2016年12月19日月曜日

法性

法性
【定義】

①梵語[dharmata]の翻訳であるが、意味は多様であり、存在や存在のありよう、存在
のありように即して説かれた仏の教えなど。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では54巻、75巻本では48巻。寛元元年(
1243)孟冬に越前の吉峰寺にて示衆された。

【内容】

①事物の本質、或いは不変の本性を意味する。
「法」は、事物の構成要素としての「諸法」という意味を中心にしながら、
縁起などの意味も併せ持っており、そこで、構成要素としての諸法と、本質としての
法性とに二分化されるようになった。
なお、あくまでも「法」としての本質であるため、「空性」或いは「法身」
という意味である。

②道元禅師は同巻の冒頭にて、まず仏道修行のありようについて以下のように
示される。
あるひは経巻にしたがひ、あるひは知識にしたがひて参学するに、無師独悟するなり。
無師独悟は、法性の施為なり。たとひ生知なりとも、かならず尋師訪道すべし。
たとひ無生知なりとも、かならず功夫弁道すべし。

ここで、「無師独悟」を単純に師に就かなくても良いと理解してはならない。そうでは
なくて、師に就こうと経典を読もうと、仏法は自己に於いて知られ、同時に自己に於い
て知られるということは、それは法性によって悟らされるのである。したがって、生ま
れつき悟りを知っていようと、師に就いて教えを聞く必要があり、また知らなくても必
ず修行すれば法性によって仏法を知らされるのである。さらに、仏祖と法性とは、相対
する関係ではなく、法性の働きの事実として仏祖は現成する。
馬祖道の法性は、法性道の法性なり、馬祖と同参す。法性と同参なり。すでに聞著あり
、なんぞ道著なからん。法性騎馬祖なり、人喫飯、飯喫人なり。法性よりこのかたかつ
て法性三昧をいでず、法性よりのち法性をいでず、法性よりさき法性をいでず、法性と
ならびに無量劫は、これ法性三昧なり。

馬祖道一による法性三昧の説法を用いて、道元禅師は馬祖と法性とが「同参」すること
を説かれるが、馬祖と法性との関係は、単純な即是の論理でも捉えられない。
いま見聞する三界十方撲落してのち、さらに法性あらはるべし。かの法性はいまの万象
森羅にあらずと邪計するなり。法性の道理、それかくのごとくなるべからず。この森羅
万象と法性と、はるかに同異の論を超越せり、離即の談を超越せり。

この一切の存在と法性との関係は、同巻の最大の問題であり、最後までこの問題が突き
つめられていくのだが、最終的に解決したとは思われない。むしろ、この問題は読者で
ある学人の側に於いて把握されるべきなのである。
もし法性をよんで衆生とせば、是什麼物恁麼来なり。もし衆生をよんで衆生とせば、説
似一物即不中なり。速道速道。


01
人は、あるいは経典に親しみ、あるいは師の指導の基で学ぶうちに、自ずと独梧するのであって、
覚りは常に独梧であるほかはない。自ずと独梧するのは、普遍的な本性としての人の自性がもたらす
ものである。たとえ生まれながらに優れた知恵があろうと、かならず師を尋ねて教えを請わねばならない。
たとえ生まれつきが凡庸であっても、かならず努めて学ばねばならない。うまれながらの智慧が
優れていようと凡庸であろうと、いずれにせよ生まれながらの智慧を具えていないものはいないので
あって、修行の成果を得るまで経典に親しみ師に従って学ぶのだ。

02
知らねばならない、経典に親しみ師に出会って諸現象諸存在の無難純一な普遍的な
本性を身心に独梧するのを生知というのである。つまり自他の過去世の生死の相を
知る智を得るのだ、つまりは過去現在未来の三世の相の本質を知るのである、これが
無上の覚りを証すことなのだ。修行者は経典と師と広大な生知に出会って自己に属する
生知を学習するのである。修行の中で、おのずから智と、経典と師に具わっている広大な
自然の智に出会うのである、自己に属する自性の智と、それより広大な自然の智を正伝する
のである。

03
もしこのような生知の力によらなければ、経典と師に出会っても、仏法が保持している
森羅万象の普遍的な本性を知ることが出来ず、証すこともできない。自らを知り、森羅万象の本質を
知ろうとするのは、人が飲水を飲めば、冷たさ暖かさを知りうるといった単なる経験値ではない。
一切の諸覚者および一切の修行者、または一切の衆生は、皆このような生知の力に
よって、普遍的な本性の中に仏道を明らめるのである。経典と師に従って、諸現象の
実相、実相に示される普遍性を明らめること、それがそのまま自己の本質を明らめることなのだ。
このようなものとして経典は実相であり、自己の実相を開示しているのである。師もまた
実相であり、自己の実相を開示しているのである。実相は師そのものであり、実相は事故に属する
者として開示されるのだ。本来性とはもともとの自己であるから、外道や仏教を破る魔の類
がいうような自己ではない。外道魔党がいう、霊魂としての不滅の自己とか真我とかの
自己とは異なるのだ。

2016年12月11日日曜日

行持1

【定義】

①行は修行のこと、持は護持・持続のこと。仏祖大道を修行し、永久に持続して懈怠させないこと。菩提の道を失わないように修行し、究竟道に至っても退転することなく続けられる無限の修行のこと。現在の曹洞宗では、「日分行持」「月分行持」「年分行持」などのように、日々に行われる修行のことを行持という。詳細は、『行持軌範』参照のこと。
仏行の一。
是れ菩薩、実の如く、仏力持・法持・業持・煩悩持・時持・願持・先世持・行持・劫寿持・智持を知るべし。 『華厳経』「十地品」

道元禅師の『正法眼蔵』の巻の一。仁治3年(1242)4月5日に、興聖寺にて示衆された。95巻本では30巻、75巻本では16巻、60巻本では16・17巻に上下巻として分割編集される。なお、下巻の部分のみ、道元禅師の真筆が熊本県広福寺に伝わる。

【内容】

行持の語意については、古来から様々な定義付けがなされた。
仏祖大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心修行菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。 『正法眼蔵』「行持(上)」巻

このように、同巻冒頭にて、仏祖の大道には必ず無上の行持があり、それが道環される様子を示される。なお、これを受けて、同巻の真筆には、奥書の標題に「仏祖行持」とする。
此行持の行の字、教行証の行にあらず、証を不待。ゆへに所詮以仏祖名行持也。 『正法眼蔵御抄

行は常に、悟りに至るための手段化されることが多いわけだが、道元禅師の直弟子達は、それを否定する。
行は即ち修行、持は即ち護持。発菩提心を修行し護持する所以なり。 『面山述賛』

江戸時代の学僧・面山瑞方師は、護持という観点を容れて、修行の前提となる発菩提心を修行し護持する重要性を説かれる。
作麼生か是れ行持、大道通達なり。仏々祖々厳修無量の行持、人々各自の行持によりて現成するなり。故に行は仏行、行仏の威儀なり。持は実相総持なり。 『正法眼蔵那一宝

江戸時代の学僧・父幼老卵師は、大道通達という観点から、修行の無量、或いは持については実相総持とされる。総持とは、陀羅尼の意であり、その原意に持続があることから、こちらも修行の持続の意が入る。

【定義】にも示したが、道元禅師の『正法眼蔵』「行持」巻は、編集上内容は上下に分かれていて、特に60巻本の編集では、別個の巻にしている。それに耐えうるほどに同巻は長大であり、『正法眼蔵』中最長の巻である。内容は、世界の一切が行持に依って現成することを述べ、釈尊以下、インド・中国の各祖師の行跡について具体的に示し、終わりには学人に対して、仏祖の行持に参入することを説いている。

また、『正法眼蔵』の写本には、採り上げられる機縁などを解題の形で付すものがあるが、75巻本系統の写本で能登・龍門寺所蔵本(『永平正法眼蔵蒐書大成』第2巻に影印が所収)を参照すると、次のような内容となる。

●上巻分
・釈尊十九深山行持三十成道
・迦葉十二頭陀行跡
・第十祖波栗湿縛尊者行持
・六祖最初行持
・馬祖坐禅二十年
・雲巖与道吾同薬山参学
・三平義忠機縁
・趙州自六十一発心求道
・大梅法常機縁
・五祖法演機縁
・太白山宏智機縁
・大慈寰中説得一丈話
・雲居説時無行路
・南岳曹渓参執持
・香厳撃竹
・唐宣宗憲宗事跡
・雪峰機縁

●下巻分
・梁武無功徳
・達磨少林面壁
・二祖機縁
・三祖機縁
・玄沙機縁
・大潙機縁
・芙蓉楷機縁
・馬祖機縁
・四祖機縁

これらの機縁などを採り上げながら、道元禅師による巧みな提唱が付されており、修行者にとっては参究すべき第一級の祖録ともなっている。また、「行持道環」の概念なども入るなど、各箇所にて、行に於ける重要な概念も見える。『修証義』は第五章を「行持報恩」というが、ここにも「行持」の語が使われ、明治時代以降熱心に敷衍した様子も窺える。

【参考書】

非常に重要な巻ということもあってか、古来から提唱された宗乗家も多かった。なお、近年の研究成果なども踏まえた参考書となると、以下の通り。

・安良岡康作著『正法眼蔵・行持〈上・下〉』講談社学術文庫・上下巻とも2002年
・石井修道著『正法眼蔵行持に学ぶ ― 道元禅師』禅文化研究所・2007年

    2016年12月6日火曜日

    仏経の巻1

    仏教」
     この仏教の巻は、次のような構成でできています。
    ⅰ まず、「諸仏の道現状、これ仏教なり。」で始まる総論があります。これが、この
    巻の核心であり、結論であります。この正法眼蔵では、多くの巻で冒頭に結論が述べら
    れます。
    ⅱ 次に二つのエピソードが紹介され、道元禅師の考え方が 示されます。
     ① ある僧が巴陵に尋ねる。「祖意と教意は、同じか、それとも別のものであるのか
    。」と。
       これに対して、巴陵は「鶏が寒いと樹に上り、鴨は寒いと 水に入る。」と応え
    る。
     ② 僧が玄沙に尋ねる。「三乗十二分教は即ち不要なり、如何ならんか是祖師西来の
    意。」と。
       これに対して、玄沙は「三乗十二分教総に不要なり。」と応える。
    ⅲ 具体的な仏教の形について説かれます。
     ①三乗十二分教
     ②九分教
    
    教外別伝と仏教
     皆さんは、教外別伝という言葉をご存知でしょう。仏教の核心は教外別伝だと聞いて
    いる、そういうものだというふうに理解しているという方は、多くおられると思います
    。
     ところが、この冒頭で、このようなことを説く輩は、たとえ大先輩であっても仏法を
    知らないものであるとされます。仏教の他に一心ありとする汝の仏教はいまだ仏教でな
    いと言われます。
    
    仏教の巻 後半
      三乗十二分教について
     まず、三乗の説明があります。すなわち、
    声聞乗、縁覚乗と菩薩乗の三乗です。
     声聞乗では、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四諦によって得道する修行について道元禅師
    の考え方が示されます。
     縁覚乗では、十二因縁による修行についての考え方が示されます。
     また、菩薩乗では、利他を図る六波羅密の修行によって真理を得ることをめぐって説
    かれます。
     ここで、波羅密とは彼岸に到ることだが、到るとは現成することであって彼方に真理
    があると思ってはならないと説かれます。
     
    十二分教について
     十二分教とは、経典を形式と内容によって十二に分類してものです。まず、如何なる
    基準で分類されているかを示された後、これは衆生を悦ばしめんが為に、十二分教を起
    こされたのだと言われる。
     そして、この各々は、仏祖の眼睛であり、骨髄であり、光明であり、荘厳であり、国
    土であり、十二分教をみることは仏祖をみることであるとされます。
     九分教について
     仏教の内容を九に分類したものであり、ここで、釈迦牟尼仏の「我がこの九部の法は
    、衆生に随順して説く。大乗に入らんはこれ本なり。」との言葉を引かれています。
    
    
    ーーーーーーー
    
     「諸仏の道現成、これ仏教なり。これ仏祖の仏祖のためにするゆえに、教の教のため
    に正伝するなり、これ転法輪なり。この法輪の眼埵裏に諸仏祖を現成せしめ、諸
    仏祖の般涅槃せしむ。その諸仏祖、かならず一塵の出現あり、一塵の涅槃あり、尽界の
    出現あり、尽界の涅槃あり。・・・仏および教は大小の量にあらず、善悪無記等の性に
    あらず、自教教他のためにあらず」
     道元さまの時代に「仏道」とか「仏法」という言葉は使われていましたが「仏教」と
    いう言葉はほとんど使われていませんでした。仏教という言葉がよく使われるようにな
    ったのは明治以後のことであり、西洋よりキリスト教等の他の宗教が日本に入って来る
    ようになり、それ等の宗教と区別する意味で、お釈迦様の教えを総じて仏教と言ったの
    であります。
    
    しかし道元さまが使われたこの「仏教」という言葉は他宗教と区別する意味での「仏教
    」
    ということではありません。道元さまは弟子たちにこの「仏教」という
    言葉を説く必要性があったのであります。そして「仏道」「仏法」「仏教」の三つが総
    合してこそ意味があるのであります。やや理屈っぽくなりましたが、この「仏道」と「
    仏法」という言葉についてまず説明させていただきます。
    
     「仏道」はお釈迦さまがお説きになった悟りに到るための最上の実践規範、悟りへの
    最上の修行のあり方を意味しております。「仏法」は仏道修行の行われる舞台としての
    世界を意味しています。しかしこれらは「仏教」という言葉を説明するために区別して
    説明させていただいたのでありまして、一般的には三者の区別をいたしません。
    
     さて道元さまは仏教を「諸仏の道現成、これ仏教なり」と明快に説明されました。こ
    の意味はお釈迦さまはじめ諸仏諸祖のお説きになった言葉(真理)のあるがままの現れ
    であります。つまり仏教とは諸仏諸祖がお説きになった仏道や仏法の理論的、哲学的側
    面を強調して言われた言葉であります。それは哲学的論議(三乗)や経典(十二分教)
    などの文字による教えも軽視すべきでないということを道元さまはこの巻で述べられた
    のであります。
    
     さて「仏祖の仏祖のためにする」とか「教の教のために・・」ということは諸仏諸祖
    の説かれた教えは「真理」でありもともと存在するものでありますので、相手を意識し
    て説くことによって価値が生まれるというものではないということであります。そして
    それは悟りを開かれた方が自身の為に説くのであり、仏教がそれ自身真理として正しく
    伝えられるのであります。仏が仏に教えを伝えるということは真理を悟った者にのみ伝
    えられるということであります。それでお釈迦さまより歴代の祖師方に嫡々相承して正
    しく伝えられてきたのであります。このことは仏の教が凡夫つまりまだ悟りに到ってい
    ない人に説かれなかったということではありません。
    
    このことにつきまして道元さまは
    正法眼蔵随聞記という教えの中に「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあ
    り、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成
    りしなり」という段があります。未だ悟りの境地に到っていない私どもも、常に求めて
    悟りを得ようと願い修行を重ねるならば、悟りの境地に到るということであります。道
    元さまが中国天童山如浄禅師より正しい仏法を伝えられたのも嫡々相承であり、仏道が
    仏道に伝え仏法が仏法に伝え仏教が仏教に伝えたのであります。つまり如浄さまによっ
    て道元さまが「真理」「悟り」への目が開かれたのであります。
     さて道元さまがこの巻で説かれようとされたことは仏教の理論的側面を否定して実践
    のみを重視する偏った考えを戒められ、理論的側面をも軽視すべきではないと説かれた
    のであります。ただし修証一如という言葉がありますように実践なくして悟りは無いの
    であり、実践と理論とが両者あいまっていなければなりません。やや難解な巻ではあり
    ましたが「諸仏の道現成、これ仏教なり」であります。
    
    
    
    ーーーーーーーーーーー
    仏心は文字や言葉によって伝えることのできない「不立文字、教外別伝」であるから悟
    りの境涯によってのみ理解できるものだと述べました。
    さらに誤解のないように申せば、それは観念に囚われてはならないということであり、
    けっして経や教典が劣っているというものでは全くありません。
    
    道元禅師は正法眼蔵(仏教の巻)の中で、とくに「経」に対する態度について強く教示
    されています。
    「諸仏の道現成、これ仏教なり。」(もろもろの仏のことばの実現したるもの、それが
    仏教にほかならない)と冒頭で示されています。
    ここでいう「仏教」とは「もろもろの仏のことば」すなわち「経」の意味だととらえて
    ください。
    
    そして「教外別伝の謬(あやま)った説を信じて、仏の教えをあやまってはならない」
    と明言されております。
    教外別伝の「教」とは「経」のことであり、それは同時に「仏心」そのものです。
    「別伝」ということばに惑わされると「経」と「仏心」が別物だと謬ってしまうのです
    。ここに禅師は釘を刺されているのです。
    
    「その正伝した一心を教外別伝という。それは三乗十二分教、すなわちもろもろの経典
    の語るところとは、まったく別のものである、と。
    また、その一心こそ最上のものであるから、直指人心、見性成仏と説くのである、とい
    う。 そのいい方は、けっして仏教のものではない。
    
    そこには自由にいたる活路もなく、全身にそなわる修行の輝きもない。
    そんな男は、たとい数百年数千年の先輩であろうとも、そんなことを言うようでは、仏
    法も仏道もまだ分かってはいない、通じてはいないのだと知るがよい。」(正法眼蔵・
    仏教 増谷文雄氏訳)
    道元禅師は「教典の他にも法がある」「教典は戯れである」「一心と教典は別のもので
    ある」「一心こそ最高のものでありそれを感知した者でなければ成仏できない」などと
    いう解釈はまったくの謬(あやま)りであり仏法でも仏道でもないと批判されているの
    です。
    
    さらに、「仏の教えが一心であることも知らず、一心がすなわち仏の教えであることも
    学ばないから、一心のほかに仏の教えがあるなどという。その汝がいう一心は、まだ一
    心ではあるまい。また仏の教えのほかに一心があるなどという、その汝がいう仏の教え
    とは、けっして仏の教えではない。」(正法眼蔵・仏教)
    
    禅師は、「一心」と「教典」を区別して「教外別伝」を解釈することはまったくの誤り
    である。「仏の教えが一心であり、一心がすなわち仏の教えである」と繰り返し主唱さ
    れているのです。
    
    「かくて、知るがよい。仏心というのは、仏の眼睛である。破木杓(はもくしゃく)で
    ある、もろもろの存在である、三界であるがゆえに、山海国土・日月星辰である。
    つまり、仏教というのは森羅万象である。」(正法眼蔵・仏教)
    
    「仏心」とは、仏の眼であり、壊れて役に立たない物であり、山海国土であり、月や星
    である。
    つまり三界に存在する森羅万象が仏心であり仏教であるというのです。
    
    破木杓(はもくしゃく)とは、こわれた柄杓とか底の抜けた桶とかのことで、なんの用
    も立たない物の例えです。
    三界とは、「三界六道」といわれる輪廻転生の世界を欲界(よっかい)・色界(しきか
    い)・無色界(むしきかい)の三つに区分した世界のことです。
    
    三界も六道も同じ輪廻の世界のことですが三界は精神面からの区分であり、六道は苦楽
    のありさまからの区分であるのです。
    六道はご存知のように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つですが、では三界と
    はどんな世界なのでしょうか。
    
    欲界とは、地獄界から人間界までの欲望の世界のことです。
    色界とは、その欲望のない物質だけの世界のことです。般若心経の「色即是空」の「色
    」つまり「物質」の世界だと解釈すればよいでしょう。
    従って、無色界とは、その物質の存在を超えた世界ですから「空」の世界だと理解した
    らよいでしょう。
    
    禅師は正法眼蔵「三界唯心」の冒頭でつぎのようにも示されています。
    「釈迦牟尼仏は仰せられた。『三界とはただ一つの心である。心のほかにまた別の法は
    ない。心といい、仏といい、衆生というもこの三つは別のものではない』 この一句の
    表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである・・・「三界唯心」とは、如来のさ
    とりのすべてである。一代のすべてがこの一句に結晶しているのである。」
    
    「華厳経」の中の「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」を引用された
    ものであり、「三界は一心である」「衆生も一心である」「一心以外のものはない」「
    三界は一心であり如来の悟りのすべてである」と明示されているのです。
    
    そこで注意すべきは、そうか、仏教は結局は「唯心論」か、などと思ってはなりません
    。
    禅師はそんな誤解のないように「三界はすなわち心といふにあらず」と言われています
    。
    これは唯心論に陥らないようにという意味のことばですから誤解のないように願います
    。仏教は唯心論とはまったく別次元のものです。
    
    禅師はさらに法華経・譬喩品のなかの句をあげられて仏と三界の関係について説かれて
    います。
    「このゆえに、釈迦大師道、『今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是我子』」 (また
    釈迦牟尼仏はおおせられた。『今この三界は、みなこれ我がものなり。
    そのなかの衆生は、ことごとくこれわが子である』)「正法眼蔵・三界唯心」
    
    お釈迦さまは申されました。
    「今この三界はすべてわたしのものであり、衆生もすべてわたしの子どもである」と。
    このことばこそ仏教の真骨頂だと拙僧は思うのですが、いかがでしょう。
    
    お釈迦さまのこの「教(経)」こそ大慈悲心であり、それを信じきった者こそ救われる
    のです。
    それを確信するためにはこの「今」と「我」と「子ども」についてしっかりとした理解
    が必要なのです。
    
    この「今」とは、過去・現在・未来のすべてが含まれている「今」なのです。
    仏法でいう「今」には過去も現在も未来もありません。言い換えれば過去も現在も未来
    も「今」に集約されてしまっているのです。
    
    だからお釈迦さまは過去の仏さまではなく今でも生きておられるのです。
    だからわれわれはみな「今」お釈迦さまの「こども」なのです。
    「こども」といっても親子に上下関係はありません。
    「惟一心」を持った親子ですからその関係はまったく平等なのです。
    
    お釈迦さまの申される「我」とは、応身仏・化身仏・法身仏のことであり、それはお釈
    迦さま自身であり同時に森羅万象それ自体であるのです。
    だからお釈迦さまと「わたし」とは久遠の仏親子なのです。
    
    「三界唯一心」・・・わたし自身かけがえのない存在であり、わたし自身が久遠の仏で
    あることを教えてくれているのです。
    
    
    

    海印三昧

    海印三昧
    
    
    大きい海が、すべての生き物の姿を映し出すように、一切の法(真理)を明らかに映し
    だすことが出来るような大きい智慧が得られる「三昧(心の集中)のことです。
    華厳宗では、この三昧を華厳経の根本三昧とします。この三昧で「事事無礙(じじむげ
    )」の世界が成り立つと説いています。
    事事無礙とは、ものごとの理論や事実の各要素が互いに対立することなく補い合って成
    り立つ、一切の矛盾がない世界のことで、華厳経では最高の法の世界とされています。
    
    
    【定義】
    
    ①無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味す
    る。
    ②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では31巻、75巻本では13巻。仁治3年(
    1242)4月20日に興聖寺で著された。
    
    【内容】
    
    ①大海が全ての生き物の姿を映し出すような智慧を得ることができる三昧こそ、海印三
    昧である。『大集経』『大般若経』などの大乗仏典で説かれたが、特に華厳宗では『華
    厳経』が、海印三昧として説かれたものとされている。
    衆生の形相、各同じからず 行業音声また無量なり かくの如く一切皆、能く現ずるは
     海印三昧の威神力なり 『華厳経』「賢首品第十二」
    
    ②道元禅師は①の意味を展開しながら、さらに中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって
    解釈して『正法眼蔵』「海印三昧」巻を著した。
    諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、説時あり、証時あり、
    行時あり。
    
    仏祖は海印三昧であり、教行証の三時として現れるとされた。そして、游泳という一語
    に明らかなように修行しているまさにその時こそ海印三昧であり、具有している悟り(
    本覚)や、修行して明らかにしていく悟り(始覚)という両方の概念から超脱すること
    が示される。
    いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、始覚を証中に拈来するにあらず
    。おほよそ本覚等を現成せしむるは、仏祖の功徳なりといへども、始覚本覚等の諸覚を
    仏祖とせるにはあらざるなり。
    
    そして、修行している状況そのものから見られた世界の生成(創発)に論点が及び、い
    わゆる「起」についての説示が続くが途中では、「有時」巻との関連を思わせる一節も
    ある。
    起はかならず時節到来なり、時は起なるがゆえに。いかならんかこれ起なる、起也なる
    べし。すでにこれ時なる起なり。
    
    『維摩経』や馬祖道一・曹山本寂の言葉を引用しながら、坐禅三昧によって明らかにさ
    れたため全存在が絶対の事実としてあることを提唱されたが、特に曹山の言葉について
    提唱しているときに、海が一切を受け入れることを表現している。また、この海とは、
    修行道場のメタファーでもあり、だからこそ修行者は「清浄大海衆」と呼ばれる。
    師いはくの包含万有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の
    万有を包含するとはいはず、包含万有なり。大海の万有を包含するといふにあらず、包
    含万有を道著するは、大海なるのみなり。
    
    最終的に、道元禅師は「海が万有を包含する」という思考から更に進めて、万有が万有
    を包含するという機能一元の思考となり、「包含万有包含于包含万有なり」とまでされ
    る。
    



    01
    諸仏祖たちの覚りのありようは、海に映る影のようである。
    それは心の集中のなかの遊泳である。
    海は天を映し地を映し森羅万象を映す。心を集中して海を行く遊泳の中に、
    仏祖の真理を説くときがある、証の時がある、行いの時がある。
    海の上を行くことの本質は、徹底する行いにある。
    深々とした海底の行を会場に浮かべるのである。それは人が流浪生死に処して、
    それらに執着するような心の業ではない。「源にもどる」というような心の業でもない。
    すべては、辺際を透脱した諸覚者諸仏祖の覚りはまた、いわば、森羅万象を
    包含する海印三昧に流れ入るのだ。

    02
    釈迦牟尼は言っている、「もろもろのものによって、この身は合成されている。
    わが身が生ずるときとはただ現象が生ずるときであり、わが身が滅する時とは
    ただ現象が滅する時である。この現象が起こる時を、わが身が生ずるとは言わない。
    この現象が滅する時を、わが身が滅するとは言わない。前後して生ずる時々の
    思念は、先立つ思念が過ぎるのをまって後の思念を生ずるのではない、前後して
    生ずる現象は、それぞれが相対立するものではない。こうした覚りを海印三昧
    と名付ける。



    佛とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、時あり、證時あり、行時あり
    。海上行の功、その徹底行あり。これを深深海底行なりと海上行するなり。流浪生死を
    還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。從來の透關破節、もとより佛の面面
    なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。
    佛言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時
    、不言我滅。
    前念後念、念念不相待。前法後法、法法不相對。是名爲海印三昧。
    (佛言はく、但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。
    此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず。
    前念後念、念念不相待なり。前法後法、法法不相對なり。是れをち名づけて海印三昧と
    す。)
    
    この佛道を、くはしく參學功夫すべし。得道入證はかならずしも多聞によらず、多語に
    よらざるなり。多聞の廣學はさらに四句に得道し、恆沙の學、つひに一句偈に證入する
    なり。いはんやいまの道は、本覺を前途にもとむるにあらず、始覺を證中に拈來するに
    あらず。おほよそ本覺等を現成せしむるは佛の功なりといへども、始覺本覺等の覺を佛
    とせるにはあらざるなり。
    いはゆる海印三昧の時節は、すなはち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。この
    ときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせ
    るにあらず、衆法合成なり。合成此身を此身と道得せるなり。
    起時唯法起。この法起、かつて起をのこすにあらず。このゆゑに、起は知覺にあらず、
    知見にあらず、これを不言我起といふ。我起を不言するに、別人は此法起と見聞覺知し
    、思量分別するにはあらず。さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。
    起はかならず時節到來なり、時は起なるがゆゑに。いかならんかこれ起なる、起也なる
    べし。
    すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髓を獨露せしめずといふことなし。起すなはち合成の
    起なるがゆゑに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。聲色と見聞するのみに
    あらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり。不言は不道にはあらず、道得は言得に
    あらざるがゆゑに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起に
    あらず。
    古佛いはく、忽然火起。この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり。
    古佛いはく、起滅不停時如何(起滅不停の時如何)。
    しかあれば、起滅は我我起、我我滅なるに不停なり。この不停の道取、かれに一任して
    辨肯すべし。この起滅不停時を佛の命脈として斷續せしむ。起滅不停時は是誰起滅(是
    れ誰が起滅ぞ)なり。是誰起滅は、應以此身得度者なり、現此身なり、而爲法なり。過
    去心不可得なり、汝得吾髓なり、汝得吾骨なり。是誰起滅なるゆゑに。
    此法滅時、不言我滅。まさしく不言我滅のときは、これ此法滅時なり。滅は法の滅なり
    。滅なりといへども法なるべし。法なるゆゑに客塵にあらず、客塵にあらざるゆゑに不
    染汚なり。ただこの不染汚、すなはち佛なり。汝もかくのごとしといふ、たれか汝にあ
    らざらん。前念後念あるはみな汝なるべし。吾もかくのごとしといふ、たれか吾にあら
    ざらん。前念後念はみな吾なるがゆゑに。この滅に多般の手眼を莊嚴せり。いはゆる無
    上大涅槃なり、いはゆる謂之死(之を死と謂ふ)なり、いはゆる執爲斷(執して斷と爲
    す)なり、いはゆる爲所住(所住と爲す)なり。いはゆるかくのごとくの許多手眼、し
    かしながら滅の功なり。滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは
    、不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。すでに前法の滅なり、後法の滅
    なり。法の前念なり、法の後念なり。爲法の前後法なり、爲法の前後念なり。不相待は
    爲法なり、不相待は法爲なり。不相對ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得なり
    。滅の四大五蘊を手眼とせる、拈あり收あり。滅の四大五蘊を行程とせる、進歩あり相
    見あり。このとき、通身是手眼、還是不足なり。遍身是手眼、還是不足なり。
    おほよそ滅は佛の功なり。いま不相對と道取あり、不相待と道取あるは、しるべし、起
    は初中後起なり。官不容針、私通車馬(官には針を容れず、私に車馬を通ず)なり。滅
    を初中後に相待するにあらず、相對するにあらず。從來の滅處に忽然として起法すとも
    、滅の起にはあらず、法の起なり。法の起なるゆゑに不對待相なり。また滅と滅と相待
    するにあらず、相對するにあらず。滅も初中後滅なり、相逢不拈出、擧意便知有(相逢
    ふては拈出せず、意を擧すれば便ち有ることを知る)なり。從來の起處に忽然として滅
    すとも、起の滅にあらず、法の滅なり。法の滅なるがゆゑに不相對待なり。たとひ滅の
    是にもあれ、たとひ起の是にもあれ、但以海印三昧、名爲衆法なり。是の修證はなきに
    あらず、只此不染汚、名爲海印三昧なり。
    三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子な
    る、摸枕子は億億萬劫のみにあらず、我於海中、唯常宣妙法華經なり。不言我起なるが
    ゆゑに我於海中なり。前面も一波纔動萬波隨なる常宣なり、後面も萬波纔動一波隨の妙
    法華經なり。たとひ千尺萬尺の絲綸を卷舒せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なるこ
    とを。いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。前頭後頭とい
    ふは頭上安頭なり。海中は有人にあらず、我於海は世人の住處にあらず、聖人の愛處に
    あらず。我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣なり。この海中は中間に屬せず、内外に
    屬せず、鎭常在法華經なり。東西南北に不居なりといへども、滿船空載月明歸(滿船空
    しく月明を載せて歸る)なり。この實歸は便歸來なり。たれかこれを滯水の行履なりと
    いはん。ただ佛道の劑限に現成するのみなり。これを印水の印とす。さらに道取す、印
    空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずしも印海の印にはあら
    ず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印
    といふなり。心印を單傳して印水し、印泥し、印空するなり。
    
    曹山元證大師、因問、承有言、大海不宿死屍、如何是海(承るに言へること有り、大海
    死屍を宿せずと。如何なるか是れ海)。
    師云、包含萬有。
    云、爲什麼不宿死屍(什麼と爲てか死屍を宿せざる)。
    師云く、絶氣者不著。
    曰く、是包含萬有、爲什麼絶氣者不著(に是れ包含萬有、什麼と爲てか絶氣の者不著な
    る)。
    師云く、萬有非其功絶氣(萬有、その功、絶氣に非ず)。
    この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。いま承有言といふ
    は、佛の正なり。凡聖のにあらず、附佛法の小にあらず。
    大海不宿死屍。いはゆる大海は、内海外海等にあらず、八海等にはあらざるべし。これ
    らは學人のうたがふところにあらず。海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なる
    を海と認ずるなり。たとひ海と強爲すとも、大海といふべからざるなり。大海はかなら
    ずしも八功水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵にあらず。衆法は合成
    なるべし。大海かならずしも深水のみにてあらんや。このゆゑに、いかなるか海と問著
    するは、大海のいまだ人天にしられざるゆゑに、大海を道著するなり。これを問著せん
    人は、海執を動著せんとするなり。
    不宿死屍といふは、不宿は明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾
    度逢春不變心(幾度か春に逢ふも心を變ぜず)なり。死屍といふは、すべて人人いまだ
    みざるものなり。このゆゑにしらざるなり。
    師いはく包含萬有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の萬
    有を包含するといはず、包含、萬有なり。大海の萬有を包含するといふにあらず。包含
    萬有を道著するは、大海なるのみなり。なにものとしれるにあらざれども、しばらく萬
    有なり。佛面面と相見することも、しばらく萬有を錯認するなり。包含のときは、たと
    ひ山なりとも高高峰頭立のみにあらず。たとひ水なりとも深深海底行のみにあらず。收
    はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。佛性海といひ、毘盧藏海といふ
    、ただこれ萬有なり。海面みえざれども、游泳の行履に疑著する事なし。
    たとへば、多一叢竹を道取するに、一莖兩莖曲なり。三莖四莖斜なるも、萬有を錯失せ
    しむる行履なりとも、なにとしてかいまだいはざる、千曲萬曲なりと。なにとしてかい
    はざる、千叢萬叢なりと。一叢の竹、かくのごとくある道理、わすれざるべし。曹山の
    包含萬有の道著、すなはちなほこれ萬有なり。
    のいはく爲什麼絶氣者不著は、あやまりて疑著の面目なりといふとも、是什麼心行なる
    べし。從來疑著這漢なるときは、從來疑著這漢に相見するのみなり。什麼處在に爲什麼
    絶氣者不著なり。爲什麼不宿死屍なり。這頭にすなはち是包含萬有、爲什麼絶氣者不著
    なり。しるべし、包含は著にあらず、包含は不宿なり。萬有たとひ死屍なりとも、不宿
    の直須萬年なるべし。不著の這老一著子なるべし。
    曹山の道すらく萬有非其功絶氣。いはゆるは、萬有はたとひ絶氣なりとも、たとひ不絶
    氣なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、萬有に同參する行履あらんがご
    ときは包含すべし、包含なるべし。萬有なる前程後程、その功あり、これ絶氣にあらず
    。いはゆる一盲引衆盲なり。一盲引衆盲の道理は、さらに一盲引一盲なり、衆盲引衆盲
    なり。衆盲引衆盲なるとき、包含萬有、包含于包含萬有なり。さらにいく大道にも萬有
    にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり。
    
    正法眼藏海印三昧第十三

    空華くうげ

    仏語。煩悩(ぼんのう)にとらわれた人が、本来実在しないものをあるかのように思って
    それにとらわれること。病みかすんだ目で虚空を見ると花があるように見えることにた
    とえたもの
    

    01
    祖師達磨はいった。
    一華開五葉、結果自然成けちかじねんじょう
    一華は五葉の花びらを開く、果を結ぶは自然の成なり。
    この華咲く時節と、さらにその光明色相に学ぶべきである。
    一華の花弁は五葉であり、五葉が開くとは一華が開くのである。
    この一華の言葉に含まれる道理の通ずるところが、達磨がインドから
    来て、二祖彗可に、袈裟と楞伽経とともに授けた「私がこの地にきたのは、
    全現象、全存在を保持している普遍の理法を伝えて迷いを救わんがためである」
    のげである。すなわち理法の華が開くのだ。光明色相を求める場は、華開く時を
    学ぶことにある。果を結ぶとは汝に任せられた果を結ぶのであり、自然に
    成ることをいう。「自然に成る」とは、因を修め果を感ずるということだ。
    自然界に発する因があり、自然化に結ぶ果がある。この自然界の因果を覚り、
    自然界の因果を感ずるのだ。「自」は己れである、己が汝であることは、己も
    汝も一切平等の存在であることは必定であって、自己も誰もが人間の本性である
    地水火風の四大、色授想行識の五蘊の所成であることをいう。


    五蘊盛苦(ごうんじょうく)とは、仏教の説く四苦八苦の一つ。
    概説[編集]
    自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで苦しみが次から次へと湧き上が
    ってくることであり、五蘊とは以下の五つを指す。
    色(しき) =すべての物質を指し示す。この場合、「身体」機能が活発であるために
    起こる苦しみ
    受(しゅ) =物事を見る、外界からの刺激を受ける「心」の機能
    想(そう) =見たものについて何事かをイメージする「心」の機能
    行(ぎょう)=イメージしたものについて、何らかの意志判断を下す「心」の機能
    識(しき) =外的作用(刺激とイメージ)、内的作用(意志判断)を総合して状況判
    断を下す「心」の機能
    
    
    04
    ここに言われる華開くとは、無量無辺の華開くである。
    この道理を持って春秋とうものを考え知るべきである。ただ春秋にだけ華や果実が
    あるのではなく、諸処の時に必ず花果はあるのだ。こうしたことから百千の草には
    みな華や果実があり、樹々にはみな華と果実がある。人樹に花があり、人花に花あり、
    枯れ木に花がある。こうした道理に置いて、言われた仏の言葉が「虚空華」である。
    
    
    08
    自然界を造り自然界によって造られる地水火風、さらに自然界の万象、また真理
    本質を釈迦牟尼は空華と言われたが、彼らはそれを全く知らないのだ。また諸処の
    現象によって我々の宇宙観があることを知らず、ただ自然界があるから万象がある
    徒だけ理解しているのだ。
    
    
    12
    現象の認識について、まさにさまざまであるのが当然であろう。病眼の見るところがあり、
    明眼の見るところがある。聖者の見るところがあり、仏祖の見るところがあり、
    覚者の見るところがあり、盲人の見るところがある。三千年の時間を経た認識があり、
    八百年の時間を経た認識がある。百世の時間を経た認識があり、無量の世を経た
    認識がある。こうした認識がみな空華を見たのであるが、空はやはり種々であり、
    華もまた数々である。
    
    
    
    
    
    
    「空花」の巻き:
    ダルマ大師言わく、
    「1花5葉を開き、果を結ぶは自然に成る」
    (「景徳伝灯録」巻3)。
    
    この花が咲く時としての世界が立ち現れる時、及び絶対普遍的な真実の働きとその結果
    である色と形をよく学ぶべし。5つの葉が生じるとは、5大(空風火水地)が生じる時で
    ある。5大は1花から生じる。1即一切、一切即1だ。空の道理が支配している処が理事無
    礙法界としての世界であり、法を伝えて衆生救済する舞台だ。我れ(ダルマ)はその故
    に中国へ来たのだ。光としての理法界と色としての事法界の急所はこれを学ぶことなり
    。結果は自然の働きに任せるのであり、それを自然になると言うなり。
    
    自然の自とは自己のことであり、自己とは4大(風火水地)であり、5蘊(色受想行識)
    をいうのだ。自己は又た無位真人である故に、自我ではないし、他者でもない。分別を
    越えた何かだ。然はありのままを受け取ることなり。
    
    自己をそのまま受け取ることが、花が開いた結果の時、悟りの時だ。法を伝え、衆生救
    済の時だ。たとえば、青蓮花が開く時、処は、火宅の時(3界火宅)、処であるが如く
    だ。煩悩のより燃え上がる炎は皆な、青蓮花が開く時、処なり。火宅の時である現在、
    火宅の時を見ることは、悟りの花を見ることだ。火宅の時を無為に過ごすこと無く、よ
    く見てよく認識すべし。
    
    先人の同安常察祖師言わく、
    「優鉢羅花は火の裏(うち)に開く」。
    然(しか)ある故に、青蓮花が開く処は、必ず煩悩海中だ。この火宅の世界を知ろうと
    欲せば、絶対普遍的な空の現象する処を知ろうと思えば、まさしく青蓮花が開くこの世
    界なり。然(しか)あれども、人は疑うことをしないのだ。是(かく)の如くに仏祖で
    なくば「花が開いて、この世界が起こる」ということの真実を知らぬなり。
    
    花が開くということは、単に1つの花ではなく、数限りない花が同時に開くことだ。森
    羅万象がその数限りない花を麗しく整えることだ。秋という時には果実が成るのだ、春
    が来て花が咲いて、その花が秋に成ると実に成るという因果・時間関係で捉えてはなら
    ぬ。春と花、秋と果実は共に他を保ち合い、含み合い、依存し合う関係だ。「無量寿経
    」にも在る如く全ての人は花が咲き、果実がなるのだ。森羅万象は全て花(修行)が咲
    き、果実(証を得る)がなるのだ。この様な事実を受けて、シャカ仏は「虚空花」とい
    う言葉を使われたのだ。
    
    花として咲き出(いで)ている世界を知るのだ。その花として咲き出ている世界はまさ
    に経だ。これが仏道を学ぶ正しい方法であり、仏祖の衆生救済の処は空の花である故に
    、仏の世界及び仏法そのものが空花そのものなり。
    
    ところが、過(あやま)ちて空花を学んだ者は、仏道で言う翳眼(かすみめ)で生じる
    花と言うは、衆生が曇った目で見る幻の花だと考える。眼がかすんでいる故に、清浄な
    虚空に有りもせぬ空花を見るのだと伝え聞いている。この考えを固持するが故に3界・6
    道の全宇宙も仏の存在も皆な有りもせぬものを大衆が誤って見るのだと思っている。こ
    の眼の曇りが取れたらば、空花を見ることも無いのだと考える。全て存在しない。こう
    悟るのが真の悟りであり・こう悟れば仏であり、仏さえ存在しないのだと。然(しか)
    ある故に修業の必要もないのだと。
    
    この輩(やから)は憐れむべき輩なり。仏法に説かれる空花の時、その全てを知らぬ。
    諸仏如来はこの空花を修行して、如来の衣を着て、如来の座に坐り、如来の室に入るの
    だ。道を得て阿羅漢果を得るのだ。仏法を伝えるのも、空花の現成する公案によるもの
    なり。
    
    シャカ仏言わく、
    「亦(ま)た翳人(目を患った人)の如し。空中に花を見る。翳病を若し除けば、花は
    空中に於いて滅するだろう」。
    この発語の真意を明らかにした学者は未だ居ない。空を理解せぬ故に、空花も知らぬ。
    空花を知らぬ故に、翳人こそ真実を見・真実に生きる人であるを知らぬし、翳人をよく
    見ることもないし、翳人に会ったこともないし、翳人に成り切れぬ。
    
    今、凡庸な学者は、清浄な空中のことを空であろうと思い、大空を空であると考えでい
    る故に、空花と言うは、その大空に浮かんだ雲の様に、花を舞い散らす風に吹かれて、
    東に飛ばされたり西に飛ばされたり、上に跳んだり下に舞い降りたりする如くに彩色を
    持った姿が現れ出(いで)るのを言うと考える。主観・客観の働きによる4大とか、主
    観・客観の働きによる世界の諸々の要素とか、理法界を空花と言うを知らぬなり。又た
    様々な理によって、主観的に創造された4大などがあると知らず、理によって、世界は
    法位に住して、あるべき姿で安立しているのも知らぬ。単に物質世界が存在する故に、
    世界の物質的要素が存在すると知るのみなり。
    
    知るべし、仏法において翳人と言うは、真に学んだ人なり。妙学を学んだ人なり。悟っ
    た人なり。3界の有情なり。仏を更に超えていく人なり。愚かにも「目のかすみが幻想
    である。この他に真の法がある」と考えてはならぬ。その様な考えは、狭い考えだ。翳
    花が、若しもかすみ眼の幻影ならば、これを幻影とする主体もその考えも全て幻影であ
    ろう。全部が幻影では、道理が成立する筈無し。成立する道理が無いとするならば、か
    すみ眼の翳花が幻影であるという論理は成り立ち得ぬ。
    
    悟りが幻影であるとすれば、悟りの一切はかすみ目によって荘厳された光り輝きである
    。よくよく言葉を考えてみなさい。翳眼が真実であれば空花も真実だ。翳眼が無生であ
    れば空華も無生だ。諸法実相であるならば、翳の見る花も実相だ。
    
    空花を学ぶことは、色々な段階がある。翳目で空花をみる見方があり、悟りの目で空華
    をみる見方があり、仏の目で空花をみる見方があり、諸祖の目で空花をみる見方があり
    、片目で空花をみる見方があり、3千年かかってやっと見たという見方があり、8百年で
    見たという見方があり、無量劫にして見る見方がある。この道理を説こうとしてシャカ
    仏は「空には本来花がない」と言われたのだ。本来花が無くとも、・此処に花の在るこ
    とは、桃や李(すもも)もまたこの様にあるのだ。梅や柳もまたそうだ(つづく)。
    
    ーーーーーーーーー
    空華を学せんこと、まさに衆品(しゅほん)あるべし。翳眼(えいげん)の所見あり、明眼(みょうげん)の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼(かつげん)の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空花をみるといへども、空すでに品々(ほんぽん)なり、華(け)また重々なり。
     〈空〉は〈心法〉を表し、〈華〉は〈色法〉を表し、〈空華〉は〈色心不二〉を表す。〈翳眼の所見〉は〈事的世界像=心法〉、〈明眼の所見〉は〈物的世界像=色法〉となる。〈三千年の所見・八百年の所見〉は〈小乗経〉、〈百劫の所見〉は〈権大乗経=阿弥陀経等〉、〈無量劫の所見〉は〈実大乗経=法華経〉である。〈空花〉の〈空〉は〈心法〉、〈花〉は〈色法〉を表す。その表裏一体なるを〈色心不二〉と言う。釈尊一代の聖教は、すべて生命の〈色心〉を品々に説いているのである。〈空すでに品々〉は〈諸法実相=色心不二〉を示し、〈華また重々なり〉は〈五百塵点劫=久遠即末法〉を示している。
     まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は空本無華と道取するなり。本無華なりといへども、今有花(こんゆうけ)なることは、桃李(とうり)もかくのごとし。梅柳(むいりゅう)もかくのごとし。梅昨無華(むいさくむけ)、梅春有華(むいしゅんゆうけ)と道取せんがごとし。 
     〈空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし〉という〈道得=言説〉は、森羅万象が〈色心不二〉であることを意味する。現代物理学や宇宙科学は、〈非有〉が〈是有〉となり、〈有是〉が〈無非〉となる宇宙像をとらえている。それを仏法は先取りし、〈空本無華〉と〈問処〉し、〈答処〉し、〈伝法=弘法〉してきたのである。桃李も梅柳も、その〈文底=奧底〉を開けば、そこに〈尽宇宙〉が〈収斂=拡散〉している。それを〈仏法=釈尊〉は、〈梅昨無華、梅春有華〉と〈道取=説法〉しているのだ。
     しかあれども、時節到来すれば、すなはちはなさく花時なるべし、花到来なるべし。この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。梅柳の花はかならず梅柳にさく。花をみて梅柳をしる、梅柳をみて花をわきまふ。桃李の花、いまだ梅柳にさくことなし。梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。空花の空にさくも、またまたかくのごとし。さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。空花の諸色をみて、空菓の無窮(むぐう)なるを測量(しきりょう)するなり。空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。空花の春と余華の春と、ひとしかるべきなり。空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。このゆゑに古今の春秋あるなり。空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。空華本無華の説をききて、もとよりなかりつる花のいまあると学するは、短慮少見なり。進歩して遠慮あるべし。
     〈時節到来〉は〈花時〉となり、〈花時〉は〈花到来〉となる。〈この花到来の正当恁麼時〉とは、〈私=われわれ〉一人ひとりが生きる〈一瞬一瞬=始源の時〉である。梅柳の花は必ず梅柳に咲き、桃李の花は必ず桃李に咲く。空花が空に咲くのも、それと変わりない。〈空花の諸色をみて、空菓の無窮(むぐう)なるを測量(しきりょう)する〉とは、〈因果倶時=能動即受動〉の法理である。〈実存〉は因も果も〈無窮=無限〉であり、凡夫の〈測量=思考〉を超えている。日蓮もまた『御義口伝巻下』で、次のように独自の〈譬喩〉を展開している。
    第二 量の字の事 御義口伝に云く、量の字を本門に配当する事は、量とは権(はかり)摂(おさむる)の義なり。本門の心は無作三身を談ず。此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身(じじゆゆうしん)の自体顕照(じたいけんしよう)と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円(りえん)を明かす処を改めずして、己が当体無作三身(とうたいむささんじん)と沙汰するが本門事円(じえん)三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李(おうばいとうり)の己々(ここ)の当体を改めずして無作三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の本主なり云云。(無量義経六箇の大事)
      日蓮は〈桜梅桃李の己々の当体を改めずして、己が当体無作三身と開顕すれば、是れ即ち量の義なり〉と〈道得=説著〉している。量には、尽宇宙を〈包含〉する、尽宇宙と〈一体〉となる、という意味がある。〈森羅万象〉は〈森羅万法〉にほかならない。〈森羅万法〉は〈自受用身=無作三身〉となり、〈自受用身=無作三身〉は〈自体顕照〉となる。〈自体顕照〉は〈無作三身=自受用身〉である。〈空花の開落をみて、空花の春秋を学す〉とという〈道得=説著〉は、〈開落の空花〉が〈春秋の空花〉であることを示している。〈空花の春〉と〈余華の春〉の〈春〉とは、無量の義を生ずる〈一法〉にほかならない。〈空花〉は〈春時〉となり、さらに〈春秋〉となる。〈古今の春秋〉とは〈過去・現在・未来〉の文底、すなわち〈いま、ここに〉を示している。〈余花〉は〈実〉であり、〈空花〉は〈非実〉であると〈思考〉する〈心〉は、〈外道・経師論師=凡愚〉に留まる。〈空華本無華〉を〈本無今有〉と見る〈修学〉は、〈短慮少見〉に陥る。その〈文底=奧底〉を開く〈我本行菩薩道〉を〈進歩・遠慮〉と言う。   道元の〈空花の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり〉という〈道得=説法〉の〈空花の諸色〉は、法華経を根本とする釈尊一代の聖教を意味し、〈空菓の無窮〉とは法華経の功徳を意味する。〈空花の開落〉の〈空花〉は法華経二十八品、〈開落〉の〈開〉は〈如是我聞〉の〈如〉、〈落〉は〈作礼而去〉の〈去〉である。〈余花〉は法華経を身読する一人ひとりの人生となる。
     祖師いはく、華亦不曾生(けやくふすんしよう)。この宗旨(そうし)の現成、たとへば華亦不曾生、花亦不曾減(けやくふすんげん)なり。花亦不曾花なり、空亦不曾空の道理なり。華時の前後を胡乱(うろん)して、有無の戯論(うむ)あるべからず。華はかならず諸色をそめたるがごとし、諸色かならずしも華にかぎらず。諸時また青黄赤白(しようおうしやくびやく)等のいろあるなり。春は花をひく、華は春をひくものなり。
     〈華〉というものが〈尽宇宙=妙法〉の内外に元々隠れていて、それが現出するわけではない。そのことを〈祖師=釈尊〉は、〈華亦不曾生〉と〈答処=道得〉しているのだ。〈妙法=尽宇宙〉そのものが、〈華〉という形を〈私=われわれ〉の六根を介して〈現出〉するのである。その〈われわれ=私〉もまた、〈尽宇宙=妙法〉の〈出現〉にほかならない。地球上の生物の進化という〈華〉も、〈妙法=尽宇宙〉の〈現出〉なのである。生物と環境は〈依正不二=一体〉であり、生物の進化の姿は、その法理を示している。〈華時の前後を胡乱する〉とは、〈華時〉を一つの〈物〉の変化と〈思考〉する〈錯誤〉にほかならない。無慈悲な〈政治=政治家〉の〈心〉は、格差社会という〈華時〉の〈前後〉を〈胡乱〉して、〈戯論〉を繰り返しているのだ。
      張拙秀才(ちようせつしゆうさい)は石霜(せきそう)の俗弟子なり。悟道の頌(しよう)をつくるにいはく、光明寂照遍河沙(こうみようじやくしようへんがしや)《光明寂照、河沙に遍(あまね)し》。この光明、あらたに僧堂・仏殿・厨庫・山門を現成せり。遍河沙は光明現成なり、現成光明なり。
      この〈テクスト=言説〉は、〈秀才=迦葉〉と〈石霜=釈尊〉との〈嗣法=弘法〉の〈譬喩〉となる。〈光明寂照〉は〈妙法の曼荼羅〉を示し、〈河沙に遍(あまね)し〉は〈僧堂・仏殿・厨庫・山門〉の〈現成〉を示している。〈光明〉は〈現成〉であり、〈現成〉は〈光明〉である。
     凡聖含霊共我家(ぼんしようがんぐうがけ)《凡聖含霊、共に我が家》。凡夫賢聖なきにあらず、これによりて凡夫賢聖を謗ずることなかれ。
      〈凡聖〉は〈色法〉、〈含霊〉は〈心法〉である。宇宙の〈色心〉が、そのまま〈我が家〉、すなわち〈自己〉の〈色心〉と現成している。〈凡夫=賢聖〉を一義的に〈讃歎〉するのも〈誹謗〉するのも〈謗法〉となる。〈凡夫=愚人〉は〈自分〉を〈偉い〉と錯誤し、〈他者〉を〈偉い〉と錯誤する。
     一念不生全体現(いちねんふしようぜんたいげん)《一念不生にして全体現ず》。念々一々なり。これはかならず不生なり、これ全体全現なり。このゆゑに一念不生と道取す。
     〈一念不生〉は〈全体現〉となる。〈念々一々〉とは、〈いま、ここに〉開く〈一瞬一瞬=始源の時〉であり、そこに〈尽宇宙〉が収斂し拡散している。それを〈全体現〉と言う。〈一念〉は〈不生=不滅〉であり、〈不滅=不生〉なのである。
     六根纔動被雲遮(ろつこんさいどうひうんしや)《六根わづかに動ずれば雲に遮(さ)へらる》。六根たとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、前後三々なるべし。動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動(によせんどう)なり。動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり。たとへば、雲をなし水をなすなり。
      〈私=われわれ〉は〈六根〉の機能を選択するとき、〈無限〉のものを選び捨てている。その〈選択=選捨〉は、意識と無意識の狭間で機能する。そのことを〈師=釈尊〉は、〈六根わづかに動ずれば雲に遮(さ)へらる〉と〈道得=説法〉しているのだ。〈六根=眼耳鼻舌身意〉を取捨選択するのは〈前後三々〉、すなわち〈始源の時=自己〉である。〈いまの一瞬一瞬〉の〈動〉は、〈一瞬一瞬のいま〉の〈不動〉となる。それは〈如須弥山〉となり、〈如大地〉となり、〈如六根〉となる。〈須弥山〉は〈雲〉となり、〈水〉となる。〈須弥山〉は、〈存在=根源〉の〈譬喩〉にほかならない。
     断除煩悩重増病(だんじよぼんのうじゆうぞうびよう)《煩悩を断除すれば重ねて病を増す》。従来やまふなきにあらず、仏病・祖病あり。いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます。断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。同時なり、不同時なり。煩悩かならず断除の法を帯せるなり。
     〈煩悩を断除すれば重ねて病を増す〉という〈道得=説著〉を、〈煩悩即菩提〉の〈法理=妙法〉に違背すると読むとき、さらにその文底が問われることになる。そのとき〈病〉は〈非病〉となり、〈非病〉は〈病〉となる。それは〈肯定即否定=善悪不二〉・〈能動即受動=因果倶時〉という〈実存の法理〉にほかならない。〈いまの智断〉は必ず、その〈文底〉を問われるのだ。〈断除〉は〈摂取〉となり、〈摂取〉は〈断除〉となる。〈煩悩即菩提〉は〈断除即摂取〉であり、〈菩提即煩悩〉は〈摂取即断除〉である。〈正当恁麼時〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に随順する一念である。
     趣向真如亦是邪(しゆこうしんによやくぜじや)《真如に趣向するも亦是れ邪なり》。真如に背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。
     〈生の分断化〉をもたらす〈言葉〉を用いて、〈真如=実存〉を囲い込むことは不可能であり、開放することもまた不可能なのである。そのことを道元は一往、〈真如にに背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり〉と〈道得=言説〉し、さらに再往、〈真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、これ邪の亦是真如なることを〉と〈言説=道得〉しているのだ。〈一往〉は文上、〈再往〉はその文底を意味する。
     随順世縁無?礙(ずいじゆんせえんむけいげ)《世縁に随順して?礙無し》。世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁なり。これを無?礙といふ。?礙不?礙は、被眼礙(ひげんげ)に慣習すべきなり。
      〈私=われわれ〉は一人ひとりが〈世縁〉となり、〈世縁〉と〈世縁〉が〈随順=非随順〉となって〈生〉を営んでいるのだ。そこから〈排除〉すべきものも〈摂取〉すべきものもない。それを〈無(不)?礙=?礙〉と言うのである。〈眼〉には〈被膜〉と〈透徹〉という両義性がある。〈真理=実存〉を見ない眼は、〈実存=真理〉を見る眼にもなる。
     涅槃生死是空花(ねはんしようじぜくうけ)《涅槃と生死と是れ空花》。 涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)なり。仏祖および仏祖弟子の所在これなり。生死(しょうじ)は真実人体(しんじつにんたい)なり。この涅槃生死、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎(こんきよう)・枝葉(しよう)・花菓(けか)・光色(こうしき)、ともに空花の花開なり。空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに、不如三界、見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測(ふしき)の諸法、ともに空花空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし。
      〈涅槃〉は〈生死〉であり、〈生死〉は〈涅槃〉である。〈生死〉は〈空花〉となり、〈生死即涅槃〉となる。それは〈阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)〉であり、〈生死即涅槃〉という〈仏=釈尊〉の名号にほかならない。〈釈尊=迦葉〉の〈常住〉する〈時空=場〉が、そのまま〈真実人体〉なのである。〈空華〉は〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉であり、その〈色心〉の〈功徳〉を〈空華の根茎(こんきよう)・枝葉(しよう)・花菓(けか)・光色(こうしき)〉と言う。  〈生命〉とは〈一瞬一瞬〉の〈生死〉にほかならない。〈生死〉は〈色心不二〉となり、〈空花〉もまた〈色心不二〉となる。〈根茎枝葉、花菓光色〉は、森羅万象の〈色心〉である。森羅万象は〈色心不二〉なる〈妙法〉の〈花開〉にほかならない。〈空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだす〉は〈因果倶時〉なる〈種・熟・脱〉を示している。〈いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり〉とは、森羅万象の〈色心〉である。これを〈諸法実相・色心不二〉と言う。〈不測の諸法〉とは〈因果倶時・不思議の一法〉の〈花開〉である。〈梅柳桃李〉は森羅万象の〈譬喩〉となる。森羅万象の〈色心〉の根源に、〈不測の諸法〉すなわち〈妙法の曼荼羅〉が常住している。
     大宋国福州芙蓉山(ふようざん)霊訓禅師、初め帰宗寺の至真禅師に参じて問ふ、如是仏(によぜぶつ)《如何(いか)ならんか是れ仏》。帰宗云く、我向汝道(がこうによどう)、汝還信否(によげんしんぴ)《我れ汝に向かって道(い)はんに、汝また信ずるや否や》。師云く、和尚誠言(おしようせいごん)、何敢不信(かかんふしん)《和尚の誠言、何ぞ敢えて信ぜざらん》。帰宗云く、即汝便是(そくによびんし)《即ち汝便ち是なり》。師云く、如何保任(しゆおほうにん)《如何(いかん)が保任せん》。帰宗云く、一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうげらんついい)《一翳眼に在れば、空花乱墜す》。
      この問答は〈釈尊=師〉と〈迦葉=弟子〉の〈嗣法=伝法〉の〈譬喩〉となる。〈如是仏(によぜぶつ)《如何(いか)ならんか是れ仏》〉という〈霊訓〉の〈問処=道得〉に、〈帰宗〉は〈我向汝道(がこうによどう)、汝還信否(によげんしんぴ)《我れ汝に向かって道(い)はんに、汝また信ずるや否や》〉と〈答処=道得〉している。さらに、〈霊訓〉が〈和尚誠言(おしようせいごん)、何敢不信(かかんふしん)《和尚の誠言、何ぞ敢えて信ぜざらん》〉と〈問処〉し、〈帰宗〉が〈即汝便是(そくによびんし)《即ち汝便ち是なり》〉と〈答処〉する。そして問答は、〈霊訓〉の〈如何保任(しゆおほうにん)《如何(いかん)が保任せん》〉という〈問処〉と〈帰宗〉の〈一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうげらんついい)《一翳眼に在れば、空花乱墜す》〉へと〈開華=結実〉している。
     いま帰宗道の、一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうけらんつい)は、保任仏(ほうにんぶつ)の道取なり。しかあればしるべし、翳華の乱墜は、諸仏の現成なり、眼空の花果は、諸仏の保任なり。翳をもて眼を現成せしむ。眼中に空花を現成し、空花中に眼を現成せり。空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり。およそ一眼の在時在処、かならず空花あり、眼花あるなり。眼花を空花とはいふ、眼花の道取、かならず開明なり。
      〈保任仏の道取〉とは、唯仏与仏の〈嗣法=伝法〉にほかならない。〈翳花の乱墜〉は、〈諸仏の現成〉である。〈眼空の花果〉は、〈諸仏の保任〉である。〈現成〉は〈保任〉となり、〈保任〉は〈現成〉となる。〈保任〉は〈華果〉となり、〈華果〉は〈保任〉となる。〈乱墜〉とは〈華果〉であり、〈華果〉とは〈諸仏〉にほかならない。〈乱墜の翳花〉の究極の文底に、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉が浮かび上がる。それが〈いま、ここに〉脈動する〈実存〉の在りようなのである。   〈言葉=文字〉と〈文字=言葉〉、〈事象〉と〈事象〉が響き合い、照らし合いならが、無限の〈意味=心法〉と〈力=色法〉を〈収斂・拡散〉する〈生命空間〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。道元の〈空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり〉という〈道得=テクスト〉は、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉を浮かび上がらせている。
     このゆゑに、瑯耶山広照(ろうやさんこうしよう)大師いはく、奇哉十方仏(きやじつぽうぶつ)、元是眼中花(げんぜげんちゆうけ)。欲識眼中花(よくしきげんちゆうけ)、元是十方仏(げんぜじつぽうぶつ)。欲識十方仏(よくしきじつぽうぶつ)、不是眼中華(ふぜげんちゆうけ)。欲識眼中花(よくしきげんちゆうけ)、不是十方仏(ふぜじつぽうぶつ)。於此明得(おしめいて)、過在十方仏(かざいじつぽうぶつ)。若未明得(にやくみめいて)、声聞作舞(しようもんさぶ)、独覚臨粧(どつかくりんしよう)《奇なる哉十方仏、元より是れ眼中花なり。眼中花を識らんと欲(おも)はば、元是れ十方仏なり。十方仏を識らんと欲はば、是れ眼中華にあらず。眼中花を識らんと欲はば、是れ十方仏にあらず。此に於て明得すれば、過十方仏在り。若し未だ明得せずは、声聞作舞し、独覚臨粧す》。
      道元は、〈広照大師〉の〈説著=道得〉をよすがとして、〈文底〉の法理を展開している。〈十方仏〉とは〈言葉〉で囲い込むことも、〈開放〉することもできない〈妙〉なる〈存在〉である。〈十方仏〉は本来、〈眼中花〉であり、〈眼中花〉は〈十方仏〉なのである。その文底を開けば、〈十方仏〉は〈非眼中花〉となり、〈非十方仏〉は〈眼中華〉となる。〈明得〉とは〈実存=生の全体性〉に、〈覚醒〉することである。そのとき、〈過去五百塵点劫〉の〈成道〉と〈未来五百塵点劫〉の〈成道〉が見えてくる。〈過十方仏〉は〈過去五百塵点劫〉の〈成道〉であり、〈声聞作舞し、独覚臨粧す〉は〈未来五百塵点劫〉の〈成道〉である。〈過去未来の成道〉の文底に、〈妙法の曼荼羅=実存=生の全体性〉が常住している。
     しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、もとこれ眼中花なり。十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば、諸仏の住処にあらず。眼中花は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方仏なり。いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、眼中花にあらず、ひとへに眼中花と欲識すれば、十方諸仏にあらざるがごとし。かくのごとくなるゆゑに、明得、不明得、ともに眼中花なり、十方仏なり。欲識および不是、すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。
      〈釈尊=法華経〉は方便品で、是法住法位(ぜほうじゆうほうい)、世間相常住(せけんそうじようじゆう)《是の法は法位に住して、世間の相常住なり》と説いている。この文について日蓮は、次のように文底の法理を教示している。
    真諦        俗諦 是法住法位  世間相常住  迹門        本門
     此の文、衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり。万法元より覚の体なり。    〈是法住法位〉は〈真諦=迹門〉となり、〈不変真如の理〉に帰(き)する一面となる。〈世間相常住〉は〈俗諦=本門〉となり、〈随縁真如の智〉に命(もと)づく一面となる。〈是法住法位、世間相常住〉という〈説著=道得〉は〈随縁不変・一念寂照〉を示している。  道元の〈テクスト=説得〉は、〈法華経=釈尊〉の文底に迫る〈方法的原理〉の展開なのである。〈是法住法位〉の〈是法〉は〈十方仏〉となり、〈十方仏〉は〈是法〉となる。〈法位住〉は〈眼中〉となり、〈眼中〉は〈法位住〉となる。〈眼中花〉は〈非無・非有・非空・非実〉にして、自ずから〈十方仏〉なのである。一義的に〈十方仏〉と〈欲識=造作〉すれば〈非眼中花〉となり、一義的に〈眼中花〉と〈欲識=造作〉すれば、〈非十方仏〉となる。そこの浮かび上がるのは、〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉の法理、すなわち〈実存=生の全体性=実存=妙法の曼荼羅〉である。〈いま、ここに〉現成する〈森羅万象〉を〈認識〉する〈私=われわれ〉とは、いかなる〈存在〉なのか。まさに〈現成の奇哉なり、大奇なり〉と歓喜し、感謝する以外にない。
     仏々祖々の道取する空華地華(くうげじけ)の宗旨(そうし)、それ恁麼の逞風流(しんふうりゆう)なり。空花の名字は経師論師もなほ問及(もんぎゆう)すとも、地華の命脈は仏祖にあらざれば、見聞の因縁あらざるなり。地華の命脈を知及せる仏祖の道取あり。
      〈仏々祖々〉の命脈、すなわち〈釈尊=師〉から〈迦葉=弟子〉への〈嗣法=伝法〉は、〈空華地華(くうげじけ)の宗旨(そうし)〉として、〈いま、ここに〉に常住する。〈恁麼の逞風流(しんふうりゆう)〉とは、〈実存=生の全体性〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉修行である。〈空花の名字は経師論師もなほ問及す〉とは〈色心不二〉を〈唯識〉あるいは〈唯物〉に還元する〈外道=凡愚〉の〈心〉である。〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉は、〈大地=法性之淵底・玄宗之極地〉から涌出する〈地涌菩薩〉に〈嗣法=附属〉されている。それを〈地華の命脈〉と呼ぶのである。
     大宋国石門(せきもん)山の慧徹(えてつ)禅師は、梁山下の尊宿なり。ちなみに僧ありてとふ、如何是山中宝(しゆおしさんちゆうほう)《如何ならんか是れ山中の宝》。この問取の宗旨(そうし)は、たとへば、如何是仏《如何ならんか是れ仏》と問取するにおなじ、如何是道と問取するがごとくなり。師いはく、空花従地発(くうけじゆうじほつ)、蓋国買無門(がいこくまいむもん)《空花地より発け、蓋国買ふに門無し》。この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず。よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空(おくう)に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。従空しれる、なほいまだあらず。いはんや従地(じゅうじ)としらんや。ただひとり石門のみしれり。従地といふは、初中後つひに従地なり。発(ほつ)は開なり。この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。従地発の空華あり、従花開の尽地あり。しかあればしるべし、空花は、地空ともに開発せしむる宗旨なり。
     〈慧徹(えてつ)=釈尊〉と〈僧=迦葉〉の〈伝法=弘法〉の〈譬喩〉を介して、その文底が問われている。〈迦葉=僧〉の〈如何是山中宝(しゆおしさんちゆうほう)《如何ならんか是れ山中の宝》〉という〈問処=道得〉に、〈釈尊=慧徹〉が〈空花従地発(くうけじゆうじほつ)、蓋国買無門(がいこくまいむもん)《空花地より発け、蓋国買ふに門無し》と〈答処=道得〉している。この〈問処=道得〉は、〈仏とは何か、仏道とは何か〉という〈問い〉にほかならない。〈慧徹=釈尊〉の〈道得=説著〉には、〈自余の道取〉、すなわち〈外道・経師論師〉の夢にも思わない〈仏道の真髄〉が示されている。  〈よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空(おくう)に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す〉という〈道得=テクスト〉は、〈修行〉を無視する〈本覚論〉や、形而上学的唯心論に対する破折である。〈従空のみ知る〉とは、〈法華経迹門〉の〈本無今有〉の〈錯誤〉である。〈従地と知る〉とは、法華経本門の〈地涌=涌出〉の文底に迫る〈心〉である。〈初中後つひに従地なり〉の〈初中後〉は、〈いま、ここに〉を示している。〈この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり〉という〈テクスト=言説〉は、〈いま、この一瞬一瞬〉に〈尽大地=地涌菩薩=尽虚空〉が〈発開〉することを示している。〈蓋国=尽大地〉は〈無門〉であり、〈尽大地=蓋国〉は〈門無〉なのである。〈生老病死・生住異滅・成住壊空〉には〈入る門〉も〈出る門〉も無い。それは〈人間・宇宙・生命〉の〈法理=妙法の曼荼羅〉そのものなのである。
     正法眼蔵空華第十四

    陀羅尼

    01
    仏道修行の精神が明らかであれば、正法を知る精神も明らかである。正法を知る精神が
    明らかなことで仏道修行の精神は明らかになりうるのである。
    この機微を身につけることが、必ず偉大な指導者に仕えて学ぶ時の力になる。
    その機微を学ぶのが修行の大切な過程であり、それは心からのあいさつや礼の中にある。
    ここにいう偉大な指導者とは仏祖であって、かならずその身辺に努めて使えなければならない。

    02
    このようであるから、茶を持ってこい、茶をいれよ、といった師の日常に心から使えることによって
    心の通い合いは現成し、日常にはたらく通力は現成する。


    03
    ここにいう大陀羅尼とは、人事である、人に贈る挨拶であり礼である。師に対する挨拶と礼を
    大切なものとすることによって、師と弟子との通じ合いは現成するのである。人事と言う言葉は、
    「魔訶止観」の漢音によって世間に流通して久しいものであるが、仏祖にによって正伝された
    ものである。

    04
    その礼法は焼香礼拝である。あるいは出家当初の本師に対する礼法である。

    05
    安吾の初めと終わり、冬至および月初め月半ばの、定まった日に焼香礼拝する。
    その礼は、あるいは朝粥の前、あるいは朝粥が済んでから行う。威儀を具えて師の堂に
    参ずる。威儀を具えるとは袈裟を著し、座具をもち、履物を整えて、ひとひらの沈香
    または箋香などを用意して師の前に参ずるのである。
    師の前にいたって合掌して師の機嫌安否をお尋ねする。侍僧はそのとき香炉を
    供え蝋燭を立てる。、、、、
    この礼法の作法はそのときどきに欠かされたことはない。

    07
    正法眼蔵を述べるときには三拝するのである。
    知るべきである。
    礼拝は正法眼蔵なのだ。正法眼蔵を奉ずるのは正法眼蔵への礼拝である。
    正法眼蔵は仏法への大いなる礼である。

    ーーーーーーーー

    正法眼蔵第四十九 陀羅尼(だらに)
     参学眼(げん)あきらかなるは、正法眼(しょうぼうげん)あきらかなり。正法眼あきらかなるゆゑに、参学眼あきらかなることをうるなり。この関捩(かんれい)を正伝すること、必然として大善知識に奉覲(ぶごん)するちからなり。これ大因縁なり、これ大陀羅尼なり。いはゆる大善知識は仏祖なり。かならず巾瓶(きんびょう)に勤恪(きんかく)すべし。
      この巻では、〈陀羅尼〉という〈言葉=事象〉が〈入門=出門〉となり、〈文底=奧底〉への参学が展開されている。日蓮は〈陀羅尼〉について『御義口伝巻下』で、次のように説いている。
    第一陀羅尼の事 御義口伝に云く、陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり。其の故は陀羅尼は諸仏の密語なり。題目の五字、三世の諸仏の秘密の密語なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは陀羅尼を弘通するなり。捨悪持善の故なり云云。(「陀羅尼品六個の大事」)
      〈陀羅尼〉は〈総持〉と訳される。〈総〉は〈総摂〉、〈持〉は〈任持〉を意味する。〈陀羅尼〉は一字に無量の義を包摂し、一義に一切の義を任持する力となり、悪法を遮断し、善法を保持する働きとなる。〈妙法の曼荼羅〉に〈唱題=帰命〉するとき、〈私=われわれ〉は〈捨悪持善〉となり、〈陀羅尼〉となり、〈妙法の曼荼羅〉となる。〈先後同断〉の〈一瞬一瞬〉において、〈妙法の曼荼羅〉は〈陀羅尼〉であり、〈持善捨悪〉であり、〈私=われわれ〉なのである。
      〈参学眼〉を〈心法〉ととれば、〈正法眼〉は〈色法〉となる。〈心法〉を〈正法眼〉ととれば、〈色法〉は〈参学眼〉となる。〈参学眼〉は〈正法眼〉にほかならず、〈正法眼〉は〈参学眼〉にほかならない。〈正法眼〉の〈正〉は〈空諦〉、〈法〉は〈中諦〉、〈眼〉は〈仮諦〉を表す。あるいは〈正〉は〈仮諦〉、〈法〉は〈空諦〉、〈眼〉は〈中諦〉を表す。あるいは〈正〉は〈中諦〉、〈法〉は〈仮諦〉、〈眼〉は〈空諦〉を表す。〈色心不二〉なるを〈一極=妙法〉と言い、〈三諦円融〉なるを〈三重秘伝=正法眼蔵〉と言う。
      〈大善知識に奉覲す〉の〈大善知識〉は〈一極=三諦円融〉を表し、〈奉覲〉は〈帰命=只管打坐〉を表す。〈色心不二・久遠即末法〉なる〈時節=場=時空〉を、〈関棙(かんれい)〉とも〈大因縁〉とも〈大陀羅尼〉とも名づける。これを〈正伝=受決〉するところに、〈仏道=悟道〉が現成する。〈巾瓶(きんびょう)〉とは、〈妙法の曼荼羅〉である。〈妙法の曼荼羅〉を〈信受=行持〉することが〈勤恪(きんかく)〉となる。〈大因縁〉は〈大陀羅尼〉となり、〈大善知識〉となり、〈仏祖〉となる。〈仏祖〉は〈大善知識〉となり、〈大陀羅尼〉となり、〈大因縁〉となる。そこに示されているのは、〈善悪不二・因果倶時〉なる〈実存=妙法〉である。
     しかあればすなはち、擎茶来(きんさらい)、点茶(てんさ)来、心要現成(しんようげんじょう)せり、神通現成(じんづうげんじょう)せり。盥水来(かんすいらい)、瀉水来(しゃすいらい)、不動著境(ふどうじゃきょう)なり、下面了知(あめんりょうち)なり。仏祖の心要を参学するのみにあらず、心要裏の一両位の仏祖に相逢(そうふ)するなり。仏祖の神通を受用(じゅよう)するのみにあらず、神通裏(じんづうり)の七八員(いん)の仏祖をえたるなり。これによりて、あらゆる仏祖の神通は、この一束(そく)に究尽(ぐうじん)せり。あらゆる仏祖の心要は、この一拈(ねん)に究尽せり。このゆゑに、仏祖を奉覲(ぶごん)するに、天華天香(てんげてんこう)をもてする、不是(ふし)にあらざれども、三昧陀羅尼を拈じて奉覲供養する、これ仏祖の児孫(じそん)なり。
       〈心要(しんよう)・神通(じんずう)〉は、〈擎茶来(きんさらい)・点茶(てんさ)来〉として現成し、〈神通・心要〉は〈盥水来(かんすいらい)・瀉水来(しゃすいらい)〉として現成する。〈不動著境(ふどうじゃきょう)〉は〈久遠即末法〉を示し、〈下面了知(あめんりょうち)〉は〈色心不二〉を示している。〈私=われわれ〉の〈一挙手一頭足〉に、〈宇宙生命=妙法=森羅万象〉が〈収斂=拡散〉する。その〈一頭足一挙手〉が、〈仏祖の必要〉の〈参学〉となり、〈一両位の仏祖〉との〈相逢=出会い〉となる。それは〈仏祖神通〉の〈受用=功徳〉となり、〈神通裏=己心〉における〈諸仏諸祖〉の〈覚醒=現成〉となる。
      〈天華天香(てんげてんこう)〉とは、〈自他不二〉なる〈自己〉の〈色心〉である。〈われわれ=私〉は〈色心〉を以て〈仏祖=妙法〉に〈奉覲=帰命〉するとき、〈仏祖の児孫〉となり、〈三昧=三諦円融〉となり、〈陀羅尼=妙法〉に〈帰命=同調〉するのである。〈妙法=陀羅尼〉に〈帰命=同調〉する〈色心〉は、〈仏祖の必要〉を参学し、〈必要裏の仏祖〉と〈一体不二〉となる。〈この一束・この一拈〉は、〈正法眼蔵=妙法の曼荼羅〉を示している。
     いはゆる大陀羅尼は、人事(にんじ)これなり。人事は大陀羅尼なるがゆゑに、人事の現成に相逢(そうふ)するなり。人事の言は、震旦の言音(ごんおん)を依模(えも)して、世諦(せたい)に流通せることひさしといふとも、梵天より相伝せず、西天より相伝せず、仏祖より正伝せり。これ声色の境界にあらざるなり。威音王仏の前後を論ずることなかれ。
      〈人事(にんじ)〉とは、〈人間〉と〈人間〉、〈人間〉と〈自然〉、〈自然〉と〈自然〉の出会いのすべてであり、それを〈大陀羅尼〉とも言う。〈大陀羅尼〉は〈人事の現成〉となり、〈現成の人事〉は〈大陀羅尼〉となる。〈人事〉とは〈相逢〉にほかならず、〈相逢〉とは〈人事〉にほかならない。〈私=われわれ〉が駆使する〈言語〉は、〈いつ、どのように〉生じたのか。
     道元は〈震旦の言音(ごんおん)を依模(えも)して、世諦(せたい)に流通せることひさしといふとも、梵天より相伝せず、西天より相伝せず、仏祖より正伝せり。これ声色(しようしき)の境界にあらざるなり。威音王仏の前後を論ずることなかれ〉と〈説著=道得〉している。文化交流が頻繁に起こる〈文明国〉では、他国や他民族の〈言音=言語〉が浸透してくる。そこに〈言語=言音〉の〈文上・表層〉の変化・変遷が展開する。その〈文底=奧底〉には、〈生命本有〉の〈言語能力〉が〈常住〉している。その〈言語能力〉を、ソシュールは〈ランガージュ〉と名づけている。
     ソシュールは、自らの〈ランガージュ=言語能力〉によって、〈言音=言語〉を〈①ラング②パロール③ランガージュ〉の三つに分節し、〈言語は既に存在する真実を言い当てるのではなく、混沌を分節して新しい意味を生み出す〉という〈命題=公案〉を提示したのである。〈久遠即末法〉の視点・世界観に立てば、〈新しい意味〉はすべて、一回性の〈造作=構築〉となる。そこには〈種・熟・脱〉の法理が貫徹している。
     その人事は、焼香礼拝なり。あるいは出家の本師、あるいは伝法の本師あり。伝法の本師すなはち出家の本師なるもあり。これらの本師にかならず依止奉覲(えしぶごん)する、これ咨参(しさん)の陀羅尼なり。いはゆる時々をすごさず参侍すべし。
     安居(あんご)のはじめをはり、冬年および月旦月半、さだめて焼香礼拝す。その法は、あるいは粥前(しゆくぜん)、あるいは粥罷(しゆくは)をその時節とせり。威儀を具して師の堂に参ず。威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪(あいべつ)を整理して、一片の沈箋香等を帯して参ずるなり。
      〈人事〉は〈焼香礼拝〉となり、〈出家の本師〉となり、〈出家の本師〉は〈伝法の本師〉となる。〈出家の本師〉は〈伝法の本師〉であり、〈本師の伝法〉は〈本師の出家〉である。〈本師〉は〈依止奉覲(えしぶごん)〉となり、〈依止奉覲〉は〈咨参(しさん)の陀羅尼〉となり、〈咨参(しさん)の陀羅尼〉は〈時々参侍〉となる。〈久遠即末法〉の〈視点=境界〉が開くとき、〈安居〉は〈いま、ここに〉に行持する〈一極=妙法〉への〈只管打坐=帰命〉となる。
       〈安居(あんご)のはじめをはり〉の〈はじめ〉は〈不変真如の理に帰する一面=従因至果〉を示し、〈をはり〉は〈随縁真如の智に命づく一面=従果向因〉を示している。〈冬年および月旦月半、さだめて焼香礼拝す〉という〈譬喩=言述〉は、〈いま、ここに〉に開く〈自他不二〉なる己心における〈諸仏=妙法〉との〈相逢=一体不二〉を〈説著=道得〉している。〈その時節=粥前(しゆくぜん)・粥罷(しゆくは)〉もまた、〈いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる己心にほかならない。〈師の堂=妙法の曼荼羅〉に参ずる〈威儀〉は、〈袈裟〉となり、〈坐具〉となり、〈鞋襪(あいべつ)〉となり、〈沈箋香等〉となる。
     師前にいたりて問訊す。侍僧ちなみに香炉を装し燭をたて、師もしさきより椅子に坐せば、すなはち焼香すべし。師もし帳裏にあらば、すなはち焼香すべし。師もし臥(が)し、もしは食(じき)し、かくのごときの時節ならば、すなはち焼香すべし。師もし地にたちてあらば、請和尚坐(しんおしようざ)と問訊すべし。請和尚穏便(しんおしようおんびん)とも請ず。あまた請坐(しんぞ)の辞あり。和尚を椅子に請じ坐せしめてのちに問訊す。曲躬如法(こくくによほう)なるべし。問訊しをはりて、香台の前面にあゆみよりて、帯せる一片香を香炉にたつ。香をたつるには、香あるいは衣襟(えきん)にさしはさめることあり。あるいは懐中にもてるもあり。あるいは袖裏(しゆうり)に帯せることもあり。おのおの人のこころにあり。
     問訊ののち、香を拈出して、もしかみにつつみたらば、左手にむかひて肩を転じて、つつめる紙をさげて、両手に香を擎(ささ)げて香炉にたつるなり。すぐにたつべし、かたぶかしむることなかれ。香をたてをはりて、叉手(そうしゆ)して、右へめぐりてあゆみて、正面にいたりて、和尚にむかひて曲躬如法問訊しをはりて、展坐具(てんざぐ)礼拝するなり。拝は九拝、あるいは十二拝するなり。拝しをはりて、収坐具して問訊す。あるいは一展坐具礼三拝して、寒喧(かんけん)をのぶることもあり。いまの九拝は寒喧をのべず、ただ一展三拝を三度あるべきなり。その儀、はるかに七仏よりつたはれるなり。宗旨(そうし)正伝しきたれり。このゆゑにこの儀をもちゐる。かくのごとくの礼拝、そのときをむかふるごとに廃することなし。そのほか、法益(ほうやく)をかふぶるたびごとには礼拝す。因縁を請益(しんえき)せんとするにも礼拝するなり。二祖そのかみ見処を初祖にたてまつりしとき、礼三拝するがごときこれなり。正法眼蔵の消息を開演するに三拝す。
      〈安居〉とは何か。その〈次第=展開〉について、道元は詳細に記述している。〈師前の問訊〉があり、〈侍僧・香炉・燭・焼香〉があり、〈請和尚坐(しんおしようざ)=請和尚穏便(しんおしようおんびん)〉があり、〈曲躬如法(こくくによほう)〉がある。〈衣襟(えきん)=懐中=袖裏(しゆうり)〉に〈香〉を帯する。〈問訊〉の後、香を捧げて香炉に立てる。〈曲躬如法問訊〉の後、〈転坐具礼拝〉する。〈九拝=十二拝〉の後、〈収坐具〉あるいは〈一転坐具三拝〉して〈時候の挨拶〉の述べる。あるいは唯、〈一転三拝〉を三度する。
      〈釈尊=諸仏〉は〈妙法蓮華経〉を説き、〈地上会〉と〈虚空会〉の〈展開=次第〉を詳細に記している。〈森羅三千〉が〈一念〉を満たすことを、〈一念三千〉と言う。〈一念〉とは〈いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる己心である。そのとき、〈安居〉の〈次第=展開〉は、そのまま〈妙法蓮華経〉の〈地上会=虚空会〉が描き出す〈大陀羅尼=大曼荼羅〉の〈受決=相承〉であり、その現成であることが見えてくる。
      道元は〈その儀、はるかに七仏よりつたはれるなり。宗旨(そうし)正伝しきたれり。このゆゑにこの儀をもちゐる。かくのごとくの礼拝、そのときをむかふるごとに廃することなし〉と〈説著=道得〉している。〈七仏=諸仏〉は〈宗旨正伝〉となり、〈正伝宗旨〉は〈諸仏=七仏〉となる。〈正法眼蔵の消息〉とは〈妙法の曼荼羅〉にほかならず、〈妙法の曼荼羅〉とは〈正法眼蔵の消息〉にほかならない。〈消息の開演〉という〈譬喩=道得〉は、〈只管打坐=境智冥合〉を示している。                                     
     しるべし、礼拝は正法眼蔵なり。正法眼蔵は大陀羅尼なり。請益(しんえき)のときの拝は、近来おほく頓一拝(とんいつぱい)をもちゐる。古儀は三拝なり。法益(ほうやく)の謝拝、かならずしも九拝十二拝にあらず。あるいは三拝、あるいは触礼(そくれい)一拝なり。あるいは六拝あり。ともにこれ稽首拝(けいしゆはい)なり。西天にはこれらを最上礼拝となづく。あるいは六拝あり、頭をもて地をたたく。いはく、額をもて地にあててうつなり。血のいづるまでもす、これにも展坐具せるなり。一拝・三拝・六拝、ともに額をもて地をたたくなり。あるいはこれを頓首拝となづく。世俗にもこの拝あるなり。世俗には九品(くほん)の拝あり。法益のとき、また不住拝(ふじゆうはい)あり。いはゆる礼拝してやまざるなり。百千拝までもいたるべし。ともにこれら仏祖の会にもちゐきたれる拝なり。おほよそこれらの拝、ただ和尚の指揮をまぼりて、その拝を如法にすべし。おほよそ礼拝の住世せるとき、仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり。
     〈礼拝は〈正法眼蔵〉となり、〈大陀羅尼〉となる。〈大陀羅尼〉は〈正法眼蔵〉となり、〈礼拝〉となる。〈請益(しんえき)のときの拝〉とは〈不変真如の理〉に帰する一面であり、〈法益(ほうやく)の謝拝〉とは〈随縁真如の智〉に命づく一面である。〈随縁不変・一念寂照〉を〈頓一拝(とんいつぱい)〉と言う。〈頓一拝〉は〈稽首拝(けいしゆはい)〉となり、〈頓首拝〉となり、〈最上礼拝〉となる。〈血〉が出るまで〈額=頭〉で〈大地=虚空〉を叩くのは、〈虚空=大地〉との〈一体化〉を象徴している。〈転坐具〉は〈自他不二〉となり、〈不二自他〉は〈坐具転〉となる。〈礼拝住世(らいはいじゆうせ)〉するとき〈仏法住世〉し、〈礼拝隠没(らいはいおんもつ)〉するとき〈仏法隠没〉する。
     伝法の本師を礼拝することは、時節をえらばず、処所を論ぜず拝するなり。あるいは臥時食時(がじじきじ)にも拝す、行大小時(あんだいしようじ)にも拝す。あるいは牆壁(しようへき)をへだて、あるいは山川をへだてても遙望礼拝するなり。あるいは劫波をへだてて礼拝す、あるいは生死去来をへだてて礼拝す、あるいは菩提涅槃をへだてて礼拝す。
     弟子小師、しかのごとく種々の拝をいたすといへども、本師和尚は答拝せず。ただ合唱するのみなり。おのづから奇拝をもちゐることあれども、おぼろけの儀にはもちゐず。かくのごとくの礼拝のとき、かならず北面礼拝するなり。本師和尚は南面して端坐せり。弟子は本師和尚の面前に立地して、おもてを北にして、本師にむかひて本師を拝するなり。これ本儀なり。みづから帰依の正信おこれば、かならず北面の礼拝、そのはじめにおこなはると正伝せり。
     このゆゑに、世尊の在日に、帰仏の人衆・天衆・龍衆、ともに北面して世尊を恭敬礼拝(くぎようらいはい)したてまつる。最初には、阿若憍陳如(あにやきようじんによ)(亦名(またのな)拘隣(くりん))・阿湿卑(あしゆうび)(亦名阿陛(あへ))・摩訶摩南(まかまなん)(亦名摩訶拘利(まかくり))・婆提(ばだい)(亦名跋提(ばだい))・婆敷(ばふ)(亦名十力迦葉(じゆうりきかしよう))。この五人のともがら、如来成道ののち、おぼえずして起立し、如来にむかひたてまつりて、北面の礼拝を供養したてまつる。外道魔党、すでに邪をすてて帰仏するときは、必定して自搆他搆(じこうたこう)せざれども、北面礼拝するなり。
      〈伝法の本師=妙法の曼荼羅〉に〈礼拝=只管打坐〉する〈時空=場〉は、必ず〈いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる己心である。〈処所〉は〈色心不二〉となり、〈時節〉は〈久遠即末法〉となる。その〈時空=場〉について、道元は〈あるいは臥時食時(がじじきじ)にも拝す、行大小時(あんだいしようじ)にも拝す。あるいは牆壁(しようへき)をへだて、あるいは山川をへだてても遙望礼拝するなり。あるいは劫波をへだてて礼拝す、あるいは生死去来をへだてて礼拝す、あるいは菩提涅槃をへだてて礼拝す〉と、〈道得=説著〉している。
      〈弟子小師=われわれ〉は、それぞれの境界で〈陀羅尼=曼荼羅〉に〈只管打坐=帰命〉する。〈不答拝=合掌〉の〈本師和尚〉とは、〈妙法の曼荼羅〉の〈相貌(そうみよう)〉にほかならない。〈合掌=答拝〉するのは、己心の〈眼晴=正法眼蔵〉である。〈南面本師=北面礼拝〉は、〈師弟不二=法水写瓶〉を表す。〈帰依正信〉は〈北面礼拝〉となり、〈礼拝北面〉は〈正信帰依〉となる。〈大陀羅尼=大曼荼羅〉に〈只管打坐=帰命〉するとき、〈われわれ=私〉は〈五人のともがら〉となり、〈起立=発心〉して〈釈尊=諸仏を〈北面礼拝〉するのである。〈大曼荼羅=大陀羅尼〉を信受する一念を、〈非自搆他搆(ひじこうたこう)〉と言う。〈邪〉を捨てて〈帰仏〉する〈外道魔党〉とは誰なのか。その〈文底=奧底〉への参学が問われている。
     それよりこのかた、西天二十八代、東土の諸代の祖師の会(え)にきたりて正法に帰する、みなおのれづから北面の礼拝するなり。これ正法の肯然(けんねん)なり、師弟の搆意(こうい)にあらず。これすなはち大陀羅尼なり。有大陀羅尼、名為円覚。有大陀羅尼、名為人事。有大陀羅尼、現成礼拝なり。有大陀羅尼、其名袈裟なり。有大陀羅尼、是名正法眼蔵なり。これを誦呪(じゆじゆ)して尽大地を鎮護(ちんご)しきたる、尽方界を鎮成(ちんじよう)しきたる、尽時界を鎮言(ちんごん)しきたる、尽仏界を鎮作(ちんさ)しきたる、庵中庵外を鎮通しきたる。大陀羅尼かくのごとくなると参学究辨(さんがくきゆうはん)すべきなり。一切の陀羅尼は、この陀羅尼を字母(じも)とせり。この陀羅尼の眷属として、一切の陀羅尼は現成せり。一切の仏祖、かならず、この陀羅尼門より発心、辨道、成道、転法輪あるなり。
       〈北面礼拝〉は〈西天二十八代〉となり、〈東土諸代祖師〉となり、〈東土諸代祖師会〉となる。〈正法肯然(けんねん)〉ほ〈非師弟搆意〉となり、〈非搆意師弟〉は〈肯然正法〉となる。〈大陀羅尼=大曼荼羅〉を〈縁覚〉と称し、〈人事〉と転じ、〈礼拝〉と成す。〈大陀羅尼=大曼荼羅〉を〈袈裟〉と称し、〈正法眼蔵〉と転じ、〈誦呪(じゆじゆ)=帰命〉と成す。〈帰命=誦呪〉は〈鎮護尽大地〉となり、〈鎮成(ちんじよう)尽十方界〉となり、〈鎮言(ちんごん)尽時界〉となり、〈鎮作(ちんさ)尽仏界〉となり〈鎮通庵中庵外〉となる。そのとき〈われわれ=私〉の〈眼前〉に、〈悟道=参学眼〉が開かれる。
      〈陀羅尼=曼荼羅〉の〈字母〉は、〈字母〉の〈曼荼羅=陀羅尼〉となる。〈陀羅尼門〉とは、〈文底下種独一法門〉の別名にほかならない。〈釈尊=諸仏〉の〈発心・辨道・成道・転法輪〉は、〈陀羅尼門=曼荼羅門〉から〈地涌=空涌〉し、〈我本行菩薩道〉し、〈常住此説法〉するのである。
       しかあれば、すでに仏祖の児孫(じそん)なり、この陀羅尼を審細に参究すべきなり。おほよそ為釈迦牟尼仏衣之所覆(いしやかむにぶつえししよふ)は、為袈裟之所覆(いけさししよふ)なり。袈裟は標幟の仏衆(ぶつしゆ)なり。この辨肯(はんけん)、難値難遇なり。まれに辺地の人身(じんしん)をうけて、愚蒙(ぐもう)なりといへども、宿殖陀羅尼(しゅくじきだらに)の善根力(ぜんこんりき)現成して、釈迦牟尼仏の法にむまれあふ。たとひ百草(はくそう)のほとりに自成他成(じじょうたじょう)の諸仏祖を礼拝すとも、これ釈迦牟尼仏の成道なり。釈迦牟尼仏の辧道功夫なり。陀羅尼神変(だらにじんぺん)なり。たとひ無量億千劫に古仏今仏を礼拝する、これ釈迦牟尼仏衣之所覆時節なり。ひとたび袈裟を身体(しんたい)におほふは、すでにこれ得釈迦牟尼仏之(の)身肉手足、頭目髄脳(づもくずいのう)、光明転法輪なり。かくのごとくして袈裟を著(ぢゃく)するなり。これは現成著袈裟功徳(げんじょうぢゃけさくどく)なり。これを保任(ほうにん)し、これを好楽(こうぎょう)して、ときとともに守護し搭著(とうぢゃ)して、礼拝供養釈迦牟尼仏したてまつるなり。このなかにいく三阿僧祇劫(あそうぎこう)の修行をも辧肯究尽(はんけんきゅうじん)するなり。
      〈仏祖の児孫(じそん)〉となり、〈陀羅尼=曼荼羅〉に〈対坐=只管打坐〉し、〈曼荼羅=陀羅尼〉を〈参究〉し、〈陀羅尼=妙法〉に〈冥合=同調〉する。〈釈尊=諸仏〉は〈衆生=窮子〉を覆う〈慈悲衣=袈裟〉となり、〈袈裟=慈悲衣〉は〈諸仏=釈尊〉となる。この〈辨肯(はんけん)=道得〉は〈難値難遇〉なのである。
      〈愚蒙(ぐもう)の辺地人身(じんしん)〉という〈譬喩=言述〉は、〈私=われわれ〉を示している。〈宿殖陀羅尼(しゅくじきだらに)〉は〈善根力(ぜんこんりき)〉となり、〈釈尊=諸仏〉との〈相見=出会い〉を現成させる。〈諸仏諸祖〉の〈成道・悟道〉も〈われわれ=私〉の〈悟道=成道〉も、すべて〈諸仏=釈尊〉の〈成道=悟道〉にほかならない。〈釈尊=諸仏〉は〈辨道功夫〉となり、〈陀羅尼=曼荼羅〉となり、〈神変=言語動作〉となる。
      〈無量億千劫〉は〈空諦〉となり、〈古仏・今仏〉は〈中諦〉となり、〈礼拝〉は〈仮諦〉となる。〈仏衣=袈裟〉は〈仮諦〉となり、〈身体〉は〈中諦〉となり、〈所覆〉は〈空諦〉となる。〈現成〉は〈仮諦〉となり、〈著袈裟〉は〈中諦〉となり、〈功徳〉は〈空諦〉となる。〈守護搭著〉は〈仮諦〉となり、〈袈裟〉は〈中諦〉となり、〈功徳〉は〈空諦〉となる。〈釈尊=諸仏〉は〈身肉手足〉となり、〈頭目髄脳(づもくずいのう)〉となり、〈光明〉となり、〈転法輪〉する。〈三阿僧祇劫の修行〉は〈久遠即末法〉を表し、〈辧肯究尽〉は〈色心不二〉を表す。そこに浮上するのは〈一極=妙法〉、すなわち〈正法眼蔵=妙法の曼荼羅〉である。
      釈迦牟尼仏を礼拝したてまつり、供養したてまつるといふは、あるいは伝法の本師を礼拝し供養し、剃髪の本師を礼拝し供養するなり。これすなはち見釈迦牟尼仏なり。以法供養(いほうくよう)釈迦牟尼仏なり。陀羅尼をもて釈迦牟尼仏を供養したてまつるなり。
     先師天童古仏しめすにいはく、あるいはゆきのうへにきたりて礼拝し、あるいは糠のなかにありて礼拝する、勝躅(しようちよく)なり、先蹤(せんしよう)なり、大陀羅尼なり。
     正法眼蔵陀羅尼大四十九
      爾時寛元癸卯、在越宇吉峰精舎示衆
        同二年甲辰正月十三日書写之、在同州吉峰庵下侍者寮。懐弉
     〈釈尊=諸仏〉は〈礼拝供養〉となり、〈供養礼拝〉は〈諸仏=釈尊〉となる。〈伝法の本師〉は〈剃髪の本師〉となり、〈本師の剃髪〉は〈本師の伝法〉となる。〈見釈迦牟尼仏〉とは、〈釈尊=妙法〉の〈参学究尽〉である。そのとき〈糠中礼拝〉は〈雪上礼拝〉を〈受決=相承〉し、〈礼拝雪上〉は〈礼拝糠中〉を〈相承=受決〉する。〈大陀羅尼=大曼荼羅〉は〈仏道=悟道〉の〈勝躅(しようちよく)〉となり、〈悟道=仏道〉の〈先蹤(せんしよう)〉は〈大曼荼羅=大陀羅尼〉となる。