2016年7月9日土曜日

見仏記

01
ここに言われる「諸相を見る、非相を見る」とは、自己を透脱した認識の体得であり
万象の真相に通達するものである。このようなこととして、万象にその本質である
空相を見るのは真実をみるのである。このすべてを透脱する認識眼は、仏法によって
保たれている世界に開かれた仏眼の現成であり、これを見仏というのである。

如来を見るとはこのような認識の透脱をいうのである。このように仏眼の活路を
通達して、如来に参ずるのである。己の見る諸相を脱し己の諸相空相の覚りを
脱し、認識の世界の外に己の覚りの脱するとき、世界は数々の蔓や枝が茂っている
とはいえ、仏たる認識を学び、仏たる認識を修行し、仏たる認識を脱落し、仏たる
認識を働かせ、仏たる認識を自在に使って、どのような事象にも、随所に仏を
見るのである。

このような見仏は、無尽の面、無尽の身、無尽の心、無尽の手眼による見仏である。
発心して己の脚によって仏道に発心してこのかた、修行し、努力し、
覚りを究めていく行くのも、みな自己を脱落して如来の世界に走りいる
眼晴の働きであり、全身心の働きである。


02
このようであるから、自己としての全世界、他者としての全世界の、
あちらこちらの所在を見るということは、すべて同じ見仏という修行
による外はないのである。如来の言う「若見諸相非相」の言葉を取り上げて
参学眼のない者たちが思うのは、「諸相は相ではないとみるとき、
すなわち如来を見るのだ」という。その趣旨は「ここに言われる諸相はただの
相ではない、如来の三十二相を見ることをいう」と思うのだ。
まったく如来を小さく考え測るならこのように学ぶこともあるのだろうが、
釈迦のこの言葉の意味はそのようなものではない。知るべきである、
諸相を見て取り、非相を見て取るとき、「如来を見る」のである。
ここには如来があり、非如来がある。



09
釈迦牟尼仏は一切の菩薩に告げて言われた。
「禅定に深く入り、十万仏を見る」と。
全世界は深いとのみ表現されるのである、全世界は東西南北上下乾坤良巽
の仏の世界であるからだ。すなわち広いのではない、おおきいのではない、
小さいのではない、狭いのではない。一方を取り上げればそれに随って
他方も連なって示されるのだ。このようなことから十方は「全収」と
いうのである。大小広狭などの概念によって測りうるものではない。
すべてを収め外側はないのであるから、十方世界は入るのみである。
この尽世界に深く入ることそのものが禅定である、「深く禅定に入る」
とは、「十方の仏を見る」のである。深く入っても誰もいない処に在所を
得るのだから、十方に仏を見るほかはない。たとえ何事かをしても、
誰も受け取ることがなく、人の言葉も行為も用いるところがないのが
禅定であるから、仏は十方所在するのである。深く入るとは永久に出ることが
ないのである。禅定の中に十方仏に会うとは、ただ眠り如来になるのである、
坐臥する生き仏になるのである。禅定に入り込んだら頭を出すことはできない。


17
釈迦牟尼仏は言われた。「諸人の仏の教えを体得し、柔和で素直なものは、皆
私の身が、ここにあって説法するのを見るのである」
あらゆる仏の本質的な姿は、泥をかぶり水にぬれた姿である、波に随い波間のままに
進む姿である、衆生の迷いや苦悩を、わがこととしてそれに順応するのである。
それを体得するものを、吾また是くの如し、汝又是くの如しとする「柔和で素直な
もの」というのである。忍ほかのない娑婆世界の泥の裡で仏を見、すべてに順応する
素直な心において仏をみるのである、そして「仏がここにあって法を説く姿を
見る席」に己も列するのである。

19
ここに言われる「仏にまみえた」とは、自己なる仏を見たとは言われてはいない、
他者である仏を見たとは言われていない、ただ見仏なのだ。一枝の梅とは一枝の
梅を見ることである。一枝の梅はそれを見る眼とともにある。見仏は明々たる
梅花の開花である。

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