2016年5月5日木曜日

梅花の巻

「いま開演する老梅樹、それ太無端なり、忽開華す、自結果す。あるひは春をなし、あ
るひは冬をなす。あるひは狂風をなし、あるひは暴風をなす。あるひは衲僧の頂門なり
。あるひは古仏の眼睛なり。あるひは草木となれり、あるひは清香となれり」
 「先師古仏、上堂示衆云く 瞿曇眼睛を打失する時 雪裏の梅華只一枝
 而今到る処荊棘となる 却って笑う春秋の綾乱として吹くことを」(原漢文)
 「いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨
風水、および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうぶらすといふことなし」
 この巻は仁治四年つまり寛元元年十一月に書かれました。道元さまは師匠如浄禅師と
同じく梅の木やその華を愛されたことはその著述によっても知られるところであります
。山深い修行道場にあって、しかも辺り一面冬景色の中で、春の到来を予感させる一輪
の梅華は僧堂生活者にとってもこの上ない心の安らぎであったと想像されます。しかし
ながらこの巻においては単に梅華の美しさ、気高さ、香りの良さを愛でるという単純な
意味ではなく、一輪の梅華を通じて悟りの世界を説かれるのであります。ここに引用い
たしました一節は先師古仏天童如浄禅師の示された仲冬の一句を中心に梅華について説
いておられます。
 この説の大意は
 『いまここで老梅樹のことが開演説示されたのでありますが、老梅樹というものはさ
まざまに変化、発展、展開し、はなはだ限界のない無端なものである。それは一元的に
考えるならばたとえば、急に華を咲かせたり、ひとりでに実を結んだりもする。ある場
合には春の情景をあらわし、ある場合には冬の情景を示すこともある。つまりそれらは
老梅樹の中に摂せられるのである。ある場合には狂風に吹かれ、ある場合には激しい雨
にも打たれる。ある場合には僧侶の丸い頭が通り、老梅樹の中に僧侶が摂せられるので
ある。このようにすべてのものが老梅樹の無限の展開になるのである。これは古仏の眼
睛という立場によってものをあるがままに正しく見るならば、無端無限の展開において
、一元としての梅に春夏秋冬が摂せられ、あるいは草木が、あるいは清香が摂せられる
。それらはそれらのあるがままの姿において、またはたらきによってあるべきようにあ
るのである。
 先師天童古仏の示されるには、釈迦牟尼世尊が(眼睛を打失)つまり悟りを開かれ、
ものごとの真実を捉えられたとき、そして先師古仏にとりましても、一元の世界を展開
するには、その季節が幸いにも一面の銀世界であり、その中に雄々しくも、気高くも、
またけなげにも一本の老梅樹が、しかも一輪のみ華を開かせている。これを「雪裏の梅
華只一枝」と詠まれたのであります。無限に広がった銀世界の中に、只一枝の梅華が現
じ、逆に一枝の中に無限の世界が展開する。しかし世間にはこのような世界を見ること
の出来ない人は多くいる。これを正しいものの見方に転じて、春綾乱とした世界の展開
を願いたいものである。そのようになれば「いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる
、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水、および草木昆虫にいたるまでも、法益を
かうぶらずといふことなし」となるのであります。古仏の法輪とは如浄禅師の示衆の一
句のことであり、人間は悟りを得るとき、全世界が得道の時節となるのであり、悟りの
世界に一元化されるのであって、雲雨風水、および草木昆虫にいたるまでも法益に与る
のである』これがこの節の大意であり、雪中に咲く一輪の梅華に託して真如の世界を道
元さまが説かれたのであります。一人成仏悉皆成仏の境涯であります。


01
仲冬の第一句を示す。
瑳ささたり牙牙たり老梅樹、
忽ち開花す一花両花
三四五花無数花。
清誇るべからず、香誇るべからず。
散じては春の容を作なして草木を吹く、
なつ僧個々頂門禿かぶろなり。
まくさちに変怪する狂風暴雨、乃至大地に交みちみてる雪漫々たり。
老梅樹、はなはだ無端なり、寒凍摩もさとして鼻孔酢し。

老梅樹は角立ち屈曲し、
一花二花と花を開く、
さらに三花四花五花と、いや無数の花を開く。
その清らかさを誇ることなく、
その香りを誇ることもない。
繚乱とした老梅樹の姿は、
春の息吹を草木に吹きかけ、
禅僧たちの禿げ頭にも春風をそよがせる。
突として春風はにわかに狂風暴雨と変わり、
大地に滔々と降って雪漫々となる。
老梅樹の活動は、まことに思いがけないものだ、
凍った鼻に清らかな香りが甘酸っぱい。

、、、変転する老梅樹の容姿によって古仏の本質が見事に言い表されている。

04
先師古仏は上堂して衆に示した。
く曇、眼晴を打失するとき、雪裏の梅花ただ一枝なり。
而今到処に荊棘を成す、却って春風の繚乱と吹くを笑う。
(釈迦が目を閉じるとき、
雪の中に梅花が只一枝咲いている。
今到る処、荊いばらを成している。
雪の中の梅花は、
却って繚乱と春風に吹かれて笑って咲いている。

13
三花四花五花六花の中とは、無数の花の中である。
宇宙は無数の花々に覆われ、処々の現象は花の中に包まれているのだ。
このように、花には、内なる本性が深く広く具わり、外に表れる
本性も高大であることを開明している。花の表裏は、それぞれの
花が発するところである。しかし、只一枝と示されていることから、仏教が
どのように広まろうと、異なる枝はなく、異なる種類もないことが示される。
一枝が現成する時処を今というのであって、それは時間空間を
超える釈迦の教えである。釈迦の教えは只一枝であることから、嫡嫡と
伝えられるのである。

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