仏道修行の精神が明らかであれば、正法を知る精神も明らかである 。正法を知る精神が
明らかなことで仏道修行の精神は明らかになりうるのである。
この機微を身につけることが、必ず偉大な指導者に仕えて学ぶ時の 力になる。
その機微を学ぶのが修行の大切な過程であり、それは心からのあい さつや礼の中にある。
ここにいう偉大な指導者とは仏祖であって、かならずその身辺に努 めて使えなければならない。
02
このようであるから、茶を持ってこい、茶をいれよ、といった師の 日常に心から使えることによって
心の通い合いは現成し、日常にはたらく通力は現成する。
03
ここにいう大陀羅尼とは、人事である、人に贈る挨拶であり礼であ る。師に対する挨拶と礼を
大切なものとすることによって、師と弟子との通じ合いは現成する のである。人事と言う言葉は、
「魔訶止観」の漢音によって世間に流通して久しいものであるが、 仏祖にによって正伝された
ものである。
04
その礼法は焼香礼拝である。あるいは出家当初の本師に対する礼法 である。
05
安吾の初めと終わり、冬至および月初め月半ばの、定まった日に焼 香礼拝する。
その礼は、あるいは朝粥の前、あるいは朝粥が済んでから行う。威 儀を具えて師の堂に
参ずる。威儀を具えるとは袈裟を著し、座具をもち、履物を整えて 、ひとひらの沈香
または箋香などを用意して師の前に参ずるのである。
師の前にいたって合掌して師の機嫌安否をお尋ねする。侍僧はその とき香炉を
供え蝋燭を立てる。、、、、
この礼法の作法はそのときどきに欠かされたことはない。
07
正法眼蔵を述べるときには三拝するのである。
知るべきである。
礼拝は正法眼蔵なのだ。正法眼蔵を奉ずるのは正法眼蔵への礼拝で ある。
正法眼蔵は仏法への大いなる礼である。
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正法眼蔵第四十九 陀羅尼(だらに)
参学眼(げん)あきらかなるは、正法眼(しょうぼうげん) あきらかなり。正法眼あきらかなるゆゑに、 参学眼あきらかなることをうるなり。この関捩(かんれい) を正伝すること、必然として大善知識に奉覲(ぶごん) するちからなり。これ大因縁なり、これ大陀羅尼なり。 いはゆる大善知識は仏祖なり。かならず巾瓶(きんびょう) に勤恪(きんかく)すべし。
この巻では、〈陀羅尼〉という〈言葉=事象〉が〈入門=出門〉 となり、〈文底=奧底〉への参学が展開されている。日蓮は〈 陀羅尼〉について『御義口伝巻下』で、次のように説いている。
第一陀羅尼の事 御義口伝に云く、陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり。 其の故は陀羅尼は諸仏の密語なり。題目の五字、 三世の諸仏の秘密の密語なり。今日蓮等の類、 南無妙法蓮華経と唱え奉るは陀羅尼を弘通するなり。 捨悪持善の故なり云云。(「陀羅尼品六個の大事」)
〈陀羅尼〉は〈総持〉と訳される。〈総〉は〈総摂〉、〈持〉は〈 任持〉を意味する。〈陀羅尼〉は一字に無量の義を包摂し、 一義に一切の義を任持する力となり、悪法を遮断し、 善法を保持する働きとなる。〈妙法の曼荼羅〉に〈唱題=帰命〉 するとき、〈私=われわれ〉は〈捨悪持善〉となり、〈陀羅尼〉 となり、〈妙法の曼荼羅〉となる。〈先後同断〉の〈一瞬一瞬〉 において、〈妙法の曼荼羅〉は〈陀羅尼〉であり、〈持善捨悪〉 であり、〈私=われわれ〉なのである。
〈参学眼〉を〈心法〉ととれば、〈正法眼〉は〈色法〉となる。〈 心法〉を〈正法眼〉ととれば、〈色法〉は〈参学眼〉となる。〈 参学眼〉は〈正法眼〉にほかならず、〈正法眼〉は〈参学眼〉 にほかならない。〈正法眼〉の〈正〉は〈空諦〉、〈法〉は〈 中諦〉、〈眼〉は〈仮諦〉を表す。あるいは〈正〉は〈仮諦〉、〈 法〉は〈空諦〉、〈眼〉は〈中諦〉を表す。あるいは〈正〉は〈 中諦〉、〈法〉は〈仮諦〉、〈眼〉は〈空諦〉を表す。〈 色心不二〉なるを〈一極=妙法〉と言い、〈三諦円融〉なるを〈 三重秘伝=正法眼蔵〉と言う。
〈大善知識に奉覲す〉の〈大善知識〉は〈一極=三諦円融〉 を表し、〈奉覲〉は〈帰命=只管打坐〉を表す。〈色心不二・ 久遠即末法〉なる〈時節=場=時空〉を、〈関棙(かんれい)〉 とも〈大因縁〉とも〈大陀羅尼〉とも名づける。これを〈正伝= 受決〉するところに、〈仏道=悟道〉が現成する。〈巾瓶( きんびょう)〉とは、〈妙法の曼荼羅〉である。〈妙法の曼荼羅〉 を〈信受=行持〉することが〈勤恪(きんかく)〉となる。〈 大因縁〉は〈大陀羅尼〉となり、〈大善知識〉となり、〈仏祖〉 となる。〈仏祖〉は〈大善知識〉となり、〈大陀羅尼〉となり、〈 大因縁〉となる。そこに示されているのは、〈善悪不二・ 因果倶時〉なる〈実存=妙法〉である。
〈参学眼〉を〈心法〉ととれば、〈正法眼〉は〈色法〉となる。〈
〈大善知識に奉覲す〉の〈大善知識〉は〈一極=三諦円融〉
しかあればすなはち、擎茶来(きんさらい)、点茶(てんさ)来、 心要現成(しんようげんじょう)せり、神通現成( じんづうげんじょう)せり。盥水来(かんすいらい)、瀉水来( しゃすいらい)、不動著境(ふどうじゃきょう)なり、下面了知( あめんりょうち)なり。仏祖の心要を参学するのみにあらず、 心要裏の一両位の仏祖に相逢(そうふ)するなり。 仏祖の神通を受用(じゅよう)するのみにあらず、神通裏( じんづうり)の七八員(いん)の仏祖をえたるなり。 これによりて、あらゆる仏祖の神通は、この一束(そく)に究尽( ぐうじん)せり。あらゆる仏祖の心要は、この一拈(ねん) に究尽せり。このゆゑに、仏祖を奉覲(ぶごん)するに、 天華天香(てんげてんこう)をもてする、不是(ふし) にあらざれども、三昧陀羅尼を拈じて奉覲供養する、 これ仏祖の児孫(じそん)なり。
〈心要(しんよう)・神通(じんずう)〉は、〈擎茶来( きんさらい)・点茶(てんさ)来〉として現成し、〈神通・心要〉 は〈盥水来(かんすいらい)・瀉水来(しゃすいらい)〉 として現成する。〈不動著境(ふどうじゃきょう)〉は〈 久遠即末法〉を示し、〈下面了知(あめんりょうち)〉は〈 色心不二〉を示している。〈私=われわれ〉の〈一挙手一頭足〉 に、〈宇宙生命=妙法=森羅万象〉が〈収斂=拡散〉する。その〈 一頭足一挙手〉が、〈仏祖の必要〉の〈参学〉となり、〈 一両位の仏祖〉との〈相逢=出会い〉となる。それは〈仏祖神通〉 の〈受用=功徳〉となり、〈神通裏=己心〉における〈諸仏諸祖〉 の〈覚醒=現成〉となる。
〈天華天香(てんげてんこう)〉とは、〈自他不二〉なる〈自己〉 の〈色心〉である。〈われわれ=私〉は〈色心〉を以て〈仏祖= 妙法〉に〈奉覲=帰命〉するとき、〈仏祖の児孫〉となり、〈 三昧=三諦円融〉となり、〈陀羅尼=妙法〉に〈帰命=同調〉 するのである。〈妙法=陀羅尼〉に〈帰命=同調〉する〈色心〉 は、〈仏祖の必要〉を参学し、〈必要裏の仏祖〉と〈一体不二〉 となる。〈この一束・この一拈〉は、〈正法眼蔵=妙法の曼荼羅〉 を示している。
〈天華天香(てんげてんこう)〉とは、〈自他不二〉なる〈自己〉
いはゆる大陀羅尼は、人事(にんじ)これなり。 人事は大陀羅尼なるがゆゑに、人事の現成に相逢(そうふ) するなり。人事の言は、震旦の言音(ごんおん)を依模(えも) して、世諦(せたい)に流通せることひさしといふとも、 梵天より相伝せず、西天より相伝せず、仏祖より正伝せり。 これ声色の境界にあらざるなり。 威音王仏の前後を論ずることなかれ。
〈人事(にんじ)〉とは、〈人間〉と〈人間〉、〈人間〉と〈 自然〉、〈自然〉と〈自然〉の出会いのすべてであり、それを〈 大陀羅尼〉とも言う。〈大陀羅尼〉は〈人事の現成〉となり、〈 現成の人事〉は〈大陀羅尼〉となる。〈人事〉とは〈相逢〉 にほかならず、〈相逢〉とは〈人事〉にほかならない。〈私= われわれ〉が駆使する〈言語〉は、〈いつ、どのように〉 生じたのか。
道元は〈震旦の言音(ごんおん)を依模(えも)して、世諦( せたい)に流通せることひさしといふとも、梵天より相伝せず、 西天より相伝せず、仏祖より正伝せり。これ声色(しようしき) の境界にあらざるなり。威音王仏の前後を論ずることなかれ〉と〈 説著=道得〉している。文化交流が頻繁に起こる〈文明国〉では、 他国や他民族の〈言音=言語〉が浸透してくる。そこに〈言語= 言音〉の〈文上・表層〉の変化・変遷が展開する。その〈文底= 奧底〉には、〈生命本有〉の〈言語能力〉が〈常住〉している。 その〈言語能力〉を、ソシュールは〈ランガージュ〉 と名づけている。
ソシュールは、自らの〈ランガージュ=言語能力〉によって、〈 言音=言語〉を〈①ラング②パロール③ランガージュ〉 の三つに分節し、〈 言語は既に存在する真実を言い当てるのではなく、 混沌を分節して新しい意味を生み出す〉という〈命題=公案〉 を提示したのである。〈久遠即末法〉の視点・世界観に立てば、〈 新しい意味〉はすべて、一回性の〈造作=構築〉となる。 そこには〈種・熟・脱〉の法理が貫徹している。
道元は〈震旦の言音(ごんおん)を依模(えも)して、世諦(
ソシュールは、自らの〈ランガージュ=言語能力〉によって、〈
その人事は、焼香礼拝なり。あるいは出家の本師、 あるいは伝法の本師あり。 伝法の本師すなはち出家の本師なるもあり。 これらの本師にかならず依止奉覲(えしぶごん)する、これ咨参( しさん)の陀羅尼なり。いはゆる時々をすごさず参侍すべし。
安居(あんご)のはじめをはり、冬年および月旦月半、 さだめて焼香礼拝す。その法は、あるいは粥前(しゆくぜん)、 あるいは粥罷(しゆくは)をその時節とせり。 威儀を具して師の堂に参ず。威儀を具すといふは、袈裟を著し、 坐具をもち、鞋襪(あいべつ)を整理して、 一片の沈箋香等を帯して参ずるなり。
安居(あんご)のはじめをはり、冬年および月旦月半、
〈人事〉は〈焼香礼拝〉となり、〈出家の本師〉となり、〈 出家の本師〉は〈伝法の本師〉となる。〈出家の本師〉は〈 伝法の本師〉であり、〈本師の伝法〉は〈本師の出家〉である。〈 本師〉は〈依止奉覲(えしぶごん)〉となり、〈依止奉覲〉は〈 咨参(しさん)の陀羅尼〉となり、〈咨参(しさん)の陀羅尼〉 は〈時々参侍〉となる。〈久遠即末法〉の〈視点=境界〉 が開くとき、〈安居〉は〈いま、ここに〉に行持する〈一極= 妙法〉への〈只管打坐=帰命〉となる。
〈安居(あんご)のはじめをはり〉の〈はじめ〉は〈 不変真如の理に帰する一面=従因至果〉を示し、〈をはり〉は〈 随縁真如の智に命づく一面=従果向因〉を示している。〈 冬年および月旦月半、さだめて焼香礼拝す〉という〈譬喩=言述〉 は、〈いま、ここに〉に開く〈自他不二〉なる己心における〈 諸仏=妙法〉との〈相逢=一体不二〉を〈説著=道得〉している。 〈その時節=粥前(しゆくぜん)・粥罷(しゆくは)〉もまた、〈 いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる己心にほかならない。〈 師の堂=妙法の曼荼羅〉に参ずる〈威儀〉は、〈袈裟〉となり、〈 坐具〉となり、〈鞋襪(あいべつ)〉となり、〈沈箋香等〉 となる。
〈安居(あんご)のはじめをはり〉の〈はじめ〉は〈
師前にいたりて問訊す。侍僧ちなみに香炉を装し燭をたて、 師もしさきより椅子に坐せば、すなはち焼香すべし。 師もし帳裏にあらば、すなはち焼香すべし。師もし臥(が)し、 もしは食(じき)し、かくのごときの時節ならば、 すなはち焼香すべし。師もし地にたちてあらば、請和尚坐( しんおしようざ)と問訊すべし。請和尚穏便( しんおしようおんびん)とも請ず。あまた請坐(しんぞ) の辞あり。和尚を椅子に請じ坐せしめてのちに問訊す。曲躬如法( こくくによほう)なるべし。問訊しをはりて、 香台の前面にあゆみよりて、帯せる一片香を香炉にたつ。 香をたつるには、香あるいは衣襟(えきん) にさしはさめることあり。あるいは懐中にもてるもあり。 あるいは袖裏(しゆうり)に帯せることもあり。 おのおの人のこころにあり。
問訊ののち、香を拈出して、もしかみにつつみたらば、 左手にむかひて肩を転じて、つつめる紙をさげて、両手に香を擎( ささ)げて香炉にたつるなり。すぐにたつべし、 かたぶかしむることなかれ。香をたてをはりて、叉手(そうしゆ) して、右へめぐりてあゆみて、正面にいたりて、 和尚にむかひて曲躬如法問訊しをはりて、展坐具(てんざぐ) 礼拝するなり。拝は九拝、あるいは十二拝するなり。 拝しをはりて、収坐具して問訊す。あるいは一展坐具礼三拝して、 寒喧(かんけん)をのぶることもあり。 いまの九拝は寒喧をのべず、ただ一展三拝を三度あるべきなり。 その儀、はるかに七仏よりつたはれるなり。宗旨(そうし) 正伝しきたれり。このゆゑにこの儀をもちゐる。 かくのごとくの礼拝、そのときをむかふるごとに廃することなし。 そのほか、法益(ほうやく)をかふぶるたびごとには礼拝す。 因縁を請益(しんえき)せんとするにも礼拝するなり。 二祖そのかみ見処を初祖にたてまつりしとき、 礼三拝するがごときこれなり。 正法眼蔵の消息を開演するに三拝す。
問訊ののち、香を拈出して、もしかみにつつみたらば、
〈安居〉とは何か。その〈次第=展開〉について、 道元は詳細に記述している。〈師前の問訊〉があり、〈侍僧・ 香炉・燭・焼香〉があり、〈請和尚坐(しんおしようざ)= 請和尚穏便(しんおしようおんびん)〉があり、〈曲躬如法( こくくによほう)〉がある。〈衣襟(えきん)=懐中=袖裏( しゆうり)〉に〈香〉を帯する。〈問訊〉の後、 香を捧げて香炉に立てる。〈曲躬如法問訊〉の後、〈転坐具礼拝〉 する。〈九拝=十二拝〉の後、〈収坐具〉あるいは〈 一転坐具三拝〉して〈時候の挨拶〉の述べる。あるいは唯、〈 一転三拝〉を三度する。
〈釈尊=諸仏〉は〈妙法蓮華経〉を説き、〈地上会〉と〈虚空会〉 の〈展開=次第〉を詳細に記している。〈森羅三千〉が〈一念〉 を満たすことを、〈一念三千〉と言う。〈一念〉とは〈いま、 ここに〉開く〈自他不二〉なる己心である。そのとき、〈安居〉 の〈次第=展開〉は、そのまま〈妙法蓮華経〉の〈地上会= 虚空会〉が描き出す〈大陀羅尼=大曼荼羅〉の〈受決=相承〉 であり、その現成であることが見えてくる。
道元は〈その儀、はるかに七仏よりつたはれるなり。宗旨( そうし)正伝しきたれり。このゆゑにこの儀をもちゐる。 かくのごとくの礼拝、そのときをむかふるごとに廃することなし〉 と〈説著=道得〉している。〈七仏=諸仏〉は〈宗旨正伝〉 となり、〈正伝宗旨〉は〈諸仏=七仏〉となる。〈 正法眼蔵の消息〉とは〈妙法の曼荼羅〉にほかならず、〈 妙法の曼荼羅〉とは〈正法眼蔵の消息〉にほかならない。〈 消息の開演〉という〈譬喩=道得〉は、〈只管打坐=境智冥合〉 を示している。
〈釈尊=諸仏〉は〈妙法蓮華経〉を説き、〈地上会〉と〈虚空会〉
道元は〈その儀、はるかに七仏よりつたはれるなり。宗旨(
しるべし、礼拝は正法眼蔵なり。正法眼蔵は大陀羅尼なり。請益( しんえき)のときの拝は、近来おほく頓一拝(とんいつぱい) をもちゐる。古儀は三拝なり。法益(ほうやく)の謝拝、 かならずしも九拝十二拝にあらず。あるいは三拝、あるいは触礼( そくれい)一拝なり。あるいは六拝あり。ともにこれ稽首拝( けいしゆはい)なり。西天にはこれらを最上礼拝となづく。 あるいは六拝あり、頭をもて地をたたく。いはく、 額をもて地にあててうつなり。血のいづるまでもす、 これにも展坐具せるなり。一拝・三拝・六拝、 ともに額をもて地をたたくなり。あるいはこれを頓首拝となづく。 世俗にもこの拝あるなり。世俗には九品(くほん)の拝あり。 法益のとき、また不住拝(ふじゆうはい)あり。 いはゆる礼拝してやまざるなり。百千拝までもいたるべし。 ともにこれら仏祖の会にもちゐきたれる拝なり。 おほよそこれらの拝、ただ和尚の指揮をまぼりて、 その拝を如法にすべし。おほよそ礼拝の住世せるとき、 仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり。
〈礼拝〉は〈正法眼蔵〉となり、〈大陀羅尼〉となる。〈 大陀羅尼〉は〈正法眼蔵〉となり、〈礼拝〉となる。〈請益( しんえき)のときの拝〉とは〈不変真如の理〉 に帰する一面であり、〈法益(ほうやく)の謝拝〉とは〈 随縁真如の智〉に命づく一面である。〈随縁不変・一念寂照〉を〈 頓一拝(とんいつぱい)〉と言う。〈頓一拝〉は〈稽首拝( けいしゆはい)〉となり、〈頓首拝〉となり、〈最上礼拝〉 となる。〈血〉が出るまで〈額=頭〉で〈大地=虚空〉 を叩くのは、〈虚空=大地〉との〈一体化〉を象徴している。〈 転坐具〉は〈自他不二〉となり、〈不二自他〉は〈坐具転〉 となる。〈礼拝住世(らいはいじゆうせ)〉するとき〈仏法住世〉 し、〈礼拝隠没(らいはいおんもつ)〉するとき〈仏法隠没〉 する。
伝法の本師を礼拝することは、時節をえらばず、 処所を論ぜず拝するなり。あるいは臥時食時(がじじきじ) にも拝す、行大小時(あんだいしようじ)にも拝す。 あるいは牆壁(しようへき)をへだて、 あるいは山川をへだてても遙望礼拝するなり。 あるいは劫波をへだてて礼拝す、 あるいは生死去来をへだてて礼拝す、 あるいは菩提涅槃をへだてて礼拝す。
弟子小師、しかのごとく種々の拝をいたすといへども、 本師和尚は答拝せず。ただ合唱するのみなり。 おのづから奇拝をもちゐることあれども、 おぼろけの儀にはもちゐず。かくのごとくの礼拝のとき、 かならず北面礼拝するなり。本師和尚は南面して端坐せり。 弟子は本師和尚の面前に立地して、おもてを北にして、 本師にむかひて本師を拝するなり。これ本儀なり。 みづから帰依の正信おこれば、かならず北面の礼拝、 そのはじめにおこなはると正伝せり。
このゆゑに、世尊の在日に、帰仏の人衆・天衆・龍衆、 ともに北面して世尊を恭敬礼拝(くぎようらいはい) したてまつる。最初には、阿若憍陳如(あにやきようじんによ)( 亦名(またのな)拘隣(くりん))・阿湿卑(あしゆうび)( 亦名阿陛(あへ))・摩訶摩南(まかまなん)(亦名摩訶拘利( まかくり))・婆提(ばだい)(亦名跋提(ばだい))・婆敷( ばふ)(亦名十力迦葉(じゆうりきかしよう))。 この五人のともがら、如来成道ののち、おぼえずして起立し、 如来にむかひたてまつりて、北面の礼拝を供養したてまつる。 外道魔党、すでに邪をすてて帰仏するときは、必定して自搆他搆( じこうたこう)せざれども、北面礼拝するなり。
弟子小師、しかのごとく種々の拝をいたすといへども、
このゆゑに、世尊の在日に、帰仏の人衆・天衆・龍衆、
〈伝法の本師=妙法の曼荼羅〉に〈礼拝=只管打坐〉する〈時空= 場〉は、必ず〈いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる己心である。 〈処所〉は〈色心不二〉となり、〈時節〉は〈久遠即末法〉 となる。その〈時空=場〉について、道元は〈あるいは臥時食時( がじじきじ)にも拝す、行大小時(あんだいしようじ)にも拝す。 あるいは牆壁(しようへき)をへだて、 あるいは山川をへだてても遙望礼拝するなり。 あるいは劫波をへだてて礼拝す、 あるいは生死去来をへだてて礼拝す、 あるいは菩提涅槃をへだてて礼拝す〉と、〈道得=説著〉 している。
〈弟子小師=われわれ〉は、それぞれの境界で〈陀羅尼=曼荼羅〉 に〈只管打坐=帰命〉する。〈不答拝=合掌〉の〈本師和尚〉 とは、〈妙法の曼荼羅〉の〈相貌(そうみよう)〉 にほかならない。〈合掌=答拝〉するのは、己心の〈眼晴= 正法眼蔵〉である。〈南面本師=北面礼拝〉は、〈師弟不二= 法水写瓶〉を表す。〈帰依正信〉は〈北面礼拝〉となり、〈 礼拝北面〉は〈正信帰依〉となる。〈大陀羅尼=大曼荼羅〉に〈 只管打坐=帰命〉するとき、〈われわれ=私〉は〈 五人のともがら〉となり、〈起立=発心〉して〈釈尊=諸仏を〈 北面礼拝〉するのである。〈大曼荼羅=大陀羅尼〉 を信受する一念を、〈非自搆他搆(ひじこうたこう)〉と言う。〈 邪〉を捨てて〈帰仏〉する〈外道魔党〉とは誰なのか。その〈 文底=奧底〉への参学が問われている。
〈弟子小師=われわれ〉は、それぞれの境界で〈陀羅尼=曼荼羅〉
それよりこのかた、西天二十八代、東土の諸代の祖師の会(え) にきたりて正法に帰する、みなおのれづから北面の礼拝するなり。 これ正法の肯然(けんねん)なり、師弟の搆意(こうい) にあらず。これすなはち大陀羅尼なり。有大陀羅尼、名為円覚。 有大陀羅尼、名為人事。有大陀羅尼、現成礼拝なり。有大陀羅尼、 其名袈裟なり。有大陀羅尼、是名正法眼蔵なり。これを誦呪( じゆじゆ)して尽大地を鎮護(ちんご)しきたる、尽方界を鎮成( ちんじよう)しきたる、尽時界を鎮言(ちんごん)しきたる、 尽仏界を鎮作(ちんさ)しきたる、庵中庵外を鎮通しきたる。 大陀羅尼かくのごとくなると参学究辨(さんがくきゆうはん) すべきなり。一切の陀羅尼は、この陀羅尼を字母(じも)とせり。 この陀羅尼の眷属として、一切の陀羅尼は現成せり。一切の仏祖、 かならず、この陀羅尼門より発心、辨道、成道、転法輪あるなり。
〈北面礼拝〉は〈西天二十八代〉となり、〈東土諸代祖師〉 となり、〈東土諸代祖師会〉となる。〈正法肯然(けんねん)〉 ほ〈非師弟搆意〉となり、〈非搆意師弟〉は〈肯然正法〉となる。 〈大陀羅尼=大曼荼羅〉を〈縁覚〉と称し、〈人事〉と転じ、〈 礼拝〉と成す。〈大陀羅尼=大曼荼羅〉を〈袈裟〉と称し、〈 正法眼蔵〉と転じ、〈誦呪(じゆじゆ)=帰命〉と成す。〈帰命= 誦呪〉は〈鎮護尽大地〉となり、〈鎮成(ちんじよう)尽十方界〉 となり、〈鎮言(ちんごん)尽時界〉となり、〈鎮作(ちんさ) 尽仏界〉となり〈鎮通庵中庵外〉となる。そのとき〈われわれ= 私〉の〈眼前〉に、〈悟道=参学眼〉が開かれる。
〈陀羅尼=曼荼羅〉の〈字母〉は、〈字母〉の〈曼荼羅=陀羅尼〉 となる。〈陀羅尼門〉とは、〈文底下種独一法門〉 の別名にほかならない。〈釈尊=諸仏〉の〈発心・辨道・成道・ 転法輪〉は、〈陀羅尼門=曼荼羅門〉から〈地涌=空涌〉し、〈 我本行菩薩道〉し、〈常住此説法〉するのである。
〈陀羅尼=曼荼羅〉の〈字母〉は、〈字母〉の〈曼荼羅=陀羅尼〉
しかあれば、すでに仏祖の児孫(じそん)なり、 この陀羅尼を審細に参究すべきなり。 おほよそ為釈迦牟尼仏衣之所覆(いしやかむにぶつえししよふ) は、為袈裟之所覆(いけさししよふ)なり。袈裟は標幟の仏衆( ぶつしゆ)なり。この辨肯(はんけん)、難値難遇なり。 まれに辺地の人身(じんしん)をうけて、愚蒙(ぐもう) なりといへども、宿殖陀羅尼(しゅくじきだらに)の善根力( ぜんこんりき)現成して、釈迦牟尼仏の法にむまれあふ。 たとひ百草(はくそう)のほとりに自成他成(じじょうたじょう) の諸仏祖を礼拝すとも、これ釈迦牟尼仏の成道なり。 釈迦牟尼仏の辧道功夫なり。陀羅尼神変(だらにじんぺん)なり。 たとひ無量億千劫に古仏今仏を礼拝する、 これ釈迦牟尼仏衣之所覆時節なり。ひとたび袈裟を身体( しんたい)におほふは、すでにこれ得釈迦牟尼仏之(の) 身肉手足、頭目髄脳(づもくずいのう)、光明転法輪なり。 かくのごとくして袈裟を著(ぢゃく)するなり。 これは現成著袈裟功徳(げんじょうぢゃけさくどく)なり。 これを保任(ほうにん)し、これを好楽(こうぎょう)して、 ときとともに守護し搭著(とうぢゃ)して、 礼拝供養釈迦牟尼仏したてまつるなり。 このなかにいく三阿僧祇劫(あそうぎこう)の修行をも辧肯究尽( はんけんきゅうじん)するなり。
〈仏祖の児孫(じそん)〉となり、〈陀羅尼=曼荼羅〉に〈対坐= 只管打坐〉し、〈曼荼羅=陀羅尼〉を〈参究〉し、〈陀羅尼= 妙法〉に〈冥合=同調〉する。〈釈尊=諸仏〉は〈衆生=窮子〉 を覆う〈慈悲衣=袈裟〉となり、〈袈裟=慈悲衣〉は〈諸仏= 釈尊〉となる。この〈辨肯(はんけん)=道得〉は〈難値難遇〉 なのである。
〈愚蒙(ぐもう)の辺地人身(じんしん)〉という〈譬喩=言述〉 は、〈私=われわれ〉を示している。〈宿殖陀羅尼( しゅくじきだらに)〉は〈善根力(ぜんこんりき)〉となり、〈 釈尊=諸仏〉との〈相見=出会い〉を現成させる。〈諸仏諸祖〉 の〈成道・悟道〉も〈われわれ=私〉の〈悟道=成道〉も、 すべて〈諸仏=釈尊〉の〈成道=悟道〉にほかならない。〈釈尊= 諸仏〉は〈辨道功夫〉となり、〈陀羅尼=曼荼羅〉となり、〈 神変=言語動作〉となる。
〈無量億千劫〉は〈空諦〉となり、〈古仏・今仏〉は〈中諦〉 となり、〈礼拝〉は〈仮諦〉となる。〈仏衣=袈裟〉は〈仮諦〉 となり、〈身体〉は〈中諦〉となり、〈所覆〉は〈空諦〉となる。 〈現成〉は〈仮諦〉となり、〈著袈裟〉は〈中諦〉となり、〈 功徳〉は〈空諦〉となる。〈守護搭著〉は〈仮諦〉となり、〈 袈裟〉は〈中諦〉となり、〈功徳〉は〈空諦〉となる。〈釈尊= 諸仏〉は〈身肉手足〉となり、〈頭目髄脳(づもくずいのう)〉 となり、〈光明〉となり、〈転法輪〉する。〈三阿僧祇劫の修行〉 は〈久遠即末法〉を表し、〈辧肯究尽〉は〈色心不二〉を表す。 そこに浮上するのは〈一極=妙法〉、すなわち〈正法眼蔵= 妙法の曼荼羅〉である。
〈愚蒙(ぐもう)の辺地人身(じんしん)〉という〈譬喩=言述〉
〈無量億千劫〉は〈空諦〉となり、〈古仏・今仏〉は〈中諦〉
釈迦牟尼仏を礼拝したてまつり、供養したてまつるといふは、 あるいは伝法の本師を礼拝し供養し、 剃髪の本師を礼拝し供養するなり。 これすなはち見釈迦牟尼仏なり。以法供養(いほうくよう) 釈迦牟尼仏なり。 陀羅尼をもて釈迦牟尼仏を供養したてまつるなり。
先師天童古仏しめすにいはく、 あるいはゆきのうへにきたりて礼拝し、 あるいは糠のなかにありて礼拝する、勝躅(しようちよく)なり、 先蹤(せんしよう)なり、大陀羅尼なり。
先師天童古仏しめすにいはく、
正法眼蔵陀羅尼大四十九
爾時寛元癸卯、在越宇吉峰精舎示衆
同二年甲辰正月十三日書写之、在同州吉峰庵下侍者寮。懐弉
同二年甲辰正月十三日書写之、在同州吉峰庵下侍者寮。懐弉
〈釈尊=諸仏〉は〈礼拝供養〉となり、〈供養礼拝〉は〈諸仏= 釈尊〉となる。〈伝法の本師〉は〈剃髪の本師〉となり、〈 本師の剃髪〉は〈本師の伝法〉となる。〈見釈迦牟尼仏〉とは、〈 釈尊=妙法〉の〈参学究尽〉である。そのとき〈糠中礼拝〉は〈 雪上礼拝〉を〈受決=相承〉し、〈礼拝雪上〉は〈礼拝糠中〉を〈 相承=受決〉する。〈大陀羅尼=大曼荼羅〉は〈仏道=悟道〉の〈 勝躅(しようちよく)〉となり、〈悟道=仏道〉の〈先蹤( せんしよう)〉は〈大曼荼羅=大陀羅尼〉となる。
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