2016年7月8日金曜日

全機之巻

01
現成とは生である。生はそのまま現成である。生が現成するとき、生が全面的に
現成しないということではない、生とは生の全現成にほかならない。
生が現成するとき、当然のこととして死も同時に全面的に現成しないことはない。

02
こうした生と死のからくりが、生を生たらしめ、死を死たらしめる。
このからくりの現れとしての人が生きて在る時とは、必ずしも小というのでもない。
人の生死にともなって全世界が現成するわけでもなく、また人の生死は人にとって
生死にともなう彼の全世界であるから、部分として限られた世界でもない。
長短といった量の問題からは離れている。現在する生は生死のからくりのなかにあり、
このからくりが現在する生なのだ。

03
生は来るのではない。生は去るのではない。そのまま即時的な生の現というわけではな
い、
そのままの即時的な生を成というのではない。そうであるが、生は六根全身の
働きの現れである、死は六根全身のはたらきの現れである。知るべきである。
自己は無限の現象を内在しており、そのなかに生があり、死があるのだ。

06
園梧は言った、「生は全機の現成である、死は全機の現成である」と。
この言葉の意味を明らかにし究めねばならない。究めるというのは、「生は全機の
現成である」とする道理は、生の初めと終わりとは関係なく、何物も、全大地、全宇宙
さえも、死が人のすべての働きとして現成することを妨げないだけではなく、生が
人のすべての働きとして現成するすることをも妨げないのである。こうしたことだから
、
生は死を妨げない、死は生を妨げないのだ。全大地、全宇宙は生にも伴っている、
死にもともなっている。

全機の説明
人の主体、六根全身の積極的なはたらき。機は機織の機、活らき、作用









全機:「人間存在のすべての可能性を発揮する偉大な活動」
機:「仏の教化をうけて働くことのできる能力」
機関:「主観/客観」の区別なく、自己と世界が一つに融け合い存立しているさま。そ
の全体的な作用を「全機」という。
諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。
:仏の道を究め尽くした奥義とは、あらゆる条件付けにとらわれない自由な境地に抜け
出ていること(透脱)であり、いまここにありのままあるということ(現成)である。
その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。
:その透脱というのは、生が生を離れ超え出ており、死も死を離れ超え出ている状態で
ある。
このゆゑに、出生死あり、入生死あり、ともに究尽の大道なり。
:そのために、生死を超えた生死を生き、生死に没入した生死を生きることが、どちら
もともに仏道の究極なのである。
捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。
:生死を離れること、そして生死をありのまま受け入れること、どちらもともに究極の
真理である。




全機とは、すべての働きという意味なのでしょうが、ここでは、真実のすべての働きが
現成しているのが、生であり、死であると述べておられるように思います。

 いずれにせよ、生死に向き合った巻です。これは、増谷文雄さんが書いておられるよ
うに、いつもの興聖寺ではなく、六波羅蜜の波多野義重の屋敷で行われた説法であり、
日々死に向き合って暮らしている在俗の人間に向けて説かれたものであるように思えま
す。

全機の中の言葉
  この巻にも、いくつもの美しい言葉が登場しますが、今回は、二つの言葉を紹介し
ましょう。

 「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しか
あれども、生は全機現なり、死は全機現なり。
  しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。」

  生は、いずこかより来たれるものでなく、いずこかへ去るゆくものでもない。同時
に、生はなにかが現われたものではなく、なにかが成ったものでもない。
  そうであるけれども、生はすべての働きが現成したものであり、死もすべての働き
が現成したものである。
  知るべきである。自己のうちに無限の法があるのであり、この真理の中に生も死も
あるのである。

「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」

 これが、全機というものだということでしょう。

 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむ
ような思考の展開がなされます。


「生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。
 このふねは、われ帆をつかひ、われかじをとれり。  われさををさすといへども、
ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。
 われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。」

 ここで、「ふね」とは、生のことです。「われ」はわれですが、ひとまず、われとは
、この肉体をもって今の世に生をうけている自分の核となる認識主体というように仮定
して読んでいってみましょう。

 ふねを棹さすごとく、自分の意思でこの生を生きていると思えるけれども、ふねが自
分をのせているように生そのもののなかに自分は依拠している。
 一方、私の認識において、この生があり、この世界が存在しているとも言うことがで
きる。私が、舟にのっているから、舟は舟として働いているのである。

 この機微を参究すると、天も水も岸もすべて舟の時節となる。すなわち、全世界は生
のうちにある。

「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」
 これが、全機というものだということでしょう。

 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむ
ような思考の展開がなされます。


【定義】

①機は機用でありはたらきのこと。それそのものが何ものとも相対せずに存在している
ことを全機という。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では41巻、75巻本では22巻。仁治3年(1
243)12月17日に、京都六波羅蜜寺側の波多野義重の陣中に於ける説示。

【内容】

①臨済宗楊岐派の圜悟克勤は、この「全機」という言葉を好み、以下のような説示が残
っている。
全機は直に正法藏を明らかにす。 『圜悟仏果禅師語録』巻20

②なお、同じ圜悟克勤には以下のような言葉も残っている。
生も也、全機現。死も也、全機現。 『圜悟仏果禅師語録』巻17

道元禅師はこの言葉に基づいて、『正法眼蔵』「全機」巻を著している。まさに生死と
もに仏の一切のはたらきが現れきっており、同時に仏のはたらきによって現れているこ
とを示している。
諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは
生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆえに、出生死あり、入生死あり、とも
に究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。現成これ生なり
、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成
にあらずといふことなし。


<1> 真理の体験     

 

  仏道の究極は、“透脱(とうだつ)”であり、“現成(げんじょう)”である。

  “透脱”とは、生においては生を解脱(げだつ)し、死においては死を解脱すること
である。

生死を離れること、生死に没入することが、いずれも仏道の究極である。また、生死を
捨

て、生死を救うことが、いずれも仏道の究極である。

 

<要約>

人間の生き方の究極は、徹底した自己否定と、それによって可能な徹底した自己肯定であ
る。

 

  “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、われの生命を実現して
い

ることである。それが実現するときには、生命のすべてが現れないはずがなく、死のす

べてが現れないはずがない。

 

<要約>

  一旦、小さな自分を捨ててしまえば、それよりも更に大きな普遍的生命、即ち、命の
全体を

体験することができる。

 

(1)・・・・・         

「 さて...“透脱”と“現成”の意味は、本文の中で的確に説明されているので、こ
こ

では形式的な説明は必要ないと思います...

  その上で、“透脱”という、相矛盾する意味の上に成立する概念とは、はたしてどの

ようなものでしょうか?仏教の経典では、このような説明手法が多く用いられていま

す。それは、その真に説明する所が、言語を超越しているからでしょう。2つの概念の

矛盾を超越した所に、“悟りの境地”があり、経典の“学びの本質”があるからです、
」

 

 

**********

 

 

 

(2)・・・・・       

      生死を離れ、生死に没入し...生を解脱し、死を解脱する...

 

「そこに...どのような人格が析出するのでしょうか。『正法眼蔵』の執筆者/道元
禅

師は、そこに“仏道の究極”があると言っておられます。そこに、“悟りの境地”があ
ると

いうのです。

  いわゆる仏典は、それこそ仏教文化圏に、山のようにあります。仏教には、聖書(キ

リスト教)やコーラン(イスラム教)のような、唯一絶対という聖典はありません。し
かし、すべ

てが“仏道の究極”を指し示しています。仏教は、“信仰の道”というよりも、“智慧の
道”

と言われるのは、こういう所にも表れています。

  それにしても、これはどういう意味なのでしょうか。私はこれは、“無心に、現在行
っ

ている行為・状況に、没頭せよ”ということだと思います。言い換えれば、“そのこと
以

外は考えず、その中に深く深く没入せよ”、それが“悟りの境地”を体現するというこ
と

です。

  私たちは、山の頂上に登り...時には、息が止るほどにその絶景に感動します。

その瞬間は、その感動に没入し、それ以外のことは考えません。そうした純粋な混じ

り気のない心が、まさに“悟りの境地”ときわめて近いものです。

  サッカーをすればサッカーに没頭し、他のことは何も考えない。絵を描けば絵に没

頭し、音楽ならば音楽に没頭する。他のことは何も考えず、深く深く没入する。それ

が、“生死を離れ、生死に没入”するということです。そこに、“仏道の究極”が見え、

“悟りの境地”もまた、そのすぐ近くにあるということでしょう。

  しかし、言葉の上での理解は、宝物箱の一番上の、透明なセロファン紙を剥(は)が

したようなものです。肝心の宝物は、まさにその中にあります。母親と未分化の赤ん

坊の心/穢(けが)れのない純粋な子供の心/青少年の心は、“悟りの境地”に近い

とは、このような“無心の心”を言うのでしょう。

  一番上のセロファン紙の意味は、大人にとっても同じことです。その下に、幾重も

の修行体験を経て、更に幾重もの包みがあるのが見えてきます。そして、宝物箱の

“悟りの言葉”のより深い意味を、より深く理解し、更に深淵な“悟り”の境地へと迫

って行きます。人生の意味は、まさにこの、“真理の体験”の中にこそあるのでしょう
」

 

(3)・・・・・      

  “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、“われの生命”を実現

していることである。

 

「“われの生命”...そして、“命のすべて”...とは、非常に含蓄のある言葉で
す。

無限の深い意味を持っています。この世とは、何はともあれ、“われの眼”で見た“一人

称の世界”なのです。“君”や“彼”という、2人称や3人称は、眼前するリアリティ
ーの

中には存在しません。リアリティーは、あくまでも1人称の“唯心”から見た、“巨大
な全

体”なのです。

  小説のように...3人称の、“彼から見た風景”というのは、眼前するリアリティ
ーの

世界には存在しないのです。それは、相互主体性を反映した、フィクション(小説、虚
構)の

世界でのみ成立するのです。

  では...この世のすべての認識、すべての存在に関わる“我”とは...一体何者
な

のでしょうか。“われの命”、“命のすべて”とは...一体何なのか。これは、単な
る

1生物個体の自我を超越した、はるかに大きな背景...“心の領域”の広野が垣間

見えてきます。

  仏道では、この風景を“唯心”といいます...“唯心”とは、言い換えれば、“た
だ1つ

の、不可分な、巨大な全体”です。この巨大な全体には、局所や部分というものが存在

しません。だから、不可分な全体なのです。これが、今まさに眼前するリアリティーの姿

であり、現代物理学と共通します。

  さて...リアリティーを名詞によって差別化し、動詞で波動させたのが、“言語的
亜

空間世界”です。人類は、この“言語的亜空間”に文明を築き上げ、展開しているので

す。3人称の視界が開かれるのは、この亜空間におけるフィクションだからです。その

フィクションの中に住む人間は、まさに相互主体性世界を展開し、豊かな文化を花開

かせているわけです。これもまた、深淵な生命進化と構造化の、偉大なベクトルの上

にあることなのでしょうか...

  “物の領域”と“心の領域”の統合されたものが...いわゆる“この世の姿”で
す。

21世紀は、膨大な未知なる領域...まさに“心の領域”の解明が、大いに進むと言

われます。このことが、様々な宗教に及ぼす影響も、また計り知れないものがあると

思われます...」

                                               

    

   <2> 実在と夢・・・物理空間と認知       

 

  このような体験が、生を生としてあらしめ、死を死としてあらしめるのである。この
よう

な体験が実現するとき、それは大きいともいえず小さいともいえず、無限であるともい

えず有限であるともいえず、長いともいえず短いともいえず、遠くにあるともいえず近く

にあるともいえない。

  われわれの今の命は、このような体験によってあらしめられるのであり、同時にわ

れわれの命がこのような体験をあらしめてゆくのである。

<要約>

普遍者としての体験は、無我の体験である。そこでは、すべての個的要素が問題でなくな
る。しか

し、同時にそれは、生きるという個的な体験によってしか実現されないのである。

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