2016年9月16日金曜日

元号と西暦

645年=大化元年 藤原鎌足ら蘇我入鹿暗殺
650年=白薙元年 663年.白村江の戦
686年=朱鳥元年 672年.壬申の乱        ↓
701年=大宝元年 694年.藤原京        1125年=天治元年
704年=慶雲元年               1126年=大治元年
708年=和銅元年 710年.平城京        1131年=天承元年
715年=霊亀元年               1132年=長承元年
717年=養老元年               1135年=保延元年
724年=神亀元年               1141年=永治元年
729年=天平元年               1142年=康治元年
749年=天平勝宝元年 751年.カロリング朝   1144年=天養元年
757年=天平宝字元年             1145年=久安元年
765年=天平神護元年             1151年=仁平元年
767年=神護景雲元年             1154年=久寿元年
770年=宝亀元年               1156年=保元元年
781年=天応元年               1159年=平治元年 1159年.平治の乱
782年=延暦元年 794年.平安京        1160年=永暦元年
806年=大同元年               1161年=応保元年
810年=弘仁元年               1163年=長寛元年
824年=天長元年               1165年=永万元年
834年=承和元年 835.年空海没        1166年=仁安元年
848年=嘉祥元年               1168年=嘉応元年
851年=仁寿元年               1171年=承安元年
854年=斉衡元年               1175年=安元元年
857年=天安元年               1177年=治承元年
859年=貞観元年               1181年=養和元年
877年=元慶元年               1182年=寿永元年
885年=仁和元年               1186年=文治元年
889年=寛平元年               1190年=建久元年 1192年.鎌倉幕府
898年=昌秦元年               1199年=正治元年
901年=延喜元年               1201年=建仁元年
923年=延長元年               1204年=元久元年
931年=承平元年               1206年=建永元年
938年=天慶元年               1207年=承元元年
947年=天暦元年               1211年=建暦元年
957年=天徳元年               1213年=建保元年 1215年.マグナカルタ
961年=応和元年 962年.神聖ローマ帝国    1219年=承久元年
964年=康保元年               1222年=貞応元年
968年=安和元年               1224年=元仁元年
970年=天禄元年               1225年=嘉禄元年
973年=天延元年               1227年=安貞元年
976年=貞元元年               1229年=寛喜元年
978年=天元元年               1232年=貞永元年
983年=永観元年               1233年=天福元年
985年=寛和元年               1234年=文暦元年
987年=永延元年               1235年=嘉禎元年
995年=永祚元年               1238年=暦仁元年
990年=正暦元年               1239年=延応元年
995年=長徳元年               1240年=仁治元年
999年=長保元年               1243年=寛元元年
1004年=寛弘元年              1247年=宝治元年
1012年=長和元年              1249年=建長元年
1017年=寛仁元年              1256年=康元元年
1021年=治安元年              1257年=正嘉元年
1024年=万寿元年              1259年=正元元年
1028年=長元元年              1260年=文応元年
1037年=長暦元年              1261年=弘長元年
1040年=長久元年              1264年=文永元年 1274年.元寇
1044年=寛徳元年              1275年=建治元年
1046年=永承元年              1278年=弘安元年 1281年.元寇2
1053年=天喜元年              1288年=正応元年
1058年=康平元年              1293年=永仁元年
1065年=治暦元年              1299年=正安元年 1299年.オスマントルコ
1069年=延久元年              1302年=乾元元年
1074年=承保元年              1303年=嘉元元年
1077年=承暦元年 1077年.カノッサ事件   1306年=徳治元年
1081年=永保元年              1308年=延慶元年
1084年=応徳元年              1311年=応長元年
1087年=寛治元年              1312年=正和元年
1094年=嘉保元年              1317年=文保元年
1096年=永長元年 1096年.第一回十字軍   1319年=元応元年
1097年=承徳元年              1321年=元亨元年
1099年=康和元年              1324年=正中元年 1324年.マルコポーロ没
1104年=長治元年              1326年=嘉暦元年
1106年=嘉承元年              1329年=元徳元年
1108年=天仁元年              1331年=元弘元年 1333年.鎌倉幕府滅亡
1110年=天永元年              1334年=建武元年
1113年=永久元年              1336年=延元元年 1337年~百年戦争
1118年=元永元年              1340年=興国元年 1338年.南北朝時代~
1120年=保安元年              1346年=正平元年 1368年.明成立
       →               1370年=建徳元年
                       1372年=文中元年
                       1375年=天授元年
                       1381年=弘和元年
                       1385年=元中元年
                       1393年=明徳元年 1392年.李氏朝鮮
                       1394年=応永元年 1392年.室町幕府
                       ↓ 

1400年=応永7年  1400年頃.グーテンベルク生
1428年=応永35年
1428年=正長元年
1429年=正長2年
1429年=永享元年  1431年.ジャンヌダルク処刑、1432年.太田道灌生、北条早雲生
1441年=永享13年
1441年=嘉吉元年
1444年=嘉吉4年
1444年=文安元年
1449年=文安6年
1449年=宝徳元年
1452年=宝徳4年  1453年.百年戦争終結
1452年=享徳元年  1451年.コロンブス生、1452年.ダヴィンチ生
1455年=享徳4年
1455年=康正元年  1455年~ばら戦争
1457年=康正3年
1457年=長禄元年
1460年=長禄4年
1460年=寛正元年
1466年=寛正7年
1466年=文正元年
1467年=文正2年  1467年.応仁の乱始まる
1467年=応仁元年  1468年.グーテンベルク没
1469年=応仁3年
1469年=文明元年  1483年.ルター生、1486年.太田道灌没
1487年=文明19年
1487年=長享元年
1489年=長享3年
1489年=延徳元年  1488年.ディアズ喜望峰到達
1492年=延徳4年  1492年.イスラムを駆逐しスペイン統一
1492年=明応元年  1494年.斉藤道三生、1497年.毛利元就生
1500年=明応9年  1498年.ガマのカリカット到達
1501年=明応10年
1501年=文亀元年
1504年=文亀4年  1506年.コロンブス没、1517年.宗教改革始まる
1504年=永正元年  1519年.ダヴィンチ没、1519年.北条早雲没、今川義元生
1521年=永正18年  1522年.マゼラン部下世界一周
1521年=大永元年  1521年.武田信玄生、1522年.三好長慶生、1526年.蜂須賀小六生
1528年=大永8年  1524年.ドイツ農民戦争
1528年=享禄元年  1530年.上杉謙信生
1532年=享禄5年
1532年=天文元年  1534年.織田信長生、1536年.豊臣秀吉生、1542年.徳川家康生
1555年=天文24年  1543年.鉄砲伝来、1546年.ルター没、1549年.ザビエル来日
1555年=弘治元年  1556年.斉藤道三没
1558年=弘治4年  1564年.シェークスピア生
1558年=永禄元年  1560年.今川義元没、1564年.三好長慶没
1570年=永禄13年  1562年~1598年.フランスユグノー戦争
1570年=元亀元年  1571年.毛利元就没、1573年.武田信玄没、室町幕府滅亡
1573年=元亀4年  
安土桃山時代
1573年=天正元年  1578年.上杉謙信没、1582年.本能寺の変、1586年.蜂須賀小六没
1592年=天正20年  1581年.オランダがスペインから独立、1590年.秀吉天下統一
1592年=文禄元年  1588年.スペイン無敵艦隊イギリス海軍に敗れる
1596年=文禄5年  1592,1597年朝鮮出兵
1596年=慶長元年  1598年.豊臣秀吉没
1600年=慶長5年  1603年.江戸幕府
1615年=慶長20年  1614年.大阪冬の陣、1615年.大阪夏の陣
江戸時代
1615年=元和元年  1616年.徳川家康没、1618年.ドイツ30年戦争勃発
1624年=元和十年  1616年.シェークスピア没
1624年=寛永元年  
1644年=寛永21年  1644年.明滅亡
1644年=正保元年  1643年.類4世生、1644年.松尾芭蕉生
1648年=正保5年  1648年.ウェストファリア条約
1648年=慶安元年
1652年=慶安5年
1652年=承応元年
1655年=承応3年
1655年=明暦元年  
1658年=明暦4年
1658年=万治元年
1661年=万治4年
1661年=寛文元年  1661年.清中国統一
1673年=寛文13年
1673年=延宝元年
1681年=延宝8年
1681年=天和元年
1684年=天和3年
1684年=貞享元年  1685年.バッハ生
1688年=貞享4年  1688年.イギリス名誉革命
1688年=元禄元年  1694年.松尾芭蕉没
1700年=元禄12年
1704年=元禄16年
1704年=宝永元年
1711年=宝永8年
1711年=正徳元年  1715年.類4世没
1716年=正徳6年
1716年=享保元年  1716年.徳川吉宗8代将軍就任
1736年=享保21年  1724年.カント生
1736年=元文元年  1740年.マリア・テレジア生、フリードリヒ大王生
1741年=元文6年  1740~48年.オーストリア相続戦争
1741年=寛保元年
1744年=寛保4年
1744年=延享元年
1748年=延享5年
1748年=寛延元年  1750年.バッハ没
1751年=寛延3年  1756~63年.オーストリアプロシア七年戦争
1751年=宝暦元年  1756年.モーツアルト生、1760年.葛飾北斎生
1764年=宝暦13年
1764年=明和元年  1769年.ナポレオン生
1772年=明和9年  1776年.アメリカ独立宣言
1772年=安永元年  1780年.マリア・テレジア没
1781年=安永9年  1786年.フリードリヒ大王没
1781年=天明元年
1789年=天明9年  1789年.フランス革命
1789年=寛政元年  1791年.モーツアルト没
1800年=寛政11年
1801年=寛政12年
1801年=享和元年
1804年=享和4年  1804年.カント没
1804年=文化元年  1814年.ウィーン会議
1818年=文化15年
1818年=文政元年  1821年.ナポレオン没、1825年.スチブンソン汽車
1830年=文政13年
1830年=天保元年  1830年.西郷隆盛生、1840年.アヘン戦争
1844年=天保14年
1844年=弘化元年
1848年=弘化4年  1853年.ゴッホ生、クリミア戦争
1848年=嘉永元年  1849年.葛飾北斎没、1853年.ペリー来航、
1854年=嘉永7年
1854年=安政元年  1857年.セポイの反乱
1860年=安政6年
1860年=万延元年
1861年=万延元年
1861年=文久元年  1863年.リンカーン奴隷解放令
1864年=文久4年
1864年=元治元年
1865年=元治2年
1865年=慶応元年  1867年.ええじゃないか
1868年=慶応4年  1866年.版籍奉還、1868年.戊辰戦争
それ以降
1868年=明治元年  1871年.廃藩置県、1877年.西郷隆盛没、1879年.沖縄県強制設置
1900年=明治33年  1871年.パリ・コミューン
1912年=明治45年  1890年.ゴッホ没
1912年=大正元年  1914年.第一次世界大戦勃発
1926年=大正15年  1917年.ロシア革命
1926年=昭和元年  1947年.日本国憲法施行
1989年=昭和64年
1989年=平成元年
2000年=平成12年
2009年=(=`(∞)´=)

なお、旧暦は一ヶ月程遅くずれているので、西暦と元号が一部合わない
所もあります。例えば、旧暦の12月は西暦の翌年の1月になっているので、
その間に元号の変更があった場合は、西暦の方に合わせてあります。

2016年9月12日月曜日

坐禅儀

http://www.teishoin.net/zazen/zazengi.html

「思量 箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の要術なり。坐禅は修禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり」
 この巻は「寛元元年十一月越前吉田郡吉峰寺にて説示」とあります。この巻は坐禅について具体的にその儀規について説かれたものであります。この一節の意味はおよそ坐禅をするとき心に思うことは、それはあれこれと考え巡らす以前の心境、有無の差別観を超越した境地を現成することであります。そのような境地とはどのようにして達成するのかといえば、妄想雑念を離れ、身心脱落して、本来の自己を現成することである。これがすなわち坐禅の心構えであります。坐禅というのは、悟りを得るための手段として、訓練修行するものではありません。それはそのままが大安楽、つまり涅槃、寂静、解脱そのものであります。なんのまじりけもなき修行であり、それが証そのものであります。


坐禅儀の所作

參禪は坐禪なり。
坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、
雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。
かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれら
みな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、
晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。

諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。
心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、
坐臥を脱落すべし。

飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪
をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。

坐禪のとき、袈裟をかくべし、蒲團をしくべし。蒲團は全跏にしく
にはあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。しかあれば、
累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。
これ佛佛祖祖の坐禪のとき坐する法なり。

あるいは半跏趺坐し、あるいは結果趺坐す。結果趺坐は、みぎのあし
をひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。
あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。
半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。
 衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。
左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。
兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。
ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし。


 正法眼蔵九十五巻の中には坐禅についての巻が数巻あります。例えば坐禅儀の他に坐禅箴・弁道話・三昧王三昧・自証三昧などがそれであります。また、普勧坐禅儀・学道用心集なども坐禅についての道元さまのお考えを述べられたものであります。道元さまは坐禅箴の中で正しい坐禅について中国の薬山禅師を紹介し、坐禅の本旨を次のように説いておられます。それは薬山禅師が坐禅をしておられた時、(ある僧が「あなたは山のように不動の姿で坐禅をしておられますが、今何を心にお考えでしょうか」とたずねました。すると薬山禅師は「何も考えていない」と答えられました。そごで僧がさらに「では何も考えないとはどうゆうことですか」とたずねました。薬山禅師は「それはあれこれと考えることを超越した境地である」と答えられました)というのであります。道元さまは「坐禅は非思量、即ち思量、情識を超越した解脱の境地である」と説いておられます。悟りを得た禅僧は坐禅中に、例えば物音がするといたします。すると当然その物音を耳に感じます。それは普通の人と全く同じ感覚器官の働きであります。しかし、普通の人と異なることは、次の瞬間にはまた以前の静寂な状態にもどります。つまり心の動揺が全く無いのであります。脈拍の乱れもありません。心の平安が常に保たれているのであります。そして悟りを得た人は、中国の永嘉禅師が悟りの境地をうたわれた「証道歌」にもありますように「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静、体安然、縦ひ鋒刀に遭うとも常に坦々、・・」の境地であります。つまり悟りを得た人は行住坐臥すべて正しい坐禅の境地であって、お釈迦様が悟られた如来禅そのものであり、絶対無為の大人格、絶学無為の閑道人の境地であります。身心一如という言葉がありますが、形だけは正しい坐禅であっても、悟りを目的とした坐禅は真実の坐禅ではありません。真実の坐禅は「作仏をはかることなかれ」、仏となることを目的としてはならないのであります。坐禅そのものが修行であり、坐禅そのものが証であります。修証一如とはこのようなことであり、心が肝心であります。坐禅は作仏を求めない行仏の体現であります。自己が坐禅になり、坐禅が自己になることであります。坐禅と自己が融合一体になることであります。
 坐禅の真髄で私たちは日常生活を送りたいものであります。花の心になって花をつくる。お米の心になってお米をつくる。そこには何の邪念もなく、花を生かすこと、お米を生かすことでもあります。この境地は般若心経の心でもあります。そして禅の真髄でもあります。一日一時でもお仏壇に線香一本を真っ直ぐに立て背筋を真っ直ぐにして、心静かに坐り自己を見つめ直すことが大切であります。

2016年9月7日水曜日

恁麼(いんも)

ここにいわれているところは、「人が本来のままの事象を理解しようとおもうならば、
当然この物は本来の人である。すでにこの者は本来人である。どうして己がありのまま
であることを愁うことがあろうか」である。この趣旨は人が翻然と無常の覚りを願い
有無の世界、現象の世界を超越し透脱したいと願うことを、ここでは「恁麼」の言葉
によって開示している。

ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)
をしたおかげである!
そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。
なんとか 道得なり?

04
「そのような事象」が「そのよう」であるのも、驚くに当たらない。たとえ驚き怪しま
れる
ような「そのよう」があろうとも、それもまた「そのよう」であるほかはない。
驚くには当たらない事象としての「そのよう」もあるのだ。こうした事象は覚りによっ
て
推量されるものではない、心の作用によってすいりょうされるものではない、現象とし
て
推量されるものではない、現実世界によって推量されるものではない、ただまさに
「本来人は恁麼人である、どうして愁えることがあろう、人はどのようであれ普遍の
理法を備えている何ものかである、何事も理法の中にある作用である何事である、
何の愁えることがあろうか」である。


恁麼 【心経と西洋哲学】

「恁麼物恁麼来(いんもぶついんもらい) 平成20年2月2日追補 

仏教が哲学であることは松岡正剛氏も千夜千冊で 述べておられる。
松岡正剛 千夜千冊 道元 「正法眼蔵」
第九百八十八夜【0988】04年6月9日 
道元にアランやハイデガーやベルグソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、
ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、・・・
・・。
さて、ここで正法眼蔵の各巻についての簡単な解説があるのだが、そのなかに
十 七「恁麼」。「いんも」と訓む。「そのような、そのように、どのように」という
ようなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁
麼なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁
麼あるなり」というふうに。
とのコメントがある。さらに
訳注 増谷文雄 正法眼蔵 「恁麼」の開題には
「恁麼」という言葉は、よく知られているように、禅門の人々が好んで口にし、筆にす
るところのものである。そのことばは、もと宋代の俗語にいずるところであって、・・
・。俗語の意味としては「このような」とか、「このとおり」とか、そのとおり」とか
いうことであり、それが形容詞にも、名詞にも、また疑問詞にも用いられているようで
ある。だから、試みに「恁麼物恁麼来」なる句を、和文でも俗語風に訳して
みるならば、「こげん物がどげんして来よったのじゃ」といった具合にもなろうと
いうものである。
では、いったい、そんな俗語に託して、禅門の人々がいわんとするところは
何であるか。
それは、はなはだ微妙であって、ずばりということは難しい。いま、道元がこの一巻を
もって語ろうとしていることも、その微妙なる意味を、なにとぞして説かんとするので
ある。
とかかれている。この「恁麼」なることばはかなりのくせものである。
一つにいかで「恁麼」なるほどの粗野な言いようをするのかということ。
二つには 多様なそのもちいかたである。
恁麼の「それ・これ」は何を示すのか?

いくつかの恁麼の用例をみてみると「そげんこつ」はどうも
「無上菩提上(むじょうぼだいじょう)」の 諸々の在り様 いわゆる「陀羅尼・真言
あるいは諸法」など をさし示していると見取される。なれば
禅門の恁麼人といえども 「そげんこつ」を問著せん! とするとき、
いささかなりとも「間接的な表現」を取らざるを得まい。「陀羅尼・真言あるいは諸法
」などなどは あからさまに問著されるものではあるまい。
恁麼とは「縁起なるもの」の代名詞ではないか?
ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)
をしたおかげである!
そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。
なんとか 道得なり?
旧タイトル 心経と西洋哲学
放送大学の共通科目 「現代を生きる哲学」 を拝聴した。
「哲学」の講義を受けたのははるか遠い昔である。教養課程の一単位として哲学を選択
したものの、その難解な言葉に恐れおののいたことだけ 記憶に残っている。
しかし今回の講義を「般若心経」と読み比べてみると、あまりにも類似していることに
驚嘆する。
ヘラクレイトスの言葉といわれる「万物は流転する」は 仏教の根本思想である「無常
=恒常であるものは無い」の肯定的表現であり、カントの超越論的または先験的理性と
はアーラヤ識・マナ識といった唯識に通ずるものであろう。
「色即是空」とはフッサールにおける「主観・客観を融合した意識流、(色空本より不
二なり=空海)」であり 、
「不垢不淨」はライプニッツのモナード論「予定調和」になろう。
「不増不減」はエネルギー保存の法則であり、
マッハにおける時間空間の関数的見解は八不の「不来不去」を思い起こさせる。
「諸法空相」はボームの「顕然秩序・内蔵秩序」そのもののようである。
なんて事だ!「心経」の266文字のうちに、コントの総てが包含されている。
しかしこれはあくまで「是故空中無色・・・・」 を
「これゆえ空のなかは無・・・・」と読む「漢文の読み方」ではなく、
「これゆえ空は中である。無・・・・」と読解した帰結である。
羯諦  羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶!



(十六)【本文】冀こいねがわくは其れ参学の高流こうる 久しく摸象もぞうに習つて
真龍を恠あやしむこと勿れ。 直指じきし端的の道に精進し、絶学無為むいの人を尊貴
そんきし、仏ぶつ仏の菩提に合沓がっとうし、祖そ祖の三昧ざんまいを嫡嗣てきしせよ
。 久しく恁麼いんもなることを為なさば須く是れ恁麼なるべし。 宝蔵ほうぞう自ら開
ひらけて受用じゅよう如意にょいならん。

【意訳】 どうか、「参学の高流」即ち仏道を学ぶ修行者の方々に、お願いしたいもの
だ。これからもずっと、「摸象に習って」即ち迷悟・喜怒哀楽など一時の生命活動の表
情・景色に振り回されずに、自我意識発現以前の生命本来の尽十方界真実(人体)を実
践していただきたい。また「真龍を恠しむこと勿れ」即ち自分が理想とするさとりを得
ようとするような自己満足追求を放棄して、本来の尽十方界真実(真の悟)を実修実証
してもらいたい。
そして「直指端的の道」即ち尽十方界真実の実践そのものである只管打坐の坐禅を努め
励むと共に、「絶学無為の人」即ち仏(尽十方界真実人体)を尊重し、「仏仏の菩提」
即ち全ての真実実践者の真実の修行生活に、自らを「合沓」即ち重ね合わせ、「祖祖」
即ち歴代の仏祖方(仏と祖師)の「三昧」即ち正伝の坐禅を正しく受け継いでもらいた
い。 とこしえに、「恁麼なること」即ち尽十方界真実の実践(坐禅)に徹するならば
、まさに「恁麼」即ち仏(尽十方界真実人体)が実際に実現しているであろう。
そしてその時、「宝蔵」即ち我々にとって最高の宝である身体本来の生命活動により、
「受用如意」即ち自我意識が支配する人生(人間生活)は棚上げされて、誰でも自我(
人間生活)に伴う行き詰まりが自然に無くなっているのである。

2016年9月3日土曜日

礼拝得髄

【定義】

①師の下で参学し、誠を尽くして礼拝するところに、得髄=仏法を得るということ。二
祖慧可大師の得法に基づく語。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では8巻、75巻本では28巻。なお、95巻
本に収録されている28巻本系統は、仁治元年(1240)冬節前日に興聖寺で記され、75巻
本系統は延応2年(1240)清明日に興聖寺にて記されている。ただし、現在では本来28
巻本の方が下書きとしてあったものを、75巻本では省略して途中までのものを収録した
とされている。真実を得られた方々がつくられた結界の土地に一度でも足を踏み入れた
者は、どの様な
人でも釈尊の与える恵みを受け取るのである。それは戒律を犯すことのできない恵みで
あり、浄い状態を得るところの恵みである。その様にしてつくられた結界と言うものは
、ほんの一部の地域を結界として定めたとしても、すぐさま宇宙全体がすべて結界にな
るのである。また一部の重要なところを結界として定めることにより、宇宙全体が結界
となるのである。

この「礼拝得髄」の巻では、
女性であれ、あるいは老人であれ、子供であれ、真実を得た人は真実を得たと言うこと
の
ために尊敬せられるべきであり、また尊敬すべきであるということを繰り返し述べてお
られる。特にその中心は道元禅師の持っておられた女性観。この女性観を通して拝読し
てみると、実に徹底した男女平等の思想。男女平等ということは、昭和二十年以降しき
りに唱えられて、一所懸命そうしようと思って各人が考えているわけだけれども、心の
中ではなかなか完全に平等という信念に徹している人ばかりではない。


ある場合には水によって結界をつくり、ある場合には心の中だけで結界をつくる。ある
場合には空間を定めてそれを結界とすることもあり、そのやり方は師匠から弟子へと代
々言い伝えてきたやり方と言うものを知って行うべきである。そして結界をつくる時に
は、洒水を行った後、仏に対しての礼拝を終わり、さらに地域を浄めたうえで、「この
我々が住んでいる一切の世界と言うものが、何らかの作為なしにきわめて自然に結界と
なってすでに浄いものになった」と唱えるのである。この事を日ごろから「結界」と言
葉を口にして女性を立ち入らせない先輩達は知っているかどうか。思うにあなた方は結
界をつくることによって、宇宙全体が結界となってしまうということを知らないのであ
る。

結局あなた方は、理屈を唱えて仏道を勉強しようとしている人々の教えに騙されて、ほ
んのわずかの狭い地域というものを大きな偉大な世界だと考えるに過ぎない。願わくば
日頃の迷いや酔いが早く醒めて、真実を体得された方々の偉大な世界を踏み外す事のな
いことを。釈尊が全ての人々を救われると言うことの趣旨は、あれは救うけれどもこれ
は救わないと言う事ではない。男性は救うけれども女性は救わないと言う事ではない。
生きとし生けるもの誰でもが釈尊の教化を受けると言う性質を知って、それを礼拝し、
それを敬うべきである。この様にして釈尊の救いというものを礼拝し恭敬するならば、
誰がこれを釈尊の教えの真髄を得た人と言わない事があろう。
     
              「正法眼蔵礼拝得髄」
              1239年 清明の日(春分後15日にあたる日)  
              観音導利興聖宝林寺においてこれを書き記した。

※西嶋先生の話
以上が「礼拝得髄」の巻の全体ということになるわけ。この「礼拝得髄」の巻では、女
性であれ、あるいは老人であれ、子供であれ、真実を得た人は真実を得たと言うことの
ために尊敬せられるべきであり、また尊敬すべきであるということを繰り返し述べてお
られる。特にその中心は道元禅師の持っておられた女性観。この女性観を通して拝読し
てみると、実に徹底した男女平等の思想。男女平等ということは、昭和二十年以降しき
りに唱えられて、一所懸命そうしようと思って各人が考えているわけだけれども、心の
中ではなかなか完全に平等という信念に徹している人ばかりではない。

そんなことを言ったってちょっと違うんだというふうな事を考えがちだけれども、七百
年、八百年以前に道元禅師が持っておられた思想と言うのは徹底して平等ということを
考えておられた。仏道の立場からそういうことを考えておられたということは、この「
礼拝得髄」の巻を読むと非常にはっきりする。この様な男女平等観と言うものを持って
おられた方と言うのは、過去においては非常に少ないんではないか。これ程徹底して男
女平等ということを説かれた方と言うのは、おそらく道元禅師以外には過去においては
きわめて少ないのではないかというふうに感じられる。

・「礼拝得髄」の巻き:

 「究極の悟りを修業するときには、指導の師を得ることが、特に難しい。その師とは
、男女に関わらず、大丈夫たるべきだ。既に指導の師に遭遇したからには、一切の係わ
り合いを捨てて、わずかな時間でも無駄にすごさず、精進して仏道を明らかにすべきだ
。あたかも頭に付いた火を払うように、又、足を爪立てて待ち望むように、寸暇を惜し
んで学ぶべきである。
 仏祖の真髄を得て、仏法を伝えることは、必ず至誠の心により、信心による。いささ
かでも法よりも我が身を省みることが重いときは、法は決して伝わらないし、仏道も得
られない。
 たとえ相手が野原に立っている棒くいであろうと、灯篭であろうと、諸仏であっても
、野狐であっても、鬼神であっても、男であっても女であっても、若し大法を保持して
、その真髄を得た者であれば、我が身心をその方の御座となして、どこまでも奉仕すべ
きである。身心を得るは易い。だが仏法に巡り会うことは難い。

 シャカ仏は述べた。「究極の悟りを説き示す師匠に巡り会おうと思うなら、その人の
家柄にこだわってはならぬ。風貌も見てはならぬ。欠点を嫌っては成らぬ。行為を考え
ては成らぬ。只仏法の智恵を尊重するがために、日々の食事に百千両の黄金を尽くすべ
きだ。天上の食事を贈って供養すべきだ。日々に、朝昼夜の3時に、礼拝し恭敬して、
決して煩わしいと思う心を発しては成らぬ。そうすれば悟りの道は必ず実現する。私は
菩提心を起こしてよりこの方、この様に修業して、今日究極の悟りを得たのである」と
。そういう訳であるから、樹や石も仏法を説いてくれるようにと願うべきである。
 妙信尼は、仰山慧寂の弟子だった。仰山が、会計や渉外の役僧を選ぶにあたり、誰が
適任かを古参僧や・役職経験者に広く尋ねた。仰山は遂に、「妙信尼は女人ではあるが
、大丈夫の志気をもっている。まさしくこの役の適任者だ」といった。僧衆は皆これを
了承したと言う。
 妙信尼がその職にあるとき、蜀の国の僧17人が仰山の下へ行こうとして、たまたま
妙信尼の院で宿を取った。休息中、6祖慧能の「風・幡」(はたが揺れるのは、はたが
揺れているのか、風が揺れているのか、それともそう見る人間の心が揺れているのか)
が話題になった。ところが17人のめいめい言うのが、皆道にかなっていない。その時
妙信尼は壁の外から言った。「17頭のめくらロバよ、惜しいことにどれ程の草鞋を履き
潰したか。仏法は未だ夢にもご存じない」
 僧たちは自分達の至らないことを恥じ、衣服を整え、院主(妙信尼)を礼拝して尋ね
た。院主は「これは風が動くのでもない、幡(はた)が動くのでもない、心が動くので
もない」といった。17人ははっと気付き、そこで礼を述べ、師弟の礼をとった。17人は
直ちに蜀に帰り、仰山の所へは行かなかったと言う。

 現在、大宋国の寺院には比丘尼の修業している者が居り、その尼僧が得法すると、官
より尼寺の住職になるようにとの詔が下りる。すると尼僧はその寺で説法する。すると
衆僧が皆参集し、立ったまま説法を聞く。これが昔からの決まりだ。
 得法したからには、1人の真実の仏であるから、最早昔の誰それという気持ちで相ま
みえては成らぬ。
 甚だしい愚か者が思うことは、女人は淫欲の対象であると言う考え方を改めずに女人
を見ることだ。仏教者はそうであってはならない。淫欲の対称になるからと忌むならば
、全ての男子もまた忌むべきであることになる。昔、唐の時代に、愚かな僧がいて、「
一生涯、女人を見まい」と決めた人がいたと言う。この様な願は一体何の道理によるの
だろうか?女人に何のとががあるというのか?男子に何の徳が有るのか?男子にも悪人
はいるし、女人にも善人はいる。女人で悟りを開く人がいて、その説法を聞けなくなっ
たらどうするのだ?」
(「礼拝得髄」の巻終わる)


礼拝得髄 

【定義】

①師の下で参学し、誠を尽くして礼拝するところに、得髄=仏法を得るということ。二
祖慧可大師の得法に基づく語。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では8巻、75巻本では28巻。なお、95巻
本に収録されている28巻本系統は、仁治元年(1240)冬節前日に興聖寺で記され、75巻
本系統は延応2年(1240)清明日に興聖寺にて記されている。ただし、現在では本来28
巻本の方が下書きとしてあったものを、75巻本では省略して途中までのものを収録した
とされている。

【内容】

①この得髄とは達磨大師から慧可大師に附法した事実が典拠になっている。
第二十八祖、門人に謂て曰く、「時将に至りなんとす、汝等盍ぞ所得を言はざるや」。
時に門人道副曰く、我が今の所見の如きは、文字を執せず、文字を離れず、しかも道用
をなす」。祖云、「汝、吾が皮を得たり」。尼総持曰、「我が今の所解の如きは、慶喜
の阿?仏国を見しに、一見して更に再見せざりしが如し」。祖云、「汝、吾が肉を得た
り」。道育曰、「四大本空なり、五蘊有にあらず、しかも我が見処は、一法として得べ
き無し」。祖云、「汝、吾が骨を得たり」。最後に恵可、礼三拝して後、位に依つて立
てり。祖云、「汝、吾が髄を得たり」。果して二祖として、伝法伝衣せり。 『正法眼
蔵』「葛藤」巻

得たところの仏法を道得せよと迫る達磨に対して、慧可はただ礼拝だけをもって示した
ところ、達磨は「吾が髄を得たり」として印可証明した。誠の礼拝が、そのまま仏法に
契うことを、礼拝得髄というのである。

②道元禅師は、①に挙げた「礼拝得髄」を取り上げながら、まさに慧可大師が法を重ん
じて断臂まで行ったことを讃歎しながら、不惜身命の修行の用心を説かれる。
髄をうること、法をつたふること、必定して至誠により、信心によるなり。誠心ほかよ
りきたるあとなく、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするな
り。

また、世俗的には就くべき師については、見た目であるとか、生まれであるとか、行い
などを「基準」にしてその善し悪しを決める傾向にあるが、道元禅師は、法を重んじて
、法を基準にして、師を選ぶべきであると説く。
釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、
容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若
を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、
天華を散じて供養すべし。日日三時に礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむるこ
となかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ発心よりこのか
た、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。

つまり、真実の仏法を説く師については、毎日多くの黄金や食事を運ぶことが求められ
ており、道元禅師もまた、全てを抛って師に仕えたからこそ、仏道を体得したことが説
かれているのである。しかし、世俗的には、様々な理由を付けて、仏法ではない、別の
基準を入れようとしている。それを批判される道元禅師は、得法の事実には、性別も関
係無いとして、得道された女人について、様々な記事を採り上げられているのである。
特に、趙州従?、潅渓志閑、末山尼、妙信尼などの行実が本文には引用されている。
たとへば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏および三賢十聖もきたりて礼拝問
法せんに、比丘尼この礼拝をうくべし。男児なにをもてか貴ならん。虚空は虚空なり、
四大は四大なり、五蘊は五蘊なり。女流も又かくのごとし、得道はいづれも得道す。た
だし、いづれも得法を敬重すべし。男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり
。

そして、道元禅師は中国では女性であっても格式の高い寺院の住持として招かれる例を
説きながら、日本における女性差別を批判するのである。ただし、それは女性が素晴ら
しいからではなくて、先にも挙げたように、「得法」に基準を置かれるからである。

【28巻本系統】

得法に基準を置かれる道元禅師は、法を得た事実ではなくて、ただ女性であるからとか
、子供であるから、といった世俗的価値観を仏祖に対して当てはめることを批判される
。そして、さらに日本に於いては、女性の天皇がいたことも挙げて、本来女性差別はな
いことを示されるのである。
また、和漢の古今に、帝位にして女人あり、その国土、みなこの帝王の所領なり、人み
なその臣となる。これは、人をうやまふにあらず、位をうやまふなり。比丘尼もまたそ
の人をうやまふことは、むかしよりなし。ひとへに得法をうやまふなり。

ここで、人間中心の考え方ではなくて、法や位を重んじる考え方に転換していることが
理解できる。あくまでも、男女という性別が問題なのではなくて、天皇という位、法を
得ている仏祖現成の事実が重要なのである。余談的だが、この一文は道元禅師の「国土
観」「天皇観」を知ることができる貴重な箇所となっている。ただ、内容を見る限り、
いわゆる律令制度に対して反抗的だったとは思えず、その出自も影響してか、皇室崇敬
の念が確認される。それは「看経」巻でも同様である。

さて、同巻では、女性差別の事例を挙げて、それが如何に仏法に叶わないかを指摘して
いるが、その根拠となるのは、絶対平等の仏法にあって、男女という差別を入れること
の無意味さを批判するものである。具体的には、女性は男性から見れば、淫欲を起こさ
せるからというものだが、道元禅師は女性に限っていないとされて、女性差別の根拠を
無化する。また、男性の社会に生きることで、女性には一切関わらないことを宣言した
中国の澄観をも、「衆生無辺誓願度(四弘誓願の一句)」と願を立てる仏祖にはあるま
じき行為であると断罪される。

また、日本には女人禁制の修行道場などがあるが、これは愚かも甚だしいとされるので
ある。
また、日本国にひとつのはらひごとあり。いわゆるあるひは結界の境地と称し、あるひ
は大乗の道場と称して、比丘尼・女人等を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、人
わきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。あるひは
権者の所為と称し、あるひは古先の遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人
の腸もたえぬべし。権者とはなにものぞ、賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等
覚か妙覚か。また、ふるきをあらためざるべくは、生死流転をばすつべからざるか。

そして、女人禁制の結界などは無意味であるとして、仏法の上からは平等なる男女の性
別を主張されるのである。なお、同巻の末尾には、道元禅師が当時行っていた「結界」
の作り方が示されているため、よく学ばれたい。
いはんや結界のとき、灑甘露ののち、帰命の礼をはり、乃至浄界等ののち、頌に云、「
茲の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり」。

現在でも、いわゆる洒水によって結界を作る儀式があるが、本来はこの方法に依存すべ
きなのである。