2016年4月22日金曜日

生死の巻

道元は、その92巻で、生死についても言っている。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。

そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」
生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。

死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。

元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を言っている。
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。

生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」をキチンと理解
することの出来る人は少ない。私自身も言葉としての認識しか出来ない。
しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくないはずである。
昨年のような大きな病気になっても、わが身では、まだまだ、不十分。
健康な人が生死を意識しないのを、少し意識するようになったぐらいかもしれない。

正法眼蔵の、「生死の巻」
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。
…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも
いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」

「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に
著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ
下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもう
ことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」

この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻である。
しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。
この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、
これは修証義のはじめの言葉でもある。私たちにとって生死の問題
を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題。
この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実
であり、そして如何に死を迎えるかということが大切である。
それは如何に生きるかということでもある。

正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の
因縁なり」とあり、つまりこれこそが仏教の根本問題である。

「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元の生死観
が言い尽くされている。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、
真理の外に生死はないということである。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」
という意味であります。ここに引用させていただいた言葉の大意
を現代語に訳して置く。(道元の詠み方より)

「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨て
ようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に
執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を
厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界
にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」
仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれて
ゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて
生死を離れることができ、仏となるのであります。

「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、
悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、
上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、
願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、
このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」

これが現代語訳であり、生き死ぬということ、つまり生滅ということは
大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常こそ世の道理である。
このことがわかり、而今を全機に生きるならば「生死なし」である。
これは物質的な生死は人間だれしも避けられないが、それを厭いまた
願うという執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに
受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは
心安らかで、まさに悟りの境地というべき。

「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめ
なりけり」という古歌がある。生も大宇宙の真理、死も
大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということ
が私たちに与えられた永遠のテーマであり、日々仏法僧の
三宝に帰依する生活を送りたいもの。

0 件のコメント:

コメントを投稿