正法眼蔵嗣書の巻より 11 仏祖たちは、眼前に釈迦牟尼仏にまみえ奉る眼を正伝してきたのである、仏祖たちが 正伝してきた眼は釈迦牟尼仏より以前から親しく伝えられたものである。 仏祖たちはそれぞれの正眼によって時と処に関わらずに釈迦牟尼仏を現出しているので ある。 このようであって、釈迦牟尼仏を尊び、釈迦牟尼仏を慕い奉るのは、この面授の 正伝を重んじその趣旨にを尊び、師との間の面授を出遇いがたいものとして敬い 重んじて師を礼拝せねばならない。それはとりもなおさず釈迦如来を礼拝し 奉ることである。新たに仏法を面授する如来が正伝するところを、面授によって シテイのそれぞれの主体としての自己之すべてが授受される正伝のありのまま を拝見するのは、自己自身のこととしてもいとおしまねばならず、客体として の自己のこととしても護持せねばならない。 23 尚古がいうように書籍に学ぶのみで嗣法することが出来るなら、経典を読んで 物事を明らかにするものはみな釈迦牟尼仏に直接嗣法するのか、けっして そのようなことはない。経書によって発明するものも、必ず正師の許しを求めるのであ る。 お前は雲門の語録さえもまだ読んでいないのだ、己の眼をもって己を見ていないのだ。 このような未熟な者たちは多いのだ。お前はあらためて草履を履き草履を履きつぶして 正師を求めて仏法を学ばねばならない。 「仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単 伝なり。このゆえに、無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するにあたはず、仏の印 証をえざれば仏となることなし。仏にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上 なりと印することあらん。 仏の印証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟するなり。このゆへに、仏仏証嗣 し、祖祖証契するといふなり。」 この巻きは道元さまが先師天童山の住職如浄禅師より正しい仏法を受け継ぎ、わが国 に曹洞宗を正しく伝えられた時の様子と嗣法の心について述べられた巻であります。仏 法を継承することを嗣法といいますが、曹洞宗ではこの嗣法を大変重要なものと位置づ けています。これが乱れたならば、仏教が堕落しかねないからであります。大変厳粛な ものであります。 曹洞宗では仏法を正しく伝えた証、つまり嗣法の証として師匠は弟子に「嗣書」とい うものを与えます。しかし、それは単に形式だけのものであってはなにもなりません。 法を嗣ぐことが「嗣法」でありますが、道元さまはこの嗣法こそ最も厳粛で大切なこと と説かれています。つまり嗣法とはどのようなものであるか、その本当の意味、心はな にであるかということを、この嗣書の巻とか、面授の巻で説かれました。これが正しく 行われなければ仏法の堕落につながり、衰退につながるからであります。当時すでにわ が国の仏教は堕落が始まっていたということで、道元さまはこのことへの危機意識をい だいておられたということであります。ここで、この文の意味を一応現代語訳いたしま す。 「お釈迦さまから歴代の仏さまやお祖師さま方が仏法を嗣ぐときは悟りを得た仏が仏 に嗣法し、悟りを得た祖師が祖師に嗣法いたします。それは師の悟りと弟子の悟りが一 致合体することであり、これを証契即通といいます。それは一人の師が一人の弟子にの み法を嗣ぐ単伝であります。だから最上の菩提つまり悟りが成就するのであります。こ の最上最勝の菩提は悟りを得た仏仏祖祖でなければ弟子の悟り、菩提を認証する資格が なく、それはできません。仏の認証を得なければ仏となることができません。したがっ て悟りを得ない人を最尊者などということはできません。 この認証、嗣法を得る時、無師独悟することになります。つまり師と弟子が、円融合 体、一如になるのであります。師と弟子は「さとり」そのものになるのであります」 現代語訳は以上のようになります。ところで道元さまが如浄禅師から印可証明をいた だいたのでありますが、嗣法は面授であります。嫡々の正法を正しく伝えてゆくには、 形はともかく師と弟子が対面し、心の絆が一致合体しなくてはなりません。これを二面 裂破証契即通といいます。二人の人格が悟りということで一つになるのであります。こ れを無師独悟・無自独悟といいます。師資つまり師匠も弟子もいない、ただ法があるだ けであるというのであります。しかし、形式としての嗣書もまた大切なものであります 。道元さまは龍門仏眼派の嗣書を閲覧する機会があり、大変感激されています。正師を 求めて中国宋の国に渡り、ついに求める生涯の師、如浄禅師に出会うことができます。 これはまさに因縁としかいいようのない、眼に見えない不思議な糸で二人は結ばれてい たといえましょう。如浄禅師は道元さまを一目見るなり、吾が仏法はこの日本から来た 僧侶に伝えようと心に決められるのであり、道元さまは如浄禅師こそ長い間、さがし求 めていた正師であると直感し、感激の余り眠れなかったといわれます。 「宝鏡記」という道元さまが宋の国での求法の様子を書き記した日記に次の様なこと が書かれています。ある時道元さまは本師如浄禅師に仏道についてたずねることの許可 を求めました。如浄禅師は道元さまに「あなたは今後昼夜を問わずいつでも、袈裟もつ けなくて普段の服装で私の部屋へ来て、たずねたいことがあればなんでも質問しなさい 。わたしはあなたを父親が子供の無礼を許すように許して、あなたを迎えましょう。」 と言われました。これは師如浄禅師が如何に道元さまが求法の道念があつく、また器量 、知識も深いことを見抜いていたからでしょう。道元さまは如浄禅師から印可を受け「 身心脱落」という言葉を残しておられます。これは如浄さまと道元さまとの二人格が一 つになったことを意味しています。この巻は現在の仏教寺院内のこととのみ片付けられ ない、現代社会に対する一つの問題、テーマをも投げかけているようにも思えます。 『葛藤をもて葛藤に面授して、さらに断絶せず』 p161「本巻の大意」より ’面授とは、仏教界における宇宙秩序の伝承に当り、師匠と弟子とが現実に顔と顔とを 合わせ、一対一の形で全人格的な伝承を行なうことをいう。そして仏教界において何故 この現実に顔と顔とを合わせた一対一の伝承が不可欠のものとされるかというと、師匠 と弟子との間において伝承されるものは、単に文字や言葉によって表現された思想でも なければ、感覚的に把えられた個別の体験でもなく、それは真理体得者となり得ている 師匠と、同じく真理体得者となり得たところの弟子との間において行なわれる全人格的 な伝承であるからである。’ p170 『震旦国以東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり。あらたに如来をみたてまつる 正眼をあひつたへきたれり。 釋迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらな るにあらざれども、倶時の面授あり。』 ≪訳文抜粋≫ 「中国以東の国において、釈尊以来の正しい伝統を荷っている流派においてのみ、一対 一で伝授を行ない、一対一で受領を行なうということが行なわれているのであり、鮮明 に釈尊のお姿を拝見申し上げるところの正しい眼というものを、〈師匠から弟子へと〉 次々に伝承して来たのである。 釈尊のお姿を礼拝する際には、〈摩訶迦葉尊者からこの道元に至るまでの〉五十一人の 祖師方や過去七仏の方々が、横にならんでいるとか、たてに並んでいるとかということ はないのであるが、〈しかも〉一斉に一対一の伝授を受けるのである。」 師と弟子が現実の場で真摯に向き合う瞬間、「真実」を求める者同士の授受の行い、こ そ言葉で言えないしかし決定的な何かである。その「瞬間」は歴史におけるすべての’ 面授’の瞬間と合同∋等価であるといえる。 正法眼蔵第五十一 面授 〈文底下種独一本門〉とは、〈言葉=事象〉の〈文底=奧底〉に〈正法眼蔵=生の 全体性=妙法の曼荼羅〉を把握する〈方法的原理〉である。それを〈修行=行持〉する とき、〈私=われわれ〉の〈生きる場〉に、〈友情と連帯〉が蘇生する。〈事象=言葉 〉の〈文底=奧底〉を〈道得=言述〉するとき、〈われわれ=私〉は目に見えない〈唯 心〉の法理を〈思考=造作〉してしまう。そのような〈造作=思考〉は、〈文底下種独 一本門〉から遠ざかる。 〈実存=妙法〉は、あくまでも〈色心不二=始源の時=久遠即末法〉であり、〈善悪 不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉なのである。〈私=われわれ〉がいかに〈 緻密・深遠・高尚〉と感嘆し、称讃する〈道得=論理〉も、〈只管打坐=境智冥合〉の 〈修行=行持〉がなければ、〈生命〉の〈分断化=脱益化〉を引きづり続けることにな る。道元は『正法眼蔵』を〈説著=道得〉することによって、〈釈尊=諸仏〉が〈道得 =説著〉する〈生死不二=色心不二〉の〈曼荼羅〉を〈面受=承継〉し、〈展開=現成 〉しているのである。 爾時釈迦牟尼仏、西天竺国霊山会上、百万衆中、拈優曇華瞬目。於時摩訶迦葉尊者、 破顔微笑《爾(そ)の時に釈迦牟尼仏、西天竺国霊山会上(りようぜんえじよう)、百万衆 の中にして、優曇華を拈じて瞬目す。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑(はがんみしよう)せ り》。釈迦牟尼仏言、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉《釈迦牟尼仏言(のたまわ) く、吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に附嘱す》。 これすなはち、仏々祖々、面授正法眼蔵の道理なり。七仏の正伝して迦葉尊者にいた る。迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者にいたる、菩提達磨尊者、みづから震旦国 に降儀して、正宗太祖普大師慧可尊者に面授す。五伝して曹谿山大鑑慧能大師にいたる 。一十七授して先師大宋国慶元府太白名山天童古仏にいたる。 大宋宝慶(ほうきよう)元年乙酉(いつゆう)五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙 高台に焼香礼拝す。先師古仏はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにい はく、仏々祖々、面授の法門現成せり。これすなはち霊山(りようぜん)の拈華なり、嵩 山(すうざん)の得髄なり。黄梅の伝衣なり、洞山(とうざん)の面授なり。これは仏祖の 眼蔵面授なり。吾屋裡のみあり、餘人は夢也未見聞在なり。 法華経迹門は〈宇宙即生命〉を物本事迹の視点でとらえ、法華経本文は〈生命即宇宙 〉を事本物迹の視点でとらえている。法華経迹門は〈声聞縁覚=菩薩〉への〈記別=面 授〉を説き、法華経本門は〈地涌菩薩〉への〈附嘱=面授〉を説いている。それは〈諸 法実相=色心不二〉となり、〈久遠実成=久遠即末法〉となる。〈法華経=釈尊〉が展 開する〈地上会=物本事迹〉と〈虚空会=事本物迹〉は、〈地涌=空涌〉し〈いま、こ こに〉開く〈始源の時〉に同時進行している。〈始源の時〉とは、〈いま、ここに〉生 きる〈私=われわれ〉一人ひとりの己心にほかならない。それは〈自他不二=善悪不二 〉となり、〈因果倶時=久遠即末法〉となる。そこで〈釈尊=諸仏〉は、〈肯定即否定 ・能動即受動〉の法理を〈常住此説法〉するのである。 〈成仏=妙法〉の〈記別=面授=附嘱〉は、すべて〈釈尊=諸仏〉から〈諸仏=迦 葉〉への〈嗣法=面授〉となる。〈われわれ=私〉一人ひとりの己心における〈釈尊〉 から〈迦葉〉への〈面授=嗣法〉のみが、〈唯仏与仏=師弟不二=法水写瓶〉なのであ る。〈釈尊〉は〈霊山会〉となり、〈拈優曇華〉となり、〈瞬目〉となり、〈摩訶迦葉 〉となり、〈破顔〉となり、〈微笑〉となる。さらに〈微笑〉は〈釈尊〉となる。 そこに描き出される〈曼荼羅=妙法〉は(七仏)となり、〈二十八代面授〉となり、〈 菩提達磨=釈尊〉となり、(迦葉=慧可)となり、五伝して(諸仏=大鑑慧能)となり 、十七伝して(天童如浄=釈尊)となる。道元の〈天童如浄=釈尊〉への〈焼香礼拝〉は 、〈霊山の拈華〉となり、〈嵩山(すうざん)の得髄)となり、〈黄梅の伝衣〉となり、 〈洞山(とうざん)の面授〉となり、〈仏祖=釈尊〉の〈授決=面授〉となる。 この面授の道理は、釈迦牟尼仏まのあたり、迦葉仏の会下(えげ)にして面授し、護持 しきたれるがゆゑに仏祖面なり。仏面より面授せざれば、諸仏にあらざるなり。釈迦牟 尼仏まのあたり、迦葉尊者をみること親附なり。阿難・羅?羅(らごら)といへども、迦 葉の親附におよばず。諸大菩薩といへども、迦葉の親附におよばず、迦葉尊者の座に坐 することえず。世尊と迦葉と、同坐し同衣しきたるを、一代の仏儀とせり。迦葉尊者し たしく世尊の面授を面授せり、心授せり、見授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を供養恭敬 (くようきようけい)、礼拝奉覲(らいはいぶごん)したてまつれり。その粉骨砕身、いく 千万変といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如来の面目を面授せり。 釈迦牟尼仏、まさしく迦葉尊者をみまします。迦葉尊者、まのあたり阿難尊者をみる 。阿難尊者、まのあたり迦葉尊者の仏面を礼拝す。これ面授なり。阿難尊者この面授を 住持して、商那和修(しょうなわしゅ)を接して面授す。商那和修尊者、まさしく阿難尊 者を奉覲(ぶごん)するに、唯面与面(ゆいめんよめん)、面授し面受す。かくのごとく代 々嫡々(ちゃくちゃく)の祖師、ともに弟子は師にまみえ、師は弟子をみるによりて面授 しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは、仏々祖々にあらず。たとへば 、水を朝宗(ちょうそう)せしめて宗派を長ぜしめ、燈を続(ぞく)して光明(こうみょう) つねならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり。また?啄(そったく)の迅機 (じんき)なるなり。 この〈面授=正伝〉は〈迦葉仏=諸仏=七仏〉となり、〈七仏=諸仏=釈迦牟尼仏〉 となり、〈釈迦牟尼仏=諸仏=七仏〉は〈仏祖面〉となる。さらに〈仏祖面〉は〈七仏 =諸仏=迦葉仏〉となる。〈仏面〉とは〈森羅万象〉が照らし合い、響き合いながら描 き出す〈妙法の曼荼羅〉にほかならない。〈迦葉の親附〉は〈親附の釈尊〉となり、〈 釈尊の親附〉は〈親附の迦葉〉となる。そこに〈阿難・羅?羅・諸大菩薩〉の付け入る 〈余地=過不足〉はない。 〈釈尊と迦葉〉の〈同坐・同衣〉は〈二仏並坐〉となり、〈二仏並坐〉は〈仏儀= 面授〉となる。〈正法眼蔵=妙法の曼荼羅〉と〈只管打坐=対坐=境智冥合〉するとき 、〈われわれ=妙法の当体〉と〈妙法の曼荼羅〉は〈並坐二仏〉となる。その〈面授= 仏儀〉は、〈いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる〈己心〉に現成する。道元は、〈迦 葉尊者したしく世尊の面授を面授せり、心授せり、見授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を 供養恭敬(くようきようけい)、礼拝奉覲(らいはいぶごん)したてまつれり。その粉骨砕 身、いく千万変といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如来の面目を面授せ り〉と〈敷衍=展開〉している。 〈道元=正法眼蔵〉を〈道得=解説〉した〈論考=道得〉によって、〈正法眼蔵= 道元〉を〈面受=正伝〉することはできない。〈道元=正法眼蔵〉と〈面受=対坐〉す る〈方法的原理〉を展開しているのは、〈道元=諸仏〉と〈諸仏=日蓮〉のほかにいな い。〈正法眼蔵=道元〉と、どのように〈対坐=面受〉するのか。それは誰も肩代わり できない〈私=われわれ〉一人ひとりの〈発心=求道〉なのである。 〈面授=正伝〉は〈釈尊・迦葉〉となり、〈迦葉・阿難〉となり、〈阿難・商那和 修(しょうなわしゅ)〉となり、〈代々嫡々祖師〉となる。〈奉覲阿難〉は〈釈尊奉覲〉 を現成し、〈仏面礼拝〉を現成し、〈唯面与面(ゆいめんよめん)〉を現成し、〈面授面 受〉を現成する。道元は〈代々嫡々(ちゃくちゃく)の祖師、ともに弟子は師にまみえ、 師は弟子をみるによりて面授しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは、 仏々祖々にあらず。たとへば、水を朝宗(ちょうそう)せしめて宗派を長ぜしめ、燈を続 (ぞく)して光明(こうみょう)つねならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり 。また?啄(そったく)の迅機(じんき)なるなり〉と〈展開=敷衍〉している。〈本枝一 如〉は〈境智冥合〉を示し、〈?啄(そったく)の迅機(じんき)〉は〈直至成道=即身成 仏〉を示している。そこに〈言葉=事象〉が響き合い、照らし合いながら〈収斂=拡散 〉し、〈拡散=収斂〉する〈妙法の曼荼羅〉が浮かび上がる。 しかあればすなはち、まのあたり釈迦牟尼仏を、まぼりたてまつりて、一期の日夜を つめり。仏前に照臨せられたてまつりて一代の日夜をつめり。これいく無量劫を往来せ りとしらず。しづかにおもひやりて随喜すべきなり。 釈迦牟尼仏の仏面を礼拝したてまつりし、釈迦牟尼仏の仏眼を、わがまなこにうつし たてまつり、わがまなこを仏眼にうつしたてまつりし仏眼晴なり、仏面目なり。これを あひつたへて、いまにいたるまで、一世も間断せず面授しきたれるは、この面授なり。 而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この正伝面授を礼 拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。迦葉尊者等の二十八仏祖を 礼拝供養したてまつるなり。 仏祖の面目眼晴、かくのごとし。この仏祖にまみゆるは、釈迦牟尼仏等の七仏にみえ たてまつるなり。仏祖したしく自己を面授する正当恁麼時(しょうとういんもじ)なり。 面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤(かっとう)をもて葛藤に面授して、さらに断絶せ ず。眼を開(かい)して眼に眼授し、眼受す。面授は面処の受授なり。心を拈じて心に心 授し、心受す。身を現じて身を身授するなり。他方他国もこれを本祖とせり。震旦国以 東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり、あらたに如来をみたてまつる正眼をあひ つたへきたれり。 〈面授〉とは己心の師から弟子、己心の弟子から師への〈面授〉にほかならない。己 心の師と弟子が互いに面授し合うのである。過去・現在・未来の仏が〈いま、ここに〉 開く〈色心不二・久遠即末法〉なる〈時空=場〉に〈授決=面授=受決〉する。〈妙法 の曼陀羅〉と〈妙法の当体〉が照らし合い響き合うとき、〈森羅万象〉がそのまま〈釈 尊=諸仏〉の現成となる。 〈唯面与面・嫡々の祖師〉という〈譬喩=喩説〉は〈妙法の曼陀羅〉を表し、〈面授 し面受す・弟子は師にみえ、師は弟子を見る〉という〈喩説=譬喩〉は、〈妙法の曼荼 羅〉との〈唱題=境智冥合〉を表す。〈水を朝宗せしめ、燈を続し〉は〈勤行=行持〉 となる。〈光明つねならしむ〉は〈修証不二〉の現成である。〈億千万法するにも本枝 一如〉は〈久遠即末法・色心不二〉となり、〈?啄の迅機〉は〈直至道場=即身成仏〉 となる。 道元は、〈而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この 正伝面授を礼拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。迦葉尊者等の 二十八仏祖を礼拝供養したてまつるなり〉と〈説著=道得〉している。〈数十代の嫡々 〉は〈七仏釈迦牟尼仏〉となり、〈二十八祖仏〉となる。〈法要〉は〈正法眼蔵〉と現 成し、〈化儀〉は〈只管打坐〉と現成する。 〈仏祖の面目眼晴(めんもくがんぜい)〉は〈色心不二〉を表す。〈釈尊=諸仏〉と 〈諸仏=迦葉〉は互いに見つめ合う。そのとき〈釈尊=師〉は〈弟子=迦葉〉となり、 〈迦葉=弟子〉は〈師=釈尊〉となる。〈仏祖〉は〈自己〉に〈面授〉し、〈自己〉は 〈仏祖〉に〈面授〉する。道元の〈面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤をもて葛藤に 面授して、さらに断絶せず。眼を開して眼に眼授し、眼受す。面をあらはして面に面授 し、面受す。面受は面処の受授なり。心を拈じて心に心授し、心受す。身を現じて身を 身授するなり〉という〈道得=説著〉は、〈事の一念三千=妙法の曼荼羅〉を描き出す 。 〈仏祖したしく自己を面授する正当恁麼時なり〉とは、そこに開く〈色心不二・久 遠即末法〉なる〈時空=場〉である。〈面授仏の面授仏に面授〉し、〈眼を開して眼に 眼授し、眼受す。面授は面処の受授なり〉とは、〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉で ある。〈葛藤をもて葛藤に面授してさらに断絶せず〉とは、〈意味=心法〉と〈力=色 法〉が渦を巻いてわき立つ〈曼陀羅〉である。〈心を拈じて心を心授し、心受す〉は〈 心法〉の成仏、〈身を現じて身を身授する〉は〈色法〉の成仏となる。〈妙法の曼陀羅 〉は〈色心不二=一極〉なる〈生命=妙法〉を顕している。 釈迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つら なるにあらざれども、倶時(くじ)の面授あり。一世も師をみざれば弟子にあらず、弟子 をみざれば師にあらず。さだまりて、あひみあひみえて、面授しきたれり。嗣法しきた れるは、祖宗の面授処道現成なり。このゆゑに、如来の面光を直拈(じきねん)しきたれ るなり。 しかあればすなはち、千年万年、百劫億劫(ひゃっこうおっこう)といへども、この面 授これ釈迦牟尼仏の面現成授(めんげんじょうじゅ)なり。この仏祖現成せるには、世尊 (せそん)・迦葉(かしょう)、五十一世、七代祖宗(そそう)の影現成(ようげんじょう)な り、光現成(こうげんじょう)なり。身現成なり、心現成なり。失脚来(しっきゃらい)な り、尖鼻来(せんびらい)なり。一言いまだ領覧(りんらん)せず、半句いまだ不会(ふう い)せずといふとも、師すでに裏頭(りちょう)より弟子をみ、弟子すでに頂にん(ちんに ん)より師を拝しきたれるは、正伝の面授なり。 〈五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらなるにあらざれども、倶時 の面授あり〉の〈ならべるにあらず、つらなるにあらざれども〉は〈色心不二〉を表し 、〈倶時の面授〉は〈久遠即末法〉を表す。〈世尊・迦葉、五十一世、七代祖宗の影現 成〉は〈妙法の曼荼羅〉の〈相貌=色法〉となり、〈光現成〉〉は〈妙法の曼陀羅〉の 〈功徳=心法〉となる。〈身現成なり、心現成なり〉は〈色心不二〉を示し、〈失脚来 なり、尖鼻来なり〉は〈久遠即末法〉を示す。〈師すでに裏頭より弟子をみ、弟子すで に頂にんより師を拝しきたれるは、正伝の面授なり〉は、〈因果倶時=能動即受動〉で ある。〈因果異時=能動対受動〉の心で、〈他者〉を〈大日如来〉のように崇めて、そ の前にひれ伏すとき、〈己心の魔〉が目を覚ます。 かくのごとくの面授を尊重すべきなり。わづかに心跡を心田にあらはせるがごとく ならん、かならずしも太尊貴生(たいそんきさん)なるべからず。換面(わんめん)に面受 し、廻頭(ういとう)に面授あらんは、面皮厚三寸なるべし、面皮薄一丈なるべし。すな はちの面皮、それ諸仏大円鏡なるべし。大円鑑を面皮とせるがゆゑに、内外無瑕翳(な いげむかえい)なり。大円鑑の大円鑑を面授しきたれるなり。 まのあたり釈迦牟尼仏をみたてまつる正眼を正伝しきたれるは、釈迦牟尼仏よりも親 曾なり。眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむるなり。かるがゆゑに、釈迦牟 尼仏を、おもくしたてまつり、釈迦牟尼仏を恋慕したてまつらんは、この面授正伝をお もくし尊宗し、難値難遇の敬重礼拝(きようじゆうらいはい)すべし。すなはち如来を礼 拝したてまつるなり。如来に面授せられたてまつるなり。あらたに面授如来の正伝参学 の宛然なるを拝見するは、自己なりとおもひきたりつる、自己なりとも、他己なりとも 、愛惜(あいじやく)すべきなり、護持すべきなり。 〈かくのごとくの面授〉とは、〈釈尊=諸仏〉を〈承継=面受〉する〈三昧=只管打 坐〉にほかならない。〈わづかに心跡を心田にあらはせるがごとく〉は、〈文底秘沈= 眼晴〉を示している。〈太尊貴生(たいそんきさん)なるべからず〉は〈凡夫即極〉を表 し、〈換面(わんめん)・廻頭(ういとう)〉は〈いま、ここに〉開く〈一瞬一瞬=始源の 時〉を表す。〈文上=表層〉の参学は〈換面〉となり、〈文底=奧底〉の参学は〈廻頭 〉となる。〈面皮厚三寸・面皮薄一丈〉は、〈肯定即否定・能動即受動〉の〈譬喩=喩 説〉であり、その〈面皮=相貌〉は〈諸仏大円鏡=妙法の曼荼羅〉となる。〈諸仏大円 鏡〉は〈内外無瑕翳(ないげむかえい)〉となり、〈無瑕翳内外〉は〈大円鏡諸仏〉とな る。 〈眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむる〉の〈眼尖〉は〈只管打坐〉と なり、〈前後三々〉は〈始源の時〉となり、〈釈迦牟尼仏見出現〉は〈師弟不二=境智 冥合〉となる。〈敬重礼拝(きようじゆうらいはい)〉は〈難値難遇〉なのであり、〈難 遇難値〉は〈礼拝敬重〉なのである。道元の〈あらたに面授如来の正伝参学の宛然なる を拝見するは、自己なりとおもひきたりつる、自己なりとも、他己なりとも、愛惜(あ いじやく)すべきなり、護持すべきなり〉という〈公案=命題〉は、何を〈聞著=道得 〉しているのか。〈自己〉は〈他己〉をはらみ、〈他己〉は〈自己〉をはらむ。〈愛著 〉は〈護持〉をはらみ、〈護持〉は〈愛著〉をはらむ。〈肯定〉は〈否定〉をはらみ、 〈否定〉は〈肯定〉をはらむ。そのさらなる〈文底=奧底〉が問われるのである。
2016年7月23日土曜日
面授之巻
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿