空華を学せんこと、まさに衆品(しゅほん)あるべし。翳眼(えいげん)の所見あり、明眼(みょうげん)の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼(かつげん)の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空花をみるといへども、空すでに品々(ほんぽん)なり、華(け)また重々なり。
〈空〉は〈心法〉を表し、〈華〉は〈色法〉を表し、〈空華〉は〈色心不二〉を表す。〈翳眼の所見〉は〈事的世界像=心法〉、〈明眼の所見〉は〈物的世界像=色法〉となる。〈三千年の所見・八百年の所見〉は〈小乗経〉、〈百劫の所見〉は〈権大乗経=阿弥陀経等〉、〈無量劫の所見〉は〈実大乗経=法華経〉である。〈空花〉の〈空〉は〈心法〉、〈花〉は〈色法〉を表す。その表裏一体なるを〈色心不二〉と言う。釈尊一代の聖教は、すべて生命の〈色心〉を品々に説いているのである。〈空すでに品々〉は〈諸法実相=色心不二〉を示し、〈華また重々なり〉は〈五百塵点劫=久遠即末法〉を示している。
まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は空本無華と道取するなり。本無華なりといへども、今有花(こんゆうけ)なることは、桃李(とうり)もかくのごとし。梅柳(むいりゅう)もかくのごとし。梅昨無華(むいさくむけ)、梅春有華(むいしゅんゆうけ)と道取せんがごとし。
〈空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし〉という〈道得=言説〉は、森羅万象が〈色心不二〉であることを意味する。現代物理学や宇宙科学は、〈非有〉が〈是有〉となり、〈有是〉が〈無非〉となる宇宙像をとらえている。それを仏法は先取りし、〈空本無華〉と〈問処〉し、〈答処〉し、〈伝法=弘法〉してきたのである。桃李も梅柳も、その〈文底=奧底〉を開けば、そこに〈尽宇宙〉が〈収斂=拡散〉している。それを〈仏法=釈尊〉は、〈梅昨無華、梅春有華〉と〈道取=説法〉しているのだ。
しかあれども、時節到来すれば、すなはちはなさく花時なるべし、花到来なるべし。この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。梅柳の花はかならず梅柳にさく。花をみて梅柳をしる、梅柳をみて花をわきまふ。桃李の花、いまだ梅柳にさくことなし。梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。空花の空にさくも、またまたかくのごとし。さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。空花の諸色をみて、空菓の無窮(むぐう)なるを測量(しきりょう)するなり。空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。空花の春と余華の春と、ひとしかるべきなり。空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。このゆゑに古今の春秋あるなり。空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。空華本無華の説をききて、もとよりなかりつる花のいまあると学するは、短慮少見なり。進歩して遠慮あるべし。
〈時節到来〉は〈花時〉となり、〈花時〉は〈花到来〉となる。〈この花到来の正当恁麼時〉とは、〈私=われわれ〉一人ひとりが生きる〈一瞬一瞬=始源の時〉である。梅柳の花は必ず梅柳に咲き、桃李の花は必ず桃李に咲く。空花が空に咲くのも、それと変わりない。〈空花の諸色をみて、空菓の無窮(むぐう)なるを測量(しきりょう)する〉とは、〈因果倶時=能動即受動〉の法理である。〈実存〉は因も果も〈無窮=無限〉であり、凡夫の〈測量=思考〉を超えている。日蓮もまた『御義口伝巻下』で、次のように独自の〈譬喩〉を展開している。
第二 量の字の事 御義口伝に云く、量の字を本門に配当する事は、量とは権(はかり)摂(おさむる)の義なり。本門の心は無作三身を談ず。此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身(じじゆゆうしん)の自体顕照(じたいけんしよう)と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円(りえん)を明かす処を改めずして、己が当体無作三身(とうたいむささんじん)と沙汰するが本門事円(じえん)三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李(おうばいとうり)の己々(ここ)の当体を改めずして無作三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の本主なり云云。(無量義経六箇の大事)
日蓮は〈桜梅桃李の己々の当体を改めずして、己が当体無作三身と開顕すれば、是れ即ち量の義なり〉と〈道得=説著〉している。量には、尽宇宙を〈包含〉する、尽宇宙と〈一体〉となる、という意味がある。〈森羅万象〉は〈森羅万法〉にほかならない。〈森羅万法〉は〈自受用身=無作三身〉となり、〈自受用身=無作三身〉は〈自体顕照〉となる。〈自体顕照〉は〈無作三身=自受用身〉である。〈空花の開落をみて、空花の春秋を学す〉とという〈道得=説著〉は、〈開落の空花〉が〈春秋の空花〉であることを示している。〈空花の春〉と〈余華の春〉の〈春〉とは、無量の義を生ずる〈一法〉にほかならない。〈空花〉は〈春時〉となり、さらに〈春秋〉となる。〈古今の春秋〉とは〈過去・現在・未来〉の文底、すなわち〈いま、ここに〉を示している。〈余花〉は〈実〉であり、〈空花〉は〈非実〉であると〈思考〉する〈心〉は、〈外道・経師論師=凡愚〉に留まる。〈空華本無華〉を〈本無今有〉と見る〈修学〉は、〈短慮少見〉に陥る。その〈文底=奧底〉を開く〈我本行菩薩道〉を〈進歩・遠慮〉と言う。
道元の〈空花の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり〉という〈道得=説法〉の〈空花の諸色〉は、法華経を根本とする釈尊一代の聖教を意味し、〈空菓の無窮〉とは法華経の功徳を意味する。〈空花の開落〉の〈空花〉は法華経二十八品、〈開落〉の〈開〉は〈如是我聞〉の〈如〉、〈落〉は〈作礼而去〉の〈去〉である。〈余花〉は法華経を身読する一人ひとりの人生となる。
祖師いはく、華亦不曾生(けやくふすんしよう)。この宗旨(そうし)の現成、たとへば華亦不曾生、花亦不曾減(けやくふすんげん)なり。花亦不曾花なり、空亦不曾空の道理なり。華時の前後を胡乱(うろん)して、有無の戯論(うむ)あるべからず。華はかならず諸色をそめたるがごとし、諸色かならずしも華にかぎらず。諸時また青黄赤白(しようおうしやくびやく)等のいろあるなり。春は花をひく、華は春をひくものなり。
〈華〉というものが〈尽宇宙=妙法〉の内外に元々隠れていて、それが現出するわけではない。そのことを〈祖師=釈尊〉は、〈華亦不曾生〉と〈答処=道得〉しているのだ。〈妙法=尽宇宙〉そのものが、〈華〉という形を〈私=われわれ〉の六根を介して〈現出〉するのである。その〈われわれ=私〉もまた、〈尽宇宙=妙法〉の〈出現〉にほかならない。地球上の生物の進化という〈華〉も、〈妙法=尽宇宙〉の〈現出〉なのである。生物と環境は〈依正不二=一体〉であり、生物の進化の姿は、その法理を示している。〈華時の前後を胡乱する〉とは、〈華時〉を一つの〈物〉の変化と〈思考〉する〈錯誤〉にほかならない。無慈悲な〈政治=政治家〉の〈心〉は、格差社会という〈華時〉の〈前後〉を〈胡乱〉して、〈戯論〉を繰り返しているのだ。
張拙秀才(ちようせつしゆうさい)は石霜(せきそう)の俗弟子なり。悟道の頌(しよう)をつくるにいはく、光明寂照遍河沙(こうみようじやくしようへんがしや)《光明寂照、河沙に遍(あまね)し》。この光明、あらたに僧堂・仏殿・厨庫・山門を現成せり。遍河沙は光明現成なり、現成光明なり。
この〈テクスト=言説〉は、〈秀才=迦葉〉と〈石霜=釈尊〉との〈嗣法=弘法〉の〈譬喩〉となる。〈光明寂照〉は〈妙法の曼荼羅〉を示し、〈河沙に遍(あまね)し〉は〈僧堂・仏殿・厨庫・山門〉の〈現成〉を示している。〈光明〉は〈現成〉であり、〈現成〉は〈光明〉である。
凡聖含霊共我家(ぼんしようがんぐうがけ)《凡聖含霊、共に我が家》。凡夫賢聖なきにあらず、これによりて凡夫賢聖を謗ずることなかれ。
〈凡聖〉は〈色法〉、〈含霊〉は〈心法〉である。宇宙の〈色心〉が、そのまま〈我が家〉、すなわち〈自己〉の〈色心〉と現成している。〈凡夫=賢聖〉を一義的に〈讃歎〉するのも〈誹謗〉するのも〈謗法〉となる。〈凡夫=愚人〉は〈自分〉を〈偉い〉と錯誤し、〈他者〉を〈偉い〉と錯誤する。
一念不生全体現(いちねんふしようぜんたいげん)《一念不生にして全体現ず》。念々一々なり。これはかならず不生なり、これ全体全現なり。このゆゑに一念不生と道取す。
〈一念不生〉は〈全体現〉となる。〈念々一々〉とは、〈いま、ここに〉開く〈一瞬一瞬=始源の時〉であり、そこに〈尽宇宙〉が収斂し拡散している。それを〈全体現〉と言う。〈一念〉は〈不生=不滅〉であり、〈不滅=不生〉なのである。
六根纔動被雲遮(ろつこんさいどうひうんしや)《六根わづかに動ずれば雲に遮(さ)へらる》。六根たとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、前後三々なるべし。動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動(によせんどう)なり。動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり。たとへば、雲をなし水をなすなり。
〈私=われわれ〉は〈六根〉の機能を選択するとき、〈無限〉のものを選び捨てている。その〈選択=選捨〉は、意識と無意識の狭間で機能する。そのことを〈師=釈尊〉は、〈六根わづかに動ずれば雲に遮(さ)へらる〉と〈道得=説法〉しているのだ。〈六根=眼耳鼻舌身意〉を取捨選択するのは〈前後三々〉、すなわち〈始源の時=自己〉である。〈いまの一瞬一瞬〉の〈動〉は、〈一瞬一瞬のいま〉の〈不動〉となる。それは〈如須弥山〉となり、〈如大地〉となり、〈如六根〉となる。〈須弥山〉は〈雲〉となり、〈水〉となる。〈須弥山〉は、〈存在=根源〉の〈譬喩〉にほかならない。
断除煩悩重増病(だんじよぼんのうじゆうぞうびよう)《煩悩を断除すれば重ねて病を増す》。従来やまふなきにあらず、仏病・祖病あり。いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます。断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。同時なり、不同時なり。煩悩かならず断除の法を帯せるなり。
〈煩悩を断除すれば重ねて病を増す〉という〈道得=説著〉を、〈煩悩即菩提〉の〈法理=妙法〉に違背すると読むとき、さらにその文底が問われることになる。そのとき〈病〉は〈非病〉となり、〈非病〉は〈病〉となる。それは〈肯定即否定=善悪不二〉・〈能動即受動=因果倶時〉という〈実存の法理〉にほかならない。〈いまの智断〉は必ず、その〈文底〉を問われるのだ。〈断除〉は〈摂取〉となり、〈摂取〉は〈断除〉となる。〈煩悩即菩提〉は〈断除即摂取〉であり、〈菩提即煩悩〉は〈摂取即断除〉である。〈正当恁麼時〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に随順する一念である。
趣向真如亦是邪(しゆこうしんによやくぜじや)《真如に趣向するも亦是れ邪なり》。真如に背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。
〈生の分断化〉をもたらす〈言葉〉を用いて、〈真如=実存〉を囲い込むことは不可能であり、開放することもまた不可能なのである。そのことを道元は一往、〈真如にに背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり〉と〈道得=言説〉し、さらに再往、〈真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、これ邪の亦是真如なることを〉と〈言説=道得〉しているのだ。〈一往〉は文上、〈再往〉はその文底を意味する。
随順世縁無?礙(ずいじゆんせえんむけいげ)《世縁に随順して?礙無し》。世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁なり。これを無?礙といふ。?礙不?礙は、被眼礙(ひげんげ)に慣習すべきなり。
〈私=われわれ〉は一人ひとりが〈世縁〉となり、〈世縁〉と〈世縁〉が〈随順=非随順〉となって〈生〉を営んでいるのだ。そこから〈排除〉すべきものも〈摂取〉すべきものもない。それを〈無(不)?礙=?礙〉と言うのである。〈眼〉には〈被膜〉と〈透徹〉という両義性がある。〈真理=実存〉を見ない眼は、〈実存=真理〉を見る眼にもなる。
涅槃生死是空花(ねはんしようじぜくうけ)《涅槃と生死と是れ空花》。 涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)なり。仏祖および仏祖弟子の所在これなり。生死(しょうじ)は真実人体(しんじつにんたい)なり。この涅槃生死、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎(こんきよう)・枝葉(しよう)・花菓(けか)・光色(こうしき)、ともに空花の花開なり。空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに、不如三界、見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測(ふしき)の諸法、ともに空花空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし。
〈涅槃〉は〈生死〉であり、〈生死〉は〈涅槃〉である。〈生死〉は〈空花〉となり、〈生死即涅槃〉となる。それは〈阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)〉であり、〈生死即涅槃〉という〈仏=釈尊〉の名号にほかならない。〈釈尊=迦葉〉の〈常住〉する〈時空=場〉が、そのまま〈真実人体〉なのである。〈空華〉は〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉であり、その〈色心〉の〈功徳〉を〈空華の根茎(こんきよう)・枝葉(しよう)・花菓(けか)・光色(こうしき)〉と言う。
〈生命〉とは〈一瞬一瞬〉の〈生死〉にほかならない。〈生死〉は〈色心不二〉となり、〈空花〉もまた〈色心不二〉となる。〈根茎枝葉、花菓光色〉は、森羅万象の〈色心〉である。森羅万象は〈色心不二〉なる〈妙法〉の〈花開〉にほかならない。〈空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだす〉は〈因果倶時〉なる〈種・熟・脱〉を示している。〈いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり〉とは、森羅万象の〈色心〉である。これを〈諸法実相・色心不二〉と言う。〈不測の諸法〉とは〈因果倶時・不思議の一法〉の〈花開〉である。〈梅柳桃李〉は森羅万象の〈譬喩〉となる。森羅万象の〈色心〉の根源に、〈不測の諸法〉すなわち〈妙法の曼荼羅〉が常住している。
大宋国福州芙蓉山(ふようざん)霊訓禅師、初め帰宗寺の至真禅師に参じて問ふ、如是仏(によぜぶつ)《如何(いか)ならんか是れ仏》。帰宗云く、我向汝道(がこうによどう)、汝還信否(によげんしんぴ)《我れ汝に向かって道(い)はんに、汝また信ずるや否や》。師云く、和尚誠言(おしようせいごん)、何敢不信(かかんふしん)《和尚の誠言、何ぞ敢えて信ぜざらん》。帰宗云く、即汝便是(そくによびんし)《即ち汝便ち是なり》。師云く、如何保任(しゆおほうにん)《如何(いかん)が保任せん》。帰宗云く、一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうげらんついい)《一翳眼に在れば、空花乱墜す》。
この問答は〈釈尊=師〉と〈迦葉=弟子〉の〈嗣法=伝法〉の〈譬喩〉となる。〈如是仏(によぜぶつ)《如何(いか)ならんか是れ仏》〉という〈霊訓〉の〈問処=道得〉に、〈帰宗〉は〈我向汝道(がこうによどう)、汝還信否(によげんしんぴ)《我れ汝に向かって道(い)はんに、汝また信ずるや否や》〉と〈答処=道得〉している。さらに、〈霊訓〉が〈和尚誠言(おしようせいごん)、何敢不信(かかんふしん)《和尚の誠言、何ぞ敢えて信ぜざらん》〉と〈問処〉し、〈帰宗〉が〈即汝便是(そくによびんし)《即ち汝便ち是なり》〉と〈答処〉する。そして問答は、〈霊訓〉の〈如何保任(しゆおほうにん)《如何(いかん)が保任せん》〉という〈問処〉と〈帰宗〉の〈一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうげらんついい)《一翳眼に在れば、空花乱墜す》〉へと〈開華=結実〉している。
いま帰宗道の、一翳在眼(いちえいざいげん)、空花乱墜(くうけらんつい)は、保任仏(ほうにんぶつ)の道取なり。しかあればしるべし、翳華の乱墜は、諸仏の現成なり、眼空の花果は、諸仏の保任なり。翳をもて眼を現成せしむ。眼中に空花を現成し、空花中に眼を現成せり。空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり。およそ一眼の在時在処、かならず空花あり、眼花あるなり。眼花を空花とはいふ、眼花の道取、かならず開明なり。
〈保任仏の道取〉とは、唯仏与仏の〈嗣法=伝法〉にほかならない。〈翳花の乱墜〉は、〈諸仏の現成〉である。〈眼空の花果〉は、〈諸仏の保任〉である。〈現成〉は〈保任〉となり、〈保任〉は〈現成〉となる。〈保任〉は〈華果〉となり、〈華果〉は〈保任〉となる。〈乱墜〉とは〈華果〉であり、〈華果〉とは〈諸仏〉にほかならない。〈乱墜の翳花〉の究極の文底に、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉が浮かび上がる。それが〈いま、ここに〉脈動する〈実存〉の在りようなのである。
〈言葉=文字〉と〈文字=言葉〉、〈事象〉と〈事象〉が響き合い、照らし合いならが、無限の〈意味=心法〉と〈力=色法〉を〈収斂・拡散〉する〈生命空間〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。道元の〈空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり〉という〈道得=テクスト〉は、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉を浮かび上がらせている。
このゆゑに、瑯耶山広照(ろうやさんこうしよう)大師いはく、奇哉十方仏(きやじつぽうぶつ)、元是眼中花(げんぜげんちゆうけ)。欲識眼中花(よくしきげんちゆうけ)、元是十方仏(げんぜじつぽうぶつ)。欲識十方仏(よくしきじつぽうぶつ)、不是眼中華(ふぜげんちゆうけ)。欲識眼中花(よくしきげんちゆうけ)、不是十方仏(ふぜじつぽうぶつ)。於此明得(おしめいて)、過在十方仏(かざいじつぽうぶつ)。若未明得(にやくみめいて)、声聞作舞(しようもんさぶ)、独覚臨粧(どつかくりんしよう)《奇なる哉十方仏、元より是れ眼中花なり。眼中花を識らんと欲(おも)はば、元是れ十方仏なり。十方仏を識らんと欲はば、是れ眼中華にあらず。眼中花を識らんと欲はば、是れ十方仏にあらず。此に於て明得すれば、過十方仏在り。若し未だ明得せずは、声聞作舞し、独覚臨粧す》。
道元は、〈広照大師〉の〈説著=道得〉をよすがとして、〈文底〉の法理を展開している。〈十方仏〉とは〈言葉〉で囲い込むことも、〈開放〉することもできない〈妙〉なる〈存在〉である。〈十方仏〉は本来、〈眼中花〉であり、〈眼中花〉は〈十方仏〉なのである。その文底を開けば、〈十方仏〉は〈非眼中花〉となり、〈非十方仏〉は〈眼中華〉となる。〈明得〉とは〈実存=生の全体性〉に、〈覚醒〉することである。そのとき、〈過去五百塵点劫〉の〈成道〉と〈未来五百塵点劫〉の〈成道〉が見えてくる。〈過十方仏〉は〈過去五百塵点劫〉の〈成道〉であり、〈声聞作舞し、独覚臨粧す〉は〈未来五百塵点劫〉の〈成道〉である。〈過去未来の成道〉の文底に、〈妙法の曼荼羅=実存=生の全体性〉が常住している。
しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、もとこれ眼中花なり。十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば、諸仏の住処にあらず。眼中花は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方仏なり。いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、眼中花にあらず、ひとへに眼中花と欲識すれば、十方諸仏にあらざるがごとし。かくのごとくなるゆゑに、明得、不明得、ともに眼中花なり、十方仏なり。欲識および不是、すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。
〈釈尊=法華経〉は方便品で、是法住法位(ぜほうじゆうほうい)、世間相常住(せけんそうじようじゆう)《是の法は法位に住して、世間の相常住なり》と説いている。この文について日蓮は、次のように文底の法理を教示している。
真諦 俗諦
是法住法位 世間相常住
迹門 本門
此の文、衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり。万法元より覚の体なり。
〈是法住法位〉は〈真諦=迹門〉となり、〈不変真如の理〉に帰(き)する一面となる。〈世間相常住〉は〈俗諦=本門〉となり、〈随縁真如の智〉に命(もと)づく一面となる。〈是法住法位、世間相常住〉という〈説著=道得〉は〈随縁不変・一念寂照〉を示している。
道元の〈テクスト=説得〉は、〈法華経=釈尊〉の文底に迫る〈方法的原理〉の展開なのである。〈是法住法位〉の〈是法〉は〈十方仏〉となり、〈十方仏〉は〈是法〉となる。〈法位住〉は〈眼中〉となり、〈眼中〉は〈法位住〉となる。〈眼中花〉は〈非無・非有・非空・非実〉にして、自ずから〈十方仏〉なのである。一義的に〈十方仏〉と〈欲識=造作〉すれば〈非眼中花〉となり、一義的に〈眼中花〉と〈欲識=造作〉すれば、〈非十方仏〉となる。そこの浮かび上がるのは、〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉の法理、すなわち〈実存=生の全体性=実存=妙法の曼荼羅〉である。〈いま、ここに〉現成する〈森羅万象〉を〈認識〉する〈私=われわれ〉とは、いかなる〈存在〉なのか。まさに〈現成の奇哉なり、大奇なり〉と歓喜し、感謝する以外にない。
仏々祖々の道取する空華地華(くうげじけ)の宗旨(そうし)、それ恁麼の逞風流(しんふうりゆう)なり。空花の名字は経師論師もなほ問及(もんぎゆう)すとも、地華の命脈は仏祖にあらざれば、見聞の因縁あらざるなり。地華の命脈を知及せる仏祖の道取あり。
〈仏々祖々〉の命脈、すなわち〈釈尊=師〉から〈迦葉=弟子〉への〈嗣法=伝法〉は、〈空華地華(くうげじけ)の宗旨(そうし)〉として、〈いま、ここに〉に常住する。〈恁麼の逞風流(しんふうりゆう)〉とは、〈実存=生の全体性〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉修行である。〈空花の名字は経師論師もなほ問及す〉とは〈色心不二〉を〈唯識〉あるいは〈唯物〉に還元する〈外道=凡愚〉の〈心〉である。〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉は、〈大地=法性之淵底・玄宗之極地〉から涌出する〈地涌菩薩〉に〈嗣法=附属〉されている。それを〈地華の命脈〉と呼ぶのである。
大宋国石門(せきもん)山の慧徹(えてつ)禅師は、梁山下の尊宿なり。ちなみに僧ありてとふ、如何是山中宝(しゆおしさんちゆうほう)《如何ならんか是れ山中の宝》。この問取の宗旨(そうし)は、たとへば、如何是仏《如何ならんか是れ仏》と問取するにおなじ、如何是道と問取するがごとくなり。師いはく、空花従地発(くうけじゆうじほつ)、蓋国買無門(がいこくまいむもん)《空花地より発け、蓋国買ふに門無し》。この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず。よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空(おくう)に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。従空しれる、なほいまだあらず。いはんや従地(じゅうじ)としらんや。ただひとり石門のみしれり。従地といふは、初中後つひに従地なり。発(ほつ)は開なり。この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。従地発の空華あり、従花開の尽地あり。しかあればしるべし、空花は、地空ともに開発せしむる宗旨なり。
〈慧徹(えてつ)=釈尊〉と〈僧=迦葉〉の〈伝法=弘法〉の〈譬喩〉を介して、その文底が問われている。〈迦葉=僧〉の〈如何是山中宝(しゆおしさんちゆうほう)《如何ならんか是れ山中の宝》〉という〈問処=道得〉に、〈釈尊=慧徹〉が〈空花従地発(くうけじゆうじほつ)、蓋国買無門(がいこくまいむもん)《空花地より発け、蓋国買ふに門無し》と〈答処=道得〉している。この〈問処=道得〉は、〈仏とは何か、仏道とは何か〉という〈問い〉にほかならない。〈慧徹=釈尊〉の〈道得=説著〉には、〈自余の道取〉、すなわち〈外道・経師論師〉の夢にも思わない〈仏道の真髄〉が示されている。
〈よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空(おくう)に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す〉という〈道得=テクスト〉は、〈修行〉を無視する〈本覚論〉や、形而上学的唯心論に対する破折である。〈従空のみ知る〉とは、〈法華経迹門〉の〈本無今有〉の〈錯誤〉である。〈従地と知る〉とは、法華経本門の〈地涌=涌出〉の文底に迫る〈心〉である。〈初中後つひに従地なり〉の〈初中後〉は、〈いま、ここに〉を示している。〈この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり〉という〈テクスト=言説〉は、〈いま、この一瞬一瞬〉に〈尽大地=地涌菩薩=尽虚空〉が〈発開〉することを示している。〈蓋国=尽大地〉は〈無門〉であり、〈尽大地=蓋国〉は〈門無〉なのである。〈生老病死・生住異滅・成住壊空〉には〈入る門〉も〈出る門〉も無い。それは〈人間・宇宙・生命〉の〈法理=妙法の曼荼羅〉そのものなのである。
正法眼蔵空華第十四