2016年8月30日火曜日

唯識

この「他己」というのは、道元が多用する言葉である。他の存在について言い表すに
あたって、他の存在と自己の存在とが切り離され対立したものではなく、つながり合っ
て密接な相関関係にあるということを示すために、「他」に「己」という字をつけて「
他己」とするのである。この場合の「他己」とは、人に限らず山川草木などすべての存
在者をさす。

⇒ わたしは、「断ずべきは対象的に考へられた自己への執着」の執着の主体は、「他
己
」であると思う。そして、わたしが観ずる唯識の最終的な決めの不足感、曹洞禅の坐禅
の継続重要性と意義は、「佗己(他己)の身心をして脱落せしむなり。悟迹の休歇なる
あり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」の言葉に示されていると思う。


仏道をならとは、自己をならうことである。自己をならうとは、自己を忘れることであ
る。自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。よろずのことども
に教えられるとは、自己の身心をも他己の身心とも脱ぎ捨てることである。悟りいたっ
たならば、そこでしばらく休むもよい。だが、やがてまたそこを大きく脱け出てゆかね
ばならない。
    (講談社学術文庫 正法眼蔵(一)全訳注 増谷文雄 P44から)

 仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、自己
を忘れることである、答えを自己のなかに求めないことだ。全ての現象のなかに自己を
証すのだ。自己とはもろもろの事物のなかに在ってはじめてその存在を知るものである
。覚りとは、自己および自己を認識する己れをも脱落させて真の自己を無辺際な真理の
なかに証すことである。こうしたことから、覚りの姿は自らには覚られないままに現わ
れてゆくものだ。
    (河出文庫 正法眼蔵1 現代文訳 石井恭二P23から)

 個人的に理解が難しいのが後半部分にある「佗(他)己」という言葉です。この語に
ついて、御茶ノ水大学の住光子さんは、その著「NHK出版 哲学のエッセンスシリ
ーズ 道元 P57・58」で次のように述べています。

 この「他己」というのは、道元が多用する言葉である。他の存在について言い表すに
あたって、他の存在と自己の存在とが切り離され対立したものではなく、つながり合っ
て密接な相関関係にあるということを示すために、「他」に「己」という字をつけて「
他己」とするのである。この場合の「他己」とは、人に限らず山川草木などすべての存
在者をさす。

 ここで「他己」について、わたし自身が感ずる人の意識の視点が気になるのである。

 上記の中でわたし自身がすっきりする注釈表現は、石井先生の「自己を認識する己れ
をも脱落させて真の自己を無辺際な真理のなかに証すことである。」という表現であり
、「自己を認識する己」が、唯識教学における「自証分・証自証分」の関係に思えるの
です。

 「一切皆成仏を率直には認めない法相唯識学など、およそ禅師の高い宗旨とは全くか
かわりのないものと思われてきた」(中山書房仏書林 唯識の心と禅 太田久紀 P1
23)というように道元さんの言葉を唯識で解釈することは、叡山の天台教学が、開創
以来、法相教学は決して相容れるものではなく、また太田久紀先生が上書でいうように
唯識用語や唯識典籍が引用されることはないのは承知の上で、わたしはそう感ずるので
す。

 西田幾多郎先生は、哲学論文集第七で次のように述べている。

 道元の云う如く、自己が真の無となることである。仏道をならふというは自己をなら
ふなり、自己をならふことは、自己をわするるなり、自己をわするるとは萬法に証せら
るるなりと云って居る。科学的真に徹することも、之に他ならない。私は之を物となっ
て見、物となって聞くと云う。否定すべきは、抽象的に考へられた自己の独断、断ずべ
きは対象的に考へられた自己への執着であるのである。我々の自己が宗教的になればな
る程、己を忘れて、理を尽し、情を尽すに至らなければならない。(岩波書店 西田幾
多郎全集第十一 哲学論文集第七 二 場所的倫理と宗教的世界観 P424から)

 わたしは、「断ずべきは対象的に考へられた自己への執着」の執着の主体は、「他己
」であると思う。そして、わたしが観ずる唯識の最終的な決めの不足感、曹洞禅の坐禅
の継続重要性と意義は、「佗己(他己)の身心をして脱落せしむなり。悟迹の休歇なる
あり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」の言葉に示されていると思う。




11善謂信慚愧 無貪等三根 勤安不放逸 行捨及不害

善とは、信、慚、愧、無貪等三根、勤、安、不放逸、行捨、不害である。

>善の心所とは、仏法を信じるこころであり信、恥じる心である慚愧、貪らない、怒ら
ない、愚痴らないなどの無貪等三根、励む心である勤、軽やかなこころである安、怠け
ない心である不放逸、平等で純真な心である行捨、他を害さないこころである不害であ
る。

12煩悩謂貪瞋 癡慢疑悪見 随煩悩謂忿 恨覆悩嫉慳

煩悩とは、貪、瞋、癡、慢、疑、悪見である。随煩とは忿、恨、覆、悩、嫉、慳。

>煩悩とは、むさぼるこころである貪、怒るこころである瞋、おろかなこころである癡
、おごる心である慢、真理を疑うこころである疑、正しくない見方である悪見である。
随煩悩とは殴りたくなるほどの怒りのこころである忿、うらむこころである恨、罪を隠
そうとするこころである覆、悩むこころである悩、ねたむこころである嫉、けちなここ
ろである慳、つづく。

13誑諂与害驕 無慚及無愧 掉挙与昏沈 不信併懈怠

誑、諂、害、驕、無慚無愧、掉挙、昏沈、不信、懈怠

>あざむくこころである誑、へつらうこころである諂、害するこころである害、おごる
こころである驕、反省なきこころである無慚無愧、さわがしいこころである掉挙、落ち
込むこころである昏沈、仏法を信じないこころである不信、おこたりるこころである懈
怠、つづく。

14放逸及失念 散乱不正知 不定謂悔眠 尋伺二各二

放逸、失念、散乱、不正知まで随煩悩。 不定とは、悔、眠、尋、伺、二つに各二であ
る。

>なまけるこころである放逸、わすれるこころである失念、みだれたこころである散乱
、間違って知るこころである不正知までが随煩悩である。 不定は後悔するこころであ
る悔、禅定中にねむるこころである眠、追求するこころである尋伺、三つとも善悪各二
つを伴う




≪正法眼蔵 三界唯心≫      

偉大な師匠である釈尊が言われた。   
我々が住んでいる世界(欲界・色界・無色界)は、たった一つの心と理解する事が出来る
。心というものを離れて、別の実在というものは存在しない。心と、真実と、衆生の三
つのものは、区別する事が出来ない。 我々の住んでいる世界の内側も、外側も、中間
も、あるいは我々自身を基準にするならば、 自分自身の内側も、外側も、中間も、あ
るいは過去・現在・未来のどの時間においてもすべて欲界・色界・無色界と言う三種類
の世界の中に入ってしまう。 
ではその欲界・色界・無色界と言う三種類の世界はどんな世界かと言うと、我々が現に
見ているありのままの世界そのものである。


■「三界唯心」の「三界」とは欲界・色界・無色界と言う三つの世界を言います。
「欲界」とは、通常は欲望の世界と考えられていますが、意欲の世界、頭で考えられた
世界と理解すべきではなかろうかと考えます。
「色界」の色とは、ル-パと言う物質を意味する言葉ですから、物質の世界、物の世界
と理解すべきではなかろうかと考えます。
「無色」とは、物質の世界を乗り越えた世界と言う事で、従来は精神の世界、心の世界
と考えられていました。 
この三界の他に「法界」と言う言葉を加えまして、この四つの世界を仏教特有の考え方
である「四諦」の考え方に割り当てますと理解がしやすくなります。

苦――欲界(意欲の世界)・集――色界(物質の世界)・滅――無色界(行為の世界)・道-
法界(宇宙全体) 

「三界唯心」の巻も、仏教哲学の一番基本にあるところの、我々の主観と周囲を取り巻
いている客観との相互関係がどうなっているかと言う事の説明と、こういうふうに見る
事が出来る訳です。 
                          (正法眼蔵提唱録 西嶋 和
夫 著より)

◆◆◆ 中論での展開 ◆◆◆ 
*龍樹尊者の説く≪この世界≫
 ≪この世界≫   理性   客観的な世界   現在の瞬間    現実    
 行為      法   ①

  *理性、客観的な世界、現在の瞬間、現実、行為、法の関係をとらえるために、行
為の現在の瞬間で
   考える  
  
 ≪この世界≫  理性  客観的な世界  現在の瞬間 (行為)  現実   行為
(現在の瞬間) 法 ② 
 ◆このそれぞれの関連は
  ①行為と現在の瞬間は法という事実のうらおもて
  ②現実は理性、客観的な世界、現在の瞬間を含めた統合的なもの
  ③理性は心の働き、脳細胞による唯識的な世界

≪四諦≫  観念論哲学  唯物論哲学  行為論哲学  道義論哲学
≪四諦の教え≫ ≪この世界≫の現実を≪四諦≫(観念論哲学、唯物論哲学、行為論哲
学
        道義論哲学)でとらえた、苦、集、滅、道

 *①の現実を≪四諦≫でとらえると(≪四諦の教え≫苦、集、滅、道)

 ≪この世界≫   道義論哲学
   理性    客観的な世界   現在の瞬間(行為)  現実        
       ③
   唯識    因果の理法    刹那生滅の道理    現実 (哲学)   
       ④

*②の現実を≪四諦≫でとらえると (≪四諦の教え≫苦、集、滅、道)

 ≪この世界≫   行為論哲学
   理性    客観的な世界   現在の瞬間(行為)  現実        
       ③
   唯識    因果の理法    刹那生滅の道理    現実 (哲学)   
       ④
   四諦*   十二因縁     八正道        現実 (仏教)   
         ⑤
    ◆四諦*は、③を理性、心の働き(唯識)で捉えた現実(四段階の考え方)
     **四諦*は唯識の一部で、従来の仏教の解釈はこれでよい。

*②の現実そのものの実在(行為=坐禅)(≪四諦の教え≫苦、集、滅、道)

 ≪この世界≫   仏道(行為そのもの)  坐禅のとき 法と一体
   理性    客観的な世界    現在の瞬間(行為)          現
実      ③
  (心、心の働き、唯識)(客観的な世界、衆生、自分)坐禅という行為  法(仏
道)   ⑥

*②を理性(心の働き、唯識)での四段階の考え方でとらえると

≪この世界≫
   理性  客観的な世界  現在の瞬間 (行為)  現実     行為(現在の
瞬間) 法  ②
   欲界  色界        無色界          法界       
 (行為を含む現実)    ⑦   

*心は一つある、二つあると言うものではなくて、宇宙全体が心と同じものである。心
と三界が別々に
 あって、心と三界が同じだという主張ではない。三界を別にして心はないし、心を別
にして三界は
 ないと言う関係である。
 我々の現実の世界を表現する場合に、その実態というものは『ある』とか『ない』と
かと単純には
 割り切れない。頭でものを考えたり、感覚的にものを感じたりと言う状態もあるし、
そのような状態を
 意識の外にはずした状態もある。
 別の言葉で言うならば心が独立に存在する訳ではなくて、眼の前にある垣根・壁・瓦
・小石が心その
 ものである。
 また別の言葉で言うならば、眼の前にある山・川・大地が心そのものである。
 心は、達磨大師と弟子とのやりとりの真髄を指すのであり、肉体(皮・肉・骨・髄)と
別のものではない。
 心は、釈尊と摩訶迦葉尊者とのやり取りを指すのであり、宗教上のやり取りが心だと
いう事も出来る。
 心とは、様々な頭の働きや感覚的な働きで心があると意識が出来る場合もあるし、ま
た意識を超越して
 無意識の状態と言うものもある。
 心とは、体を基礎にして心があると感じられる場合もあれば、体を意識しないで、た
だ心だけの意識の
 場合もある。心とは、体を動かして何か動作をする以前の意識もあるし、体を動かし
て何かの動作をした
 後の時点における意識もある。
           
                          (正法眼蔵 提唱録 西島和
夫 著より) 

<三界唯心>

理性  客観的な世界  現在の瞬間 (行為)  現実     行為(現在の瞬間)
 法  ②
    <理性(心の働き、唯識)での四段階の考え方でとらえる>  
欲界   色界      無色界          法界(現実)   ⇔ ≪こ
の世界≫    ⑦ 
   (①②③により、欲界、色界、無色界、法界(現実)すべてが現実(法界))
 
  欲界 色界 無色界               現実 
   三     界                唯     心     ⇔
 宇宙全体    ⑧

われわれの住んでいる世界 → 欲界 色界 無色界(三界) 心(現実・法界)

                (体験)?(実感)

                 坐  禅
  (坐禅という)行為の現在の瞬間 
    坐禅=仏性(宇宙の秩序・波長・エネルギー、遺伝子、阿摩羅識、プログラミ
ングされた
          生命の設計図)                      
          ⑨

■■ 私の一口メモ<中論による展開について> ■■ 
 物事や文章などを的確にとらえためには、四段階の考え方を適用すると、間違いがな
く、また漏れが無く
 なること、また、宗教的なこと、仏教的なことを捉え把握し、判断するには、≪この
世界≫からの展開が
 色々な事実などを浮き彫りにしてくれます。
 ≪この世界≫:理性、客観的な世界、現在の瞬間、現実、行為、法
 を適用します。 龍樹尊者の≪この世界≫(法)はすべてを含みます。ときどき白々
しくなりますが。

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