2016年7月23日土曜日

諸法実相

諸法実相
「諸法」というのは、もろもろのものですね。「もの」というか、ここに現
成(げんじょう)しておる全部の姿がすべて諸法、それがそのままに実相であると。
昔は「現象即実在」というふうな、あれは明治大正の頃ですかね、
「現象即実在、実在即現象」というような言い方で申しておったと同じことなんですが
ね。
すべての存在しているもの。私たち人間も含めて、あるいは花も木も建物も
全部含めて、それが真実の姿であると。


【定義】

①一切の存在を、存在そのものから見れば、平等相でありながら差別相を具えるように
、ただ単独に存在していることを諸法実相という。なお、現代語にある「平等社会」と
いうような意味での「平等」ではなくて、存在それ自体がもつかけがえの無さを「平等
」と呼ぶのである。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では50巻、75巻本では43巻。寛元元年(
1243)9月に、吉峰寺にて学人に示された。

【内容】

①存在自体が、真実の姿をしているのか、それとも実体がない事実を受けて仮の姿であ
るのかという論争は、仏教史としては長い論争があったようだが、諸大乗経典にあって
も、「諸法実相」と「諸法虚妄」は大きな問題になったようである。然るに、「諸法実
相」については、その後の影響を考えれば『法華経』「方便品」にある以下の一句が象
徴的である。
唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。

仏と仏とが、良く究めてきたのは、諸法実相の道理だということであり、この論理が敷
衍されて、一切の存在が現実には差別相を具えていても、実際には悟りの姿そのもので
あるというような解釈まで行われるようになった。そのもっとも顕著な例が、中世の日
本天台で行われた本覚思想であろう。

②道元禅師は①に挙げた『法華経』の一句を敷衍して、『正法眼蔵』の一巻を著した。
そこでは、「唯仏与仏」は、「唯仏」と「与仏」というそれぞれに独立した仏祖の存在
であり、それぞれに独立した存在であるということを「乃能究尽」とした。そして、「
唯仏」と「与仏」は、まさに「諸法」が「諸法」として自らを明らかにし、「実相」が
「実相」として自らを明らかにすることであるとされて、それこそ仏祖現成の事実であ
るとした。
仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり、諸法は如是相なり、如是性なり、如
是身なり、如是心なり、如是世界なり、如是雲雨なり、如是行住坐臥なり、如是憂喜動
静なり、如是?杖払子なり、如是拈華破顔なり、如是嗣法授記なり、如是参学弁道なり
、如是松操竹節なり。

さらに、『法華経』の句を縦横無尽に使用しながら、「相」についての解釈を展開され
、実相とはまさに、存在が自ら自身のあり方である生死去来が真実人体であることに気
づくことであるとされる。
発心・修行・菩提・涅槃を挙して、生死去来真実人体を参究し接取するに、把定し放行
す。これを命脈として華開結果す。これを骨髄として迦葉阿難あり。

また、仮の姿である方便と、真実の姿である実相とが、この現実にあっては本質的に違
いがないことを唱え、さらに、方便であると考えられがちな菩薩と、真実の姿であると
される如来とが、本質的に違いがないという見解も提唱されていく。
いはゆる一切菩薩は、一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類にあらず、老少なし、勝劣なし
。此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自佗にあらず。過現当来箇にあらざれども、作仏
は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏し、始覚地に成仏す。無量百千万億度作仏せる菩
薩あり。作仏よりのちは行を廃してさらに所作あるべからずといふは、いまだ仏祖の道
をしらざる凡夫なり。いはゆる一切菩薩は、一切諸仏の本祖なり。一切諸仏は、一切菩
薩の本師なり。

また、同巻中には道元禅師が中国天童山の如浄禅師の下で修行している際に行われた、
或る夜間の普説及び入室について、非常に臨場感のある描写を行っており、当時の状況
を伝える貴重な資料ともなっている。その普説に於いて、如浄禅師は諸法実相の道理を
提唱しながら、まもなくに近づいた夏安居の開始か近いこと、そして安居の心構えと春
先の季候の良い時期には奮って坐禅すべきことなどが説かれた。
かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおぼえり。この夜は微月わづかに楼
閣よりもりきたり。杜鵑しきりになくといへども、静間の夜なりき。

「仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり。如是性なり
。如是身なり。如是心なり。如是世界なり。如是雲雨なり。如是行住座臥なり。如是憂
喜動静なり。如是柱杖払子なり。如是拈華破顔なり。如是嗣法授記なり。如是参学弁道
なり。如是松操竹節なり。」
 般若心経に諸法空相という言葉があります。この言葉は般若心経の根本の教えを一言
で言い表した言葉であります。

これは「この世のすべてのものごとは空であり実体がない、仮に和合したものである」

ということであります。そしてこの諸法空相と諸法実相
とは、結局同じことを意味する言葉なのであります。この諸法実相という言葉は法華経
方便品に出て参ります。道元さまは正法眼蔵の多くの巻にこの法華経典より引用され、
その言葉が引用されています。そしてこの諸法実相も悟り、真理を表す言葉として引用
されたのであります。
 実相とは現象を有るがままに有らしめているものは仏(真理)であるという意味であ
ります。したがって諸法の一つである私たち人間も仏であり、真理としての存在という
ことになります。仏道修行はこのことに気づき、行持し、体現することであります。こ
の世のあらゆる存在はそのありのままの姿が、ただちに真実の姿であるということにな
ります。そこにおいては、ありのままの姿以外には何らかの観念的な理想の側面から、
ありのままの姿を批判的に見るという唯心論的な立場でもなく、また逆に感覚的な側面
からのみそれを眺め、諸法を物質的な要素のみから見るという唯物論的な立場でもない
。つまりあらゆる存在はあるがままに有るのであって、右にも左にも偏らない存在とし
てとらえられなければならないのであります。ここに諸法実相という言葉は、その簡潔
な言葉の中に仏教の世界観の究極が秘められているというのであります。

ここに引用いたしました一節は諸法実相の巻の冒頭の一節であります。道元さまはこの
諸法実相の巻を寛元元年九月、吉峰寺において衆に説かれました。どの巻もそうであり
ますが、道元さまはその巻で説こうとされる要訣をまず冒頭の一節において説かれまし
た。ここに引用いたしました一節につきましても、やはり難解な言葉があり、理解に苦
しむ文章でもあります。一応私なりに現代語訳をさせていただきます。

 (お釈迦様がこの世に現れ、達磨さまが中国に渡られたのは、そのことそのままが、
ありのままの真実である。この世の諸々の実在は、それがそのまま真実の実在である。
それがそのままものごとの本質である。それがそのままありのままの物体である。それ
がそのままありのままの心理作用である。それがそのままありのままの世界である。眼
前の雲や雨はそれがそのままありのままの天然現象である。日常の立ち居振る舞いはそ
のままありのままの日常生活である。日常の感情の起伏もそれがそのまま真実の感情の
起伏である。僧侶が使用する柱杖払子などの仏具もすべてそのまま真実の柱杖払子であ
る。お釈迦様から迦葉尊者へ仏法が伝えられた故事の拈華破顔の事実もそのまま仏性の
現成であり、単伝の仏法である。・・・)

道元さまはこのようにこと細かに例をあげて説いておられます。これを今一度要約す
れば、仏の出世も祖師の西来もそのままの姿が実相であり、真理の現成である。お釈迦
様に代表される諸佛の出世は諸法実相の体現の相としての現成であり、諸佛が諸佛自体
として真理そのものの現成である。また、眼前の一切の森羅万象の現象、人生の一切の
行動、仏道の一切の発心、修行、菩提、涅槃等の仏行そのままが真理の現成である。

人間の苦しみの原因は欲望(貪欲)にあります。欲望とは自分の心に思うがままにな
って欲しいと心に願うことであります。例えば人間生まれることは、その瞬間に死を約
束されることであります。いくら年をとりたくないと願ってもかないません。これが苦
しみであります。こだわりや欲望から少しでも脱することが出来れば、苦しみからも抜
け出せるのであります。この世の全てのものは因縁によって仮に和合して、仮に姿、形
、行動として現成しているにすぎません。

全てのものは空であり無常であります。ものごとの真実の相を見定めて、とらわれを
無くし、仏の真心に生きなければなりません。
宇宙悠久の道理に従った生き方をしなければなりません。
道元さまの傘松道詠の一つを
紹介いたします。

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」

ーーーーーーーーーー
 神奈川県南足柄市(みなみあしがらし)大雄山(だいゆうざん)。ゆるやかな坂を上って
、最乗寺(さいじょうじ)へ向かう参道は眩(まぶ)しいばかりの緑に包まれています。参
道に沿って著莪(しゃが)の花が白い花を咲かせ、私たちの目を楽しませてくれます。
 
春は花夏ほととぎす秋は月
  冬雪さえて涼しかりけり

 
金光:  今日は、神奈川県南足柄市にあります大雄山最乗寺にお邪魔しております。
最乗寺の山主(さんしゅ)余語翆巌老師に、「諸法実相(しょほうじっそう)」ということ
についていろいろお話をして頂きたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。よ
く「諸法実相」という言葉は、仏教の説明で聞くわけでございますが、これはどういう
意味なんでございましょうか。
 
余語:  字の意味を、ちょっと申しておきますと、

金光:  書いて頂いたものがありますので、ちょっとこれを拝見さして頂きます。
 
余語:  「諸法」というのは、もろもろのものですね。「もの」というか、ここに現
成(げんじょう)しておる全部の姿がすべて諸法、それがそのままに実相であると。昔は
「現象即実在」というふうな、あれは明治大正の頃ですかね、「現象即実在、実在即現
象」というような言い方で申しておったと同じことなんですがね。
 
金光:  すべての存在しているもの。私たち人間も含めて、あるいは花も木も建物も
全部含めて、それが真実の姿であると。
 
余語:  ところが普通はですね、本当の永遠のものとか、無限者というようなものは
、この移ろいゆくとは別にあるような考えをもっておる方の人が多いんじゃないかと。
 
金光:  どっか違いところに無限の方がいると。
 
余語:  そういうふうにして、今即今現成している自分を含めてそういうものが、ど
うも本当のものでなくて、影じゃないか、というふうな考え方が多いんでしょうな。
 
金光:  殊に「空(くう)」という言葉を聞いたり、あるいは「非」とか、「無」とか
という言葉が仏教に随分でてきますと、何となく現実のものは、
 
余語:  違うんですね。昔から―昔というより禅録によく出てくる言葉の中に、

百草頭上無辺春(ひゃくそうとうじょうむへんのはる)
 
「頭」は、ほとりですね。百の草のほとりに無辺の春が現じておる、という。
 
信手拈来用得親(てにまかせねんじきたってもちいいてひたしし)
 
これが両方で対になるんですがね。百草―草花、いろいろな花のほとりに限りなき春が
現じておるんだと。黄色い花も、赤い花も、紫の花も、それぞれの姿において、無限の
春の顔と言いますかね、無限の春を、そういう形で現じておるのだと。だから黄色いの
が良くて紫が悪いというふうな道理もないと。だから「手に信(まか)せ」というのは、
手当たり次第にもってきてね、どれもこれも親しいものであると。そこに好悪(こうお)
の念もないのが当たり前だけれども、人間のそういうものが入ってくると、良いとか悪
いとか言っていますけどもね。春というのは、絵に描くわけにいかんですね。
 
金光:  掴まえるわけにもいかんわけですね。
 
余語:  表現のしようがないものでしょう。だから花という上に現じておるわけです
ね。そういう赤い花は赤い花という春の顔である。花の上に赤い花という形をして、春
が現じておるというわけですね。だから、

春在梅花入画図(はるはばいかにありてがとにいる)
 
春を描こうと思えば、梅の花と書けば、大体春だということになるわけでしょう。初め
て絵になったという。春が描くことができたわけですね。梅の花を描けば、そういうふ
うに現実にそこにあるものの上に捉えきれない無限のものが現れておるわけですね。
 
金光:  先ほど一番最初の「諸法実相」というのも、こういう形で出ておると。
 
余語:  それから梅花とか、花というものは、現実の有限のものなんですよ。限定が
できない、掴まえられない無限者というふうなものが、有限者の上にのみ出てくること
がある。難しいことを言うと、そういうことなんでしょうな。今ここにあるこの五尺の
身体、そういうものを非常に軽んずる傾向がありやせんかと思うんですがね。六祖慧能
(えのう)が、門人の行昌に示した「無常者仏性也(むじょうはぶっしょうなり)」という
言葉があります。仏性というのは、常住不変のものというふうに思われている無常変転
常なきもの、それが仏性だという。世の常のすがたは移り変わり移り変わりして、その
移ろいゆくすがたを、世間のことはよろずたわごとですべて儚きものというふうに受け
取って世間虚仮(こけ)、唯仏是真というようにも言われる。されどよく思えば、有限の
移ろいゆく無常が無限のものの一歩一歩ということができる。無限者、永遠のものが、
有限を離れてどこかに別に存在するように思うのは大いなる錯覚である。無常というも
のは移ろいゆくものですよ、儚いもの、それが仏性なんだ、という。仏性というものは
永遠なものなんですね。

その読み方も「無常も仏性なり」と読むがいいか、「無常は仏
性なり」と読むのがいいのか。そういう迷いはありますが、とにかく移ろいゆくものの
上に、本源のものが現じているという考え方ですね。諸法は実相なり、という。諸法と
実相とは同じもの。諸法というものは、現成の姿であって、移ろいゆき常無きものだ、
というふうに思いがちなんですが、その上にこそ真実が、現実になる場所があるという
、そういう考え方でしょうな。
 
金光:  そうすると、そういう世界を、例えばよく知られている「般若心経」なんか
も、そういう世界のことを述べているわけでございますか。
 


 
余語:  無い。その中に花あり、月あり、楼台あり、と出てくるでしょう。それを「
無一物中」ということは、「無の一物」と、そういうふうに読んでみたらわかりそうな
気がする。すべてが無の一物としてね。一切のものが、無というすべての根源たるもの
の現れた一つひとつのものであって、そういうものがこのような世界に現成しておるん
だから、花あり月あり楼台あり、という言った方が分かり易いような気もするんですが
ね。あれは雪峰義存(せっぽうぎそん)和尚の弟子の玄沙師備(げんしゃしび)という人で
すがね、その人が雪峰山で修行しておって、遍参―雲水修行に天下を回るというふうな
ことで出掛けようと思ってですね、雪峰山の山門に至って、足を石に「築著(ちくじゃ
く)し」とありますが、生爪を剥がしたんですね。「痛い!」と言うわけですね。それ
で考えたんだろうと思うんですがね、昔から「是身非有痛従何来」この身あるにあらず
、痛(つう)いずれよりきたる、という文句。普通の誰が見てもよくわかる言葉ですがね
。こういう表現ですね。この身体はあるのではないと。痛みいずれよりかきたる、とい
うんですが、普通は昔からの教えに従うと、この五尺の身体は、因縁仮和合のものであ
って、実体のある存在ではないと古来より教えられてきている。強いて言えば、似有―
有るに似た何かがある―とでもいうべきか、そのような存在であるという。それはその
ように受領しても、この痛みは尋常でない、痛いのは実に痛いんだ。痛烈に痛いんだか
らね。どっかからきたるんかという疑問を呈して、雪峰山へまた旅に出ずに帰ってきて
しまう。そういう話がある。ところがそういうのは普通の受け取り方には違いないです
ね。本当はこれは自分の一切の身体はあるものとは違うから執着するな、ということは
わからんことはないけども、痛みとはどっかからきたんだ、というふうな疑問の生まれ
てくるように、このままではどうも落ち着かない解釈になる。よう考えますと、この「
非」という字は、「是の身は非の有(う)なり、痛み何(が)より来る」と読んでみたらど
うかと。「痛何(が)より来たる」と、疑問でなくて、「何(が)」というのは不特定の言
葉でしょう。「何(なに)」という字はね。それも「非」とよく似た意味になって、
 
金光:  「非」と「何」と共通のものであると。
 
余語:  痛みも何(が)より来たんだと。この身体は非の有であり、痛みは何(が)より
来たんだ、という疑問でなくて、肯定ですね。受け取り方。だからそういうふうな読み
方でね、大変に違った絶対者のとらえ方だと思うんです。だからごてごていうなという
わけです。さっきの「諸法実相」と同じことです。実相が諸法に顔をしてそこに出てお
るんだから。人間の面(つら)でもみんなが注文したものでないから、その通りに天の授
かりに違いないものだ。そういう受け取り方になっていくんでしょうな。読み方で大変
に変わるというのは、金光さんもご承知のように、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅ
じょうしつうぶっしょう)」というのがありますね。「一切衆生悉有仏性」とあって、
これは「悉く仏性有り」と読む時は、仏性を持っておるという意味、所有しているとい
う。昔の書物を見ましても、仏性ということは一体何じゃというわけですが、仏になれ
る性質、そういうのが生まれつきあるのか、それとも途中でそういうものが身にくっつ
いてくるのかというふうな議論がありますがね。仏性というものは一体何だという決め
方が難しいですね。仏になれる性質ということは、仏という仏の姿というものが非常に
素晴らしく万徳円満のお姿をしておられるのが仏様様だと。そういうふうになれるよう
な本質を持っておるというふうに、大体そう考えておるんじゃないかな。だから仏性と
いう尊いものがあるから、普段は妄想煩悩に覆われておる。修行して、そういうものを
取り去って仏様になるように修行するんだと。
 
金光:  磨かないとダメだというふうに、
 
余語:  そういう考え方ですがね。そうすると、そういう仏性があるというと、そう
いうことになる。ところが道元さまは、「悉有(しつう)は仏性なり」と読むんですね。
悉く有るというのは「悉有(しつう)」と読む。悉くの存在、それが仏性だという。そう
いう読み下しをなさると、さっきの「この身は非の有なり」と同じように、全部が仏性
なんですね。「悉有の一悉を衆生という」と、人間なんていうのはその一有(いちう)―
一部分に違いない。そういう意味が明歴歴(めいれきれき)とわかってくる。全部の存在
が仏性だと。ちょっと難しいんですがね。犬に仏性が有るか無いか、というのが、公案
に一つあります。狗子(くし)(犬)に仏性が有るかと問われて趙州(じょうしゅう)和尚
は、「有る」と答える。問僧は、仏性は尊く優れたものとの考えをもっているために、
「仏性というすばらしいものが、どうして犬のようなつまらないものの中に入っている
のですか」と訊く。趙州は、「仏性がよく承知しておって殊更に犬の中に入っておるん
だ」という、そういう答え方ですね。一般的に言えば、好きこのんで入っておるんだ、
と、そういうんですがね。全部が仏性なんですよ。犬と他のものとも、ものが全部仏性
がそうなっておるんだと。仏性というものを、綺麗な素晴らしい存在だと考える人は、
そういうことがわからん。一切の清浄の法界、現成の世界は―世界中そういう考え方は
共通のように思いますがね―この世界は清浄の世界から生まれてきたものだ、とそうい
うふうに考えるんですね。そうしたら神様がお造りになったこの世界というものも、清
浄たるべきものであるのに、何故そうなっておらんかという、弁解をする。天地清浄、
法界清浄のものに、人間が手垢を付けておるような状態が、今の人間の寸法か、人間の
判断で考える世界があって、これは解決が付かなくなるんですね。犬にも仏性があるよ
、という時に、そういう問答があって、それからもう一人の僧には、「それは無いよ」
という。犬には仏性は入って無いんだ、という。
 
金光:  同じ趙州和尚が?
                   
余語:  同じ趙州が。後で困るんですね、みんな。「何故無いんですか」と言ったら
、その答えは、趙州和尚は、「業障(ごっしょう)があるから仏性はないんだ」と。業障
というものがいっぱいあって、仏性は入る余地がないんだ、というような意味の答えを
、「業障あるがためなり」というんですがね。それは、「業障も仏性だ」というんです
。そういうふうな断定はちょっとできませんがね。一切法界清浄の世界だということが
わかると、一切が清浄なんですね。清浄という言葉を使うから、不清浄というのですね
。どれもこれも、煎じ詰めてみますと、「揀擇(けんじゃく)することなかれ」と、三祖
僧?(そうさん)の『信心銘(しんじんめい)』にありますがね。有名な「唯嫌揀擇(ゆいけ
んけんじゃく)」ですね。こういう『信心銘』の「唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」唯(
ただ)揀擇(けんじゃく)を嫌う―「よりごのみをするな」ということである。「比べあ
うな」ということである。この句が全部を覆い尽くしているような気がしますね。全部
そうなってくるように、とにかく全部が仏性の姿だと。それを相手によりごのみするな
、ということになると、人間の価値判断が妄想になるんですな。善悪を分けること、美
醜(びしゅう)を分けること、全部妄想と言っていいくらい、そういう妄想だということ
がわかれば、宗教の風光がよくわかってくるんじゃないかと思うんですが。
 
金光:  人間のソロバンがまったく通用しない世界と言いますか。
 
余語:  これもよく言いますがね、葬式の時は、「死は汚れだ」というて、お仏壇の
前にこう紙張ってやるでしょう。生まれることは人間のソロバンでは大変嬉しいことに
見える。死ぬことはよくないことだ。そう分けることが人間の寸法ですね。それは当然
の感情ですけども、よく考えてみると、死ぬことも、生きることも天地の姿でしょう。
「花は散る散る常住実相」と言いますね、「花は咲く咲く常住実相」どれもこれも天地
の姿だ。死ぬことだけが汚れだというのは、こんなものはくだらん。
 
金光:  そうすると、無常は仏性というのも、今のお話まったく同じことですね。
 
余語:  みんな同じことに通じますがね。だから本当はそういうふうな死だけを汚れ
とする考え方、そうだからというて、今から死んだ時おこわ焚くわけにもいきませんけ
どね。そういう価値判断は妄想だということがわかると非常に楽になると思うんですが
ね。
 
金光:  人間が苦しむのは、大体自分が苦しむので、その苦しんでいる自分のいろん
な、これは嫌だとか、これさえなければ、とすぐ思うんですけれども、そういうのを離
れられるわけですね。
 
余語:  それは実際の痛みは離れるわけにいかんでしょうけどね。見る立場にあるん
じゃないかな。大体死ぬことも、立派に死にたい、というふうに考えるんですがね。
 

 

金光:  諸法実相ということも、これは計る秤はないわけですね。
 
余語:  ありません。そのままなんですからね。「そんな重い物をよく持って来られ
たもんじゃ」というのは、お互い一個の存在がどこからどうなっておるかよくわかりま
せんでしょう。誰も答えようがない。そのこと自体昔の言い方ですと、「運水搬柴(う
んすいはんさい)、是神通(これじんずう)」というわけです。これ普通に生きている、
特別なことをすることは要らんことなんですね。どの人のいのちも、この人のいのちも
、そのようにして神通の姿のままで生きておるんですからね。計る秤がないんだから。
自分のやったことが立派だとか、立派でないとかね、偶然にそういうことになって、こ
の世の中でできた人は、それは結構な、そういうふうに力があってできる。できん人は
できん人で結構なんですね。どの人の人生も、この人の人生も、そのままで足りておる
んですね。お釈迦様のお悟りの時に、どういうふうだったかというと、伝記をみますと
、暁に明星をご覧になってお悟りになったと。そしておっしゃったことには、「我與大
地有情 同時成道」我と大地有情と同時に成道す、という言い方をされたことになって
おるんですね。

「諸法実相」の巻き5.:

「法華経の「真実相を示す」(前回記事)というのは、諸法実相の言葉を世界全体に聞
かしめることであり、世界全体に仏道を成ぜしめることだ。また、実相すなわち諸法の
道理を、全ての人にうなずかしめることであり、その道理をあらゆる事物の上に出現せ
しめることだ。

つまり、過去7仏から6祖・慧能までの40仏・40祖の究極の悟りは、ことごとくこの経
に属しているのである。経文に「全てこの法華経に属する」といわれているとおりであ
る。この経の所属である。僧堂で用いる坐布や禅板が、そのまま無上の悟りであるとい
うことも、皆この経に属しているのだ。「捻華破願」や「礼拝得髄」も、共にこの経に
属しており、この経の所属である。それこそ「方便門を開いて真実相を示す」というこ
となのだ。

然るに近来の大宋国における道理に暗いやからは、肝心なところが分からず・要所を見
ず、実相の説をあたかも虚妄の言の様に考えている。それどころか老子・荘子の言説を
尊んで、それを仏祖の大道と同一だといっている[ここの部分は、歴史的資料として、
中国禅宗の根本性格を知る上で重要だ]。また儒・仏・道の3教は一致すべきだといって
いる。あるいは3教はあたかも鼎(かなえ)の三脚であり、一本でも欠ければくつがえ
るであろうという。愚かさも極まった。若し仮に三教の一致が正しいなら、仏教が印度
に現れるとき、儒教や道教も同時に現れねば成らぬ。だが実際はシャカは「天上天下唯
我独尊」といわれたのだ」。

道教では人間は、修業によって仙人となり、神々の一員となって永遠に生きることにな
っている。また儒教では人間は死後、一定期間霊として残り、その後はまとめて「ご先
祖様」になって永遠に生きる。国家が公認すれば神となって永遠に生きることも可能と
されている。だが道元の禅では、
「「弁道話」の巻き」
で明らかなとおり、この様な個別・具体的な死後の霊魂を認めない。
「「即心是仏」の巻き」
で明らかなとおり、宇宙全体が自己の心だと考える(他人の存在をそもそも認めないの
だから、別に自他の区別を立てる必要も存在しない)。だからそもそも死は存在しない
。時間自体を自分が造っていると考えるから、「永遠」ということも「刹那」というこ
ともどちらも存在していない。

だが当時の中国禅はそうではなかった。当HP記事
「84.「禅宗とは何か?(資料編3)」071024」
で、六祖・慧能が死亡した後、次の様な不思議な現象が起きたとされていることを紹介
した。

「恵能大師はこう語り、静かに息を引き取った。享年76歳。
大師が逝去された日、寺の境内には、不思議な香気が盛んにおこって数日たっても消え
なかった。山は崩れ地は震え、木々は枯れて真っ白になり、日月は光が消え、風雲の気
配も只事でなかった。11月になると遺体から白光が現れ、真っ直ぐに天を貫き、2日
たってから漸く消えた。韶州長官が碑を立てた。人々は今もお祭りをしている」

つまり六祖・慧能は仙人に成ったと考えられていたのである。

「三教一致の説は、赤子の言葉にさえ及ばぬ。この様なやからが多くなった。彼らは或
いは人間界・天上界の指導者となり、或いは帝王の師匠となっている。これが大宋国の
仏法の衰微の現状だ。先師・天童如浄はこれを深く戒められた。

圜悟(えんご)禅師が言われるに、
「生死去来、すべてこれ真実人体である」と。
この言葉から、自分をも知り、仏法をも量るべきだ。

長沙景岑(けいしん)がいうに、
「尽十方界は真実人体、尽十方界は自己の光明裏である」と。
この様な言葉は、今の大宋国における諸方の長老たちには、およそ参学すべき道理であ
るとは知られていない。まして彼らがどうして実際に参学できようか。若しこの言葉を
彼らに突きつけたならば、只赤面して沈黙するのみだろう。

先師・天童如浄はある時こういわれた。
「今の諸方の長老たちは、古を照らすこともなく、今を照らすこともない。仏法の道理
を完全に失っているのである。十方世界などと言っているが、その道理をどうして知る
ことが出来ようか。その心には未だ一度も聞いたことがないようだ」と。

私はこれが本当かどうか確かめる為、実際に諸方の長老たちに問うてみたのである。そ
の結果、先師の言葉は正しかった。
哀れむべきだ。虚妄の説を成し、長老の職を汚しているとは」。

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