摩訶般若波羅蜜 般若とは智慧であり、波羅蜜とは到彼岸をさす。 実相を照らしつくす智慧は生死の彼岸を渡って、涅槃の彼岸に至る船である。 この最上の智慧を「般若波羅蜜」という。 01 観自在菩薩は、この宗旨を始めて人に説いて、次のように述べた 「色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり」と。すべての存在は そのようである。すべての現象はその様である。 また、仏に十二の智慧がある、色、声しょう、香、味、触、意 (しきしょうこうみそくい)と、これに対して、それぞれ、 見、聞、嗅、味、触、知(けんもんしゅうみそくち) の了別作用がある眼識、耳識にしき、鼻識、舌識、身識、意識をいう。 眼耳鼻舌身意の人の六根と、これに対応する色声香味触意の六境とにかかわる 智慧である。 これは六根六境の十二の智慧が互いにかかわるところから情識が生じることをいう。 また、十八の智慧がある。六根六境と眼耳鼻舌身意の六識である。 また人の世の真理について苦集滅道の智慧がある。 また修行について布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若の六つの智慧がある。 また一つの完成された智慧が、あらたに阿のく多羅三みゃく三菩提と漢訳された 無上正等正覚である。無上正等正覚はその古い訳であって、無上の覚りのことである。 また三つの智慧がある、過去、現在、未来にかかわる智慧である。 また、六つの智慧がある、地、水、火、風、空性、認識作用の六大である。 また、四つの智慧がある、世の常に行われている行、住、坐、臥にかかわる智慧 である。 |
2016年5月31日火曜日
摩訶般若波羅蜜
三十七品菩提分法、自証三昧、竜吟
三十七品菩提分法 ポジティブ実現上での規範をここからも学べるのかもしれない。 01 仏祖の古則としてすべてに優先する規範がある。それは三十七の品類に分岐する 覚りに至るための教えと行と証悟である。それらは仏祖たる修行の諸階梯において 昇り降りまた連れ合うのである。さらに言えば、三十七品菩提分法とは互いに 関連し合う規範である。この互いに関連し合う三十七品類の教行証によって 諸仏祖は諸仏祖たりえるのである。諸処の仏祖はこの三十七品類の教行証 そのものである。 02 四念住または四念処 1つには、身を不浄と観ずる。 2つには、知覚を苦と観ずる。 3つには、心は不変でなく常に変化し生滅すると観ずる。 4つには、諸処の現象には自我がないと観ずる。 四念住または四念処は平等一如の覚りの母体という。 03 観ずるというのは、修行者の毎日の行いである。地を掃き浄め床を掃き 浄めるのである。日を重ね、月を重ねて地を掃き浄め、月々を重ねて地を 掃き浄め床を掃き浄めることによって、尽大地を掃き浄めるのである。 04 身を観るのは身が身を観るのである、身が身を観るのであって他の ものが観るのではない。 このような己の身を観察する修行は何より優れた修行である。 我が身が我が身を観察するとき、心は心を観ることはない。 心は煩悩を脱落することから、煩悩を滅ぼすのである。 このようであって、心の作用が身を不浄と観ずるのである。 10 「あらゆる現象に自我はないと観ずる」とは、長いものは長いのであり、短いものは 短いのである。すべてはありのままであり、観るとはありのままに観るのであって、 自我のはたらきによるものではない。犬の仏性は無である。犬の仏性は有である。 一切の衆生は無仏性である、一切の仏性は無衆生である、このように一切の 諸仏は無衆生である、一切の諸仏は無諸仏である。一切仏性は無仏性である、 一切衆生は無衆生である。このように一切の現象の普遍の真相は有無ではなく 空であって、一切の現象はありのままであるほかはない、そのありのままを 無我というのである。 12 四正断あるいは四正勤 1つには、未だ生じない悪を生ぜしめない。 2つには、すでに生じた悪を滅せしむ。 3つには、未だ生じない善を生ぜしむ。 4つには、すでに生じた善を増長せしむ。 17 四神足 1つには、身心の神足自在なるを欲する。 2つには、心の神足自在。 3つには、精進の神足自在。 4つには、思惟の神足自在。 「身心の神足自在なるを欲する」とは、仏とならんとする身心の欲求である。 「精進の神足自在」は、百尺竿頭にたってまっしぐらに歩み進むのだ。 どのような場所がその場所なのか、それはまっしぐらに歩を進めなければ えられない。 24 五根 1つには、信根。 2つには、精進根。 3つには、念根。 4つには、定根。 5つには、彗根。 信根は、深淵とは自己の主観に立脚するのではない、自己の客観に立脚 するのではない、自己を強いてするのではない、自己が構えて起こす のではない。他から引きずられるものではない、 自ら立てる規範によるものではないのであるから、離れたものが 相密着するのである。 30 五力 1つには、信力。 2つには、精進力。 3つには、念力。 4つには、定力。 5つには、彗力。 定力とは、心を定めて散ずることのないようにする力である。 36 七等覚支 1つには、択法覚支。 2つには、精進覚支。 3つには、喜覚支。 4つには、除覚支。 5つには、捨覚支。 6つには、定覚支。 7つには、念覚支。 「除」とは信頼である。自らへの信頼である。「定」とは、己に具わっている力量を 保つことに他ならない。 44 八正道支または八聖道という。 1つには、正見道支。 2つには、正思惟道支。 3つには、正語道支。 4つには、正業道支。 5つには、正命道支。 6つには、正精進道支。 7つには、正念道支。 8つには、正定道支。 正見道支は、苦、集、滅、道の四諦の理を理解し、実践修行する。 正思惟道支は、四締の理をよく推考するとき、諸仏は皆現成する。諸仏が現成する のは、四締之理をよく思惟することによる。正業道支は、言葉のみでなく、 身を以って修行すること。正業とは日常の僧としての正しい行いのこと。 僧としてする行いとは、堂に坐してする功夫である、仏殿にあってする礼拝である、 洗面である、さらに僧たちが互いにする合掌であり、焼香して入浴する すべてが僧としての正しい行いである。正命道支とは、仏の教えに従って 早朝に粥を食し、午時に飯を食うことだ。禅林にあって精魂を尽くすのだ。 正精進道支とは、戒律、禅定、智慧に等しく精進するのである。 正念道支とは、邪念を捨てて正法を思念し常に向上すべく集中するのである。 留意せねばならぬのは、己の想いにはとかく騙されるということだ。 思念の集中の中に智慧が発すると考えるのは、せっかく集中した思念を縛って しまうこと甚だしい。正定道支とは、身心を静寂ならしめ、すべてを脱落 するのである。その中に現れるものが定である。 ーーーーーー 自証三昧 「遍参知識は遍参自己なり」と。 先達や師匠のあいだをめぐって得られる知識は、自分をめぐりめぐ って得た知識になっているはずなのである。 05 このように経典によって修行し、得道するのである。天界にあろうと 人界にあろうと、どのような時どのような処にあろうと、経典に 従って学び始めるのが仏道の修行である。 このようではあるが、たとえ知識に従い、たとえ経典に従って学ぶのも、 皆すべて自己に従って学ぶのである。このようであるから、遍く 先達に参ずるのは自己に遍く参ずることにほかならない。森羅万象 に参ずるのも自己に参ずる参ずることにほかならない。自己を習う ということはこのようなものとして学ぶのである。このように学ぶ ことによって、自己を脱落して、自己という存在を覚るのである。 06 仏法を説くということは必ずしも自他にかかわるものではない。他のために 説くと同時に己のために説いているのである。何によらず己が説く説く 時には、自己が自己に参じて聞きかつ説いているのである。一つの耳は 聞き片方の耳は説いているのだ。舌が説き舌はそれを聞いているのだ。 更には眼耳鼻舌身意の六根の働きや六識六塵などもすべてみなこのようなものだ。 このような仏法に保たれる身心があって仏法を覚るのであり、仏道修行 もそのようである。 耳の働き自体が聞きかつ説くことに同参するのだ、舌の働き自体が聞きかつ 説くことに同参するのだ。昨日人に無常を説くとき、その言葉は今日己に は常に変わらずと響くのである。このように種々相は相連なっているのである。 ーーーーーーーーーー 竜吟 02 枯れ木を死灰のように語るのは、昔から外道が教えるところである。 しかし、外道が言う枯れ木と、仏祖がいう枯れ木とは、はるかに異なっている。 外道が枯れ木について語ることがあっても、仏祖が説く枯れ木を知らない、 まして彼らは枯れ木が奏でる竜吟ヲ聞くことがあろうか。外道は枯れ木は 朽ちた木のことであり、死んだ木であり灰になるものだと考え、枯れ木は ふたたび春を迎えることはできないと学んでいる。 03 仏がいう枯れ木は枯れ海に等しいものである。海が枯れるのも木が枯れるのも 等しいのだ。朽ちた木はすでに枯れ木ではない。海が枯れたならすでに それは海ではない道理に等しい。枯れ木は枯れ木としてそのままの存在現象である。 木は枯れても春に逢うのである。また、動くことがないのが木の枯れた姿である。 今ある山も海も空も、等しく枯れ木と表現してよいのである。萌え出る芽に そよぐ風の囁きも枯れ木が奏でる竜吟の調べに等しいのだ。 04 どのような巨木も、枯れ木という普通の相に収斂する。枯れるという様相、 性質、形、力は、仏祖を仏祖たらしめる枯れた杭である、朽ちた木ではない。 山谷の木があり、田里の木がある。山谷の木を、松柏と呼んで世間を 離れたものとしている。田里の木を、世間では人界天界に活きるものとしている。 松柏として世間を離れたものとしている。田里の木を、世間では、人界天界 に生きるものとしている。 石頭希遷は、「根によって葉は分布する」と示しているが、この根を仏祖と 呼ぶのである。「本も末も須らく宗に帰すべし」、これが仏教に参ずることである。 このようなものとして、長い枯れ木はそのまま普通の理法の現成である。 短い枯れ木はそのまま普通の理法の現成である。枯れ木でなければ、龍吟 の曲を奏でることはない、木がいまだ枯れ木にならなければ、それは ただの風の調べにとどまっているのだ。枯れ木は幾たび春に逢っても心は 変わらずに風の調べを奏でる、それは枯れ木の奏でる竜吟の曲である。
都機、画餅の巻
都機 色々な月がある。だが、結局は月は1つである。1つで、しかも様々な月の すべてなら、何所までも広がっている虚空のようなものだ。故に、真理そのものも 形はないけれど、田んぼの水たまりも、家々の窓にも姿を見せる。 いわば、つかめないが、何処にでもある。それは水中に映った月のようだ。 01 諸所の月が次第に十全の円となって現れる姿は、過去の時を超越し、未来の時をも 超越している。満月が欠けていく諸所の月の姿も、過去の時を超越し、未来の 時をも超越している。こうしたことから、釈迦牟尼仏は言う。 釈迦牟尼仏言、「仏真法身、猶若虚空ゆうにゃくこくう。応物現形おうぶつげんぎょう 、 如水中月」 「仏の真なる法身は、猶虚空のごとし、物に応じて形を現すこと、水中の月のごとし」 と。 これをもう一歩進めると、「水中の月のごとし」ではなく、「水中の月そのもの」 と言える。 月の実相を深めれば、今の一瞬がそのまま永遠につながっているのだから、「いま、 そのまんま」に生きること。 03 月があるからと言って必ず夜ではない、夜は必ずしも暗くはない。人間の小さな了見 にかかわりつづけてはならない。日や月がなくとも昼夜はあるではないか、日月は昼夜 を昼夜とするためにあるのではない、日も月もそのまま自然の存在であるから、一つ 二つの月の姿は月の数を意味しない、千の月万の月の姿も月の数ではない。 月からすれば、諸処の姿の月は諸処の月であり、一つの月二つの月、千の月万の月 というかもしれないが、これは月の方からする言い分であって、真理を求める 修行者の見解とするところではない。そうであるから、昨夜にたとえ月があった としても、今夜の月は昨夜の月ではなく、今夜の月は初めから終わりまで今夜の月 と考えきわめるべきである。月が満ちかけを追って月であり続けることによって、 月が月であるとはいえ、東天に新しい月が現れるからといって、月に新しい古いはない 。 04 盤山の宝積禅師は言っている。 心月弧円、 光呑万象。 光非照境、 境亦非存。 光境倶亡、復是何物。 心月弧円にして、 光は万象を呑む。 光は境を照らすに非ず、 境また存するに非ず、 光と境とともに亡ず、また是も何物ぞ、 と。 05 ここに言うところは、諸処の覚者やその覚りを正伝する弟子の心には、必ず、 心性としての月があり、月のような心が伝えられているからである。 水中の月と同じように心に月を宿しているのである。弧円というのは、一人 寂然として円であり、欠けることのない真円である。数をもって表せない 現象を万象という。万象はすべて月の光に没して万象であることを失う。 だから、「光は万象を呑む」という。万象が自ら月の光を呑みつくしている 様相と見え、すべて月光に没して光が光を呑み込むさまを、「光は万象を呑む」 という。たとえば、月が月を呑むでもよい。光が月を呑むでもよい。 皓皓と冴えわたる月光の中にすべての存在が全であり、個であることを失う 光景を脳裏に浮かべよ、こうした、光と万象との境がすべて失われた情景に よって、「光は境を照らし出さず、境は存するに非ず」といったのだ。 このような個別の現象を秀脱した普遍の覚りを得ることによって、「まさに 仏身を以って衆生を救済すべき姿相」を得たとき、必然に「即ち仏身を 現し説法を成す」のである。「まさに普遍を体現せる身を現し以て衆生を救済 すべきもの」たるとき、「即ち普遍の理法を現じ有形の身を現して説法を成す」 のである。 ⇒ 釈迦の言葉、「雲し月運、舟行岸移 うんしげつうん しゅうこうがんい」を 軽く考えたはいけないという。「愚か者が思うのは、雲が走って見えることによって、 動いていない月が動くように見える」と理解する。このように皮相的な現象に とらわれず、 「月のような心はそのまま光によって明らかにされたすべての存在であり、逆に 万物は光によって示された月の心そのものである。世界は一つの月であり心であり、 すべては月そのものである。その一瞬、一瞬が、永遠につながっているのだから、 「いま」「そのまんま」に、ずばり居直ること。月も雲も船も岸も、理想も 現実もない。すべてがそのまま、ありのままで仏なのだ。それが月の実相である」 と考えることが必要である。 古来より仏教においては、「心月」「真如の月」という表現にあるように 心や覚りを、空に曇りなく輝いて見える月にその本質を託している。 ありのままの自分を見つめる。 ⇒光呑万象 万象、あらゆる姿はこれ月の光によって生じるものであるから、それ自体として 存在している現象ではない。だから光は万象を呑みこんでいるという。さらに、 すべての現象がそこにあるということは、月の光に照らされている。つまり、 月の光によってそこに存在している。結局。光が光を呑み込んでいるという ことになる。 それゆえ、月が月を呑み込んでいる。闇をも呑み込んでいる。光が月を 呑み込んでいるといってもよい。 そこでは、もはや月と光と万象の差別はない。 「一心一切法、一切法一心」真理を観るのは、仏の姿がなくとも、心月はあるのだ。 ーーーーーーーーーー 画餅わひん 04 香巌智閑がいう「画餅は飢えを充たさず」の意は、「画餅は飢えを充たすこと に能わず」であって、「絵に描いた餅はもともと飢えをみたすものではない」である。 それは、たとえば、「諸悪は作られるものではない。本来は悪というものはない、悪に 根拠はない、衆生には悉く仏性が具わっているのだ、悪を成せば心に重い負担が かかる、善への配慮はもともと衆生の本性である、もともと衆生は禅を行うもの である」というようなものだ、人の心に現れるのはすべてが画餅なのだ、 「吾我とは常に本来性のままであるほかはない」というようなものだ、 とりあえずはこのように学んでおくことである。 07 「飢えを充たさず」とは、この飢えは昼時夕時の空腹などの現実のものでは ないので、飢えと画餅とは相待することがない、画餅を食しても飢えを充たす 役には立たない。 飢えによって待ち望まれる画餅はない、画餅に期待される餅はない、画餅は画餅 であるほかはないのであるから、日常生活にはかかわらない、生活態度にも かかわらない。 飢えの方では画餅を食べても飢えはとまらない。画餅は一本の杖のような もので、横に担ぎ縦に担ぎ、どのような食物の絵にも千変万化する。餅の方も 一つの物体の現成であり、青黄赤白、長いもの短いもの角餅円餅と様々である。 いま山水を画くには、青緑赤を使い、奇岩怪石を使い、七宝四宝を使う。 「修竹芭蕉画図に入る」、この言葉は、長短を超越したものが、ともに画図に入ると 学ぶものである。修竹は長い竹である。芭蕉は丈の低いものである。長短も 天地、日月、寒暖、男女など陰陽が相対する巡りであるけれども、こうした 陰陽の運航には、竹が成長するような年月が伴う。その年月の陰陽は、 測ることができない。大いなる覚者は陰陽相のなかの現実を窺い見ることが できるけれど、陰陽自体を見ることはできない。陰陽は現象を認識する 方法である。物事を測る念慮である、また言語表現であるからだ。 それは外道や二乗の心目に映る陰陽ではない。ここに言われているのは成長した 竹の陰陽である、成長した竹に秘められている月日、歴数である、成長した 竹の世界である。成長した竹の仲間として世界諸処の覚者がある。覚者には 普遍の理法の月日が秘められている。知るべきである、天地は修竹の根茎枝葉に 秘められている月日である。こうしたことからこの成長した竹は、天地が 伸びて育ってゆく心の像を示している。成長した竹が大地に張る根や茎は 須弥山やそれを廻る大海を、尽十方世界を堅牢なものにしている。それは 柱杖や禅院での修行を指導する竹ひを喩として修行者の成長を示している。 芭蕉は根茎枝葉が地、水、火、風、空として示され、その花果光色は心、 意、識、智、彗の活力として示されていることから、秋風のままに秋風 を解脱する。解脱の相をすべて余さず、表現し尽くしている、その姿は まさにただ浄潔というばかりである。芭蕉に示される精神にこだわりはない、 顔料に含まれているような膠もその姿からは失われ、何物にも執着する 相がない。そのままに一塵もとどめぬ解脱の相が示されている。さらに経つ 時の速い遅いといった相にも無縁である、須ゆの間、わずかな時にも かかわることがない。この解脱の力量によって、地水火風の力を現し、 心意識智を透脱させている。こうした姿であることによって、芭蕉の 身辺には春夏秋冬が具わるものとされ四季を一挙に表現するものとして 画材に使われてきた。
2016年5月5日木曜日
有時、古鏡 の巻
宗門人、つまり特定の宗派に属する私には、道元禅師の曹洞宗でなくて佳かった、というのが現在の正直な感想である。禅師はあまりにも巨大であり、しかもその巨大さが著書として残っているからである。 イエス・キリストも釈尊も、自分ではものを書き残さなかった。そのことで、どれだけ後世の宗教者に地域や時に応じた自由な説法の余地が与えられたか、計り知れない。 宗祖の巨大さは組織そのものの成り立ちにも影響する。我が臨済宗が十四もの大本山が並立しているのと違い、曹洞宗には整然たる総本山制がある。それも道元禅師の巨大さのせいだろう。だから、かなりの違いでも家風として受け容れてしまう臨済宗と違い、おそらく私のようなはみだし者には住みにくかろうと思えるのだ。 しかし蘭渓道隆は「済洞(臨済と曹洞)を論ずることなかれ」と言った。道元禅師にもその心がある。私にとっても禅師は多くの教えをくださった偉大な祖師である。しかも私が禅師の宗門に属さなかったことで、その出逢いは却って鮮烈であったように思える。私だけでなく、おそらく人は義務で学ぶことより勝手に学んだことのほうが心に染みやすいのだろう。 最初の出逢いは耳からだった。まだ僧侶になるまえ。知人のお通夜で聴いた「修証義」のなんとリズミカルで緻密だったことか。むろんそれは禅師の著作そのものではないし、高校生くらいだった当時の私にどれだけ理解できたかも疑わしい。しかし確信に満ちたその口調と隙のない言語、そしてそこに鏤(ちりば)められた禅師の言葉の力は、故人を導く杖として相応しいような気がした。 愛語能く廻天の力あるを学すべきなり。それはお通夜から離れても忘れられない言葉になった。そして振り返って教科書に載っている禅師の肖像を見たが、精緻な思考を窺わせる眼光と意思の強そうな顎のラインがきわめて強い印象として迫った。 その後は折に触れて『正法眼蔵』を読んだ。ただ通読したことはないため、気がつくとどうしても似たような部分を読んでいる「坐禅儀」「現成公案」「渓声山色」「諸悪莫作」「虚空」「生死」などだが、最も頻繁に開いたのはやはり「有時(うじ)」だろう。 ハイデッガーの『存在と時間』も、道元禅師の「有時」も、理解できたとは思っていないが、それでも「有時」は短いこともあり、噛みしめるように繰り返し読んだ。そして「唯識」を学んでから読み返した最近になって、ようやく「有時」が臍(ほぞ)落ちした気がする。 客観的存在も客観的時間も存在せず、世界は吾有時(わがうじ)そのものであると禅師は云う。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり」 私は「有時」を理解するために、「物語」という言葉を使ってみた。 たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、「寝たときの今」と「起きたときの今」を「排列」してできた認識である。換言すれば「昨日寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした「物語」を産むことで時間をあらしめ、また自己存在を認識することになる。 むろん「排列」する際には省略も含む。たとえば「最近私はとても調子がわるい」という時間と自己を提出しようと思えば、たまたま調子がよかったことは全部省き、美味しかった夕食もはずし、面白かった映画や彼女との会話も削ぎ落としてようやく成立する「物語」なのだと知るべきだろう。つまりあらゆる時間もそこでの自己存在も、厳密な意味ではフィクションなのである。 過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでおり、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。この「経歴」こそ、「排列」からさらに複雑化した「物語」と云えるだろう。一つの「物語」を語るために、我々は無数の「有時」を如何様にもアレンジし、改変すると云うのだ。 痛快なことに、禅師は「修正」即ち悟りも一つの「物語」、「物語がないという物語」に過ぎないのだと喝破する。このときこそ明星が輝き、如来も出現する。しかし思弁的になりすぎないのが禅師の凄さだろう。結局「物語」を離れては生きられない我々のために、「住法位の活※ぱつぱつ地なる、これ有時なり」と、説示してくださる。これは私には、これまでのあらゆる時におけるあらゆる私(尽時の尽有)が、活発に活き活き溌剌してくるような己のあり方を模索せよ、と聞こえる。我々はどこまで行っても時間的存在であることを免れない。それならば、という懇切なる説諭である。しかし「尽時の尽有」を剰(あま)すところなく「究尽(ぐうじん)する」というのは、遥かな道である。 禅師の言葉のとおり、目の前の松も竹も、かつて見た山も海も、あらゆる体験「彼方にあるに似たれども而今(にこん)なり」である。それならば道元禅師もその著作も常に而今(たった今)にあると言わねばならない。我々はいつでも道元禅師に聴くことができるのである。 自力と他力について考えていた時もそうだった。一遍さんも「自力他力は初門のことなり」と言う。「往生と名づけ見性と云う、あに両般有らんや」とは白隠禅師。盤圭さんは「我宗は自力他力を越えた我宗でござる」と仰る。しかし私には、道元禅師の言葉が解りやすい。「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」この「現成公案」にある言葉こそ、自力から他力、迷いから悟りへの推移を語って余りあるように思えるのだ。 臨済は「黙照禅」と曹洞宗を貶し、曹洞は「看話禅」と言って臨済宗を貶した時代があった。しかし「只管打坐」をも巨大な公案として見れば、その違いは論ずるに足りないことではないだろうか? 我々の幸福は、白隠さんの機法と道元さんの誠実とを、共に而今にもつことである。所詮は人生という巨大な公案のまえで、我々は方便も用い、しかも根源を見据えて「未悟」のまま「有時」していくしかないのだろう。 こんなことを書くと、またすぐに禅師のお叱りを憶いだす。「おおよそ仏法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために説法することなかれ」(「深信因果」)そう言われると坊主も作家もやっていられなくなるが、しかし禅師は「半究尽の有時も、半有時の究尽なり」と言ってくださる。我々の中途半端なありようも、途中のありようとして認めてくださるのである。 むろん究極のあり方も、禅師ははっきりお示しになっている。 「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいゆくとき、ちからをもいれず、心をもついやさずして、生死をはなれて仏となる」(「生死」) 私もただその時を夢見て、排列したり尽力経歴したりしながら「有時」してゆこう。 有事の有は存在であり、時は時間である。 時間には客観的な時間と主観的な時間がある。 人はその思いによって、時間が長く思えたり、短くなったりすることを経験的に 知っている。 ⇒これはポジティブ心理でも重要な要素としてとらえている「フロー体験」である。 ここでいう有事の基本を考えることにより、フロー体験の心構えが見えてくる。 さらに、ここでは覚りや仏法にしろ、皆、時という中で、姿を現したものである。 もし、時間というものを考えなければ、海や山もその存在が確かめられない。 山や海、すべてが時の現した姿そのものである。 02 時は即ち存在であり、存在はみな時である。 今という時の一日について考えよ。三頭八ひの阿修羅像はそのまま現在の時である。 阿修羅の姿はそのまま時であるから今という眼前の一日と全く同じである。一日 二十四時間が長いか短いか広いか狭いか、きっぱり量りもせずに、人はこれを一日 と言っている。日常の一日が朝に来て、夜になれば去るはっきりしたものであるから 人はこれに疑いを持たず、しかし疑いを持たないからと言って知っている わけではない。 このように、人は見当がつかない諸所の物事にいちいち疑いを持つとは限らないから、 また疑いというものは対象を定まった像に結ぶことがないことによって「疑い」 であるから、本来はっきりとわからない状態の「疑う前」と疑いを持った今の 「疑い」とは必ずしも一致することがない。知っているようで実は知らない ということも、定まらないままの形相としてやはり時であるほかはない。 06 この一条の道理だけではすまない。いうところの山を登り河を渡ったとき、 その時に自分が存在していたのだから、その時の自分にはその時があった はずである。自分がその時に存在したのだから、その存在からその時は 離れることがないはずである。時というものが去来するものでないとして、 山に登った時は有事の今である、時というものが去来するものであるとして、 自分に有事の今がある、即ちそれぞれに有事である。有事は去来とは関係がない、 有事には間断がない。これが有事である。架の山に登り河を渡ったときは、 今の邸宅住いしている時を呑み込みもしないだろうし、吐き出しもしないだろう。 08 そうであるから、松も時である、竹も時である。時とは飛び去るものとだけ理解 してはならない、飛び去ることが時のはたらきとだけ考えてはいけない。 時というものがもし飛び去るだけであったなら、飛び去った跡に時ではない 隙間ができるはずだ。有事という真理に耳を傾けないのは、時とは過ぎ去る 者とだけ考えるからである。要をとっていえば、全世界にある処の全存在は 連なりながら時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって わが実存は時である。吾有事である。 (私というものが、本当にあるのか、あるいは時計の針で生きているのか、 内面的な感情で生きているのか、実感でいきているのか、そういうことを 考えること自体、すべて時の中にある。時という漠然としているように見えるけれど、 決して過ぎ去っていくものではない。宇宙とは永遠の今そのものだ。 自分もまた永遠の今そのものだ。そこのところを修行することによって、我々は 永遠の今という瞬間の中で、永遠そのものと合体し一致した体験を得ることが出来る。 そこに禅の極意がある。それが究極の覚り、即ち真理そのもである。) 18 山も時である、海も時である。時でないなら山も海も存在しない、普遍の理法 によって保持されている尽十方世界そのものの山海が今現在の時でないと 考えてはならない。時がもし壊れれば尽十方世界である山海も壊れる。時が もし壊れるものでないならば尽十方世界である山海も壊れることがない。 この道理により明星のように覚りは出現する。真理は出現する。仏道は 出現する。釈迦の伝法は出現する。これが時である。時の本質の現在化 でなかったならば、こうした出現はない。 ーーーーーー 古鏡 いったい、本当の自分は何かのか、を問うている。 鏡は人々に自分というものを自覚させ、反省させます。自分を意識する と当然、迷いが生じます。しかし、その迷いも、実は鏡というものの中、 鏡という自意識の中で起こっている。そう思うと、迷っている鏡そのものに 迷いはない。鏡そのものになりきってしまえば、その身心脱落したところには、 様々な悩みやこだわりが起こるわけだが、跡をとどめない。 禅の境地がそこにある。 これは、6つの美徳から24の自身の強みを見つけるというポジティブの肝心な 点でもある。己を理解しないと先へは進めない。 01 諸覚者諸仏祖が受け継ぎ伝えてきたのは古鏡である。古鏡は鏡を見る顔と 鏡の面に見られる顔とが同じであり、顔と鏡に映す顔とが等しい覚りの眼の 証である。古鏡には胡人が来れば胡人が現れ、数限りない人々が現れ、 漢人が来れば、漢人が現れ、一瞬も万年にわたる出来事も現れる。 古えには古えの世が現れ、今の時には今が現れ、覚者が来れば、覚者が 表れ、仏祖が来れば仏祖が現れる。古鏡は諸存在諸現象の実相空相のすべて を映すのだ。 07 この鏡には、「内外に曇りがない」というのは、見られるものがあるから 見るものがあるというのではない。内は曇っているが、外は怜悧だという のではない。この鏡の裏は表であり表は裏であり、表と裏はないのだ。 表裏とも同じ像を映す、映す心と映る目は相似である。相似というのは、 すべての人が普遍の存在であり平等であることと同じである。たとえ この鏡の内に映る像にも、心と眼があって、同じように見ることが出来る、 その両方に映る像は同じである。たとえこの鏡の外に映る像にも心と 眼があって、同じように見ることができる、その両方に映る像は同じである。 今この世に現前する諸所の因果現象は、鏡を見る眼、それを見る眼との間に 起こる現象に相似である。「同じように見ることが出来る」というのは、 我でなく、だれでもなく、これは「両人」が「両人」を見るのである、 鏡に見る自己と鏡を見る自己の両人が相似なのだ。彼も我という、 我も彼となるのだ。 |
添付ファイル |
梅花の巻
「いま開演する老梅樹、それ太無端なり、忽開華す、自結果す。あるひは春をなし、あ るひは冬をなす。あるひは狂風をなし、あるひは暴風をなす。あるひは衲僧の頂門なり 。あるひは古仏の眼睛なり。あるひは草木となれり、あるひは清香となれり」 「先師古仏、上堂示衆云く 瞿曇眼睛を打失する時 雪裏の梅華只一枝 而今到る処荊棘となる 却って笑う春秋の綾乱として吹くことを」(原漢文) 「いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨 風水、および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうぶらすといふことなし」 この巻は仁治四年つまり寛元元年十一月に書かれました。道元さまは師匠如浄禅師と 同じく梅の木やその華を愛されたことはその著述によっても知られるところであります 。山深い修行道場にあって、しかも辺り一面冬景色の中で、春の到来を予感させる一輪 の梅華は僧堂生活者にとってもこの上ない心の安らぎであったと想像されます。しかし ながらこの巻においては単に梅華の美しさ、気高さ、香りの良さを愛でるという単純な 意味ではなく、一輪の梅華を通じて悟りの世界を説かれるのであります。ここに引用い たしました一節は先師古仏天童如浄禅師の示された仲冬の一句を中心に梅華について説 いておられます。 この説の大意は 『いまここで老梅樹のことが開演説示されたのでありますが、老梅樹というものはさ まざまに変化、発展、展開し、はなはだ限界のない無端なものである。それは一元的に 考えるならばたとえば、急に華を咲かせたり、ひとりでに実を結んだりもする。ある場 合には春の情景をあらわし、ある場合には冬の情景を示すこともある。つまりそれらは 老梅樹の中に摂せられるのである。ある場合には狂風に吹かれ、ある場合には激しい雨 にも打たれる。ある場合には僧侶の丸い頭が通り、老梅樹の中に僧侶が摂せられるので ある。このようにすべてのものが老梅樹の無限の展開になるのである。これは古仏の眼 睛という立場によってものをあるがままに正しく見るならば、無端無限の展開において 、一元としての梅に春夏秋冬が摂せられ、あるいは草木が、あるいは清香が摂せられる 。それらはそれらのあるがままの姿において、またはたらきによってあるべきようにあ るのである。 先師天童古仏の示されるには、釈迦牟尼世尊が(眼睛を打失)つまり悟りを開かれ、 ものごとの真実を捉えられたとき、そして先師古仏にとりましても、一元の世界を展開 するには、その季節が幸いにも一面の銀世界であり、その中に雄々しくも、気高くも、 またけなげにも一本の老梅樹が、しかも一輪のみ華を開かせている。これを「雪裏の梅 華只一枝」と詠まれたのであります。無限に広がった銀世界の中に、只一枝の梅華が現 じ、逆に一枝の中に無限の世界が展開する。しかし世間にはこのような世界を見ること の出来ない人は多くいる。これを正しいものの見方に転じて、春綾乱とした世界の展開 を願いたいものである。そのようになれば「いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる 、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水、および草木昆虫にいたるまでも、法益を かうぶらずといふことなし」となるのであります。古仏の法輪とは如浄禅師の示衆の一 句のことであり、人間は悟りを得るとき、全世界が得道の時節となるのであり、悟りの 世界に一元化されるのであって、雲雨風水、および草木昆虫にいたるまでも法益に与る のである』これがこの節の大意であり、雪中に咲く一輪の梅華に託して真如の世界を道 元さまが説かれたのであります。一人成仏悉皆成仏の境涯であります。 01 仲冬の第一句を示す。 瑳ささたり牙牙たり老梅樹、 忽ち開花す一花両花 三四五花無数花。 清誇るべからず、香誇るべからず。 散じては春の容を作なして草木を吹く、 なつ僧個々頂門禿かぶろなり。 まくさちに変怪する狂風暴雨、乃至大地に交みちみてる雪漫々たり。 老梅樹、はなはだ無端なり、寒凍摩もさとして鼻孔酢し。 老梅樹は角立ち屈曲し、 一花二花と花を開く、 さらに三花四花五花と、いや無数の花を開く。 その清らかさを誇ることなく、 その香りを誇ることもない。 繚乱とした老梅樹の姿は、 春の息吹を草木に吹きかけ、 禅僧たちの禿げ頭にも春風をそよがせる。 突として春風はにわかに狂風暴雨と変わり、 大地に滔々と降って雪漫々となる。 老梅樹の活動は、まことに思いがけないものだ、 凍った鼻に清らかな香りが甘酸っぱい。 、、、変転する老梅樹の容姿によって古仏の本質が見事に言い表されている。 04 先師古仏は上堂して衆に示した。 く曇、眼晴を打失するとき、雪裏の梅花ただ一枝なり。 而今到処に荊棘を成す、却って春風の繚乱と吹くを笑う。 (釈迦が目を閉じるとき、 雪の中に梅花が只一枝咲いている。 今到る処、荊いばらを成している。 雪の中の梅花は、 却って繚乱と春風に吹かれて笑って咲いている。 13 三花四花五花六花の中とは、無数の花の中である。 宇宙は無数の花々に覆われ、処々の現象は花の中に包まれているのだ。 このように、花には、内なる本性が深く広く具わり、外に表れる 本性も高大であることを開明している。花の表裏は、それぞれの 花が発するところである。しかし、只一枝と示されていることから、仏教が どのように広まろうと、異なる枝はなく、異なる種類もないことが示される。 一枝が現成する時処を今というのであって、それは時間空間を 超える釈迦の教えである。釈迦の教えは只一枝であることから、嫡嫡と 伝えられるのである。 |
添付ファイル |
弁道話
この「弁道話」の巻は、「正法眼蔵」九十五巻本の一番最初に載せるのが最も適切だと
考えられているように、非常にわかりやすくて、仏教というものがどういうものかとい
う事を、きわめて具体的に書いてあります。だから最初にやる「巻」としては適切な「
巻」という事になるわけです。道元禅師は「功夫弁道」という言葉を、「正法眼蔵」の
中でもよく使われます。「功夫弁道」とは、努力する、釈尊の教えを一所懸命勉強する
という意味ですが、
具体的には「弁道」という言葉で「坐禅」という事を意味している。
だから、この弁道話と言うのは、坐禅についての説明という意味にとって
差し支えない。
この巻は寛喜三年(一二三一)道元さまが宋の国から帰国されて間もない、まだ深草の
安養院に偶居されていた頃に書かれた巻であります。この巻は最初は正法眼蔵に組み込
まれていなかったのであり、後江戸中期京都の公家の屋敷より発見されたものでありま
す。しかし、その内容は正法眼蔵の中でも現成公案の巻、佛性の巻と並んで、道元さま
の教えを伝える大変重要な巻であります。なおその時道元さまは三十一歳でありました
。道元さまはその教えを日本に広めようと決意され、日本における曹洞宗立教開宗の宣
言書というべきがこの「弁道話」であります。
ここに紹介いたしました一節は佛教の根本である悟りと坐禅との関係について説かれ
たものであります。そして悟りを得る最上の方法について説かれ、端坐参禅こそ、その
妙術であると説いておられます。それは、「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿ノク
菩提を証するに、最上無為の妙術あり。・・すなわち自受用三昧、その標準なり。・・
端坐参禅を正門とせり。この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ
修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」であります。
この悟りを得るとは仏智を得ることでありまして、仏智には四つの智慧があります。
それは
大円鏡智(鏡の如き明鏡止水の智慧)
平等性智(だれにも等しく与えられる平等の慈悲の智慧)
妙観察智(真理を正しく観察する智慧)
成所作智(一切の日常の行為が仏行となる智慧)
であります。その阿ノク菩提すなわち悟証とは自受用三昧でなければなりません。
自受用三昧とは悟りを自ら悟証すること、つまり自らそれを受用し体験し体現
することであります。
つまりお釈迦さまから嫡々相承された正伝の仏法・悟りの世界
を自己の生活の全てに実践体現することであります。
そして道元さまはそれを体験し体現し体顕する正門は坐禅であると説かれました。
悟りの世界とは特別なものではなく、天地自然、有情非情の万物が有るべきように、
有るべきところにあることであり、それを神ともいい佛ともいうのであります。
つまり人類共有の世界であります。
そして一時なりとも三昧に端坐するとき、遍法界、尽虚空、この世の世界が全て佛印
つまり悟りの世界、真如を現すというのであります。
只管打坐・ひたすらに坐るとき自己が無限に関連する絶対的世界の中に溶け込み、
融合して自他の境界が無くなり侵すものも侵されるものも無くなり、あらゆる世界が
時間も空間も悟りの世界として見直されるのであります。
そのとき逆に「このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事をなすをもて、
そのおこすところの風水の利益にあずかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に
冥資せられてちかきさとりをあらわす。」となり、悟りの世界が自己を包み込む
のであります。これが坐禅の功徳であります。
ーーーーーーー
禅としての基本である「脚下を照顧せよ」はここでいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。
⇒ポジティブでも、生活行動のすべてが自身のポジティブアップにつながると考えてい
る。
弁道話(はんとうわ)
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿のく菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これただ、ほとけ仏にさずけてよこしまなることなきは、すなわち自受三昧、
その標準也。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
01
諸諸の仏祖には、みな方便によらぬ法が具わっており、無上の覚りを明らめるに
あたって、作為にわたらぬ最も優れた妙術がある。人は人それぞれでありながら、
この妙術が、仏祖から仏祖に授け伝えられて誤ることがないのは、それが
ただただ己が受用し一人一人が己の煩悩から開放してゆくことに、準拠
しているからである。
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。
06
仏法を正しく伝える宗門では、仏法が各々の資質のままに実現する誤りのない座禅修行
こそ、最上の中の最上であるとして、修行者が初めて師に参じたときから、焼香、
礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、ただひたすら打坐して心身脱落することを
得よと教えるのである。
12
ただまさに知るべきである。七仏から伝えられた坐禅という妙法は、得道しこころの
明らかな宗師に、その心に通じ仏法を会得した学人が従って正伝すれば、嫡々の宗旨
はかくれもなく受持されるのである。それは文字法師の知識が及ぶものではない。
このようであるから、徒らに疑い迷うことことをやめて、正師の教えによって
坐禅に努めて、諸仏の自受三昧を身につけるべきである。
13
われわれにはもともと無上の覚りがかけているのではない。それは常に己自身
に具わっているのであるが、まともに体験されず身心によって承認し得ない
ところから、みだりに知的な認識や観察的な知識を用いることが習慣となっており、
このような己の知覚が作ったものを追いかけることから、真の覚りをうっかり
と見逃しているのである。このような主観と客観の入り混じる知見によって、空花
はいく通りにも表れるのである。それをあるいは無明、行識、名色、六処、
触、受、愛、取、有、生、老、死の十二の因縁による輪廻転生だと思い、欲界
の四悪趣、須弥四州、六欲天、色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、無色界
の四空処天など、二十五有の境界だと考えるのだが、これは覚りではなく、声聞、
縁覚、菩薩、人、天の三乗とか五乗とか、仏は有であるか仏は無であるかなどと
処々の見解は尽きることがないのである。このような知識を習うことが、仏法
修行の正道と思ってはならないのだ。しかるに、いまやまさしく仏印によって
万事を放下し、ひたむきに坐禅するとき、迷いとか悟りとか情識によって量ろうと
する辺際を離れて、凡聖の別にかかわらず、何らの規格をも超越した世界に逍遥
して、大いなる覚りを受用するのである。それは方便にすぎない文字の中に
拘っている者たちが、参入し得ないところである。
14
問うていう。戒、定、彗の3学のなかに、心身を静かに乱れぬようにする定学
があり、布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧の六波羅蜜のなかに、静熟という覚り
の彼岸に至る禅の行がある。これらはともに一切の修行者が初心から学ぶところで
あって、利鈍の別なく修行するものである。今続いている坐禅もその1つであろうが、
しかるにどうして、この坐禅だけに仏の正法が集中しているのか>
知るべきである。坐禅は覚りでも智慧でもなく、坐禅の協会はすなわちそのまま仏法界
であり、仏法のかけるところのない全道であって、これに並びうるものはない。
16
この坐禅の行はまだ仏法を体得していないものは、座禅修行することによってその
証を体得するのであろう。だが、すでに仏正法を明らめ得た人は、もはや坐禅に
何の期待するところがあるのだろう。
答えて言う、愚かな者には何を語ってもしかたがない、山人の手に船の棹を
与えても用いることはできないようなものであるが、さらに教えを示そう。
すなわち、修行と覚りとは一如でないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。常に初心の覚り
があって上での修行であるから、初心の座禅修行はそのまま本証の全体なのだ。
このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほかに
覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行による
他はない明証であるから、その悟りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での
修行であるから、すでに仏道修行に入ったもの者には初心というものでは
ないのである。
⇒「無明、行識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老、死」十二の因縁。
欲界の四悪趣、須弥四州、六欲天、
色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、
無色界の四空処天など、
二十五有の境界だと考える」
十二支縁起の要素
・無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が
無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
・行(ぎょう、巴: sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。物事がそのようになる
・力=業識(しき、巴: vi????a, 梵: vij??na) - 識別作用=好き嫌い、選別、
差別の元
・名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、そ
の名前
・六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。
・眼耳鼻舌身意触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受
対象が触れること。外界との接触。
・受(じゅ、vedan?) - 感受作用。六処、触による感受。
・愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。
・取(しゅ、up?d?na) - 執着。
・有(う、bhava) - 存在。生存。
・生(しょう、j?ti) - 生まれること。
・老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。
http://enjoy.pial.jp/~esmusssein/butu_utyuu.html
輪廻とは,「1.宇宙の形態的構成」で示したように,有情と,有情のカルマによって
形成される自然界の両者が,このようなとめどのない生成と消滅を繰り返している様を
いう。
六道とは,地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界・天界の六つの世界をいう。
地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界の五悪趣は,欲界のみに属する。
天界は欲界・色界・無色界のものがある。
有情のカルマの色調には六つのタイプがあり,これら六つの世界はそれぞれの
タイプのカルマが生み出す世界である。
ポジティブの6つの美徳と24の構成項目について、比較すると面白い。
6つの美徳には、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
そして、この美徳を構成しているものが以下の24項目となり、個人の性格
の強みとなる。
セリグマンの「世界で1つだけの幸せ」から自分の強みを見つけて欲しい。
1.知恵と知識
①好奇心と関心
・常に世界に対する好奇心を持っている。
・直ぐに退屈してしまう。
②学習意欲
・何か新しい事を学ぶとわくわくする。
・わざわざ博物館や教育関連の施設などに出かけたりはしない。
③判断力、批判的思考、偏見のなさ
・話題に対してきわめて理性的な考え方が出来る。
・即断する傾向にある。
④独創性、創意工夫
・新しいやり方を考えるのが好きだ。
・友人のほとんどは自分より想像力に富んでいる。
⑤社会的な知性、個人的知性
・どんな社会的状況でも適応する事が出来る。
・他の人が何を感じているかをさっちするのは余り得意ではない。
⑥将来の見通し
・常に物事を見て全体を理解する事が出来る。
・他人が自分にアドバイスを求める事はめったにない。
2.勇気
⑦武勇と勇敢さ
・強い反対意見にも立ち向かう事がよくある。
・苦痛や失望にくじけてしまうことがよくある。
⑧勤勉、粘り強さ、継続的努力
・やりはじめたことは必ずやり終える。
・仕事中に横道にそれる。
⑨誠実、純粋、正直
・約束は必ず守る。
・友達から「地に足がついている」といわれた事がない。
3.人間性と愛情
⑩思いやりと寛大さ
・この1ヶ月間に自発的に身近な人の手助けをした。
・他人の幸せに自分の幸せと同じくらい興奮する事はめったにない。
⑪愛する事と愛される事
・私には、自分のこと以上に、私の感情や健康を気遣ってくれる人がいる。
・他の人からの愛情をうまく受け入れられない。
⑫協調性、義務感、チームワーク、忠誠心
・グループの中にいるときが一番良い仕事ができる。
・所属するグループの利益のために自己の利益を犠牲にすることには抵抗がある。
4.正義
⑬公平さと公正さ
・その人がどんな人であろうと全ての人を公平に扱う。
・好ましく思わない人の場合、その人を公平にあつかうことは難しい。
⑭リーダーシップ
・口うるさくすることなく、いつでも人々に共同で何かをさせることが出来る。
・グループ活動を企画するのは余り得意ではない。
5.節度
⑮自制心
・自分の感情をコントロールできる。
・ダイエットは続いたことがない。
⑯慎重さ、思慮深さ、注意深さ
・肉体的な危険をともなう活動は避ける。
・友人関係や人間関係で、ときどき不適切な選択をしてしまう。
⑰謙虚さと慎み深さ
・人が自分の事をほめると話題を変える。
・自分の業績についてよく人に語る。
6.精神性と超越性
⑱審美眼
・ここ1ヶ月間に音楽、美術、演劇、映画、スポーツ、科学、数学など
の素晴らしさに打たれたことがある。
・この1年間美しいものを創り出していない。
⑲感謝の念
・どんなささいなことであっても、必ず「ありがとう」と言う。
・自分が人より幸福であると思うことがめったにない。
⑳希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
・物事をいつも良いほうに考える。
・やりたいことのために、ジックリ計画を立てることなどめったにない。
21)精神性、目的意識、信念、信仰
・私の人生には強い目的がある。
・人生における使命はない。
22)寛容さと慈悲深さ
・いつも過ぎたことは水に流す。
・いつも相手と五分になろうとする。
23)ユーモアと陽気さ
・いつも可能なかぎり仕事と遊びを織り交ぜている。
・面白い事はめったに言わない。
24)熱意、情熱、意気込み
・やることは全てにのめりこむ。
・塞ぎこむ事が多い。
16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほか
に覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは、
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行によるほかは、
ない明証であるから、その覚りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での修行
であるから、すでに仏法修行に入ったものには初心というものはないのである。
ーーーーー
『弁道話』18の問答から考える曹洞宗の坐禅の特徴について
2013-06-12 21:41:21 | 坐禅
とある筋から、「曹洞宗の坐禅の特徴」について教えて欲しいという依頼を受けた。ま
ぁ、色々と参考書などもあるけれども、やはり我々としては、実質的に曹洞宗の立教開
宗の宣言書となった、道元禅師『弁道話』から見て行くのが良いだろう、というので、
それを参考にして検討していきたい。
なお、『弁道話』とは、それまでも『普勧坐禅儀』などを著しておられた道元禅師にと
って、最初の体系的な著作であり、寛喜3年(1231)8月に書かれたとされる。面山瑞方
禅師『正法眼蔵聞解』では、深草の「安養院」に閑居しておられたときだと推定されて
いるけれども、道元禅師の自署からはそれは確認できない。
内容的には、冒頭から自受用三昧との関連で、坐禅が正伝の仏法であることを示す内容
ではあるし、後には『正法眼蔵自受用三昧』として読誦される「坐禅の功徳」を説く箇
所もあるけれども、本論では、中~後半にかけて示されている、「18の問答」から、
道元禅師が示された「正伝の仏法」としての坐禅の特徴を考えてみたい。なお、各問答
は問いの概要を現代語訳し、更に、その回答は拙僧からの解説も加えて申し上げる。一
例として、原文を挙げておく。
おろかならん人、うたがふていはむ、仏法におほくの門あり、なにをもてかひへに坐
禅をすすむるや。
しめしていはく、これ仏法の正門なるをもてなり。
第1問答
このようにあって、道元禅師の文体に慣れている人なら、むしろ他の『正法眼蔵』諸巻
よりも分かりやすいはずだが、ここでは敢えて拙僧訳として以下に申し上げたい。
問1:仏法には多くの修行法があるのに、坐禅だけ取り上げるのは何故か?
答1:坐禅が仏法に入る正しき門だからである。
問2:坐禅だけが正伝の仏法に入る正しき門となるのは何故か?
答2:大師釈尊は、得道するための優れた方法を正伝され、また三世の如来もともに坐
禅によって仏道を得られた。だからこそ、正しき門であることを伝えるのである。それ
のみではなく、インド・中国の祖師たちも、坐禅によって仏道を得られた。だからこそ
、その正しき門を、人間界・天上界に示すのである。
問3:我々凡夫は祖師が行ってきた修行など知りようもない。であれば、経を読み念仏
する方がまだ効き目がありそうだ。坐禅をしても虚しいだけではないか?
答3:そなたは、諸仏の三昧、この上ない大いなる仏法である坐禅を、虚しく坐るだけ
だと思っているが、これは大乗の教えを誹謗する人である。既に、坐禅する人は諸仏の
自受用三昧の中に坐っているのだから、それを虚しいというのは、海の中にいながら、
水がないというようなものである。諸仏の境界とは、我々の思慮には捉えられず、ただ
、正しく信じる者のみが、能くそれに入るのである。また、これまでの仏祖が坐禅によ
って仏道を得られた事実を思えば、読経や念仏を暇無く称えることこそ功徳が無いと考
えるべきである。
問4:法華宗や華厳宗、そして真言宗などはそれぞれに素晴らしいが、即心是仏の禅宗
がそれより優れているとするのは何故か?
答4:仏教では、教えの優劣を論じたり、法の浅深を考えるのではなく、修行の真偽を
知るべきである。即心即仏や即坐成仏というのは、言葉は巧みだが、真実ではない。今
は、直ちに菩提をさとる修行を勧めて、仏祖がひとえに伝えてきた素晴らしき方法を示
し、真実の仏道人になってもらおうと思っている。そのためにも、仏法を伝授するなら
ば、必ずさとりに契った人を師匠とすべきである。我々には元から、悟りが欠けている
わけではないが、自分で納得して用いることがないから、誤るのである。
問5:三学(戒・定・慧)の定学、六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)でし
かない坐禅が如来の正法を集めるのは何故か?
答6これは、如来のこの上ない正法眼蔵を、禅宗と名づけるから、こういう問いをして
しまうのだ。禅宗とは中国から起きた名前であり、インドには存在しない。達磨大師が
中国に来て、少林寺で面壁九年した様子を、坐禅を拠り所とする宗派だと勘違いして、
坐禅宗と名づけ、坐が取れて禅宗となった。だが、この達磨の坐禅は、「六波羅蜜」や
「三学」の禅定として考えてはならない。釈迦如来が摩訶迦葉尊者に付属した正法眼蔵
涅槃妙心なのであり、「仏法の全道」であるから、他と比べてはならないのである。
問6:仏家には四威儀(行住坐臥)があるが、その内の1つでしかない坐禅を勧めるの
は何故か?
答6:昔からの諸仏が、相伝えた、修行し仏道をさとる道が坐禅であるから、究めるこ
とは難しい。ただ、これまでの仏教者が用いた理由のみを知るべきであろう。これまで
の祖師が褒めていうには、「坐禅はつまりは、安楽の法門である」という。「四威儀」
の中でもっとも安楽なのである。
問7:坐禅とは悟りを得るための修行であるはずだが、すでに仏の正法を得たものは何
を待って坐禅するのか?
答7:この問いは、修証が一つではないと考えた、仏道以外の見解である。仏法では修
証は一等である。よって、初心者の修行であっても、本より具わるさとりの全体が現れ
るのである。よって、修行の用心を授ける時には、修行の外にさとりを待ってはならな
いと教えるのである。仏道修行を始めたばかりか、長じているか、凡人か聖人かを問わ
ず、坐禅を努めるべきだと勧める。
※ここで道元禅師は、「証上の修」「本証妙修」を説かれる。前者は、「一切の修行は
さとりの上にあること」を意味し、後者は盛んなる修行によって、「本から具わりたる
さとりを証し、それによってさとりと一体となった優れた修行を行うこと」を意味する
。
※また、中国の状況を示し、大寺院では坐禅堂を構え、数百人から1000人を超える
ような僧侶がともに日夜坐禅を行っていたと伝える。
問8:これまでにも多くの祖師が中国に行って教えを伝えたが、正法は伝えなかった。
それらの祖師が正法をさしおいて教えを伝えたのは何故か?
答8:昔の祖師(天台宗や真言宗、或いは、奈良仏教の祖師)、正法としての坐禅を伝
えなかったのは、時節が至らなかったためである。
問9:これまでの祖師は、正法を会得していたのだろうか?
答9:会得していたのであれば、通じていたはずである。
問10:坐禅に直接関係が無いので、割愛。
問11:坐禅をする者は戒律も守るべきか?
答11:持戒し、良い修行を行うことは、禅門にとっての規範であり、仏祖が家風とし
てきたことである。
問12:坐禅をする者は真言や止観をも兼ね修めることに妨げはあるか?
答12:中国にいた時、優れた師匠に真実の教えを聞いたのだが、インド・中国では、
古今、仏のさとりを正しく伝えた祖師は誰しも、そのような他の修行を兼ねて修めたと
はしていなかった。
※ここは、いわゆる「只管打坐」の教えも合わせて見ていくべきである。『弁道話』で
は前半に、以下のように説かれている。「只管打坐」とはないが、『正法眼蔵』の他の
巻では後半の「ただし打坐して」が、「只管(祗管)に打坐して」となる。
宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじ
めより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落す
ることをえよ。
『弁道話』
問13:坐禅とは、在俗の男女も行うべきだろうか?出家者だけが行うべきだろうか?
答13:祖師がいうには、仏法を会得するのに、男性・女性、その身分の違いなどを考
える必要は無いと聞いている。
問14:出家者が集中的に坐禅するのは可能だが、在俗でわずらわしい世事に関わる者
がひとすじに修行することなど可能だろうか?
答14:仏祖は慈悲の心をもって、坐禅という広大なる門を開いてくださった。これは
、一切の衆生を入れるためである。そして、中国の代宗や順宗という(唐の時代の)皇
帝は、非常に忙しい様子であったが、坐禅修行して、仏祖の教えを会得された。その臣
下の者も同じである。これはただ、「志があるか、ないか」による。その身が在家か出
家かには関わらない。なお、世間的な仕事は仏法を妨げると思っている者は、世間の中
に仏法がないとのみ知って、仏法中に世間的な法が無いと知らないのである。
問15:坐禅修行によってであれば、この末法の世であっても正法を得ることが出来る
のだろうか?
答15:大乗の真実の教えでは、正・像・末法と三時を分けることはなく、修行すれば
皆、仏道を得るという。ましてや、この仏祖がひとえに伝えてきた正法では、その法に
おいて自由自在に振る舞うことは、自らが持っている家宝(である仏性)を用いるだけ
である。
問16:即心是仏の教えを理解すれば、我々がまさに悟りの存在であることが分かるの
だから、坐禅など不要ではないか?
答16:この言葉がもっとも儚い問いかけである。仏法とは自他の見解を止めて学ぶべ
きである。自己がつまりは仏であると知ったからといって、仏道を得たと理解するだけ
ならば、釈迦牟尼仏は昔、人びとを導くような煩わしいことはしなかったのだ。
※ここで、道元禅師は法眼文益と報恩玄則との問答を挿入する。
明らかに知るべきであるが、自己がつまりは仏であると理解しただけで、仏法を知る
とはいわないのである。ただ、初めて善知識(=指導者)を見たのなら、修行の方法を
詳しく聞いて、ひたすらに坐禅修行して、余計な想いを心に留めてはならない。
問17:中国やインドでは、さまざまな因縁によって悟りを開いた者がいるが、それは
坐禅修行と関係ないのではないか?
答17:古来より景色を見て仏心を明らかにし、音を聞いて仏道を悟った者は、ともに
修行にまごつくことはなく、まさにその身をもって会得した。
問18:インドや中国の人は、非常に性格が優れているが、我が日本人は性格の劣った
者が多い。そのような者が坐禅して悟りを開くことなど出来るのだろうか?
答18:確かにその通りで、日本の人びとは未だに、仁や智に通じておらず、教えを伝
えようとしても、曲げて受け取ってしまい、甘露がかえって毒となることもある。名利
心が強く、惑いを解くことは難しい。しかし、仏法に入ることとは、人間界の世俗的な
知恵を元に行うことではない。ただ正信にたすけられるものなのだ。また、仏陀の教え
は世界各地に広まったが、その先の人びと全てが、優れていたわけではない。如来の正
しき教えは、我々には理解し難い大いなる功徳の力を持っているのである。正しき信心
をもって修行すれば、才覚・能力の有無に関わらず、等しく仏道を得るのである。人は
、仏の智慧の種が豊かに具わっている。ただ、自らのものとして用いていないだけなの
だ。
以上である。ここから、曹洞宗の坐禅のアウトラインを知ることが出来ると思われる。
修証観や、只管打坐の教えなどが既に十分に見えていることも理解できるだろう。また
、修証観は、「修証一等」そしてそれを押し進めた「本証妙修」へと至るわけだが、「
修証一等」であるために、坐禅がさとりへの「限定的手段化」をすることを否定してい
る。六度・三学の一として捉えることの否定は、その好例である。
また、『弁道話』の段階では、性別や立場など関わりなく、誰でも坐禅すれば得道する
という考えであった。ただ、これは晩年に近づくと、ずいぶんと変容して、出家のみに
それが認められるようになる。そういう状況なども含め、道元禅師が若い頃、坐禅をど
う考えておられたかが、良く分かる内容であった。
考えられているように、非常にわかりやすくて、仏教というものがどういうものかとい
う事を、きわめて具体的に書いてあります。だから最初にやる「巻」としては適切な「
巻」という事になるわけです。道元禅師は「功夫弁道」という言葉を、「正法眼蔵」の
中でもよく使われます。「功夫弁道」とは、努力する、釈尊の教えを一所懸命勉強する
という意味ですが、
具体的には「弁道」という言葉で「坐禅」という事を意味している。
だから、この弁道話と言うのは、坐禅についての説明という意味にとって
差し支えない。
この巻は寛喜三年(一二三一)道元さまが宋の国から帰国されて間もない、まだ深草の
安養院に偶居されていた頃に書かれた巻であります。この巻は最初は正法眼蔵に組み込
まれていなかったのであり、後江戸中期京都の公家の屋敷より発見されたものでありま
す。しかし、その内容は正法眼蔵の中でも現成公案の巻、佛性の巻と並んで、道元さま
の教えを伝える大変重要な巻であります。なおその時道元さまは三十一歳でありました
。道元さまはその教えを日本に広めようと決意され、日本における曹洞宗立教開宗の宣
言書というべきがこの「弁道話」であります。
ここに紹介いたしました一節は佛教の根本である悟りと坐禅との関係について説かれ
たものであります。そして悟りを得る最上の方法について説かれ、端坐参禅こそ、その
妙術であると説いておられます。それは、「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿ノク
菩提を証するに、最上無為の妙術あり。・・すなわち自受用三昧、その標準なり。・・
端坐参禅を正門とせり。この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ
修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」であります。
この悟りを得るとは仏智を得ることでありまして、仏智には四つの智慧があります。
それは
大円鏡智(鏡の如き明鏡止水の智慧)
平等性智(だれにも等しく与えられる平等の慈悲の智慧)
妙観察智(真理を正しく観察する智慧)
成所作智(一切の日常の行為が仏行となる智慧)
であります。その阿ノク菩提すなわち悟証とは自受用三昧でなければなりません。
自受用三昧とは悟りを自ら悟証すること、つまり自らそれを受用し体験し体現
することであります。
つまりお釈迦さまから嫡々相承された正伝の仏法・悟りの世界
を自己の生活の全てに実践体現することであります。
そして道元さまはそれを体験し体現し体顕する正門は坐禅であると説かれました。
悟りの世界とは特別なものではなく、天地自然、有情非情の万物が有るべきように、
有るべきところにあることであり、それを神ともいい佛ともいうのであります。
つまり人類共有の世界であります。
そして一時なりとも三昧に端坐するとき、遍法界、尽虚空、この世の世界が全て佛印
つまり悟りの世界、真如を現すというのであります。
只管打坐・ひたすらに坐るとき自己が無限に関連する絶対的世界の中に溶け込み、
融合して自他の境界が無くなり侵すものも侵されるものも無くなり、あらゆる世界が
時間も空間も悟りの世界として見直されるのであります。
そのとき逆に「このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事をなすをもて、
そのおこすところの風水の利益にあずかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に
冥資せられてちかきさとりをあらわす。」となり、悟りの世界が自己を包み込む
のであります。これが坐禅の功徳であります。
ーーーーーーー
禅としての基本である「脚下を照顧せよ」はここでいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。
⇒ポジティブでも、生活行動のすべてが自身のポジティブアップにつながると考えてい
る。
弁道話(はんとうわ)
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿のく菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これただ、ほとけ仏にさずけてよこしまなることなきは、すなわち自受三昧、
その標準也。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
01
諸諸の仏祖には、みな方便によらぬ法が具わっており、無上の覚りを明らめるに
あたって、作為にわたらぬ最も優れた妙術がある。人は人それぞれでありながら、
この妙術が、仏祖から仏祖に授け伝えられて誤ることがないのは、それが
ただただ己が受用し一人一人が己の煩悩から開放してゆくことに、準拠
しているからである。
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。
06
仏法を正しく伝える宗門では、仏法が各々の資質のままに実現する誤りのない座禅修行
こそ、最上の中の最上であるとして、修行者が初めて師に参じたときから、焼香、
礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、ただひたすら打坐して心身脱落することを
得よと教えるのである。
12
ただまさに知るべきである。七仏から伝えられた坐禅という妙法は、得道しこころの
明らかな宗師に、その心に通じ仏法を会得した学人が従って正伝すれば、嫡々の宗旨
はかくれもなく受持されるのである。それは文字法師の知識が及ぶものではない。
このようであるから、徒らに疑い迷うことことをやめて、正師の教えによって
坐禅に努めて、諸仏の自受三昧を身につけるべきである。
13
われわれにはもともと無上の覚りがかけているのではない。それは常に己自身
に具わっているのであるが、まともに体験されず身心によって承認し得ない
ところから、みだりに知的な認識や観察的な知識を用いることが習慣となっており、
このような己の知覚が作ったものを追いかけることから、真の覚りをうっかり
と見逃しているのである。このような主観と客観の入り混じる知見によって、空花
はいく通りにも表れるのである。それをあるいは無明、行識、名色、六処、
触、受、愛、取、有、生、老、死の十二の因縁による輪廻転生だと思い、欲界
の四悪趣、須弥四州、六欲天、色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、無色界
の四空処天など、二十五有の境界だと考えるのだが、これは覚りではなく、声聞、
縁覚、菩薩、人、天の三乗とか五乗とか、仏は有であるか仏は無であるかなどと
処々の見解は尽きることがないのである。このような知識を習うことが、仏法
修行の正道と思ってはならないのだ。しかるに、いまやまさしく仏印によって
万事を放下し、ひたむきに坐禅するとき、迷いとか悟りとか情識によって量ろうと
する辺際を離れて、凡聖の別にかかわらず、何らの規格をも超越した世界に逍遥
して、大いなる覚りを受用するのである。それは方便にすぎない文字の中に
拘っている者たちが、参入し得ないところである。
14
問うていう。戒、定、彗の3学のなかに、心身を静かに乱れぬようにする定学
があり、布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧の六波羅蜜のなかに、静熟という覚り
の彼岸に至る禅の行がある。これらはともに一切の修行者が初心から学ぶところで
あって、利鈍の別なく修行するものである。今続いている坐禅もその1つであろうが、
しかるにどうして、この坐禅だけに仏の正法が集中しているのか>
知るべきである。坐禅は覚りでも智慧でもなく、坐禅の協会はすなわちそのまま仏法界
であり、仏法のかけるところのない全道であって、これに並びうるものはない。
16
この坐禅の行はまだ仏法を体得していないものは、座禅修行することによってその
証を体得するのであろう。だが、すでに仏正法を明らめ得た人は、もはや坐禅に
何の期待するところがあるのだろう。
答えて言う、愚かな者には何を語ってもしかたがない、山人の手に船の棹を
与えても用いることはできないようなものであるが、さらに教えを示そう。
すなわち、修行と覚りとは一如でないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。常に初心の覚り
があって上での修行であるから、初心の座禅修行はそのまま本証の全体なのだ。
このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほかに
覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行による
他はない明証であるから、その悟りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での
修行であるから、すでに仏道修行に入ったもの者には初心というものでは
ないのである。
⇒「無明、行識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老、死」十二の因縁。
欲界の四悪趣、須弥四州、六欲天、
色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、
無色界の四空処天など、
二十五有の境界だと考える」
十二支縁起の要素
・無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が
無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
・行(ぎょう、巴: sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。物事がそのようになる
・力=業識(しき、巴: vi????a, 梵: vij??na) - 識別作用=好き嫌い、選別、
差別の元
・名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、そ
の名前
・六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。
・眼耳鼻舌身意触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受
対象が触れること。外界との接触。
・受(じゅ、vedan?) - 感受作用。六処、触による感受。
・愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。
・取(しゅ、up?d?na) - 執着。
・有(う、bhava) - 存在。生存。
・生(しょう、j?ti) - 生まれること。
・老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。
http://enjoy.pial.jp/~esmusssein/butu_utyuu.html
輪廻とは,「1.宇宙の形態的構成」で示したように,有情と,有情のカルマによって
形成される自然界の両者が,このようなとめどのない生成と消滅を繰り返している様を
いう。
六道とは,地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界・天界の六つの世界をいう。
地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界の五悪趣は,欲界のみに属する。
天界は欲界・色界・無色界のものがある。
有情のカルマの色調には六つのタイプがあり,これら六つの世界はそれぞれの
タイプのカルマが生み出す世界である。
ポジティブの6つの美徳と24の構成項目について、比較すると面白い。
6つの美徳には、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
そして、この美徳を構成しているものが以下の24項目となり、個人の性格
の強みとなる。
セリグマンの「世界で1つだけの幸せ」から自分の強みを見つけて欲しい。
1.知恵と知識
①好奇心と関心
・常に世界に対する好奇心を持っている。
・直ぐに退屈してしまう。
②学習意欲
・何か新しい事を学ぶとわくわくする。
・わざわざ博物館や教育関連の施設などに出かけたりはしない。
③判断力、批判的思考、偏見のなさ
・話題に対してきわめて理性的な考え方が出来る。
・即断する傾向にある。
④独創性、創意工夫
・新しいやり方を考えるのが好きだ。
・友人のほとんどは自分より想像力に富んでいる。
⑤社会的な知性、個人的知性
・どんな社会的状況でも適応する事が出来る。
・他の人が何を感じているかをさっちするのは余り得意ではない。
⑥将来の見通し
・常に物事を見て全体を理解する事が出来る。
・他人が自分にアドバイスを求める事はめったにない。
2.勇気
⑦武勇と勇敢さ
・強い反対意見にも立ち向かう事がよくある。
・苦痛や失望にくじけてしまうことがよくある。
⑧勤勉、粘り強さ、継続的努力
・やりはじめたことは必ずやり終える。
・仕事中に横道にそれる。
⑨誠実、純粋、正直
・約束は必ず守る。
・友達から「地に足がついている」といわれた事がない。
3.人間性と愛情
⑩思いやりと寛大さ
・この1ヶ月間に自発的に身近な人の手助けをした。
・他人の幸せに自分の幸せと同じくらい興奮する事はめったにない。
⑪愛する事と愛される事
・私には、自分のこと以上に、私の感情や健康を気遣ってくれる人がいる。
・他の人からの愛情をうまく受け入れられない。
⑫協調性、義務感、チームワーク、忠誠心
・グループの中にいるときが一番良い仕事ができる。
・所属するグループの利益のために自己の利益を犠牲にすることには抵抗がある。
4.正義
⑬公平さと公正さ
・その人がどんな人であろうと全ての人を公平に扱う。
・好ましく思わない人の場合、その人を公平にあつかうことは難しい。
⑭リーダーシップ
・口うるさくすることなく、いつでも人々に共同で何かをさせることが出来る。
・グループ活動を企画するのは余り得意ではない。
5.節度
⑮自制心
・自分の感情をコントロールできる。
・ダイエットは続いたことがない。
⑯慎重さ、思慮深さ、注意深さ
・肉体的な危険をともなう活動は避ける。
・友人関係や人間関係で、ときどき不適切な選択をしてしまう。
⑰謙虚さと慎み深さ
・人が自分の事をほめると話題を変える。
・自分の業績についてよく人に語る。
6.精神性と超越性
⑱審美眼
・ここ1ヶ月間に音楽、美術、演劇、映画、スポーツ、科学、数学など
の素晴らしさに打たれたことがある。
・この1年間美しいものを創り出していない。
⑲感謝の念
・どんなささいなことであっても、必ず「ありがとう」と言う。
・自分が人より幸福であると思うことがめったにない。
⑳希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
・物事をいつも良いほうに考える。
・やりたいことのために、ジックリ計画を立てることなどめったにない。
21)精神性、目的意識、信念、信仰
・私の人生には強い目的がある。
・人生における使命はない。
22)寛容さと慈悲深さ
・いつも過ぎたことは水に流す。
・いつも相手と五分になろうとする。
23)ユーモアと陽気さ
・いつも可能なかぎり仕事と遊びを織り交ぜている。
・面白い事はめったに言わない。
24)熱意、情熱、意気込み
・やることは全てにのめりこむ。
・塞ぎこむ事が多い。
16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほか
に覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは、
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行によるほかは、
ない明証であるから、その覚りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での修行
であるから、すでに仏法修行に入ったものには初心というものはないのである。
ーーーーー
『弁道話』18の問答から考える曹洞宗の坐禅の特徴について
2013-06-12 21:41:21 | 坐禅
とある筋から、「曹洞宗の坐禅の特徴」について教えて欲しいという依頼を受けた。ま
ぁ、色々と参考書などもあるけれども、やはり我々としては、実質的に曹洞宗の立教開
宗の宣言書となった、道元禅師『弁道話』から見て行くのが良いだろう、というので、
それを参考にして検討していきたい。
なお、『弁道話』とは、それまでも『普勧坐禅儀』などを著しておられた道元禅師にと
って、最初の体系的な著作であり、寛喜3年(1231)8月に書かれたとされる。面山瑞方
禅師『正法眼蔵聞解』では、深草の「安養院」に閑居しておられたときだと推定されて
いるけれども、道元禅師の自署からはそれは確認できない。
内容的には、冒頭から自受用三昧との関連で、坐禅が正伝の仏法であることを示す内容
ではあるし、後には『正法眼蔵自受用三昧』として読誦される「坐禅の功徳」を説く箇
所もあるけれども、本論では、中~後半にかけて示されている、「18の問答」から、
道元禅師が示された「正伝の仏法」としての坐禅の特徴を考えてみたい。なお、各問答
は問いの概要を現代語訳し、更に、その回答は拙僧からの解説も加えて申し上げる。一
例として、原文を挙げておく。
おろかならん人、うたがふていはむ、仏法におほくの門あり、なにをもてかひへに坐
禅をすすむるや。
しめしていはく、これ仏法の正門なるをもてなり。
第1問答
このようにあって、道元禅師の文体に慣れている人なら、むしろ他の『正法眼蔵』諸巻
よりも分かりやすいはずだが、ここでは敢えて拙僧訳として以下に申し上げたい。
問1:仏法には多くの修行法があるのに、坐禅だけ取り上げるのは何故か?
答1:坐禅が仏法に入る正しき門だからである。
問2:坐禅だけが正伝の仏法に入る正しき門となるのは何故か?
答2:大師釈尊は、得道するための優れた方法を正伝され、また三世の如来もともに坐
禅によって仏道を得られた。だからこそ、正しき門であることを伝えるのである。それ
のみではなく、インド・中国の祖師たちも、坐禅によって仏道を得られた。だからこそ
、その正しき門を、人間界・天上界に示すのである。
問3:我々凡夫は祖師が行ってきた修行など知りようもない。であれば、経を読み念仏
する方がまだ効き目がありそうだ。坐禅をしても虚しいだけではないか?
答3:そなたは、諸仏の三昧、この上ない大いなる仏法である坐禅を、虚しく坐るだけ
だと思っているが、これは大乗の教えを誹謗する人である。既に、坐禅する人は諸仏の
自受用三昧の中に坐っているのだから、それを虚しいというのは、海の中にいながら、
水がないというようなものである。諸仏の境界とは、我々の思慮には捉えられず、ただ
、正しく信じる者のみが、能くそれに入るのである。また、これまでの仏祖が坐禅によ
って仏道を得られた事実を思えば、読経や念仏を暇無く称えることこそ功徳が無いと考
えるべきである。
問4:法華宗や華厳宗、そして真言宗などはそれぞれに素晴らしいが、即心是仏の禅宗
がそれより優れているとするのは何故か?
答4:仏教では、教えの優劣を論じたり、法の浅深を考えるのではなく、修行の真偽を
知るべきである。即心即仏や即坐成仏というのは、言葉は巧みだが、真実ではない。今
は、直ちに菩提をさとる修行を勧めて、仏祖がひとえに伝えてきた素晴らしき方法を示
し、真実の仏道人になってもらおうと思っている。そのためにも、仏法を伝授するなら
ば、必ずさとりに契った人を師匠とすべきである。我々には元から、悟りが欠けている
わけではないが、自分で納得して用いることがないから、誤るのである。
問5:三学(戒・定・慧)の定学、六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)でし
かない坐禅が如来の正法を集めるのは何故か?
答6これは、如来のこの上ない正法眼蔵を、禅宗と名づけるから、こういう問いをして
しまうのだ。禅宗とは中国から起きた名前であり、インドには存在しない。達磨大師が
中国に来て、少林寺で面壁九年した様子を、坐禅を拠り所とする宗派だと勘違いして、
坐禅宗と名づけ、坐が取れて禅宗となった。だが、この達磨の坐禅は、「六波羅蜜」や
「三学」の禅定として考えてはならない。釈迦如来が摩訶迦葉尊者に付属した正法眼蔵
涅槃妙心なのであり、「仏法の全道」であるから、他と比べてはならないのである。
問6:仏家には四威儀(行住坐臥)があるが、その内の1つでしかない坐禅を勧めるの
は何故か?
答6:昔からの諸仏が、相伝えた、修行し仏道をさとる道が坐禅であるから、究めるこ
とは難しい。ただ、これまでの仏教者が用いた理由のみを知るべきであろう。これまで
の祖師が褒めていうには、「坐禅はつまりは、安楽の法門である」という。「四威儀」
の中でもっとも安楽なのである。
問7:坐禅とは悟りを得るための修行であるはずだが、すでに仏の正法を得たものは何
を待って坐禅するのか?
答7:この問いは、修証が一つではないと考えた、仏道以外の見解である。仏法では修
証は一等である。よって、初心者の修行であっても、本より具わるさとりの全体が現れ
るのである。よって、修行の用心を授ける時には、修行の外にさとりを待ってはならな
いと教えるのである。仏道修行を始めたばかりか、長じているか、凡人か聖人かを問わ
ず、坐禅を努めるべきだと勧める。
※ここで道元禅師は、「証上の修」「本証妙修」を説かれる。前者は、「一切の修行は
さとりの上にあること」を意味し、後者は盛んなる修行によって、「本から具わりたる
さとりを証し、それによってさとりと一体となった優れた修行を行うこと」を意味する
。
※また、中国の状況を示し、大寺院では坐禅堂を構え、数百人から1000人を超える
ような僧侶がともに日夜坐禅を行っていたと伝える。
問8:これまでにも多くの祖師が中国に行って教えを伝えたが、正法は伝えなかった。
それらの祖師が正法をさしおいて教えを伝えたのは何故か?
答8:昔の祖師(天台宗や真言宗、或いは、奈良仏教の祖師)、正法としての坐禅を伝
えなかったのは、時節が至らなかったためである。
問9:これまでの祖師は、正法を会得していたのだろうか?
答9:会得していたのであれば、通じていたはずである。
問10:坐禅に直接関係が無いので、割愛。
問11:坐禅をする者は戒律も守るべきか?
答11:持戒し、良い修行を行うことは、禅門にとっての規範であり、仏祖が家風とし
てきたことである。
問12:坐禅をする者は真言や止観をも兼ね修めることに妨げはあるか?
答12:中国にいた時、優れた師匠に真実の教えを聞いたのだが、インド・中国では、
古今、仏のさとりを正しく伝えた祖師は誰しも、そのような他の修行を兼ねて修めたと
はしていなかった。
※ここは、いわゆる「只管打坐」の教えも合わせて見ていくべきである。『弁道話』で
は前半に、以下のように説かれている。「只管打坐」とはないが、『正法眼蔵』の他の
巻では後半の「ただし打坐して」が、「只管(祗管)に打坐して」となる。
宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじ
めより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落す
ることをえよ。
『弁道話』
問13:坐禅とは、在俗の男女も行うべきだろうか?出家者だけが行うべきだろうか?
答13:祖師がいうには、仏法を会得するのに、男性・女性、その身分の違いなどを考
える必要は無いと聞いている。
問14:出家者が集中的に坐禅するのは可能だが、在俗でわずらわしい世事に関わる者
がひとすじに修行することなど可能だろうか?
答14:仏祖は慈悲の心をもって、坐禅という広大なる門を開いてくださった。これは
、一切の衆生を入れるためである。そして、中国の代宗や順宗という(唐の時代の)皇
帝は、非常に忙しい様子であったが、坐禅修行して、仏祖の教えを会得された。その臣
下の者も同じである。これはただ、「志があるか、ないか」による。その身が在家か出
家かには関わらない。なお、世間的な仕事は仏法を妨げると思っている者は、世間の中
に仏法がないとのみ知って、仏法中に世間的な法が無いと知らないのである。
問15:坐禅修行によってであれば、この末法の世であっても正法を得ることが出来る
のだろうか?
答15:大乗の真実の教えでは、正・像・末法と三時を分けることはなく、修行すれば
皆、仏道を得るという。ましてや、この仏祖がひとえに伝えてきた正法では、その法に
おいて自由自在に振る舞うことは、自らが持っている家宝(である仏性)を用いるだけ
である。
問16:即心是仏の教えを理解すれば、我々がまさに悟りの存在であることが分かるの
だから、坐禅など不要ではないか?
答16:この言葉がもっとも儚い問いかけである。仏法とは自他の見解を止めて学ぶべ
きである。自己がつまりは仏であると知ったからといって、仏道を得たと理解するだけ
ならば、釈迦牟尼仏は昔、人びとを導くような煩わしいことはしなかったのだ。
※ここで、道元禅師は法眼文益と報恩玄則との問答を挿入する。
明らかに知るべきであるが、自己がつまりは仏であると理解しただけで、仏法を知る
とはいわないのである。ただ、初めて善知識(=指導者)を見たのなら、修行の方法を
詳しく聞いて、ひたすらに坐禅修行して、余計な想いを心に留めてはならない。
問17:中国やインドでは、さまざまな因縁によって悟りを開いた者がいるが、それは
坐禅修行と関係ないのではないか?
答17:古来より景色を見て仏心を明らかにし、音を聞いて仏道を悟った者は、ともに
修行にまごつくことはなく、まさにその身をもって会得した。
問18:インドや中国の人は、非常に性格が優れているが、我が日本人は性格の劣った
者が多い。そのような者が坐禅して悟りを開くことなど出来るのだろうか?
答18:確かにその通りで、日本の人びとは未だに、仁や智に通じておらず、教えを伝
えようとしても、曲げて受け取ってしまい、甘露がかえって毒となることもある。名利
心が強く、惑いを解くことは難しい。しかし、仏法に入ることとは、人間界の世俗的な
知恵を元に行うことではない。ただ正信にたすけられるものなのだ。また、仏陀の教え
は世界各地に広まったが、その先の人びと全てが、優れていたわけではない。如来の正
しき教えは、我々には理解し難い大いなる功徳の力を持っているのである。正しき信心
をもって修行すれば、才覚・能力の有無に関わらず、等しく仏道を得るのである。人は
、仏の智慧の種が豊かに具わっている。ただ、自らのものとして用いていないだけなの
だ。
以上である。ここから、曹洞宗の坐禅のアウトラインを知ることが出来ると思われる。
修証観や、只管打坐の教えなどが既に十分に見えていることも理解できるだろう。また
、修証観は、「修証一等」そしてそれを押し進めた「本証妙修」へと至るわけだが、「
修証一等」であるために、坐禅がさとりへの「限定的手段化」をすることを否定してい
る。六度・三学の一として捉えることの否定は、その好例である。
また、『弁道話』の段階では、性別や立場など関わりなく、誰でも坐禅すれば得道する
という考えであった。ただ、これは晩年に近づくと、ずいぶんと変容して、出家のみに
それが認められるようになる。そういう状況なども含め、道元禅師が若い頃、坐禅をど
う考えておられたかが、良く分かる内容であった。
登録:
投稿 (Atom)