2016年12月6日火曜日

空華くうげ

仏語。煩悩(ぼんのう)にとらわれた人が、本来実在しないものをあるかのように思って
それにとらわれること。病みかすんだ目で虚空を見ると花があるように見えることにた
とえたもの

01
祖師達磨はいった。
一華開五葉、結果自然成けちかじねんじょう
一華は五葉の花びらを開く、果を結ぶは自然の成なり。
この華咲く時節と、さらにその光明色相に学ぶべきである。
一華の花弁は五葉であり、五葉が開くとは一華が開くのである。
この一華の言葉に含まれる道理の通ずるところが、達磨がインドから
来て、二祖彗可に、袈裟と楞伽経とともに授けた「私がこの地にきたのは、
全現象、全存在を保持している普遍の理法を伝えて迷いを救わんがためである」
のげである。すなわち理法の華が開くのだ。光明色相を求める場は、華開く時を
学ぶことにある。果を結ぶとは汝に任せられた果を結ぶのであり、自然に
成ることをいう。「自然に成る」とは、因を修め果を感ずるということだ。
自然界に発する因があり、自然化に結ぶ果がある。この自然界の因果を覚り、
自然界の因果を感ずるのだ。「自」は己れである、己が汝であることは、己も
汝も一切平等の存在であることは必定であって、自己も誰もが人間の本性である
地水火風の四大、色授想行識の五蘊の所成であることをいう。


五蘊盛苦(ごうんじょうく)とは、仏教の説く四苦八苦の一つ。
概説[編集]
自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで苦しみが次から次へと湧き上が
ってくることであり、五蘊とは以下の五つを指す。
色(しき) =すべての物質を指し示す。この場合、「身体」機能が活発であるために
起こる苦しみ
受(しゅ) =物事を見る、外界からの刺激を受ける「心」の機能
想(そう) =見たものについて何事かをイメージする「心」の機能
行(ぎょう)=イメージしたものについて、何らかの意志判断を下す「心」の機能
識(しき) =外的作用(刺激とイメージ)、内的作用(意志判断)を総合して状況判
断を下す「心」の機能

04
ここに言われる華開くとは、無量無辺の華開くである。
この道理を持って春秋とうものを考え知るべきである。ただ春秋にだけ華や果実が
あるのではなく、諸処の時に必ず花果はあるのだ。こうしたことから百千の草には
みな華や果実があり、樹々にはみな華と果実がある。人樹に花があり、人花に花あり、
枯れ木に花がある。こうした道理に置いて、言われた仏の言葉が「虚空華」である。

08
自然界を造り自然界によって造られる地水火風、さらに自然界の万象、また真理
本質を釈迦牟尼は空華と言われたが、彼らはそれを全く知らないのだ。また諸処の
現象によって我々の宇宙観があることを知らず、ただ自然界があるから万象がある
徒だけ理解しているのだ。

12
現象の認識について、まさにさまざまであるのが当然であろう。病眼の見るところがあり、
明眼の見るところがある。聖者の見るところがあり、仏祖の見るところがあり、
覚者の見るところがあり、盲人の見るところがある。三千年の時間を経た認識があり、
八百年の時間を経た認識がある。百世の時間を経た認識があり、無量の世を経た
認識がある。こうした認識がみな空華を見たのであるが、空はやはり種々であり、
華もまた数々である。



「空花」の巻き:
ダルマ大師言わく、
「1花5葉を開き、果を結ぶは自然に成る」
(「景徳伝灯録」巻3)。

この花が咲く時としての世界が立ち現れる時、及び絶対普遍的な真実の働きとその結果
である色と形をよく学ぶべし。5つの葉が生じるとは、5大(空風火水地)が生じる時で
ある。5大は1花から生じる。1即一切、一切即1だ。空の道理が支配している処が理事無
礙法界としての世界であり、法を伝えて衆生救済する舞台だ。我れ(ダルマ)はその故
に中国へ来たのだ。光としての理法界と色としての事法界の急所はこれを学ぶことなり
。結果は自然の働きに任せるのであり、それを自然になると言うなり。

自然の自とは自己のことであり、自己とは4大(風火水地)であり、5蘊(色受想行識)
をいうのだ。自己は又た無位真人である故に、自我ではないし、他者でもない。分別を
越えた何かだ。然はありのままを受け取ることなり。

自己をそのまま受け取ることが、花が開いた結果の時、悟りの時だ。法を伝え、衆生救
済の時だ。たとえば、青蓮花が開く時、処は、火宅の時(3界火宅)、処であるが如く
だ。煩悩のより燃え上がる炎は皆な、青蓮花が開く時、処なり。火宅の時である現在、
火宅の時を見ることは、悟りの花を見ることだ。火宅の時を無為に過ごすこと無く、よ
く見てよく認識すべし。

先人の同安常察祖師言わく、
「優鉢羅花は火の裏(うち)に開く」。
然(しか)ある故に、青蓮花が開く処は、必ず煩悩海中だ。この火宅の世界を知ろうと
欲せば、絶対普遍的な空の現象する処を知ろうと思えば、まさしく青蓮花が開くこの世
界なり。然(しか)あれども、人は疑うことをしないのだ。是(かく)の如くに仏祖で
なくば「花が開いて、この世界が起こる」ということの真実を知らぬなり。

花が開くということは、単に1つの花ではなく、数限りない花が同時に開くことだ。森
羅万象がその数限りない花を麗しく整えることだ。秋という時には果実が成るのだ、春
が来て花が咲いて、その花が秋に成ると実に成るという因果・時間関係で捉えてはなら
ぬ。春と花、秋と果実は共に他を保ち合い、含み合い、依存し合う関係だ。「無量寿経
」にも在る如く全ての人は花が咲き、果実がなるのだ。森羅万象は全て花(修行)が咲
き、果実(証を得る)がなるのだ。この様な事実を受けて、シャカ仏は「虚空花」とい
う言葉を使われたのだ。

花として咲き出(いで)ている世界を知るのだ。その花として咲き出ている世界はまさ
に経だ。これが仏道を学ぶ正しい方法であり、仏祖の衆生救済の処は空の花である故に
、仏の世界及び仏法そのものが空花そのものなり。

ところが、過(あやま)ちて空花を学んだ者は、仏道で言う翳眼(かすみめ)で生じる
花と言うは、衆生が曇った目で見る幻の花だと考える。眼がかすんでいる故に、清浄な
虚空に有りもせぬ空花を見るのだと伝え聞いている。この考えを固持するが故に3界・6
道の全宇宙も仏の存在も皆な有りもせぬものを大衆が誤って見るのだと思っている。こ
の眼の曇りが取れたらば、空花を見ることも無いのだと考える。全て存在しない。こう
悟るのが真の悟りであり・こう悟れば仏であり、仏さえ存在しないのだと。然(しか)
ある故に修業の必要もないのだと。

この輩(やから)は憐れむべき輩なり。仏法に説かれる空花の時、その全てを知らぬ。
諸仏如来はこの空花を修行して、如来の衣を着て、如来の座に坐り、如来の室に入るの
だ。道を得て阿羅漢果を得るのだ。仏法を伝えるのも、空花の現成する公案によるもの
なり。

シャカ仏言わく、
「亦(ま)た翳人(目を患った人)の如し。空中に花を見る。翳病を若し除けば、花は
空中に於いて滅するだろう」。
この発語の真意を明らかにした学者は未だ居ない。空を理解せぬ故に、空花も知らぬ。
空花を知らぬ故に、翳人こそ真実を見・真実に生きる人であるを知らぬし、翳人をよく
見ることもないし、翳人に会ったこともないし、翳人に成り切れぬ。

今、凡庸な学者は、清浄な空中のことを空であろうと思い、大空を空であると考えでい
る故に、空花と言うは、その大空に浮かんだ雲の様に、花を舞い散らす風に吹かれて、
東に飛ばされたり西に飛ばされたり、上に跳んだり下に舞い降りたりする如くに彩色を
持った姿が現れ出(いで)るのを言うと考える。主観・客観の働きによる4大とか、主
観・客観の働きによる世界の諸々の要素とか、理法界を空花と言うを知らぬなり。又た
様々な理によって、主観的に創造された4大などがあると知らず、理によって、世界は
法位に住して、あるべき姿で安立しているのも知らぬ。単に物質世界が存在する故に、
世界の物質的要素が存在すると知るのみなり。

知るべし、仏法において翳人と言うは、真に学んだ人なり。妙学を学んだ人なり。悟っ
た人なり。3界の有情なり。仏を更に超えていく人なり。愚かにも「目のかすみが幻想
である。この他に真の法がある」と考えてはならぬ。その様な考えは、狭い考えだ。翳
花が、若しもかすみ眼の幻影ならば、これを幻影とする主体もその考えも全て幻影であ
ろう。全部が幻影では、道理が成立する筈無し。成立する道理が無いとするならば、か
すみ眼の翳花が幻影であるという論理は成り立ち得ぬ。

悟りが幻影であるとすれば、悟りの一切はかすみ目によって荘厳された光り輝きである
。よくよく言葉を考えてみなさい。翳眼が真実であれば空花も真実だ。翳眼が無生であ
れば空華も無生だ。諸法実相であるならば、翳の見る花も実相だ。

空花を学ぶことは、色々な段階がある。翳目で空花をみる見方があり、悟りの目で空華
をみる見方があり、仏の目で空花をみる見方があり、諸祖の目で空花をみる見方があり
、片目で空花をみる見方があり、3千年かかってやっと見たという見方があり、8百年で
見たという見方があり、無量劫にして見る見方がある。この道理を説こうとしてシャカ
仏は「空には本来花がない」と言われたのだ。本来花が無くとも、・此処に花の在るこ
とは、桃や李(すもも)もまたこの様にあるのだ。梅や柳もまたそうだ(つづく)。
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空華を学せんこと、まさに衆品(しゅほん)あるべし。翳眼(えいげん)の所見あり、明眼(みょうげん)の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼(かつげん)の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空花をみるといへども、空すでに品々(ほんぽん)なり、華(け)また重々なり。
 〈空〉は〈心法〉を表し、〈華〉は〈色法〉を表し、〈空華〉は〈色心不二〉を表す。〈翳眼の所見〉は〈事的世界像=心法〉、〈明眼の所見〉は〈物的世界像=色法〉となる。〈三千年の所見・八百年の所見〉は〈小乗経〉、〈百劫の所見〉は〈権大乗経=阿弥陀経等〉、〈無量劫の所見〉は〈実大乗経=法華経〉である。〈空花〉の〈空〉は〈心法〉、〈花〉は〈色法〉を表す。その表裏一体なるを〈色心不二〉と言う。釈尊一代の聖教は、すべて生命の〈色心〉を品々に説いているのである。〈空すでに品々〉は〈諸法実相=色心不二〉を示し、〈華また重々なり〉は〈五百塵点劫=久遠即末法〉を示している。
 まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は空本無華と道取するなり。本無華なりといへども、今有花(こんゆうけ)なることは、桃李(とうり)もかくのごとし。梅柳(むいりゅう)もかくのごとし。梅昨無華(むいさくむけ)、梅春有華(むいしゅんゆうけ)と道取せんがごとし。 
 〈空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし〉という〈道得=言説〉は、森羅万象が〈色心不二〉であることを意味する。現代物理学や宇宙科学は、〈非有〉が〈是有〉となり、〈有是〉が〈無非〉となる宇宙像をとらえている。それを仏法は先取りし、〈空本無華〉と〈問処〉し、〈答処〉し、〈伝法=弘法〉してきたのである。桃李も梅柳も、その〈文底=奧底〉を開けば、そこに〈尽宇宙〉が〈収斂=拡散〉している。それを〈仏法=釈尊〉は、〈梅昨無華、梅春有華〉と〈道取=説法〉しているのだ。
 しかあれども、時節到来すれば、すなはちはなさく花時なるべし、花到来なるべし。この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。梅柳の花はかならず梅柳にさく。花をみて梅柳をしる、梅柳をみて花をわきまふ。桃李の花、いまだ梅柳にさくことなし。梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。空花の空にさくも、またまたかくのごとし。さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。空花の諸色をみて、空菓の無窮(むぐう)なるを測量(しきりょう)するなり。空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。空花の春と余華の春と、ひとしかるべきなり。空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。このゆゑに古今の春秋あるなり。空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。空華本無華の説をききて、もとよりなかりつる花のいまあると学するは、短慮少見なり。進歩して遠慮あるべし。
 〈時節到来〉は〈花時〉となり、〈花時〉は〈花到来〉となる。〈この花到来の正当恁麼時〉とは、〈私=われわれ〉一人ひとりが生きる〈一瞬一瞬=始源の時〉である。梅柳の花は必ず梅柳に咲き、桃李の花は必ず桃李に咲く。空花が空に咲くのも、それと変わりない。〈空花の諸色をみて、空菓の無窮(むぐう)なるを測量(しきりょう)する〉とは、〈因果倶時=能動即受動〉の法理である。〈実存〉は因も果も〈無窮=無限〉であり、凡夫の〈測量=思考〉を超えている。日蓮もまた『御義口伝巻下』で、次のように独自の〈譬喩〉を展開している。
第二 量の字の事 御義口伝に云く、量の字を本門に配当する事は、量とは権(はかり)摂(おさむる)の義なり。本門の心は無作三身を談ず。此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身(じじゆゆうしん)の自体顕照(じたいけんしよう)と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円(りえん)を明かす処を改めずして、己が当体無作三身(とうたいむささんじん)と沙汰するが本門事円(じえん)三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李(おうばいとうり)の己々(ここ)の当体を改めずして無作三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の本主なり云云。(無量義経六箇の大事)
  日蓮は〈桜梅桃李の己々の当体を改めずして、己が当体無作三身と開顕すれば、是れ即ち量の義なり〉と〈道得=説著〉している。量には、尽宇宙を〈包含〉する、尽宇宙と〈一体〉となる、という意味がある。〈森羅万象〉は〈森羅万法〉にほかならない。〈森羅万法〉は〈自受用身=無作三身〉となり、〈自受用身=無作三身〉は〈自体顕照〉となる。〈自体顕照〉は〈無作三身=自受用身〉である。〈空花の開落をみて、空花の春秋を学す〉とという〈道得=説著〉は、〈開落の空花〉が〈春秋の空花〉であることを示している。〈空花の春〉と〈余華の春〉の〈春〉とは、無量の義を生ずる〈一法〉にほかならない。〈空花〉は〈春時〉となり、さらに〈春秋〉となる。〈古今の春秋〉とは〈過去・現在・未来〉の文底、すなわち〈いま、ここに〉を示している。〈余花〉は〈実〉であり、〈空花〉は〈非実〉であると〈思考〉する〈心〉は、〈外道・経師論師=凡愚〉に留まる。〈空華本無華〉を〈本無今有〉と見る〈修学〉は、〈短慮少見〉に陥る。その〈文底=奧底〉を開く〈我本行菩薩道〉を〈進歩・遠慮〉と言う。   道元の〈空花の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり〉という〈道得=説法〉の〈空花の諸色〉は、法華経を根本とする釈尊一代の聖教を意味し、〈空菓の無窮〉とは法華経の功徳を意味する。〈空花の開落〉の〈空花〉は法華経二十八品、〈開落〉の〈開〉は〈如是我聞〉の〈如〉、〈落〉は〈作礼而去〉の〈去〉である。〈余花〉は法華経を身読する一人ひとりの人生となる。
 祖師いはく、華亦不曾生(けやくふすんしよう)。この宗旨(そうし)の現成、たとへば華亦不曾生、花亦不曾減(けやくふすんげん)なり。花亦不曾花なり、空亦不曾空の道理なり。華時の前後を胡乱(うろん)して、有無の戯論(うむ)あるべからず。華はかならず諸色をそめたるがごとし、諸色かならずしも華にかぎらず。諸時また青黄赤白(しようおうしやくびやく)等のいろあるなり。春は花をひく、華は春をひくものなり。
 〈華〉というものが〈尽宇宙=妙法〉の内外に元々隠れていて、それが現出するわけではない。そのことを〈祖師=釈尊〉は、〈華亦不曾生〉と〈答処=道得〉しているのだ。〈妙法=尽宇宙〉そのものが、〈華〉という形を〈私=われわれ〉の六根を介して〈現出〉するのである。その〈われわれ=私〉もまた、〈尽宇宙=妙法〉の〈出現〉にほかならない。地球上の生物の進化という〈華〉も、〈妙法=尽宇宙〉の〈現出〉なのである。生物と環境は〈依正不二=一体〉であり、生物の進化の姿は、その法理を示している。〈華時の前後を胡乱する〉とは、〈華時〉を一つの〈物〉の変化と〈思考〉する〈錯誤〉にほかならない。無慈悲な〈政治=政治家〉の〈心〉は、格差社会という〈華時〉の〈前後〉を〈胡乱〉して、〈戯論〉を繰り返しているのだ。
  張拙秀才(ちようせつしゆうさい)は石霜(せきそう)の俗弟子なり。悟道の頌(しよう)をつくるにいはく、光明寂照遍河沙(こうみようじやくしようへんがしや)《光明寂照、河沙に遍(あまね)し》。この光明、あらたに僧堂・仏殿・厨庫・山門を現成せり。遍河沙は光明現成なり、現成光明なり。
  この〈テクスト=言説〉は、〈秀才=迦葉〉と〈石霜=釈尊〉との〈嗣法=弘法〉の〈譬喩〉となる。〈光明寂照〉は〈妙法の曼荼羅〉を示し、〈河沙に遍(あまね)し〉は〈僧堂・仏殿・厨庫・山門〉の〈現成〉を示している。〈光明〉は〈現成〉であり、〈現成〉は〈光明〉である。
 凡聖含霊共我家(ぼんしようがんぐうがけ)《凡聖含霊、共に我が家》。凡夫賢聖なきにあらず、これによりて凡夫賢聖を謗ずることなかれ。
  〈凡聖〉は〈色法〉、〈含霊〉は〈心法〉である。宇宙の〈色心〉が、そのまま〈我が家〉、すなわち〈自己〉の〈色心〉と現成している。〈凡夫=賢聖〉を一義的に〈讃歎〉するのも〈誹謗〉するのも〈謗法〉となる。〈凡夫=愚人〉は〈自分〉を〈偉い〉と錯誤し、〈他者〉を〈偉い〉と錯誤する。
 一念不生全体現(いちねんふしようぜんたいげん)《一念不生にして全体現ず》。念々一々なり。これはかならず不生なり、これ全体全現なり。このゆゑに一念不生と道取す。
 〈一念不生〉は〈全体現〉となる。〈念々一々〉とは、〈いま、ここに〉開く〈一瞬一瞬=始源の時〉であり、そこに〈尽宇宙〉が収斂し拡散している。それを〈全体現〉と言う。〈一念〉は〈不生=不滅〉であり、〈不滅=不生〉なのである。
 六根纔動被雲遮(ろつこんさいどうひうんしや)《六根わづかに動ずれば雲に遮(さ)へらる》。六根たとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、前後三々なるべし。動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動(によせんどう)なり。動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり。たとへば、雲をなし水をなすなり。
  〈私=われわれ〉は〈六根〉の機能を選択するとき、〈無限〉のものを選び捨てている。その〈選択=選捨〉は、意識と無意識の狭間で機能する。そのことを〈師=釈尊〉は、〈六根わづかに動ずれば雲に遮(さ)へらる〉と〈道得=説法〉しているのだ。〈六根=眼耳鼻舌身意〉を取捨選択するのは〈前後三々〉、すなわち〈始源の時=自己〉である。〈いまの一瞬一瞬〉の〈動〉は、〈一瞬一瞬のいま〉の〈不動〉となる。それは〈如須弥山〉となり、〈如大地〉となり、〈如六根〉となる。〈須弥山〉は〈雲〉となり、〈水〉となる。〈須弥山〉は、〈存在=根源〉の〈譬喩〉にほかならない。
 断除煩悩重増病(だんじよぼんのうじゆうぞうびよう)《煩悩を断除すれば重ねて病を増す》。従来やまふなきにあらず、仏病・祖病あり。いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます。断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。同時なり、不同時なり。煩悩かならず断除の法を帯せるなり。
 〈煩悩を断除すれば重ねて病を増す〉という〈道得=説著〉を、〈煩悩即菩提〉の〈法理=妙法〉に違背すると読むとき、さらにその文底が問われることになる。そのとき〈病〉は〈非病〉となり、〈非病〉は〈病〉となる。それは〈肯定即否定=善悪不二〉・〈能動即受動=因果倶時〉という〈実存の法理〉にほかならない。〈いまの智断〉は必ず、その〈文底〉を問われるのだ。〈断除〉は〈摂取〉となり、〈摂取〉は〈断除〉となる。〈煩悩即菩提〉は〈断除即摂取〉であり、〈菩提即煩悩〉は〈摂取即断除〉である。〈正当恁麼時〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に随順する一念である。
 趣向真如亦是邪(しゆこうしんによやくぜじや)《真如に趣向するも亦是れ邪なり》。真如に背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。
 〈生の分断化〉をもたらす〈言葉〉を用いて、〈真如=実存〉を囲い込むことは不可能であり、開放することもまた不可能なのである。そのことを道元は一往、〈真如にに背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり〉と〈道得=言説〉し、さらに再往、〈真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、これ邪の亦是真如なることを〉と〈言説=道得〉しているのだ。〈一往〉は文上、〈再往〉はその文底を意味する。
 随順世縁無?礙(ずいじゆんせえんむけいげ)《世縁に随順して?礙無し》。世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁なり。これを無?礙といふ。?礙不?礙は、被眼礙(ひげんげ)に慣習すべきなり。
  〈私=われわれ〉は一人ひとりが〈世縁〉となり、〈世縁〉と〈世縁〉が〈随順=非随順〉となって〈生〉を営んでいるのだ。そこから〈排除〉すべきものも〈摂取〉すべきものもない。それを〈無(不)?礙=?礙〉と言うのである。〈眼〉には〈被膜〉と〈透徹〉という両義性がある。〈真理=実存〉を見ない眼は、〈実存=真理〉を見る眼にもなる。
 涅槃生死是空花(ねはんしようじぜくうけ)《涅槃と生死と是れ空花》。 涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)なり。仏祖および仏祖弟子の所在これなり。生死(しょうじ)は真実人体(しんじつにんたい)なり。この涅槃生死、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎(こんきよう)・枝葉(しよう)・花菓(けか)・光色(こうしき)、ともに空花の花開なり。空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに、不如三界、見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測(ふしき)の諸法、ともに空花空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし。
  〈涅槃〉は〈生死〉であり、〈生死〉は〈涅槃〉である。〈生死〉は〈空花〉となり、〈生死即涅槃〉となる。それは〈阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)〉であり、〈生死即涅槃〉という〈仏=釈尊〉の名号にほかならない。〈釈尊=迦葉〉の〈常住〉する〈時空=場〉が、そのまま〈真実人体〉なのである。〈空華〉は〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉であり、その〈色心〉の〈功徳〉を〈空華の根茎(こんきよう)・枝葉(しよう)・花菓(けか)・光色(こうしき)〉と言う。  〈生命〉とは〈一瞬一瞬〉の〈生死〉にほかならない。〈生死〉は〈色心不二〉となり、〈空花〉もまた〈色心不二〉となる。〈根茎枝葉、花菓光色〉は、森羅万象の〈色心〉である。森羅万象は〈色心不二〉なる〈妙法〉の〈花開〉にほかならない。〈空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだす〉は〈因果倶時〉なる〈種・熟・脱〉を示している。〈いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり〉とは、森羅万象の〈色心〉である。これを〈諸法実相・色心不二〉と言う。〈不測の諸法〉とは〈因果倶時・不思議の一法〉の〈花開〉である。〈梅柳桃李〉は森羅万象の〈譬喩〉となる。森羅万象の〈色心〉の根源に、〈不測の諸法〉すなわち〈妙法の曼荼羅〉が常住している。
 大宋国福州芙蓉山(ふようざん)霊訓禅師、初め帰宗寺の至真禅師に参じて問ふ、如是仏(によぜぶつ)《如何(いか)ならんか是れ仏》。帰宗云く、我向汝道(がこうによどう)、汝還信否(によげんしんぴ)《我れ汝に向かって道(い)はんに、汝また信ずるや否や》。師云く、和尚誠言(おしようせいごん)、何敢不信(かかんふしん)《和尚の誠言、何ぞ敢えて信ぜざらん》。帰宗云く、即汝便是(そくによびんし)《即ち汝便ち是なり》。師云く、如何保任(しゆおほうにん)《如何(いかん)が保任せん》。帰宗云く、一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうげらんついい)《一翳眼に在れば、空花乱墜す》。
  この問答は〈釈尊=師〉と〈迦葉=弟子〉の〈嗣法=伝法〉の〈譬喩〉となる。〈如是仏(によぜぶつ)《如何(いか)ならんか是れ仏》〉という〈霊訓〉の〈問処=道得〉に、〈帰宗〉は〈我向汝道(がこうによどう)、汝還信否(によげんしんぴ)《我れ汝に向かって道(い)はんに、汝また信ずるや否や》〉と〈答処=道得〉している。さらに、〈霊訓〉が〈和尚誠言(おしようせいごん)、何敢不信(かかんふしん)《和尚の誠言、何ぞ敢えて信ぜざらん》〉と〈問処〉し、〈帰宗〉が〈即汝便是(そくによびんし)《即ち汝便ち是なり》〉と〈答処〉する。そして問答は、〈霊訓〉の〈如何保任(しゆおほうにん)《如何(いかん)が保任せん》〉という〈問処〉と〈帰宗〉の〈一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうげらんついい)《一翳眼に在れば、空花乱墜す》〉へと〈開華=結実〉している。
 いま帰宗道の、一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうけらんつい)は、保任仏(ほうにんぶつ)の道取なり。しかあればしるべし、翳華の乱墜は、諸仏の現成なり、眼空の花果は、諸仏の保任なり。翳をもて眼を現成せしむ。眼中に空花を現成し、空花中に眼を現成せり。空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり。およそ一眼の在時在処、かならず空花あり、眼花あるなり。眼花を空花とはいふ、眼花の道取、かならず開明なり。
  〈保任仏の道取〉とは、唯仏与仏の〈嗣法=伝法〉にほかならない。〈翳花の乱墜〉は、〈諸仏の現成〉である。〈眼空の花果〉は、〈諸仏の保任〉である。〈現成〉は〈保任〉となり、〈保任〉は〈現成〉となる。〈保任〉は〈華果〉となり、〈華果〉は〈保任〉となる。〈乱墜〉とは〈華果〉であり、〈華果〉とは〈諸仏〉にほかならない。〈乱墜の翳花〉の究極の文底に、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉が浮かび上がる。それが〈いま、ここに〉脈動する〈実存〉の在りようなのである。   〈言葉=文字〉と〈文字=言葉〉、〈事象〉と〈事象〉が響き合い、照らし合いならが、無限の〈意味=心法〉と〈力=色法〉を〈収斂・拡散〉する〈生命空間〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。道元の〈空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり〉という〈道得=テクスト〉は、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉を浮かび上がらせている。
 このゆゑに、瑯耶山広照(ろうやさんこうしよう)大師いはく、奇哉十方仏(きやじつぽうぶつ)、元是眼中花(げんぜげんちゆうけ)。欲識眼中花(よくしきげんちゆうけ)、元是十方仏(げんぜじつぽうぶつ)。欲識十方仏(よくしきじつぽうぶつ)、不是眼中華(ふぜげんちゆうけ)。欲識眼中花(よくしきげんちゆうけ)、不是十方仏(ふぜじつぽうぶつ)。於此明得(おしめいて)、過在十方仏(かざいじつぽうぶつ)。若未明得(にやくみめいて)、声聞作舞(しようもんさぶ)、独覚臨粧(どつかくりんしよう)《奇なる哉十方仏、元より是れ眼中花なり。眼中花を識らんと欲(おも)はば、元是れ十方仏なり。十方仏を識らんと欲はば、是れ眼中華にあらず。眼中花を識らんと欲はば、是れ十方仏にあらず。此に於て明得すれば、過十方仏在り。若し未だ明得せずは、声聞作舞し、独覚臨粧す》。
  道元は、〈広照大師〉の〈説著=道得〉をよすがとして、〈文底〉の法理を展開している。〈十方仏〉とは〈言葉〉で囲い込むことも、〈開放〉することもできない〈妙〉なる〈存在〉である。〈十方仏〉は本来、〈眼中花〉であり、〈眼中花〉は〈十方仏〉なのである。その文底を開けば、〈十方仏〉は〈非眼中花〉となり、〈非十方仏〉は〈眼中華〉となる。〈明得〉とは〈実存=生の全体性〉に、〈覚醒〉することである。そのとき、〈過去五百塵点劫〉の〈成道〉と〈未来五百塵点劫〉の〈成道〉が見えてくる。〈過十方仏〉は〈過去五百塵点劫〉の〈成道〉であり、〈声聞作舞し、独覚臨粧す〉は〈未来五百塵点劫〉の〈成道〉である。〈過去未来の成道〉の文底に、〈妙法の曼荼羅=実存=生の全体性〉が常住している。
 しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、もとこれ眼中花なり。十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば、諸仏の住処にあらず。眼中花は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方仏なり。いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、眼中花にあらず、ひとへに眼中花と欲識すれば、十方諸仏にあらざるがごとし。かくのごとくなるゆゑに、明得、不明得、ともに眼中花なり、十方仏なり。欲識および不是、すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。
  〈釈尊=法華経〉は方便品で、是法住法位(ぜほうじゆうほうい)、世間相常住(せけんそうじようじゆう)《是の法は法位に住して、世間の相常住なり》と説いている。この文について日蓮は、次のように文底の法理を教示している。
真諦        俗諦 是法住法位  世間相常住  迹門        本門
 此の文、衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり。万法元より覚の体なり。    〈是法住法位〉は〈真諦=迹門〉となり、〈不変真如の理〉に帰(き)する一面となる。〈世間相常住〉は〈俗諦=本門〉となり、〈随縁真如の智〉に命(もと)づく一面となる。〈是法住法位、世間相常住〉という〈説著=道得〉は〈随縁不変・一念寂照〉を示している。  道元の〈テクスト=説得〉は、〈法華経=釈尊〉の文底に迫る〈方法的原理〉の展開なのである。〈是法住法位〉の〈是法〉は〈十方仏〉となり、〈十方仏〉は〈是法〉となる。〈法位住〉は〈眼中〉となり、〈眼中〉は〈法位住〉となる。〈眼中花〉は〈非無・非有・非空・非実〉にして、自ずから〈十方仏〉なのである。一義的に〈十方仏〉と〈欲識=造作〉すれば〈非眼中花〉となり、一義的に〈眼中花〉と〈欲識=造作〉すれば、〈非十方仏〉となる。そこの浮かび上がるのは、〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉の法理、すなわち〈実存=生の全体性=実存=妙法の曼荼羅〉である。〈いま、ここに〉現成する〈森羅万象〉を〈認識〉する〈私=われわれ〉とは、いかなる〈存在〉なのか。まさに〈現成の奇哉なり、大奇なり〉と歓喜し、感謝する以外にない。
 仏々祖々の道取する空華地華(くうげじけ)の宗旨(そうし)、それ恁麼の逞風流(しんふうりゆう)なり。空花の名字は経師論師もなほ問及(もんぎゆう)すとも、地華の命脈は仏祖にあらざれば、見聞の因縁あらざるなり。地華の命脈を知及せる仏祖の道取あり。
  〈仏々祖々〉の命脈、すなわち〈釈尊=師〉から〈迦葉=弟子〉への〈嗣法=伝法〉は、〈空華地華(くうげじけ)の宗旨(そうし)〉として、〈いま、ここに〉に常住する。〈恁麼の逞風流(しんふうりゆう)〉とは、〈実存=生の全体性〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉修行である。〈空花の名字は経師論師もなほ問及す〉とは〈色心不二〉を〈唯識〉あるいは〈唯物〉に還元する〈外道=凡愚〉の〈心〉である。〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉は、〈大地=法性之淵底・玄宗之極地〉から涌出する〈地涌菩薩〉に〈嗣法=附属〉されている。それを〈地華の命脈〉と呼ぶのである。
 大宋国石門(せきもん)山の慧徹(えてつ)禅師は、梁山下の尊宿なり。ちなみに僧ありてとふ、如何是山中宝(しゆおしさんちゆうほう)《如何ならんか是れ山中の宝》。この問取の宗旨(そうし)は、たとへば、如何是仏《如何ならんか是れ仏》と問取するにおなじ、如何是道と問取するがごとくなり。師いはく、空花従地発(くうけじゆうじほつ)、蓋国買無門(がいこくまいむもん)《空花地より発け、蓋国買ふに門無し》。この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず。よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空(おくう)に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。従空しれる、なほいまだあらず。いはんや従地(じゅうじ)としらんや。ただひとり石門のみしれり。従地といふは、初中後つひに従地なり。発(ほつ)は開なり。この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。従地発の空華あり、従花開の尽地あり。しかあればしるべし、空花は、地空ともに開発せしむる宗旨なり。
 〈慧徹(えてつ)=釈尊〉と〈僧=迦葉〉の〈伝法=弘法〉の〈譬喩〉を介して、その文底が問われている。〈迦葉=僧〉の〈如何是山中宝(しゆおしさんちゆうほう)《如何ならんか是れ山中の宝》〉という〈問処=道得〉に、〈釈尊=慧徹〉が〈空花従地発(くうけじゆうじほつ)、蓋国買無門(がいこくまいむもん)《空花地より発け、蓋国買ふに門無し》と〈答処=道得〉している。この〈問処=道得〉は、〈仏とは何か、仏道とは何か〉という〈問い〉にほかならない。〈慧徹=釈尊〉の〈道得=説著〉には、〈自余の道取〉、すなわち〈外道・経師論師〉の夢にも思わない〈仏道の真髄〉が示されている。  〈よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空(おくう)に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す〉という〈道得=テクスト〉は、〈修行〉を無視する〈本覚論〉や、形而上学的唯心論に対する破折である。〈従空のみ知る〉とは、〈法華経迹門〉の〈本無今有〉の〈錯誤〉である。〈従地と知る〉とは、法華経本門の〈地涌=涌出〉の文底に迫る〈心〉である。〈初中後つひに従地なり〉の〈初中後〉は、〈いま、ここに〉を示している。〈この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり〉という〈テクスト=言説〉は、〈いま、この一瞬一瞬〉に〈尽大地=地涌菩薩=尽虚空〉が〈発開〉することを示している。〈蓋国=尽大地〉は〈無門〉であり、〈尽大地=蓋国〉は〈門無〉なのである。〈生老病死・生住異滅・成住壊空〉には〈入る門〉も〈出る門〉も無い。それは〈人間・宇宙・生命〉の〈法理=妙法の曼荼羅〉そのものなのである。
 正法眼蔵空華第十四

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