海印三昧 大きい海が、すべての生き物の姿を映し出すように、一切の法(真 【定義】 ①無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るよう |
諸仏祖たちの覚りのありようは、海に映る影のようである。
それは心の集中のなかの遊泳である。
海は天を映し地を映し森羅万象を映す。心を集中して海を行く遊泳 の中に、
仏祖の真理を説くときがある、証の時がある、行いの時がある。
海の上を行くことの本質は、徹底する行いにある。
深々とした海底の行を会場に浮かべるのである。それは人が流浪生 死に処して、
それらに執着するような心の業ではない。「源にもどる」というよ うな心の業でもない。
すべては、辺際を透脱した諸覚者諸仏祖の覚りはまた、いわば、森 羅万象を
包含する海印三昧に流れ入るのだ。
02
釈迦牟尼は言っている、「もろもろのものによって、この身は合成 されている。
わが身が生ずるときとはただ現象が生ずるときであり、わが身が滅 する時とは
ただ現象が滅する時である。この現象が起こる時を、わが身が生ず るとは言わない。
この現象が滅する時を、わが身が滅するとは言わない。前後して生 ずる時々の
思念は、先立つ思念が過ぎるのをまって後の思念を生ずるのではな い、前後して
生ずる現象は、それぞれが相対立するものではない。こうした覚り を海印三昧
と名付ける。
佛とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、時あり、證時あり、行時あり 。海上行の功、その徹底行あり。これを深深海底行なりと海上行す るなり。流浪生死を 還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。從來の透關破節 、もとより佛の面面 なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。 佛言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、 不言我起。此法滅時 、不言我滅。 前念後念、念念不相待。前法後法、法法不相對。是名爲海印三昧。 (佛言はく、但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅 時は唯法の滅なり。 此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず 。 前念後念、念念不相待なり。前法後法、法法不相對なり。是れをち 名づけて海印三昧と す。) この佛道を、くはしく參學功夫すべし。得道入證はかならずしも多 聞によらず、多語に よらざるなり。多聞の廣學はさらに四句に得道し、恆沙の學、つひ に一句偈に證入する なり。いはんやいまの道は、本覺を前途にもとむるにあらず、始覺 を證中に拈來するに あらず。おほよそ本覺等を現成せしむるは佛の功なりといへども、 始覺本覺等の覺を佛 とせるにはあらざるなり。 いはゆる海印三昧の時節は、すなはち但以衆法の時節なり、但以衆 法の道得なり。この ときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなはち此身なり 。此身を一合相とせ るにあらず、衆法合成なり。合成此身を此身と道得せるなり。 起時唯法起。この法起、かつて起をのこすにあらず。このゆゑに、 起は知覺にあらず、 知見にあらず、これを不言我起といふ。我起を不言するに、別人は 此法起と見聞覺知し 、思量分別するにはあらず。さらに向上の相見のとき、まさに相見 の落便宜あるなり。 起はかならず時節到來なり、時は起なるがゆゑに。いかならんかこ れ起なる、起也なる べし。 すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髓を獨露せしめずといふことなし 。起すなはち合成の 起なるがゆゑに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。聲 色と見聞するのみに あらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり。不言は不道にはあ らず、道得は言得に あらざるがゆゑに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時 なり、三界の競起に あらず。 古佛いはく、忽然火起。この起の相待にあらざるを、火起と道取す るなり。 古佛いはく、起滅不停時如何(起滅不停の時如何)。 しかあれば、起滅は我我起、我我滅なるに不停なり。この不停の道 取、かれに一任して 辨肯すべし。この起滅不停時を佛の命脈として斷續せしむ。起滅不 停時は是誰起滅(是 れ誰が起滅ぞ)なり。是誰起滅は、應以此身得度者なり、現此身な り、而爲法なり。過 去心不可得なり、汝得吾髓なり、汝得吾骨なり。是誰起滅なるゆゑ に。 此法滅時、不言我滅。まさしく不言我滅のときは、これ此法滅時な り。滅は法の滅なり 。滅なりといへども法なるべし。法なるゆゑに客塵にあらず、客塵 にあらざるゆゑに不 染汚なり。ただこの不染汚、すなはち佛なり。汝もかくのごとしと いふ、たれか汝にあ らざらん。前念後念あるはみな汝なるべし。吾もかくのごとしとい ふ、たれか吾にあら ざらん。前念後念はみな吾なるがゆゑに。この滅に多般の手眼を莊 嚴せり。いはゆる無 上大涅槃なり、いはゆる謂之死(之を死と謂ふ)なり、いはゆる執 爲斷(執して斷と爲 す)なり、いはゆる爲所住(所住と爲す)なり。いはゆるかくのご とくの許多手眼、し かしながら滅の功なり。滅の我なる時節に不言なると、起の我なる 時節に不言なるとは 、不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。すでに前法 の滅なり、後法の滅 なり。法の前念なり、法の後念なり。爲法の前後法なり、爲法の前 後念なり。不相待は 爲法なり、不相待は法爲なり。不相對ならしめ、不相待ならしむる は八九成の道得なり 。滅の四大五蘊を手眼とせる、拈あり收あり。滅の四大五蘊を行程 とせる、進歩あり相 見あり。このとき、通身是手眼、還是不足なり。遍身是手眼、還是 不足なり。 おほよそ滅は佛の功なり。いま不相對と道取あり、不相待と道取あ るは、しるべし、起 は初中後起なり。官不容針、私通車馬(官には針を容れず、私に車 馬を通ず)なり。滅 を初中後に相待するにあらず、相對するにあらず。從來の滅處に忽 然として起法すとも 、滅の起にはあらず、法の起なり。法の起なるゆゑに不對待相なり 。また滅と滅と相待 するにあらず、相對するにあらず。滅も初中後滅なり、相逢不拈出 、擧意便知有(相逢 ふては拈出せず、意を擧すれば便ち有ることを知る)なり。從來の 起處に忽然として滅 すとも、起の滅にあらず、法の滅なり。法の滅なるがゆゑに不相對 待なり。たとひ滅の 是にもあれ、たとひ起の是にもあれ、但以海印三昧、名爲衆法なり 。是の修證はなきに あらず、只此不染汚、名爲海印三昧なり。 三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくの ごとく背手摸枕子な る、摸枕子は億億萬劫のみにあらず、我於海中、唯常宣妙法華經な り。不言我起なるが ゆゑに我於海中なり。前面も一波纔動萬波隨なる常宣なり、後面も 萬波纔動一波隨の妙 法華經なり。たとひ千尺萬尺の絲綸を卷舒せしむとも、うらむらく はこれ直下垂なるこ とを。いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがご とし。前頭後頭とい ふは頭上安頭なり。海中は有人にあらず、我於海は世人の住處にあ らず、聖人の愛處に あらず。我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣なり。この海中は中 間に屬せず、内外に 屬せず、鎭常在法華經なり。東西南北に不居なりといへども、滿船 空載月明歸(滿船空 しく月明を載せて歸る)なり。この實歸は便歸來なり。たれかこれ を滯水の行履なりと いはん。ただ佛道の劑限に現成するのみなり。これを印水の印とす 。さらに道取す、印 空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずし も印海の印にはあら ず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ 、泥印といひ、心印 といふなり。心印を單傳して印水し、印泥し、印空するなり。 曹山元證大師、因問、承有言、大海不宿死屍、如何是海(承るに言 へること有り、大海 死屍を宿せずと。如何なるか是れ海)。 師云、包含萬有。 云、爲什麼不宿死屍(什麼と爲てか死屍を宿せざる)。 師云く、絶氣者不著。 曰く、是包含萬有、爲什麼絶氣者不著(に是れ包含萬有、什麼と爲 てか絶氣の者不著な る)。 師云く、萬有非其功絶氣(萬有、その功、絶氣に非ず)。 この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり 。いま承有言といふ は、佛の正なり。凡聖のにあらず、附佛法の小にあらず。 大海不宿死屍。いはゆる大海は、内海外海等にあらず、八海等には あらざるべし。これ らは學人のうたがふところにあらず。海にあらざるを海と認ずるの みにあらず、海なる を海と認ずるなり。たとひ海と強爲すとも、大海といふべからざる なり。大海はかなら ずしも八功水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵に あらず。衆法は合成 なるべし。大海かならずしも深水のみにてあらんや。このゆゑに、 いかなるか海と問著 するは、大海のいまだ人天にしられざるゆゑに、大海を道著するな り。これを問著せん 人は、海執を動著せんとするなり。 不宿死屍といふは、不宿は明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なるべし。 死屍は死灰なり、幾 度逢春不變心(幾度か春に逢ふも心を變ぜず)なり。死屍といふは 、すべて人人いまだ みざるものなり。このゆゑにしらざるなり。 師いはく包含萬有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは 、阿誰なる一物の萬 有を包含するといはず、包含、萬有なり。大海の萬有を包含すると いふにあらず。包含 萬有を道著するは、大海なるのみなり。なにものとしれるにあらざ れども、しばらく萬 有なり。佛面面と相見することも、しばらく萬有を錯認するなり。 包含のときは、たと ひ山なりとも高高峰頭立のみにあらず。たとひ水なりとも深深海底 行のみにあらず。收 はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。佛性海とい ひ、毘盧藏海といふ 、ただこれ萬有なり。海面みえざれども、游泳の行履に疑著する事 なし。 たとへば、多一叢竹を道取するに、一莖兩莖曲なり。三莖四莖斜な るも、萬有を錯失せ しむる行履なりとも、なにとしてかいまだいはざる、千曲萬曲なり と。なにとしてかい はざる、千叢萬叢なりと。一叢の竹、かくのごとくある道理、わす れざるべし。曹山の 包含萬有の道著、すなはちなほこれ萬有なり。 のいはく爲什麼絶氣者不著は、あやまりて疑著の面目なりといふと も、是什麼心行なる べし。從來疑著這漢なるときは、從來疑著這漢に相見するのみなり 。什麼處在に爲什麼 絶氣者不著なり。爲什麼不宿死屍なり。這頭にすなはち是包含萬有 、爲什麼絶氣者不著 なり。しるべし、包含は著にあらず、包含は不宿なり。萬有たとひ 死屍なりとも、不宿 の直須萬年なるべし。不著の這老一著子なるべし。 曹山の道すらく萬有非其功絶氣。いはゆるは、萬有はたとひ絶氣な りとも、たとひ不絶 氣なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、萬有に同參 する行履あらんがご ときは包含すべし、包含なるべし。萬有なる前程後程、その功あり 、これ絶氣にあらず 。いはゆる一盲引衆盲なり。一盲引衆盲の道理は、さらに一盲引一 盲なり、衆盲引衆盲 なり。衆盲引衆盲なるとき、包含萬有、包含于包含萬有なり。さら にいく大道にも萬有 にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり。 正法眼藏海印三昧第十三
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