2016年6月13日月曜日

山水経

この山水経との姉妹篇ともいうべき巻に渓声山色の巻があります。
この中で道元さまは
 「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」
と山水の功徳を詠っておられます。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、
天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿で
あるということで、これは宋の蘇東坡居士の詩を思い浮かべられて詠まれた詩でありま
しょう。
 蘇東披居士の詩は
 「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 夜来八萬四千偈 他日如何挙似人」
であります。谷川の水の流れる音も仏の声であり、姿であります。清浄身とは法身の仏
さまということであり、法をもって身とする仏さまであります。それが山であり川であ
るというのであります。

「而今の山水は、古仏の道現成なり。
ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。
而今の活計なり。朕兆未崩の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。
山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。
順風の妙功、さだめて山より透脱するなり」
道元さまがお示しになった正法眼蔵九十五巻の中で経のつく巻はこの山水経
以外にはありません。道元さまはこの巻を仁治元年十月十八日、興聖宝林寺
において修行僧達にお説きになりました。現在で申せば十一月、晩秋の頃でしょうか。

巻の冒頭の一節こそ道元さまが「山水経」で説かんとされたまとめであり、
最も大切な一節であります。特に「而今の山水は、古仏の道現成なり」
の一句こそ全てであります。
その而今とは(にこん)と読み、単にいわゆる「今」ではなく、すでに触れた有時
の巻で問題とされた而今であります。つまり無限の過去から現在に到る今であり、
永遠の未来をひっくるめた今であります。時間空間をあげて而今の他に何もない、
それは無限の過去を経過してきた存在であり、同時に無限の未来を将来する存在
でもあります。時間は空間をはなれては存在しない。また、空間のなき時間も
有り得ないのであります。それで時間といっても、空間といっても、自己と
いっても全く同一物であり、これを「而今」という言葉で言い表しているので
あります。二千五百年前にお釈迦様がインドで法を説き、七百余年前道元禅師
が法を説かれましたが、それが脈々として現在にあるのであります。

眼前の山水も而今なる山水として真理の現成であり、仏さまやお祖師さまの仏法
の現成であります。山も水もあるがままにあるべきようにあって、さまざまな姿
を現しているのであります。このことが「古仏の道現成なり、ともに法位に住して、
究尽の功徳を成せり」であり、山は山、水は水で究尽の功徳を成しており、
山は三世十法尽くしており、水は全宇宙を尽くしているのであります。
悟りの姿であります。本来の自己、悟りの相であります。
それはこの世界の成立以前の消息であって、それが今も生きてはたらいているので
あります。万物の兆しもない、いにしえからのことであり、その現成は古今を
貫くものであります。而今であります。

視点を変えれば、今我々が観ている山や水は、そのまま真理に到達した先覚者、
覚りを開いた昔の人が体験した山水として姿を現し、そのまま宇宙と一体化し、
つながっている。
我々が観ている目の前の自然、見られている自然という概念を超えた、それらをすべて
ひっくるめた永遠に続いてきた自然世界があり、それがそこに姿を見せている、
それが山水経の基本である。

山水は一大経巻そのものであり真理そのものであります。悟りを体現した仏の眼
に映ずる山水、仏心に映ずる山水であります。諸法実相であります。それは山は山
として高く広く、水は水としてすみわたって清く、本来のはたらきを現成したもので、
一つ一つが宇宙の実相、真理を物語る究尽の功徳を現成しているのであります。
ここに今一度道元さまのお詩を紹介させていただきます。
「峯の色 谷のひびきもみなながら
  わが釈迦牟尼の 声と姿と」


「而今の山水は、古仏の道現成なり。
ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。
而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。
山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。
順風の妙功、さだめて山より透脱するなり」

「古仏の道現成なり」
眼の前の山水は、古仏は仏法の経ををそのままに表し、今においても経を説き続けている。

「ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり」
山、川ともにそこにあること。
極めつくしたはたらきを現出している。
空劫とは永遠無限の時間であり、
「今目の前にある山は、その山ができる以前の宇宙生成の状況そのものだからこそ、
今ここに生き生きと実現している。
朕兆未萌とはまだ芽生える以前の状態であり、萌芽状態の山水そのものであるから、
すでに本質が現れるなどという状態を超えたもの。
本来の悟りが悟りの影を残さず、超越している。

伝統的伝承的な付加物を一切排除する。山は常に歩を運び、川は流れずという命題を
考え、「物となって考え、物となって行う」ことが必要である。



243ページ
01
ここに言う山水とは、古仏の解脱の相をあらわす言葉である。山も水もともに本来
ありのままの場にて、真実を極めつくしている。空劫以前のあらゆる世界存在以前の
すがたにあることによって、普遍的な現在を活き活きと示している。
ものの兆しも現れぬ前の現存在であることによって、有事現成という存在の事態
を超えている。
山の諸相は広大無辺であるから、皇帝が得た道徳は山から通じ、皇帝の修行も
山において解脱を得たのである。

「運歩のゆえに常なり。青山の運歩は、其疾如風よりもすみやかなれども、
山中人は不覚不知なり。山中とは、世界裏の花開げかいなり」
青山とは動かない山を言っている。
また、運歩とは常に動くこと。
山は一見動いていないように見えるけれど、長い時間の中では、常にわずかながら
動いている、という。絶えず変化している。
人間も山とともに宇宙の中にいる以上、青山がいくら早く動いても自覚していない。
花が開くとは、一瞬の姿をとらえること。
すなわち、山中で宇宙の真実を知ることができない人間は、悟らず、知らず、聞かず、
真理を知ることができない。山が動くということを疑うものは、自分が山の中に
いることを自覚していない、
したがって、自分が歩くということの本当の意味が分かっていない。
不変というものの大きな変化、永遠の中の今という関係を山水の中に考える必要
がある。



02
和尚は衆に示していった、「青山は常に歩みを運ぶ、石女は夜に児を生む」と。
大自然である山は、存在に具わる性姿相のすべてを尽くして欠けるところがない。
このため、常に安定した存在であり、そして常に歩みを運ぶのである。山が歩みを運ぶ
本性を、正に審らかにせねばならない。大自然である山の歩みは大自然である人の
歩みと同じであるはずだ。大自然である山も常に変容しているのだ。だから人間が
歩み行くのに同じように見えないからと言って、山が歩みを運ぶことを疑って
はならない。

03
ここに説かれた覚者の言葉は、はっきりと歩むと示している。
これこそ本義を得たものである。「常に歩みを運ぶ」の言葉が衆に示されている
ことを究めるべきだ。歩むのであるから常住である。常に変わらぬ歩みである。
青山の歩みは風よりも速やかであるが、山中にいる人はそれを覚らずまた
知らずである。山中の人も常に歩んでいるからである。山中とは世界のうちに
花開く場である。山中の人は世界の花開と場を共にしている。山の外にいる
人は山の歩みを知らず覚らずである。山を見ることのない人は悟ることもなく
知ることもなく、見ることもなく聞くこともない。いずれにせよ存在とは
こうした道理の中にある。もし、山が歩んでいることに疑いを持つならば、
自分が歩んでいることを知らないのだ。自分が歩んでいないのではない、
自分が歩んでいることに気が付かないのだ。自己とは歩むものだと知るならば、
そのとき、青山が歩んでいることを知るはずだ。

04
自然存在としての青山はもともと有情でもない、非情でもない、眼耳鼻舌心意など
六根の作用とは無縁である、自己もまたもともとの自然存在として有情でもない、
非情でもない。青山とは大自然そのものを意味するのであるから、青山が
歩んでいることことに疑いを持つことはできない。諸所の教えにある十法界または
四法界などの世界観に準じて、青山を観照しても仕方がないのである。


道元の場合は、季節は変わりゆくものではなく、移りいかない。
春は春、夏は夏と言う絶対的な切り口はあるが、基本はすべて同じ。自然を
抒情的に流れ行くものとしてではなく、変化の中に永遠の原理を知る。

14
およそ山水を観るのに、種類に随って異なることがある。水を観照するするとき、
水を瓔珞と観るものがある、天衆がそうである。しかし人間が観ている水を天衆
が瓔珞と観るわけではない。我々が水を何々と観る形を彼らが水と観ることも
あるだろう。彼らにとって瓔珞と観えるものをわれわれ人間は水と観るのだ。水を
不思議な華と観る者がある、天衆がそうである。そうであっても、彼らが花を
水として用いているのではない。鬼にとっては水は猛火と見え、濃血ともみえる
そうだ。
竜宮に住む魚に取って水は宮殿にも見え、立派な楼閣とも見えるだろう。
人間が水を、あるいは七宝摩尼珠と観る、あるいは樹林や土塊と観る、あるいは清浄
解脱の法性と観る、あるいは真実人体と観る、あるいは身体の相心の性と観る、
人間がこれらを水と観るのは、人間にあっても彼ら天衆や鬼や魚にはない観照
である。これを殺すも活かすもそれぞれの因縁である。


「山は超古超今より大聖の所居しょこなり、賢人聖人ともに山を堂奥とせり、山を
身心とせり」(山水経)
25
山は古今を超えて大いなる聖人の住むところである、賢人聖人は、ともに山を心の
堂奥とした、山の本質を心身としたのである。賢人聖人によって山はその真の姿を
現している。およそ山は、どれほどの数の大聖人大賢人が入りあつまったのだろうかと
思われるけれど、賢人聖人が山に入ってからというもの1人として人に逢うこと
ことはないのである。ただ山のはたらきを現成するのみであって、彼らの証跡は
全く残っていない。世間で山を眺めるときと、山中にあって山に逢うときとは、
観照の質においてはるかに異なっている。


26
だいたい山は国土に属しているとはいっても、山を愛する人、山を知る人に属する
のだ。山が必然としてその主たる人を愛するとき、聖人賢人などの徳の高い人は
山に入るのだ。聖人賢人が山に住むとき、山はこれらの人と一如になるから、樹々も
岩石も鬱然となり、禽獣も霊も奇譚を現し、聖人賢人の徳を蒙り、その伴侶ともなり、
従者ともなる。知るべきである。山は賢者を好む実を備え、聖人を好む実を備え
ているのだ。


31
古仏は言う、
「山は是山なり、水是水なり」と。
この言葉は、やまを是やまと言っているのではない、山は是やまといっている。
そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質が
現れる。山は日常の生活レベルで感じるやまではなく、この山は絶対真実のある
山なのである。それであれば、無限絶対の境地を考えられる功夫になるといっている。
天然自然の山や水は「おのずから賢をなし、聖をなすなり」。
山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、祖師の聖を
現している。山水はそのまま仏経である。


ーーーーーー
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/shobo/h1syobou.11.html

 今ここに見られる山水は、諸仏の方々の悟った境地をあらわされている。山は山
になりきっており、水は水になりきっていて、その他のなにものでもない。
それはあらゆる時を越えた山水であるから、今ここに実現している。
あらゆる時を越えた自己であるから、自己であることを解脱(げだつ)している。
(自然は真理が実現されるところであり、自己が自己を発見する所である。)
山の働きは大きくて限りないから、雲に乗って空を行くものは、必ず山から出てい
る。風に従って進むものは、必ず山から解脱している。
(常識の立場を離れて、山の真実に迫ることによって、自己を知り、自己を解脱す
ることができる。)

太陽山の道楷(どうかい)和尚が一山の僧たちに示していった。
「青山(せいざん)は常に運歩し、石女(うまずめ)は夜(よる)子を生む」
 山の働きに欠けたとはろはないから、山は常に安住し、常に歩むのである。その
ことを詳しく学ぶべきである。山の歩みは人の歩みと同じなのであって、たとえ表面
的にはそのように見えなくても、それを疑ってはならない。ここで道楷和尚のいって
いることは、仏道の根本問題なのであるから、真剣に学びなさい。
(山が動かないと考えるのは、常識的見解に過ぎない。その奥にある静中の動、
動中の静を見徹すべきである。)

青山は歩むことによって、安住している。その歩みは風より速いが、山になり
きっている人はそのことに気がつかない。山の中には一切世界が開いているが、
山になりきっている人はそのことに気がつかない。山を見る眼がないものもまた、
そのような道理を知ることがなく、見ることも聞くこともない。
(「山が歩む」ということは、消滅するものの中に永遠の相を見ることである。
それに気づいても気がつかなくても、我々は永遠の世界を生きているのである。)
もし山の歩みを疑うならば、自己の歩みも本当に分かっていないのである。自己
の歩みがないのではなく、自己の歩みを未だ知らず、未だ明らかにしていないので
ある。自己の歩みを知るように、青山の歩みを知るべきである。われわれが青山を
見るとき、青山も自己も、生物でも無生物でもなく、両者の間には何の隔たりもな
い。そのため青山の歩みを疑うことができないのである。
(我が山を見ることによって、我が山と一体になる。それを、「山が歩く」
といっても、「山が山を見る」といってもよいのである。)
 世界全体という立場から、青山(せいざん)を明らかにすべきであることを、人は知
ら
ない。しかし真実を知るためには、そのような立場から、青山の歩み、即ち自己の
歩みを検(しら)べてみる必要がある。それがあらゆる時を越えて前へ進むばかりで
なく、後ろへ退き歩み、歩み退くことを検べてみる必要がある。
もしその歩みに休みがあるならば、諸仏祖たちは現れなかったであろう。もしそ
の歩みに極まりがあるならば、仏の教えは今日まで伝わらなかったであろう。進歩
も休まず、退歩も休まない。進歩は退歩にそむかず、退歩は進歩にそむかない。
このことを、「山が流れる」といい、「流れるのは山である」というのである。
(ここにいう「山」とは、一瞬のとどこおりもない、永遠の万物流転の様相に
ほかならない)

青山自身も歩むことを学び、東山自身も、水上を行くことを学ぶから、山を学ぶこ
とは、山が山を学ぶことである。山が山の姿のまま、自分のことを学んできたのであ
る。それを、
「青山が歩むことなどはできない。東山が水上を行くことなどはできない」
といって、山をそしってはならない。自己の考えが足りないから、青山運歩のことば
を怪しむのである。見聞が浅いから、
「山が流れる」ということばに驚くのである。そのようなものたちは、
「水が流れる」ということばさえよくわかっていないのに、自己のあさはかな
見解に溺(おぼ)れている。このように、山の働きのすべてが、真理を現わしている
のである。山には山の歩みがあり、山の流れがあり、山が山を生むときがある。
山が山を学んで諸仏らとなることによって、諸仏祖がこのように実現しているのである
。
(我が山を学ぶだけでは、いつまで経っても山のことはわからない。山が山を学ぶ
という心境に至った時にはじめて、山の真実を知ることができる。)

<一番最初の文節>
今ここに見られる山水は、諸仏の方々の悟った境地を現わされている。
山は山になりきっており、水は水になりきっている。その他のなにものでも
ない。それはあらゆる時を越えた山水であるから、今ここに実現してい
る。あらゆる時を越えた自己であるから、自己であることを解脱している。
(1) 今ここに見られる山水 とは、これはまさに今私たちが眼前に見ている
山や水です。このきわめて安定しているように見える山や水ですが、これは
実際にそれほど安定しているものなのでしょうか?
目の前にある飽き飽きするような山、水、・・・・・・
では、去年の山水は、いずこにあるのか・・・・・
それから少年の頃の山水は・・・・・
全ては、遠くはかない夢の様です・・・・・
あの大地、あの膨大な質量は、全て記憶に変換され、私の脳の中に収まっ
ています。
ここで、私が何を言いたいのかといえば、いわゆる常識というものを、一
度すべて御破算にしてほしいということです。そして、あらためて真実とい
うものを見つめる目を持ってほしいということです。そうでなければ、この書
を読み進むのは、なかなか難しいでしょう。
(2) 諸仏の方々の悟った境地 とは、どのようなものでしょうか?それは、
山は山になりきり、水は水になりきっていること、全てが過不足なく、それ
そのものになりきっていることです。    
(3) このあたりの感覚は、禅を学んでいくうちに、少しづつ分かってきます。
例えば、山を知るには、自分も山になってみることです。水を知るには、自
分も水になり、水に溶け込んでみることです。あるいは、花を知ろうと思っ
たなら、自分もその花と一体化し、風に吹かれてみることです。

 たとえ、
「山は草木、土石、土塀によって成り立っている」
という見方があっても、それはとりたてて疑ったり迷ったりすべきことではなく、また
それによって山のすべてがわかるわけではない。また、
「山は宝玉の輝くところである」
と見る時があっても、そればかりが真実ではない。また、
「山は諸仏が修行するところである」
という考えがあってもそのような考えに執着してはならない。また、
「山は仏の不思議な働きを現わしている」
という最も適切な考え方が現れても、真実はそればかりではない。それぞれの考え
はそれぞれの立場に基づいているのであって、いずれも諸仏祖が悟ったこととは異
なる狭い考え方である。
このように、物と心をわけて考えることは、釈尊の戒められたところである。心と
本質をわけて説くことは諸仏祖の求めなかったところである。まして、心や本質を表
面的に見ようとすることは、異教徒のすることである。そして、言句にこだわること
は、悟りの道ではない。
このような立場を超えることがある。それが今ここにいう
「青山が常に歩む」
「東山が水上を行く」
ということである。このことを詳しく学ぶべきである。
(「主観と客観」 「理想と現実」 「目覚めたものと迷うもの」 という対立的な
見方や、表面的な議論を否定することが、「山が歩く」ということなのである。)
(1)傍線の部分
このように、物と心をわけて考えることは、釈尊の戒められたところである。
心と本質をわけて説くことは諸仏祖の求めなかったところである。
このことの意味を、自分なりに、真剣に考えてみてください。自分自身の心と、客
観的存在である物質とは、どのような関係にあるのか。釈尊は、何を戒められたの
か。諸仏祖は、どのように説いているのか。


この 「東山が水上を行く」 ということばが、諸仏祖の悟った真実であることを知る
べきである。諸水が東山の麓に現れるから諸山が雲に乗り、天を歩むのである。諸
水の上にあるのは諸山であり、登りも下りも、ともに水上を行くのである。諸山のつ
まさきは、諸水を歩み、諸水を躍らせるから、その歩みは自由自在に修行・悟りを実
現しているのである。
( 「山が水上を行く」 ということは、我が解脱しているということにほかならない。
このことがわかれば、先覚者の境地が自由自在に理解される。)

水はもともと、強弱、湿乾、動静、冷暖、有無といった差別を超えている。固まれ
ば金剛石よりも堅く、誰もそれを破ることはできない。融ければ乳水よりも柔らかく、
誰もそれを破ることはできない。従って、水が具え現わしている性質を疑うことはで
きない。
われわれはしばらく、諸方の水をありのままに見ることを学ぶべきである。人間
や天人が水を学ぶときばかりが、学ぶときではない。水が水を見て、水を学ぶこと
がある。水が水を悟るのであるから、水が水のことを説いているのである。われわ
れはそのようにして、自己が自己にあう道を実現すべきである。他者が他者を学
び究め、それを超えていくことを学ぶべきである。
( ここにいう 「水」 とは、解脱の境地を言うのである。)
(1) 傍線部分。
水が水を見て、水を学ぶことがある。・・・・・とは、どのようなことでしょうか。そ
れにはまず、自分が水になってみることです。自分が、水と一体になってみることで
す。そこから、水が水を見て、水を学ぶことが始まります。
(2)
 以下の傍線部分で、道元禅師はさらに懇切丁寧に、足下の道を指し示していま
す。
およそ山水の見方は、見るものの種類によってさまざまに異なる。ある経典によ
れば、われわれが水と呼んでいるものが、天人たちには玉飾りに見えるという。そ
れでは天人たちは、われわれが何と思っているものを水とするのであろうか。とにか
くわれわれは、彼らが玉飾りと思っているものを水と考えているのである。また天人
たちは、水を麗しい花とみるというが、それを水として用いているわけではない。餓
鬼は水を猛火と見、濃血とみる。竜魚は水を宮殿、楼閣、宝玉とみる。あるものは
水を樹林、土塀とみる。あるいは悟りの本質とみる、真実の人体とみる。あるいは
心、姿とみる。人間はそれを水とみる。水はこのように、それぞれの立場によって、
生かしたり殺したりされるのである。
このように諸類によって見方が同じでないことを、しばらく考えてみるべきである。
一つのものを見るに、その見方が様々にあるのであろうか。それとも様々にあるも
のを、われわれが一つのものと見誤っているのであろうか。このことを繰り返し考え
てみるべきである。このように、修行悟りの道も、一つや二つではないのである。学
び究めるべきところが、様々にあることを理解しなさい。
( 同じものでも、見る立場が異なれば、別のものに見えることを知って、広い視野
で学ぶべきである。 )
更にこのことを考えてみると、たとえ諸類によって水が様々に見られるとしても、
水そのものというものはなく、また、諸類共通の水というものはないようである。しか
し水はわれわれの身心によって勝手に生じたものでもなく、行いによって生じたもの
でもなく、自己や他者によって生じたものでもない。
水はただ水でありながら、水であることを解脱しているのである。従って水は物質
的要素、色彩的要素、感覚的要素を解脱しながら、しかも物質として実現しているの
である。
従って、今のこの世界が、何によって成り立っているかを明らかにすることはむず
かしい。世界が円盤状の物質の上に乗っていると考えるのは、主観的にも客観的に
も真実ではなく、あさはかな論にすぎない。何ものかに頼らなければ安住することが
できないと思うから、そのように考えるのである。
( 解脱の立場から世界を見るならば、世界のすべての物事がなにものにも
とらわれず、ありのままの姿で実現していることを知るのである。)


ところが、竜魚が水を宮殿と見るときには、ちょうど人がこの世の宮殿を見るとき
のように、宮殿が流れるとは思わないであろう。もし傍観者がいて、
「おまえが宮殿と見ているものは実は流水なのだ」
といえば、われわれがいま
「山が流れる」
ということばを聞いて驚くように、竜魚は忽ち驚き疑うであろう。しかし中には、
「宮殿楼閣の欄干や柱がみな流水だということもありうる」
というように理解する竜魚もあろう。この道理について静かに思いをめぐらすべきで
ある。
われわれはこのようにして、対立した見方を超えることを学ばねばならない。それ
でなければ凡夫の身心を理解することができず、諸仏祖の国土、凡夫の国土、凡
夫の宮殿を正しく理解することができない。
いま人間は、海の中にあるもの、河の中にあるものが水であることを知っている
が、竜魚やそのほかのものたちが、どのようなものを水として用いているかを知らな
い。自分が水と考えているものを、どの類もみな水として用いているに違いないと、
愚かにひとりぎめしてはならない。
いま仏道を学ぶものが水について学ぶとき、人間の考えだけに止まっていてはな
らない。進んで仏道の上での水を学ぶべきである。諸仏祖が自由自在に用いてい
る水をどのように見ればよいかを学ぶべきである。先覚者の境地に水があるかない
かを学ぶべきである。
( 常識的な考えにとどまらずに、進んで解脱者の境地を学ぶべきである。)

 山は常に、すぐれた聖人たちの住居である。賢人も聖人も、ともに山を住居とし、
山を身心としている。賢人聖人によって山の真実の姿が現れるのである。およそ山
にはどれほど多くの聖賢が集まっているかと考えられるのであるが、彼らが山に入
ってからこのかた、誰も、その一人にも会ったことがないのである。ただ山の働きが
実現しているばかりであって、彼らが山に入った形跡は残っていないのである。
 世間から山を眺めるときと、山の中で山に会うときでは、山の姿は遥かに異なる。
従って、山が流れないという見方は、水が流れないという竜魚の見方と同じであっ
てはならない。人間や天人は、それぞれの世界に安住しており、それを他類が疑っ
たり疑わなかったりする。
そこでわれわれは、「山が流れる」 ということばを諸仏祖に学ぶべきである。徒に
驚きや疑いにまかせておいてはならない。同じことについて、一方は流れるといい、
一方は流れないという。あるときは流れるといい、あるときは流れないという。このこ
とを学ばなければ、仏の教えを学んだとはいえない。
 諸仏祖がいっている。
「・・・焦熱地獄へ行きたくないならば、仏の教えをそしってはならない・・・」
このことばを、身心の全てに銘記しなさい。身心の内外に銘記しなさい。形のな
いところにも、形のあるところにも銘記しなさい。あるいは木にも、石にも、田にも、
里にも銘記しなさい。
( 「山に入る」とは、解脱するということである。ひとたび解脱すれば、解脱した
あとかたさえ残らないのである。)
(1) 傍線部分・・・・・
 同じことについて、一方は流れるといい、一方は流れないという。あるときは流れ
るといい、あるときは流れないという。このことを学ばなければ、仏の教えを学んだ
とはいえない。
では...山は流れるのか、流れないのか、 いったいどっちなのだ...というよう
に、二元論的に考えてはいけないということです。山は山であり、水は水であるとい
うことです。水が水を見て、水を学ぶということをお考えください。

もともと山は国家に属しているとはいえ、山を愛する人に属している。山がその主
を愛するとき、聖賢、高徳の人は必ず山に入る。聖賢が山に住むとき、山はかれら
に属するから、樹石は繁茂し、鳥獣はすぐれている。それは聖賢たちがかれらに徳
を及ぼすからである。山が賢人聖人を好むことを知るべきである。
  帝王たちがしばしば山に行幸して、賢人を拝し聖人を拝して教えを乞うたことは、
古今の勝れた事実である。そのようなときには、帝は師礼をもって敬い、世間のしき
たりに従わない。帝の権威が山の賢人に及ぶことは全くないのである。帝たちは山
が俗界から離れていることを知っていたに違いない。
 黄帝がこうどう山に広成を訪ねた昔、帝は師を敬って膝で進み、ぬかづいて道を
問うた。また釈尊は、昔、父王の王宮を出て山に入られた。しかし父王は山を恨ま
ず、山にあって王子釈尊を導いた者達を怪しまなかった。釈尊は、十二年の修行期
間を殆ど山で過ごされ、悟りを開かれたのも山においてである。転輪王(てんりんおう
/
インド伝説の理想王) のような力を持った父王ですら、なお山に対して無理強いする
ことを
しなかったのである。
山は人間界のものでもなく、天界のものでもないことを知りなさい。人間のおしは
かりによって山を考えてはならない。人間の狭い考えに促われさえしなければ、誰も
山の流れることや、山の流れないことを疑わないであろう。
(ひとたび 「山は流れない」 という観念を打破したならば、「山は流れる」
という観念も打破しなければならない。)
また、昔から賢人聖人たちが水に住むこともある。水に住むとき、魚を釣ることも
あり、人を釣ることもあり、道を釣ることもある。いずれも水中の勝れたおもむきであ
る。更に進んでは、自己を釣ることもあろう、釣を釣ることもあろう、釣に釣られるこ
と
もあろう、道に釣られることもあろう。
昔、徳誠和尚が唐の武宗の弾圧にあって、あわただしく薬山を離れ、華亭江の
上に舟を浮かべて住んでいた時に、後に華亭江の賢聖と呼ばれた爽山(かつさん)を
弟子とした。これこそ、魚を釣ることではなかろうか、人を釣ることではなかろうか、
水を釣ることではなかろうか。爽山が徳誠に会うことができたのは、彼が自分をすて
て徳誠に学んだからである。徳誠が爽山に接したということは、彼がまことの自己
に会ったということである。
(人が人に会うということは、真実の自分に会うということである。よき師に会い、
よき後継者に会うことによって、自分の価値を生かして行くことである。)
 世界の中に水があるばかりでなく、水の中にも世界がある。水中がそうであるば
かりでなく、雲の中にも自己の世界がある。風の中にも、火の中にも、地の中にも、
存在世界の中にも、一茎の草の中にも、一本の杖の中にも、自己の世界がある。
そして自己の世界のあるところには、必ず諸仏祖の世界がある。このことを、よくよく
学ぶべきである。
(解脱者の立場から見れば、世界中の全てのものが、等しく解脱者の境地にある。)
(1) 傍線部分・・・・・
 風の中にも、火の中にも、地の中にも、存在世界の中にも、一茎の草の中にも、
一本の杖の中にも、自己の世界がある。そして自己の世界のあるところには、必ず
諸仏祖の世界がある。


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而今(にこん)の山水は、古佛の道(どう)現成(げんじょう)なり。ともに法位に住
して、究盡(ぐうじん)の功徳を成ぜり。空劫(くうこう)己前(いぜん)の消息なる
がゆゑに、而今の活計(かっけい)なり。朕兆(ちんちょう)未萌(みほう)の自己な
るゆゑに、現成の透脱なり。

道元禅師の『正法眼蔵』第二十九の「山水経」の冒頭です。『正法眼蔵』は特にむつか
しい内容の禅書ですが、右の文章も、とりわけむつかしい。禅のさとりというものは、
山、川、ただそのものです。余計な形容詞はいけません。山はただ山であって、それ以
外のものの付属は許しません。山は山そのものでそれでよし。そのほかには、本来、な
にひとつない。これが本来無一物ということです。
而今の山水は、古い古佛の道現成なりとは、目の前の、山や川は、古佛先師たちが悟っ
たそのままだということでしょう。
ともに法位に住して。山も川も、古佛先師も、ともに悟りの世界に入って。究盡の功徳
を成ぜり、とは、究めきたり究めつくして、山は山、川は川で本来無一物、余分なカス
などひとつもないとおちついたという意。
空劫目前の消息なるがゆゑに。長い長い劫というはどの昔から、山は山、川は川という
消息を残しているではありませんか。
山は昔から山。山が途中で川になったりはしません。そこに、悟りの一貫性があるとい
いたいのでしょう。
山は山、川は川であり、それが今の世も、一つも変ってはいません。ただ、人間だけが
昔から右往左往していて、一貫性がないではありませんか。しかし、この私の命そのも
のも、父母未生以前から、生きつながれてきた自己そのものであります。これを、朕兆
未萌の自己と道元禅師はいわれました。だからこそ、自分は何者なのか、一つ、坐禅し
徹底して、自己を透脱せよ、といわれたのです。
では、どのようにして、自己を透脱したらよろしいのでしょうか。それは、坐禅がもっ
ともよいといわれます。
坐禅してみると、おなかの、つまり、臍下丹田から吸うときに、気がのどのほうにのぼ
ってくることを実感するでしょう。そして吐くときに気をつけなくてはならないのは、
気そのものを元の臍下丹田に吐き、のぼってきたものを丹(はら)におしこめます。こ
れを何回もやるのが、丹錬です。
迷いや、短気なども湧いてきたら、丹におしこめる。何度も何度も、それを繰り返しま
す。そうやって、丹(はら)をかためよ、丹をつくれ、丹にしまっておけと。
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而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功を成ぜり。空劫已前
の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透なり。
山の功高廣なるをもて、乘雲の道かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透
するなり。

大陽山楷和尚示衆云、山常運歩、石女夜生兒。
山はそなはるべき功の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運
歩の功、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人
間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。

いま佛の道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辨すべし。運
歩のゆゑに常なり。山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覺不知な
り、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、
不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいま
だしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あき
らめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに山の運歩をもしるべきなり。

山すでに有にあらず、非にあらず。自己すでに有にあらず、非にあらず。いま山の運歩
を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として山を照鑑すべしとしらず。山の運歩
、および自己の運歩、あきらかに點すべきなり。退歩歩退、ともに點あるべし。
未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、點
すべし。運歩もし休することあらば、佛不出現なり。運歩もし窮極あらば、佛法不到今
日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩の
とき進歩を乖向せず。この功を山流とし、流山とす。

山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の
身心をあらためず、山の面目ながら廻途參學しきたれり。
山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見處のい
やしきゆゑに、山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおど
ろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。

しかあれば、所積の功を擧せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山
兒を生ずる時節あり、山の佛となる道理によりて、佛かくのごとく出現せるなり。
たとひ草木土石牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現
成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるる時節現成すとも、實歸にあらず。たと
ひ佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ佛不思議の功と見現
成の頂をうとも、如實これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを佛の
道業とするにあらず、一隅の管見なり。

轉境轉心は大聖の所呵なり、心性は佛の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滯言
滯句は解の道著にあらず。かくのごとくの境界を透せるあり、いはゆる山常運歩なり、
東山水上行なり。審細に參究すべし。

石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。
これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、
人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒
の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證な
りと參學すべし、究徹すべし。


雲門匡眞大師いはく、東山水上行。
この道現成の宗旨は、山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷盧
等現成せり、修證せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨
髓、修證活計に透ならん。

いま現在大宋國に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小實の撃不能なるとこ
ろなり。かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話のごときは、無理會
話なり。その意旨は、もろもろの念慮にかかはれる語話は佛の禪話にあらず。無理會話
、これ佛の語話なり。かるがゆゑに、黄檗の行棒および臨濟の擧喝、これら理會および
がたく、念慮にかかはれず、これを朕兆未萌已前の大悟とするなり。先の方便、おほく
葛藤斷句をもちゐるといふは無理會なり。

かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、參學眼なし。いふにたらざる小子
なり。宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子六群禿子おほし。あはれ
むべし、佛の大道の癈するなり。これらが所解、なほ小乘聲聞におよばず、外道よりも
おろかなり。俗にあらずにあらず、人にあらず天にあらず、學佛道の畜生よりもおろか
なり。禿子がいふ無理會話、なんぢのみ無理會なり、佛はしかあらず。なんぢに理會せ
られざればとて、佛の理會路を參學せざるべからず。

たとひ畢竟じて無理會なるべくは、なんぢがいまいふ理會もあたるべからず。
しかのごときのたぐひ、宋朝の方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれむ
べし、
かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透することをしらず。
在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。
かれらがいまの無理會の邪計なるのみなり。たれかなんぢにを
しふる、天眞の師範なしといへども、自然の外道兒なり。
しるべし、この東山水上行は佛の骨髓なり。水は東山の脚下に現成せり。このゆゑに、
山くもにのり、天をあゆむ。水の頂は山なり、向上直下の行歩、ともに水上なり。山の
脚尖よく水を行歩し、水を出せしむるゆゑに、運歩七縱八横なり、修證不無なり。


水は強弱にあらず、濕乾にあらず、動靜にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟
にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融しては乳水よ
りもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。しかあればすなはち、現成所有の功をあや
しむことあたはず。しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を參學すべし。人
天の水をみるときのみの參學にあらず、水の水をみる參學あり、水の水を修證するがゆ
ゑに。水の水を道著する參究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。他己
の他己を參徹する活路を進退すべし、跳出すべし。

おほよそ山水をみること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに瓔珞とみる
ものあり。しかあれども瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、か
れが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、花を
水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、樓
臺とみる。あるいは七寶摩尼珠とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは淨解の法性
とみる、あるいは眞實人體とみる。あるいは身相心性とみる。人間これを水とみる、殺
活の因なり。

すでに隨類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境をみるに見しなじななり
とやせん、象を一境なりと誤錯せりとやせん、功夫の頂にさらに功夫すべし。
しかあればすなはち、修證辨道も一般兩般なるべからず、究竟の境界も千種萬般な
るべきなり。さらにこの宗旨を憶想するに、類の水たとひおほしといへども、本水なき
がごとし、類の水なきがごとし。しかあれども、隨類の水、それ心によらず身によらず
、業より生ぜず、依自にあらず依他にあらず、依水の透あり。

しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は黄赤白黒等にあらず、色聲香味觸法等
にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。かくのごとくなれば、而今
の國土宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。空輪風輪にかか
れると道著する、わがまことにあらず、他のまことにあらず。小見の測度を擬議するな
り。かかれるところなくは住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。

佛言、一切法畢竟解、無有所住(一切法は畢竟解なり、所住有ること無し)。
しるべし、解にして繋縛なしといへども法住位せり。しかあるに、人間の水をみるに、
流注してとどまらざるとみる一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり。いは
ゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。一曲にもながれ、九淵に
もながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。

文子曰、水之道、上天爲雨露、下地爲江河(水の道、天に上りては雨露を爲す。地に下
りては江河を爲す)。
いま俗のいふところ、なほかくのごとし。佛の兒孫と稱ぜんともがら、俗よりもくらか
らんは、もともはづべし。いはく、水の道は水の所知覺にあらざれども、水よく現行す
。水の不知覺にあらざれども、水よく現行するなり。
上天爲雨露といふ、しるべし、水はいくそばくの上天上方へものぼりて雨露をなすなり
。雨露は世界にしたがふてしなじななり。水のいたらざるところあるといふは小乘聲聞
經なり、あるいは外道の邪なり。水は火焔裏にもいたるなり、心念思量分別裏にもいた
るなり、覺知佛性裏にもいたるなり。

下地爲江河。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。江河のよく賢人となる。
いま凡愚庸流のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。しかにはあらず
、水のなかに江海をなせり。しかあれば、江海ならぬところにも水はあり、水の下地す
るとき、江海の功をなすのみなり。

また、水の江海をなしつるところなれば世界あるべからず、佛土あるべからずと學すべ
からず。一滴のなかにも無量の佛國土現成なり。しかあれば、佛土のなかに水あるにあ
らず、水裏に佛土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかかはれず、法界にかかはれ
ず。しかも、かくのごとくなりといへども、水現成の公案なり。

佛のいたるところには水かならずいたる。水のいたるところ、佛かならず現成するなり
。これによりて、佛かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。
しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外の典籍にあらず。水之道は、
上下縱横に通達するなり。しかあるに、佛經のなかに、火風は上にのぼり、地水は下に
くだる。この上下は、參學するところあり。いはゆる佛道の上下を參學するなり。

いはゆる地水のゆくところを下とするなり。下を地水のゆくところとするにあらず。火
風の
ゆくところは上なり。法界かならずしも上下四維の量にかかはるべからざれども、四大
五大六大等の行處によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。無想天はかみ、阿
鼻獄はしもとせるにあらず。阿鼻も盡法界なり、無想も盡法界なり。
しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし、さらにな
がれゆくと知見すべからず。もし傍觀ありて、なんぢが宮殿は流水なりと爲せんときは
、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。さら
に宮殿樓閣の欄露柱は、かくのごとくの著ありと保任することもあらん。

この料理、しづかにおもひきたり、おもひもてゆくべし。この邊表に透を學せざれば、
凡夫の身心を解せるにあらず、佛の國土を究盡せるにあらず。凡夫の國土を究盡せる
にあらず、凡夫の宮殿を究盡せるにあらず。
いま人間には、海のこころ、江のこころを、ふかく水と知見せりといへども、龍魚等、
いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見す
るを、いづれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。いま學佛のともがら、
水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。
すすみて佛道のみづを參學すべし。佛のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか
所見すると參學すべきなり、佛の屋裏また水ありや水なしやと參學すべきなり。


山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり
。賢人聖人によりて山は現成せるなり。おほよそ山は、いくそばくの大聖大賢いりあつ
まれるらんとおぼゆれども、山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり
。ただ山の活計の現成するのみなり、さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。

世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂眼睛はるかにことなり。
不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一齊なるべからず。人天の自界にところ
をうる、他類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。しかあれば、山流の句を佛に學
すべし、
驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり、拈一はこれ不流なり。一囘は流なり、一囘
は
不流なり。この參究なきがごときは、如來正法輪にあらず。

古佛いはく、欲得不招無間業、莫謗如來正法輪(無間の業を招かざることを得んと欲は
ば、、如來正法輪を謗ずること莫れ)。
この道を、皮肉骨髓に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘ずべし。
若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。

おほよそ山は國界に屬せりといへども、山を愛する人に屬するなり。山かならず主を愛
するとき、聖賢高やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに屬するがゆゑに、
樹石鬱茂なり、禽獸靈秀なり。これ聖賢のをかうぶらしむるゆゑなり。しるべし、山は
賢をこのむ實あり、聖をこのむ實あり。

帝者おほく山に幸して賢人を拜し、大聖を拜問するは、古今の勝躅なり。このとき、師
禮をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。聖化のおよぶところ、またく山賢を強
爲することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。華封のそのかみ、黄帝これ
を拜するに、膝行して廣成にとふしなり。釋牟尼佛かつて父王の宮をいでて山へいれり
。しかあれども、父王やまをうらみず、父王やまにありて太子ををしふるともがらをあ
やしまず。十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ
山を強爲せず。

しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず、人慮の
測度をもて山を知見すべからず。もし人間の流に比準せずは、たれか山流山不流等を疑
著せん。

あるいはむかしよりの賢人聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり
、人をつるあり、道をつるあり。これともに古來水中の風流なり。さらにすすみて自己
をつるあるべし、釣をつるあるべし、釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。
むかし誠和尚、たちまちに藥山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭江の賢聖をえた
るなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざ
らんや。

人の誠をみることをうるは、誠なり。誠の人を接するは、人にあふなり。
世界に水ありいふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあら
ず、雲中にも有世界あり、風中にも有世界あり、火中にも有世界あり、地中にも有世界
あり。法界中にも有世界あり、一莖草中にも有世界あり、一杖中にも有世界あり。有世
界あるがごときは、そのところかならず佛世界あり。かくのごとくの道理、よくよく參
學すべし。

しかあれば、水はこれ眞龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のこと
ば、水を謗ずるなり。たとへば非流と強爲するがゆゑに。水は水の如是實相のみなり、
水是水功なり、流にあらず。一水の流を參究し、不流を參究するに、萬法の究盡たちま
ちに現成するなり。

山も寶にかくるる山あり、澤にかくるる山あり、空にかくるる山あり、山にかくるる山
あり、藏に藏山する參學あり。
古佛云、山是山水是水。
この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やま
を參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。
かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。

正法眼藏山水經第二十九

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