道元禅師の『学道用心集』の初めは、まず「菩提心を発オコすべき事」とある。
そして「ただ世間の生滅無常を観ずる心もまた菩提心と名づくと。……誠にそれ無常を観ずる時、吾我(自我)の心生ぜず、名利(名誉や富)の念起こらず。時光の太だ速やかなることを恐怖す、所以に行道は頭燃を救う(時間を惜しんで仏道に勤む)。……ただ暫く吾我を忘れて潜かに修(只管打坐)す、乃ち菩提心の親しき(尽十方界真実そのもの)なり」と示されており、仏道は無常を観じ自我を超えた菩提心を発すことが第一であると示されている。
一般に人間は、大震災等大自然の威力や身近な者の死等、人間社会の脆さ・儚さ即ち人間の有限性に直面する時、自己満足の追求に明け暮れている自分から大自然に生かされて生きている本来の自己(尽十方界真実人体)即ち「菩提心」に目覚めることがある。
この本来の自己に目覚めて、自己満足追求を棚上げにすること、即ち本来の自己に還ることが「発菩提心」である。なお発菩提心は「発心」「道心」「発無上心」とも言う。
一 発菩提心の意義
「発菩提心」とは、前述の通り「本来の自己に還る」こと、即ち菩提心(尽十方界真実)に目を開き、自己の本来の姿(尽十方界真実人体)に徹することである。
つまり自我を放棄すること、即ち自分の欲望満足の追求を止めることである。それは究極的には、大乗仏教の「菩薩」に象徴される様に、自己は成仏しなくても、「全ての人が菩提心を発すように努める」、即ち「利益リヤク衆生」に努める事(「度衆生心」)を意味する。
何故なら本来的に菩薩は既に成仏している(誰でも本来成仏である)から、わざわざ「成仏」を目的にする必要がない。
ただ誰でも本来成仏(生かされて生きている)であるにも拘らずそれに気付かず自分の欲望満足の追求に終始しているため、菩薩は慈悲心を以て誰もが菩提心を発すように努めるのである。
なお「菩提心」は、「菩提」が尽十方界真実ないし現実(真の事実)をまともに頂くことであり、「心」も先述の通り尽十方界真実であるから、全体として尽十方界真実、即ち我々が生かされて生きている事実ないし現実をまともに頂く事である。
因みに仏法における「覚」も菩提と同じ意味であり、現実をまともに頂く事であり、心理的・精神的な意味ではなく、前項の「悟」と同義である。
さて『正法眼蔵』「身心学道」巻に「菩提心発なり、発菩提心なり」とあるように、「発」とは、我々の身体における「自我意識の放棄」を言い、「尽十方界真実をまともに頂く」ことが「自我意識の放棄」であり、「自我意識の放棄」が「尽十方界真実の在り方」である。
つまり尽十方界真実には所謂「自我意識」が入る余地が無いから、「発」菩提心(尽十方界真実)とは、何か特別の或る「こころを発す」こと、即ち何か特別の精神状態になることを意志・意欲することではなく、逆に自我意識を放棄して大自然(尽十方界真実)をそっくりそのまま素直に頂くこと(無所得・無所悟の坐禅)である。
なお『正法眼蔵』「発菩提心」巻が示すように、「慮知心(分別智)」がなければ菩提心は起こらない。ただし慮知心は菩提心ではない。
何故なら「慮知心」は人間の分別・認識能力であり、「尽十方界真実に目覚める」ことが出来るのはこの能力の働きであり、「菩提心を発す」即ち自我を放棄(エゴイズムの放棄)することの意味を理解し、坐禅を実践する行為はこの能力のお蔭だからである。
要するに我々は本来菩提心に生かされて生きており、菩提心から離れることは出来ない。従って発菩提心に何か特別な条件を必要とするのでは無い。ただ我々の自我が放棄されればそのまま本来の菩提心である。例えば眠っている時は自我活動がないから菩提心そのものである。
二 坐禅が発菩提心である
以上のことから、誰でも何時でも何処でも、「自我意識の放棄」即ち無所得・無所悟の只管打坐の坐禅(尽十方界真実の実修実証)をしさえすれば、「発菩提心」である。
正に坐禅は、脳の生理現象として常時発現して来る自我意識を放棄する百千万発の発菩提心の姿である。また前掲「身心学道」巻に「菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依し、発菩提心の行李を習学するなり。たとひいまだ真実の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし仏祖の法をならふべし」とある通り、仮に未だ真実の菩提心が発らなくとも、即ち「坐禅の意義」を明確に自覚していなくても、「仏祖の法」即ち「只管打坐の坐禅」を如法に実践すれば、現実に尽十方界真実を実修実証すること即ち発菩提心を習学することになるのである。
三 発菩提心は利益衆生である
更に前掲「発菩提心」巻は、「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり」と言い、また「無量劫(永久に)おこなひて、衆生をさきにわたして、みづからはつひにほとけにならず(自己満足の放棄)、ただし衆生をわたし、衆生を利益するもあり」というように、所謂「自未得度先度他」即ち自分が得道しないうちでも他人を度す(他人に菩提心を発させる)という無所得・無所悟の菩薩行を示されている。
そして「おおよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心(エゴイズムの放棄)をおこさしめ、仏道に引導せまし(坐禅させよう)と、ひまなく三業(生活全体)にいとなむなり。いたずらに世間の欲楽をあたふるを、利益衆生とするにはあらず」と徹底した「度衆生心」即ち利益衆生を勧めている。
注意しなければならないのは、「世間の欲楽をあたふるを、利益衆生とするにはあらず」とあるように、「利益衆生」とは「利行化他(利他行)」に徹することであるが、一般に誤解されているように、福祉事業をやることを意味しているのではない。
仏道修行の根本はエゴイズム(自己満足の追求)の放棄に尽きるのである。
要するに「利他行に徹する」とは、全てのものに奉仕することであるが、端的には自我活動を放棄することである。
そして究極的に、「誰もがエゴイズムを放棄する」ように奉仕することなのである。
まさに大乗仏教に始まる「菩薩行」は「当に願わくは衆生と共に」という「誓願」が根底にある。言わば「自行が同時に化他」である。
ところが声聞・縁覚等の小乗仏教は、自分がさとりたいという理想を求める自己満足追求の有所得の行に過ぎず、発菩提心とは言えないのである。
因みに「上求菩提、下化衆生」(菩提を求めて衆生を教化する)というような言葉は道元禅師の『正法眼蔵』にはない。何故ならこれまで述べたように、菩提(尽十方界真実)は求め得るものではない。特に『金剛経』「究竟無我分」(自我の放棄の徹底)は、菩薩に本来「衆生済度」という意識があってはならないと説く。
また「衆生」とは尽十方界真実の一時の様相(「心仏及衆生是三無差別」(『華厳経』))であり、衆生済度の対象(衆生)等本来無いからである(後述「般若波羅蜜」参照)。
四 発菩提心と感応道交
ところで、前掲「発菩提心」巻に、「感応道交するところに発菩提心するなり」という言葉がある。感応道交ということは、師資(師匠と弟子)の緊密な信頼関係においてのみ通じ得ることであるが、例えば霊鷲山において釈尊が蓮華を拈じた時、摩訶迦葉が微笑したという「拈華微笑」の故事は感応道交(仏と仏が通じる)の好例である。
道元禅師は「感応道交は菩提心をおこすことである」と示されているが、真の感応道交は主客がなく、発菩提心即ち坐禅(只管打坐)において初めて現成する。
つまり本当の坐禅信仰に生きる師匠と弟子の信頼関係においては、只管打坐することが即ち感応道交であると言える。
五 発心と畢竟
同じく「発菩提心」巻に、「発心とは、はじめて「自未得度先度他」の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ」という言葉があるが、「発心」とは「初発菩提心」のことである。ところで『大般涅槃経』「迦葉菩薩品」偈は、「発心畢竟二無別、如是二心先心難、自未得度先度他、是故我礼初発心」という仏法の大原則を述べている。
即ち「初発心(自未得度先度他の心)」も「畢竟(仏果菩提、成仏)」も尽十方界真実において変わりがないことを述べている。
いずれも尽十方界のそれぞれの様相であることにおいて同じだからである。
また「初発心時便成正覚」という言葉の通り、初発心の時も正覚が成立(成仏)していることは言うまでもない。
なお「発心正からざれば万行空しく施す」(『学道用心集』)とあるように、初発心の在り方即ち「択法眼チャクホウゲン」に厳密性が要求されるのは当然である。
六 発菩提心と刹那生滅
「仏法」の項でも説明したように、宇宙に存在するありとあらゆるものは一刻も休まず活動し続けている。この事実を「刹那生滅」というが、前掲「発菩提心」巻に「壮士の一弾指のあひだに、六十五の刹那ありて、五蘊生滅」とある。つまり「刹那生滅」とは、成年男子が一回指を弾く(鳴らす)間に、六十五刹那があり、我々の身体もその刹那(瞬間、最も短い時間の単位)毎に生滅を繰り返していると言う。
勿論この考え方は仏教独特の考え方であり、科学的証明に親しむものではないが、ありとあらゆるものが常に刻々と変化(生命活動)し続けているという絶対的事実(直観)は現代においても合理性があると言える。
更に、「同」巻は「おほよそ発心・得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず」と言う。
つまり刻々生滅変化するからこそ、例えば悪の状態から善の状態へ変化することが出来るのであり、発心も得道も可能になるのだという。
更に「かく(刹那生滅)のごとく流転生死(喜怒哀楽の人生)する身心をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。」即ち満足追求に明け暮れる我々の自我から身体を解放し、尽十方界真実を実践(坐禅=発菩提心)すべきだと「同」巻は説示する。
七 大乗
なお、上述の大乗仏教の菩薩行に関連して、「大乗」について付言する。「大乗」とは、尽十方界真実のことである。つまりあらゆる事物事象を存在させ、生滅させている事実、即ちあらゆるものは自分勝手に存在しているのではなく、尽十方界(宇宙・大自然)という「大きな乗り物」の中に在り、ありとあらゆるものを包摂して全く漏らすものがないという事実を指す。
従って何者も尽十方界から逃れることは出来ないし、又これを目標とし対象とすることもできない。
我々はこの尽十方界の真実(人体)に支えられて自我活動をしている。
別の言葉で言えば「唯仏与仏乃能究尽」、即ちありとあらゆるものがありとあらゆる在り方であるという完全な真実(真の事実)しているのである。
因みに教学上の定義は「智慧広大にして能く一切法を建立す」である。このことから大乗の修行は、自己満足追求の生活を放棄することであり、無所得・無所悟(ただ生かされて生きている尽十方界真実人体)の修行を実践することである。
これに対して「小乗(声聞・縁覚)」の行は、自分のさとり(理想)を求める(有所得)行であり、自己満足追求の行である。
従って小乗仏教では「成仏」が理想であるが、大乗仏教では「仏」は理想ではない。
何故なら全てのものは、仏(尽十方界真実)しているからである。
全てのものが唯仏与仏・本来成仏なのである。
また「釈迦」の捉え方についても、大乗仏教では、釈迦は尽十方界真実そのものを象徴し、釈迦は釈迦牟尼仏(尽十方界真実)を修行して釈迦牟尼仏になったとする。
ところが小乗仏教では、あくまで釈迦という聖人(人間)の「求道」ということに止まっている。
つまり大乗仏教の基本的信仰は宇宙のありとあらゆるものは「仏光明(大自然の恩寵)」に輝いているということであり、「光明(尽十方界真実)」が大乗仏教成立の根本的契機となっている。
ところで仏教史において、小乗から大乗への転換の根本的契機になったのは、人間のからだの偉大性・尊厳性の発見、即ち尽十方界真実人体の再発見だと言われている。
なお『法華経』等の経典に「一乗」、「一乗法」、「一仏乗」という言葉が表われているが、基本的に大乗と同義である。既述のように、「一」は「無他」の義即ち「全体」の意である。
例えば「十方仏土中唯有一乗法」(『法華経』方便品)という言葉の意味は、「尽十方界はすべて真実」であるということである。
これを内山老師は「どっちへどう転んでも御命オンイノチ(尽十方界真実)」と訳されている。
また「唯有一乗法、無二亦無三」も同じことである。
要するに真実は尽十方界(大自然)そのものであり、人間の側から何も言うことのできるものではない。
常に尽十方界真実の中に居て、絶対にその外に出られないので、尽十方界真実を眺めて云々できない。
即ち尽十方界真実は人間がこれを定義したり規格を作ったりできるものではない。
我々は尽十方界真実人体の生命活動の中で人生のすべてを営んでいる(常楽我浄)ということである。