはならないのだ。しかるに、いまやまさしく仏印によって
万事を放下し、ひたむきに坐禅するとき、迷いとか悟りとか情識によって量ろうと
する辺際を離れて、凡聖の別にかかわらず、何らの規格をも超越した世界に逍遥
して、大いなる覚りを受用するのである。それは方便にすぎない文字の中に
拘っている者たちが、参入し得ないところである。

14
問うていう。戒、定、彗の3学のなかに、心身を静かに乱れぬようにする定学
があり、布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧の六波羅蜜のなかに、静熟という覚り
の彼岸に至る禅の行がある。これらはともに一切の修行者が初心から学ぶところで
あって、利鈍の別なく修行するものである。今続いている坐禅もその1つであろうが、
しかるにどうして、この坐禅だけに仏の正法が集中しているのか>
知るべきである。坐禅は覚りでも智慧でもなく、坐禅の協会はすなわちそのまま仏法界
であり、仏法のかけるところのない全道であって、これに並びうるものはない。


16
この坐禅の行はまだ仏法を体得していないものは、座禅修行することによってその
証を体得するのであろう。だが、すでに仏正法を明らめ得た人は、もはや坐禅に
何の期待するところがあるのだろう。
答えて言う、愚かな者には何を語ってもしかたがない、山人の手に船の棹を
与えても用いることはできないようなものであるが、さらに教えを示そう。
すなわち、修行と覚りとは一如でないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。常に初心の覚り
があって上での修行であるから、初心の座禅修行はそのまま本証の全体なのだ。
このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほかに
覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行による
他はない明証であるから、その悟りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での
修行であるから、すでに仏道修行に入ったもの者には初心というものでは
ないのである。



⇒「無明、行識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老、死」十二の因縁。
 欲界の四悪趣、須弥四州、六欲天、
 色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、
 無色界の四空処天など、
 二十五有の境界だと考える」

十二支縁起の要素
・無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が
無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
・行(ぎょう、巴: sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。物事がそのようになる
・力=業識(しき、巴: vi????a, 梵: vij??na) - 識別作用=好き嫌い、選別、
差別の元
・名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、そ
の名前
・六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。
・眼耳鼻舌身意触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受
対象が触れること。外界との接触。
・受(じゅ、vedan?) - 感受作用。六処、触による感受。
・愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。
・取(しゅ、up?d?na) - 執着。
・有(う、bhava) - 存在。生存。
・生(しょう、j?ti) - 生まれること。
・老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。

http://enjoy.pial.jp/~esmusssein/butu_utyuu.html

輪廻とは,「1.宇宙の形態的構成」で示したように,有情と,有情のカルマによって
形成される自然界の両者が,このようなとめどのない生成と消滅を繰り返している様を
いう。

六道とは,地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界・天界の六つの世界をいう。
地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界の五悪趣は,欲界のみに属する。
天界は欲界・色界・無色界のものがある。
有情のカルマの色調には六つのタイプがあり,これら六つの世界はそれぞれの
タイプのカルマが生み出す世界である。




ポジティブの6つの美徳と24の構成項目について、比較すると面白い。
6つの美徳には、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
そして、この美徳を構成しているものが以下の24項目となり、個人の性格
の強みとなる。
セリグマンの「世界で1つだけの幸せ」から自分の強みを見つけて欲しい。
1.知恵と知識
①好奇心と関心
・常に世界に対する好奇心を持っている。
・直ぐに退屈してしまう。
②学習意欲
・何か新しい事を学ぶとわくわくする。
・わざわざ博物館や教育関連の施設などに出かけたりはしない。
③判断力、批判的思考、偏見のなさ
・話題に対してきわめて理性的な考え方が出来る。
・即断する傾向にある。
④独創性、創意工夫
・新しいやり方を考えるのが好きだ。
・友人のほとんどは自分より想像力に富んでいる。
⑤社会的な知性、個人的知性
・どんな社会的状況でも適応する事が出来る。
・他の人が何を感じているかをさっちするのは余り得意ではない。
⑥将来の見通し
・常に物事を見て全体を理解する事が出来る。
・他人が自分にアドバイスを求める事はめったにない。
2.勇気
⑦武勇と勇敢さ
・強い反対意見にも立ち向かう事がよくある。
・苦痛や失望にくじけてしまうことがよくある。
⑧勤勉、粘り強さ、継続的努力
・やりはじめたことは必ずやり終える。
・仕事中に横道にそれる。
⑨誠実、純粋、正直
・約束は必ず守る。
・友達から「地に足がついている」といわれた事がない。
3.人間性と愛情
⑩思いやりと寛大さ
・この1ヶ月間に自発的に身近な人の手助けをした。
・他人の幸せに自分の幸せと同じくらい興奮する事はめったにない。
⑪愛する事と愛される事
・私には、自分のこと以上に、私の感情や健康を気遣ってくれる人がいる。
・他の人からの愛情をうまく受け入れられない。
⑫協調性、義務感、チームワーク、忠誠心
・グループの中にいるときが一番良い仕事ができる。
・所属するグループの利益のために自己の利益を犠牲にすることには抵抗がある。
4.正義
⑬公平さと公正さ
・その人がどんな人であろうと全ての人を公平に扱う。
・好ましく思わない人の場合、その人を公平にあつかうことは難しい。
⑭リーダーシップ
・口うるさくすることなく、いつでも人々に共同で何かをさせることが出来る。
・グループ活動を企画するのは余り得意ではない。
5.節度
⑮自制心
・自分の感情をコントロールできる。
・ダイエットは続いたことがない。
⑯慎重さ、思慮深さ、注意深さ
・肉体的な危険をともなう活動は避ける。
・友人関係や人間関係で、ときどき不適切な選択をしてしまう。
⑰謙虚さと慎み深さ
・人が自分の事をほめると話題を変える。
・自分の業績についてよく人に語る。
6.精神性と超越性
⑱審美眼
・ここ1ヶ月間に音楽、美術、演劇、映画、スポーツ、科学、数学など
の素晴らしさに打たれたことがある。
・この1年間美しいものを創り出していない。
⑲感謝の念
・どんなささいなことであっても、必ず「ありがとう」と言う。
・自分が人より幸福であると思うことがめったにない。
⑳希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
・物事をいつも良いほうに考える。
・やりたいことのために、ジックリ計画を立てることなどめったにない。
21)精神性、目的意識、信念、信仰
・私の人生には強い目的がある。
・人生における使命はない。
22)寛容さと慈悲深さ
・いつも過ぎたことは水に流す。
・いつも相手と五分になろうとする。
23)ユーモアと陽気さ
・いつも可能なかぎり仕事と遊びを織り交ぜている。
・面白い事はめったに言わない。
24)熱意、情熱、意気込み
・やることは全てにのめりこむ。
・塞ぎこむ事が多い。

16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほか
に覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは、
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行によるほかは、
ない明証であるから、その覚りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での修行
であるから、すでに仏法修行に入ったものには初心というものはないのである。

ーーーーー
『弁道話』18の問答から考える曹洞宗の坐禅の特徴について
2013-06-12 21:41:21 | 坐禅
とある筋から、「曹洞宗の坐禅の特徴」について教えて欲しいという依頼を受けた。ま
ぁ、色々と参考書などもあるけれども、やはり我々としては、実質的に曹洞宗の立教開
宗の宣言書となった、道元禅師『弁道話』から見て行くのが良いだろう、というので、
それを参考にして検討していきたい。

なお、『弁道話』とは、それまでも『普勧坐禅儀』などを著しておられた道元禅師にと
って、最初の体系的な著作であり、寛喜3年(1231)8月に書かれたとされる。面山瑞方
禅師『正法眼蔵聞解』では、深草の「安養院」に閑居しておられたときだと推定されて
いるけれども、道元禅師の自署からはそれは確認できない。

内容的には、冒頭から自受用三昧との関連で、坐禅が正伝の仏法であることを示す内容
ではあるし、後には『正法眼蔵自受用三昧』として読誦される「坐禅の功徳」を説く箇
所もあるけれども、本論では、中~後半にかけて示されている、「18の問答」から、
道元禅師が示された「正伝の仏法」としての坐禅の特徴を考えてみたい。なお、各問答
は問いの概要を現代語訳し、更に、その回答は拙僧からの解説も加えて申し上げる。一
例として、原文を挙げておく。

 おろかならん人、うたがふていはむ、仏法におほくの門あり、なにをもてかひへに坐
禅をすすむるや。
 しめしていはく、これ仏法の正門なるをもてなり。
    第1問答

このようにあって、道元禅師の文体に慣れている人なら、むしろ他の『正法眼蔵』諸巻
よりも分かりやすいはずだが、ここでは敢えて拙僧訳として以下に申し上げたい。

問1:仏法には多くの修行法があるのに、坐禅だけ取り上げるのは何故か?
答1:坐禅が仏法に入る正しき門だからである。

問2:坐禅だけが正伝の仏法に入る正しき門となるのは何故か?
答2:大師釈尊は、得道するための優れた方法を正伝され、また三世の如来もともに坐
禅によって仏道を得られた。だからこそ、正しき門であることを伝えるのである。それ
のみではなく、インド・中国の祖師たちも、坐禅によって仏道を得られた。だからこそ
、その正しき門を、人間界・天上界に示すのである。

問3:我々凡夫は祖師が行ってきた修行など知りようもない。であれば、経を読み念仏
する方がまだ効き目がありそうだ。坐禅をしても虚しいだけではないか?
答3:そなたは、諸仏の三昧、この上ない大いなる仏法である坐禅を、虚しく坐るだけ
だと思っているが、これは大乗の教えを誹謗する人である。既に、坐禅する人は諸仏の
自受用三昧の中に坐っているのだから、それを虚しいというのは、海の中にいながら、
水がないというようなものである。諸仏の境界とは、我々の思慮には捉えられず、ただ
、正しく信じる者のみが、能くそれに入るのである。また、これまでの仏祖が坐禅によ
って仏道を得られた事実を思えば、読経や念仏を暇無く称えることこそ功徳が無いと考
えるべきである。

問4:法華宗や華厳宗、そして真言宗などはそれぞれに素晴らしいが、即心是仏の禅宗
がそれより優れているとするのは何故か?
答4:仏教では、教えの優劣を論じたり、法の浅深を考えるのではなく、修行の真偽を
知るべきである。即心即仏や即坐成仏というのは、言葉は巧みだが、真実ではない。今
は、直ちに菩提をさとる修行を勧めて、仏祖がひとえに伝えてきた素晴らしき方法を示
し、真実の仏道人になってもらおうと思っている。そのためにも、仏法を伝授するなら
ば、必ずさとりに契った人を師匠とすべきである。我々には元から、悟りが欠けている
わけではないが、自分で納得して用いることがないから、誤るのである。

問5:三学(戒・定・慧)の定学、六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)でし
かない坐禅が如来の正法を集めるのは何故か?
答6これは、如来のこの上ない正法眼蔵を、禅宗と名づけるから、こういう問いをして
しまうのだ。禅宗とは中国から起きた名前であり、インドには存在しない。達磨大師が
中国に来て、少林寺で面壁九年した様子を、坐禅を拠り所とする宗派だと勘違いして、
坐禅宗と名づけ、坐が取れて禅宗となった。だが、この達磨の坐禅は、「六波羅蜜」や
「三学」の禅定として考えてはならない。釈迦如来が摩訶迦葉尊者に付属した正法眼蔵
涅槃妙心なのであり、「仏法の全道」であるから、他と比べてはならないのである。

問6:仏家には四威儀(行住坐臥)があるが、その内の1つでしかない坐禅を勧めるの
は何故か?
答6:昔からの諸仏が、相伝えた、修行し仏道をさとる道が坐禅であるから、究めるこ
とは難しい。ただ、これまでの仏教者が用いた理由のみを知るべきであろう。これまで
の祖師が褒めていうには、「坐禅はつまりは、安楽の法門である」という。「四威儀」
の中でもっとも安楽なのである。

問7:坐禅とは悟りを得るための修行であるはずだが、すでに仏の正法を得たものは何
を待って坐禅するのか?
答7:この問いは、修証が一つではないと考えた、仏道以外の見解である。仏法では修
証は一等である。よって、初心者の修行であっても、本より具わるさとりの全体が現れ
るのである。よって、修行の用心を授ける時には、修行の外にさとりを待ってはならな
いと教えるのである。仏道修行を始めたばかりか、長じているか、凡人か聖人かを問わ
ず、坐禅を努めるべきだと勧める。
※ここで道元禅師は、「証上の修」「本証妙修」を説かれる。前者は、「一切の修行は
さとりの上にあること」を意味し、後者は盛んなる修行によって、「本から具わりたる
さとりを証し、それによってさとりと一体となった優れた修行を行うこと」を意味する

※また、中国の状況を示し、大寺院では坐禅堂を構え、数百人から1000人を超える
ような僧侶がともに日夜坐禅を行っていたと伝える。

問8:これまでにも多くの祖師が中国に行って教えを伝えたが、正法は伝えなかった。
それらの祖師が正法をさしおいて教えを伝えたのは何故か?
答8:昔の祖師(天台宗や真言宗、或いは、奈良仏教の祖師)、正法としての坐禅を伝
えなかったのは、時節が至らなかったためである。

問9:これまでの祖師は、正法を会得していたのだろうか?
答9:会得していたのであれば、通じていたはずである。

問10:坐禅に直接関係が無いので、割愛。

問11:坐禅をする者は戒律も守るべきか?
答11:持戒し、良い修行を行うことは、禅門にとっての規範であり、仏祖が家風とし
てきたことである。

問12:坐禅をする者は真言や止観をも兼ね修めることに妨げはあるか?
答12:中国にいた時、優れた師匠に真実の教えを聞いたのだが、インド・中国では、
古今、仏のさとりを正しく伝えた祖師は誰しも、そのような他の修行を兼ねて修めたと
はしていなかった。
※ここは、いわゆる「只管打坐」の教えも合わせて見ていくべきである。『弁道話』で
は前半に、以下のように説かれている。「只管打坐」とはないが、『正法眼蔵』の他の
巻では後半の「ただし打坐して」が、「只管(祗管)に打坐して」となる。

宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじ
めより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落す
ることをえよ。
    『弁道話』

問13:坐禅とは、在俗の男女も行うべきだろうか?出家者だけが行うべきだろうか?
答13:祖師がいうには、仏法を会得するのに、男性・女性、その身分の違いなどを考
える必要は無いと聞いている。

問14:出家者が集中的に坐禅するのは可能だが、在俗でわずらわしい世事に関わる者
がひとすじに修行することなど可能だろうか?
答14:仏祖は慈悲の心をもって、坐禅という広大なる門を開いてくださった。これは
、一切の衆生を入れるためである。そして、中国の代宗や順宗という(唐の時代の)皇
帝は、非常に忙しい様子であったが、坐禅修行して、仏祖の教えを会得された。その臣
下の者も同じである。これはただ、「志があるか、ないか」による。その身が在家か出
家かには関わらない。なお、世間的な仕事は仏法を妨げると思っている者は、世間の中
に仏法がないとのみ知って、仏法中に世間的な法が無いと知らないのである。

問15:坐禅修行によってであれば、この末法の世であっても正法を得ることが出来る
のだろうか?
答15:大乗の真実の教えでは、正・像・末法と三時を分けることはなく、修行すれば
皆、仏道を得るという。ましてや、この仏祖がひとえに伝えてきた正法では、その法に
おいて自由自在に振る舞うことは、自らが持っている家宝(である仏性)を用いるだけ
である。

問16:即心是仏の教えを理解すれば、我々がまさに悟りの存在であることが分かるの
だから、坐禅など不要ではないか?
答16:この言葉がもっとも儚い問いかけである。仏法とは自他の見解を止めて学ぶべ
きである。自己がつまりは仏であると知ったからといって、仏道を得たと理解するだけ
ならば、釈迦牟尼仏は昔、人びとを導くような煩わしいことはしなかったのだ。
※ここで、道元禅師は法眼文益と報恩玄則との問答を挿入する。
 明らかに知るべきであるが、自己がつまりは仏であると理解しただけで、仏法を知る
とはいわないのである。ただ、初めて善知識(=指導者)を見たのなら、修行の方法を
詳しく聞いて、ひたすらに坐禅修行して、余計な想いを心に留めてはならない。

問17:中国やインドでは、さまざまな因縁によって悟りを開いた者がいるが、それは
坐禅修行と関係ないのではないか?
答17:古来より景色を見て仏心を明らかにし、音を聞いて仏道を悟った者は、ともに
修行にまごつくことはなく、まさにその身をもって会得した。

問18:インドや中国の人は、非常に性格が優れているが、我が日本人は性格の劣った
者が多い。そのような者が坐禅して悟りを開くことなど出来るのだろうか?
答18:確かにその通りで、日本の人びとは未だに、仁や智に通じておらず、教えを伝
えようとしても、曲げて受け取ってしまい、甘露がかえって毒となることもある。名利
心が強く、惑いを解くことは難しい。しかし、仏法に入ることとは、人間界の世俗的な
知恵を元に行うことではない。ただ正信にたすけられるものなのだ。また、仏陀の教え
は世界各地に広まったが、その先の人びと全てが、優れていたわけではない。如来の正
しき教えは、我々には理解し難い大いなる功徳の力を持っているのである。正しき信心
をもって修行すれば、才覚・能力の有無に関わらず、等しく仏道を得るのである。人は
、仏の智慧の種が豊かに具わっている。ただ、自らのものとして用いていないだけなの
だ。

以上である。ここから、曹洞宗の坐禅のアウトラインを知ることが出来ると思われる。
修証観や、只管打坐の教えなどが既に十分に見えていることも理解できるだろう。また
、修証観は、「修証一等」そしてそれを押し進めた「本証妙修」へと至るわけだが、「
修証一等」であるために、坐禅がさとりへの「限定的手段化」をすることを否定してい
る。六度・三学の一として捉えることの否定は、その好例である。

また、『弁道話』の段階では、性別や立場など関わりなく、誰でも坐禅すれば得道する
という考えであった。ただ、これは晩年に近づくと、ずいぶんと変容して、出家のみに
それが認められるようになる。そういう状況なども含め、道元禅師が若い頃、坐禅をど
う考えておられたかが、良く分かる内容であった。

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