2016年4月22日金曜日

道元の教えとポジティブの共通性を考える

■禅としての基本である「脚下を照顧せよ」は正法眼蔵でいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。
弁道話(はんとうわ)
01
諸処の仏祖には、皆方便によらぬ法が備わっており、無上の覚りを明らめる
にあたって、作為にわたらぬもっとも優れた妙術がある。人は人それぞりで
ありながらこの妙術が、仏祖から仏祖に授け伝えれて誤ることがないのは、
それがただただ己が受用し、1人一人が己を己の煩悩から開放していく
ことに、準拠しているからである。
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。

13
我々にはもともと無上の覚りが欠けているのではない。それは常に己自身に
具わっているのであるが、まともに体験されず身心によって承認し得ないところから
みだりに知的な認識や観察的な知識を用いることが習慣となっており、このような
己の知覚が作ったものを追いかけることから、真の覚りをうっかりと見逃している
のである。このような主観と客観の入り混じる知見によって、空花は幾通り
にも表れるのである。それをあるいは無明、行識、名色、六処、触、受、愛、取、
有、生、老、死の十二の因縁による輪廻転生だと思い、欲界の四悪趣、須弥四州、
六欲天、色界の四禅天、大梵天、夢想天、阿那含天の七有、無色界の四空処天
など、二十五有の境界だと考えるのだが、これらは覚りではなく、声聞、縁覚、
菩薩、人、天の三乗とか五乗とか、仏は有であるか仏は無であるかなどと諸処の
見解は尽きることがないのである。

16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。

19
仏法における心性は、因があって生じる諸現象の相互に関係した全体として
大いなる総相そのものだという考えは、全現象界を包含して、本性と現象を
分かつことはなく、生滅を別々に説くことはないないのだ。菩薩涅槃に及ぶまで
すべては心性のほかではないのである。一切の諸法、森羅万象はみなただ一心
の他ではないのであって、これを包含せず兼備しない物事は全くないのである。
仏法の無数の法門は、みな平等な一心である。仏法の門にはどれも異なるもの
はないと説くのは、これすなわち仏家の心性を知った態度である。
このようであるにもかかわらず、この仏法において身と心とを分別し、生死と
涅槃とを別々に分けるはずはない。我々はすでに仏弟子である。外道の見解
を語るかの狂人の舌の響きを、耳に触れさせてはならない。



「脚下を照顧せよ」さらには「修証一如」に通じるものとしては、ポジティブ
心理の様々な自己確認評価手法と同様のものがある。
例えば、具体的な項目をタル・ベン・シャハーが学生向けに、多くのワークの
実践方法を述べている。
その14)では、
本来の自分を知る。
本来の自分に戻る時間を持つこと。
信頼する友人に気持ちを語ったり、心に浮かぶあらゆることを
日記に書いたり、自分の部屋で一人で過ごす時間を作る。
以下の文章の後半を最低6つづつ、思いつくままに書く。
例えば、
自分の気持ちにあと少し正直になるためには、
自分が恐れていることにあと少し気付くことが出来れば、
あと少し本来の自分に戻るためには、
文章をジックリ見直し、実行すること。
また、この行動の一つとして、自身の「分からない」を受け入れるもある。
知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。
「ただ歩くこと」を習慣とするのが、重要といわれている。
外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の
息遣い、静けさ、森の生命力など、五感を最大限に使い感じる。
⇒古仏雲門はいう、「山是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是れやまと言っているのではない。山は是れやまと言っている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質
が現れる。山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、
祖師の聖を現している。山水はそのまま仏経である。(31)

山水経では、山水そのものが覚りのための御経であり、御堂と言っている。
ポジティブの中で「自然に身を置くことで自身を見直す」ことを推奨している。


以下の手順の実践で、今、自分が感じていることを感じるままに
受け入れること。
①楽な姿勢で座る。
②深く域を吸い、ゆっくりと吐く。
③自らの感情、感覚に集中する。
④自分を許し、あるがままに自身を解放す。
⑤想像の中で、様々な感情を味わう。

■「精神性と超越性」があるが、これは「身心脱落」に相通ずる。
セリグマンは、世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるという。
これは様々な文化、宗教、風土に関わらず人類に共通したものといわれる。
それには、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
⑥精神性と超越性とは、
審美眼、感謝の念、希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
精神性、目的意識、信念、信仰、寛容さと慈悲深さ、ユーモアと陽気さ
熱意、情熱、意気込み

これは、現成公案にその言葉がある。
04
自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。もろもろの現象の
なかに自我の在りようを認識するのが覚りである。迷いを迷いとして大悟
するのが覚りえた人々であり、また、己の認識に執着するのが衆生である。
覚りの上にさらに覚りをうる人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。
覚りえた人々がまさしく覚りをえた人々である時、その人は自分が覚りえた
人であると認識する事がない、それは身心が覚りに同一化しているからである。
そのようではあるけれども、その人は仏法を知りえた覚者であって、さらに
覚りを求めていく。
06
仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、
自己を忘れることである。答を自己の中に求めないことだ。すべての現象の中に
自己を証あかすのだ。自己とはもろもろの事物のなかにあってはじめてその存在
を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己をも脱落させて
真の自己を無辺際な真理の中に証すことである。こうしたことから、覚りの
姿は自らには覚られないままに現れてゆくものだ。
14
万象もまたそのようである。一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相が
あるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
森羅万象にある真の姿を知るためには、目には見える形のほかに、残りの
形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っている事を知らねば
ならない。己の周囲のみがこのようにあるわけではない、己自身も
微小な存在もこのようであること知らねばならない。



■正法眼蔵から見る坐禅の世界とポジティブ心理にて実践されるマインドフルネス、
異なる文化の中で育った人間修養であり、私は坐禅、マインドフルネスいずれもが
数えるほどの体験であり、無我の世界に達するなど、とても感じえない体験で
しかない。マインドフルネスも専門の先生の指導を受けたわけでもない。
その浅はかなる所為である事は認識してはいるものの、その根底は何故か一つの
流れの中にあるように思える。例えば、ポジティブで言う「フロー体験」は道元
の説く坐禅の所作、「坐禅儀」「坐禅箴」の記述とは全くの別のアプローチ
であるが、そこから自分の姿を見つけるという点では、同じと思う。
また、セリグマンは、世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるといい、
その一つとして「精神性と超越性」があるが、これは「身心脱落」に相通ずる。
「只管打座」は一般の人間にとって出来うるものなのか、大いに疑問を持っているが、
もっとも、道元禅師によれば、ただ坐ればよいのだから誰にでも出来るとの話もある、
「脚下を照顧せよ」は、ポジティブ心理の様々な自己確認、評価を具体的な項目にて
実施することと同じアプローチを違う表現で実施する事ではないか、と思う。
正法眼蔵は自身の人生訓、生き逝く道標と考え、日々の実践行為は、ポジティブ心理の
推奨する所作で深める、そんな事を今は考えている。
此処では、この2つを述べる事で、今後更に体験体感を深めてみたい。なお、
正法眼蔵の現代訳や道元の考え方などについて、和辻哲郎氏など何冊かの本を
参考にしているが、中々に難しい。


■ポジティブ心理の実践、マインドフルネス
人の能力は無限である。しかし、その潜在能力は、黙っているだけでは、
何も形になって出てくる訳ではない。
セリグマンは、世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるという。
これは様々な文化、宗教、風土に関わらず人類に共通したものといわれる。
それには、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
①知恵と知識
好奇心と関心、学習意欲、判断力、批判的思考、偏見のなさ
さらには、独創性、創意工夫、社会的な知性、個人的知性、将来の見通し
②勇気
武勇と勇敢さ、勤勉、粘り強さ、継続的努力、誠実、純粋、正直
③人間性と愛情
思いやりと寛大さ、愛する事と愛される事、協調性、義務感、チームワーク、
忠誠心
④正義
公平さと公正さ、リーダーシップ、
⑤節度
自制心、慎重さ、思慮深さ、注意深さ、謙虚さと慎み深さ、
⑥精神性と超越性
審美眼、感謝の念、希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
精神性、目的意識、信念、信仰、寛容さと慈悲深さ、ユーモアと陽気さ
熱意、情熱、意気込み

私自身、その形化するのに、結構有効な手法がポジティブ心理学の
様々な手法と想っている。
今回のマインドフルネスや、一日再現法、ポジティブポートフォリオなど
キチンと成果を出すには、それなりの経験者が必要かもしれないが、
1人でも、十分に出きるものもある。
それは、複雑で、不安な日々の続く今日の社会では、是非、実践
してもらいたい方法でもある。

1)マインドフルネスとは
インドフルネスという言葉は、行為を指して使われることもあれば、
精神状態を指す場合もある。ここでは、集中力を研ぎすます脳の
トレーニングとして、マインドフルネス瞑想という「行為」として
考える。
これには大抵の場合、いつもより呼吸を意識するという方法をとり、
こうして鍛えた脳は、瞑想後も長い間、マインドフルな「状態」で
いられるようになる。マインドフルネスの状態にある時は、自分の
まわりで起こっていることに、意識を完全に集中できている。
なお、後述するように、マインドフルネスの実践には、瞑想のほかにも
いくつか別の方法があるし、瞑想にもたくさんの種類がある。

2)マインドフルネスの基本
マインドフルネスとは、単純に言えば、その一瞬に全力を傾けること。
一般に言われる、マインドフルネスについては、
「今という瞬間に、余計な判断を加えず、自分の人生がかかっている
かのように真剣に、意識して注意を向けること」
と定義している。

シンプルな定義だと思うかもしれませんが、現代の混沌とした世界では、
何かに100%没頭することなど容易ではない。それは、同僚から同じ話を
聞かされて、もう3度目になるという時でも、ほんのわずかでさえ気を
そらさずに聞き入ることや、皿洗いや「バス停までの道」のような身近な
状況でも五感をフル稼働させることを意味する。

■同じ考え方が道元の正法眼蔵、山水経の中に「以而にこん」がある。
「過ぎ去った時」「この瞬間」は二度と戻ってこない、ということを表した禅語。
絶対の生命の真実は「今」この時をおいて他にない。「今」この瞬間を大切に
生きなければならない、ということを教えています。
過ぎ去った時間ばかりに心を寄せてはいけません。誰しも過去を振り返ることは
ありますが、過去の失敗を悔やんでばかりいたり、過去の苦しみから
抜け出さずにいたり、あるいは、過去の栄光にばかりしがみついていたりする。
人は誰しもそのような心を持っているものです。そう簡単に断ち切れるもの
ではないかもしれませんが、大切なのは「今」というこの瞬間に生きること。
一生懸命に「今」を生きていく。それが未来に繋がっていくのです。
過去の中に生きるのではなく、二度と来ない「今」を生き切ることが大切だ
と教えている言葉です。

「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住じゅうして、究尽
ぐうじんの功徳を成ぜり。空劫己前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。
朕兆未萌みぼうの自己なるがゆえに、現成の透脱ちょうとつなり」

すべての存在は、今をおいて他にはない。そのいま、そこにある山水に、過去、
未来、永劫の仏の真実が結実している。
以下のような解釈もある。

ここにいう山水とは、古仏の解脱の相を表す言葉である。山も水もともに
本来ありのままの場にあって、真実を究めつくしている。空劫以前の、あらゆる
世界存在以前の姿にあることによって、普遍的な現在を活き活きと示している。
ものの兆しも現れぬ前の原存在であることによって、有事現成という存在の
事態を超えている。

自然存在としての青山はもともと有情でもない、非情でもない、眼耳鼻舌心意など
六根の作用とは無縁である。自己もまたもともとの自然存在としては有情でもない。
非情でもない。青山とは大自然そのものを意味するのであるから、青山が歩んでいる
ことに疑いを持つことはできない。諸所の教えにある十法界また四法界などの世界観
に準じて、青山を観照してもしかたがないのである。(04)

ーー道元の自然観は、移らないものである。春は春、夏は夏というように絶対的な
今の切り口がある。だからいずれの季節も基本は同じである。自然を抒情的な
流れ消えゆくものとして見るのではなく、変化の中に永遠の姿を捉える。


およそ山水を観るのに、種類に従って異なることがある。
水を観照するとき、水を瓔珞と観るものがある、天衆がそうである。しかし、
人間が観ている水を天衆が瓔珞と観るわけではない。我々が水を何々と
観る形を、彼らが水と観ることこともあるだろう。彼らにとって瓔珞と
観えるものを我々人間は水と観るのだ。水を不思議な華と観るものがある、
天衆がそうである。そうであっても、彼らが花を水として用いているのではない。
鬼にとっては水は猛火と見え、濃血とも見えるそうだ。竜宮に住む魚に取って
水は宮殿にも見え、立派な楼閣とも見えるだろう。人間が水を、あるいは七宝
摩尼珠と観る、あるいは樹林や土くれと観る、あるいは清浄解脱の法性と観る、
あるいは真実人体と観る、あるいは身体の相心の性と観る、人間がこれらを
水と観るのは、人間にあっても彼ら天衆や鬼や魚にはない観照である、これを
殺すも活かすもそれぞれの因縁である。(14)


「山は超古超今より大聖の所居しょこなり、賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を
身心とせり。」
山そのものが雄弁な経文である。
だいたい山は国土に属しているといっても、山を愛する人、山を知る人に属すのだ。
山が必然としてその主たる人を愛するとき、聖人賢人など徳の高い人は山に入るのだ。
聖人賢人が山に住むとき、山はこれらの人と一如となることから、木々も岩石も
鬱然となり、禽獣の霊も奇譚を現し聖人賢人の徳を蒙り、その伴侶ともなり
侍者ともなる。知るべきである、山は賢者を好む実を具え、聖人を好む実を
備えているのだ。(26)

古仏雲門はいう、「山是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是れやまと言っているのではない。山は是れやまと言っている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質
が現れる。山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、
祖師の聖を現している。山水はそのまま仏経である。(31)

山水経では、山水そのものが覚りのための御経であり、御堂と言っている。
ポジティブの中で「自然に身を置くことで自身を見直す」ことを推奨している。

⇒ポジティブでも「自然の中に身を置くことこそ自分を知ることが出来る」
と言っている。タル・ベン・シャハーが学生向けに、多くのワークの
実践方法を述べている。

その19)がこれに共通する。
自身の無知を受け入れる
知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。
「ただ歩くこと」を習慣とする。
外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の
息遣い、静けさ、森の生命力などを感じる




■以下にマインドフルネス効用を上げてみる。

①常に新しいカテゴリーを創造する:マインドフルネスな状態であれば、
旧来の分類方法やレッテルにとらわれることなく、状況や文脈に注意を払い、
新たな特徴を見出すことができる。
例えば、レンガを単なる建材と見るのではなく、ブックエンドや武器、
ドアストッパーなど、いろいろな利用法を思いつくことができる。

②新たな情報を積極的に受け入れ、物事をさまざまな視点から捉える:
マインドフルネスな状態は、カテゴリーを創造できるだけでなく、常に新たな
情報を受け取り、新たな可能性に対してオープンになることも意味する。
例えば、あなたとパートナーはいつも自分のやり方にこだわって、同じこと
で喧嘩ばかりしているかもしれません。けれども、相手の視点に対して
オープンになることで変化が生まれる可能性がある。

③結果よりも過程を重視する:マインドフルネスな状態は、結果について
あれこれ心配するのでなく、ひとつずつのステップに意識の焦点を当てる
状態。
例えば、テストの出来を心配するより、その教科を本当の意味で学ぶこと。

つまり、マインドフルネスとは、すべての経験に焦点を合わせ、より意識的
になることであり、「だから何?」と思う人もいるが、マインドフルネスを
高めれば、集中力が増し、創造性や幸福感、健康、リラックス感が高まり、
もっと自分をコントロールできるようになる可能性がある。

生活上での例では、減量や健康的な食生活に役立つ。
マインドフルネスの考え方を食事に当てはめれば、五感をフルに使いながら、
一噛み一噛みを意識してゆっくり食べることになり、この食べ方を実施した
被験者たちのカロリー摂取量は、空腹時でさえ、対象グループに比べて低く
抑えられた、との研究成果もある。

意思決定能力を高める。いくつかの実験によって、マインドフルネス瞑想
を実施した人や、もともと性格的にマインドフルネスの状態に近い人は、
「サンクコストの誤り」を免れているという相関関係が確認されている。
サンクコストの誤りとは、それまでに費やした時間やエネルギーを惜しんで、
先の見込みのない交際や仕事にしがみついてしまう傾向を言う。

ストレスを減らし、慢性的な健康問題の改善を助ける。200の実証研究を
対象にしたメタ分析によって、マインドフルネスは、慢性疼痛、ガン、心臓病
などの患者の心身の健康をいずれも改善させることが明らかになった、と言う
成果もある。

残念ながらマインドフルネスは、直ぐにその成果が出るものではない。
けれども、徐々に高めていくことはできる。
マインドフルネスを実践するには、どんなに忙しくても、どんなにストレスの
たまる状況でも、いつも意識を研ぎ澄ましていなくてはいけない。
例えば食事中であれば、フォークを置くたびに、「一噛み一噛み味わって食べる」
という目標を思い出すようにするとか、職場でなら、「1時間ごとの時報」など
のリマインダーを設定して、ちょっと休憩をはさむと良い。

ほかの実践方法を見ても、感謝の心を持つ、物事をコントロールしようとしない、
など、意外に簡単なものがあり、ポジティブ心理では、他にも様々な手法を
考えている。

3)マインドフルネスの実践に向けて
具体的には、以下の6つのステップがある。

①背筋を伸ばして座り、足を組んで、視線を下に向ける。
②自然に浮かんでくる思いと、人為的な考えとを区別する。
③三繰り返し過去を思い出したり、未来への不安で気が散るようなら、
それそれを最小限に抑えるために、こう考え直してみる。
「過去も未来も、現在の私の心の中の想像にすぎない」。
④瞑想中は、ちょうど船の「錨」のように、呼吸が集中をつなぎ止めてくれる。
⑤息を吐くたびにひとつ数を数え、21まで数えたらまた1に戻る。
⑥思いが浮かんでくるのを無理に抑えようとせず、心を自然に任せる。

この一連の手順は、マインドフルネス瞑想として知られており、
マインドフルネスを育む最高の方法のひとつ。
これは一種の脳のエクササイズで、普段の生活を送りながらでも実践できる
(続けやすくするひとつの戦略は、シャワーや犬の散歩など、毎日の日課の
最中にこの訓練を行うこと)。

最後にひとつ注意事項すべきは、マインドフルネスの実践はとても有益だが、
心を自然に任せたほうが良い時もあるということ。ある報告では、創造性や
洞察力のためには、ぼんやりしたり空想にふけったりすることが
必要である可能性を紹介しているし、高度にマインドフルネスな状態は、
「潜在的学習」(無意識のうちに、新しいスキルや習慣を学ぶこと)における
効率の低さと相関している可能性があるとのこと。


ポジティブで言う「フロー体験」は道元
の説く坐禅の所作、「坐禅儀」「坐禅箴」の記述とは全くの別のアプローチ
であるが、そこから自分の姿を見つけるという点では、同じと思う。



■道元の教え、坐禅
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。

道元の思想の根本は、
「修証一如」。
道を探り、悟りを求めて座禅すると言うそのプロセス自体の中に既に、悟りがある
と言う。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは1つである。

「正法眼蔵随聞記」には、
「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。
学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人
よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき
ではない。」と言っている。
また、「宝慶記」には、
「参禅は身心脱落なり、、、祇管に打坐するのみなり」とあるが、道元は
如浄に身心脱落とはなにか、と問うている。これに対して、如浄はそれは坐禅であり、
只管に打坐する時、見る、などの五感の対象への執著などを離れるからであると
答える。対象にかかわり、これに執著することが、自己と世界の真実の姿を
見る眼から覆い隠す。坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの
世界をありのままに見ることが成就するであろう」とある。

正法眼蔵全95巻の「弁道話」には、
「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。仏法には、修証これ
一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり」
「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。
「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと
言っている。
この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の
足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、
坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。

道元の基本的なスタンスは、まずは、既存の考えを否定することではないか、
とも思える。
例えば、
涅槃経の 「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」は、誰にでも、仏に
なる素質を持っている、と解するが、道元は、違う。
「一切の衆生、悉有が仏性である」と説く。
一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木虫類に至るまで、そのまま
仏性と考えている。

道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、
冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。
しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に姿を現していて、
それ以外には、季節の現れ方はないと言う絶対的真理があると言っている。
すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに現れていて、何一つ
変わることはない。そう思えば、心は非常に涼しいという境地を詠んでいる。


正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に
書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、
雨露をもらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下に
あてなさい。風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。

また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。
日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的なことから日常茶飯事のことまで
追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で壁に向かい坐禅する
ことで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。

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