三十七品菩提分法 ポジティブ実現上での規範をここからも学べるのかもしれない。 01 仏祖の古則としてすべてに優先する規範がある。それは三十七の品類に分岐する 覚りに至るための教えと行と証悟である。それらは仏祖たる修行の諸階梯において 昇り降りまた連れ合うのである。さらに言えば、三十七品菩提分法とは互いに 関連し合う規範である。この互いに関連し合う三十七品類の教行証によって 諸仏祖は諸仏祖たりえるのである。諸処の仏祖はこの三十七品類の教行証 そのものである。 02 四念住または四念処 1つには、身を不浄と観ずる。 2つには、知覚を苦と観ずる。 3つには、心は不変でなく常に変化し生滅すると観ずる。 4つには、諸処の現象には自我がないと観ずる。 四念住または四念処は平等一如の覚りの母体という。 03 観ずるというのは、修行者の毎日の行いである。地を掃き浄め床を掃き 浄めるのである。日を重ね、月を重ねて地を掃き浄め、月々を重ねて地を 掃き浄め床を掃き浄めることによって、尽大地を掃き浄めるのである。 04 身を観るのは身が身を観るのである、身が身を観るのであって他の ものが観るのではない。 このような己の身を観察する修行は何より優れた修行である。 我が身が我が身を観察するとき、心は心を観ることはない。 心は煩悩を脱落することから、煩悩を滅ぼすのである。 このようであって、心の作用が身を不浄と観ずるのである。 10 「あらゆる現象に自我はないと観ずる」とは、長いものは長いのであり、短いものは 短いのである。すべてはありのままであり、観るとはありのままに観るのであって、 自我のはたらきによるものではない。犬の仏性は無である。犬の仏性は有である。 一切の衆生は無仏性である、一切の仏性は無衆生である、このように一切の 諸仏は無衆生である、一切の諸仏は無諸仏である。一切仏性は無仏性である、 一切衆生は無衆生である。このように一切の現象の普遍の真相は有無ではなく 空であって、一切の現象はありのままであるほかはない、そのありのままを 無我というのである。 12 四正断あるいは四正勤 1つには、未だ生じない悪を生ぜしめない。 2つには、すでに生じた悪を滅せしむ。 3つには、未だ生じない善を生ぜしむ。 4つには、すでに生じた善を増長せしむ。 17 四神足 1つには、身心の神足自在なるを欲する。 2つには、心の神足自在。 3つには、精進の神足自在。 4つには、思惟の神足自在。 「身心の神足自在なるを欲する」とは、仏とならんとする身心の欲求である。 「精進の神足自在」は、百尺竿頭にたってまっしぐらに歩み進むのだ。 どのような場所がその場所なのか、それはまっしぐらに歩を進めなければ えられない。 24 五根 1つには、信根。 2つには、精進根。 3つには、念根。 4つには、定根。 5つには、彗根。 信根は、深淵とは自己の主観に立脚するのではない、自己の客観に立脚 するのではない、自己を強いてするのではない、自己が構えて起こす のではない。他から引きずられるものではない、 自ら立てる規範によるものではないのであるから、離れたものが 相密着するのである。 30 五力 1つには、信力。 2つには、精進力。 3つには、念力。 4つには、定力。 5つには、彗力。 定力とは、心を定めて散ずることのないようにする力である。 36 七等覚支 1つには、択法覚支。 2つには、精進覚支。 3つには、喜覚支。 4つには、除覚支。 5つには、捨覚支。 6つには、定覚支。 7つには、念覚支。 「除」とは信頼である。自らへの信頼である。「定」とは、己に具わっている力量を 保つことに他ならない。 44 八正道支または八聖道という。 1つには、正見道支。 2つには、正思惟道支。 3つには、正語道支。 4つには、正業道支。 5つには、正命道支。 6つには、正精進道支。 7つには、正念道支。 8つには、正定道支。 正見道支は、苦、集、滅、道の四諦の理を理解し、実践修行する。 正思惟道支は、四締の理をよく推考するとき、諸仏は皆現成する。諸仏が現成する のは、四締之理をよく思惟することによる。正業道支は、言葉のみでなく、 身を以って修行すること。正業とは日常の僧としての正しい行いのこと。 僧としてする行いとは、堂に坐してする功夫である、仏殿にあってする礼拝である、 洗面である、さらに僧たちが互いにする合掌であり、焼香して入浴する すべてが僧としての正しい行いである。正命道支とは、仏の教えに従って 早朝に粥を食し、午時に飯を食うことだ。禅林にあって精魂を尽くすのだ。 正精進道支とは、戒律、禅定、智慧に等しく精進するのである。 正念道支とは、邪念を捨てて正法を思念し常に向上すべく集中するのである。 留意せねばならぬのは、己の想いにはとかく騙されるということだ。 思念の集中の中に智慧が発すると考えるのは、せっかく集中した思念を縛って しまうこと甚だしい。正定道支とは、身心を静寂ならしめ、すべてを脱落 するのである。その中に現れるものが定である。 ーーーーーー 自証三昧 「遍参知識は遍参自己なり」と。 先達や師匠のあいだをめぐって得られる知識は、自分をめぐりめぐ って得た知識になっているはずなのである。 05 このように経典によって修行し、得道するのである。天界にあろうと 人界にあろうと、どのような時どのような処にあろうと、経典に 従って学び始めるのが仏道の修行である。 このようではあるが、たとえ知識に従い、たとえ経典に従って学ぶのも、 皆すべて自己に従って学ぶのである。このようであるから、遍く 先達に参ずるのは自己に遍く参ずることにほかならない。森羅万象 に参ずるのも自己に参ずる参ずることにほかならない。自己を習う ということはこのようなものとして学ぶのである。このように学ぶ ことによって、自己を脱落して、自己という存在を覚るのである。 06 仏法を説くということは必ずしも自他にかかわるものではない。他のために 説くと同時に己のために説いているのである。何によらず己が説く説く 時には、自己が自己に参じて聞きかつ説いているのである。一つの耳は 聞き片方の耳は説いているのだ。舌が説き舌はそれを聞いているのだ。 更には眼耳鼻舌身意の六根の働きや六識六塵などもすべてみなこのようなものだ。 このような仏法に保たれる身心があって仏法を覚るのであり、仏道修行 もそのようである。 耳の働き自体が聞きかつ説くことに同参するのだ、舌の働き自体が聞きかつ 説くことに同参するのだ。昨日人に無常を説くとき、その言葉は今日己に は常に変わらずと響くのである。このように種々相は相連なっているのである。 ーーーーーーーーーー 竜吟 02 枯れ木を死灰のように語るのは、昔から外道が教えるところである。 しかし、外道が言う枯れ木と、仏祖がいう枯れ木とは、はるかに異なっている。 外道が枯れ木について語ることがあっても、仏祖が説く枯れ木を知らない、 まして彼らは枯れ木が奏でる竜吟ヲ聞くことがあろうか。外道は枯れ木は 朽ちた木のことであり、死んだ木であり灰になるものだと考え、枯れ木は ふたたび春を迎えることはできないと学んでいる。 03 仏がいう枯れ木は枯れ海に等しいものである。海が枯れるのも木が枯れるのも 等しいのだ。朽ちた木はすでに枯れ木ではない。海が枯れたならすでに それは海ではない道理に等しい。枯れ木は枯れ木としてそのままの存在現象である。 木は枯れても春に逢うのである。また、動くことがないのが木の枯れた姿である。 今ある山も海も空も、等しく枯れ木と表現してよいのである。萌え出る芽に そよぐ風の囁きも枯れ木が奏でる竜吟の調べに等しいのだ。 04 どのような巨木も、枯れ木という普通の相に収斂する。枯れるという様相、 性質、形、力は、仏祖を仏祖たらしめる枯れた杭である、朽ちた木ではない。 山谷の木があり、田里の木がある。山谷の木を、松柏と呼んで世間を 離れたものとしている。田里の木を、世間では人界天界に活きるものとしている。 松柏として世間を離れたものとしている。田里の木を、世間では、人界天界 に生きるものとしている。 石頭希遷は、「根によって葉は分布する」と示しているが、この根を仏祖と 呼ぶのである。「本も末も須らく宗に帰すべし」、これが仏教に参ずることである。 このようなものとして、長い枯れ木はそのまま普通の理法の現成である。 短い枯れ木はそのまま普通の理法の現成である。枯れ木でなければ、龍吟 の曲を奏でることはない、木がいまだ枯れ木にならなければ、それは ただの風の調べにとどまっているのだ。枯れ木は幾たび春に逢っても心は 変わらずに風の調べを奏でる、それは枯れ木の奏でる竜吟の曲である。
2016年5月31日火曜日
三十七品菩提分法、自証三昧、竜吟
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