071 尊者はいう。 心は虚空界にに同じ、 等しき虚空法を示す。 虚空を証得するとき、 是無く非法なし。 心の境界は虚空界と同じである、 心は万象を等しく虚空と示す。 虚空を証し得るとき、 事物の実相には是も無く非もない。
第七巻「虚空」の項目に次の文がありました(P112)。 「仏祖はすべて経を講ずる者である。 その経を講ずるにあたっては、 かならず虚空をもってする。 虚空によらずしては、一経をも講ずることはできない。 たとい、心経を講ずるにも、 あるいは身経を講ずるにも、 いずれも虚空をもって講ずるのである。 虚空をもって思量を実現し、 不思量をも実現するのである。」 と。 (ここで註釈により「心経」とは般若心経をいう) この文章について、私は次のように解釈し納得し実践しています。 つまり、すべての事象は因縁により、六根を通じて頭脳内に生じ、それははあたかも 大空に雲が発生したかのようであり、頭脳内ではその事象の雲が意識とか潜在意識の領 域と活発に交流しながら発達する。 その営みの様子は 『唯識三十頌』(世親菩薩造)で述べられている 「業異熟なり、転ずること暴流の如し」である。 しかし、この営みも因縁がなくなれば意識領域から消えてなくなる。 そこで私は、この虚空の存在を認識したうえで、毎日次の詩を暗誦しています。 「一切の現実の法相は 真如の理である。 その註釈 ・染(ケガレ)を入れることは許しながら、しかも本性は淨であるといわれている 。 ・無数量の微妙な功徳がある。 ・無生無滅で湛として虚空のようである。 ・一切有情は平等である。 ・一切法は不一不異である。 ・一切の相は 一切の分別を離れ 尋思の路絶え 名言道を断じている。 ・その本性本質はもとより寂である。故に涅槃と言う。」 虚空: 「這裏是什麼処在」(此処は一体何処なのか)の故に、仏道現成して仏祖ならしむ[「 此処は一体何処なのか」とは、「碧巌録」巻2の黄檗の発語。普通に考えれば、此処は 禅寺であるから、修行によって仏祖となることを目指すということになる。だが実は、 此処は虚空なのだと道元は言いたい訳だ]。仏祖の仏道現成、おのづから嫡嫡する故に 、皮肉・骨髓の渾身せる、虚空に掛かるなり[渾身まるまるが虚空に掛かっている]。虚 空は、20空等の群に非(あら)ず[虚空とは、色々な空の概念ではない]。おおよそ、空 只だ20空のみであろうや。8万四千空あり。及びそこばく有るのだ[それ以上にあるので ある]。 撫州石鞏慧蔵禅師が弟でし・西堂知蔵禅師に問うて言わく、 「汝もまた虚空を捉えることが出来るか」。 西堂曰わく、 「如何なる如くに捉えるか解っている」。 石鞏曰わく、 「汝は如何なる如くに捉えるのか」。 西堂は手にて虚空をつかみたり。 石鞏曰わく、 「汝は虚空を捉うるを解するに非(あら)ず」。 西堂曰わく、 「兄弟子は如何にして捉えますか」。 石鞏は、西堂の鼻の穴を捉え、引っ張った。西堂痛みをこらえながら曰わく、 「この人殺しめ。人の鼻を引っ張るとは。お蔭で虚空を直接得ることを得たり」。 石鞏曰わく、 「是(かく)の如くにして虚空を捉えることが出来るのだ」。 石鞏言わくの「汝もまた虚空を捉えることが出来るか」とは、汝は全身が手眼であるか と問うたのだ。 西堂曰わく、「如何なる如くに捉えるか解っている」。 虚空を1塊の概念で捉えるは虚空を汚すなり。汚されしもの地に落つ。 石鞏言わくの「汝は如何なる如くに捉えるのか」。 虚空を如如(真如)として捉えるは、すでに虚空は変化してしまうなり。然(しか)あ れども、変化するからこそ、如如なり。西堂、手で虚空をつかみたり。その発想は虎に 乗ることは得るが、虎の尾を捉まえるを知らぬと言うところなり。 石鞏の「汝は虚空を捉うるを解するに非(あら)ず」。それは単に捉うることが出来て いるに非(あら)ずということのみに非(あら)ず。虚空を夢にだに見たこと無し。然 (しか)あれども解さずと言いても、虚空は深遠なり。汝に示すことは出来ぬのだ。西 堂の「兄弟子は如何なる如くに捉えますか」。これは貴方も聊(いささ)か発語して下 さいということだ。私にばかり言わせないで下さいということだ。西堂は手で虚空をつ かみたり。じっくりと学ぶべし。西堂の鼻の穴に石鞏が身を隠したのだ。或いは、西堂 の鼻の穴が石鞏をつかんだともいえるであろう。然(しか)あれども是(かく)の如く は言うものの、虚空は全体で1つであり、ぶつかり合うしか非(あら)ざるであろう。 西堂痛みをこらえて曰わく、「この人殺しめ。人の鼻を引っ張るとは。お蔭で虚空を直 接得ることを得たり」。 今迄人に出会うものだと思っていたが、忽(たちま)ち自己に出会いたり。然(しか) あれども、自己を改めて捉えなおすこと等出来るに非(あら)ず。自己を修するしか無 し。石鞏の「是(かく)の如くにして虚空を捉うるを得る」。虚空を然(しか)の如く に捉えることもあろう。然(しか)あれども石鞏と石鞏とが片手を出し互いを捉うるに 非(あら)ず。虚空と虚空が片手を出し互いを捉うるに非(あら)ざる故なり。自分の 力にたよるものに非(あら)ざる故なり。 おおよそこの世界は虚空を容るる程の隙間無しと称せども、この1段の発話、昔から虚 空の真実を響かせている。石鞏、西堂の後、5家の宗匠と称される者たちは多しと称せ ども、虚空を見聞し、推量した者少なし。石鞏、西堂の前後のものたちも虚空を弄ぼう としてもの在りと称せども、手を付けることが出来たもの少なし。石鞏は虚空を掴み取 り、西堂は虚空を見ず。私(道元)は石鞏に言わねばならぬ、「以前に西堂の鼻を掴んだ というが、虚空を掴むと称すならば、自分自身の鼻を掴むべし」と。指先で指先を掴む を得るべし。然(しか)あれども、石鞏は少し虚空の掴み方を知れり。然(しか)あれ ども虚空を掴む好手であっても、虚空の内外を学ぶべし。虚空の活・殺を学ぶべし。虚 空の軽重を知るべし。諸仏と諸祖の工夫、修行、発心、修行、悟り、発語、問答全てが 虚空を掴むことだと腑に落とすべし。 先師・如浄和尚曰わく、 「渾身口に似て虚空に掛る(全身は口に似て、虚空に掛かっている)」。 明らかに知る。虚空の渾身は虚空に掛かれり。 洪州西山の亮座主は馬祖和尚に参じて学びたり。馬祖、問うて言わく、 「如何なる経を説いているのか」。 亮座主曰わく、 「般若心経なり」。 馬祖曰わく、 「何をもって説くのか」。 亮座主曰わく、 「心をもって説きます」。 馬祖曰わく、 「心は役者の如きものだ。意志はその脇役の如し。6識はその伴侶だ。如何にして経を 説くことが出来ようか」。 亮座主曰わく、 「心が既に説くを得るに非(あら)ずば、虚空が説くを得るにありや」。 馬祖曰わく、 「然(しか)の如し。虚空が説くことが出来るのだ」。 亮座主は袖を払って退席せり。馬祖、呼びかけて言わく、 「亮座主よ」。 亮座主振り返りたり。馬祖曰わく、 「生まれてから老いるまで、只だ是れ虚空なり」。 亮座主思い当たること有り。遂に西山に隠れその後の消息を知らず。 然(しか)あれば即ち、仏祖は全て経を説くものだ。経を説くのは全て虚空だ。虚空で 無くば1経も説くを得ず。心経を説くにも、身体経を説くにも、共に虚空をもって説く のだ。虚空によりて思考を現わし、不思量も現わる。師による知慧も無師の知慧もまた 同じ。生まれながらの知慧も、学んだ知慧も共に虚空だ。仏をつくるも、祖をつくるも 、同じ如くに虚空だ。 印度第21祖・婆修盤頭[後述]言わく、 「心同虚空界。 示等虚空法。 証得虚空時、 無是無非法 (心は虚空界に同じ。 等虚空の法を示す。 虚空を証得する時、 是[善]も無く非法[悪]も無し)」。 いま壁に向いて坐る人と、人に向う壁とは相逢(そうぼう;あいあう)、相見(そうけ ん;あいまみえる)する牆壁心、枯木心であり、是れぞ虚空の世界だ。まさにこの身[ 今世の身]をもちて得度する者は、即ちこの身を現わして為に法を説く。虚空の法を説 くのだ。まさに他身[次以降に生まれた時の身]をもちて得度する者は、即ち他身を現わ して為に法を説く。虚空の法を説くのだ。12時[24時間]に使われる。および12時[2 4時間]を使いこなす。これが虚空の時を証得することだ。石の頭が大であれば大。石 の頭が小であれば小。この真実は肯定もなく、否定も無し。是(かく)の如くの虚空、 今是(こ)れを正法眼蔵涅槃妙心(最高の悟り)と参究するのみなり。 [婆修盤頭: バシュバンズ。世親とも言う。無着の弟。唯識思想を体系化した有名な論師]。
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