2016年4月22日金曜日

道元の教えとポジティブの共通性を考える

■禅としての基本である「脚下を照顧せよ」は正法眼蔵でいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。
弁道話(はんとうわ)
01
諸処の仏祖には、皆方便によらぬ法が備わっており、無上の覚りを明らめる
にあたって、作為にわたらぬもっとも優れた妙術がある。人は人それぞりで
ありながらこの妙術が、仏祖から仏祖に授け伝えれて誤ることがないのは、
それがただただ己が受用し、1人一人が己を己の煩悩から開放していく
ことに、準拠しているからである。
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。

13
我々にはもともと無上の覚りが欠けているのではない。それは常に己自身に
具わっているのであるが、まともに体験されず身心によって承認し得ないところから
みだりに知的な認識や観察的な知識を用いることが習慣となっており、このような
己の知覚が作ったものを追いかけることから、真の覚りをうっかりと見逃している
のである。このような主観と客観の入り混じる知見によって、空花は幾通り
にも表れるのである。それをあるいは無明、行識、名色、六処、触、受、愛、取、
有、生、老、死の十二の因縁による輪廻転生だと思い、欲界の四悪趣、須弥四州、
六欲天、色界の四禅天、大梵天、夢想天、阿那含天の七有、無色界の四空処天
など、二十五有の境界だと考えるのだが、これらは覚りではなく、声聞、縁覚、
菩薩、人、天の三乗とか五乗とか、仏は有であるか仏は無であるかなどと諸処の
見解は尽きることがないのである。

16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。

19
仏法における心性は、因があって生じる諸現象の相互に関係した全体として
大いなる総相そのものだという考えは、全現象界を包含して、本性と現象を
分かつことはなく、生滅を別々に説くことはないないのだ。菩薩涅槃に及ぶまで
すべては心性のほかではないのである。一切の諸法、森羅万象はみなただ一心
の他ではないのであって、これを包含せず兼備しない物事は全くないのである。
仏法の無数の法門は、みな平等な一心である。仏法の門にはどれも異なるもの
はないと説くのは、これすなわち仏家の心性を知った態度である。
このようであるにもかかわらず、この仏法において身と心とを分別し、生死と
涅槃とを別々に分けるはずはない。我々はすでに仏弟子である。外道の見解
を語るかの狂人の舌の響きを、耳に触れさせてはならない。



「脚下を照顧せよ」さらには「修証一如」に通じるものとしては、ポジティブ
心理の様々な自己確認評価手法と同様のものがある。
例えば、具体的な項目をタル・ベン・シャハーが学生向けに、多くのワークの
実践方法を述べている。
その14)では、
本来の自分を知る。
本来の自分に戻る時間を持つこと。
信頼する友人に気持ちを語ったり、心に浮かぶあらゆることを
日記に書いたり、自分の部屋で一人で過ごす時間を作る。
以下の文章の後半を最低6つづつ、思いつくままに書く。
例えば、
自分の気持ちにあと少し正直になるためには、
自分が恐れていることにあと少し気付くことが出来れば、
あと少し本来の自分に戻るためには、
文章をジックリ見直し、実行すること。
また、この行動の一つとして、自身の「分からない」を受け入れるもある。
知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。
「ただ歩くこと」を習慣とするのが、重要といわれている。
外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の
息遣い、静けさ、森の生命力など、五感を最大限に使い感じる。
⇒古仏雲門はいう、「山是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是れやまと言っているのではない。山は是れやまと言っている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質
が現れる。山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、
祖師の聖を現している。山水はそのまま仏経である。(31)

山水経では、山水そのものが覚りのための御経であり、御堂と言っている。
ポジティブの中で「自然に身を置くことで自身を見直す」ことを推奨している。


以下の手順の実践で、今、自分が感じていることを感じるままに
受け入れること。
①楽な姿勢で座る。
②深く域を吸い、ゆっくりと吐く。
③自らの感情、感覚に集中する。
④自分を許し、あるがままに自身を解放す。
⑤想像の中で、様々な感情を味わう。

■「精神性と超越性」があるが、これは「身心脱落」に相通ずる。
セリグマンは、世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるという。
これは様々な文化、宗教、風土に関わらず人類に共通したものといわれる。
それには、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
⑥精神性と超越性とは、
審美眼、感謝の念、希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
精神性、目的意識、信念、信仰、寛容さと慈悲深さ、ユーモアと陽気さ
熱意、情熱、意気込み

これは、現成公案にその言葉がある。
04
自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。もろもろの現象の
なかに自我の在りようを認識するのが覚りである。迷いを迷いとして大悟
するのが覚りえた人々であり、また、己の認識に執着するのが衆生である。
覚りの上にさらに覚りをうる人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。
覚りえた人々がまさしく覚りをえた人々である時、その人は自分が覚りえた
人であると認識する事がない、それは身心が覚りに同一化しているからである。
そのようではあるけれども、その人は仏法を知りえた覚者であって、さらに
覚りを求めていく。
06
仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、
自己を忘れることである。答を自己の中に求めないことだ。すべての現象の中に
自己を証あかすのだ。自己とはもろもろの事物のなかにあってはじめてその存在
を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己をも脱落させて
真の自己を無辺際な真理の中に証すことである。こうしたことから、覚りの
姿は自らには覚られないままに現れてゆくものだ。
14
万象もまたそのようである。一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相が
あるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
森羅万象にある真の姿を知るためには、目には見える形のほかに、残りの
形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っている事を知らねば
ならない。己の周囲のみがこのようにあるわけではない、己自身も
微小な存在もこのようであること知らねばならない。



■正法眼蔵から見る坐禅の世界とポジティブ心理にて実践されるマインドフルネス、
異なる文化の中で育った人間修養であり、私は坐禅、マインドフルネスいずれもが
数えるほどの体験であり、無我の世界に達するなど、とても感じえない体験で
しかない。マインドフルネスも専門の先生の指導を受けたわけでもない。
その浅はかなる所為である事は認識してはいるものの、その根底は何故か一つの
流れの中にあるように思える。例えば、ポジティブで言う「フロー体験」は道元
の説く坐禅の所作、「坐禅儀」「坐禅箴」の記述とは全くの別のアプローチ
であるが、そこから自分の姿を見つけるという点では、同じと思う。
また、セリグマンは、世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるといい、
その一つとして「精神性と超越性」があるが、これは「身心脱落」に相通ずる。
「只管打座」は一般の人間にとって出来うるものなのか、大いに疑問を持っているが、
もっとも、道元禅師によれば、ただ坐ればよいのだから誰にでも出来るとの話もある、
「脚下を照顧せよ」は、ポジティブ心理の様々な自己確認、評価を具体的な項目にて
実施することと同じアプローチを違う表現で実施する事ではないか、と思う。
正法眼蔵は自身の人生訓、生き逝く道標と考え、日々の実践行為は、ポジティブ心理の
推奨する所作で深める、そんな事を今は考えている。
此処では、この2つを述べる事で、今後更に体験体感を深めてみたい。なお、
正法眼蔵の現代訳や道元の考え方などについて、和辻哲郎氏など何冊かの本を
参考にしているが、中々に難しい。


■ポジティブ心理の実践、マインドフルネス
人の能力は無限である。しかし、その潜在能力は、黙っているだけでは、
何も形になって出てくる訳ではない。
セリグマンは、世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるという。
これは様々な文化、宗教、風土に関わらず人類に共通したものといわれる。
それには、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
①知恵と知識
好奇心と関心、学習意欲、判断力、批判的思考、偏見のなさ
さらには、独創性、創意工夫、社会的な知性、個人的知性、将来の見通し
②勇気
武勇と勇敢さ、勤勉、粘り強さ、継続的努力、誠実、純粋、正直
③人間性と愛情
思いやりと寛大さ、愛する事と愛される事、協調性、義務感、チームワーク、
忠誠心
④正義
公平さと公正さ、リーダーシップ、
⑤節度
自制心、慎重さ、思慮深さ、注意深さ、謙虚さと慎み深さ、
⑥精神性と超越性
審美眼、感謝の念、希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
精神性、目的意識、信念、信仰、寛容さと慈悲深さ、ユーモアと陽気さ
熱意、情熱、意気込み

私自身、その形化するのに、結構有効な手法がポジティブ心理学の
様々な手法と想っている。
今回のマインドフルネスや、一日再現法、ポジティブポートフォリオなど
キチンと成果を出すには、それなりの経験者が必要かもしれないが、
1人でも、十分に出きるものもある。
それは、複雑で、不安な日々の続く今日の社会では、是非、実践
してもらいたい方法でもある。

1)マインドフルネスとは
インドフルネスという言葉は、行為を指して使われることもあれば、
精神状態を指す場合もある。ここでは、集中力を研ぎすます脳の
トレーニングとして、マインドフルネス瞑想という「行為」として
考える。
これには大抵の場合、いつもより呼吸を意識するという方法をとり、
こうして鍛えた脳は、瞑想後も長い間、マインドフルな「状態」で
いられるようになる。マインドフルネスの状態にある時は、自分の
まわりで起こっていることに、意識を完全に集中できている。
なお、後述するように、マインドフルネスの実践には、瞑想のほかにも
いくつか別の方法があるし、瞑想にもたくさんの種類がある。

2)マインドフルネスの基本
マインドフルネスとは、単純に言えば、その一瞬に全力を傾けること。
一般に言われる、マインドフルネスについては、
「今という瞬間に、余計な判断を加えず、自分の人生がかかっている
かのように真剣に、意識して注意を向けること」
と定義している。

シンプルな定義だと思うかもしれませんが、現代の混沌とした世界では、
何かに100%没頭することなど容易ではない。それは、同僚から同じ話を
聞かされて、もう3度目になるという時でも、ほんのわずかでさえ気を
そらさずに聞き入ることや、皿洗いや「バス停までの道」のような身近な
状況でも五感をフル稼働させることを意味する。

■同じ考え方が道元の正法眼蔵、山水経の中に「以而にこん」がある。
「過ぎ去った時」「この瞬間」は二度と戻ってこない、ということを表した禅語。
絶対の生命の真実は「今」この時をおいて他にない。「今」この瞬間を大切に
生きなければならない、ということを教えています。
過ぎ去った時間ばかりに心を寄せてはいけません。誰しも過去を振り返ることは
ありますが、過去の失敗を悔やんでばかりいたり、過去の苦しみから
抜け出さずにいたり、あるいは、過去の栄光にばかりしがみついていたりする。
人は誰しもそのような心を持っているものです。そう簡単に断ち切れるもの
ではないかもしれませんが、大切なのは「今」というこの瞬間に生きること。
一生懸命に「今」を生きていく。それが未来に繋がっていくのです。
過去の中に生きるのではなく、二度と来ない「今」を生き切ることが大切だ
と教えている言葉です。

「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住じゅうして、究尽
ぐうじんの功徳を成ぜり。空劫己前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。
朕兆未萌みぼうの自己なるがゆえに、現成の透脱ちょうとつなり」

すべての存在は、今をおいて他にはない。そのいま、そこにある山水に、過去、
未来、永劫の仏の真実が結実している。
以下のような解釈もある。

ここにいう山水とは、古仏の解脱の相を表す言葉である。山も水もともに
本来ありのままの場にあって、真実を究めつくしている。空劫以前の、あらゆる
世界存在以前の姿にあることによって、普遍的な現在を活き活きと示している。
ものの兆しも現れぬ前の原存在であることによって、有事現成という存在の
事態を超えている。

自然存在としての青山はもともと有情でもない、非情でもない、眼耳鼻舌心意など
六根の作用とは無縁である。自己もまたもともとの自然存在としては有情でもない。
非情でもない。青山とは大自然そのものを意味するのであるから、青山が歩んでいる
ことに疑いを持つことはできない。諸所の教えにある十法界また四法界などの世界観
に準じて、青山を観照してもしかたがないのである。(04)

ーー道元の自然観は、移らないものである。春は春、夏は夏というように絶対的な
今の切り口がある。だからいずれの季節も基本は同じである。自然を抒情的な
流れ消えゆくものとして見るのではなく、変化の中に永遠の姿を捉える。


およそ山水を観るのに、種類に従って異なることがある。
水を観照するとき、水を瓔珞と観るものがある、天衆がそうである。しかし、
人間が観ている水を天衆が瓔珞と観るわけではない。我々が水を何々と
観る形を、彼らが水と観ることこともあるだろう。彼らにとって瓔珞と
観えるものを我々人間は水と観るのだ。水を不思議な華と観るものがある、
天衆がそうである。そうであっても、彼らが花を水として用いているのではない。
鬼にとっては水は猛火と見え、濃血とも見えるそうだ。竜宮に住む魚に取って
水は宮殿にも見え、立派な楼閣とも見えるだろう。人間が水を、あるいは七宝
摩尼珠と観る、あるいは樹林や土くれと観る、あるいは清浄解脱の法性と観る、
あるいは真実人体と観る、あるいは身体の相心の性と観る、人間がこれらを
水と観るのは、人間にあっても彼ら天衆や鬼や魚にはない観照である、これを
殺すも活かすもそれぞれの因縁である。(14)


「山は超古超今より大聖の所居しょこなり、賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を
身心とせり。」
山そのものが雄弁な経文である。
だいたい山は国土に属しているといっても、山を愛する人、山を知る人に属すのだ。
山が必然としてその主たる人を愛するとき、聖人賢人など徳の高い人は山に入るのだ。
聖人賢人が山に住むとき、山はこれらの人と一如となることから、木々も岩石も
鬱然となり、禽獣の霊も奇譚を現し聖人賢人の徳を蒙り、その伴侶ともなり
侍者ともなる。知るべきである、山は賢者を好む実を具え、聖人を好む実を
備えているのだ。(26)

古仏雲門はいう、「山是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是れやまと言っているのではない。山は是れやまと言っている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質
が現れる。山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、
祖師の聖を現している。山水はそのまま仏経である。(31)

山水経では、山水そのものが覚りのための御経であり、御堂と言っている。
ポジティブの中で「自然に身を置くことで自身を見直す」ことを推奨している。

⇒ポジティブでも「自然の中に身を置くことこそ自分を知ることが出来る」
と言っている。タル・ベン・シャハーが学生向けに、多くのワークの
実践方法を述べている。

その19)がこれに共通する。
自身の無知を受け入れる
知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。
「ただ歩くこと」を習慣とする。
外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の
息遣い、静けさ、森の生命力などを感じる




■以下にマインドフルネス効用を上げてみる。

①常に新しいカテゴリーを創造する:マインドフルネスな状態であれば、
旧来の分類方法やレッテルにとらわれることなく、状況や文脈に注意を払い、
新たな特徴を見出すことができる。
例えば、レンガを単なる建材と見るのではなく、ブックエンドや武器、
ドアストッパーなど、いろいろな利用法を思いつくことができる。

②新たな情報を積極的に受け入れ、物事をさまざまな視点から捉える:
マインドフルネスな状態は、カテゴリーを創造できるだけでなく、常に新たな
情報を受け取り、新たな可能性に対してオープンになることも意味する。
例えば、あなたとパートナーはいつも自分のやり方にこだわって、同じこと
で喧嘩ばかりしているかもしれません。けれども、相手の視点に対して
オープンになることで変化が生まれる可能性がある。

③結果よりも過程を重視する:マインドフルネスな状態は、結果について
あれこれ心配するのでなく、ひとつずつのステップに意識の焦点を当てる
状態。
例えば、テストの出来を心配するより、その教科を本当の意味で学ぶこと。

つまり、マインドフルネスとは、すべての経験に焦点を合わせ、より意識的
になることであり、「だから何?」と思う人もいるが、マインドフルネスを
高めれば、集中力が増し、創造性や幸福感、健康、リラックス感が高まり、
もっと自分をコントロールできるようになる可能性がある。

生活上での例では、減量や健康的な食生活に役立つ。
マインドフルネスの考え方を食事に当てはめれば、五感をフルに使いながら、
一噛み一噛みを意識してゆっくり食べることになり、この食べ方を実施した
被験者たちのカロリー摂取量は、空腹時でさえ、対象グループに比べて低く
抑えられた、との研究成果もある。

意思決定能力を高める。いくつかの実験によって、マインドフルネス瞑想
を実施した人や、もともと性格的にマインドフルネスの状態に近い人は、
「サンクコストの誤り」を免れているという相関関係が確認されている。
サンクコストの誤りとは、それまでに費やした時間やエネルギーを惜しんで、
先の見込みのない交際や仕事にしがみついてしまう傾向を言う。

ストレスを減らし、慢性的な健康問題の改善を助ける。200の実証研究を
対象にしたメタ分析によって、マインドフルネスは、慢性疼痛、ガン、心臓病
などの患者の心身の健康をいずれも改善させることが明らかになった、と言う
成果もある。

残念ながらマインドフルネスは、直ぐにその成果が出るものではない。
けれども、徐々に高めていくことはできる。
マインドフルネスを実践するには、どんなに忙しくても、どんなにストレスの
たまる状況でも、いつも意識を研ぎ澄ましていなくてはいけない。
例えば食事中であれば、フォークを置くたびに、「一噛み一噛み味わって食べる」
という目標を思い出すようにするとか、職場でなら、「1時間ごとの時報」など
のリマインダーを設定して、ちょっと休憩をはさむと良い。

ほかの実践方法を見ても、感謝の心を持つ、物事をコントロールしようとしない、
など、意外に簡単なものがあり、ポジティブ心理では、他にも様々な手法を
考えている。

3)マインドフルネスの実践に向けて
具体的には、以下の6つのステップがある。

①背筋を伸ばして座り、足を組んで、視線を下に向ける。
②自然に浮かんでくる思いと、人為的な考えとを区別する。
③三繰り返し過去を思い出したり、未来への不安で気が散るようなら、
それそれを最小限に抑えるために、こう考え直してみる。
「過去も未来も、現在の私の心の中の想像にすぎない」。
④瞑想中は、ちょうど船の「錨」のように、呼吸が集中をつなぎ止めてくれる。
⑤息を吐くたびにひとつ数を数え、21まで数えたらまた1に戻る。
⑥思いが浮かんでくるのを無理に抑えようとせず、心を自然に任せる。

この一連の手順は、マインドフルネス瞑想として知られており、
マインドフルネスを育む最高の方法のひとつ。
これは一種の脳のエクササイズで、普段の生活を送りながらでも実践できる
(続けやすくするひとつの戦略は、シャワーや犬の散歩など、毎日の日課の
最中にこの訓練を行うこと)。

最後にひとつ注意事項すべきは、マインドフルネスの実践はとても有益だが、
心を自然に任せたほうが良い時もあるということ。ある報告では、創造性や
洞察力のためには、ぼんやりしたり空想にふけったりすることが
必要である可能性を紹介しているし、高度にマインドフルネスな状態は、
「潜在的学習」(無意識のうちに、新しいスキルや習慣を学ぶこと)における
効率の低さと相関している可能性があるとのこと。


ポジティブで言う「フロー体験」は道元
の説く坐禅の所作、「坐禅儀」「坐禅箴」の記述とは全くの別のアプローチ
であるが、そこから自分の姿を見つけるという点では、同じと思う。



■道元の教え、坐禅
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。

道元の思想の根本は、
「修証一如」。
道を探り、悟りを求めて座禅すると言うそのプロセス自体の中に既に、悟りがある
と言う。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは1つである。

「正法眼蔵随聞記」には、
「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。
学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人
よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき
ではない。」と言っている。
また、「宝慶記」には、
「参禅は身心脱落なり、、、祇管に打坐するのみなり」とあるが、道元は
如浄に身心脱落とはなにか、と問うている。これに対して、如浄はそれは坐禅であり、
只管に打坐する時、見る、などの五感の対象への執著などを離れるからであると
答える。対象にかかわり、これに執著することが、自己と世界の真実の姿を
見る眼から覆い隠す。坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの
世界をありのままに見ることが成就するであろう」とある。

正法眼蔵全95巻の「弁道話」には、
「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。仏法には、修証これ
一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり」
「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。
「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと
言っている。
この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の
足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、
坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。

道元の基本的なスタンスは、まずは、既存の考えを否定することではないか、
とも思える。
例えば、
涅槃経の 「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」は、誰にでも、仏に
なる素質を持っている、と解するが、道元は、違う。
「一切の衆生、悉有が仏性である」と説く。
一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木虫類に至るまで、そのまま
仏性と考えている。

道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、
冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。
しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に姿を現していて、
それ以外には、季節の現れ方はないと言う絶対的真理があると言っている。
すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに現れていて、何一つ
変わることはない。そう思えば、心は非常に涼しいという境地を詠んでいる。


正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に
書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、
雨露をもらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下に
あてなさい。風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。

また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。
日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的なことから日常茶飯事のことまで
追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で壁に向かい坐禅する
ことで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。

生死の巻

道元は、その92巻で、生死についても言っている。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。

そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」
生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。

死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。

元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を言っている。
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。

生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」をキチンと理解
することの出来る人は少ない。私自身も言葉としての認識しか出来ない。
しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくないはずである。
昨年のような大きな病気になっても、わが身では、まだまだ、不十分。
健康な人が生死を意識しないのを、少し意識するようになったぐらいかもしれない。

正法眼蔵の、「生死の巻」
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。
…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも
いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」

「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に
著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ
下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもう
ことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」

この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻である。
しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。
この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、
これは修証義のはじめの言葉でもある。私たちにとって生死の問題
を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題。
この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実
であり、そして如何に死を迎えるかということが大切である。
それは如何に生きるかということでもある。

正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の
因縁なり」とあり、つまりこれこそが仏教の根本問題である。

「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元の生死観
が言い尽くされている。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、
真理の外に生死はないということである。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」
という意味であります。ここに引用させていただいた言葉の大意
を現代語に訳して置く。(道元の詠み方より)

「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨て
ようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に
執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を
厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界
にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」
仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれて
ゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて
生死を離れることができ、仏となるのであります。

「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、
悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、
上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、
願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、
このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」

これが現代語訳であり、生き死ぬということ、つまり生滅ということは
大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常こそ世の道理である。
このことがわかり、而今を全機に生きるならば「生死なし」である。
これは物質的な生死は人間だれしも避けられないが、それを厭いまた
願うという執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに
受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは
心安らかで、まさに悟りの境地というべき。

「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめ
なりけり」という古歌がある。生も大宇宙の真理、死も
大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということ
が私たちに与えられた永遠のテーマであり、日々仏法僧の
三宝に帰依する生活を送りたいもの。

正法眼蔵1のその一 現成公案、仏性、身心学道、即心是仏、行仏威儀、一顆明珠、心不可得、古仏心、弁道話(はんとうわ)

正法眼蔵随聞記の一文、
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人曰く、百尺竿頭かんとう
如何進歩と」
この出典は、「百尺竿頭かんとうすべからくこれ歩を進むべし、十方世界これ全身」
から来ている。とにかく高い竿さおの先端に立っていて、そこからさらに宙空に一歩
踏む出せと言っている。ただ、その竿は断崖絶壁に突き出しており、人生とは
そのようにバランスを取りながら竿の上を行くものだ、やっとここまで来たと言う
想いがあるものの、もう先は行き詰まりだという状況となったとき、
「すべからくこれ歩を進むべし」一歩を踏み切れと言っているのだ。そこで、
踏み出したらどうなるか、落ちて行く自分も感じない、身も心も脱け落ちたような
自分が無になってしまう。そうなった時、十方世界、つまり全宇宙が逆に自分の身
と一致する。あるいは、自分が全宇宙にまで広がっていく、と言っている。

正法眼蔵の理解は、帰納的な進め方ではなく、演繹的な進め方によれば、
すすむかもしれない。始めの言葉よりも後半のフレーズを始めへと展開していく?


現成公案
・現実は、あるがままで、なに不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること
・現成とは、ものの姿形を現したことだ。、、、したがって公案とは万古不易の真理、
それが公案だ。だから現成これが公案、公案が現成となって現れる。

これらからは、
現実の事象や存在するものは、それを真実だとする肯定する根拠に裏付けられている。
つまりこの世の一切の存在はそのまま真理の表れだ。

「現にそうなっている事象、事物」が我々の取り組むべき問題なのである。
時代背景の認識が必要である。
この時代は、「現実がそのまま真実だ」と言えるような現状肯定の社会ではなかった。
むしろ、現実のあり方を根底的に問い直すべき変革と激動の時代であった。それは、
幾多の高僧の地道な努力から仏教が過酷な現実に苦しむ民衆の末端まで達したことに
現れ、社会の大きな変化が始まっていた。

「諸法の仏法なる時節、即ち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、
衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、惑いなく、悟りなく、諸仏なく、
衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、
迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといえども、花は愛惜にちり、
草は棄嫌におうるのみなり。」

諸法 普段我々が認識している個々の事物
仏道 仏法に適った生き方
豊倹 豊かさと乏しさ
従来の二元的な生き方を離れ,仏法に沿った生活実践により新しい自分を創る

第一 現成公案の章より、
01
森羅万象は普遍不変の理法によって保たれつづけている。
そうした事象として、人に迷いがあり、覚りがあり、迷いとはなにか、覚り
とはなにかを知ろうとする努力があり、生があり、死があり、覚りえた人々
があり、覚りえていない人々がいる。

02
もろもろの自然の事物に自我はない。人の自我も幻想である。人は誰であっても
自己であるほかはないのだが、自己と言う意識は幻想である。迷いも覚りも
覚りえた人々も、覚り得ない人々も、生も死も、全ては空である。もろもろの
存在現象の本質は空であって、実体ではないのが存在現象の本質である。

03
仏の教えは事柄の大小や豊かさ狭さを超えていて、人の世の有り様は、仏の
教えそのままである。この世に、生があり、滅があり、迷いがあり、覚りが
あり、覚りえない人々として衆生があり、覚りえた人々として仏がいるけど、
それらはすべて空であるほかはない。
このようではあると言え、散る花を惜しみ、生茂る草を嫌うのも人の
心のありようである。すべての現象は実体ではないとはいえ心は心である。

04
自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。もろもろの現象の
なかに自我の在りようを認識するのが覚りである。迷いを迷いとして大悟
するのが覚りえた人々であり、また、己の認識に執着するのが衆生である。
覚りの上にさらに覚りをうる人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。
覚りえた人々がまさしく覚りをえた人々である時、その人は自分が覚りえた
人であると認識する事がない、それは身心が覚りに同一化しているからである。
そのようではあるけれども、その人は仏法を知りえた覚者であって、さらに
覚りを求めていく。

06
仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、
自己を忘れることである。答を自己の中に求めないことだ。すべての現象の中に
自己を証あかすのだ。自己とはもろもろの事物のなかにあってはじめてその存在
を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己をも脱落させて
真の自己を無辺際な真理の中に証すことである。こうしたことから、覚りの
姿は自らには覚られないままに現れてゆくものだ。


13
たとえば、船に乗って陸も見えない海原に出て四方を見ると、海はただ丸いと
だけ見えて、そのほかの姿に見えることがない。しかし、この大海は、丸いもの
ではなく、四角なものでもなく、目には見えない海の様相は尽くしきれない
姿をもっている。それは宮殿のように瓔珞のように見事なものである。
しかし、目の及ぶばかりには、ただ丸いと見えるだけである。

14
万象もまたそのようである。一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相が
あるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
森羅万象にある真の姿を知るためには、目には見える形のほかに、残りの
形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っている事を知らねば
ならない。己の周囲のみがこのようにあるわけではない、己自身も
微小な存在もこのようであること知らねばならない。

18
風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚おうぎをつかう
「風の性は常に変わることがなく、処として周あまねからざることがない、なにゆえに
和尚は更に扇を使われる」(仏性はもともとあるもので、行き渡らないところなど
どこにもない。まずは黙って扇を使い、風を味わう行動を起こすことが肝要)

19
仏法が保っているありのままの在り様とはこのようである。仏法がまさしく伝わり
活かされる路とはこのようである。風の性は常に変わらぬ性であり、変わりなく
普遍であるから扇を使ってはいけない、扇を使わなくとも風を感じろというのは、
不変であり普遍であることの意味も知らず、風の性は己自身の性である事を
知らないのである。風の性は不変普遍であるからこそ、仏法の風は大地に黄金の
豊かさを現出させ、ガンジス河の恵みを、其の乳酪のような大きな恵みをもたらした
のである。

良寛の辞世の句がある。
形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉
自分は死んでいくが、そのままでよい。自然の豊かな四季がある。


第三 仏性の章より
01
釈迦牟尼仏は言われた、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、変易有ること無し」と。
すなわち、「一切衆生とは、類として存在するものであり、普遍的に存在するもの
すべてであり、仏性である、あるがままのものであり常に変わることは無い」と。
さらに、在るがままのは是事実であり、真実は是虚空である。虚空は即ち真実であり、
真実は是仏性である」とも言われている。

03
釈迦牟尼仏が言われる「一切衆生、悉有 仏性」の、この言表の主旨はどのよう
であるか。これこそは六相大鑑が弟子の南獄に問うた是汁摩物「存在するもの、
この名でないものはなにか、仏とは何か、如来「あるがまま」とはなにか」
を問う大命題である。「これはなにか」と問わねばならぬ仏教を包括しつつ
その根源を示す大説法である。これを「一切衆生は、悉く仏性を有する」などと
軽々しく浅薄に理解してはならないのだ。悉有とは、あるいは衆生と言い、有情
と言い、群生と言い、群類とも言うのであって、類として共生する衆生をいう
言葉であり、衆生は群としての存在である。
すなわち、悉有の語は仏性の語と同じであって、衆生とは悉有、万有、の一分
をも全分をも言う言葉なのだ。
「一切衆生、悉有、仏性」の言葉を、正に釈迦が説くように理解する時、釈迦は
悉有、万有、の一分である有情としての衆生の内界と外界は、すべて仏性である
悉有、万有、なのだと説いているのである。慧可、道育、道副、尼総持の四人の
弟子の夫々に与えたと伝えられている菩提達磨の皮、肉、骨、髄が達磨の全身の
一部ではないことを思えばよい、達磨の皮、肉、骨、髄は達磨の一部ではない
のである。そのとき達磨は「汝は吾が全身を得た」と言っているからだ。
知るべきである、いま仏性によって存在している有とは、具体的な存在を言う
有無の有ではない。一切の存在を意味する悉有とは、仏の語であり、仏が語る
ものであって、形而上の認識であり、形而上の言葉である。それは仏祖たる
智慧であり、仏祖の真面目である。悉有とは始まり出現する現象の有を言うのでは
ない。それは物質的な有ではない。有であり非有であり無でありながら無ではない
空としての絶対の有でもない。ましてや縁の相関作用によって起こる有や、六識、
色声香味触法また施行の対象である有ではない。心の作用や主観からする対境、
事物の本性や現象の相などにはかかわらないのである。

05
それは始めて生じる有ではない、全世界には一塵といえど新たに改めて受け取る
ものはないからである。それは個々の有ではない、すべては総合されているから
である。
それは始まりが無い有ではない、何者もすべてはそれぞれ何ものとしてあるからだ。
それはあるときに始めて生ずる有ではない。移ろう時も万象の去来も常に変わる
ことがないからである。
「尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。悉有それ透体脱落なり」
(人間には誰でも仏性という一つの資質、種子が備わっている。したがって、
是に目覚め、これを育むことで、人間は誰でも仏になれる。主体性が基本
としてある)

(27)
すなわち、草木叢林の無常である姿が、そのまま仏性なのだ。
人や物質や身心の在りようの無常の相が、そのまま仏性なのだ。
国土山河の無常の相は、そのまま仏性のは活らきのなかにある。
無上平等の覚りは仏性の活らきの本質を覚るところから無常なのだ。
大いなる涅槃はそのまま無常であることから仏性なのだ。



「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」
涅槃経の一節。今までの解釈では、誰でも仏になる素質がある。真理はどこにでも
あって、変わることはない。
道元は、違うという。
「一切の衆生、悉有が仏性なり」と考える。「悉有」はそれ自体が仏の言葉である、
と言う。「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生という」

「悉有仏性」は、「涅槃経」の師子吼菩薩品に説く「悉く仏性有り、如来は常住にして
変易(へんにゃく)あることなし(悉有仏性 如来常住 無有変易)」に基づきます。
 私どものこの命というものは、広大無辺の宇宙いっぱいのいのちです。この命という
ものは途方もない因縁によって生じているのです。太陽系も因縁生なら地球も因縁生で
あり親兄弟も因縁生ということになります。この因縁生の中で本当の自分を見いだすこ
とが「一大事因縁」と示されています。
 「悉有仏性」のことを、法華経では「諸法実相」ともいいます。 
「悉有(しつう)」は、あらゆるものに、すべてにゆきわたって確かに存在すると
いうこと。「仏性」は、仏になる可能性ですから「悉有仏性」とは、一切の衆生は
例外なくみな仏になる可能性を持っているということです。

悉有仏性は訓読みする場合は「悉く仏性有り」と読むのが通例です。ところが、
「悉く仏性あり」というと、私たちはどうしても「仏性」という何か実体がある
ように考えてしまいます。しかし、「一切衆生悉く仏性有り」といいましても
「これが仏性だ」と指し示すことはできません。故に道元禅師は「正法眼蔵」
仏性の巻で、「悉有は仏性なり」と読み変え示されるところでしょう。
原典の涅槃経の思想をさらに深めて、「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ」
と説き示されるのです。ここにも道元禅師の鋭い思想眼が輝きます。
すなわち「悉有」は、悉く有りという保有することではなく、天地全部が仏性
であるということなのです。また「一悉」という一は、たんなる数字の一
ではなく全ということですから、一悉を言いかえると「全悉」となるでしょう。
したがって「悉有の一悉」は、悉有の一部分ではなく「その存在の全て、
悉く」ということになります。よって道元禅師が「悉有の一悉を衆生といふ」
のは、「一切衆生(生命あるものすべて)に仏性がある、一切衆生が、
そのまま仏性である」と示されるのです。

道元禅師は「正法眼蔵」仏性の中で次のように述べられています。
「ある一類おもわく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるおひしきりに
うるおすとき、芽茎(がきょう)成長し、枝葉華果も(茂)すことあり、
果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する。凡夫の
情量なり。、、、、みな同じ万象として仏性に支えられていることになる」
(08)
意訳すれば次のようになります。
ある一群の人達は、仏性というものを草木の種と同じように考えている。
種をまくと、日光の恵みや雨のうるおいで、やがて芽を出し茎も成長し、
枝や葉が茂り、花が咲き実を結ばせる。仏性もその通りで、衆生の中に仏性
の種が宿っていて、いろいろな仏縁や良縁、つまり因縁がこれを育てると、
ついには結実して仏性があらわれる。このように思っている者が沢山
いるが、これは凡夫の勝手な憶測にすぎないのである。
つまり、自分の中に仏性という種子があって、それをうまく育てると、
やがて仏性の花が咲き、仏性の実を結ぶというのではない。
「只管打坐(しかんたざ)」とは坐った刹那に仏性そのものなのだという
ことになります。坐禅したから、その時間に応じて少しずつ仏性という
実が結ばれるというのではない。草木で例えれば、花や実だけが仏性
というのではなく、その芽も仏性現前、茎も枝葉も仏性現前です。
全部一切が仏性そのものだという受け取め方によってとらわれのない
坐禅になるのです。

正法眼蔵の「仏性」の「無常仏性」について、現代語訳では、
「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法、分別心なり」ここで六祖が
おっしゃる無常とは、外道(仏教以外の教え)や二乗(小乗)などが
推し量る事など出来ないものである。二乗や外道の始祖や末流が「無常である」
などと言っても、かれらは究め尽くしていないのである。つまり、無常が
自分から無常を説き、修行し、「さとり」を得るのは皆無常なのである。


第四 身心学道
(2)
仏道を学ぶのに、先ず2つのことがある。
心を持って学び、身を持って学ぶのである。
心を持って学ぶと言うのはあらゆる処々の心を持って学ぶのである。その処々の
心とは、質多心(心意識)・汗栗駄心(心臓、精髄、心情の起こるところ)・牟栗駄心
(成長し学を積み励ましを受ける心)である。また、衆生の心に仏の心が
感応して、菩提心を起こした後、覚者の大道に従い,菩提心のなす行いを学ぶの
である。
たとえ未だ真実の菩提心が起こっていなくとも、先に菩提心を起こしている
覚者の覚りを学ぶべきである。
それは発菩提心である、赤心片々である、古仏心である、
平常心である。生死流転やむことのない迷界は心にほかならない。


菩提心とは、無常を観ずるときには吾我の心を生ぜず、無常を正しくみつめる
心もまた菩提心(切実に人生の道を求める心)といってよい」と示されています。
その菩提心をおこすことを「発菩提心」(ほつぼだいしん)といいますが
道元禅師はこれを重視します。「発菩提心」、略して発心といいますが、
道元禅師は発心し、修行し、それから身心脱落するとは示されません。
『発菩提心はそのまま得菩提心』ということになるのです。いいかげんな発心
ではどうにもなりませんが、本当の発心ならば、その発心のところに道が
得られているというのであります。けれども、その発心が一時の夏の線香花火
のようなものであれば、火が消えればそれと共に道も消えてしまいます。
それ故に、発心の連続が要求されるのです。発心さらに発心さらに・・
発心であります。道元禅師は百千万発の発心と示されるのです。
その発心が切れ間無く続くならばそれが「仏道」というわけです。
仏教では短い時間のことを「刹那」といいますが、これは時間の単位のひとつ
であって、指をはじく間の時間が64刹那という説や、一昼夜が648万刹那
(時間計算では約0.013秒)という説があります。
この一刹那にあらわれ一刹那に消えていくことを「無常」といいますが、
「無常」というのは、たとえていえば、人間の体は分子生物学によると、
6ヶ月経つと完全に細胞が入れ替わってしまうというのです。茶髪にしようと
指を染めようと、髪も爪も皮膚も血液も、そのままあり続けているのではなく、
分子レベルでいえば生死は刹那にいれかわっているということなのです。
同じように流れ続けているように見える川の水にしても全存在も同じことです。


面山和尚の言葉で言えば「一寸の坐禅は一寸の坐仏」です。線香が一寸燃える間
の坐禅であっても、只管に坐れば、たとえ初心者であっても年が若くても、
直ちに仏性そのものであり、坐仏です。
道元禅師の教えは「只管打坐(しかんたざ)」ですが、黙って坐るという形のみ
を示しているのではないのです。
只管とはよそ見をしないことです。余念のないことです。
坐禅をすればじょじょに悟ることができるとか、坐禅をすれば悟れるとかいう
のは「只管打坐(しかんたざ)」ではありません。悟ろうとか、仏性というもの
を手に入れようと思っているかぎり、悟ることはできませんし、仏性を体得して
いない証拠でもあります。生のときは生が仏性、死のときは死が仏性です。
つまり、悟りや仏性を追い求めるという姿勢ではいつになっても正法を得られるもの
ではないということになります。

「山は超古超今より大聖の所居しょこなり、賢人聖人ともに山を堂奥とせり、山を
身心とせり」(山水経)


道元においても人間や世の中の儚さを強調し、それゆえに修行に励むべき
とする言説がみられたが、それらは、無常と常住を対立的に捉えた言説であった。
このような言説が特に仏教修行をはじめたばかりの初心者や在家信者
にとって有用であるということはいうまでもないが、仏教の「無常」に関する
言説は更に、その先の事態を表現しようとする。
無常と常住を対立的に考えて、無常なる俗世を脱して常住なる仏道世界を目指せ
という言説が第一段階の言説であるとすると、この無常と対立するものとして
設定された常住は、実は無常であると理解するのである。これは仏教の実体化
批判を土台としたものであり、とりあえず、無常に対立するものとして想定された
常住なるものも、固定的ではなく、すべたは無常であることが明らかにされる。
これが第二段階である。そして、さらに、あらゆるものが無常であるという
第二段階の議論を推し進め、更に高次化した「無常」の理解を示すの
が段三段階となる。この段階においては、移りゆくこの瞬間、瞬間の中に
永遠が読み取れる。後述する「修証一等」の構造においては、修行とは
「さとり」を得るための手段ではなく、修行する一瞬一瞬が「さとり」である。
となると、「さとり」と言う永遠の真理の体得は、修行の一瞬一瞬において
行われることになる。つまり、修行の一瞬、一瞬にこそ、永遠が宿る。
無常と常住を峻別する二分法は、修行する、つまり、生きる現場から離れた
抽象的な立場であり、そのとき、その場所においては、ただ心理を顕現する
行為があるのみである。それは、まさに「永遠の今」といいえる。
これが第三段階である。

第5  即心是仏
(14)
即心是仏とは、普遍の理法に目覚め、修行し、覚り、覚りの中に不生不滅を覚った
諸覚者のことである。未だ目覚め、修行し、覚り、覚りの中に不生不滅を覚らない
者は、即心是仏ではない。そして、たとえ一瞬のうちに目覚め覚るのも即心是仏
である。たとえ極小極微の事象のなかに目覚め覚るのも即心是仏である。たとえ、
無量の年月のうちに目覚め覚るのも即心是仏である、たとえ自らの一念において
目覚め修証するのも即心是仏である。たとえほんの僅かなあいだ目覚め覚るのも
即心是仏である。このようであるものを、たわけどもが、長い間修行して覚るのは
即心是仏ではないなどというのは、こうしたやからが即心是仏すなわち真の諸仏
にあったことが無いからである。いまだ諸仏というものを知らないのである。
いまだ真の仏法を学んだことがないのである、即心是仏を説き明かす正しい
師に会ったことがないのである。
ここに言う諸仏とは、釈迦牟尼仏なのだ。釈迦牟尼仏が、これこそ即心是仏なのだ。
過去、現在、未来、にわたる諸仏が、皆それぞれに仏となったとき、彼らは
かならず釈迦牟尼仏となるのである。これが即心是仏である。

第六 行仏威儀
(1)
諸覚者はかならずその一挙一動にわたって威儀を具えるものだ、これが行仏である。
行仏とは修行の功に報われて得られる真理と一如となった報身仏ではない。
即ち、種種の身に変じて衆生の前に現れ済度する応化仏ではない、いうところの
自ずと法楽を得る自受用身仏ではない、また他受用身仏ではない。妄想を払って
活らく始覚、本来具えている成仏を求める智慧が活らき始める本覚ではない、
仏智が自ずと現れる性覚ではない、学問知解など全て不要とする無覚ではない、
これらのような仏は、まったく行仏とは異なる。
(2)
知るべきである、諸覚者の修行にあたっては、身体の感覚に依拠することは
ないのである。
覚りを超越した覚りへの道に日々をあげて修行するのは、ただ行仏のみである。
自性仏とか自性清浄とか言っている類が、夢にも見ないところである。
この行仏は、人々の前に姿相となって現れるのでありから、行為に先立って現れる。
人を導く活らきが言葉に先立って漏れ出るのであって、行仏は時を運ばない、
所を選ばない、日々の行いすべてにわたるのだ。行仏でなければ、覚りに縛られ
自己に縛られることから未だ抜け出ることなく、宗門に閉じこもる仏魔法魔の
ためにその仲間とされてしまう。

第七 一顆明珠
(10)
一顆の明珠は、名として明確な名詞ではないが、言いえている言葉であり、仏道では
真理を開示する言葉として認められて来た。一顆明珠の言葉は永遠と直通する言葉
として開かれている。往古にわたって永遠は果てなく、永遠なる今は常に到来
している。
今あるこの身、今あるこの心、これが明珠である。また、自然はかれこれの草木の
自然ではない、自然としての山河ではない、明珠としての草木「修行者はこれを如何に
会得したらよいでしょ」。この言葉は、たとえ僧の言葉遊びに似て見えても、大いなる
力量の発揮であり、また大いなる道理を示している。一尺の水が進めば一尺の波を
起こす。いうところの「1丈の珠は一丈を明らかにす」である。
(15)
この明珠という始めのない存在は時間空間に無限である。尽十方世界一顆明珠である、
二粒三粒という数を以って現す一粒ではない。人の全身は是普遍のの仏法そのもの
であり正伝する普通の仏法を保持する一隻の眼そのものであり、全身は真実そのもの
であり、全身これ此れの一句「尽十方世界是一顆明珠」そのもであり、全身これ
光明そのもであり、全身はこれ全心そのもの心相不二であり、全身がそのまま是の
ような全身であるとき、全身は曇りない全身である。円いものが転がるようであり、
車の果てしなく回るごときである。尽十方世界は明珠に表現され是のように現成
しているからこそ、この現象世界に現れる観音や弥勒があり、現実の身を持って
普遍の仏法を説きえた往古から今にいたる覚者たちがいるのである。

第八 心不可得
(1)
釈迦牟尼仏は言った。「過去の心は捉えようがなく、現在の心は捉えようがなく、
未来の心は捉えようがない」と。
是は仏祖が究めたところであって、心の流れは捉えられないという見所に立って心を
認識した。そうであるが、それは仏祖たち自身の心の流れの動機や根拠は捉えられない
と言い表しているのである。この現在の思慮分別は、捉えられないと言い表している
のである。さらに日常の二十四時間を使ってする全活動の、その動機や根拠は
捉えられないと言い表しているのだ。諸仏祖は覚りの奥所に入って、心不可得を
会得するのだ。
(07)
このように、修行する雲水たちよ、かならず勤学でなければならない、安易に学んで
いてはならない、勤学であったのは、仏祖たちである。徳山は「画に描いた餅は
飢えを満たさない」と歎いたが、金剛経も画に描いた餅である。およそ心不可得とは、
画に描いた餅を一枚買い、ひらりと一口に噛み砕くようなものである。

第九 古仏心
(02)
これまであげた四十人の仏祖は、すべて古仏であるといっても、心もあり身もあり、
それぞれの光明がありそれぞれの世界がある。

(07)
古仏心とはこうした心の場を言うのであるから、それは花開く万木百草である、
古仏の古今を貫きえた言葉である、この言葉は、古仏が古今の全時間空間を
問うているのである。この言葉において全世界は生起する、それは古仏の日の当たる
面、月光の当たる面である、明るい面また暗い面である、古仏の肉体である。
さらにまた古今に通じる心の修行となることもあるだろう、覚りが古今を通じる
心となることもあるだろう。古今を通じる心と言うのは、古仏の心は古今の時間
空間に渡るからである。古仏の心と覚りは必ず古今の事物現象の真相に通じる
のであるから、古今に通じる心はただの竹椅子のようであり、呼びようのない
ものである。尽大地に一個の仏法を会得する人を求めることは出来ない。仏法とは
森羅万象を保つ普遍の理法であるが、「仏」は覚りである「法」は森羅万象である、
1つで二つ、二つで一つである。

禅としての基本である「脚下を照顧せよ」はここでいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。

弁道話(はんとうわ)
01
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。

16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほか
に覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは、
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行によるほかは、
ない明証であるから、その覚りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での修行
であるから、すでに仏法修行に入ったものには初心というものはないのである。

正法眼蔵1のその二「南泉斬猫」「諸悪莫作(しょあくまくさ)」 百丈野狐の公案、現成公案

「正法眼蔵を読む」から

随聞記の2巻に記されている「南泉斬猫」と言う公案がある。
南泉は、弟子の僧たちが猫を巡って論争をしているのを見て、
この猫について的確に一句言い取ること(道得)が出来るのなら
猫を斬り殺さないが、出来なければ、斬り殺すと迫り、弟子たちが道得できず
にいると猫を斬り殺してしまった。
これについて、道元は、「此斬猫、即是仏行也」と評価した。
「今の斬猫ハ、是即仏法ノ大用、或ハ一転語ナリ。若もし一転語ニ非あらズハ、
山河大地妙浄明心トモ云ベカラズ、又即心是仏トモ云ベカラズ。即此一転
語ノ言下ニテ、猫体仏身ト見あらわれ、又此語ヲ聞テ、学人モ頓ニ悟人スベシ。
現代語訳
南泉が行った斬猫とは、仏法の大いなるはたらきであり、または、「一転語」
(一語を下して学人を迷いからさとりへと導くこと)である。もし、此れが
「一転語」でないならば、「山河大地が清浄な心である」(清らかな心で
見られた山河大地は心理の現われである)と言うこともできないし、また
「心が仏である」(自己の心は本来、仏としてさとっている)と言うことは
出来ない(斬猫の行為とは真理の現われであり、そのように斬猫は悟りの心
によってなされた絶対的な行為である)。すなわち、この一転語となる行為の
もとで、猫の身は仏身として顕現する。また、その行為に接した弟子たちも
速やかに真実のさとりに入る事が出来るのだ。」
そのとき、仏身としての猫にとっては、斬られることが仏の行いであり、
そして、その猫を南泉が斬ることも、仏の行いである。すべてのものが
仏として現われ、仏の行いをなすのである。衆生を「悟り」へと導く
慈悲行為であり、絶対的に善なる世界を思考する行為であり、南泉の行為は
修行者たちの迷いを一刀両断に切り捨て、「悟り」の世界を示す事になる。
しかし、この猫を斬り殺すという行為が不殺生を犯す行為であることについての
論考している。

P51
無常仏性とは世界のありとあらゆるものが一瞬一瞬に変化すると言う意味
で無常でありつつ、同時に、その一瞬が永遠の悟りと一体の、修行をなす
「永遠の今」として常住という事態である。

P65
修証一等とは何か、
「仏法には、修証これ一等なり、いまも証上の修なる故に、初心の弁道
すなわち本証の全体なり。かるがゆえ、修行の用心をさづくるにも、
修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。
現代訳
仏法では、修行と悟りは等しい。今行っている修行も、本来的な悟りに
基づいたものであるから、初心者の修行も本来的な悟りを余すところなく
現している。それゆえに、修行の心構えを授けるにあたっては、修行に
徹するだけで、悟りを期待してはならないと教えるのだ。

発心して、修行を始めたその時点では、自己が既に悟りを得ているという
その実感はない。そこで、とりあえあずは悟りを、現在の自己とは離れた
ところに、いわば、目的として設定し、それを求めて修行生活が開始される。
そして修行中のある瞬間に「縁起ー無自性ー空」を体得する。そのとき初めて
修行者は時分が悟りを体得する以前からすでに「空」の次元に身を置いていたと
自覚する。
既にあった「空」の次元を自身の身心を持って体現する事である。

P106
道元は、仏因となる仏性さえあれば、いつかは悟れる、とする考えは
「自然外道」として厳しく批判する。
仏性の有無を問う事にのみ腐心するような仏性理解は、個物に内在するもの
のみとして捉えてしまう事への危険性を意識していたからである。


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http://honjoutarou.blog107.fc2.com/blog-entry-108.html
莫作について
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょう
ごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
過去における真実を得られた方々が、言われた言葉に『諸悪莫作衆善奉行』があります

 諸悪莫作----さまざまの悪というものをなす事なく
 衆善奉行----さまざまの善い事を実際に行うべきである。

諸悪莫作衆善奉行を行えば、自然にその心が清くなっていく。
過去において、たくさんの真実を得られた方々がおられるけれども、その方々が共通に
説かれた教えは、この『諸悪ヲ作サズ、衆善ヲ行ナウ』と言うことに衝きます。
釈尊の説かれた教えは、釈尊が初めて説かれたところではあるけれども、その考え方と
は、非常に古い時代からあったと言う事が信仰の基礎になっています。
釈尊の説かれた教えは、単に釈尊が生きられた時代に初めて始まった事ではない。
その考え方・その原理は、ほとんど無限と言っていいくらい古い時代からすでに現存し
ていた。
そしてまた、無限と言っていいくらい今後も続くものだと言う信仰である。
釈尊の前に六人の真実を得られた方々があって、釈尊をあわせて七人の仏がいるという
考え方です。


私は、この巻を読むまでは、「諸悪莫作」は、「もろもろの悪をなすことなかれ」とい
う戒めの言葉だと思っていた。

 道元禅師もこの巻のなかで、仏の教えをはじめて聞いたときにこのように聞こえるの
は正しいことだと言っておられる。むしろ、このように聞こえないのは、魔説だと言っ
ておられる。

 しかし、この言葉は菩提語であり、その願いをもって仏が修行された力によって「も
ろもろの悪はなさず」が現成し、全世界、全宇宙を支配しているとされる。


 「莫」は、「なかれ」とも読むが「なし」とも読む。
 この言葉が漢訳される前の仏典ではどのように書かれていたのだろうか。

 原始仏典の一つである「ダンマパダ(真理の言葉)」では、パーリ語で、
 「すべての悪をなさず、
  善いことを実現し、
  自分の心を清らかにすること。
  これが目覚めた人たちの教えである。」
 と書かれているそうである。(中村元さんの日本語訳です。)
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P156
「諸悪莫作」を「諸悪なすことなかれ」ではなく、「諸悪がつくられざる」と
読む事を必然とする。本来の次元へ自己を帰順させることが悟りであると考える。
すなわち、本来の自分に帰還するならば、仏法への背反は存在しない。つまり、
悪はもはや存在しない。それを道元は、「諸悪はすでにつくられずなりゆえ」
と言っている。

P223
道元の因果観
・不昧因果
・深信因果
・善因善果
・悪因悪果
深信因果の巻では、「およさ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは
堕し、修善のものはのぼる。蒙厘もたがわざるなり」(因果の道理は明白であり、
不動のものである。悪を為す者は地獄や畜生道、餓鬼道に堕ち、善を為す者は
人間や天に生まれ変わり、ほんの少しの誤りもない)と言われている。
しかし、12巻本では、「不昧因果(因果の理は明々白々であり自分のなしたこと
の報いは自分が受けると言う事が強調され、過去、現在、未来の三世を
貫く因果応報がが説かれている。
因果同時について、
「諸悪莫作」の巻で「この善の因果、同じく奉行の現成公案なり。因はさき、果は
のちになるにあらざれども、因円満し、果円満す。因等法等、果等法等なり。
因にまたれて果感ずといえども、前後にあらず、前後等の道あるゆえに。」という
言葉はまさにこの因果同時を意味している。
また、「衆善奉行(もろもろの善を修行せよ)」では、善である因も善である果も
等しく「奉行(修行)」によって顕現されたものであり、因も果も等しく、
その意味で、前後関係ではなく、同時であると述べている。修行と悟りとは、お互いが
因となり果となりあっており、それを時間的な表現によって示すならば、
因果同時であり、修証一等ともなる。


存在の代表としてあげられているのが、春の松、秋の菊、諸仏、露中灯篭、払子シュ杖
そして、自己である。松や菊は、「渓声山色」の巻で、「春松の操アリ、秋菊の秀
ある、即是(真理の端的な現れ)なるのみ」といわれる。
露柱灯篭、払子シュ杖は「有事」の巻で、「有事シュ杖払子ほっす、有事露柱灯篭
のようにそれぞれの存在の実相を現す。ここでは、諸仏、自己も松も菊もすべて
同等の資格で並列されている。


P234
百丈野狐の公案
道元が晩年に新たに執筆した12巻にある。
百丈の説法を説く老人が実は遠い昔百丈山で修行していた層であるが、不落因果
の間違いにより、畜生たる野狐に落ちるが、百丈の言葉によって救済される。
「しかあればしりぬ。あしく祇対するによりて野狐身とならずいふべからず。
この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりとはいはず。さだめて破袋に
つつめる真珠あるべきなり。しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるとも
がらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり。迷妄によりて
しばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。
(野狐の身を脱した後でも、どうなるかは言っていない。野狐の身であった
時にも真珠のような円満な仏性をもっている。仏法をしない者は野狐の身を脱し
たら、本性の海に帰すると言っている。迷妄によってしばらく野狐に堕ちたと
言っても、開悟すれば、野狐の身は本性に回帰する)」


脚下照顧ともいう。直訳すれば、「脚下を照顧せよ」ということだが、外ばかり
を見て、自己の正体に暗い学人に対し、その本源を徹見するように促す言葉。
若し借路ならば、須らく脚下を照顧すべし。若し参差ならば、邯鄲に唐歩を学ぶ。
 『嘉泰普灯録』巻16
なお、ここで「見る」という行為は、視覚的状況に準えているものの、仏の眼で、
真実の道理を見ることを促すものである。
命脈、みな梅華よりなれるなり。ひとへに嵩山少林の雪漫漫地と参学することなかれ、
如来の眼睛なり、頭上をてらし、脚下をてらす。 『正法眼蔵』「梅華」巻
②単純に、足元を見よ、の意。履き物などを揃えるように促す言葉。玄関に、
この字句(または脚下照顧)を書いた立て札や張り紙がある。

ーーーーーーー

意訳   現成公案
現成公案   現在が現在になるあたりまえの深さ
(1)
諸法が仏法(自他能所をこえた生命実物)としてあるとき(差別相が分からなくなってい
るというわけではなく)、すなわち迷悟、修行、生死、諸仏、衆生など、
差別された相である。
(2)
しかし(自他能所をこえた生命実物)は、この我のアタマで考えるような実体的存在では
ないので、(その点から言えば)まどい、さとり、諸仏、衆生、生滅など(の差別がある
わけで)はない。
(3)
仏道(実際に自他能所をこえた生命実物に覚めて生きる生命運転において)は差別、
無差別をこえている(具体でなければならない)から、それゆえ、生滅、迷悟、
生仏というような(具体的)すがたである。
(4)
しかもこの場合、花は愛惜する心の手前に散り、草は棄嫌する心の手前に繁茂する
(というふうに、すべて人間的アタマの中の関係において、その在り方が現れる)。
自己を押し出して、自己の思惑とおりに、万法(自他能所分かれる以前の尽界、
生命実物)の在り方として、この自己を生かすのは、さとりである。
(迷悟は実体的にあるものではなく、人間的アタマの中で関係的にあるので
しかないから、却ってアタマ手放し、生命実物そのものに覚めて)迷いを
(迷悟をこえた生命実物として)大悟するのが諸仏であり、反対に悟りを
(自己の思惑内に手篭めにしようとして)大迷してしまうのが衆生というものである。
さらに悟りのうえに悟る漢(ひと)もあり、迷いの中にまた迷い込む漢もある
(生命は深さである)
(5)
(このように迷悟を別存在として、迷いの側から悟りを仰ぎみるのではなく、却って
ただ迷悟こえた生命実物を悟るのが諸仏なのだから)諸仏がまさしく諸仏であるとき
には(自己を外部的に観察して)自己を諸仏だとあえて覚知する必要はない。
しかし実物している諸仏であり(あらゆる行為において)仏の実物をしていく。
例えば身心をもって色を見、声を聞くもに、したしくとらえられているあるとき
(それは渾然たる一つの純粋生命現成であって、映すと映されるの二つがある
わけだけではなく)かがみにかげが映るごとくではなし。
水に月が映るごとくではない。一方が実物しているのを、一方がこれを見ている
ようなものではない(二つに分かれる以前の実物のみである。
-そのように諸仏が諸仏たる時、自ら諸仏の実物をしていくだけである。)
(6)
このような仏道(アタマ手放し、自他能所をこえた生命実物の、覚めた人生運転)
をならうことは、(尽界ぐるみの)自己をならうことである(尽界ぐるみの自己
のみが生命実物だからである)。このような(尽界ぐるみの)自己をならうととは、
自己をわすれることである。自己をわすれるとは、万法の在り方として
在らしめられるとは、この(個体的)自己、および他己(という自他、能所の思い)
を手放しにしてしまうことである。
さとりのあとかたもやめてしまうことである。(自分はさとっているぞというような)
あとかたもないさとりを生活していくことである。
(7)
(以上のように、仏法はどこまでも不二の生命実物をすることなので)人が法(仏法、
万法)を(向こう側に置いてこれを)求めるときには、(もはや人が法の外側に立って
しまっていて)はるか法の辺際(かぎり、はて)より離れ去っている。
法がすでに人に正しくつたわったときには、即座にそのまま本来人である。
例えば、人が舟にのっていく場合、目を向こう側にやって岸を見れば、岸が移って
いくのだと思いあやまってしまう。自らのっている舟に目をつけてよく見れば、
舟の進んでいるのを知るように、それと同じく思い乱れて、身心の向こう側に
万法を見れば、この自分というものを(モノサシにしてしまって、この自分が)
ゆるぎなく常住のものかと思ってしまう。
しかし、もし落ち着いて自分に立ち帰ってよく見れば、万法がこのわれのアタマ
で考えるような在り方のものでないことが明かとなるであろう(その点、万法は
われの追求目標としてあるようなものではないのである)。
(8)
(前の段で「もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法の
われにあらぬ道理あきらけし」と言ったが、ではわれのアタマで分別している
のではない。万法そのものの実物の様子とはどういうものかと言うとそれは
例えばー)たきぎは灰となる。これはもはや決してたきぎとなりはしない。
この場合、灰はのち、薪はさきとおもってはならない(このように薪はさき、
灰はのちとして推移を考えるのは、人間の思いの中の話なのであって、
本当は薪が灰となるという事実は、思い以上の実物としてあるのであり、
決して人間の思いの中で起こっているのではない。思い以上の実物としては)
薪は薪の在り方といsて、さきあり、のちあり、しかもこの前後は裁断している
のである。同様に灰は灰の在り方として、のちもあり、さきもあるのである。
かの薪が灰となってからのち、もはや薪とはならないように、人の死んだのち、
もはや生となることはない。このことを(人間のアタマで考えれば、生が死んだ、
と思うのだが)アタマ手放しの、生命実物(仏法)としては、生が死んだ、
と言わないのがならいである(死は生のつづきではなく、生は生、死は死として
前後裁断している)。このゆえに(仏法では、この思い以上の実物を)不生
(死の対概念であるような生ではない)という。また、死が生になると
言わないのも仏法としての言いかたである。このゆえに(仏法ではこの思い以上の
実物を)不滅(生の対概念であるような滅ではない)と言う。生も思い以上の実物
の一時のくらいであり、死も思い以上の実物の一時のくらいである。
例えば冬と春のようなもので、冬そのものが春になるとは思わないし、
春そのものが夏になると言わないようなものである。
(9)
(以上推移生滅について、仏法といての絶対的在り方を言ったのだが、だから
仏法として)人が悟りをうるという(分別的相対的な人間に、超分別的絶対の悟り
が現成する)ことは、ちょうど、水に月がやどるようなものである。月はぬれないし、
水も破れることはない。ひろく大きな光ではあるけれど、わずかな水にも映る
のであって、月全体も、空全体も、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。
悟り(という絶対)が(相対者である)人を破らないことは、月が水にやどって
穴をあけないのと同様であり(相対者たる)人が(絶対なる)悟りをさまたげない
ことは、露のしずくが天月のうつることをさまたげないのと同様である。
(いや、うつる、やどるという関係ばかりではない)水の深さ、天月の高さ
というものがあるように、悟りをうつす人間の深さは、それにやどる悟り
の高さでもあるだろう。そのときそのときの(行の)長短の在り方の中に、
すでにこの水の大小(人の深さ)および天月の広狭(悟りの高さ)が検点されてある
のであり、弁取されてあるのである。
(10)
この個体的身心に仏法という無量無辺が身につかないあいだは、仏法が分かった、
足った、と思う。無量無辺の仏法がこの身心に充足してきたら、一方は物足りない
思いがするものである。
(外からの観察者といsてではなく、自身がその中にどっぷりそれであると
いうことは)例えば、船に乗って山の見えない海の真只中に出て、四方を見る
ようなもので、その時、あたり一面ただ丸く見えるだけで、ことさらこと
なっているようには思わない。しかしながら、この大海は丸いものでもないし、
四角いものでもない。見えている以外の海徳はかぎりないものである。
同じ水を魚は宮殿と思うだろうとし、天人は瓔珞と思うだろうが、
それと同じく海の真只中に出て、われわれは、わがまなこの及ぶ範囲で、
今一応、大海は丸いと思っているだけである。
(海がわれわれの眼の及ぶ以上の所で、無辺であるように)万法もまた
そうである。世間も出世間もさまざまな風景をもっているわけだが、
今しばらく自分の参学眼力の及ぶ範囲内だけを理解し、会得するのである。
万法そのものの様子は、といえば(先の海の場合のように)、今一応見える
表面的な四角い、丸いということより以上に、見残された海や山の在り方は
無量無辺でいろいろな世界があるのだということを知るべきである。
このことは、自分の周囲環境だけがそうなのではなく、自分自身についても、
また一滴の水においても、そうなのだということを知らなくてはならない。
(11)
魚が水を泳いでいくのに、いくら行っても、(その働きの場である)水のはては
なく、鳥が空を飛んでいくにに、いくら飛んでも(その働きの場である)
空の限界はない。しかしながら、鳥も魚も昔から水、空を離れはしないのである。ただ
その働きの大きさが使用の大きさであり、働きが小さければ使う範囲も小さいだけであ
る。このようにして、そのときそのとき無辺際の生命を生きており、そこのところそこ
のところ自在の生命を働いているわけだが、もし鳥が空から飛び出せばたちまち死んで
しまうし、魚がもし水から跳び出せばたちまち死んでしまう。水という働きの場を
もって命としてのだと知ることができる。そらという働きの場をもって命として
いるのだと知ることができる。鳥(という個)が命としてあるのであり、
魚(という個)が命としてあるのである。命が鳥となっているのであり、命が魚と
なっているのであろう。(しかしいつもキマッタことがおこるというものではなく、
いつも)これ以上歩みを進めるであろう。それは実際の行動である。
その具体的な寿命を生きるとは、こういうことなのである。
(12)
そうであるのに、もし(予めアタマにおいて)水の全体をきわめ、空の全体をきわめて
のち、初めて水、空をいこうとする鳥、魚があったとしたら、それは水にも空にも
(実物として生きていく)みちもなければ、ところもないであろう。(大切なのは、
実物として生きていくところを得ることであって)このことを得れば、その行動の
一々に「現在が現在に成る」という生命の真実が実現するのである。
この(実物として生きていく)みち、ところは、大でもなければ、小でもない。
自でもなければ他でもなし。先よりあるのでもなく、今現ずるのでもないのであって、
ただかくのごとくであるのである(それはあらゆる比較、自他能所、時間などを
分別する、それ以前として、ただかくのごとくであるのである)。それと同じく、
人が仏道(アタマ手放しの尽界に目覚めて歩み道)を実際に行ずるのも、徳一法修一行
(今の歩みを一々覚め覚めて生きる態度)のみである。
これ(ーーこの徳一法通一法、遇一修一行という態度の中)に(実物を生きる)ところ
がある。そのみちは(生きる態度なるがゆえに)あらゆることに通じており、
(それゆえに一体どれほど覚めているか)その限界はハッキリしない(合格不合格、
卒業落第の話ではない)。それは(この覚めるという態度が)仏法(アタマ手放しの
実物)をきわめ尽くすことと、全く同じであるからである(覚める、覚められる
とい能所関係は成り立たないのである)。
自己に取得したところが、必ず自己の知覚分別となって、慮知にしられるものだ
と思ってはならない。実物すれば(行ずれば)そのまま実物現成ではあるけれど、
その有無を越えた在り方は、必ずしも見成は可必(何ともつかみようもない)
からである。
(13)
麻谷山(まよくざん)宝徹禅師が扇をつかっていたとき、ある僧がきて言った。
「風性は常住であり、処としていたらざるなきものである。何故ことさらに
和尚は扇をつかうのですか」。師は言った。「お前は風性の常住を知っている
けれど、まだ処としていたらざるなし、という道理を知らない」と。
僧いわく「いかなるかこれ処としていたらざるなしの道理」。そのとき師は、
ただ扇をつかうのみであった。僧は礼拝した。
仏法の実物のしるし、正伝のいきいきした働きは、このようなものである。
常住だから扇をつかう必要はない、つかわぬときも風はあるはずだというのは、
常住もしらず、風性をもしらぬのである。風性は常住であればこそ、仏家の
(生命を生命として行ずる)風は、大地(あらゆるもの)において黄金(絶対)を
現成するのだし、長河(あらゆるもの)を蘇酪(いきつく所へいきついたいき方)
にまで熟させるのである。

道元の教え

今から八百年ほど前の鎌倉時代 道元禅師(どうげんぜんじ)が正伝の仏法を 中国から日本に伝え 
瑩山禅師(けいざんぜんじ)が全国に広められ 曹洞宗の礎を築かれました
このお二方を両祖と申し上げ
ご本尊 お釈迦さま(釈迦牟尼仏)とともに
一仏両祖(いちぶつりょうそ)として仰ぎます。


1.道元の教え、坐禅
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。

道元の思想の根本は、
「修証一如」。
道を探り、悟りを求めて座禅すると言うそのプロセス自体の中に既に、悟りがある
と言う。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは1つである。

「正法眼蔵随聞記」には、
「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。
学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人
よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき
ではない。」と言っている。
また、「宝慶記」には、
「参禅は身心脱落なり、、、祇管に打坐するのみなり」とあるが、道元は
如浄に身心脱落とはなにか、と問うている。これに対して、如浄はそれは坐禅であり、
只管に打坐する時、見る、などの五感の対象への執著などを離れるからであると
答える。対象にかかわり、これに執著することが、自己と世界の真実の姿を
見る眼から覆い隠す。坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの
世界をありのままに見ることが成就するであろう」とある。

正法眼蔵全95巻の「弁道話」には、
「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。仏法には、修証これ
一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり」
「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。
「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと
言っている。
この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の
足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、
坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。

道元の基本的なスタンスは、まずは、既存の考えを否定することではないか、とも思え
る。
例えば、
涅槃経の 「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」は、誰にでも、仏に
なる素質を持っている、と解するが、道元は、違う。
「一切の衆生、悉有が仏性である」と説く。
一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木虫類に至るまで、そのまま
仏性と考えている。

道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、
冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。
しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に姿を現していて、
それ以外には、季節の現れ方はないと言う絶対的真理があると言っている。
すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに現れていて、何一つ
変わることはない。そう思えば、心は非常に涼しいという境地を詠んでいる。

道元は、その92巻で、生死についても言っている。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。

そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」
生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。

死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。

元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を言っている。
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。

生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」をキチンと理解
することの出来る人は少ない。私自身も言葉としての認識しか出来ない。
しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくないはずである。
昨年のような大きな病気になっても、わが身では、まだまだ、不十分。
健康な人が生死を意識しないのを、少し意識するようになったぐらいかもしれない。

正法眼蔵の、「生死の巻」
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。
…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも
いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」

「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に
著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ
下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもう
ことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」

この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻である。
しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。
この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、
これは修証義のはじめの言葉でもある。私たちにとって生死の問題
を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題。
この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実
であり、そして如何に死を迎えるかということが大切である。
それは如何に生きるかということでもある。

正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の
因縁なり」とあり、つまりこれこそが仏教の根本問題である。

「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元の生死観
が言い尽くされている。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、
真理の外に生死はないということである。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」
という意味であります。ここに引用させていただいた言葉の大意
を現代語に訳して置く。(道元の詠み方より)

「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨て
ようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に
執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を
厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界
にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」
仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれて
ゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて
生死を離れることができ、仏となるのであります。

「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、
悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、
上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、
願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、
このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」

これが現代語訳であり、生き死ぬということ、つまり生滅ということは
大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常こそ世の道理である。
このことがわかり、而今を全機に生きるならば「生死なし」である。
これは物質的な生死は人間だれしも避けられないが、それを厭いまた
願うという執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに
受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは
心安らかで、まさに悟りの境地というべき。

「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめ
なりけり」という古歌がある。生も大宇宙の真理、死も
大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということ
が私たちに与えられた永遠のテーマであり、日々仏法僧の
三宝に帰依する生活を送りたいもの。

正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に
書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、
雨露をもらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下に
あてなさい。風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。

また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。
日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的なことから日常茶飯事のことまで
追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で壁に向かい坐禅する
ことで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。

千夜千冊正法眼蔵七十五巻道元  和辻哲郎の日本精神史研究、

和辻哲郎の日本精神史研究より、
P156 沙門道元
道元は、「正法眼蔵」を現し、「直下承当の道は、参師問答と工夫座禅が
必須であると説いている。
宗教の真理は、あらゆる特殊、あらゆる差別、あらゆる価値をしてあらしむ
所の根源である。それは、分別を事とする「世の智慧」によっては捉まれない。
ただ一切分別の念を棄て去った最も直接なる体験においてのみ感得せられる。

その精進の方法は、
「行」の実践
あらゆる旧見、吾我の判別、吾我の意欲を放棄して、仏祖の言語行履に従うこと。
「行」の中核は、専心打坐である。
煩悩の克服が真理体現の絶対条件となる。
そして、真理を修行体得しようとするものは、第1に導師をを選ぶことであり、
正しい師に面接し、その人柄を見ることが必要となる。
第二に重大なのは、その師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸暇を惜しんで、
精進求道すること。
「正法眼蔵仏性」において、
「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」の涅槃経の言葉を重視する。

千夜千冊正法眼蔵より、
http://1000ya.isis.ne.jp/0988.html

聖書のように読むのには、昭和27年発行の鴻盟社の『本山版正法眼蔵』縮刷本を愛用
した。本山版というのは95巻本をいう。


すでに書いたように、この『正法眼蔵』にはいくつかの写本があるのでどれをもって定
番とするかは決めがたいのであるが、ここでは75巻本をテキストに、以下に列挙した
。ところどころに勝手な解説をつけた。全部を埋めなかったのは、それが道元流である
からだ。何かのためのプログラム・ガイドにされたい。

序 「辨道話」。これは『正法眼蔵』本文に序としてついているのではないが、長らく
序文のように読まれてきた。「打坐して身心脱落することを得よ」とある。この言葉こ
そ、『正法眼蔵』全75巻あるいは全95巻の精髄である。

一 「現成公按」。有名な冒頭巻だが、「悟上に得悟する」か、「迷中になお迷う」か
を迫られている気になってくる。道元は、仏祖が迷悟を透脱した境涯で自在に遊んだこ
とをもって悟りとみなした。それが「仏道を習ふといふは自己を習うなり、自己を習ふ
といふは自己を忘るるなり」の名文句に集約される。


二 「摩訶般若波羅蜜」。『正法眼蔵』は般若心経を意識している。しかし道元は「色
即是空・空即是色」をあえて解体して、「色是色なり、空是空なり」とした。『正法眼
蔵』はあらゆる重要仏典の再編集装置であるといってもいい。
三 「仏性」。
四 「身心学道」。
五 「即心是仏」。
六 「行仏威儀」。
七 「一顆明珠」。39歳のときの1巻。道元の好きな「尽十方世界是一顆明珠」にち
なんでいる。よく知られる説教「親友に譲るものは最も大切な明珠であるべきだ」とい
うくだりは、仏典の各所にも名高い。ぼくは親友(心友)に何を譲れるのだろうか。
八 「心不可得」。
九 「古仏心」。
十 
「大悟」。いったい何が悟りかと、仏教に遠い者も近い者も、それをばかり訊ねたがる
。ぼくの周辺にもそんな連中が少なくない。しかし道元は、「仏祖は大悟の辺際を跳出
し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」と言ってのけた。これでわからなければ
、二度と悟りなどという言葉を口にしないほうがいいという意味だ。

   
十一「坐禅儀」。
十二「坐禅箴」。
十三「海印三昧」。
十四「空華」。ここは世阿弥の「離見の見」を思い出せるところ。道元はそれを「離却
」といった。
十五「光明」。ここにも「尽十方界無一人不是自己」のフレーズが出てくる。尽十方界
に一人としてこれ自己なるざるなし、である。華厳は十方に理事の法界を見たのだが、
道元は十方に無数の自己の法界を見た。
十六「行持」。「いま」こそを問題にする。「行持のいまは自己に去来出入するにあら
ず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず。行持現成するをいまといふ」。
さらに道元は「ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり、これ
行持なるべし」とも書いた。一方、「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して
断絶せず」は、露伴の連環につながっているところ。
十七「恁麼」。「いんも」と訓む。「そのような、そのように、どのように」というよ
うなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁麼
なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁麼
あるなり」というふうに。
十八「観音」。
十九「古鏡」。鏡が出てきたら、禅では要注意だ。きっと「君の禅を求める以前の相貌
はどこに行ったのか」と問われるに決まっているからだ。
二十「有時」。道元はつねに「無相の自己」(フォームレス・セルフ)を想定していた
。その無相の自己が有るところが有時である。これを、時間はすなわち存在で、存在は
すなわち時間であると読めば、ハイデガーやベルグソンそのものになる。
   
二一「授記」。
二二「全機」。
二三「都機」。ツキと読む。月である。『正法眼蔵』のなかで最もルナティックな一巻
だ。「諸月の円成すること、前三々のみにあらず、後三々のみにあらず」。道元は法身
は水中の月の如しと見た。
二四「画餅」。ここは寺田透が感心した巻だった。「もし画は実にあらずといはば、万
法みな実にあらず。万法みな実にあらずば仏法も実にあらず。仏法もし実になるには、
画餅すなわち実なるべし」という、絶対的肯定観が披瀝される。
二五「渓声山色」。前段に「香巌撃竹」(きょうげんきゃくちく)、後段に「霊雲桃花
」を配した絶妙な章だ。百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の為山(イはさ
んずい偏)を尋ねるのだが、そこで、「お前が学んできたものはここではいらない。父
母未生已前に当たって何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。何も答えられない
ので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は「教えることを惜しみはしないが、そ
うすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」と突っぱねた。そのまま悄然として庵を
結んで竹を植えて暮らしていたところ、ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当た
って激しい音をたてた。ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。これが禅林
に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。
二六「仏向上事」。
二七「夢中説夢」。
二八「礼拝得髄」。41歳のころの執筆。きわめて独創的な女性論・悪人論・童子論に
なっている。ぼくも近ごろはやっとこういう気分になってきた。7歳の童子に対しても
何かを伝えたいなら礼をもってするべきだというのだ。
二九「山水経」。ぼくの『山水思想』(五月書房)はこの一巻に出所したといってよい
。曰く、「而今の山水は古仏の道、現成なり」「空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の
活計なり」「朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり」。これ以上の何を付け加
えるべきか。
三十「看経」。
   
三一「諸悪莫作」。ふつう仏教では「諸悪莫作」を「諸悪、作(な)す莫(なか)れ」
と読む。道元はこれを「諸悪作ることなし」と読んだ。もともと道元は漢文を勝手に自
分流に編集して読み下す名人なのだが、この解読はとりわけ画期的だった。諸悪など作
れっこないと言ったのだ。
三二「伝衣」。
三三「道得」。禅はしばしば「不立文字」「以心伝心」といわれるが、それにひっかか
ってはいけない。言葉にならずに何がわかるか、というのが道元なのだ。それを「道得
」という。道とは「言う」という意味である。
三四「仏教」。「仏心といふは仏の眼精なり、破木なり、諸法なり」と、3段に解く。
道元の得意の編集だ。そのうえで「仏教といふは万像森羅なり」とまとめた。ここには
十二因縁も説く。
三五「神通」。
三六「阿羅漢」。
三七「春秋」。しばしば引かれる説法だ。暑さや寒さから逃れるにはどうしたらいいか
という愚問に、正面きって暑いときは暑さになり、寒いときは寒さになれと教えた。絶
対的相待性なのである。
三八「葛藤」。かつてここを読んで愕然とした。「葛藤をもて葛藤に嗣続することを知
らんや」のところに刮目させられたのだ。煩悩をもって煩悩を切断し、葛藤をもって葛
藤を截断するのが仏性というもので、だからこそ仏教とは、葛藤をもって葛藤を継ぐも
のだというのである!
三九「嗣書」。
四十「栢樹子」。
   
四一「三界唯心」。
四二「説心説性」。心性を説く。しかしそこは道元で、一本の棒を持たせて、その棒を
も持ったとき、縦にしたとき、横にしたとき、放したとき、それぞれを説心説性として
自覚せよとした。デザイナーの鉛筆もそうあるべきだった。そこを「性は澄湛にして、
相は遷移する」とも綴った。
四三「諸法実相」。
四四「仏道」。
四五「密語」。密語とは何げない言葉のことをいう。その微妙に隠れるところの意味が
わからずには、仏心などとうてい見えてはこないというのだ。たとえば、師が「紙を」
と言う。弟子が「はい」と寄ってくる。師が「わかったか」。弟子は「何のことでしょ
うか」。師「もう、いい」と言う。これが曹洞禅というものである。
四六「無情説法」。
四七「仏経」。
四八「法性」。道元は37歳で興聖寺をおこしたが、比叡山から睨まれていた。そこで
熱心なサポーターの波多野義重の助力によって越前に本拠を移す。そして44歳のとき
、この1巻を綴った。「人喫飯、飯喫人」。人が飯を食えば、飯は人を食うというのだ
。飯を食わねば人ではいられぬが、人が人でいられるのは飯のせいではない。飯を食え
ば飯に食われるだけである。道元はこれを書いて越前に立脚した。
四九「陀羅尼」。ここは陀羅尼の意味を説明するのだが、それを道元は前巻につづけて
、寺づくりは「あるがままの造作」でやるべきこと、それこそが陀羅尼だというメタフ
ァーを動かした。たいした事業家なのである。
五十「洗面」。

永平寺山門
五一「面授」。いったい何を教えとして受け取るか。結局はそれが問題なのである。い
かに師が偉大であろうと、接した者がバカチョンになることのほうが多いのは当然なの
だ。しかし面授は僅かな微妙によって成就もするし失敗もする。道元は問う、諸君は愛
惜すべきものと護持すべきものを勘違いしているのではないか。
五二「仏祖」。
五三「梅花」。「老梅樹、はなはだ無端なり」。老いた老梅が一気に花を咲かせること
がある。疲れた者が一挙に活性を取り戻すことがある。「雪裏の梅花只一枝なり」。道
元は釈迦が入滅するときに雪中に梅花一枝が咲いた例をあげ、その一花が咲こうとする
ことが百花繚乱なのだということを言う。すでにここには唐木順三が驚いた道元による
「冬の発見」もあった。
五四「洗浄」。
五五「十方」。
五六「見仏」。自身を透脱するから見仏がある。「法師に親近する」とはそのことだ。
相手を好きになるときに自身を解き、相手に好かれるときに禅定に入る。が、それがな
かなか難しい。
五七「遍参」。仏教一般では「遍参」は遍歴修行のことをいう。しかし道元は自己遍参
をこそ勧めた。そこに遍参から「同参」への跳躍がある。
五八「眼晴」。
五九「家常」
六十「三十七品菩提分法」。
   
六一「竜吟」。あるときに僧が問うた、「枯木は竜吟を奏でるでしょうか」。師が言っ
た、「わが仏道では髑髏が大いなる法を説いておる」。それだけ。
六二「祖師西来意」。
六三「発菩提心」。越前に移った道元はいよいよ永平寺を構えるという事業に乗り出し
た。その心得をここに綴っている。そしてその事業の出発点を「障壁瓦礫、古仏の心」
というふうに肝に銘じた。そこにあるものを寄せ集めた初心を忘れるなということだ。
六四「優曇華」。
六五「如来全身」。
六六「三昧王三昧」。仏教が最も本来の三昧とする自受用三昧のことである。道元は三
昧を一種としないで、つねに多種化した。
六七「転法輪」。
六八「大修行」。
六九「自証三昧」。ここにも岩田慶治が好んだ「遍参自己」が出てくる。「遍参知識は
遍参自己なり」と。先達や師匠のあいだをめぐって得られる知識は、自分をめぐりめぐ
って得た知識になっているはずなのである。
七十「虚空」。
七一「鉢盂」。「ほう」と訓む。飯器のようなものだが、禅林ではこれを仏祖の目や知
恵の象徴に見立てて、編集稽古する。このときたいてい「什麼」(しも)が問われる。
「什麼」は「なにか」ということで、この「なにか」には何でもあてはまる。それゆえ
、何でもいいわけではなくなってくる。その急激な視野狭窄に向かって、道元が「それ
以前」を問うのである。
七二「安居」。
七三「他心通」。
七四「王索仙陀婆」。寛元4年(1249)、大仏寺は日本国越前永平寺となった。開寺に
あたって道元は寺衆に言った、「紙衣ばかりでもその日の命を養へば、是の上に望むこ
となし」と。
七五「出家」。道元は53歳の8月に入滅した。あれだけの大傑としては、早死にであ
ろう。遺偈は「十四年、第一天を照らし、趺跳(ふちょう)を打箇して大千を触破す。
噫、渾身もとむる処なく、活きながら黄泉に陥つ」というものだった。