2016年4月22日金曜日

正法眼蔵1のその一 現成公案、仏性、身心学道、即心是仏、行仏威儀、一顆明珠、心不可得、古仏心、弁道話(はんとうわ)

正法眼蔵随聞記の一文、
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人曰く、百尺竿頭かんとう
如何進歩と」
この出典は、「百尺竿頭かんとうすべからくこれ歩を進むべし、十方世界これ全身」
から来ている。とにかく高い竿さおの先端に立っていて、そこからさらに宙空に一歩
踏む出せと言っている。ただ、その竿は断崖絶壁に突き出しており、人生とは
そのようにバランスを取りながら竿の上を行くものだ、やっとここまで来たと言う
想いがあるものの、もう先は行き詰まりだという状況となったとき、
「すべからくこれ歩を進むべし」一歩を踏み切れと言っているのだ。そこで、
踏み出したらどうなるか、落ちて行く自分も感じない、身も心も脱け落ちたような
自分が無になってしまう。そうなった時、十方世界、つまり全宇宙が逆に自分の身
と一致する。あるいは、自分が全宇宙にまで広がっていく、と言っている。

正法眼蔵の理解は、帰納的な進め方ではなく、演繹的な進め方によれば、
すすむかもしれない。始めの言葉よりも後半のフレーズを始めへと展開していく?


現成公案
・現実は、あるがままで、なに不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること
・現成とは、ものの姿形を現したことだ。、、、したがって公案とは万古不易の真理、
それが公案だ。だから現成これが公案、公案が現成となって現れる。

これらからは、
現実の事象や存在するものは、それを真実だとする肯定する根拠に裏付けられている。
つまりこの世の一切の存在はそのまま真理の表れだ。

「現にそうなっている事象、事物」が我々の取り組むべき問題なのである。
時代背景の認識が必要である。
この時代は、「現実がそのまま真実だ」と言えるような現状肯定の社会ではなかった。
むしろ、現実のあり方を根底的に問い直すべき変革と激動の時代であった。それは、
幾多の高僧の地道な努力から仏教が過酷な現実に苦しむ民衆の末端まで達したことに
現れ、社会の大きな変化が始まっていた。

「諸法の仏法なる時節、即ち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、
衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、惑いなく、悟りなく、諸仏なく、
衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、
迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといえども、花は愛惜にちり、
草は棄嫌におうるのみなり。」

諸法 普段我々が認識している個々の事物
仏道 仏法に適った生き方
豊倹 豊かさと乏しさ
従来の二元的な生き方を離れ,仏法に沿った生活実践により新しい自分を創る

第一 現成公案の章より、
01
森羅万象は普遍不変の理法によって保たれつづけている。
そうした事象として、人に迷いがあり、覚りがあり、迷いとはなにか、覚り
とはなにかを知ろうとする努力があり、生があり、死があり、覚りえた人々
があり、覚りえていない人々がいる。

02
もろもろの自然の事物に自我はない。人の自我も幻想である。人は誰であっても
自己であるほかはないのだが、自己と言う意識は幻想である。迷いも覚りも
覚りえた人々も、覚り得ない人々も、生も死も、全ては空である。もろもろの
存在現象の本質は空であって、実体ではないのが存在現象の本質である。

03
仏の教えは事柄の大小や豊かさ狭さを超えていて、人の世の有り様は、仏の
教えそのままである。この世に、生があり、滅があり、迷いがあり、覚りが
あり、覚りえない人々として衆生があり、覚りえた人々として仏がいるけど、
それらはすべて空であるほかはない。
このようではあると言え、散る花を惜しみ、生茂る草を嫌うのも人の
心のありようである。すべての現象は実体ではないとはいえ心は心である。

04
自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。もろもろの現象の
なかに自我の在りようを認識するのが覚りである。迷いを迷いとして大悟
するのが覚りえた人々であり、また、己の認識に執着するのが衆生である。
覚りの上にさらに覚りをうる人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。
覚りえた人々がまさしく覚りをえた人々である時、その人は自分が覚りえた
人であると認識する事がない、それは身心が覚りに同一化しているからである。
そのようではあるけれども、その人は仏法を知りえた覚者であって、さらに
覚りを求めていく。

06
仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、
自己を忘れることである。答を自己の中に求めないことだ。すべての現象の中に
自己を証あかすのだ。自己とはもろもろの事物のなかにあってはじめてその存在
を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己をも脱落させて
真の自己を無辺際な真理の中に証すことである。こうしたことから、覚りの
姿は自らには覚られないままに現れてゆくものだ。


13
たとえば、船に乗って陸も見えない海原に出て四方を見ると、海はただ丸いと
だけ見えて、そのほかの姿に見えることがない。しかし、この大海は、丸いもの
ではなく、四角なものでもなく、目には見えない海の様相は尽くしきれない
姿をもっている。それは宮殿のように瓔珞のように見事なものである。
しかし、目の及ぶばかりには、ただ丸いと見えるだけである。

14
万象もまたそのようである。一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相が
あるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
森羅万象にある真の姿を知るためには、目には見える形のほかに、残りの
形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っている事を知らねば
ならない。己の周囲のみがこのようにあるわけではない、己自身も
微小な存在もこのようであること知らねばならない。

18
風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚おうぎをつかう
「風の性は常に変わることがなく、処として周あまねからざることがない、なにゆえに
和尚は更に扇を使われる」(仏性はもともとあるもので、行き渡らないところなど
どこにもない。まずは黙って扇を使い、風を味わう行動を起こすことが肝要)

19
仏法が保っているありのままの在り様とはこのようである。仏法がまさしく伝わり
活かされる路とはこのようである。風の性は常に変わらぬ性であり、変わりなく
普遍であるから扇を使ってはいけない、扇を使わなくとも風を感じろというのは、
不変であり普遍であることの意味も知らず、風の性は己自身の性である事を
知らないのである。風の性は不変普遍であるからこそ、仏法の風は大地に黄金の
豊かさを現出させ、ガンジス河の恵みを、其の乳酪のような大きな恵みをもたらした
のである。

良寛の辞世の句がある。
形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉
自分は死んでいくが、そのままでよい。自然の豊かな四季がある。


第三 仏性の章より
01
釈迦牟尼仏は言われた、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、変易有ること無し」と。
すなわち、「一切衆生とは、類として存在するものであり、普遍的に存在するもの
すべてであり、仏性である、あるがままのものであり常に変わることは無い」と。
さらに、在るがままのは是事実であり、真実は是虚空である。虚空は即ち真実であり、
真実は是仏性である」とも言われている。

03
釈迦牟尼仏が言われる「一切衆生、悉有 仏性」の、この言表の主旨はどのよう
であるか。これこそは六相大鑑が弟子の南獄に問うた是汁摩物「存在するもの、
この名でないものはなにか、仏とは何か、如来「あるがまま」とはなにか」
を問う大命題である。「これはなにか」と問わねばならぬ仏教を包括しつつ
その根源を示す大説法である。これを「一切衆生は、悉く仏性を有する」などと
軽々しく浅薄に理解してはならないのだ。悉有とは、あるいは衆生と言い、有情
と言い、群生と言い、群類とも言うのであって、類として共生する衆生をいう
言葉であり、衆生は群としての存在である。
すなわち、悉有の語は仏性の語と同じであって、衆生とは悉有、万有、の一分
をも全分をも言う言葉なのだ。
「一切衆生、悉有、仏性」の言葉を、正に釈迦が説くように理解する時、釈迦は
悉有、万有、の一分である有情としての衆生の内界と外界は、すべて仏性である
悉有、万有、なのだと説いているのである。慧可、道育、道副、尼総持の四人の
弟子の夫々に与えたと伝えられている菩提達磨の皮、肉、骨、髄が達磨の全身の
一部ではないことを思えばよい、達磨の皮、肉、骨、髄は達磨の一部ではない
のである。そのとき達磨は「汝は吾が全身を得た」と言っているからだ。
知るべきである、いま仏性によって存在している有とは、具体的な存在を言う
有無の有ではない。一切の存在を意味する悉有とは、仏の語であり、仏が語る
ものであって、形而上の認識であり、形而上の言葉である。それは仏祖たる
智慧であり、仏祖の真面目である。悉有とは始まり出現する現象の有を言うのでは
ない。それは物質的な有ではない。有であり非有であり無でありながら無ではない
空としての絶対の有でもない。ましてや縁の相関作用によって起こる有や、六識、
色声香味触法また施行の対象である有ではない。心の作用や主観からする対境、
事物の本性や現象の相などにはかかわらないのである。

05
それは始めて生じる有ではない、全世界には一塵といえど新たに改めて受け取る
ものはないからである。それは個々の有ではない、すべては総合されているから
である。
それは始まりが無い有ではない、何者もすべてはそれぞれ何ものとしてあるからだ。
それはあるときに始めて生ずる有ではない。移ろう時も万象の去来も常に変わる
ことがないからである。
「尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。悉有それ透体脱落なり」
(人間には誰でも仏性という一つの資質、種子が備わっている。したがって、
是に目覚め、これを育むことで、人間は誰でも仏になれる。主体性が基本
としてある)

(27)
すなわち、草木叢林の無常である姿が、そのまま仏性なのだ。
人や物質や身心の在りようの無常の相が、そのまま仏性なのだ。
国土山河の無常の相は、そのまま仏性のは活らきのなかにある。
無上平等の覚りは仏性の活らきの本質を覚るところから無常なのだ。
大いなる涅槃はそのまま無常であることから仏性なのだ。



「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」
涅槃経の一節。今までの解釈では、誰でも仏になる素質がある。真理はどこにでも
あって、変わることはない。
道元は、違うという。
「一切の衆生、悉有が仏性なり」と考える。「悉有」はそれ自体が仏の言葉である、
と言う。「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生という」

「悉有仏性」は、「涅槃経」の師子吼菩薩品に説く「悉く仏性有り、如来は常住にして
変易(へんにゃく)あることなし(悉有仏性 如来常住 無有変易)」に基づきます。
 私どものこの命というものは、広大無辺の宇宙いっぱいのいのちです。この命という
ものは途方もない因縁によって生じているのです。太陽系も因縁生なら地球も因縁生で
あり親兄弟も因縁生ということになります。この因縁生の中で本当の自分を見いだすこ
とが「一大事因縁」と示されています。
 「悉有仏性」のことを、法華経では「諸法実相」ともいいます。 
「悉有(しつう)」は、あらゆるものに、すべてにゆきわたって確かに存在すると
いうこと。「仏性」は、仏になる可能性ですから「悉有仏性」とは、一切の衆生は
例外なくみな仏になる可能性を持っているということです。

悉有仏性は訓読みする場合は「悉く仏性有り」と読むのが通例です。ところが、
「悉く仏性あり」というと、私たちはどうしても「仏性」という何か実体がある
ように考えてしまいます。しかし、「一切衆生悉く仏性有り」といいましても
「これが仏性だ」と指し示すことはできません。故に道元禅師は「正法眼蔵」
仏性の巻で、「悉有は仏性なり」と読み変え示されるところでしょう。
原典の涅槃経の思想をさらに深めて、「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ」
と説き示されるのです。ここにも道元禅師の鋭い思想眼が輝きます。
すなわち「悉有」は、悉く有りという保有することではなく、天地全部が仏性
であるということなのです。また「一悉」という一は、たんなる数字の一
ではなく全ということですから、一悉を言いかえると「全悉」となるでしょう。
したがって「悉有の一悉」は、悉有の一部分ではなく「その存在の全て、
悉く」ということになります。よって道元禅師が「悉有の一悉を衆生といふ」
のは、「一切衆生(生命あるものすべて)に仏性がある、一切衆生が、
そのまま仏性である」と示されるのです。

道元禅師は「正法眼蔵」仏性の中で次のように述べられています。
「ある一類おもわく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるおひしきりに
うるおすとき、芽茎(がきょう)成長し、枝葉華果も(茂)すことあり、
果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する。凡夫の
情量なり。、、、、みな同じ万象として仏性に支えられていることになる」
(08)
意訳すれば次のようになります。
ある一群の人達は、仏性というものを草木の種と同じように考えている。
種をまくと、日光の恵みや雨のうるおいで、やがて芽を出し茎も成長し、
枝や葉が茂り、花が咲き実を結ばせる。仏性もその通りで、衆生の中に仏性
の種が宿っていて、いろいろな仏縁や良縁、つまり因縁がこれを育てると、
ついには結実して仏性があらわれる。このように思っている者が沢山
いるが、これは凡夫の勝手な憶測にすぎないのである。
つまり、自分の中に仏性という種子があって、それをうまく育てると、
やがて仏性の花が咲き、仏性の実を結ぶというのではない。
「只管打坐(しかんたざ)」とは坐った刹那に仏性そのものなのだという
ことになります。坐禅したから、その時間に応じて少しずつ仏性という
実が結ばれるというのではない。草木で例えれば、花や実だけが仏性
というのではなく、その芽も仏性現前、茎も枝葉も仏性現前です。
全部一切が仏性そのものだという受け取め方によってとらわれのない
坐禅になるのです。

正法眼蔵の「仏性」の「無常仏性」について、現代語訳では、
「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法、分別心なり」ここで六祖が
おっしゃる無常とは、外道(仏教以外の教え)や二乗(小乗)などが
推し量る事など出来ないものである。二乗や外道の始祖や末流が「無常である」
などと言っても、かれらは究め尽くしていないのである。つまり、無常が
自分から無常を説き、修行し、「さとり」を得るのは皆無常なのである。


第四 身心学道
(2)
仏道を学ぶのに、先ず2つのことがある。
心を持って学び、身を持って学ぶのである。
心を持って学ぶと言うのはあらゆる処々の心を持って学ぶのである。その処々の
心とは、質多心(心意識)・汗栗駄心(心臓、精髄、心情の起こるところ)・牟栗駄心
(成長し学を積み励ましを受ける心)である。また、衆生の心に仏の心が
感応して、菩提心を起こした後、覚者の大道に従い,菩提心のなす行いを学ぶの
である。
たとえ未だ真実の菩提心が起こっていなくとも、先に菩提心を起こしている
覚者の覚りを学ぶべきである。
それは発菩提心である、赤心片々である、古仏心である、
平常心である。生死流転やむことのない迷界は心にほかならない。


菩提心とは、無常を観ずるときには吾我の心を生ぜず、無常を正しくみつめる
心もまた菩提心(切実に人生の道を求める心)といってよい」と示されています。
その菩提心をおこすことを「発菩提心」(ほつぼだいしん)といいますが
道元禅師はこれを重視します。「発菩提心」、略して発心といいますが、
道元禅師は発心し、修行し、それから身心脱落するとは示されません。
『発菩提心はそのまま得菩提心』ということになるのです。いいかげんな発心
ではどうにもなりませんが、本当の発心ならば、その発心のところに道が
得られているというのであります。けれども、その発心が一時の夏の線香花火
のようなものであれば、火が消えればそれと共に道も消えてしまいます。
それ故に、発心の連続が要求されるのです。発心さらに発心さらに・・
発心であります。道元禅師は百千万発の発心と示されるのです。
その発心が切れ間無く続くならばそれが「仏道」というわけです。
仏教では短い時間のことを「刹那」といいますが、これは時間の単位のひとつ
であって、指をはじく間の時間が64刹那という説や、一昼夜が648万刹那
(時間計算では約0.013秒)という説があります。
この一刹那にあらわれ一刹那に消えていくことを「無常」といいますが、
「無常」というのは、たとえていえば、人間の体は分子生物学によると、
6ヶ月経つと完全に細胞が入れ替わってしまうというのです。茶髪にしようと
指を染めようと、髪も爪も皮膚も血液も、そのままあり続けているのではなく、
分子レベルでいえば生死は刹那にいれかわっているということなのです。
同じように流れ続けているように見える川の水にしても全存在も同じことです。


面山和尚の言葉で言えば「一寸の坐禅は一寸の坐仏」です。線香が一寸燃える間
の坐禅であっても、只管に坐れば、たとえ初心者であっても年が若くても、
直ちに仏性そのものであり、坐仏です。
道元禅師の教えは「只管打坐(しかんたざ)」ですが、黙って坐るという形のみ
を示しているのではないのです。
只管とはよそ見をしないことです。余念のないことです。
坐禅をすればじょじょに悟ることができるとか、坐禅をすれば悟れるとかいう
のは「只管打坐(しかんたざ)」ではありません。悟ろうとか、仏性というもの
を手に入れようと思っているかぎり、悟ることはできませんし、仏性を体得して
いない証拠でもあります。生のときは生が仏性、死のときは死が仏性です。
つまり、悟りや仏性を追い求めるという姿勢ではいつになっても正法を得られるもの
ではないということになります。

「山は超古超今より大聖の所居しょこなり、賢人聖人ともに山を堂奥とせり、山を
身心とせり」(山水経)


道元においても人間や世の中の儚さを強調し、それゆえに修行に励むべき
とする言説がみられたが、それらは、無常と常住を対立的に捉えた言説であった。
このような言説が特に仏教修行をはじめたばかりの初心者や在家信者
にとって有用であるということはいうまでもないが、仏教の「無常」に関する
言説は更に、その先の事態を表現しようとする。
無常と常住を対立的に考えて、無常なる俗世を脱して常住なる仏道世界を目指せ
という言説が第一段階の言説であるとすると、この無常と対立するものとして
設定された常住は、実は無常であると理解するのである。これは仏教の実体化
批判を土台としたものであり、とりあえず、無常に対立するものとして想定された
常住なるものも、固定的ではなく、すべたは無常であることが明らかにされる。
これが第二段階である。そして、さらに、あらゆるものが無常であるという
第二段階の議論を推し進め、更に高次化した「無常」の理解を示すの
が段三段階となる。この段階においては、移りゆくこの瞬間、瞬間の中に
永遠が読み取れる。後述する「修証一等」の構造においては、修行とは
「さとり」を得るための手段ではなく、修行する一瞬一瞬が「さとり」である。
となると、「さとり」と言う永遠の真理の体得は、修行の一瞬一瞬において
行われることになる。つまり、修行の一瞬、一瞬にこそ、永遠が宿る。
無常と常住を峻別する二分法は、修行する、つまり、生きる現場から離れた
抽象的な立場であり、そのとき、その場所においては、ただ心理を顕現する
行為があるのみである。それは、まさに「永遠の今」といいえる。
これが第三段階である。

第5  即心是仏
(14)
即心是仏とは、普遍の理法に目覚め、修行し、覚り、覚りの中に不生不滅を覚った
諸覚者のことである。未だ目覚め、修行し、覚り、覚りの中に不生不滅を覚らない
者は、即心是仏ではない。そして、たとえ一瞬のうちに目覚め覚るのも即心是仏
である。たとえ極小極微の事象のなかに目覚め覚るのも即心是仏である。たとえ、
無量の年月のうちに目覚め覚るのも即心是仏である、たとえ自らの一念において
目覚め修証するのも即心是仏である。たとえほんの僅かなあいだ目覚め覚るのも
即心是仏である。このようであるものを、たわけどもが、長い間修行して覚るのは
即心是仏ではないなどというのは、こうしたやからが即心是仏すなわち真の諸仏
にあったことが無いからである。いまだ諸仏というものを知らないのである。
いまだ真の仏法を学んだことがないのである、即心是仏を説き明かす正しい
師に会ったことがないのである。
ここに言う諸仏とは、釈迦牟尼仏なのだ。釈迦牟尼仏が、これこそ即心是仏なのだ。
過去、現在、未来、にわたる諸仏が、皆それぞれに仏となったとき、彼らは
かならず釈迦牟尼仏となるのである。これが即心是仏である。

第六 行仏威儀
(1)
諸覚者はかならずその一挙一動にわたって威儀を具えるものだ、これが行仏である。
行仏とは修行の功に報われて得られる真理と一如となった報身仏ではない。
即ち、種種の身に変じて衆生の前に現れ済度する応化仏ではない、いうところの
自ずと法楽を得る自受用身仏ではない、また他受用身仏ではない。妄想を払って
活らく始覚、本来具えている成仏を求める智慧が活らき始める本覚ではない、
仏智が自ずと現れる性覚ではない、学問知解など全て不要とする無覚ではない、
これらのような仏は、まったく行仏とは異なる。
(2)
知るべきである、諸覚者の修行にあたっては、身体の感覚に依拠することは
ないのである。
覚りを超越した覚りへの道に日々をあげて修行するのは、ただ行仏のみである。
自性仏とか自性清浄とか言っている類が、夢にも見ないところである。
この行仏は、人々の前に姿相となって現れるのでありから、行為に先立って現れる。
人を導く活らきが言葉に先立って漏れ出るのであって、行仏は時を運ばない、
所を選ばない、日々の行いすべてにわたるのだ。行仏でなければ、覚りに縛られ
自己に縛られることから未だ抜け出ることなく、宗門に閉じこもる仏魔法魔の
ためにその仲間とされてしまう。

第七 一顆明珠
(10)
一顆の明珠は、名として明確な名詞ではないが、言いえている言葉であり、仏道では
真理を開示する言葉として認められて来た。一顆明珠の言葉は永遠と直通する言葉
として開かれている。往古にわたって永遠は果てなく、永遠なる今は常に到来
している。
今あるこの身、今あるこの心、これが明珠である。また、自然はかれこれの草木の
自然ではない、自然としての山河ではない、明珠としての草木「修行者はこれを如何に
会得したらよいでしょ」。この言葉は、たとえ僧の言葉遊びに似て見えても、大いなる
力量の発揮であり、また大いなる道理を示している。一尺の水が進めば一尺の波を
起こす。いうところの「1丈の珠は一丈を明らかにす」である。
(15)
この明珠という始めのない存在は時間空間に無限である。尽十方世界一顆明珠である、
二粒三粒という数を以って現す一粒ではない。人の全身は是普遍のの仏法そのもの
であり正伝する普通の仏法を保持する一隻の眼そのものであり、全身は真実そのもの
であり、全身これ此れの一句「尽十方世界是一顆明珠」そのもであり、全身これ
光明そのもであり、全身はこれ全心そのもの心相不二であり、全身がそのまま是の
ような全身であるとき、全身は曇りない全身である。円いものが転がるようであり、
車の果てしなく回るごときである。尽十方世界は明珠に表現され是のように現成
しているからこそ、この現象世界に現れる観音や弥勒があり、現実の身を持って
普遍の仏法を説きえた往古から今にいたる覚者たちがいるのである。

第八 心不可得
(1)
釈迦牟尼仏は言った。「過去の心は捉えようがなく、現在の心は捉えようがなく、
未来の心は捉えようがない」と。
是は仏祖が究めたところであって、心の流れは捉えられないという見所に立って心を
認識した。そうであるが、それは仏祖たち自身の心の流れの動機や根拠は捉えられない
と言い表しているのである。この現在の思慮分別は、捉えられないと言い表している
のである。さらに日常の二十四時間を使ってする全活動の、その動機や根拠は
捉えられないと言い表しているのだ。諸仏祖は覚りの奥所に入って、心不可得を
会得するのだ。
(07)
このように、修行する雲水たちよ、かならず勤学でなければならない、安易に学んで
いてはならない、勤学であったのは、仏祖たちである。徳山は「画に描いた餅は
飢えを満たさない」と歎いたが、金剛経も画に描いた餅である。およそ心不可得とは、
画に描いた餅を一枚買い、ひらりと一口に噛み砕くようなものである。

第九 古仏心
(02)
これまであげた四十人の仏祖は、すべて古仏であるといっても、心もあり身もあり、
それぞれの光明がありそれぞれの世界がある。

(07)
古仏心とはこうした心の場を言うのであるから、それは花開く万木百草である、
古仏の古今を貫きえた言葉である、この言葉は、古仏が古今の全時間空間を
問うているのである。この言葉において全世界は生起する、それは古仏の日の当たる
面、月光の当たる面である、明るい面また暗い面である、古仏の肉体である。
さらにまた古今に通じる心の修行となることもあるだろう、覚りが古今を通じる
心となることもあるだろう。古今を通じる心と言うのは、古仏の心は古今の時間
空間に渡るからである。古仏の心と覚りは必ず古今の事物現象の真相に通じる
のであるから、古今に通じる心はただの竹椅子のようであり、呼びようのない
ものである。尽大地に一個の仏法を会得する人を求めることは出来ない。仏法とは
森羅万象を保つ普遍の理法であるが、「仏」は覚りである「法」は森羅万象である、
1つで二つ、二つで一つである。

禅としての基本である「脚下を照顧せよ」はここでいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。

弁道話(はんとうわ)
01
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。

16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほか
に覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは、
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行によるほかは、
ない明証であるから、その覚りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での修行
であるから、すでに仏法修行に入ったものには初心というものはないのである。

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