2016年5月31日火曜日

都機、画餅の巻

都機
色々な月がある。だが、結局は月は1つである。1つで、しかも様々な月の
すべてなら、何所までも広がっている虚空のようなものだ。故に、真理そのものも
形はないけれど、田んぼの水たまりも、家々の窓にも姿を見せる。
いわば、つかめないが、何処にでもある。それは水中に映った月のようだ。

01
諸所の月が次第に十全の円となって現れる姿は、過去の時を超越し、未来の時をも
超越している。満月が欠けていく諸所の月の姿も、過去の時を超越し、未来の
時をも超越している。こうしたことから、釈迦牟尼仏は言う。

釈迦牟尼仏言、「仏真法身、猶若虚空ゆうにゃくこくう。応物現形おうぶつげんぎょう
、
如水中月」
「仏の真なる法身は、猶虚空のごとし、物に応じて形を現すこと、水中の月のごとし」
と。
これをもう一歩進めると、「水中の月のごとし」ではなく、「水中の月そのもの」
と言える。
月の実相を深めれば、今の一瞬がそのまま永遠につながっているのだから、「いま、
そのまんま」に生きること。

03
月があるからと言って必ず夜ではない、夜は必ずしも暗くはない。人間の小さな了見
にかかわりつづけてはならない。日や月がなくとも昼夜はあるではないか、日月は昼夜
を昼夜とするためにあるのではない、日も月もそのまま自然の存在であるから、一つ
二つの月の姿は月の数を意味しない、千の月万の月の姿も月の数ではない。
月からすれば、諸処の姿の月は諸処の月であり、一つの月二つの月、千の月万の月
というかもしれないが、これは月の方からする言い分であって、真理を求める
修行者の見解とするところではない。そうであるから、昨夜にたとえ月があった
としても、今夜の月は昨夜の月ではなく、今夜の月は初めから終わりまで今夜の月
と考えきわめるべきである。月が満ちかけを追って月であり続けることによって、
月が月であるとはいえ、東天に新しい月が現れるからといって、月に新しい古いはない
。

04
盤山の宝積禅師は言っている。
心月弧円、
光呑万象。
光非照境、
境亦非存。
光境倶亡、復是何物。
 心月弧円にして、
 光は万象を呑む。
 光は境を照らすに非ず、
 境また存するに非ず、
 光と境とともに亡ず、また是も何物ぞ、
と。 

05
ここに言うところは、諸処の覚者やその覚りを正伝する弟子の心には、必ず、
心性としての月があり、月のような心が伝えられているからである。
水中の月と同じように心に月を宿しているのである。弧円というのは、一人
寂然として円であり、欠けることのない真円である。数をもって表せない
現象を万象という。万象はすべて月の光に没して万象であることを失う。
だから、「光は万象を呑む」という。万象が自ら月の光を呑みつくしている
様相と見え、すべて月光に没して光が光を呑み込むさまを、「光は万象を呑む」
という。たとえば、月が月を呑むでもよい。光が月を呑むでもよい。
皓皓と冴えわたる月光の中にすべての存在が全であり、個であることを失う
光景を脳裏に浮かべよ、こうした、光と万象との境がすべて失われた情景に
よって、「光は境を照らし出さず、境は存するに非ず」といったのだ。
このような個別の現象を秀脱した普遍の覚りを得ることによって、「まさに
仏身を以って衆生を救済すべき姿相」を得たとき、必然に「即ち仏身を
現し説法を成す」のである。「まさに普遍を体現せる身を現し以て衆生を救済
すべきもの」たるとき、「即ち普遍の理法を現じ有形の身を現して説法を成す」
のである。

⇒
釈迦の言葉、「雲し月運、舟行岸移 うんしげつうん しゅうこうがんい」を
軽く考えたはいけないという。「愚か者が思うのは、雲が走って見えることによって、
動いていない月が動くように見える」と理解する。このように皮相的な現象に
とらわれず、
「月のような心はそのまま光によって明らかにされたすべての存在であり、逆に
万物は光によって示された月の心そのものである。世界は一つの月であり心であり、
すべては月そのものである。その一瞬、一瞬が、永遠につながっているのだから、
「いま」「そのまんま」に、ずばり居直ること。月も雲も船も岸も、理想も
現実もない。すべてがそのまま、ありのままで仏なのだ。それが月の実相である」
と考えることが必要である。

古来より仏教においては、「心月」「真如の月」という表現にあるように
心や覚りを、空に曇りなく輝いて見える月にその本質を託している。
ありのままの自分を見つめる。

⇒光呑万象
万象、あらゆる姿はこれ月の光によって生じるものであるから、それ自体として
存在している現象ではない。だから光は万象を呑みこんでいるという。さらに、
すべての現象がそこにあるということは、月の光に照らされている。つまり、
月の光によってそこに存在している。結局。光が光を呑み込んでいるという
ことになる。
それゆえ、月が月を呑み込んでいる。闇をも呑み込んでいる。光が月を
呑み込んでいるといってもよい。
そこでは、もはや月と光と万象の差別はない。
「一心一切法、一切法一心」真理を観るのは、仏の姿がなくとも、心月はあるのだ。

ーーーーーーーーーー
画餅わひん
04
香巌智閑がいう「画餅は飢えを充たさず」の意は、「画餅は飢えを充たすこと
に能わず」であって、「絵に描いた餅はもともと飢えをみたすものではない」である。
それは、たとえば、「諸悪は作られるものではない。本来は悪というものはない、悪に
根拠はない、衆生には悉く仏性が具わっているのだ、悪を成せば心に重い負担が
かかる、善への配慮はもともと衆生の本性である、もともと衆生は禅を行うもの
である」というようなものだ、人の心に現れるのはすべてが画餅なのだ、
「吾我とは常に本来性のままであるほかはない」というようなものだ、
とりあえずはこのように学んでおくことである。

07
「飢えを充たさず」とは、この飢えは昼時夕時の空腹などの現実のものでは
ないので、飢えと画餅とは相待することがない、画餅を食しても飢えを充たす
役には立たない。
飢えによって待ち望まれる画餅はない、画餅に期待される餅はない、画餅は画餅
であるほかはないのであるから、日常生活にはかかわらない、生活態度にも
かかわらない。
飢えの方では画餅を食べても飢えはとまらない。画餅は一本の杖のような
もので、横に担ぎ縦に担ぎ、どのような食物の絵にも千変万化する。餅の方も
一つの物体の現成であり、青黄赤白、長いもの短いもの角餅円餅と様々である。
いま山水を画くには、青緑赤を使い、奇岩怪石を使い、七宝四宝を使う。

「修竹芭蕉画図に入る」、この言葉は、長短を超越したものが、ともに画図に入ると
学ぶものである。修竹は長い竹である。芭蕉は丈の低いものである。長短も
天地、日月、寒暖、男女など陰陽が相対する巡りであるけれども、こうした
陰陽の運航には、竹が成長するような年月が伴う。その年月の陰陽は、
測ることができない。大いなる覚者は陰陽相のなかの現実を窺い見ることが
できるけれど、陰陽自体を見ることはできない。陰陽は現象を認識する
方法である。物事を測る念慮である、また言語表現であるからだ。
それは外道や二乗の心目に映る陰陽ではない。ここに言われているのは成長した
竹の陰陽である、成長した竹に秘められている月日、歴数である、成長した
竹の世界である。成長した竹の仲間として世界諸処の覚者がある。覚者には
普遍の理法の月日が秘められている。知るべきである、天地は修竹の根茎枝葉に
秘められている月日である。こうしたことからこの成長した竹は、天地が
伸びて育ってゆく心の像を示している。成長した竹が大地に張る根や茎は
須弥山やそれを廻る大海を、尽十方世界を堅牢なものにしている。それは
柱杖や禅院での修行を指導する竹ひを喩として修行者の成長を示している。
芭蕉は根茎枝葉が地、水、火、風、空として示され、その花果光色は心、
意、識、智、彗の活力として示されていることから、秋風のままに秋風
を解脱する。解脱の相をすべて余さず、表現し尽くしている、その姿は
まさにただ浄潔というばかりである。芭蕉に示される精神にこだわりはない、
顔料に含まれているような膠もその姿からは失われ、何物にも執着する
相がない。そのままに一塵もとどめぬ解脱の相が示されている。さらに経つ
時の速い遅いといった相にも無縁である、須ゆの間、わずかな時にも
かかわることがない。この解脱の力量によって、地水火風の力を現し、
心意識智を透脱させている。こうした姿であることによって、芭蕉の
身辺には春夏秋冬が具わるものとされ四季を一挙に表現するものとして
画材に使われてきた。

0 件のコメント:

コメントを投稿