「正法眼蔵を読む」から
随聞記の2巻に記されている「南泉斬猫」と言う公案がある。
南泉は、弟子の僧たちが猫を巡って論争をしているのを見て、
この猫について的確に一句言い取ること(道得)が出来るのなら
猫を斬り殺さないが、出来なければ、斬り殺すと迫り、弟子たちが道得できず
にいると猫を斬り殺してしまった。
これについて、道元は、「此斬猫、即是仏行也」と評価した。
「今の斬猫ハ、是即仏法ノ大用、或ハ一転語ナリ。若もし一転語ニ非あらズハ、
山河大地妙浄明心トモ云ベカラズ、又即心是仏トモ云ベカラズ。即此一転
語ノ言下ニテ、猫体仏身ト見あらわれ、又此語ヲ聞テ、学人モ頓ニ悟人スベシ。
現代語訳
南泉が行った斬猫とは、仏法の大いなるはたらきであり、または、「一転語」
(一語を下して学人を迷いからさとりへと導くこと)である。もし、此れが
「一転語」でないならば、「山河大地が清浄な心である」(清らかな心で
見られた山河大地は心理の現われである)と言うこともできないし、また
「心が仏である」(自己の心は本来、仏としてさとっている)と言うことは
出来ない(斬猫の行為とは真理の現われであり、そのように斬猫は悟りの心
によってなされた絶対的な行為である)。すなわち、この一転語となる行為の
もとで、猫の身は仏身として顕現する。また、その行為に接した弟子たちも
速やかに真実のさとりに入る事が出来るのだ。」
そのとき、仏身としての猫にとっては、斬られることが仏の行いであり、
そして、その猫を南泉が斬ることも、仏の行いである。すべてのものが
仏として現われ、仏の行いをなすのである。衆生を「悟り」へと導く
慈悲行為であり、絶対的に善なる世界を思考する行為であり、南泉の行為は
修行者たちの迷いを一刀両断に切り捨て、「悟り」の世界を示す事になる。
しかし、この猫を斬り殺すという行為が不殺生を犯す行為であることについての
論考している。
P51
無常仏性とは世界のありとあらゆるものが一瞬一瞬に変化すると言う意味
で無常でありつつ、同時に、その一瞬が永遠の悟りと一体の、修行をなす
「永遠の今」として常住という事態である。
P65
修証一等とは何か、
「仏法には、修証これ一等なり、いまも証上の修なる故に、初心の弁道
すなわち本証の全体なり。かるがゆえ、修行の用心をさづくるにも、
修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。
現代訳
仏法では、修行と悟りは等しい。今行っている修行も、本来的な悟りに
基づいたものであるから、初心者の修行も本来的な悟りを余すところなく
現している。それゆえに、修行の心構えを授けるにあたっては、修行に
徹するだけで、悟りを期待してはならないと教えるのだ。
発心して、修行を始めたその時点では、自己が既に悟りを得ているという
その実感はない。そこで、とりあえあずは悟りを、現在の自己とは離れた
ところに、いわば、目的として設定し、それを求めて修行生活が開始される。
そして修行中のある瞬間に「縁起ー無自性ー空」を体得する。そのとき初めて
修行者は時分が悟りを体得する以前からすでに「空」の次元に身を置いていたと
自覚する。
既にあった「空」の次元を自身の身心を持って体現する事である。
P106
道元は、仏因となる仏性さえあれば、いつかは悟れる、とする考えは
「自然外道」として厳しく批判する。
仏性の有無を問う事にのみ腐心するような仏性理解は、個物に内在するもの
のみとして捉えてしまう事への危険性を意識していたからである。
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http://honjoutarou.blog107.fc2.com/blog-entry-108.html
莫作について
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょう
ごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
過去における真実を得られた方々が、言われた言葉に『諸悪莫作衆善奉行』があります
。
諸悪莫作----さまざまの悪というものをなす事なく
衆善奉行----さまざまの善い事を実際に行うべきである。
諸悪莫作衆善奉行を行えば、自然にその心が清くなっていく。
過去において、たくさんの真実を得られた方々がおられるけれども、その方々が共通に
説かれた教えは、この『諸悪ヲ作サズ、衆善ヲ行ナウ』と言うことに衝きます。
釈尊の説かれた教えは、釈尊が初めて説かれたところではあるけれども、その考え方と
は、非常に古い時代からあったと言う事が信仰の基礎になっています。
釈尊の説かれた教えは、単に釈尊が生きられた時代に初めて始まった事ではない。
その考え方・その原理は、ほとんど無限と言っていいくらい古い時代からすでに現存し
ていた。
そしてまた、無限と言っていいくらい今後も続くものだと言う信仰である。
釈尊の前に六人の真実を得られた方々があって、釈尊をあわせて七人の仏がいるという
考え方です。
私は、この巻を読むまでは、「諸悪莫作」は、「もろもろの悪をなすことなかれ」とい
う戒めの言葉だと思っていた。
道元禅師もこの巻のなかで、仏の教えをはじめて聞いたときにこのように聞こえるの
は正しいことだと言っておられる。むしろ、このように聞こえないのは、魔説だと言っ
ておられる。
しかし、この言葉は菩提語であり、その願いをもって仏が修行された力によって「も
ろもろの悪はなさず」が現成し、全世界、全宇宙を支配しているとされる。
「莫」は、「なかれ」とも読むが「なし」とも読む。
この言葉が漢訳される前の仏典ではどのように書かれていたのだろうか。
原始仏典の一つである「ダンマパダ(真理の言葉)」では、パーリ語で、
「すべての悪をなさず、
善いことを実現し、
自分の心を清らかにすること。
これが目覚めた人たちの教えである。」
と書かれているそうである。(中村元さんの日本語訳です。)
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P156
「諸悪莫作」を「諸悪なすことなかれ」ではなく、「諸悪がつくられざる」と
読む事を必然とする。本来の次元へ自己を帰順させることが悟りであると考える。
すなわち、本来の自分に帰還するならば、仏法への背反は存在しない。つまり、
悪はもはや存在しない。それを道元は、「諸悪はすでにつくられずなりゆえ」
と言っている。
P223
道元の因果観
・不昧因果
・深信因果
・善因善果
・悪因悪果
深信因果の巻では、「およさ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは
堕し、修善のものはのぼる。蒙厘もたがわざるなり」(因果の道理は明白であり、
不動のものである。悪を為す者は地獄や畜生道、餓鬼道に堕ち、善を為す者は
人間や天に生まれ変わり、ほんの少しの誤りもない)と言われている。
しかし、12巻本では、「不昧因果(因果の理は明々白々であり自分のなしたこと
の報いは自分が受けると言う事が強調され、過去、現在、未来の三世を
貫く因果応報がが説かれている。
因果同時について、
「諸悪莫作」の巻で「この善の因果、同じく奉行の現成公案なり。因はさき、果は
のちになるにあらざれども、因円満し、果円満す。因等法等、果等法等なり。
因にまたれて果感ずといえども、前後にあらず、前後等の道あるゆえに。」という
言葉はまさにこの因果同時を意味している。
また、「衆善奉行(もろもろの善を修行せよ)」では、善である因も善である果も
等しく「奉行(修行)」によって顕現されたものであり、因も果も等しく、
その意味で、前後関係ではなく、同時であると述べている。修行と悟りとは、お互いが
因となり果となりあっており、それを時間的な表現によって示すならば、
因果同時であり、修証一等ともなる。
存在の代表としてあげられているのが、春の松、秋の菊、諸仏、露中灯篭、払子シュ杖
そして、自己である。松や菊は、「渓声山色」の巻で、「春松の操アリ、秋菊の秀
ある、即是(真理の端的な現れ)なるのみ」といわれる。
露柱灯篭、払子シュ杖は「有事」の巻で、「有事シュ杖払子ほっす、有事露柱灯篭
のようにそれぞれの存在の実相を現す。ここでは、諸仏、自己も松も菊もすべて
同等の資格で並列されている。
P234
百丈野狐の公案
道元が晩年に新たに執筆した12巻にある。
百丈の説法を説く老人が実は遠い昔百丈山で修行していた層であるが、不落因果
の間違いにより、畜生たる野狐に落ちるが、百丈の言葉によって救済される。
「しかあればしりぬ。あしく祇対するによりて野狐身とならずいふべからず。
この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりとはいはず。さだめて破袋に
つつめる真珠あるべきなり。しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるとも
がらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり。迷妄によりて
しばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。
(野狐の身を脱した後でも、どうなるかは言っていない。野狐の身であった
時にも真珠のような円満な仏性をもっている。仏法をしない者は野狐の身を脱し
たら、本性の海に帰すると言っている。迷妄によってしばらく野狐に堕ちたと
言っても、開悟すれば、野狐の身は本性に回帰する)」
脚下照顧ともいう。直訳すれば、「脚下を照顧せよ」ということだが、外ばかり
を見て、自己の正体に暗い学人に対し、その本源を徹見するように促す言葉。
若し借路ならば、須らく脚下を照顧すべし。若し参差ならば、邯鄲に唐歩を学ぶ。
『嘉泰普灯録』巻16
なお、ここで「見る」という行為は、視覚的状況に準えているものの、仏の眼で、
真実の道理を見ることを促すものである。
命脈、みな梅華よりなれるなり。ひとへに嵩山少林の雪漫漫地と参学することなかれ、
如来の眼睛なり、頭上をてらし、脚下をてらす。 『正法眼蔵』「梅華」巻
②単純に、足元を見よ、の意。履き物などを揃えるように促す言葉。玄関に、
この字句(または脚下照顧)を書いた立て札や張り紙がある。
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意訳 現成公案
現成公案 現在が現在になるあたりまえの深さ
(1)
諸法が仏法(自他能所をこえた生命実物)としてあるとき(差別相が分からなくなってい
るというわけではなく)、すなわち迷悟、修行、生死、諸仏、衆生など、
差別された相である。
(2)
しかし(自他能所をこえた生命実物)は、この我のアタマで考えるような実体的存在では
ないので、(その点から言えば)まどい、さとり、諸仏、衆生、生滅など(の差別がある
わけで)はない。
(3)
仏道(実際に自他能所をこえた生命実物に覚めて生きる生命運転において)は差別、
無差別をこえている(具体でなければならない)から、それゆえ、生滅、迷悟、
生仏というような(具体的)すがたである。
(4)
しかもこの場合、花は愛惜する心の手前に散り、草は棄嫌する心の手前に繁茂する
(というふうに、すべて人間的アタマの中の関係において、その在り方が現れる)。
自己を押し出して、自己の思惑とおりに、万法(自他能所分かれる以前の尽界、
生命実物)の在り方として、この自己を生かすのは、さとりである。
(迷悟は実体的にあるものではなく、人間的アタマの中で関係的にあるので
しかないから、却ってアタマ手放し、生命実物そのものに覚めて)迷いを
(迷悟をこえた生命実物として)大悟するのが諸仏であり、反対に悟りを
(自己の思惑内に手篭めにしようとして)大迷してしまうのが衆生というものである。
さらに悟りのうえに悟る漢(ひと)もあり、迷いの中にまた迷い込む漢もある
(生命は深さである)
(5)
(このように迷悟を別存在として、迷いの側から悟りを仰ぎみるのではなく、却って
ただ迷悟こえた生命実物を悟るのが諸仏なのだから)諸仏がまさしく諸仏であるとき
には(自己を外部的に観察して)自己を諸仏だとあえて覚知する必要はない。
しかし実物している諸仏であり(あらゆる行為において)仏の実物をしていく。
例えば身心をもって色を見、声を聞くもに、したしくとらえられているあるとき
(それは渾然たる一つの純粋生命現成であって、映すと映されるの二つがある
わけだけではなく)かがみにかげが映るごとくではなし。
水に月が映るごとくではない。一方が実物しているのを、一方がこれを見ている
ようなものではない(二つに分かれる以前の実物のみである。
-そのように諸仏が諸仏たる時、自ら諸仏の実物をしていくだけである。)
(6)
このような仏道(アタマ手放し、自他能所をこえた生命実物の、覚めた人生運転)
をならうことは、(尽界ぐるみの)自己をならうことである(尽界ぐるみの自己
のみが生命実物だからである)。このような(尽界ぐるみの)自己をならうととは、
自己をわすれることである。自己をわすれるとは、万法の在り方として
在らしめられるとは、この(個体的)自己、および他己(という自他、能所の思い)
を手放しにしてしまうことである。
さとりのあとかたもやめてしまうことである。(自分はさとっているぞというような)
あとかたもないさとりを生活していくことである。
(7)
(以上のように、仏法はどこまでも不二の生命実物をすることなので)人が法(仏法、
万法)を(向こう側に置いてこれを)求めるときには、(もはや人が法の外側に立って
しまっていて)はるか法の辺際(かぎり、はて)より離れ去っている。
法がすでに人に正しくつたわったときには、即座にそのまま本来人である。
例えば、人が舟にのっていく場合、目を向こう側にやって岸を見れば、岸が移って
いくのだと思いあやまってしまう。自らのっている舟に目をつけてよく見れば、
舟の進んでいるのを知るように、それと同じく思い乱れて、身心の向こう側に
万法を見れば、この自分というものを(モノサシにしてしまって、この自分が)
ゆるぎなく常住のものかと思ってしまう。
しかし、もし落ち着いて自分に立ち帰ってよく見れば、万法がこのわれのアタマ
で考えるような在り方のものでないことが明かとなるであろう(その点、万法は
われの追求目標としてあるようなものではないのである)。
(8)
(前の段で「もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法の
われにあらぬ道理あきらけし」と言ったが、ではわれのアタマで分別している
のではない。万法そのものの実物の様子とはどういうものかと言うとそれは
例えばー)たきぎは灰となる。これはもはや決してたきぎとなりはしない。
この場合、灰はのち、薪はさきとおもってはならない(このように薪はさき、
灰はのちとして推移を考えるのは、人間の思いの中の話なのであって、
本当は薪が灰となるという事実は、思い以上の実物としてあるのであり、
決して人間の思いの中で起こっているのではない。思い以上の実物としては)
薪は薪の在り方といsて、さきあり、のちあり、しかもこの前後は裁断している
のである。同様に灰は灰の在り方として、のちもあり、さきもあるのである。
かの薪が灰となってからのち、もはや薪とはならないように、人の死んだのち、
もはや生となることはない。このことを(人間のアタマで考えれば、生が死んだ、
と思うのだが)アタマ手放しの、生命実物(仏法)としては、生が死んだ、
と言わないのがならいである(死は生のつづきではなく、生は生、死は死として
前後裁断している)。このゆえに(仏法では、この思い以上の実物を)不生
(死の対概念であるような生ではない)という。また、死が生になると
言わないのも仏法としての言いかたである。このゆえに(仏法ではこの思い以上の
実物を)不滅(生の対概念であるような滅ではない)と言う。生も思い以上の実物
の一時のくらいであり、死も思い以上の実物の一時のくらいである。
例えば冬と春のようなもので、冬そのものが春になるとは思わないし、
春そのものが夏になると言わないようなものである。
(9)
(以上推移生滅について、仏法といての絶対的在り方を言ったのだが、だから
仏法として)人が悟りをうるという(分別的相対的な人間に、超分別的絶対の悟り
が現成する)ことは、ちょうど、水に月がやどるようなものである。月はぬれないし、
水も破れることはない。ひろく大きな光ではあるけれど、わずかな水にも映る
のであって、月全体も、空全体も、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。
悟り(という絶対)が(相対者である)人を破らないことは、月が水にやどって
穴をあけないのと同様であり(相対者たる)人が(絶対なる)悟りをさまたげない
ことは、露のしずくが天月のうつることをさまたげないのと同様である。
(いや、うつる、やどるという関係ばかりではない)水の深さ、天月の高さ
というものがあるように、悟りをうつす人間の深さは、それにやどる悟り
の高さでもあるだろう。そのときそのときの(行の)長短の在り方の中に、
すでにこの水の大小(人の深さ)および天月の広狭(悟りの高さ)が検点されてある
のであり、弁取されてあるのである。
(10)
この個体的身心に仏法という無量無辺が身につかないあいだは、仏法が分かった、
足った、と思う。無量無辺の仏法がこの身心に充足してきたら、一方は物足りない
思いがするものである。
(外からの観察者といsてではなく、自身がその中にどっぷりそれであると
いうことは)例えば、船に乗って山の見えない海の真只中に出て、四方を見る
ようなもので、その時、あたり一面ただ丸く見えるだけで、ことさらこと
なっているようには思わない。しかしながら、この大海は丸いものでもないし、
四角いものでもない。見えている以外の海徳はかぎりないものである。
同じ水を魚は宮殿と思うだろうとし、天人は瓔珞と思うだろうが、
それと同じく海の真只中に出て、われわれは、わがまなこの及ぶ範囲で、
今一応、大海は丸いと思っているだけである。
(海がわれわれの眼の及ぶ以上の所で、無辺であるように)万法もまた
そうである。世間も出世間もさまざまな風景をもっているわけだが、
今しばらく自分の参学眼力の及ぶ範囲内だけを理解し、会得するのである。
万法そのものの様子は、といえば(先の海の場合のように)、今一応見える
表面的な四角い、丸いということより以上に、見残された海や山の在り方は
無量無辺でいろいろな世界があるのだということを知るべきである。
このことは、自分の周囲環境だけがそうなのではなく、自分自身についても、
また一滴の水においても、そうなのだということを知らなくてはならない。
(11)
魚が水を泳いでいくのに、いくら行っても、(その働きの場である)水のはては
なく、鳥が空を飛んでいくにに、いくら飛んでも(その働きの場である)
空の限界はない。しかしながら、鳥も魚も昔から水、空を離れはしないのである。ただ
その働きの大きさが使用の大きさであり、働きが小さければ使う範囲も小さいだけであ
る。このようにして、そのときそのとき無辺際の生命を生きており、そこのところそこ
のところ自在の生命を働いているわけだが、もし鳥が空から飛び出せばたちまち死んで
しまうし、魚がもし水から跳び出せばたちまち死んでしまう。水という働きの場を
もって命としてのだと知ることができる。そらという働きの場をもって命として
いるのだと知ることができる。鳥(という個)が命としてあるのであり、
魚(という個)が命としてあるのである。命が鳥となっているのであり、命が魚と
なっているのであろう。(しかしいつもキマッタことがおこるというものではなく、
いつも)これ以上歩みを進めるであろう。それは実際の行動である。
その具体的な寿命を生きるとは、こういうことなのである。
(12)
そうであるのに、もし(予めアタマにおいて)水の全体をきわめ、空の全体をきわめて
のち、初めて水、空をいこうとする鳥、魚があったとしたら、それは水にも空にも
(実物として生きていく)みちもなければ、ところもないであろう。(大切なのは、
実物として生きていくところを得ることであって)このことを得れば、その行動の
一々に「現在が現在に成る」という生命の真実が実現するのである。
この(実物として生きていく)みち、ところは、大でもなければ、小でもない。
自でもなければ他でもなし。先よりあるのでもなく、今現ずるのでもないのであって、
ただかくのごとくであるのである(それはあらゆる比較、自他能所、時間などを
分別する、それ以前として、ただかくのごとくであるのである)。それと同じく、
人が仏道(アタマ手放しの尽界に目覚めて歩み道)を実際に行ずるのも、徳一法修一行
(今の歩みを一々覚め覚めて生きる態度)のみである。
これ(ーーこの徳一法通一法、遇一修一行という態度の中)に(実物を生きる)ところ
がある。そのみちは(生きる態度なるがゆえに)あらゆることに通じており、
(それゆえに一体どれほど覚めているか)その限界はハッキリしない(合格不合格、
卒業落第の話ではない)。それは(この覚めるという態度が)仏法(アタマ手放しの
実物)をきわめ尽くすことと、全く同じであるからである(覚める、覚められる
とい能所関係は成り立たないのである)。
自己に取得したところが、必ず自己の知覚分別となって、慮知にしられるものだ
と思ってはならない。実物すれば(行ずれば)そのまま実物現成ではあるけれど、
その有無を越えた在り方は、必ずしも見成は可必(何ともつかみようもない)
からである。
(13)
麻谷山(まよくざん)宝徹禅師が扇をつかっていたとき、ある僧がきて言った。
「風性は常住であり、処としていたらざるなきものである。何故ことさらに
和尚は扇をつかうのですか」。師は言った。「お前は風性の常住を知っている
けれど、まだ処としていたらざるなし、という道理を知らない」と。
僧いわく「いかなるかこれ処としていたらざるなしの道理」。そのとき師は、
ただ扇をつかうのみであった。僧は礼拝した。
仏法の実物のしるし、正伝のいきいきした働きは、このようなものである。
常住だから扇をつかう必要はない、つかわぬときも風はあるはずだというのは、
常住もしらず、風性をもしらぬのである。風性は常住であればこそ、仏家の
(生命を生命として行ずる)風は、大地(あらゆるもの)において黄金(絶対)を
現成するのだし、長河(あらゆるもの)を蘇酪(いきつく所へいきついたいき方)
にまで熟させるのである。
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