2016年12月6日火曜日

海印三昧

海印三昧

大きい海が、すべての生き物の姿を映し出すように、一切の法(真理)を明らかに映し
だすことが出来るような大きい智慧が得られる「三昧(心の集中)のことです。
華厳宗では、この三昧を華厳経の根本三昧とします。この三昧で「事事無礙(じじむげ
)」の世界が成り立つと説いています。
事事無礙とは、ものごとの理論や事実の各要素が互いに対立することなく補い合って成
り立つ、一切の矛盾がない世界のことで、華厳経では最高の法の世界とされています。

【定義】

①無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味す
る。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では31巻、75巻本では13巻。仁治3年(
1242)4月20日に興聖寺で著された。

【内容】

①大海が全ての生き物の姿を映し出すような智慧を得ることができる三昧こそ、海印三
昧である。『大集経』『大般若経』などの大乗仏典で説かれたが、特に華厳宗では『華
厳経』が、海印三昧として説かれたものとされている。
衆生の形相、各同じからず 行業音声また無量なり かくの如く一切皆、能く現ずるは
 海印三昧の威神力なり 『華厳経』「賢首品第十二」

②道元禅師は①の意味を展開しながら、さらに中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって
解釈して『正法眼蔵』「海印三昧」巻を著した。
諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、説時あり、証時あり、
行時あり。

仏祖は海印三昧であり、教行証の三時として現れるとされた。そして、游泳という一語
に明らかなように修行しているまさにその時こそ海印三昧であり、具有している悟り(
本覚)や、修行して明らかにしていく悟り(始覚)という両方の概念から超脱すること
が示される。
いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、始覚を証中に拈来するにあらず
。おほよそ本覚等を現成せしむるは、仏祖の功徳なりといへども、始覚本覚等の諸覚を
仏祖とせるにはあらざるなり。

そして、修行している状況そのものから見られた世界の生成(創発)に論点が及び、い
わゆる「起」についての説示が続くが途中では、「有時」巻との関連を思わせる一節も
ある。
起はかならず時節到来なり、時は起なるがゆえに。いかならんかこれ起なる、起也なる
べし。すでにこれ時なる起なり。

『維摩経』や馬祖道一・曹山本寂の言葉を引用しながら、坐禅三昧によって明らかにさ
れたため全存在が絶対の事実としてあることを提唱されたが、特に曹山の言葉について
提唱しているときに、海が一切を受け入れることを表現している。また、この海とは、
修行道場のメタファーでもあり、だからこそ修行者は「清浄大海衆」と呼ばれる。
師いはくの包含万有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の
万有を包含するとはいはず、包含万有なり。大海の万有を包含するといふにあらず、包
含万有を道著するは、大海なるのみなり。

最終的に、道元禅師は「海が万有を包含する」という思考から更に進めて、万有が万有
を包含するという機能一元の思考となり、「包含万有包含于包含万有なり」とまでされ
る。



01
諸仏祖たちの覚りのありようは、海に映る影のようである。
それは心の集中のなかの遊泳である。
海は天を映し地を映し森羅万象を映す。心を集中して海を行く遊泳の中に、
仏祖の真理を説くときがある、証の時がある、行いの時がある。
海の上を行くことの本質は、徹底する行いにある。
深々とした海底の行を会場に浮かべるのである。それは人が流浪生死に処して、
それらに執着するような心の業ではない。「源にもどる」というような心の業でもない。
すべては、辺際を透脱した諸覚者諸仏祖の覚りはまた、いわば、森羅万象を
包含する海印三昧に流れ入るのだ。

02
釈迦牟尼は言っている、「もろもろのものによって、この身は合成されている。
わが身が生ずるときとはただ現象が生ずるときであり、わが身が滅する時とは
ただ現象が滅する時である。この現象が起こる時を、わが身が生ずるとは言わない。
この現象が滅する時を、わが身が滅するとは言わない。前後して生ずる時々の
思念は、先立つ思念が過ぎるのをまって後の思念を生ずるのではない、前後して
生ずる現象は、それぞれが相対立するものではない。こうした覚りを海印三昧
と名付ける。



佛とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、時あり、證時あり、行時あり
。海上行の功、その徹底行あり。これを深深海底行なりと海上行するなり。流浪生死を
還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。從來の透關破節、もとより佛の面面
なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。
佛言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時
、不言我滅。
前念後念、念念不相待。前法後法、法法不相對。是名爲海印三昧。
(佛言はく、但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。
此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず。
前念後念、念念不相待なり。前法後法、法法不相對なり。是れをち名づけて海印三昧と
す。)

この佛道を、くはしく參學功夫すべし。得道入證はかならずしも多聞によらず、多語に
よらざるなり。多聞の廣學はさらに四句に得道し、恆沙の學、つひに一句偈に證入する
なり。いはんやいまの道は、本覺を前途にもとむるにあらず、始覺を證中に拈來するに
あらず。おほよそ本覺等を現成せしむるは佛の功なりといへども、始覺本覺等の覺を佛
とせるにはあらざるなり。
いはゆる海印三昧の時節は、すなはち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。この
ときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせ
るにあらず、衆法合成なり。合成此身を此身と道得せるなり。
起時唯法起。この法起、かつて起をのこすにあらず。このゆゑに、起は知覺にあらず、
知見にあらず、これを不言我起といふ。我起を不言するに、別人は此法起と見聞覺知し
、思量分別するにはあらず。さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。
起はかならず時節到來なり、時は起なるがゆゑに。いかならんかこれ起なる、起也なる
べし。
すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髓を獨露せしめずといふことなし。起すなはち合成の
起なるがゆゑに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。聲色と見聞するのみに
あらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり。不言は不道にはあらず、道得は言得に
あらざるがゆゑに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起に
あらず。
古佛いはく、忽然火起。この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり。
古佛いはく、起滅不停時如何(起滅不停の時如何)。
しかあれば、起滅は我我起、我我滅なるに不停なり。この不停の道取、かれに一任して
辨肯すべし。この起滅不停時を佛の命脈として斷續せしむ。起滅不停時は是誰起滅(是
れ誰が起滅ぞ)なり。是誰起滅は、應以此身得度者なり、現此身なり、而爲法なり。過
去心不可得なり、汝得吾髓なり、汝得吾骨なり。是誰起滅なるゆゑに。
此法滅時、不言我滅。まさしく不言我滅のときは、これ此法滅時なり。滅は法の滅なり
。滅なりといへども法なるべし。法なるゆゑに客塵にあらず、客塵にあらざるゆゑに不
染汚なり。ただこの不染汚、すなはち佛なり。汝もかくのごとしといふ、たれか汝にあ
らざらん。前念後念あるはみな汝なるべし。吾もかくのごとしといふ、たれか吾にあら
ざらん。前念後念はみな吾なるがゆゑに。この滅に多般の手眼を莊嚴せり。いはゆる無
上大涅槃なり、いはゆる謂之死(之を死と謂ふ)なり、いはゆる執爲斷(執して斷と爲
す)なり、いはゆる爲所住(所住と爲す)なり。いはゆるかくのごとくの許多手眼、し
かしながら滅の功なり。滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは
、不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。すでに前法の滅なり、後法の滅
なり。法の前念なり、法の後念なり。爲法の前後法なり、爲法の前後念なり。不相待は
爲法なり、不相待は法爲なり。不相對ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得なり
。滅の四大五蘊を手眼とせる、拈あり收あり。滅の四大五蘊を行程とせる、進歩あり相
見あり。このとき、通身是手眼、還是不足なり。遍身是手眼、還是不足なり。
おほよそ滅は佛の功なり。いま不相對と道取あり、不相待と道取あるは、しるべし、起
は初中後起なり。官不容針、私通車馬(官には針を容れず、私に車馬を通ず)なり。滅
を初中後に相待するにあらず、相對するにあらず。從來の滅處に忽然として起法すとも
、滅の起にはあらず、法の起なり。法の起なるゆゑに不對待相なり。また滅と滅と相待
するにあらず、相對するにあらず。滅も初中後滅なり、相逢不拈出、擧意便知有(相逢
ふては拈出せず、意を擧すれば便ち有ることを知る)なり。從來の起處に忽然として滅
すとも、起の滅にあらず、法の滅なり。法の滅なるがゆゑに不相對待なり。たとひ滅の
是にもあれ、たとひ起の是にもあれ、但以海印三昧、名爲衆法なり。是の修證はなきに
あらず、只此不染汚、名爲海印三昧なり。
三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子な
る、摸枕子は億億萬劫のみにあらず、我於海中、唯常宣妙法華經なり。不言我起なるが
ゆゑに我於海中なり。前面も一波纔動萬波隨なる常宣なり、後面も萬波纔動一波隨の妙
法華經なり。たとひ千尺萬尺の絲綸を卷舒せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なるこ
とを。いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。前頭後頭とい
ふは頭上安頭なり。海中は有人にあらず、我於海は世人の住處にあらず、聖人の愛處に
あらず。我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣なり。この海中は中間に屬せず、内外に
屬せず、鎭常在法華經なり。東西南北に不居なりといへども、滿船空載月明歸(滿船空
しく月明を載せて歸る)なり。この實歸は便歸來なり。たれかこれを滯水の行履なりと
いはん。ただ佛道の劑限に現成するのみなり。これを印水の印とす。さらに道取す、印
空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずしも印海の印にはあら
ず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印
といふなり。心印を單傳して印水し、印泥し、印空するなり。

曹山元證大師、因問、承有言、大海不宿死屍、如何是海(承るに言へること有り、大海
死屍を宿せずと。如何なるか是れ海)。
師云、包含萬有。
云、爲什麼不宿死屍(什麼と爲てか死屍を宿せざる)。
師云く、絶氣者不著。
曰く、是包含萬有、爲什麼絶氣者不著(に是れ包含萬有、什麼と爲てか絶氣の者不著な
る)。
師云く、萬有非其功絶氣(萬有、その功、絶氣に非ず)。
この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。いま承有言といふ
は、佛の正なり。凡聖のにあらず、附佛法の小にあらず。
大海不宿死屍。いはゆる大海は、内海外海等にあらず、八海等にはあらざるべし。これ
らは學人のうたがふところにあらず。海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なる
を海と認ずるなり。たとひ海と強爲すとも、大海といふべからざるなり。大海はかなら
ずしも八功水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵にあらず。衆法は合成
なるべし。大海かならずしも深水のみにてあらんや。このゆゑに、いかなるか海と問著
するは、大海のいまだ人天にしられざるゆゑに、大海を道著するなり。これを問著せん
人は、海執を動著せんとするなり。
不宿死屍といふは、不宿は明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾
度逢春不變心(幾度か春に逢ふも心を變ぜず)なり。死屍といふは、すべて人人いまだ
みざるものなり。このゆゑにしらざるなり。
師いはく包含萬有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の萬
有を包含するといはず、包含、萬有なり。大海の萬有を包含するといふにあらず。包含
萬有を道著するは、大海なるのみなり。なにものとしれるにあらざれども、しばらく萬
有なり。佛面面と相見することも、しばらく萬有を錯認するなり。包含のときは、たと
ひ山なりとも高高峰頭立のみにあらず。たとひ水なりとも深深海底行のみにあらず。收
はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。佛性海といひ、毘盧藏海といふ
、ただこれ萬有なり。海面みえざれども、游泳の行履に疑著する事なし。
たとへば、多一叢竹を道取するに、一莖兩莖曲なり。三莖四莖斜なるも、萬有を錯失せ
しむる行履なりとも、なにとしてかいまだいはざる、千曲萬曲なりと。なにとしてかい
はざる、千叢萬叢なりと。一叢の竹、かくのごとくある道理、わすれざるべし。曹山の
包含萬有の道著、すなはちなほこれ萬有なり。
のいはく爲什麼絶氣者不著は、あやまりて疑著の面目なりといふとも、是什麼心行なる
べし。從來疑著這漢なるときは、從來疑著這漢に相見するのみなり。什麼處在に爲什麼
絶氣者不著なり。爲什麼不宿死屍なり。這頭にすなはち是包含萬有、爲什麼絶氣者不著
なり。しるべし、包含は著にあらず、包含は不宿なり。萬有たとひ死屍なりとも、不宿
の直須萬年なるべし。不著の這老一著子なるべし。
曹山の道すらく萬有非其功絶氣。いはゆるは、萬有はたとひ絶氣なりとも、たとひ不絶
氣なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、萬有に同參する行履あらんがご
ときは包含すべし、包含なるべし。萬有なる前程後程、その功あり、これ絶氣にあらず
。いはゆる一盲引衆盲なり。一盲引衆盲の道理は、さらに一盲引一盲なり、衆盲引衆盲
なり。衆盲引衆盲なるとき、包含萬有、包含于包含萬有なり。さらにいく大道にも萬有
にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり。

正法眼藏海印三昧第十三

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