2016年7月23日土曜日

面授之巻

正法眼蔵嗣書の巻より
 
11
仏祖たちは、眼前に釈迦牟尼仏にまみえ奉る眼を正伝してきたのである、仏祖たちが
正伝してきた眼は釈迦牟尼仏より以前から親しく伝えられたものである。
仏祖たちはそれぞれの正眼によって時と処に関わらずに釈迦牟尼仏を現出しているので
ある。
このようであって、釈迦牟尼仏を尊び、釈迦牟尼仏を慕い奉るのは、この面授の
正伝を重んじその趣旨にを尊び、師との間の面授を出遇いがたいものとして敬い
重んじて師を礼拝せねばならない。それはとりもなおさず釈迦如来を礼拝し
奉ることである。新たに仏法を面授する如来が正伝するところを、面授によって
シテイのそれぞれの主体としての自己之すべてが授受される正伝のありのまま
を拝見するのは、自己自身のこととしてもいとおしまねばならず、客体として
の自己のこととしても護持せねばならない。

23
尚古がいうように書籍に学ぶのみで嗣法することが出来るなら、経典を読んで
物事を明らかにするものはみな釈迦牟尼仏に直接嗣法するのか、けっして
そのようなことはない。経書によって発明するものも、必ず正師の許しを求めるのであ
る。
お前は雲門の語録さえもまだ読んでいないのだ、己の眼をもって己を見ていないのだ。
このような未熟な者たちは多いのだ。お前はあらためて草履を履き草履を履きつぶして
正師を求めて仏法を学ばねばならない。



 「仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単
伝なり。このゆえに、無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するにあたはず、仏の印
証をえざれば仏となることなし。仏にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上
なりと印することあらん。
 仏の印証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟するなり。このゆへに、仏仏証嗣
し、祖祖証契するといふなり。」
 この巻きは道元さまが先師天童山の住職如浄禅師より正しい仏法を受け継ぎ、わが国
に曹洞宗を正しく伝えられた時の様子と嗣法の心について述べられた巻であります。仏
法を継承することを嗣法といいますが、曹洞宗ではこの嗣法を大変重要なものと位置づ
けています。これが乱れたならば、仏教が堕落しかねないからであります。大変厳粛な
ものであります。

 曹洞宗では仏法を正しく伝えた証、つまり嗣法の証として師匠は弟子に「嗣書」とい
うものを与えます。しかし、それは単に形式だけのものであってはなにもなりません。
法を嗣ぐことが「嗣法」でありますが、道元さまはこの嗣法こそ最も厳粛で大切なこと
と説かれています。つまり嗣法とはどのようなものであるか、その本当の意味、心はな
にであるかということを、この嗣書の巻とか、面授の巻で説かれました。これが正しく
行われなければ仏法の堕落につながり、衰退につながるからであります。当時すでにわ
が国の仏教は堕落が始まっていたということで、道元さまはこのことへの危機意識をい
だいておられたということであります。ここで、この文の意味を一応現代語訳いたしま
す。
 「お釈迦さまから歴代の仏さまやお祖師さま方が仏法を嗣ぐときは悟りを得た仏が仏
に嗣法し、悟りを得た祖師が祖師に嗣法いたします。それは師の悟りと弟子の悟りが一
致合体することであり、これを証契即通といいます。それは一人の師が一人の弟子にの
み法を嗣ぐ単伝であります。だから最上の菩提つまり悟りが成就するのであります。こ
の最上最勝の菩提は悟りを得た仏仏祖祖でなければ弟子の悟り、菩提を認証する資格が
なく、それはできません。仏の認証を得なければ仏となることができません。したがっ
て悟りを得ない人を最尊者などということはできません。

 この認証、嗣法を得る時、無師独悟することになります。つまり師と弟子が、円融合
体、一如になるのであります。師と弟子は「さとり」そのものになるのであります」
 現代語訳は以上のようになります。ところで道元さまが如浄禅師から印可証明をいた
だいたのでありますが、嗣法は面授であります。嫡々の正法を正しく伝えてゆくには、
形はともかく師と弟子が対面し、心の絆が一致合体しなくてはなりません。これを二面
裂破証契即通といいます。二人の人格が悟りということで一つになるのであります。こ
れを無師独悟・無自独悟といいます。師資つまり師匠も弟子もいない、ただ法があるだ
けであるというのであります。しかし、形式としての嗣書もまた大切なものであります
。道元さまは龍門仏眼派の嗣書を閲覧する機会があり、大変感激されています。正師を
求めて中国宋の国に渡り、ついに求める生涯の師、如浄禅師に出会うことができます。
これはまさに因縁としかいいようのない、眼に見えない不思議な糸で二人は結ばれてい
たといえましょう。如浄禅師は道元さまを一目見るなり、吾が仏法はこの日本から来た
僧侶に伝えようと心に決められるのであり、道元さまは如浄禅師こそ長い間、さがし求
めていた正師であると直感し、感激の余り眠れなかったといわれます。

 「宝鏡記」という道元さまが宋の国での求法の様子を書き記した日記に次の様なこと
が書かれています。ある時道元さまは本師如浄禅師に仏道についてたずねることの許可
を求めました。如浄禅師は道元さまに「あなたは今後昼夜を問わずいつでも、袈裟もつ
けなくて普段の服装で私の部屋へ来て、たずねたいことがあればなんでも質問しなさい
。わたしはあなたを父親が子供の無礼を許すように許して、あなたを迎えましょう。」
と言われました。これは師如浄禅師が如何に道元さまが求法の道念があつく、また器量
、知識も深いことを見抜いていたからでしょう。道元さまは如浄禅師から印可を受け「
身心脱落」という言葉を残しておられます。これは如浄さまと道元さまとの二人格が一
つになったことを意味しています。この巻は現在の仏教寺院内のこととのみ片付けられ
ない、現代社会に対する一つの問題、テーマをも投げかけているようにも思えます。


『葛藤をもて葛藤に面授して、さらに断絶せず』

p161「本巻の大意」より
’面授とは、仏教界における宇宙秩序の伝承に当り、師匠と弟子とが現実に顔と顔とを
合わせ、一対一の形で全人格的な伝承を行なうことをいう。そして仏教界において何故
この現実に顔と顔とを合わせた一対一の伝承が不可欠のものとされるかというと、師匠
と弟子との間において伝承されるものは、単に文字や言葉によって表現された思想でも
なければ、感覚的に把えられた個別の体験でもなく、それは真理体得者となり得ている
師匠と、同じく真理体得者となり得たところの弟子との間において行なわれる全人格的
な伝承であるからである。’

p170
『震旦国以東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり。あらたに如来をみたてまつる
正眼をあひつたへきたれり。
釋迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらな
るにあらざれども、倶時の面授あり。』
≪訳文抜粋≫
「中国以東の国において、釈尊以来の正しい伝統を荷っている流派においてのみ、一対
一で伝授を行ない、一対一で受領を行なうということが行なわれているのであり、鮮明
に釈尊のお姿を拝見申し上げるところの正しい眼というものを、〈師匠から弟子へと〉
次々に伝承して来たのである。
釈尊のお姿を礼拝する際には、〈摩訶迦葉尊者からこの道元に至るまでの〉五十一人の
祖師方や過去七仏の方々が、横にならんでいるとか、たてに並んでいるとかということ
はないのであるが、〈しかも〉一斉に一対一の伝授を受けるのである。」

師と弟子が現実の場で真摯に向き合う瞬間、「真実」を求める者同士の授受の行い、こ
そ言葉で言えないしかし決定的な何かである。その「瞬間」は歴史におけるすべての’
面授’の瞬間と合同∋等価であるといえる。



正法眼蔵第五十一 面授

  〈文底下種独一本門〉とは、〈言葉=事象〉の〈文底=奧底〉に〈正法眼蔵=生の
全体性=妙法の曼荼羅〉を把握する〈方法的原理〉である。それを〈修行=行持〉する
とき、〈私=われわれ〉の〈生きる場〉に、〈友情と連帯〉が蘇生する。〈事象=言葉
〉の〈文底=奧底〉を〈道得=言述〉するとき、〈われわれ=私〉は目に見えない〈唯
心〉の法理を〈思考=造作〉してしまう。そのような〈造作=思考〉は、〈文底下種独
一本門〉から遠ざかる。
 〈実存=妙法〉は、あくまでも〈色心不二=始源の時=久遠即末法〉であり、〈善悪
不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉なのである。〈私=われわれ〉がいかに〈
緻密・深遠・高尚〉と感嘆し、称讃する〈道得=論理〉も、〈只管打坐=境智冥合〉の
〈修行=行持〉がなければ、〈生命〉の〈分断化=脱益化〉を引きづり続けることにな
る。道元は『正法眼蔵』を〈説著=道得〉することによって、〈釈尊=諸仏〉が〈道得
=説著〉する〈生死不二=色心不二〉の〈曼荼羅〉を〈面受=承継〉し、〈展開=現成
〉しているのである。

 爾時釈迦牟尼仏、西天竺国霊山会上、百万衆中、拈優曇華瞬目。於時摩訶迦葉尊者、
破顔微笑《爾(そ)の時に釈迦牟尼仏、西天竺国霊山会上(りようぜんえじよう)、百万衆
の中にして、優曇華を拈じて瞬目す。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑(はがんみしよう)せ
り》。釈迦牟尼仏言、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉《釈迦牟尼仏言(のたまわ)
く、吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に附嘱す》。
 これすなはち、仏々祖々、面授正法眼蔵の道理なり。七仏の正伝して迦葉尊者にいた
る。迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者にいたる、菩提達磨尊者、みづから震旦国
に降儀して、正宗太祖普大師慧可尊者に面授す。五伝して曹谿山大鑑慧能大師にいたる
。一十七授して先師大宋国慶元府太白名山天童古仏にいたる。
 大宋宝慶(ほうきよう)元年乙酉(いつゆう)五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙
高台に焼香礼拝す。先師古仏はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにい
はく、仏々祖々、面授の法門現成せり。これすなはち霊山(りようぜん)の拈華なり、嵩
山(すうざん)の得髄なり。黄梅の伝衣なり、洞山(とうざん)の面授なり。これは仏祖の
眼蔵面授なり。吾屋裡のみあり、餘人は夢也未見聞在なり。

  法華経迹門は〈宇宙即生命〉を物本事迹の視点でとらえ、法華経本文は〈生命即宇宙
〉を事本物迹の視点でとらえている。法華経迹門は〈声聞縁覚=菩薩〉への〈記別=面
授〉を説き、法華経本門は〈地涌菩薩〉への〈附嘱=面授〉を説いている。それは〈諸
法実相=色心不二〉となり、〈久遠実成=久遠即末法〉となる。〈法華経=釈尊〉が展
開する〈地上会=物本事迹〉と〈虚空会=事本物迹〉は、〈地涌=空涌〉し〈いま、こ
こに〉開く〈始源の時〉に同時進行している。〈始源の時〉とは、〈いま、ここに〉生
きる〈私=われわれ〉一人ひとりの己心にほかならない。それは〈自他不二=善悪不二
〉となり、〈因果倶時=久遠即末法〉となる。そこで〈釈尊=諸仏〉は、〈肯定即否定
・能動即受動〉の法理を〈常住此説法〉するのである。 
   〈成仏=妙法〉の〈記別=面授=附嘱〉は、すべて〈釈尊=諸仏〉から〈諸仏=迦
葉〉への〈嗣法=面授〉となる。〈われわれ=私〉一人ひとりの己心における〈釈尊〉
から〈迦葉〉への〈面授=嗣法〉のみが、〈唯仏与仏=師弟不二=法水写瓶〉なのであ
る。〈釈尊〉は〈霊山会〉となり、〈拈優曇華〉となり、〈瞬目〉となり、〈摩訶迦葉
〉となり、〈破顔〉となり、〈微笑〉となる。さらに〈微笑〉は〈釈尊〉となる。
 そこに描き出される〈曼荼羅=妙法〉は(七仏)となり、〈二十八代面授〉となり、〈
菩提達磨=釈尊〉となり、(迦葉=慧可)となり、五伝して(諸仏=大鑑慧能)となり
、十七伝して(天童如浄=釈尊)となる。道元の〈天童如浄=釈尊〉への〈焼香礼拝〉は
、〈霊山の拈華〉となり、〈嵩山(すうざん)の得髄)となり、〈黄梅の伝衣〉となり、
〈洞山(とうざん)の面授〉となり、〈仏祖=釈尊〉の〈授決=面授〉となる。

 この面授の道理は、釈迦牟尼仏まのあたり、迦葉仏の会下(えげ)にして面授し、護持
しきたれるがゆゑに仏祖面なり。仏面より面授せざれば、諸仏にあらざるなり。釈迦牟
尼仏まのあたり、迦葉尊者をみること親附なり。阿難・羅?羅(らごら)といへども、迦
葉の親附におよばず。諸大菩薩といへども、迦葉の親附におよばず、迦葉尊者の座に坐
することえず。世尊と迦葉と、同坐し同衣しきたるを、一代の仏儀とせり。迦葉尊者し
たしく世尊の面授を面授せり、心授せり、見授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を供養恭敬
(くようきようけい)、礼拝奉覲(らいはいぶごん)したてまつれり。その粉骨砕身、いく
千万変といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如来の面目を面授せり。
 釈迦牟尼仏、まさしく迦葉尊者をみまします。迦葉尊者、まのあたり阿難尊者をみる
。阿難尊者、まのあたり迦葉尊者の仏面を礼拝す。これ面授なり。阿難尊者この面授を
住持して、商那和修(しょうなわしゅ)を接して面授す。商那和修尊者、まさしく阿難尊
者を奉覲(ぶごん)するに、唯面与面(ゆいめんよめん)、面授し面受す。かくのごとく代
々嫡々(ちゃくちゃく)の祖師、ともに弟子は師にまみえ、師は弟子をみるによりて面授
しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは、仏々祖々にあらず。たとへば
、水を朝宗(ちょうそう)せしめて宗派を長ぜしめ、燈を続(ぞく)して光明(こうみょう)
つねならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり。また?啄(そったく)の迅機
(じんき)なるなり。

  この〈面授=正伝〉は〈迦葉仏=諸仏=七仏〉となり、〈七仏=諸仏=釈迦牟尼仏〉
となり、〈釈迦牟尼仏=諸仏=七仏〉は〈仏祖面〉となる。さらに〈仏祖面〉は〈七仏
=諸仏=迦葉仏〉となる。〈仏面〉とは〈森羅万象〉が照らし合い、響き合いながら描
き出す〈妙法の曼荼羅〉にほかならない。〈迦葉の親附〉は〈親附の釈尊〉となり、〈
釈尊の親附〉は〈親附の迦葉〉となる。そこに〈阿難・羅?羅・諸大菩薩〉の付け入る
〈余地=過不足〉はない。
  〈釈尊と迦葉〉の〈同坐・同衣〉は〈二仏並坐〉となり、〈二仏並坐〉は〈仏儀=
面授〉となる。〈正法眼蔵=妙法の曼荼羅〉と〈只管打坐=対坐=境智冥合〉するとき
、〈われわれ=妙法の当体〉と〈妙法の曼荼羅〉は〈並坐二仏〉となる。その〈面授=
仏儀〉は、〈いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる〈己心〉に現成する。道元は、〈迦
葉尊者したしく世尊の面授を面授せり、心授せり、見授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を
供養恭敬(くようきようけい)、礼拝奉覲(らいはいぶごん)したてまつれり。その粉骨砕
身、いく千万変といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如来の面目を面授せ
り〉と〈敷衍=展開〉している。
  〈道元=正法眼蔵〉を〈道得=解説〉した〈論考=道得〉によって、〈正法眼蔵=
道元〉を〈面受=正伝〉することはできない。〈道元=正法眼蔵〉と〈面受=対坐〉す
る〈方法的原理〉を展開しているのは、〈道元=諸仏〉と〈諸仏=日蓮〉のほかにいな
い。〈正法眼蔵=道元〉と、どのように〈対坐=面受〉するのか。それは誰も肩代わり
できない〈私=われわれ〉一人ひとりの〈発心=求道〉なのである。
  〈面授=正伝〉は〈釈尊・迦葉〉となり、〈迦葉・阿難〉となり、〈阿難・商那和
修(しょうなわしゅ)〉となり、〈代々嫡々祖師〉となる。〈奉覲阿難〉は〈釈尊奉覲〉
を現成し、〈仏面礼拝〉を現成し、〈唯面与面(ゆいめんよめん)〉を現成し、〈面授面
受〉を現成する。道元は〈代々嫡々(ちゃくちゃく)の祖師、ともに弟子は師にまみえ、
師は弟子をみるによりて面授しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは、
仏々祖々にあらず。たとへば、水を朝宗(ちょうそう)せしめて宗派を長ぜしめ、燈を続
(ぞく)して光明(こうみょう)つねならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり
。また?啄(そったく)の迅機(じんき)なるなり〉と〈展開=敷衍〉している。〈本枝一
如〉は〈境智冥合〉を示し、〈?啄(そったく)の迅機(じんき)〉は〈直至成道=即身成
仏〉を示している。そこに〈言葉=事象〉が響き合い、照らし合いながら〈収斂=拡散
〉し、〈拡散=収斂〉する〈妙法の曼荼羅〉が浮かび上がる。

 しかあればすなはち、まのあたり釈迦牟尼仏を、まぼりたてまつりて、一期の日夜を
つめり。仏前に照臨せられたてまつりて一代の日夜をつめり。これいく無量劫を往来せ
りとしらず。しづかにおもひやりて随喜すべきなり。
 釈迦牟尼仏の仏面を礼拝したてまつりし、釈迦牟尼仏の仏眼を、わがまなこにうつし
たてまつり、わがまなこを仏眼にうつしたてまつりし仏眼晴なり、仏面目なり。これを
あひつたへて、いまにいたるまで、一世も間断せず面授しきたれるは、この面授なり。
而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この正伝面授を礼
拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。迦葉尊者等の二十八仏祖を
礼拝供養したてまつるなり。
 仏祖の面目眼晴、かくのごとし。この仏祖にまみゆるは、釈迦牟尼仏等の七仏にみえ
たてまつるなり。仏祖したしく自己を面授する正当恁麼時(しょうとういんもじ)なり。
面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤(かっとう)をもて葛藤に面授して、さらに断絶せ
ず。眼を開(かい)して眼に眼授し、眼受す。面授は面処の受授なり。心を拈じて心に心
授し、心受す。身を現じて身を身授するなり。他方他国もこれを本祖とせり。震旦国以
東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり、あらたに如来をみたてまつる正眼をあひ
つたへきたれり。

 〈面授〉とは己心の師から弟子、己心の弟子から師への〈面授〉にほかならない。己
心の師と弟子が互いに面授し合うのである。過去・現在・未来の仏が〈いま、ここに〉
開く〈色心不二・久遠即末法〉なる〈時空=場〉に〈授決=面授=受決〉する。〈妙法
の曼陀羅〉と〈妙法の当体〉が照らし合い響き合うとき、〈森羅万象〉がそのまま〈釈
尊=諸仏〉の現成となる。
 〈唯面与面・嫡々の祖師〉という〈譬喩=喩説〉は〈妙法の曼陀羅〉を表し、〈面授
し面受す・弟子は師にみえ、師は弟子を見る〉という〈喩説=譬喩〉は、〈妙法の曼荼
羅〉との〈唱題=境智冥合〉を表す。〈水を朝宗せしめ、燈を続し〉は〈勤行=行持〉
となる。〈光明つねならしむ〉は〈修証不二〉の現成である。〈億千万法するにも本枝
一如〉は〈久遠即末法・色心不二〉となり、〈?啄の迅機〉は〈直至道場=即身成仏〉
となる。
  道元は、〈而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この
正伝面授を礼拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。迦葉尊者等の
二十八仏祖を礼拝供養したてまつるなり〉と〈説著=道得〉している。〈数十代の嫡々
〉は〈七仏釈迦牟尼仏〉となり、〈二十八祖仏〉となる。〈法要〉は〈正法眼蔵〉と現
成し、〈化儀〉は〈只管打坐〉と現成する。
   〈仏祖の面目眼晴(めんもくがんぜい)〉は〈色心不二〉を表す。〈釈尊=諸仏〉と
〈諸仏=迦葉〉は互いに見つめ合う。そのとき〈釈尊=師〉は〈弟子=迦葉〉となり、
〈迦葉=弟子〉は〈師=釈尊〉となる。〈仏祖〉は〈自己〉に〈面授〉し、〈自己〉は
〈仏祖〉に〈面授〉する。道元の〈面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤をもて葛藤に
面授して、さらに断絶せず。眼を開して眼に眼授し、眼受す。面をあらはして面に面授
し、面受す。面受は面処の受授なり。心を拈じて心に心授し、心受す。身を現じて身を
身授するなり〉という〈道得=説著〉は、〈事の一念三千=妙法の曼荼羅〉を描き出す
。
  〈仏祖したしく自己を面授する正当恁麼時なり〉とは、そこに開く〈色心不二・久
遠即末法〉なる〈時空=場〉である。〈面授仏の面授仏に面授〉し、〈眼を開して眼に
眼授し、眼受す。面授は面処の受授なり〉とは、〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉で
ある。〈葛藤をもて葛藤に面授してさらに断絶せず〉とは、〈意味=心法〉と〈力=色
法〉が渦を巻いてわき立つ〈曼陀羅〉である。〈心を拈じて心を心授し、心受す〉は〈
心法〉の成仏、〈身を現じて身を身授する〉は〈色法〉の成仏となる。〈妙法の曼陀羅
〉は〈色心不二=一極〉なる〈生命=妙法〉を顕している。

 釈迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つら
なるにあらざれども、倶時(くじ)の面授あり。一世も師をみざれば弟子にあらず、弟子
をみざれば師にあらず。さだまりて、あひみあひみえて、面授しきたれり。嗣法しきた
れるは、祖宗の面授処道現成なり。このゆゑに、如来の面光を直拈(じきねん)しきたれ
るなり。
  しかあればすなはち、千年万年、百劫億劫(ひゃっこうおっこう)といへども、この面
授これ釈迦牟尼仏の面現成授(めんげんじょうじゅ)なり。この仏祖現成せるには、世尊
(せそん)・迦葉(かしょう)、五十一世、七代祖宗(そそう)の影現成(ようげんじょう)な
り、光現成(こうげんじょう)なり。身現成なり、心現成なり。失脚来(しっきゃらい)な
り、尖鼻来(せんびらい)なり。一言いまだ領覧(りんらん)せず、半句いまだ不会(ふう
い)せずといふとも、師すでに裏頭(りちょう)より弟子をみ、弟子すでに頂にん(ちんに
ん)より師を拝しきたれるは、正伝の面授なり。

  〈五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらなるにあらざれども、倶時
の面授あり〉の〈ならべるにあらず、つらなるにあらざれども〉は〈色心不二〉を表し
、〈倶時の面授〉は〈久遠即末法〉を表す。〈世尊・迦葉、五十一世、七代祖宗の影現
成〉は〈妙法の曼荼羅〉の〈相貌=色法〉となり、〈光現成〉〉は〈妙法の曼陀羅〉の
〈功徳=心法〉となる。〈身現成なり、心現成なり〉は〈色心不二〉を示し、〈失脚来
なり、尖鼻来なり〉は〈久遠即末法〉を示す。〈師すでに裏頭より弟子をみ、弟子すで
に頂にんより師を拝しきたれるは、正伝の面授なり〉は、〈因果倶時=能動即受動〉で
ある。〈因果異時=能動対受動〉の心で、〈他者〉を〈大日如来〉のように崇めて、そ
の前にひれ伏すとき、〈己心の魔〉が目を覚ます。

  かくのごとくの面授を尊重すべきなり。わづかに心跡を心田にあらはせるがごとく
ならん、かならずしも太尊貴生(たいそんきさん)なるべからず。換面(わんめん)に面受
し、廻頭(ういとう)に面授あらんは、面皮厚三寸なるべし、面皮薄一丈なるべし。すな
はちの面皮、それ諸仏大円鏡なるべし。大円鑑を面皮とせるがゆゑに、内外無瑕翳(な
いげむかえい)なり。大円鑑の大円鑑を面授しきたれるなり。
 まのあたり釈迦牟尼仏をみたてまつる正眼を正伝しきたれるは、釈迦牟尼仏よりも親
曾なり。眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむるなり。かるがゆゑに、釈迦牟
尼仏を、おもくしたてまつり、釈迦牟尼仏を恋慕したてまつらんは、この面授正伝をお
もくし尊宗し、難値難遇の敬重礼拝(きようじゆうらいはい)すべし。すなはち如来を礼
拝したてまつるなり。如来に面授せられたてまつるなり。あらたに面授如来の正伝参学
の宛然なるを拝見するは、自己なりとおもひきたりつる、自己なりとも、他己なりとも
、愛惜(あいじやく)すべきなり、護持すべきなり。

 〈かくのごとくの面授〉とは、〈釈尊=諸仏〉を〈承継=面受〉する〈三昧=只管打
坐〉にほかならない。〈わづかに心跡を心田にあらはせるがごとく〉は、〈文底秘沈=
眼晴〉を示している。〈太尊貴生(たいそんきさん)なるべからず〉は〈凡夫即極〉を表
し、〈換面(わんめん)・廻頭(ういとう)〉は〈いま、ここに〉開く〈一瞬一瞬=始源の
時〉を表す。〈文上=表層〉の参学は〈換面〉となり、〈文底=奧底〉の参学は〈廻頭
〉となる。〈面皮厚三寸・面皮薄一丈〉は、〈肯定即否定・能動即受動〉の〈譬喩=喩
説〉であり、その〈面皮=相貌〉は〈諸仏大円鏡=妙法の曼荼羅〉となる。〈諸仏大円
鏡〉は〈内外無瑕翳(ないげむかえい)〉となり、〈無瑕翳内外〉は〈大円鏡諸仏〉とな
る。  
  〈眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむる〉の〈眼尖〉は〈只管打坐〉と
なり、〈前後三々〉は〈始源の時〉となり、〈釈迦牟尼仏見出現〉は〈師弟不二=境智
冥合〉となる。〈敬重礼拝(きようじゆうらいはい)〉は〈難値難遇〉なのであり、〈難
遇難値〉は〈礼拝敬重〉なのである。道元の〈あらたに面授如来の正伝参学の宛然なる
を拝見するは、自己なりとおもひきたりつる、自己なりとも、他己なりとも、愛惜(あ
いじやく)すべきなり、護持すべきなり〉という〈公案=命題〉は、何を〈聞著=道得
〉しているのか。〈自己〉は〈他己〉をはらみ、〈他己〉は〈自己〉をはらむ。〈愛著
〉は〈護持〉をはらみ、〈護持〉は〈愛著〉をはらむ。〈肯定〉は〈否定〉をはらみ、
〈否定〉は〈肯定〉をはらむ。そのさらなる〈文底=奧底〉が問われるのである。

諸法実相

諸法実相
「諸法」というのは、もろもろのものですね。「もの」というか、ここに現
成(げんじょう)しておる全部の姿がすべて諸法、それがそのままに実相であると。
昔は「現象即実在」というふうな、あれは明治大正の頃ですかね、
「現象即実在、実在即現象」というような言い方で申しておったと同じことなんですが
ね。
すべての存在しているもの。私たち人間も含めて、あるいは花も木も建物も
全部含めて、それが真実の姿であると。


【定義】

①一切の存在を、存在そのものから見れば、平等相でありながら差別相を具えるように
、ただ単独に存在していることを諸法実相という。なお、現代語にある「平等社会」と
いうような意味での「平等」ではなくて、存在それ自体がもつかけがえの無さを「平等
」と呼ぶのである。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では50巻、75巻本では43巻。寛元元年(
1243)9月に、吉峰寺にて学人に示された。

【内容】

①存在自体が、真実の姿をしているのか、それとも実体がない事実を受けて仮の姿であ
るのかという論争は、仏教史としては長い論争があったようだが、諸大乗経典にあって
も、「諸法実相」と「諸法虚妄」は大きな問題になったようである。然るに、「諸法実
相」については、その後の影響を考えれば『法華経』「方便品」にある以下の一句が象
徴的である。
唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。

仏と仏とが、良く究めてきたのは、諸法実相の道理だということであり、この論理が敷
衍されて、一切の存在が現実には差別相を具えていても、実際には悟りの姿そのもので
あるというような解釈まで行われるようになった。そのもっとも顕著な例が、中世の日
本天台で行われた本覚思想であろう。

②道元禅師は①に挙げた『法華経』の一句を敷衍して、『正法眼蔵』の一巻を著した。
そこでは、「唯仏与仏」は、「唯仏」と「与仏」というそれぞれに独立した仏祖の存在
であり、それぞれに独立した存在であるということを「乃能究尽」とした。そして、「
唯仏」と「与仏」は、まさに「諸法」が「諸法」として自らを明らかにし、「実相」が
「実相」として自らを明らかにすることであるとされて、それこそ仏祖現成の事実であ
るとした。
仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり、諸法は如是相なり、如是性なり、如
是身なり、如是心なり、如是世界なり、如是雲雨なり、如是行住坐臥なり、如是憂喜動
静なり、如是?杖払子なり、如是拈華破顔なり、如是嗣法授記なり、如是参学弁道なり
、如是松操竹節なり。

さらに、『法華経』の句を縦横無尽に使用しながら、「相」についての解釈を展開され
、実相とはまさに、存在が自ら自身のあり方である生死去来が真実人体であることに気
づくことであるとされる。
発心・修行・菩提・涅槃を挙して、生死去来真実人体を参究し接取するに、把定し放行
す。これを命脈として華開結果す。これを骨髄として迦葉阿難あり。

また、仮の姿である方便と、真実の姿である実相とが、この現実にあっては本質的に違
いがないことを唱え、さらに、方便であると考えられがちな菩薩と、真実の姿であると
される如来とが、本質的に違いがないという見解も提唱されていく。
いはゆる一切菩薩は、一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類にあらず、老少なし、勝劣なし
。此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自佗にあらず。過現当来箇にあらざれども、作仏
は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏し、始覚地に成仏す。無量百千万億度作仏せる菩
薩あり。作仏よりのちは行を廃してさらに所作あるべからずといふは、いまだ仏祖の道
をしらざる凡夫なり。いはゆる一切菩薩は、一切諸仏の本祖なり。一切諸仏は、一切菩
薩の本師なり。

また、同巻中には道元禅師が中国天童山の如浄禅師の下で修行している際に行われた、
或る夜間の普説及び入室について、非常に臨場感のある描写を行っており、当時の状況
を伝える貴重な資料ともなっている。その普説に於いて、如浄禅師は諸法実相の道理を
提唱しながら、まもなくに近づいた夏安居の開始か近いこと、そして安居の心構えと春
先の季候の良い時期には奮って坐禅すべきことなどが説かれた。
かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおぼえり。この夜は微月わづかに楼
閣よりもりきたり。杜鵑しきりになくといへども、静間の夜なりき。

「仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり。如是性なり
。如是身なり。如是心なり。如是世界なり。如是雲雨なり。如是行住座臥なり。如是憂
喜動静なり。如是柱杖払子なり。如是拈華破顔なり。如是嗣法授記なり。如是参学弁道
なり。如是松操竹節なり。」
 般若心経に諸法空相という言葉があります。この言葉は般若心経の根本の教えを一言
で言い表した言葉であります。

これは「この世のすべてのものごとは空であり実体がない、仮に和合したものである」

ということであります。そしてこの諸法空相と諸法実相
とは、結局同じことを意味する言葉なのであります。この諸法実相という言葉は法華経
方便品に出て参ります。道元さまは正法眼蔵の多くの巻にこの法華経典より引用され、
その言葉が引用されています。そしてこの諸法実相も悟り、真理を表す言葉として引用
されたのであります。
 実相とは現象を有るがままに有らしめているものは仏(真理)であるという意味であ
ります。したがって諸法の一つである私たち人間も仏であり、真理としての存在という
ことになります。仏道修行はこのことに気づき、行持し、体現することであります。こ
の世のあらゆる存在はそのありのままの姿が、ただちに真実の姿であるということにな
ります。そこにおいては、ありのままの姿以外には何らかの観念的な理想の側面から、
ありのままの姿を批判的に見るという唯心論的な立場でもなく、また逆に感覚的な側面
からのみそれを眺め、諸法を物質的な要素のみから見るという唯物論的な立場でもない
。つまりあらゆる存在はあるがままに有るのであって、右にも左にも偏らない存在とし
てとらえられなければならないのであります。ここに諸法実相という言葉は、その簡潔
な言葉の中に仏教の世界観の究極が秘められているというのであります。

ここに引用いたしました一節は諸法実相の巻の冒頭の一節であります。道元さまはこの
諸法実相の巻を寛元元年九月、吉峰寺において衆に説かれました。どの巻もそうであり
ますが、道元さまはその巻で説こうとされる要訣をまず冒頭の一節において説かれまし
た。ここに引用いたしました一節につきましても、やはり難解な言葉があり、理解に苦
しむ文章でもあります。一応私なりに現代語訳をさせていただきます。

 (お釈迦様がこの世に現れ、達磨さまが中国に渡られたのは、そのことそのままが、
ありのままの真実である。この世の諸々の実在は、それがそのまま真実の実在である。
それがそのままものごとの本質である。それがそのままありのままの物体である。それ
がそのままありのままの心理作用である。それがそのままありのままの世界である。眼
前の雲や雨はそれがそのままありのままの天然現象である。日常の立ち居振る舞いはそ
のままありのままの日常生活である。日常の感情の起伏もそれがそのまま真実の感情の
起伏である。僧侶が使用する柱杖払子などの仏具もすべてそのまま真実の柱杖払子であ
る。お釈迦様から迦葉尊者へ仏法が伝えられた故事の拈華破顔の事実もそのまま仏性の
現成であり、単伝の仏法である。・・・)

道元さまはこのようにこと細かに例をあげて説いておられます。これを今一度要約す
れば、仏の出世も祖師の西来もそのままの姿が実相であり、真理の現成である。お釈迦
様に代表される諸佛の出世は諸法実相の体現の相としての現成であり、諸佛が諸佛自体
として真理そのものの現成である。また、眼前の一切の森羅万象の現象、人生の一切の
行動、仏道の一切の発心、修行、菩提、涅槃等の仏行そのままが真理の現成である。

人間の苦しみの原因は欲望(貪欲)にあります。欲望とは自分の心に思うがままにな
って欲しいと心に願うことであります。例えば人間生まれることは、その瞬間に死を約
束されることであります。いくら年をとりたくないと願ってもかないません。これが苦
しみであります。こだわりや欲望から少しでも脱することが出来れば、苦しみからも抜
け出せるのであります。この世の全てのものは因縁によって仮に和合して、仮に姿、形
、行動として現成しているにすぎません。

全てのものは空であり無常であります。ものごとの真実の相を見定めて、とらわれを
無くし、仏の真心に生きなければなりません。
宇宙悠久の道理に従った生き方をしなければなりません。
道元さまの傘松道詠の一つを
紹介いたします。

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」

ーーーーーーーーーー
 神奈川県南足柄市(みなみあしがらし)大雄山(だいゆうざん)。ゆるやかな坂を上って
、最乗寺(さいじょうじ)へ向かう参道は眩(まぶ)しいばかりの緑に包まれています。参
道に沿って著莪(しゃが)の花が白い花を咲かせ、私たちの目を楽しませてくれます。
 
春は花夏ほととぎす秋は月
  冬雪さえて涼しかりけり

 
金光:  今日は、神奈川県南足柄市にあります大雄山最乗寺にお邪魔しております。
最乗寺の山主(さんしゅ)余語翆巌老師に、「諸法実相(しょほうじっそう)」ということ
についていろいろお話をして頂きたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。よ
く「諸法実相」という言葉は、仏教の説明で聞くわけでございますが、これはどういう
意味なんでございましょうか。
 
余語:  字の意味を、ちょっと申しておきますと、

金光:  書いて頂いたものがありますので、ちょっとこれを拝見さして頂きます。
 
余語:  「諸法」というのは、もろもろのものですね。「もの」というか、ここに現
成(げんじょう)しておる全部の姿がすべて諸法、それがそのままに実相であると。昔は
「現象即実在」というふうな、あれは明治大正の頃ですかね、「現象即実在、実在即現
象」というような言い方で申しておったと同じことなんですがね。
 
金光:  すべての存在しているもの。私たち人間も含めて、あるいは花も木も建物も
全部含めて、それが真実の姿であると。
 
余語:  ところが普通はですね、本当の永遠のものとか、無限者というようなものは
、この移ろいゆくとは別にあるような考えをもっておる方の人が多いんじゃないかと。
 
金光:  どっか違いところに無限の方がいると。
 
余語:  そういうふうにして、今即今現成している自分を含めてそういうものが、ど
うも本当のものでなくて、影じゃないか、というふうな考え方が多いんでしょうな。
 
金光:  殊に「空(くう)」という言葉を聞いたり、あるいは「非」とか、「無」とか
という言葉が仏教に随分でてきますと、何となく現実のものは、
 
余語:  違うんですね。昔から―昔というより禅録によく出てくる言葉の中に、

百草頭上無辺春(ひゃくそうとうじょうむへんのはる)
 
「頭」は、ほとりですね。百の草のほとりに無辺の春が現じておる、という。
 
信手拈来用得親(てにまかせねんじきたってもちいいてひたしし)
 
これが両方で対になるんですがね。百草―草花、いろいろな花のほとりに限りなき春が
現じておるんだと。黄色い花も、赤い花も、紫の花も、それぞれの姿において、無限の
春の顔と言いますかね、無限の春を、そういう形で現じておるのだと。だから黄色いの
が良くて紫が悪いというふうな道理もないと。だから「手に信(まか)せ」というのは、
手当たり次第にもってきてね、どれもこれも親しいものであると。そこに好悪(こうお)
の念もないのが当たり前だけれども、人間のそういうものが入ってくると、良いとか悪
いとか言っていますけどもね。春というのは、絵に描くわけにいかんですね。
 
金光:  掴まえるわけにもいかんわけですね。
 
余語:  表現のしようがないものでしょう。だから花という上に現じておるわけです
ね。そういう赤い花は赤い花という春の顔である。花の上に赤い花という形をして、春
が現じておるというわけですね。だから、

春在梅花入画図(はるはばいかにありてがとにいる)
 
春を描こうと思えば、梅の花と書けば、大体春だということになるわけでしょう。初め
て絵になったという。春が描くことができたわけですね。梅の花を描けば、そういうふ
うに現実にそこにあるものの上に捉えきれない無限のものが現れておるわけですね。
 
金光:  先ほど一番最初の「諸法実相」というのも、こういう形で出ておると。
 
余語:  それから梅花とか、花というものは、現実の有限のものなんですよ。限定が
できない、掴まえられない無限者というふうなものが、有限者の上にのみ出てくること
がある。難しいことを言うと、そういうことなんでしょうな。今ここにあるこの五尺の
身体、そういうものを非常に軽んずる傾向がありやせんかと思うんですがね。六祖慧能
(えのう)が、門人の行昌に示した「無常者仏性也(むじょうはぶっしょうなり)」という
言葉があります。仏性というのは、常住不変のものというふうに思われている無常変転
常なきもの、それが仏性だという。世の常のすがたは移り変わり移り変わりして、その
移ろいゆくすがたを、世間のことはよろずたわごとですべて儚きものというふうに受け
取って世間虚仮(こけ)、唯仏是真というようにも言われる。されどよく思えば、有限の
移ろいゆく無常が無限のものの一歩一歩ということができる。無限者、永遠のものが、
有限を離れてどこかに別に存在するように思うのは大いなる錯覚である。無常というも
のは移ろいゆくものですよ、儚いもの、それが仏性なんだ、という。仏性というものは
永遠なものなんですね。

その読み方も「無常も仏性なり」と読むがいいか、「無常は仏
性なり」と読むのがいいのか。そういう迷いはありますが、とにかく移ろいゆくものの
上に、本源のものが現じているという考え方ですね。諸法は実相なり、という。諸法と
実相とは同じもの。諸法というものは、現成の姿であって、移ろいゆき常無きものだ、
というふうに思いがちなんですが、その上にこそ真実が、現実になる場所があるという
、そういう考え方でしょうな。
 
金光:  そうすると、そういう世界を、例えばよく知られている「般若心経」なんか
も、そういう世界のことを述べているわけでございますか。
 


 
余語:  無い。その中に花あり、月あり、楼台あり、と出てくるでしょう。それを「
無一物中」ということは、「無の一物」と、そういうふうに読んでみたらわかりそうな
気がする。すべてが無の一物としてね。一切のものが、無というすべての根源たるもの
の現れた一つひとつのものであって、そういうものがこのような世界に現成しておるん
だから、花あり月あり楼台あり、という言った方が分かり易いような気もするんですが
ね。あれは雪峰義存(せっぽうぎそん)和尚の弟子の玄沙師備(げんしゃしび)という人で
すがね、その人が雪峰山で修行しておって、遍参―雲水修行に天下を回るというふうな
ことで出掛けようと思ってですね、雪峰山の山門に至って、足を石に「築著(ちくじゃ
く)し」とありますが、生爪を剥がしたんですね。「痛い!」と言うわけですね。それ
で考えたんだろうと思うんですがね、昔から「是身非有痛従何来」この身あるにあらず
、痛(つう)いずれよりきたる、という文句。普通の誰が見てもよくわかる言葉ですがね
。こういう表現ですね。この身体はあるのではないと。痛みいずれよりかきたる、とい
うんですが、普通は昔からの教えに従うと、この五尺の身体は、因縁仮和合のものであ
って、実体のある存在ではないと古来より教えられてきている。強いて言えば、似有―
有るに似た何かがある―とでもいうべきか、そのような存在であるという。それはその
ように受領しても、この痛みは尋常でない、痛いのは実に痛いんだ。痛烈に痛いんだか
らね。どっかからきたるんかという疑問を呈して、雪峰山へまた旅に出ずに帰ってきて
しまう。そういう話がある。ところがそういうのは普通の受け取り方には違いないです
ね。本当はこれは自分の一切の身体はあるものとは違うから執着するな、ということは
わからんことはないけども、痛みとはどっかからきたんだ、というふうな疑問の生まれ
てくるように、このままではどうも落ち着かない解釈になる。よう考えますと、この「
非」という字は、「是の身は非の有(う)なり、痛み何(が)より来る」と読んでみたらど
うかと。「痛何(が)より来たる」と、疑問でなくて、「何(が)」というのは不特定の言
葉でしょう。「何(なに)」という字はね。それも「非」とよく似た意味になって、
 
金光:  「非」と「何」と共通のものであると。
 
余語:  痛みも何(が)より来たんだと。この身体は非の有であり、痛みは何(が)より
来たんだ、という疑問でなくて、肯定ですね。受け取り方。だからそういうふうな読み
方でね、大変に違った絶対者のとらえ方だと思うんです。だからごてごていうなという
わけです。さっきの「諸法実相」と同じことです。実相が諸法に顔をしてそこに出てお
るんだから。人間の面(つら)でもみんなが注文したものでないから、その通りに天の授
かりに違いないものだ。そういう受け取り方になっていくんでしょうな。読み方で大変
に変わるというのは、金光さんもご承知のように、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅ
じょうしつうぶっしょう)」というのがありますね。「一切衆生悉有仏性」とあって、
これは「悉く仏性有り」と読む時は、仏性を持っておるという意味、所有しているとい
う。昔の書物を見ましても、仏性ということは一体何じゃというわけですが、仏になれ
る性質、そういうのが生まれつきあるのか、それとも途中でそういうものが身にくっつ
いてくるのかというふうな議論がありますがね。仏性というものは一体何だという決め
方が難しいですね。仏になれる性質ということは、仏という仏の姿というものが非常に
素晴らしく万徳円満のお姿をしておられるのが仏様様だと。そういうふうになれるよう
な本質を持っておるというふうに、大体そう考えておるんじゃないかな。だから仏性と
いう尊いものがあるから、普段は妄想煩悩に覆われておる。修行して、そういうものを
取り去って仏様になるように修行するんだと。
 
金光:  磨かないとダメだというふうに、
 
余語:  そういう考え方ですがね。そうすると、そういう仏性があるというと、そう
いうことになる。ところが道元さまは、「悉有(しつう)は仏性なり」と読むんですね。
悉く有るというのは「悉有(しつう)」と読む。悉くの存在、それが仏性だという。そう
いう読み下しをなさると、さっきの「この身は非の有なり」と同じように、全部が仏性
なんですね。「悉有の一悉を衆生という」と、人間なんていうのはその一有(いちう)―
一部分に違いない。そういう意味が明歴歴(めいれきれき)とわかってくる。全部の存在
が仏性だと。ちょっと難しいんですがね。犬に仏性が有るか無いか、というのが、公案
に一つあります。狗子(くし)(犬)に仏性が有るかと問われて趙州(じょうしゅう)和尚
は、「有る」と答える。問僧は、仏性は尊く優れたものとの考えをもっているために、
「仏性というすばらしいものが、どうして犬のようなつまらないものの中に入っている
のですか」と訊く。趙州は、「仏性がよく承知しておって殊更に犬の中に入っておるん
だ」という、そういう答え方ですね。一般的に言えば、好きこのんで入っておるんだ、
と、そういうんですがね。全部が仏性なんですよ。犬と他のものとも、ものが全部仏性
がそうなっておるんだと。仏性というものを、綺麗な素晴らしい存在だと考える人は、
そういうことがわからん。一切の清浄の法界、現成の世界は―世界中そういう考え方は
共通のように思いますがね―この世界は清浄の世界から生まれてきたものだ、とそうい
うふうに考えるんですね。そうしたら神様がお造りになったこの世界というものも、清
浄たるべきものであるのに、何故そうなっておらんかという、弁解をする。天地清浄、
法界清浄のものに、人間が手垢を付けておるような状態が、今の人間の寸法か、人間の
判断で考える世界があって、これは解決が付かなくなるんですね。犬にも仏性があるよ
、という時に、そういう問答があって、それからもう一人の僧には、「それは無いよ」
という。犬には仏性は入って無いんだ、という。
 
金光:  同じ趙州和尚が?
                   
余語:  同じ趙州が。後で困るんですね、みんな。「何故無いんですか」と言ったら
、その答えは、趙州和尚は、「業障(ごっしょう)があるから仏性はないんだ」と。業障
というものがいっぱいあって、仏性は入る余地がないんだ、というような意味の答えを
、「業障あるがためなり」というんですがね。それは、「業障も仏性だ」というんです
。そういうふうな断定はちょっとできませんがね。一切法界清浄の世界だということが
わかると、一切が清浄なんですね。清浄という言葉を使うから、不清浄というのですね
。どれもこれも、煎じ詰めてみますと、「揀擇(けんじゃく)することなかれ」と、三祖
僧?(そうさん)の『信心銘(しんじんめい)』にありますがね。有名な「唯嫌揀擇(ゆいけ
んけんじゃく)」ですね。こういう『信心銘』の「唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」唯(
ただ)揀擇(けんじゃく)を嫌う―「よりごのみをするな」ということである。「比べあ
うな」ということである。この句が全部を覆い尽くしているような気がしますね。全部
そうなってくるように、とにかく全部が仏性の姿だと。それを相手によりごのみするな
、ということになると、人間の価値判断が妄想になるんですな。善悪を分けること、美
醜(びしゅう)を分けること、全部妄想と言っていいくらい、そういう妄想だということ
がわかれば、宗教の風光がよくわかってくるんじゃないかと思うんですが。
 
金光:  人間のソロバンがまったく通用しない世界と言いますか。
 
余語:  これもよく言いますがね、葬式の時は、「死は汚れだ」というて、お仏壇の
前にこう紙張ってやるでしょう。生まれることは人間のソロバンでは大変嬉しいことに
見える。死ぬことはよくないことだ。そう分けることが人間の寸法ですね。それは当然
の感情ですけども、よく考えてみると、死ぬことも、生きることも天地の姿でしょう。
「花は散る散る常住実相」と言いますね、「花は咲く咲く常住実相」どれもこれも天地
の姿だ。死ぬことだけが汚れだというのは、こんなものはくだらん。
 
金光:  そうすると、無常は仏性というのも、今のお話まったく同じことですね。
 
余語:  みんな同じことに通じますがね。だから本当はそういうふうな死だけを汚れ
とする考え方、そうだからというて、今から死んだ時おこわ焚くわけにもいきませんけ
どね。そういう価値判断は妄想だということがわかると非常に楽になると思うんですが
ね。
 
金光:  人間が苦しむのは、大体自分が苦しむので、その苦しんでいる自分のいろん
な、これは嫌だとか、これさえなければ、とすぐ思うんですけれども、そういうのを離
れられるわけですね。
 
余語:  それは実際の痛みは離れるわけにいかんでしょうけどね。見る立場にあるん
じゃないかな。大体死ぬことも、立派に死にたい、というふうに考えるんですがね。
 

 

金光:  諸法実相ということも、これは計る秤はないわけですね。
 
余語:  ありません。そのままなんですからね。「そんな重い物をよく持って来られ
たもんじゃ」というのは、お互い一個の存在がどこからどうなっておるかよくわかりま
せんでしょう。誰も答えようがない。そのこと自体昔の言い方ですと、「運水搬柴(う
んすいはんさい)、是神通(これじんずう)」というわけです。これ普通に生きている、
特別なことをすることは要らんことなんですね。どの人のいのちも、この人のいのちも
、そのようにして神通の姿のままで生きておるんですからね。計る秤がないんだから。
自分のやったことが立派だとか、立派でないとかね、偶然にそういうことになって、こ
の世の中でできた人は、それは結構な、そういうふうに力があってできる。できん人は
できん人で結構なんですね。どの人の人生も、この人の人生も、そのままで足りておる
んですね。お釈迦様のお悟りの時に、どういうふうだったかというと、伝記をみますと
、暁に明星をご覧になってお悟りになったと。そしておっしゃったことには、「我與大
地有情 同時成道」我と大地有情と同時に成道す、という言い方をされたことになって
おるんですね。

「諸法実相」の巻き5.:

「法華経の「真実相を示す」(前回記事)というのは、諸法実相の言葉を世界全体に聞
かしめることであり、世界全体に仏道を成ぜしめることだ。また、実相すなわち諸法の
道理を、全ての人にうなずかしめることであり、その道理をあらゆる事物の上に出現せ
しめることだ。

つまり、過去7仏から6祖・慧能までの40仏・40祖の究極の悟りは、ことごとくこの経
に属しているのである。経文に「全てこの法華経に属する」といわれているとおりであ
る。この経の所属である。僧堂で用いる坐布や禅板が、そのまま無上の悟りであるとい
うことも、皆この経に属しているのだ。「捻華破願」や「礼拝得髄」も、共にこの経に
属しており、この経の所属である。それこそ「方便門を開いて真実相を示す」というこ
となのだ。

然るに近来の大宋国における道理に暗いやからは、肝心なところが分からず・要所を見
ず、実相の説をあたかも虚妄の言の様に考えている。それどころか老子・荘子の言説を
尊んで、それを仏祖の大道と同一だといっている[ここの部分は、歴史的資料として、
中国禅宗の根本性格を知る上で重要だ]。また儒・仏・道の3教は一致すべきだといって
いる。あるいは3教はあたかも鼎(かなえ)の三脚であり、一本でも欠ければくつがえ
るであろうという。愚かさも極まった。若し仮に三教の一致が正しいなら、仏教が印度
に現れるとき、儒教や道教も同時に現れねば成らぬ。だが実際はシャカは「天上天下唯
我独尊」といわれたのだ」。

道教では人間は、修業によって仙人となり、神々の一員となって永遠に生きることにな
っている。また儒教では人間は死後、一定期間霊として残り、その後はまとめて「ご先
祖様」になって永遠に生きる。国家が公認すれば神となって永遠に生きることも可能と
されている。だが道元の禅では、
「「弁道話」の巻き」
で明らかなとおり、この様な個別・具体的な死後の霊魂を認めない。
「「即心是仏」の巻き」
で明らかなとおり、宇宙全体が自己の心だと考える(他人の存在をそもそも認めないの
だから、別に自他の区別を立てる必要も存在しない)。だからそもそも死は存在しない
。時間自体を自分が造っていると考えるから、「永遠」ということも「刹那」というこ
ともどちらも存在していない。

だが当時の中国禅はそうではなかった。当HP記事
「84.「禅宗とは何か?(資料編3)」071024」
で、六祖・慧能が死亡した後、次の様な不思議な現象が起きたとされていることを紹介
した。

「恵能大師はこう語り、静かに息を引き取った。享年76歳。
大師が逝去された日、寺の境内には、不思議な香気が盛んにおこって数日たっても消え
なかった。山は崩れ地は震え、木々は枯れて真っ白になり、日月は光が消え、風雲の気
配も只事でなかった。11月になると遺体から白光が現れ、真っ直ぐに天を貫き、2日
たってから漸く消えた。韶州長官が碑を立てた。人々は今もお祭りをしている」

つまり六祖・慧能は仙人に成ったと考えられていたのである。

「三教一致の説は、赤子の言葉にさえ及ばぬ。この様なやからが多くなった。彼らは或
いは人間界・天上界の指導者となり、或いは帝王の師匠となっている。これが大宋国の
仏法の衰微の現状だ。先師・天童如浄はこれを深く戒められた。

圜悟(えんご)禅師が言われるに、
「生死去来、すべてこれ真実人体である」と。
この言葉から、自分をも知り、仏法をも量るべきだ。

長沙景岑(けいしん)がいうに、
「尽十方界は真実人体、尽十方界は自己の光明裏である」と。
この様な言葉は、今の大宋国における諸方の長老たちには、およそ参学すべき道理であ
るとは知られていない。まして彼らがどうして実際に参学できようか。若しこの言葉を
彼らに突きつけたならば、只赤面して沈黙するのみだろう。

先師・天童如浄はある時こういわれた。
「今の諸方の長老たちは、古を照らすこともなく、今を照らすこともない。仏法の道理
を完全に失っているのである。十方世界などと言っているが、その道理をどうして知る
ことが出来ようか。その心には未だ一度も聞いたことがないようだ」と。

私はこれが本当かどうか確かめる為、実際に諸方の長老たちに問うてみたのである。そ
の結果、先師の言葉は正しかった。
哀れむべきだ。虚妄の説を成し、長老の職を汚しているとは」。

2016年7月9日土曜日

見仏記

01
ここに言われる「諸相を見る、非相を見る」とは、自己を透脱した認識の体得であり
万象の真相に通達するものである。このようなこととして、万象にその本質である
空相を見るのは真実をみるのである。このすべてを透脱する認識眼は、仏法によって
保たれている世界に開かれた仏眼の現成であり、これを見仏というのである。

如来を見るとはこのような認識の透脱をいうのである。このように仏眼の活路を
通達して、如来に参ずるのである。己の見る諸相を脱し己の諸相空相の覚りを
脱し、認識の世界の外に己の覚りの脱するとき、世界は数々の蔓や枝が茂っている
とはいえ、仏たる認識を学び、仏たる認識を修行し、仏たる認識を脱落し、仏たる
認識を働かせ、仏たる認識を自在に使って、どのような事象にも、随所に仏を
見るのである。

このような見仏は、無尽の面、無尽の身、無尽の心、無尽の手眼による見仏である。
発心して己の脚によって仏道に発心してこのかた、修行し、努力し、
覚りを究めていく行くのも、みな自己を脱落して如来の世界に走りいる
眼晴の働きであり、全身心の働きである。


02
このようであるから、自己としての全世界、他者としての全世界の、
あちらこちらの所在を見るということは、すべて同じ見仏という修行
による外はないのである。如来の言う「若見諸相非相」の言葉を取り上げて
参学眼のない者たちが思うのは、「諸相は相ではないとみるとき、
すなわち如来を見るのだ」という。その趣旨は「ここに言われる諸相はただの
相ではない、如来の三十二相を見ることをいう」と思うのだ。
まったく如来を小さく考え測るならこのように学ぶこともあるのだろうが、
釈迦のこの言葉の意味はそのようなものではない。知るべきである、
諸相を見て取り、非相を見て取るとき、「如来を見る」のである。
ここには如来があり、非如来がある。



09
釈迦牟尼仏は一切の菩薩に告げて言われた。
「禅定に深く入り、十万仏を見る」と。
全世界は深いとのみ表現されるのである、全世界は東西南北上下乾坤良巽
の仏の世界であるからだ。すなわち広いのではない、おおきいのではない、
小さいのではない、狭いのではない。一方を取り上げればそれに随って
他方も連なって示されるのだ。このようなことから十方は「全収」と
いうのである。大小広狭などの概念によって測りうるものではない。
すべてを収め外側はないのであるから、十方世界は入るのみである。
この尽世界に深く入ることそのものが禅定である、「深く禅定に入る」
とは、「十方の仏を見る」のである。深く入っても誰もいない処に在所を
得るのだから、十方に仏を見るほかはない。たとえ何事かをしても、
誰も受け取ることがなく、人の言葉も行為も用いるところがないのが
禅定であるから、仏は十方所在するのである。深く入るとは永久に出ることが
ないのである。禅定の中に十方仏に会うとは、ただ眠り如来になるのである、
坐臥する生き仏になるのである。禅定に入り込んだら頭を出すことはできない。


17
釈迦牟尼仏は言われた。「諸人の仏の教えを体得し、柔和で素直なものは、皆
私の身が、ここにあって説法するのを見るのである」
あらゆる仏の本質的な姿は、泥をかぶり水にぬれた姿である、波に随い波間のままに
進む姿である、衆生の迷いや苦悩を、わがこととしてそれに順応するのである。
それを体得するものを、吾また是くの如し、汝又是くの如しとする「柔和で素直な
もの」というのである。忍ほかのない娑婆世界の泥の裡で仏を見、すべてに順応する
素直な心において仏をみるのである、そして「仏がここにあって法を説く姿を
見る席」に己も列するのである。

19
ここに言われる「仏にまみえた」とは、自己なる仏を見たとは言われてはいない、
他者である仏を見たとは言われていない、ただ見仏なのだ。一枝の梅とは一枝の
梅を見ることである。一枝の梅はそれを見る眼とともにある。見仏は明々たる
梅花の開花である。

2016年7月8日金曜日

全機之巻

01
現成とは生である。生はそのまま現成である。生が現成するとき、生が全面的に
現成しないということではない、生とは生の全現成にほかならない。
生が現成するとき、当然のこととして死も同時に全面的に現成しないことはない。

02
こうした生と死のからくりが、生を生たらしめ、死を死たらしめる。
このからくりの現れとしての人が生きて在る時とは、必ずしも小というのでもない。
人の生死にともなって全世界が現成するわけでもなく、また人の生死は人にとって
生死にともなう彼の全世界であるから、部分として限られた世界でもない。
長短といった量の問題からは離れている。現在する生は生死のからくりのなかにあり、
このからくりが現在する生なのだ。

03
生は来るのではない。生は去るのではない。そのまま即時的な生の現というわけではな
い、
そのままの即時的な生を成というのではない。そうであるが、生は六根全身の
働きの現れである、死は六根全身のはたらきの現れである。知るべきである。
自己は無限の現象を内在しており、そのなかに生があり、死があるのだ。

06
園梧は言った、「生は全機の現成である、死は全機の現成である」と。
この言葉の意味を明らかにし究めねばならない。究めるというのは、「生は全機の
現成である」とする道理は、生の初めと終わりとは関係なく、何物も、全大地、全宇宙
さえも、死が人のすべての働きとして現成することを妨げないだけではなく、生が
人のすべての働きとして現成するすることをも妨げないのである。こうしたことだから
、
生は死を妨げない、死は生を妨げないのだ。全大地、全宇宙は生にも伴っている、
死にもともなっている。

全機の説明
人の主体、六根全身の積極的なはたらき。機は機織の機、活らき、作用









全機:「人間存在のすべての可能性を発揮する偉大な活動」
機:「仏の教化をうけて働くことのできる能力」
機関:「主観/客観」の区別なく、自己と世界が一つに融け合い存立しているさま。そ
の全体的な作用を「全機」という。
諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。
:仏の道を究め尽くした奥義とは、あらゆる条件付けにとらわれない自由な境地に抜け
出ていること(透脱)であり、いまここにありのままあるということ(現成)である。
その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。
:その透脱というのは、生が生を離れ超え出ており、死も死を離れ超え出ている状態で
ある。
このゆゑに、出生死あり、入生死あり、ともに究尽の大道なり。
:そのために、生死を超えた生死を生き、生死に没入した生死を生きることが、どちら
もともに仏道の究極なのである。
捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。
:生死を離れること、そして生死をありのまま受け入れること、どちらもともに究極の
真理である。




全機とは、すべての働きという意味なのでしょうが、ここでは、真実のすべての働きが
現成しているのが、生であり、死であると述べておられるように思います。

 いずれにせよ、生死に向き合った巻です。これは、増谷文雄さんが書いておられるよ
うに、いつもの興聖寺ではなく、六波羅蜜の波多野義重の屋敷で行われた説法であり、
日々死に向き合って暮らしている在俗の人間に向けて説かれたものであるように思えま
す。

全機の中の言葉
  この巻にも、いくつもの美しい言葉が登場しますが、今回は、二つの言葉を紹介し
ましょう。

 「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しか
あれども、生は全機現なり、死は全機現なり。
  しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。」

  生は、いずこかより来たれるものでなく、いずこかへ去るゆくものでもない。同時
に、生はなにかが現われたものではなく、なにかが成ったものでもない。
  そうであるけれども、生はすべての働きが現成したものであり、死もすべての働き
が現成したものである。
  知るべきである。自己のうちに無限の法があるのであり、この真理の中に生も死も
あるのである。

「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」

 これが、全機というものだということでしょう。

 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむ
ような思考の展開がなされます。


「生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。
 このふねは、われ帆をつかひ、われかじをとれり。  われさををさすといへども、
ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。
 われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。」

 ここで、「ふね」とは、生のことです。「われ」はわれですが、ひとまず、われとは
、この肉体をもって今の世に生をうけている自分の核となる認識主体というように仮定
して読んでいってみましょう。

 ふねを棹さすごとく、自分の意思でこの生を生きていると思えるけれども、ふねが自
分をのせているように生そのもののなかに自分は依拠している。
 一方、私の認識において、この生があり、この世界が存在しているとも言うことがで
きる。私が、舟にのっているから、舟は舟として働いているのである。

 この機微を参究すると、天も水も岸もすべて舟の時節となる。すなわち、全世界は生
のうちにある。

「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」
 これが、全機というものだということでしょう。

 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむ
ような思考の展開がなされます。


【定義】

①機は機用でありはたらきのこと。それそのものが何ものとも相対せずに存在している
ことを全機という。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では41巻、75巻本では22巻。仁治3年(1
243)12月17日に、京都六波羅蜜寺側の波多野義重の陣中に於ける説示。

【内容】

①臨済宗楊岐派の圜悟克勤は、この「全機」という言葉を好み、以下のような説示が残
っている。
全機は直に正法藏を明らかにす。 『圜悟仏果禅師語録』巻20

②なお、同じ圜悟克勤には以下のような言葉も残っている。
生も也、全機現。死も也、全機現。 『圜悟仏果禅師語録』巻17

道元禅師はこの言葉に基づいて、『正法眼蔵』「全機」巻を著している。まさに生死と
もに仏の一切のはたらきが現れきっており、同時に仏のはたらきによって現れているこ
とを示している。
諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは
生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆえに、出生死あり、入生死あり、とも
に究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。現成これ生なり
、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成
にあらずといふことなし。


<1> 真理の体験     

 

  仏道の究極は、“透脱(とうだつ)”であり、“現成(げんじょう)”である。

  “透脱”とは、生においては生を解脱(げだつ)し、死においては死を解脱すること
である。

生死を離れること、生死に没入することが、いずれも仏道の究極である。また、生死を
捨

て、生死を救うことが、いずれも仏道の究極である。

 

<要約>

人間の生き方の究極は、徹底した自己否定と、それによって可能な徹底した自己肯定であ
る。

 

  “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、われの生命を実現して
い

ることである。それが実現するときには、生命のすべてが現れないはずがなく、死のす

べてが現れないはずがない。

 

<要約>

  一旦、小さな自分を捨ててしまえば、それよりも更に大きな普遍的生命、即ち、命の
全体を

体験することができる。

 

(1)・・・・・         

「 さて...“透脱”と“現成”の意味は、本文の中で的確に説明されているので、こ
こ

では形式的な説明は必要ないと思います...

  その上で、“透脱”という、相矛盾する意味の上に成立する概念とは、はたしてどの

ようなものでしょうか?仏教の経典では、このような説明手法が多く用いられていま

す。それは、その真に説明する所が、言語を超越しているからでしょう。2つの概念の

矛盾を超越した所に、“悟りの境地”があり、経典の“学びの本質”があるからです、
」

 

 

**********

 

 

 

(2)・・・・・       

      生死を離れ、生死に没入し...生を解脱し、死を解脱する...

 

「そこに...どのような人格が析出するのでしょうか。『正法眼蔵』の執筆者/道元
禅

師は、そこに“仏道の究極”があると言っておられます。そこに、“悟りの境地”があ
ると

いうのです。

  いわゆる仏典は、それこそ仏教文化圏に、山のようにあります。仏教には、聖書(キ

リスト教)やコーラン(イスラム教)のような、唯一絶対という聖典はありません。し
かし、すべ

てが“仏道の究極”を指し示しています。仏教は、“信仰の道”というよりも、“智慧の
道”

と言われるのは、こういう所にも表れています。

  それにしても、これはどういう意味なのでしょうか。私はこれは、“無心に、現在行
っ

ている行為・状況に、没頭せよ”ということだと思います。言い換えれば、“そのこと
以

外は考えず、その中に深く深く没入せよ”、それが“悟りの境地”を体現するというこ
と

です。

  私たちは、山の頂上に登り...時には、息が止るほどにその絶景に感動します。

その瞬間は、その感動に没入し、それ以外のことは考えません。そうした純粋な混じ

り気のない心が、まさに“悟りの境地”ときわめて近いものです。

  サッカーをすればサッカーに没頭し、他のことは何も考えない。絵を描けば絵に没

頭し、音楽ならば音楽に没頭する。他のことは何も考えず、深く深く没入する。それ

が、“生死を離れ、生死に没入”するということです。そこに、“仏道の究極”が見え、

“悟りの境地”もまた、そのすぐ近くにあるということでしょう。

  しかし、言葉の上での理解は、宝物箱の一番上の、透明なセロファン紙を剥(は)が

したようなものです。肝心の宝物は、まさにその中にあります。母親と未分化の赤ん

坊の心/穢(けが)れのない純粋な子供の心/青少年の心は、“悟りの境地”に近い

とは、このような“無心の心”を言うのでしょう。

  一番上のセロファン紙の意味は、大人にとっても同じことです。その下に、幾重も

の修行体験を経て、更に幾重もの包みがあるのが見えてきます。そして、宝物箱の

“悟りの言葉”のより深い意味を、より深く理解し、更に深淵な“悟り”の境地へと迫

って行きます。人生の意味は、まさにこの、“真理の体験”の中にこそあるのでしょう
」

 

(3)・・・・・      

  “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、“われの生命”を実現

していることである。

 

「“われの生命”...そして、“命のすべて”...とは、非常に含蓄のある言葉で
す。

無限の深い意味を持っています。この世とは、何はともあれ、“われの眼”で見た“一人

称の世界”なのです。“君”や“彼”という、2人称や3人称は、眼前するリアリティ
ーの

中には存在しません。リアリティーは、あくまでも1人称の“唯心”から見た、“巨大
な全

体”なのです。

  小説のように...3人称の、“彼から見た風景”というのは、眼前するリアリティ
ーの

世界には存在しないのです。それは、相互主体性を反映した、フィクション(小説、虚
構)の

世界でのみ成立するのです。

  では...この世のすべての認識、すべての存在に関わる“我”とは...一体何者
な

のでしょうか。“われの命”、“命のすべて”とは...一体何なのか。これは、単な
る

1生物個体の自我を超越した、はるかに大きな背景...“心の領域”の広野が垣間

見えてきます。

  仏道では、この風景を“唯心”といいます...“唯心”とは、言い換えれば、“た
だ1つ

の、不可分な、巨大な全体”です。この巨大な全体には、局所や部分というものが存在

しません。だから、不可分な全体なのです。これが、今まさに眼前するリアリティーの姿

であり、現代物理学と共通します。

  さて...リアリティーを名詞によって差別化し、動詞で波動させたのが、“言語的
亜

空間世界”です。人類は、この“言語的亜空間”に文明を築き上げ、展開しているので

す。3人称の視界が開かれるのは、この亜空間におけるフィクションだからです。その

フィクションの中に住む人間は、まさに相互主体性世界を展開し、豊かな文化を花開

かせているわけです。これもまた、深淵な生命進化と構造化の、偉大なベクトルの上

にあることなのでしょうか...

  “物の領域”と“心の領域”の統合されたものが...いわゆる“この世の姿”で
す。

21世紀は、膨大な未知なる領域...まさに“心の領域”の解明が、大いに進むと言

われます。このことが、様々な宗教に及ぼす影響も、また計り知れないものがあると

思われます...」

                                               

    

   <2> 実在と夢・・・物理空間と認知       

 

  このような体験が、生を生としてあらしめ、死を死としてあらしめるのである。この
よう

な体験が実現するとき、それは大きいともいえず小さいともいえず、無限であるともい

えず有限であるともいえず、長いともいえず短いともいえず、遠くにあるともいえず近く

にあるともいえない。

  われわれの今の命は、このような体験によってあらしめられるのであり、同時にわ

れわれの命がこのような体験をあらしめてゆくのである。

<要約>

普遍者としての体験は、無我の体験である。そこでは、すべての個的要素が問題でなくな
る。しか

し、同時にそれは、生きるという個的な体験によってしか実現されないのである。