2016年8月30日火曜日

唯識

この「他己」というのは、道元が多用する言葉である。他の存在について言い表すに
あたって、他の存在と自己の存在とが切り離され対立したものではなく、つながり合っ
て密接な相関関係にあるということを示すために、「他」に「己」という字をつけて「
他己」とするのである。この場合の「他己」とは、人に限らず山川草木などすべての存
在者をさす。

⇒ わたしは、「断ずべきは対象的に考へられた自己への執着」の執着の主体は、「他
己
」であると思う。そして、わたしが観ずる唯識の最終的な決めの不足感、曹洞禅の坐禅
の継続重要性と意義は、「佗己(他己)の身心をして脱落せしむなり。悟迹の休歇なる
あり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」の言葉に示されていると思う。


仏道をならとは、自己をならうことである。自己をならうとは、自己を忘れることであ
る。自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。よろずのことども
に教えられるとは、自己の身心をも他己の身心とも脱ぎ捨てることである。悟りいたっ
たならば、そこでしばらく休むもよい。だが、やがてまたそこを大きく脱け出てゆかね
ばならない。
    (講談社学術文庫 正法眼蔵(一)全訳注 増谷文雄 P44から)

 仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、自己
を忘れることである、答えを自己のなかに求めないことだ。全ての現象のなかに自己を
証すのだ。自己とはもろもろの事物のなかに在ってはじめてその存在を知るものである
。覚りとは、自己および自己を認識する己れをも脱落させて真の自己を無辺際な真理の
なかに証すことである。こうしたことから、覚りの姿は自らには覚られないままに現わ
れてゆくものだ。
    (河出文庫 正法眼蔵1 現代文訳 石井恭二P23から)

 個人的に理解が難しいのが後半部分にある「佗(他)己」という言葉です。この語に
ついて、御茶ノ水大学の住光子さんは、その著「NHK出版 哲学のエッセンスシリ
ーズ 道元 P57・58」で次のように述べています。

 この「他己」というのは、道元が多用する言葉である。他の存在について言い表すに
あたって、他の存在と自己の存在とが切り離され対立したものではなく、つながり合っ
て密接な相関関係にあるということを示すために、「他」に「己」という字をつけて「
他己」とするのである。この場合の「他己」とは、人に限らず山川草木などすべての存
在者をさす。

 ここで「他己」について、わたし自身が感ずる人の意識の視点が気になるのである。

 上記の中でわたし自身がすっきりする注釈表現は、石井先生の「自己を認識する己れ
をも脱落させて真の自己を無辺際な真理のなかに証すことである。」という表現であり
、「自己を認識する己」が、唯識教学における「自証分・証自証分」の関係に思えるの
です。

 「一切皆成仏を率直には認めない法相唯識学など、およそ禅師の高い宗旨とは全くか
かわりのないものと思われてきた」(中山書房仏書林 唯識の心と禅 太田久紀 P1
23)というように道元さんの言葉を唯識で解釈することは、叡山の天台教学が、開創
以来、法相教学は決して相容れるものではなく、また太田久紀先生が上書でいうように
唯識用語や唯識典籍が引用されることはないのは承知の上で、わたしはそう感ずるので
す。

 西田幾多郎先生は、哲学論文集第七で次のように述べている。

 道元の云う如く、自己が真の無となることである。仏道をならふというは自己をなら
ふなり、自己をならふことは、自己をわするるなり、自己をわするるとは萬法に証せら
るるなりと云って居る。科学的真に徹することも、之に他ならない。私は之を物となっ
て見、物となって聞くと云う。否定すべきは、抽象的に考へられた自己の独断、断ずべ
きは対象的に考へられた自己への執着であるのである。我々の自己が宗教的になればな
る程、己を忘れて、理を尽し、情を尽すに至らなければならない。(岩波書店 西田幾
多郎全集第十一 哲学論文集第七 二 場所的倫理と宗教的世界観 P424から)

 わたしは、「断ずべきは対象的に考へられた自己への執着」の執着の主体は、「他己
」であると思う。そして、わたしが観ずる唯識の最終的な決めの不足感、曹洞禅の坐禅
の継続重要性と意義は、「佗己(他己)の身心をして脱落せしむなり。悟迹の休歇なる
あり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」の言葉に示されていると思う。




11善謂信慚愧 無貪等三根 勤安不放逸 行捨及不害

善とは、信、慚、愧、無貪等三根、勤、安、不放逸、行捨、不害である。

>善の心所とは、仏法を信じるこころであり信、恥じる心である慚愧、貪らない、怒ら
ない、愚痴らないなどの無貪等三根、励む心である勤、軽やかなこころである安、怠け
ない心である不放逸、平等で純真な心である行捨、他を害さないこころである不害であ
る。

12煩悩謂貪瞋 癡慢疑悪見 随煩悩謂忿 恨覆悩嫉慳

煩悩とは、貪、瞋、癡、慢、疑、悪見である。随煩とは忿、恨、覆、悩、嫉、慳。

>煩悩とは、むさぼるこころである貪、怒るこころである瞋、おろかなこころである癡
、おごる心である慢、真理を疑うこころである疑、正しくない見方である悪見である。
随煩悩とは殴りたくなるほどの怒りのこころである忿、うらむこころである恨、罪を隠
そうとするこころである覆、悩むこころである悩、ねたむこころである嫉、けちなここ
ろである慳、つづく。

13誑諂与害驕 無慚及無愧 掉挙与昏沈 不信併懈怠

誑、諂、害、驕、無慚無愧、掉挙、昏沈、不信、懈怠

>あざむくこころである誑、へつらうこころである諂、害するこころである害、おごる
こころである驕、反省なきこころである無慚無愧、さわがしいこころである掉挙、落ち
込むこころである昏沈、仏法を信じないこころである不信、おこたりるこころである懈
怠、つづく。

14放逸及失念 散乱不正知 不定謂悔眠 尋伺二各二

放逸、失念、散乱、不正知まで随煩悩。 不定とは、悔、眠、尋、伺、二つに各二であ
る。

>なまけるこころである放逸、わすれるこころである失念、みだれたこころである散乱
、間違って知るこころである不正知までが随煩悩である。 不定は後悔するこころであ
る悔、禅定中にねむるこころである眠、追求するこころである尋伺、三つとも善悪各二
つを伴う




≪正法眼蔵 三界唯心≫      

偉大な師匠である釈尊が言われた。   
我々が住んでいる世界(欲界・色界・無色界)は、たった一つの心と理解する事が出来る
。心というものを離れて、別の実在というものは存在しない。心と、真実と、衆生の三
つのものは、区別する事が出来ない。 我々の住んでいる世界の内側も、外側も、中間
も、あるいは我々自身を基準にするならば、 自分自身の内側も、外側も、中間も、あ
るいは過去・現在・未来のどの時間においてもすべて欲界・色界・無色界と言う三種類
の世界の中に入ってしまう。 
ではその欲界・色界・無色界と言う三種類の世界はどんな世界かと言うと、我々が現に
見ているありのままの世界そのものである。


■「三界唯心」の「三界」とは欲界・色界・無色界と言う三つの世界を言います。
「欲界」とは、通常は欲望の世界と考えられていますが、意欲の世界、頭で考えられた
世界と理解すべきではなかろうかと考えます。
「色界」の色とは、ル-パと言う物質を意味する言葉ですから、物質の世界、物の世界
と理解すべきではなかろうかと考えます。
「無色」とは、物質の世界を乗り越えた世界と言う事で、従来は精神の世界、心の世界
と考えられていました。 
この三界の他に「法界」と言う言葉を加えまして、この四つの世界を仏教特有の考え方
である「四諦」の考え方に割り当てますと理解がしやすくなります。

苦――欲界(意欲の世界)・集――色界(物質の世界)・滅――無色界(行為の世界)・道-
法界(宇宙全体) 

「三界唯心」の巻も、仏教哲学の一番基本にあるところの、我々の主観と周囲を取り巻
いている客観との相互関係がどうなっているかと言う事の説明と、こういうふうに見る
事が出来る訳です。 
                          (正法眼蔵提唱録 西嶋 和
夫 著より)

◆◆◆ 中論での展開 ◆◆◆ 
*龍樹尊者の説く≪この世界≫
 ≪この世界≫   理性   客観的な世界   現在の瞬間    現実    
 行為      法   ①

  *理性、客観的な世界、現在の瞬間、現実、行為、法の関係をとらえるために、行
為の現在の瞬間で
   考える  
  
 ≪この世界≫  理性  客観的な世界  現在の瞬間 (行為)  現実   行為
(現在の瞬間) 法 ② 
 ◆このそれぞれの関連は
  ①行為と現在の瞬間は法という事実のうらおもて
  ②現実は理性、客観的な世界、現在の瞬間を含めた統合的なもの
  ③理性は心の働き、脳細胞による唯識的な世界

≪四諦≫  観念論哲学  唯物論哲学  行為論哲学  道義論哲学
≪四諦の教え≫ ≪この世界≫の現実を≪四諦≫(観念論哲学、唯物論哲学、行為論哲
学
        道義論哲学)でとらえた、苦、集、滅、道

 *①の現実を≪四諦≫でとらえると(≪四諦の教え≫苦、集、滅、道)

 ≪この世界≫   道義論哲学
   理性    客観的な世界   現在の瞬間(行為)  現実        
       ③
   唯識    因果の理法    刹那生滅の道理    現実 (哲学)   
       ④

*②の現実を≪四諦≫でとらえると (≪四諦の教え≫苦、集、滅、道)

 ≪この世界≫   行為論哲学
   理性    客観的な世界   現在の瞬間(行為)  現実        
       ③
   唯識    因果の理法    刹那生滅の道理    現実 (哲学)   
       ④
   四諦*   十二因縁     八正道        現実 (仏教)   
         ⑤
    ◆四諦*は、③を理性、心の働き(唯識)で捉えた現実(四段階の考え方)
     **四諦*は唯識の一部で、従来の仏教の解釈はこれでよい。

*②の現実そのものの実在(行為=坐禅)(≪四諦の教え≫苦、集、滅、道)

 ≪この世界≫   仏道(行為そのもの)  坐禅のとき 法と一体
   理性    客観的な世界    現在の瞬間(行為)          現
実      ③
  (心、心の働き、唯識)(客観的な世界、衆生、自分)坐禅という行為  法(仏
道)   ⑥

*②を理性(心の働き、唯識)での四段階の考え方でとらえると

≪この世界≫
   理性  客観的な世界  現在の瞬間 (行為)  現実     行為(現在の
瞬間) 法  ②
   欲界  色界        無色界          法界       
 (行為を含む現実)    ⑦   

*心は一つある、二つあると言うものではなくて、宇宙全体が心と同じものである。心
と三界が別々に
 あって、心と三界が同じだという主張ではない。三界を別にして心はないし、心を別
にして三界は
 ないと言う関係である。
 我々の現実の世界を表現する場合に、その実態というものは『ある』とか『ない』と
かと単純には
 割り切れない。頭でものを考えたり、感覚的にものを感じたりと言う状態もあるし、
そのような状態を
 意識の外にはずした状態もある。
 別の言葉で言うならば心が独立に存在する訳ではなくて、眼の前にある垣根・壁・瓦
・小石が心その
 ものである。
 また別の言葉で言うならば、眼の前にある山・川・大地が心そのものである。
 心は、達磨大師と弟子とのやりとりの真髄を指すのであり、肉体(皮・肉・骨・髄)と
別のものではない。
 心は、釈尊と摩訶迦葉尊者とのやり取りを指すのであり、宗教上のやり取りが心だと
いう事も出来る。
 心とは、様々な頭の働きや感覚的な働きで心があると意識が出来る場合もあるし、ま
た意識を超越して
 無意識の状態と言うものもある。
 心とは、体を基礎にして心があると感じられる場合もあれば、体を意識しないで、た
だ心だけの意識の
 場合もある。心とは、体を動かして何か動作をする以前の意識もあるし、体を動かし
て何かの動作をした
 後の時点における意識もある。
           
                          (正法眼蔵 提唱録 西島和
夫 著より) 

<三界唯心>

理性  客観的な世界  現在の瞬間 (行為)  現実     行為(現在の瞬間)
 法  ②
    <理性(心の働き、唯識)での四段階の考え方でとらえる>  
欲界   色界      無色界          法界(現実)   ⇔ ≪こ
の世界≫    ⑦ 
   (①②③により、欲界、色界、無色界、法界(現実)すべてが現実(法界))
 
  欲界 色界 無色界               現実 
   三     界                唯     心     ⇔
 宇宙全体    ⑧

われわれの住んでいる世界 → 欲界 色界 無色界(三界) 心(現実・法界)

                (体験)?(実感)

                 坐  禅
  (坐禅という)行為の現在の瞬間 
    坐禅=仏性(宇宙の秩序・波長・エネルギー、遺伝子、阿摩羅識、プログラミ
ングされた
          生命の設計図)                      
          ⑨

■■ 私の一口メモ<中論による展開について> ■■ 
 物事や文章などを的確にとらえためには、四段階の考え方を適用すると、間違いがな
く、また漏れが無く
 なること、また、宗教的なこと、仏教的なことを捉え把握し、判断するには、≪この
世界≫からの展開が
 色々な事実などを浮き彫りにしてくれます。
 ≪この世界≫:理性、客観的な世界、現在の瞬間、現実、行為、法
 を適用します。 龍樹尊者の≪この世界≫(法)はすべてを含みます。ときどき白々
しくなりますが。

2016年8月29日月曜日

虚空

071
尊者はいう。
心は虚空界にに同じ、
等しき虚空法を示す。
虚空を証得するとき、
是無く非法なし。
  心の境界は虚空界と同じである、
  心は万象を等しく虚空と示す。
  虚空を証し得るとき、
  事物の実相には是も無く非もない。






第七巻「虚空」の項目に次の文がありました(P112)。

 「仏祖はすべて経を講ずる者である。
  
  その経を講ずるにあたっては、
  
  かならず虚空をもってする。

  虚空によらずしては、一経をも講ずることはできない。

  たとい、心経を講ずるにも、

  あるいは身経を講ずるにも、

  いずれも虚空をもって講ずるのである。

  虚空をもって思量を実現し、

  不思量をも実現するのである。」

  と。 (ここで註釈により「心経」とは般若心経をいう)

 この文章について、私は次のように解釈し納得し実践しています。

 つまり、すべての事象は因縁により、六根を通じて頭脳内に生じ、それははあたかも
大空に雲が発生したかのようであり、頭脳内ではその事象の雲が意識とか潜在意識の領
域と活発に交流しながら発達する。

 その営みの様子は

『唯識三十頌』(世親菩薩造)で述べられている

「業異熟なり、転ずること暴流の如し」である。

 しかし、この営みも因縁がなくなれば意識領域から消えてなくなる。

 そこで私は、この虚空の存在を認識したうえで、毎日次の詩を暗誦しています。

 「一切の現実の法相は 真如の理である。 その註釈

  ・染(ケガレ)を入れることは許しながら、しかも本性は淨であるといわれている
。

  ・無数量の微妙な功徳がある。

  ・無生無滅で湛として虚空のようである。

  ・一切有情は平等である。

  ・一切法は不一不異である。

  ・一切の相は 一切の分別を離れ 

   尋思の路絶え 名言道を断じている。

  ・その本性本質はもとより寂である。故に涅槃と言う。」



虚空:
「這裏是什麼処在」(此処は一体何処なのか)の故に、仏道現成して仏祖ならしむ[「
此処は一体何処なのか」とは、「碧巌録」巻2の黄檗の発語。普通に考えれば、此処は
禅寺であるから、修行によって仏祖となることを目指すということになる。だが実は、
此処は虚空なのだと道元は言いたい訳だ]。仏祖の仏道現成、おのづから嫡嫡する故に
、皮肉・骨髓の渾身せる、虚空に掛かるなり[渾身まるまるが虚空に掛かっている]。虚
空は、20空等の群に非(あら)ず[虚空とは、色々な空の概念ではない]。おおよそ、空
只だ20空のみであろうや。8万四千空あり。及びそこばく有るのだ[それ以上にあるので
ある]。

撫州石鞏慧蔵禅師が弟でし・西堂知蔵禅師に問うて言わく、
「汝もまた虚空を捉えることが出来るか」。
西堂曰わく、
「如何なる如くに捉えるか解っている」。
石鞏曰わく、
「汝は如何なる如くに捉えるのか」。
西堂は手にて虚空をつかみたり。
石鞏曰わく、
「汝は虚空を捉うるを解するに非(あら)ず」。
西堂曰わく、
「兄弟子は如何にして捉えますか」。
石鞏は、西堂の鼻の穴を捉え、引っ張った。西堂痛みをこらえながら曰わく、
「この人殺しめ。人の鼻を引っ張るとは。お蔭で虚空を直接得ることを得たり」。
石鞏曰わく、
「是(かく)の如くにして虚空を捉えることが出来るのだ」。

石鞏言わくの「汝もまた虚空を捉えることが出来るか」とは、汝は全身が手眼であるか
と問うたのだ。
西堂曰わく、「如何なる如くに捉えるか解っている」。
虚空を1塊の概念で捉えるは虚空を汚すなり。汚されしもの地に落つ。
石鞏言わくの「汝は如何なる如くに捉えるのか」。
虚空を如如(真如)として捉えるは、すでに虚空は変化してしまうなり。然(しか)あ
れども、変化するからこそ、如如なり。西堂、手で虚空をつかみたり。その発想は虎に
乗ることは得るが、虎の尾を捉まえるを知らぬと言うところなり。

石鞏の「汝は虚空を捉うるを解するに非(あら)ず」。それは単に捉うることが出来て
いるに非(あら)ずということのみに非(あら)ず。虚空を夢にだに見たこと無し。然
(しか)あれども解さずと言いても、虚空は深遠なり。汝に示すことは出来ぬのだ。西
堂の「兄弟子は如何なる如くに捉えますか」。これは貴方も聊(いささ)か発語して下
さいということだ。私にばかり言わせないで下さいということだ。西堂は手で虚空をつ
かみたり。じっくりと学ぶべし。西堂の鼻の穴に石鞏が身を隠したのだ。或いは、西堂
の鼻の穴が石鞏をつかんだともいえるであろう。然(しか)あれども是(かく)の如く
は言うものの、虚空は全体で1つであり、ぶつかり合うしか非(あら)ざるであろう。
西堂痛みをこらえて曰わく、「この人殺しめ。人の鼻を引っ張るとは。お蔭で虚空を直
接得ることを得たり」。
今迄人に出会うものだと思っていたが、忽(たちま)ち自己に出会いたり。然(しか)
あれども、自己を改めて捉えなおすこと等出来るに非(あら)ず。自己を修するしか無
し。石鞏の「是(かく)の如くにして虚空を捉うるを得る」。虚空を然(しか)の如く
に捉えることもあろう。然(しか)あれども石鞏と石鞏とが片手を出し互いを捉うるに
非(あら)ず。虚空と虚空が片手を出し互いを捉うるに非(あら)ざる故なり。自分の
力にたよるものに非(あら)ざる故なり。

おおよそこの世界は虚空を容るる程の隙間無しと称せども、この1段の発話、昔から虚
空の真実を響かせている。石鞏、西堂の後、5家の宗匠と称される者たちは多しと称せ
ども、虚空を見聞し、推量した者少なし。石鞏、西堂の前後のものたちも虚空を弄ぼう
としてもの在りと称せども、手を付けることが出来たもの少なし。石鞏は虚空を掴み取
り、西堂は虚空を見ず。私(道元)は石鞏に言わねばならぬ、「以前に西堂の鼻を掴んだ
というが、虚空を掴むと称すならば、自分自身の鼻を掴むべし」と。指先で指先を掴む
を得るべし。然(しか)あれども、石鞏は少し虚空の掴み方を知れり。然(しか)あれ
ども虚空を掴む好手であっても、虚空の内外を学ぶべし。虚空の活・殺を学ぶべし。虚
空の軽重を知るべし。諸仏と諸祖の工夫、修行、発心、修行、悟り、発語、問答全てが
虚空を掴むことだと腑に落とすべし。

先師・如浄和尚曰わく、
「渾身口に似て虚空に掛る(全身は口に似て、虚空に掛かっている)」。
明らかに知る。虚空の渾身は虚空に掛かれり。

洪州西山の亮座主は馬祖和尚に参じて学びたり。馬祖、問うて言わく、
「如何なる経を説いているのか」。
亮座主曰わく、
「般若心経なり」。
馬祖曰わく、
「何をもって説くのか」。
亮座主曰わく、
「心をもって説きます」。
馬祖曰わく、
「心は役者の如きものだ。意志はその脇役の如し。6識はその伴侶だ。如何にして経を
説くことが出来ようか」。
亮座主曰わく、
「心が既に説くを得るに非(あら)ずば、虚空が説くを得るにありや」。
馬祖曰わく、
「然(しか)の如し。虚空が説くことが出来るのだ」。
亮座主は袖を払って退席せり。馬祖、呼びかけて言わく、
「亮座主よ」。
亮座主振り返りたり。馬祖曰わく、
「生まれてから老いるまで、只だ是れ虚空なり」。
亮座主思い当たること有り。遂に西山に隠れその後の消息を知らず。

然(しか)あれば即ち、仏祖は全て経を説くものだ。経を説くのは全て虚空だ。虚空で
無くば1経も説くを得ず。心経を説くにも、身体経を説くにも、共に虚空をもって説く
のだ。虚空によりて思考を現わし、不思量も現わる。師による知慧も無師の知慧もまた
同じ。生まれながらの知慧も、学んだ知慧も共に虚空だ。仏をつくるも、祖をつくるも
、同じ如くに虚空だ。

印度第21祖・婆修盤頭[後述]言わく、
「心同虚空界。
示等虚空法。
証得虚空時、
無是無非法

(心は虚空界に同じ。
等虚空の法を示す。
虚空を証得する時、
是[善]も無く非法[悪]も無し)」。

いま壁に向いて坐る人と、人に向う壁とは相逢(そうぼう;あいあう)、相見(そうけ
ん;あいまみえる)する牆壁心、枯木心であり、是れぞ虚空の世界だ。まさにこの身[
今世の身]をもちて得度する者は、即ちこの身を現わして為に法を説く。虚空の法を説
くのだ。まさに他身[次以降に生まれた時の身]をもちて得度する者は、即ち他身を現わ
して為に法を説く。虚空の法を説くのだ。12時[24時間]に使われる。および12時[2
4時間]を使いこなす。これが虚空の時を証得することだ。石の頭が大であれば大。石
の頭が小であれば小。この真実は肯定もなく、否定も無し。是(かく)の如くの虚空、
今是(こ)れを正法眼蔵涅槃妙心(最高の悟り)と参究するのみなり。

[婆修盤頭:
バシュバンズ。世親とも言う。無着の弟。唯識思想を体系化した有名な論師]。

2016年8月6日土曜日

現成公案

現成公案は、道元禅師の「正法眼蔵」の中の第一巻で、道元禅のエッセンスを簡潔に、
しかも美しく、かつ、余すところなく表現している点で、非常に優れた作品です。
そのため、道元自身も、とても気に入っていたようです。
現成公案は、俗弟子のために書かれたため、平易な言葉で書かれてあり、比較的分かり
やすく、親しみやすい内容となっています。
また、仏教書ではありますが、読んでいると、美しい詩のようでもあり、読む人を惹き
つけてやまない魅力があります。そのせいか、道元については女性の研究者が結構いま
す。

第一 現成公案の章より、
01
森羅万象は普遍不変の理法によって保たれつづけている。
そうした事象として、人に迷いがあり、覚りがあり、迷いとはなにか、覚り
とはなにかを知ろうとする努力があり、生があり、死があり、覚りえた人々
があり、覚りえていない人々がいる。

02
もろもろの自然の事物に自我はない。人の自我も幻想である。人は誰であっても
自己であるほかはないのだが、自己と言う意識は幻想である。迷いも覚りも
覚りえた人々も、覚り得ない人々も、生も死も、全ては空である。もろもろの
存在現象の本質は空であって、実体ではないのが存在現象の本質である。

03
仏の教えは事柄の大小や豊かさ狭さを超えていて、人の世の有り様は、仏の
教えそのままである。この世に、生があり、滅があり、迷いがあり、覚りが
あり、覚りえない人々として衆生があり、覚りえた人々として仏がいるけど、
それらはすべて空であるほかはない。
このようではあると言え、散る花を惜しみ、生茂る草を嫌うのも人の
心のありようである。すべての現象は実体ではないとはいえ心は心である。

04
自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。もろもろの現象の
なかに自我の在りようを認識するのが覚りである。迷いを迷いとして大悟
するのが覚りえた人々であり、また、己の認識に執着するのが衆生である。
覚りの上にさらに覚りをうる人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。
覚りえた人々がまさしく覚りをえた人々である時、その人は自分が覚りえた
人であると認識する事がない、それは身心が覚りに同一化しているからである。
そのようではあるけれども、その人は仏法を知りえた覚者であって、さらに
覚りを求めていく。

06
仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、
自己を忘れることである。答を自己の中に求めないことだ。すべての現象の中に
自己を証あかすのだ。自己とはもろもろの事物のなかにあってはじめてその存在
を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己をも脱落させて
真の自己を無辺際な真理の中に証すことである。こうしたことから、覚りの
姿は自らには覚られないままに現れてゆくものだ。


13
たとえば、船に乗って陸も見えない海原に出て四方を見ると、海はただ丸いと
だけ見えて、そのほかの姿に見えることがない。しかし、この大海は、丸いもの
ではなく、四角なものでもなく、目には見えない海の様相は尽くしきれない
姿をもっている。それは宮殿のように瓔珞のように見事なものである。
しかし、目の及ぶばかりには、ただ丸いと見えるだけである。

14
万象もまたそのようである。一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相が
あるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
森羅万象にある真の姿を知るためには、目には見える形のほかに、残りの
形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っている事を知らねば
ならない。己の周囲のみがこのようにあるわけではない、己自身も
微小な存在もこのようであること知らねばならない。

18
風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚おうぎをつかう
「風の性は常に変わることがなく、処として周あまねからざることがない、なにゆえに
和尚は更に扇を使われる」(仏性はもともとあるもので、行き渡らないところなど
どこにもない。まずは黙って扇を使い、風を味わう行動を起こすことが肝要)

19
仏法が保っているありのままの在り様とはこのようである。仏法がまさしく伝わり
活かされる路とはこのようである。風の性は常に変わらぬ性であり、変わりなく
普遍であるから扇を使ってはいけない、扇を使わなくとも風を感じろというのは、
不変であり普遍であることの意味も知らず、風の性は己自身の性である事を
知らないのである。風の性は不変普遍であるからこそ、仏法の風は大地に黄金の
豊かさを現出させ、ガンジス河の恵みを、其の乳酪のような大きな恵みをもたらした
のである。

現成公案に書いてある道元禅のエッセンスは「修証一等」と言われるように、修行と悟
りは一体であり等しいものだということです。これは、道元禅の精髄であると同時に仏
法の奥義でもあります。

分かりやすく説明すると、私たち各人が今ここに置かれた状況というのはそれぞれ仏の
現れとも言うべき絶対の真理(=「現成」)なのであるから、その境遇の中で、高い志
を持って学問なり仕事なり(これらに限るものではありません)に打ち込み、一生懸命
やり抜くことが、すなわち悟りであるということです。


「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生
あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生
なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」

正法眼蔵において現成公案の巻は古来よりもっとも有名であり、且つ重要視されている
ものである。正法眼蔵の他の巻は現成公案の巻の多面的展開といえるだろう。道元の仏
道は現成公案の巻に尽きると言っても過言ではないかと思う。というのは現成公案の巻
には道元の基本的考え方がすべて網羅されているからである。だからこの現成公案の巻
をしっかりと呑み込めば正法眼蔵に通底している道元禅の要所を掴むことができる。
参究に入るまえに表題の「現成公案」とはいかなる意味なのかを考えてみたい。この現
成公案はもちろん道元の造語である。まず現成公案の「公案」の語であるが、これは少
しでも禅をかじった人ならば「公案」と聞くと臨済禅の修行で用いられているものを想
起するだろう。臨済禅の修行で用いられている公案とは論理では割り切れない問題のこ
とである。たとえば比較的ポピュラーなものに「隻手音声」という公案がある。その内
容はどういうものかというと「両手を叩くとパチンと鳴る。では片手ならばいかなる音
が鳴るのか? その音を持って来い」というのが「隻手音声」の公案の意味である。臨
済禅ではこのような問題で修行者を大疑団におとしいれて、大悟させようとする。つま
り公案とは、いいかえれば問題ということであり、それは一般的な意味の問題ではなく
、これを解けば悟りを開くことになる問題なわけである。しかし道元のいわれている現
成公案の「公案」の意味するところは、そのような意味がないことはないが(それは現
成公案の巻を注意して読んでいればわかるのだが)、臨済禅の公案とは異なる意味を持
っている。公案の語源は「公府の安牘」に由来している。公府とは政府のことであり、
安牘とは法令のことである。政府の法令とは住民にとっては、動かさず、改めず、ただ
ただ厳守すべきものとされていたわけである。それは住民にとって絶対である。それが
翻って道元においては絶対(仏)を意味するものとして援用している。すなわち現成公
案の公案は絶対(仏)の異名である。そして現成公案の現成とは、いまここで現われて
成就しているということである。なにが成就しているのか? もちろん仏である。以上
から「現成公案」に意味することが鮮明に浮かび上がってくる。仏は世界とあらわれて
いまここに永遠に生きている。仏は永遠に実存している生きものである。すなわち「現
成公案」とは、全宇宙はそのままにして仏のあらわれである。不変なる仏は変化する世
界とあらわれていまここに生きているというのである。ここに生命は「一」という自覚
があると思う。普通は変化する世界にはさまざまな生命があり、それらは別々だと思わ
れている。しかし別々とみえるものは不変のただ一つである生命のあらわれである。こ
の一つである生命こそは仏の正体となる。すべては一つであるこの生命のあらわれゆえ
に、その生命はわたしたちとは別ではない。わたしたちもまた生命のあらわれであり、
生命がわたしたちとあらわれて生きている。この仏のあらわれにおいて、あらゆるもの
は別々でありながら一如である。全宇宙は一大生命体のあらわれであり、あらわれてい
るものをおいて一大生命体はない。ゆえにあらわれているもの以外に仏を求めるのは間
違いとなるわけである。たとえば『永平広録』の上堂語において道元は以下のように説
かれている、すなわち、

「上堂、山僧(道元のこと)叢林を歴ること多からず、只是れ等閑に天童先師に見えて
、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞せられず、便ち空手にして郷に還る、所以
に一毫も仏法無く任運に且く時を延ぶ、朝々日は東より出て夜々月は西に沈む、雲収っ
て山骨露はれ雨過ぎて四山低し、畢竟如何、良久して曰く、三年には一閏に遇ひ、鶏は
五更に向って啼く、久立下座」

ここで「一毫も仏法無く」といい、どこにも仏法なぞない、と道元は述べている。これ
は従来わたしたちが考えている仏法というものを否定しているのである。道元の説く仏
とは、朝は日は東より出て、夜は月は西に沈む、朝は鶏がコケコッコーと啼く、三年後
とに閏が訪れる……。それがそのまま仏のあらわれというのである。すなわち仏は世界
と現成しており、現成している世界をおいて仏はない。これが「現成公案」の語の意味
するところである。それは現成公案の巻をはっきりとあらわれている。ところがわたし
たちは仏というものをこの現実世界の外に求めている。現実世界の外に仏や悟りはある
と思っている。このような考えとまったく一線を画しているところに道元の特色がある
と思う。この現実世界がそのままで一つである生命(仏)のあらわれであり、あらわれ
ている現実世界の外に仏を求めることの誤りを道元は強調して説かれているのが、この
現成公案の巻である。それは文章を追って進んでゆくことでますますはっきりしてくる
。道元はさらにわたしたちが現成公案を体現して生きてゆくには、すなわち仏と合一し
て生きるにはどのような生活態度をとればいいのか詳細に説いているところなどは、道
を求めているひとたちにとって非常に参考になる巻ではないだろうか。

ここで私はまず一つの立言をして現成公案の巻を提唱しよう。
「この世界は一つの大生命体であり、この世界はそのままに完璧である」
更にいうと大生命体が世界を現して、その世界を展開させている。しかしその創造主で
ある大生命体と創造物である世界は別ではない。大生命体は世界を現して展開させるこ
とにより自らを展開させている。それ故に世界は大生命体の展開である。われわれも大
生命体に生かされ、大生命体のあらわれとして、大生命体の中に存在しているのである
。われわれが悩むのも悟るのも大生命体がそうさせているのであり、即ちあらゆるもの
、一切の諸現象、あらゆる営為は好む好まぬに関係なく、この大生命体に生かされてい
るものである。だから大生命体は絶対である。この絶対である大活動体、これを道元禅
師は仏性ないし仏と称する。まず「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり
、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく
さとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豐儉より跳出せるゆゑに
、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にち
り、草は棄嫌におふるのみなり」から参究することとする。

この段は四つのパートに分かれる、すなわち(一)諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟
あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(二)万法ともにわれにあら
ざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(三)仏道もと
より豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(四)しかもかくのご
とくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり、となる。以上を簡
潔にまとめると(一)は世界の差別相をあらわし、(二)は世界の平等相をあらわし、
(三)は世界は差別相と平等相の一如のものであることをあらわし、(四)はその差別
相と平等相が一如である、そのもの自体とわれわれの生活と一如であることをあらわし
ている。そこでわたしがここで強調しておきたいのは(一)から(四)まではいずれも
正しいということである。

これらはすべて現成公案であるということを指摘しておきた
い。この四つのうちのどれかが現成公案であり、どれかが現成公案でない、というもの
ではないのである。これがとても重要である。それ故に現成公案は到底分別知では理解
できないものであることは想像がつく。すなわち頭の中で現成公案とはこのようなもの
であろうと、現成公案を観念的に構築して、そこで知的納得を得るというわけにはいか
ないのであるし、またできない。卑近な言葉でいうと体得が必要であるのはいうまでも
ない。
まず「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり
、衆生あり」からみる。「諸法の仏法なる時節」とは「すべてを仏法の眼から見ると」
というほどの意味である。諸法とは一切の諸現象、そして一切の存在のことである。そ
こで仏法の立場からこの世界を見てみるとということであるが、さてわたしたちが仏法
の立場からすべてを見てみると「迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、仏あり、衆生
あり」であり、そこには迷いと悟りがあり、修行があり(ここは修行ではなく修証であ
ろう。修証すなわち修行と悟りであろう。というのもこの一文は対句により構成されて
いるからである)、生と死があり、諸仏(悟りを開いている人)と衆生(未だ悟りを開
かずに迷える人)があると説かれる。さて道元はなにをいわんとしているのだろう。迷
悟、修証、生死、衆生、諸仏などは仏法の立場に立って世界を見るとき、あらわれてく
るものなのである。いいかえると仏法は迷悟、修証、生死、衆生、諸仏をもってあらわ
れているのである。そうなると奇妙なことかもしれぬが、たとえばわたしたちが迷って
いる、わたしたちが死ぬ、それは既にわたしたちが仏法の中にいる証拠なのである、な
いし既にわたしたちが仏法の眼でみている証拠なのである。以上のような考えは通俗的
仏教と相当に異なるものであることがわかるだろう。えてして、わたしたちは仏法の世
界すなわち涅槃の世界においては迷いはなく悟りのみであり、ないしは修行はなく悟り
のみであり、衆生はなく諸仏のみであると思う。あるいは迷いもなく悟りもなく、修行
もなく証りもなく、生もなく死もなく、衆生もなく諸仏もなく、そういったあらゆる二
元対立的なものは超越してしまい、そこには二元性はなくなると考えるのである。しか
しこれを道元は否定される。すなわち真の仏法はこの世界を超越するものではない。真
の仏法はこの世界を超越した別のところにあるものではない。あくまで迷悟、修証、生
死、衆生諸仏として顕現しているものであると説かれるのである。この世界は仏法のあ
らわれであるというのが真の仏法の立場なのである。

次に「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生
なく滅なし」。「万法ともにわれにあらざる時節」とはあらゆるものがそれぞれ我すな
わち個的自己を立てないことである。通常われわれが自己と考えているものは妄想にす
ぎない。その妄想を払拭してみれば森羅万象には生死、迷悟などはないというのである
。世界そのもの、即ち仏そのものには生死、迷悟、修証、諸仏衆生はない。仏そのもの
は空なのである。個的自己の立場に立ってみると仏そのものには生死、迷悟、修証、諸
仏衆生があると見えるくるのであって、そうなると生死、迷悟、修証、諸仏衆生は仮象
なのである。仏は個的自己に対しては生死、迷悟、修証、諸仏衆生と仮象的に現れるの
である。その仮象的あらわれによって仏は個的自己に対して自らをあらわしている。仏
は自らをそのようにあらわして、そのあらわしにより個的自己に対して説法しているの
である。

これを理解するには生命というものが個々別々にあるものという常識を払拭しなければ
ならない。良寛は辞世の句として「散るさくら、のこるさくらも散るさくら」と詠んだ
が、まさしくその通りであり、生死によってすべてのものがすべてのものとして存在し
ている。たとえば桜は咲いたり散ったりすることにより桜は桜としてある。生命は生死
により自らをあらわしているのである。すなわち生命そのものは生死するものではない
。生命そのものは不生不滅である。そこで生死はなにかというと、それは不生不滅の生
命のあらわる形式である。不生不滅の生命は生死の形式をもってあらわれているのであ
る。奇妙なことと思えるかもしれないが、わたしたちが生死する、それこそがわたした
ちが不生不滅の生命であることの決定的な証拠なのである。

これはわたしたちの常識と相当異なる。わたしたちは死ぬということは生命が死するこ
とと思っている。しかし事実をありのままにみればそうではない。生命は生じたもので
もない。はじめからあるのである。生じたものでないがゆえに滅することもない。生じ
たり滅することのないということは生命は個々別々のものではない。生命はただ一つの
ものである。それは一つ、二つ、三つの一つではない。ただ一つのものなのである。す
なわちこの世界はただ一つの不生不滅の生命そのものなのである。この生命のあらわれ
としてすべてがある。つまり不生不滅の生命が生滅の形式をとってみずからをあらわし
ているのである。ちょうど海が生滅する波浪をあらわして、その生滅する波浪をもって
して不生不滅の海は不生不滅の海としての自らをあらわしているようなものなのである
。波浪の立場すなわち個的自己の立場からすると、すべてのものは不生不滅の生命によ
り生かされているものであり、同時に不生不滅の生命そのもののあらわれなのである。
仏教的世界観からいうと「諸法の仏法なる時節」は般若心経でいう色のことであり、哲
学的にいうと世界の差別相のことである。「万法ともにわれにあらざる時節」は空のこ
とであり、哲学的にいうと世界の平等相のことである。ある一つのものがある。それを
個的自己を立ててみると色(差別相)とみえるのであり、個的自己を立てなければ空(
平等相)である。すなわち色と空は一つである。いわゆる色即是空、空即是色である。
色空は同時に現成しているのである。その色空同時現成しているものが諸法(万法)で
ある。すなわちこの現実世界である。色空同時現成とはどういうことか。先に述べたよ
うに、ある一つのもの、それは空であるが、しかし空は空のみにとどまらず、その空は
時々刻々と色としてあらわれている生きものである。空には時間も空間も物も持ってい
る。だから一切空きりとみなすのは誤りである。さて色は空の仮象的あらわれである。
その色として空はあらわれている。だから仮象である色のほかに空はない。すなわち仮
象として色空は同時現成である。その仮象(色空同時現成)こそがこの現実世界にほか
ならぬ。この事実をわれわれが体得するとき、そこに突如として仏道が顕現する。仏道
とは仏として生きることである。仏として生活することである。その仏道の境涯とはい
かなるものかというと、それが「仏道もとより豊倹をより跳出せるゆゑに生滅あり、迷
悟あり、生仏あり」である。

ここまで解釈してきたことから自明であるように仏道の境涯には色空はともにある、色
空は一如であるがゆえに。だからこそ「仏道もとより豊倹を跳出するゆゑに生滅あり、
迷悟あり、生仏あり」と道元は説く。ちなみに生仏ありの生仏とは衆生および諸仏の略
である。さて「豊倹」という言葉が出てきたが、この豊倹の「豊」とは色すなわち諸法
の仏法なる時節のことであり、豊倹の「倹」とは空すなわち万法ともにわれにあらぬ時
節のことである。すなわち豊倹を跳出するとは空色からともに跳び出る。すなわち色空
のいずれにもとらわれないことである。それはわたしのいう色空同時現成に目覚めるこ
とである。なぜ道元がここであらためてこのことを説かれるかといえば、凡夫的仏教観
ではとかく仏を体現したものの境涯においては悟りもなく迷いもなく、生もなく死もな
く、修行もなく証りもなく、衆生もなく諸仏もなく、一切の二元的なものはない、空の
みがあるのみと考えるのである。すなわち「万法ともにわれにあらざる時節」をもって
究極と考えるのである。これは少しばかり禅や仏教をかじった人が陥りやすいものであ
る。色的認識を否定するのである。一切を空きりとするのである。しかし既に述べたよ
うに空は色をもってあらわれている大活動体である。だから上記のごとき凡夫的空認識
は豊倹の跳出ではない。いわば倹(空)のほうに引っかかっているのである。またいわ
ゆる一般人は色のみを認めて空を否定している。彼らは空なぞ妄想と考えているのであ
る。このような凡夫的色認識は豊(色)のほうに引っかかっているのである。これまた
豊倹からの跳出ではない。

両者ともに世界を静的に認識していることから、そのような誤りを犯しているのである
。ようするに観念に世界を認識しているにすぎないのである。彼らの認識している世界
は躍動している世界ではない。世界はありのままに認識してみれば静的なものではなく
、諸行無常といわれているように不断に生々化々している生きものである。この生ける
はたらきそのものをありのままに認めてみる。そこには色も空も同時にある。一方が一
方を否定することはない。すなわちその境涯においては生滅も迷悟も修証も生仏(衆生
諸仏の略)もある。生滅、迷悟、修証、衆生諸仏などの色はそっくりそのままに生滅、
迷悟、修証、衆生諸仏のない空の現成である。空は色とあらわれ不断に展開向上してい
る生きものである。あらわれている色をおいて空はないのである。
わたしたちは仏の境涯には生滅、迷悟、修証、衆生諸仏はないと考える。そこで生滅、
迷悟、修証、衆生、諸仏は厭うべきものと考える。しかし生滅、迷悟、修証、衆生、諸
仏のない、ただ一つの大生命体は生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏の形式をもってあらわ
れており、生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏の形式があって大生命体はある。生滅、迷悟
、修証、衆生、諸仏がなければ大生命体もない。それらは大生命体の重要な機関である
。これは大生命体がはたらきそのものであるからである。また生滅、迷悟、修証、衆生
、諸仏というものがあればこそ、わたしたちが自らの大生命体であることを知るのであ
り、また大生命体になれるのである。生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏こそはわれわれが
大生命体を体得するための門であり、大生命体のあらわれであり、またそのようにあら
われている大生命体そのものである。ここに生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏の存在価値
がある。またここに道元禅の独創的宗旨がある。道元禅師は存在するあらゆるものはこ
とごとく仏(大生命体)のあらわれであり、それらは仏の偉大なる仏事とみるのである
。ここに参じなくては道元禅はわからないのではないか。

だからこそ仏道すなわちわたしたちが仏として生きる、その生活には生滅、迷悟、修証
、衆生、諸仏はある。生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏がないなぞと考えたりするのは、
その人たちが生きる大生命体を体現していない証拠である。生滅、迷悟、修証、衆生、
諸仏こそが生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏のない不生不滅不増不減の大生命体を知るた
めのよすがなのである。この事実を体現する時、もはや生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏
の差別相に翻弄されることはなくなる。むしろ生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏などの差
別相はわたしたちが仏として生きるための材料となる。それら差別相は仏の多様多元の
戯れである。このときわたしたちは現実世界に翻弄されることはなくなり不壊の安心を
得る。それらがわたしたちにむけての仏の説法であると目覚めるからである。ただ礼拝
あるのみとなるからである。すなわち生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏を否定するのでは
なく、生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏を肯定して、生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏から
超越してしまうのである。それゆえに色空の両方を認めてはじめて色空からの跳出であ
る。

次に「しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみな
り」に進もう。この一文で道元はここまで述べてきたことをわれわれが観念的理解をも
って満足する弊害に陥ることを打ち破ろうとするのである。まず「しかもかくのごとく
なりといへども」とは何を指しているのか、それは無論、豊倹の跳出のことである。す
なわちすべてはそのままで仏のあらわれであるということである。さてそこでわれわれ
が勘違いしやすいのは、その跳出を体得したら、この現実世界はそのままに仏のあらわ
れ(現成公案)なのだから、それを体得したわれわれにおいては花が散ろうとも惜しく
はないし、雑草が生えようとも嫌とも思わない。そのような凡情はなくなってしまい、
いわゆる煩悩はなくなっていると考えるのである。しかしここでもう勘違いしている。
ようするにおのれ自身のありかたを豊倹の跳出に含まないのである。すなわち世界はそ
のままで仏のあらわれであると体得すると、おのれ自身は豊倹の倹のみになるものだと
考えるのである。もちろんこれは真の豊倹からの跳出ではない。
しかしながら悟りを開いた人はこのような心境になるものだと考えている人たちはじつ
に多い。所詮は彼らにおいては「豊倹の跳出とはこのようなものだろう」と観念的に構
築して理解しているにすぎないのである。この世界が仏のあらわれであると体得すると
、自己から花が散ることを惜しむ気持ちも、雑草が生えるのを嫌だと思う気持ちもなく
なるのではない。煩悩はなくならない。煩悩があることには変わりはない。しかし煩悩
は煩悩そのままに仏のあらわれであると知るのである。わたしたちの愛惜の気持ちも棄
嫌の気持ちも現成公案である。花が散ってしまうと惜しいと思うことも、雑草が生える
と嫌だと思うことも大生命体すなわち仏が為さしめている。わたしたちが迷うも悟るも
悉く仏が為さしめている。これが腹の底からわからなければ現成公案を体現したとはい
えぬのである。


自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を
修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは
衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知する
ことをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

前節において悉くは現成公案すなわち仏のあらわれであることが説かれていた。それは
迷悟一如ということである。先述したように悟りも迷いも大生命体すなわち仏のあらわ
れである。自己は外界に迷わされては悟らされて悟らされては迷わされ、また外界は自
己を迷わせては悟らせて悟らせては迷わせて、仏はその迷悟により無限に展開向上して
いるはたらきそのものである。仏はこのはたらきにより自らの仏であることを自証して
いる大活動体である。
さてそこでいう迷悟すなわち迷いとはなんぞや。悟りとはなんぞや。それらを現成公案
の立場からみて定義すると如何なるものかをここで道元は説かれているのである。すな
わち先述されている「諸法の仏法なる時節」における迷悟をここで説かれるわけである
。
まず「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」からみてみよう。眼蔵はわたしたちの
持っている常識からは理解しがたいのであるが、これなども常識的認識を暗黙の了解の
うちに正しいものとみなしている限りは絶対に理解できないものである。さてこの文章
において道元は自己と万法の関係から迷悟を定義されている。ところで「万法」である
が、ここでは自己との対比で用いられているから万法は自己に相対しているもの、要す
るに外界と考えてよい。また「修証」の語であるが、これは修行と悟りのことであり、
道元は修行と悟りを別ものとみなさずに一つのものとみなす。そこで修証と一つの語を
もってあらわす(この修と証が一つであること、すなわち修証一等に関しては弁道話を
参照するとよい)。
さて花が咲くのも、太陽が昇るのも、りんごが木から落ちるのも、われわれが呼吸をす
るのも、朝めざめるのも、夜眠るのも、すなわち一切の諸現象そして自己の感情、思考
、肉体の一切の営為も仏のはたらきによる。すなわちこの時間をもってして進行してい
る現実世界の歴史的展開は擬人的に称すれば仏という宇宙精神のはたらきによる。そこ
で注意しなければならぬのは、先に述べたように現実世界を現実世界とあらしめている
仏は、現実世界の外に居って現実世界を時々刻々と展開させているのではないことであ
る。仏は現実世界を展開させ、展開させることにより自らを展開させているのであり、
それゆえに世界は仏そのものの展開にほかならぬのである。だから、この世界はそのま
まに完璧であり一点も訂正する必要はない。しかしこれがなかなか理解されにくい。た
しかに静的に世界を認識してみればことごとくが不完全であり、不完全でないものなぞ
ありはしない。だが世界は変化そのものである。世界を静止画像のように認識して、そ
こに判断を下すのは誤りにほかならぬ。われわれのほとんどは世界を静止画像のように
認識している。それは自己が変化する世界の外にあって、自己を不動のものとして世界
を認識していることでもある。自己と外界を別ものと思っている。こうして世界を静止
画像のようにみて、その部分部分をみて不完全ではないかというわけである。
しかし自己と世界は不即不離のものである。だから自己が静的に認識している世界、そ
れは生きたものではなく妄想にすぎない。いわばわれわれは妄想上の世界に善悪吉凶禍
福の判断を下して、世界は不完全であると考えているのであり、そう考えることにより
いたずらに自己の身心を苦しめている。問題は自己のほうにある。ところが自己に問題
があるとは考えずに、外界のほうに問題があると誤解して、自己ではなく外界のほうを
正そうとする。これをわかりやすくいうと世界は不完全であると考えて、その不完全で
ある世界(外界)を完全である世界すなわち自己の考えている理想の状態にせしめよう
とする。これが「自己をはこびて万法を修証する」である。「自己をはこびて万法を修
証」しても問題解決の時節は訪れることはない。問題は外界ではなく自己にあるのに、
自己にあるとしないで外界にあるとするのは、北に向かおうとして南に行こうとしてい
るようなものだからだ。だから問題はますます混迷してくる。まさしく迷いにほかなら
ないではないか。だから道元は「自己をはこびて万法を修証する」ことを「迷とす」と
説かれるわけである。
だが大多数の人たちは道元の迷いと定義していることを迷いと思っていない。むしろ正
しいことだと考えている。まずほとんどの人は正しいと思っているにまちがいないだろ
う。このことに関連するのだが「世界はそのままで完璧である」というと、ほとんどの
人たちは、世界には根絶すべき否定すべき悪しきものがあるではないか、と反駁するで
あろう。しかし私は「世界はそのままで完璧である」と考えているから「現実を否定し
て理想を考え、その理想を実現しようとする努力こそが人類の最大の迷いである」とい
う。するとほとんどの人たちは私のことを狂っているという。
どの分野においても人々は理想を考えて、その理想を現実に具現化しようと努力してい
る。世間的にいうならば、世界の平和を理想とし、あるいは国の発展を理想とし、ある
いは会社の発展を理想とし、あるいは家内安全を理想とし、人格円満を理想とし、その
理想を実現とすべく努力する。出世間的にいうならば、禅的傾向のある人ならば大悟す
ることを理想とし、真宗的傾向のある人ならば弥陀の本願のままに生きることを理想と
し、キリスト者ならば神の御心のままに生きることを理想とし、その理想に到達せんと
努力する。ともかくも或る理想を考えてその理想に到達せんとする努力を誰しも悪いも
のとは考えていない。むしろそれを正しいことと考えている。まず正しいと考えている
人たちがほとんどであろう。つまり大多数の人は「自己をはこびて万法を修証する」こ
とを迷いとは全然思っていない。だからこそ私のようなことを言うものは狂っていると
思う。さて私は狂っているのか。
私は先に「私が現実はそのままで完璧というと、ほとんどの人たちは世界には根絶すべ
き否定すべき悪しきものがあるではないかと反駁する」と記したのだが、ここにこそ人
類の迷いの根っこがあると思う。それは道元が「自己をはこびて万法を修証する」を迷
いという由縁でもある。それは或る理想を考えることと密接な関係にある。世界に悪し
きものがあると考える、それはなんに対して悪なのかというと、それは自らの考えてい
る理想に対してである。自らが考えている理想状態にはあってはならないもの、その理
想に達するのに邪魔なもの、それさえなければ理想状態になるであろうもの、それを私
たちは悪と考えている。それだから悪と理想と表裏一体である。理想を考えると、そこ
に肯定すべきものと否定すべきものが自らの生きている世界・人生に出現してくる。そ
の出現してきた否定すべきものが悪であるのだ。だから理想という光が強ければ強いほ
ど、悪という影は濃くなってゆく。すなわち自分の考えている理想が正しいものである
と思えば思うほど、正しいと信じれば信じるほど、自らの理想状態を邪魔するものとみ
なしている悪を憎む気持ちはますます強くなってゆく。人類の歴史は別言すると戦争の
歴史である。なぜそんな事態になっているのか。その根本要因は理想を立てて、その理
想を実現するべく努力することを正しいと思っている、そのことにある。すなわち戦争
の根本要因は私たちの一人一人の心の中にあるのだ。私たちが暗黙のうちに正しいと思
っていること、そのことこそが私たちの心を憎悪に駆り立て、その私たちの憎悪に染ま
っている心が世界を醜悪なものにしているのだ。

さて迷いは以上のごときものだが、では悟りとはなんぞや。それを道元は「万法すすみ
て自己を修証するは悟なり」と説かれる。万法すなわち外界に対する認識が先述の迷い
の場合とはおおいに異なっていて、修証すべきは外界ではなく自己になっていることに
注意しなければならない。すなわち自己にとって万法すなわち外界は不完全なものでは
ない。それどころか完璧である。自己からみると外界は仏の説法的あらわれである。仏
は千変万化する外界とあらわれて説法を為して自己を修行させて悟らせているのである
。「万法すすみて自己を修証するは悟なり」とは目前の外界を仏の説法として聞いて、
それにより自己を修行して悟ってゆくことにほかならない。
では目前の外界を仏の説法として聞いて、それにより自己を修行して悟ってゆくとはな
にか。普通の人たちは直面する外界を常に無意識的に自動的に吉凶禍福に置き換えて一
喜一憂している。そして自らを外界の被害者ないしは犠牲者と考えて、自らに被害や犠
牲を強いる外界を変えようとするが、それをしないのである。直面している外界をあり
のままに受け入れて、その中で自己のできることを精一杯やる。病気にあえば病気で修
行して病気で悟る。災禍にあえば災禍で修行して災禍で悟る。他者にあえば他者で修行
して他者で悟る。これを道元は現成公案における悟りといわれるのである。すなわち諸
法の仏法の時節における悟りといわれるのである。
外界により自己を修行してゆくとは、不断に千変万化している外界に即応してゆくこと
である。それは外界に相対している自己の徹底否定である。それは外界を変えようとせ
ずに許容してゆくことである。変えようとする心を溶解させることである。それは外界
を変化させるのではなく自己を変化させてゆくことである。
だが人間にはそもそも人類という種として根深い保守性がある。人類という種を保存し
てゆこうとするのである。それは個人においては変化することを好まぬ傾向としてあら
われる。われわれの大多数は変化することをじつは望んでいないのである。うらをかえ
せばわれわれは現実世界すなわち外界に対して深い不安感を持っていることを意味する
。だからこそ大多数の人たちは口では自己の変化成長を望んでいるとはいうものの実際
はそうではない。外界に対する不安を解消すべく自己の理想とする状態に外界を改善し
ようとするのである。それは外界を許容することではない。自己の許容範囲を広げよう
とするのではなく、外界にむけて自己をおしつけているにすぎないのである。自己を変
えようとはしない。しかし「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」とは外界を自
己の都合により変えようとしないで、むしろ外界に対して自己を立てずに許容してゆく
。それは外界に対立して自己をあらわしてゆくのではなく、むしろ外界により自己をあ
らわしてゆくことである。

このとき外界は自己をあらわす材料となっている。つまり自己が直面する外界すなわち
災禍であれ、病気であれ、他者であれ、悉くが自己のあらわれである。すなわち自己即
外界となってくる。このとき自己を修行させている外界と、外界により修行させられて
いる自己が別でなくなってくる。修行させるもの・修行させられるもの、悟らせるもの
・悟らされるものは一つであることが自覚されてくる。ただ一つのものが自己と外界と
してあらわれている。
実在するものはただ一つのもののみである。
ここで留意すべきは自己即外界とは自己と外界の二つがあって、それらが一つというこ
とではないのである。自己は相対する外界をもたない、また外界は相対する自己をもた
ない。自己といえば自己のみで外界はない。外界はことごとくは自己のあらわれである
。同様に外界といえば外界のみで自己はない。自己といえば自己きり。自己は自己だ。
外界といえば外界きり。外界は外界だ。実在しているものは自己といえば自己のようで
あり、外界といえば外界のようである。自己も外界も「?のような」すなわち「如」で
あって、仮象である。
自己も外界もそれ自体として実体を持つものではない。すなわち自己も外界もただ一つ
としかいいようのない仏そのものの仮のあらわれと目覚めるのである。
自己が仏のあらわれであり、そのようにあらわれている仏そのものであると目覚める。
同時に外界も仏のあらわれであり、外界は外界とあらわれている仏そもののであると目
覚める。自己が成仏すると同時にすべてが成仏する。いわゆる草木山川悉皆成仏である
。宇宙は一大生命体であり、あらゆるものは一大生命体のあらわれなのだ。私は一大生
命体のあらわれの一部分であると同時に、私という一部分とあらわれている一大生命体
そのものなのである。
次に「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり」を参究する。諸法の仏法な
る時節における迷悟修証については既に前文で定義されたわけである。その迷悟修証の
定義を用いて、次には現成公案における諸仏と衆生とはいかなるものかを説かれている
。深く参究しなければならないところであるといえよう。
そこでまず諸仏とはなんぞや? それは「迷を大悟するは諸仏なり」である。諸仏(覚
者)とは迷いを大いに悟る人であるといわれる。諸仏は自己をはこびて万法を修証する
ことが迷いにほかならぬと大いに悟る人であるといわれる。諸仏というと迷わぬものだ
と考えてしまうがそうではない。諸仏も自己をはこんで万法を修証しようとするのであ
る。わかりやすくいうと自己の理想をもってして外界を改善しようとするのである。し
かしそれが迷いであることを悟るのが諸仏であるという。いうなれば迷って悟るのであ
って迷いなくして悟りはないのである。この迷いなくして悟りなしに関しては後述され
ている「さらに悟上に得悟する漢あり」のところで更に参究してみよう。
次に「悟に大迷なるは衆生なり」であるが、これは仏は外界とあらわれて自己を修行さ
せて悟らせていることに気づかずに、自己をはこびて万法を修証せんとしていて、その
行為が迷いであるとはぜんぜん思わない人のことである。つまり自己の理想をもってし
てあるがままの外界を変えようとしており、そのことの迷いであることを自覚していな
い人たちのことを衆生であると道元はいわれるのである。
次に「さらに悟上に得悟する漢あり」とあるが、ここに道元の創見があるといえよう。
これは安易に読むと悟りに段階があるものと勘違いしてしまう。ここはなにも悟りに段
階があることをいわんとしているのではなく、悟りは果てしなく深化向上してゆくはは
たらきであることをいわんとしている。先述されていたように諸仏は迷を悟ることであ
った。そうなると悟上に得悟するとは迷いはなくならないことを意味する。すなわち迷
っては悟り、悟っては迷い、そのはたらきは無限であることをいう。この境涯について
解説してみよう。既に説かれているように悟りは万法すすみて自己を修証することであ
り、それはあるがままの現実そのままに完璧であり、すなわち世界がそのままに仏のあ
らわれであると目覚めることである。それ故に仏道は「?でなければならぬ」という理
想主義とは真っ向から対立するものであり、「万法すすみて自己を修証するはさとりな
り」は理想の徹底否定の生活である。理想こそが悟りを体現する上での最大の障害であ
る。
しかしここで疑問があるだろう。「なぜ理想を問題視するのか。理想は欲望から生じる
ものである。ならば問題は欲望にあり、従来から奨励されているように欲望を絶てばい
いのではないか。無欲を志向してゆけばいいのではないか」と。
しかしここで欲望と理想は違うことに留意しなければならない。理想は欲望から生じる
ものであるが、しかし欲望はわれわれの意識する以前のところから起こるものであり、
すなわち欲望は人為により生じたものにあらず、それは人間にあらわれた仏の意志にほ
かならないのである。しかしその欲望と異なり、欲望から生じてくる理想はわれわれの
観念概念をもちいた人為的作業により作られたものである。それは躍動する現実ではな
く観念概念上のものにすぎない。すなわち理想はその性質自体があるがままの現実であ
る仏の説法的あらわれと争うものなのである。現実は「かくあるべき」といった理想を
持ち、その理想により現実を人為的に変えようとすることが一切の苦悩の要因である。
欲望が苦悩の要因ではない。理想こそが苦悩の根本要因である。
だが、ここでまた疑問があるだろう。なぜならわたしは先にあらゆるものは仏により為
さしめられていると述べたからである。そう、われわれに理想を生じさせるのもじつは
仏なのである。
すなわち仏はわれわれに欲望を持たせて、その欲望からわれわれに理想を持たせて、あ
るがままの現実と対立せしめることにより、われわれを苦悩させて、その苦悩により理
想を実現することの誤りを気づかせて、あるがままの現実の仏のあらわれであることを
自覚させ、修行させ、悟らせているのである。われわれは修行している仏なのだ。
理想とは一般的に考えてられていることとは異なり、それを実現させるため存在してい
るのではない。理想とはあるがままの現実の仏のあらわれであることを自覚させるため
にあるものなのだ。自己は外界のほかに生きるところはない。自己即外界であり、既に
自己が自己であることが仏である証拠なのである。その意味で誰しも仏として生きては
いる。しかしそれは無意識無自覚に生きているにすぎない。理想とはそれを実現させる
ためにあるのではなく、あるがままの現実すなわち世界とあらわれている仏をわれわれ
が無意識・無自覚にではなく意識的自覚的に生きるためにあらわれているものなのであ
る。
さて以上から欲望の意味あいも知られてくると思う。欲望とは理想を生じさせて、ある
がままの現実と対立させて自己を苦悩させて、自己の誤りを露呈させるものなのである
。欲望こそは自己をして修行させて悟らせるための生きた教えをあらわす原動力にほか
ならないのだ。
現成公案においては欲望否定どころか欲望肯定である。迷って悟る。しかしそれは一度
きりではない。迷っては悟り、悟っては迷い、迷っては悟り、悟っては迷い、そのはた
らきは無限である。迷悟はあらゆるものとしてあらわれている唯一なる大生命である仏
の更新作用である。仏はわれわれの迷悟により自らを更新しているのだ。この大生命の
はたらきを迷いといえばずっと迷い続けるものである。また悟りといえば悟りずっと続
けるものである。このはたらきは迷といえば迷のようなもの、悟といえば悟のようなも
の。すなわち迷悟はともに一つのものの仮のあらわれ、すなわち一如である。煩悩即菩
提とはこの一如を体現してはじめて言えることだと思う。
かくして迷を大悟する諸仏はかならず悟上に得悟の漢(人間)としてあらわれる。迷い
を大悟するということは諸仏の境涯においては喜怒哀楽はなくなることはないことを意
味する。喜怒哀楽こそが仏の意志を知るよすがなのだ。一見すると諸仏(覚者たち)は
喜怒哀楽を超越しているように見える。しかしそれは喜怒哀楽がないのではない。多く
の人たちは誤解している。諸仏においてはあるがままの現実(外界)を許容する、その
許容範囲が広く高く深くなっているから、その喜怒哀楽の振幅ももちろん広く高く深い
。だから一見するとないようにみえるのだ。諸仏に喜怒哀楽はないのではない。喜怒哀
楽こそは凡愚の凡愚たる所以のように考えられている。しかしその喜怒哀楽こそは諸仏
の境涯にまでつながっているものなのだ。
以上、道元の説かれてきたものをみてきて「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸
仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく」のいわ
んとしていることは明瞭であろう。既に述べてきたことから明らかなように、まさしく
自己は迷いから逃れることはできない。しかし自分が迷うことこそ自己の諸仏であるこ
とを知り、諸仏として生活するためのよすがなのである。また悟りは万法がすすんでき
て自分を修行させて悟らせてくれるのであり、自分は修行させられ悟らされているもの
ゆえに、諸仏は決してその悟りを自己の功績として誇ることはない、心の中でも考えな
いし思わないのである。その要因を自己ではなく万法に帰するものであると知悉してい
るからである。その万法をたとえば人に限ってみるならば悟りを自分ではなく周囲のひ
とたちの功徳に帰するものだと考えるものなのである。ただ周囲の人々への感謝がある
のみである。そこに自分を誇る気持ちはないのである。順縁を感謝するのは当然ながら
逆縁にも感謝するのである。ただ万法への感謝があるのみである。おのれを誇る気持ち
はない、ただおのれの愚かであることを痛感するのみ、おのれの迷えることを痛感する
のみ。それゆえに諸仏がまさしく諸仏であるとき、諸仏は自分が諸仏であるとは考えな
いし思いもしない。しかしその生きざまは、その行為は、その存在は、すなわちその生
活そのものは諸仏であることを明白に証明しているのである。


身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、
したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくに
あらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは
一方はくらし。

前に引き続き、ここも諸法の仏法なる時節について説かれているものである。ここは諸
法の仏法の時節において、万法がすすんできて自己を修行させ悟らせている、自己は修
行させられ悟らされている、その境涯における風光とはいかなるものかについて説かれ
ているものである。すなわち仏として修行させられ悟らされている人がどのように外界
を認識しているかを説かれている。悟りとは不断に生々成々化々している現実を仏の説
法と認識して、その説法を聴くのであり見るのである。「見取」ないし「聴取」とある
が、なにも見聴の二つのみに限らないことにここで気づかなければならない。
さて「身心を挙して」とあるが、これが重要である。わたしたちが色を見て、声を聴い
ている。それは既に如として現じている仏を見聞きしていることであり、それはわたし
たちが既に仏の世界に生きていることの証左なのであり、道元や臨済のみならず誰しも
仏界に住しているが、しかしここで道元や臨済とわたしたちとの違いはどうして発生す
るのか。彼らは現前の外界を許容して生きているのであるが、わたしたちは背いて生き
ているのである。すなわちわたしたちは自己の好嫌により、現前の仏の説法である外界
に逆らっているのである。だが逆らうとはいうものの、それは心の中でできるにすぎな
い。なぜならいまここの外界のほかに生きるところはないからである。つまり現実を仏
の説法として聴聞せずに逆らう人は、心の中で外界に逆らうのみであり、しかし外界の
ほかに生きるところはないのだから、彼らは不断に展開している外界に引きずられて生
きているのである。心ではいまここを許容していないが、しかし身に関していうと、そ
の身は常にいまここの外界を生きているわけである。すなわち外界を仏の説法として認
識せずに、あれこれ取捨選択して外界を許容しない人たちの身と心は分裂しているので
ある。身心ともに挙していない。どちらか片方しか挙していない。すなわち「身心を挙
して」いない。ところが万法すすみて自己を修証している人、すなわち万法を仏の説法
とみて、これにより自己は修行させられ、悟らされていると自得している人はそうでは
ない。身のみならず心も目前の外界に投入して生きているのである。「身心を挙して」
いるのである。身心をともに外界に投入して生きているのである。すなわち身心を挙げ
て外界を見聞きしている人は外界にさからわず外界と一体になって生きている。それは
外界と現れて活動している仏と一体になって生きていることである。だから身心をあげ
て外界を見聞きすることは外界と一体になって生きることであり、それは仏と一体にな
って生きることである。
次の「したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごと
くにあらず。一方を証するときは一方はくらし」とある。これはその世界の風光を端的
に述べたものである。さて仏は万法と現じて人を修行させ悟せている。そこで万法を仏
の説法的あらわれとみて、それを見聴してゆくのが悟りであるが、ここで注意しなけれ
ばならぬのは、人は見聴といった五感のはたらきにより仏を悟るのであり、そのはたら
きによらずしては仏を悟れない。しかしながら見聴する、そのはたらき自体が仏ではな
い。つまり見聴といった五感により、五感を超越したものを体得するわけである。この
とき体得したという自己もなくなり、だから「体得した」というのもなくなり、ただ仏
のみが露出している。そこで人が身心を挙げて万法を見聴する。このとき万法が仏のあ
らわれであり、万法としてあらわれている仏そのものであると会得するのであるが、し
かしこのとき鏡の中に影をやどすように、あるいは水面に月が映るように万法の中に仏
を見聴するのではないのである。ただ見聴している万法があるばかりなのである。ここ
が肝要なところで体得の難しいところでもある。
たとえば渓流の音を聴いていたとしよう。人が悟りの真っ只中に居るとき、ただ渓流の
音のみであり、そこに仏らしきものはまったくないのである。これは例の眼横鼻直とま
ったく同断である。ではなぜそのように体認されるのか。渓流の音は仏のあらわれであ
り、あらわれている渓流の音のほかに仏はないからである。仏と渓流の音の二つがあっ
てそれが一つなのではない。仏と渓流の音は一つである。それ故に渓流の音とあらわれ
たら渓流の音のみで仏はないのである。これが「一方を証すれば一方はくらし」である
。「くらし」とは隠れるの意味である。
このとき渓流の音は従来のままでありながら、しかし異なったものとして聴こえるので
ある。これを説明してゆこう。このとき渓流の音のみが聴こえるのである。もちろん音
は渓流の音だけではない。しかしこのとき他の音は聴こえないのであって、他の音は渓
流の音の中に隠れてしまうのである。「一方を証すれば一方はくらし」である。またこ
のとき聴いている人もいない。聴いている人も渓流の音の中に隠れてしまう。すなわち
「一方を証すれば一方はくらし」である。また全宇宙が渓流の音である。渓流の音以外
にも宇宙には様々なものがあるが、それらが尽く渓流の音の中に隠れて、全宇宙は渓流
の音としてあるのである。すなわち「一方を証すれば一方はくらし」である。
既に述べたように、このときその現前に相対していると思っていたわれはいない。人が
現前のものが仏のあらわれと悟るとき、その際に認識している現前のものは全宇宙を覆
いつくしていまい、それをおいて外にわれはないのである。だから「おれは悟った」と
いう、その「おれ」すらなくなってしまうのであり、このとき現前のもののみがあるば
かりであり、それは仏のあらわれとして光かがやいているのである。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふ
といふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、
万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己
の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

まず「仏道をならふといふは自己をならふなり」。仏道とは先述したごとく仏として生
活することであるが、さてその仏であるが、自分を仏ではないと考えて、修行により仏
になるのではない。それは誤った考えである。そもそも自己は「諸法の仏法なる時節」
の自己であって、すなわち自己ははじめから仏であって、わたしたちははじめから仏の
あらわれである。このことをならうことが仏道をならう、すなわち仏道修行である。な
んのことはない。仏道は自分自身に成り切ることなのである。仏道は遠い遥か彼方にあ
るのではない。これほど近いものはないのである。この自己が仏そのものであり、仏の
ほかに自己もない。その自己が仏をならっている、仏をならい、仏をあらわしゆきつつ
あるのである。
次に「自己をならふといふは自己をわするるなり」。既に述べたように自分自身を仏で
はないと決めつけて、修行して仏になろうとすることはあやまりである。それは自己を
ならうことではない。ではどのように自己をならったらいいか。それは「自己をわする
るなり」である。ここの自己は先の自己とは異なる。忘れなければならぬ自己とは自分
自身を仏にあらず衆生であると決めつけている自己である。仏道修行とはじつは簡単な
のである。自分自身は仏ではないという妄想、妄想の自己を根こそぎ忘れてゆくことに
尽きるのである。
ではどのように自己を忘れてゆけばいいか。それは「万法に証せらるるなり」である。
これは既に説かれているものであり、万法すなわち自己の外にある外界によって修行さ
せられ悟らせされてゆくことである。人生において遭遇する出来事にしても、また出会
う人たちにしても、その人たちの為すことも、それらはことごとく自己を仏として修行
せしめ、自己が仏であると悟らせている仏の説法として受け取ってゆく生活である。順
縁も逆縁もことごとくが感謝の生活である。これが「万法に証せらるるなり」である。
その「万法に証せらるるなり」であるが、その内証はいかなるものか。それが「自己の
身心および佗己の身心を脱落せしむるなり」と説かれる。人生そのものを仏の説法とし
て、それにより修行してゆく生活態度は、この現実を自己の近視眼的な選択により、許
容したり、しなかったりということではない。全面的に許容するのであるから、それは
外界に対立している自己を無にしてしまうことである。外界に対立している自己はなく
なるのである。これが自己の身心を脱落することである。それは自己に対立している外
界もなくなることも意味する。これが他己の身心が脱落することである。
ところでここで付言しておこうと思うが、文中に「自己」に対比して「佗己」という言
葉を道元は用いているが、これはここまでの説明から自明であろう。佗己とは他己とい
うことであり、すなわち他とあらわれているおのれ(己)であり、自己とは自分とあらわ
れているおのれ(己)である。そのおのれ(己)とはもちろん仏のことだ。自他の身心脱落
とは自他がそれぞれ固有の実体をもたず、仏の仮象的あらわれであり、仮象的にあらわ
れている仏そのものであると目覚めることなのである。われもかれもすべては如なのだ
。わたしはわたしの如くあらわれている仏、瓦礫は瓦礫の如くあらわれている仏、禍福
は禍福の如くあらわれている仏。すべては如(仮象)である。仮象ゆえに、そこにはも
はや時空物はない。すべては如として顕現している不生不滅の仏である。以上が身心脱
落の消息である。
次に「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」。「悟迹」とは悟りの跡
(迹)という意味で、悟ったという意識ないし自覚のことである。そこで「悟迹の休歇な
るあり」とは、自他身心脱落においては「おれは悟った」という意識はないことをいう
。悟ったという自覚があるうちは本当の悟りではない。というのも悟ったという自覚が
あるということは悟りでないものがおのれにあったことを意味するからである。自分が
悟ったなぞという自覚があるということはそれ以前の過去の自分は悟っていなくて、今
の自分は悟っているとみなしていることを意味しているわけである。すなわち彼におい
ては過去の自分も現在の自分も未来の自分も悉く仏のあらわれであることを自覚してい
ないことを意味する。いまだ悉くが仏の現成であることを知らないのである。真に仏の
みがあるのみと自覚しているならば、換言すればおのれが真に悟りを開いているならば
、本当にあるものは悟りばかりであるから、悟りならぬものはどこにもない。現在の自
分のみならず過去の自分も未来の自分も悟っていなかったことなぞないのである。「お
れは悟った」という自覚は以前のおのれは悟っていなかったことを前提にしてはじめて
成立する。しかし悟っていなかったことなぞ実はなかったのであることに目覚めるわけ
だから、その目覚めの際にはおれは悟ったという自覚すらなくなる。悟った時もなく、
悟った処もなく、悟ったおのれもなく、なにもかもなくなる。だから「わたしはいつい
つ、どこそこで悟りました」というのは本当はうそなのである。おのれが真に悟りに成
り切れば悟りを忘却するのである。しかしそれこそが真に悟りそのものになったことの
証左なのである。
そこで自ら悟ったという意識すらしていない悟り、すなわち過去においても現在におい
ても未来においても仏にあらざるものはなに一つない境涯を生活してゆくのである。自
らの生活によりあらわしてゆくのである。これが「長々出ならしむ」である。この「長
々出ならしむ」の生活こそが仏道のギリギリの奥処である。すなわち「長々出ならしむ
」とは先述の「仏道をならふなり」にほかならない。またそれは「自己をならふなり」
であり、またそれは「自己をわするるなり」であり、またそれは「万法に証せらるるな
り」である。つまり仏道には終わりがない。仏道はかならず万法に証されるる生活――
すなわち外界により修行させられてゆく生活としてあらわれる。だから「すでに仏であ
るなら、なにも仏道をならわなくともいいではないか」とか「すでに仏ならば修行は必
要はない」という考えは誤りである。そのような考えを持つ彼らのあるがままで仏であ
るという理解は所詮観念的理解にすぎない。彼らにおいてはもはや修行がない。しかし
修行のほかに仏はないのである。別のところで道元がいっているように修証一等のほか
に仏はないのである。
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。
法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしの
うつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねの
すすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、
自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をした
しくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

ここは二つに分けて参究する。まず「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺
際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」。ここでいう
法とは仏法のことである。そこで人がはじめて仏法を求めるとき、求めている仏法に近
づくどころか、はるかに仏法の辺際から隔たってしまうと説かれる。その理由はここま
で現成公案の巻を読んできたからには自明である。あらゆるものは諸法の仏法なる時節
であって、仏法のあらわれである。人は既に仏法の中に居る。いいや、人も既に仏法の
あらわれである。それ故に「求める」ということがそもそも誤りである。仏法を求めれ
ば求めるほど仏法から離れてしまう。仏法を求めることはまさしく迷いである。
しかし、それならば仏法を求めなければいいかというとそうではない。ここでも迷悟は
ともに現成公案であることを想起しなければならない。「迷を大悟するは諸仏なり」と
先にあったように、迷わぬものには決して悟りを開くことはないのである。迷いなくし
て悟りなし。わたしたちが迷う、それはまさしく仏の大慈大悲なのだ。わたしたちが「
さあ、ここで迷おう」と意図的に迷うことはできない。既に述べたようにわたしたちが
迷うのも、意識以前の仏のはたらきによるのである。迷いが生じたということはわたし
たちが悟りを開く準備が完了していることであり、仏の慈悲がまさに自分自身に垂れて
いるのである。この大慈大悲なくして人が悟りを得ることはない。法をもとむることは
はるかに法の辺際を離却することであるが、しかしはるかに法の辺際を離却しなければ
、法のおのれに正伝するときは永久にないのである。
さてその仏法がおのれに正しく伝わるとき、どうなるかというと、それは「すみやかに
本分人なり」である。仏法が正しく伝わるとは自分自身が仏のあらわれ(如)であり、
如として現じている仏そのものであると自覚することである。おのれの仏であることに
目覚めた人を「本分人」という。それは「すみやか」である。目覚めに段階はない。即
座に仏そのものに目覚めるのである。また仏そのものに目覚めることはかならず即座で
ある。なぜ即座なのか。自己ははそのままで仏のあらわれであることの事実に目覚める
からである。わたしたちが仏に目覚めるとき、自己において仏にあらぬものは一毛もな
い。一毛もないわけであるから悟りには段階なぞないことは明白であろう。悟りは徐々
に目覚めてゆくものではないのである。この「すみやか」は時間的なものではない。時
間がなくなるのである。それゆえ「すみやか」は時間的にパッと悟るようなものとして
理解してはいけないのである。
次に「舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目を
したしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯する
には、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万
法のわれにあらぬ道理あきらけし」を参究する。いわゆる仏教を信仰している人、いい
や仏教にかぎらずに宗教を信仰している人たちで、道元がここに説かれていることを真
に理解している人はまれであろう。そこで本文を逐語的に解釈してみよう。
「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目を
したしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく」人が舟に乗って川を進んでゆく
。そのとき、自分のほうはじっとしているが、両岸のほうが移りゆくようにみえる。こ
れは現代のわたしたちからすると電車にのっているときを考えてみるといいだろう。さ
てそこで自分はうごいておらず両岸のほうがうごいているように思われる。しかしもち
ろんそうではない。「目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく」目を
したしく舟につけて見れば舟のほうが動いているのであって岸のほうが動いているので
はないことがわかる。もっともそんなことはあらためて言うまでもないことだと思うだ
ろう。
しかしそうだろうか。というのも大多数の人たちは外界のほうがうごいており、自分の
ほうは動いていないという犯しているからである。わたしたちは森羅万象が生滅してい
るものであると知ってはいる。しかしながら外界は生滅する、だが自分の心は常住であ
ると考えているのである。たとえばいわゆる通俗的仏教では滅する万物万象があり、そ
の滅する万物万象と並行して不滅の心があると考えている。ここからいわゆる霊魂不滅
説ないし輪廻転生説が生じているのである。すなわち万物万象は滅する。わが身は滅す
る。しかしその滅するわが身の中には心というものがある。その心は滅する身と異なっ
て不滅である。その不滅の心は滅する身に生まれ変わってゆき、成長してゆくものであ
り、悟りを開くと、もはやこの滅する身そして滅する万物万象の世界には戻ってくるこ
とはないと考えられている。
しかしここでもうすでに先の舟のたとえでもって指摘されている誤りを犯しているので
ある。すなわち「自心自性は常住なるかとあやまる」と道元の説かれているあやまりを
犯しているのである。これを身と心の対比によって説明してゆこうと思う。というのも
自心自性は常住であり、そのほかのものは滅するものであると考える、その考えは端的
にわたしたちの身心観に如実にあらわれるからである。すなわち「身は滅するもの、心
は不滅のもの」といった、身心は別であるという身心分離の身心観としてあらわれるか
らである。
さて身心は別であり、身は滅するもので、心は常住のものなのだろうか。ここでめをし
たしくして心をみよう。めをしたしくこころにつけてみれば、笑った心が悲しむ心とな
り、悲しむ心が憂いの心となり、憂いの心が怒りの心となり、心は不断に変化している
ものである。すなわち心も滅するものである。そうなると身は滅するもの、心は常住の
ものとみなすのは誤りである。滅といえば身心ともに滅するものなのである。それゆえ
に身は生滅変化するもの、心は常住永遠なるものという認識は錯覚である。
また心が常住というならば身も常住である。常住といえば身心ともに常住なのである。
この自分の肉体は父母の肉体の続きであり、父母の肉体はその父母の肉体の続きであり
、その父母の肉体も――。こうしてさかのぼってゆくと、この肉体は生じた時というも
のを持たない。生じた時がないがゆえに滅する時もない。いわゆる個人の肉体はこの無
始無終の肉体のあらわれであり、その個人の肉体の生滅は無始無終の肉体の一部分の生
滅にすぎず、肉体そのものは常住である。個人の肉体の滅は肉体そのものの滅ではない
。だから心が常住であり、身は滅するものとみなすのは錯覚である。滅といえば身心と
もに滅である。常住といえば身心ともに常住である。身心は一如なのだ。それゆえに身
は滅、心は常住という前提のもとに考えられている、いわゆる霊魂不滅説ないし輪廻転
生説は妄想にすぎない。ともかく身心は別ではない。身心は一如である。すなわち身心
は一つの如(ごとし)である。一つのものがあるのみであり、その一つのものは身のよ
うであり、心のようであり、すなわちある一つのものがある。その一つのものが身心と
して仮象的(如)にあらわれている。身心はある一つのものの仮象的あらわれなのであ
る。それゆえに身心は個別的実体をもたない。個別的身、個別的心なぞありはしないの
である。ここで「万法のわれにあらぬ道理」が明らかとなる。万物万象にわれというも
のはない。悉くは一なるものの仮象的あらわれである。仮象――すなわちすべては如だ
。生命は常識で考えられているように、ここかしこにあるものではない。一つのもので
ある。宇宙はただ一つの不生不滅の大生命体(仏)である。あらゆるものは一大生命体
のあらわれであり、すなわちあらゆるものは如であり、如として現じている一大生命体
であり、如のほかに一大生命体はほかにないのである。


たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、
のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、
さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さら
に生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、
仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。
死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに
不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。
たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、
春の夏となるといはぬなり。

ここを理解するにあたり、仏教における生死とはなんぞやということに触れなければな
らない。仏教において考えられている生死はわたしたち現代人の考える生死は、生死と
いう言葉は同じでも、それが意味することは異なる。これを理解するにあたり仏教成立
の背景を知らねばならない。仏教はバラモン教の世界観を土壌として出現している。そ
のバラモン教の世界観とはなにかといえば、現代人のわれわれが時間空間物質の三つが
実存しており、この現象世界はそれらの三つにより成立していることをまるで疑わぬよ
うに、当時のインドの世界観においては輪廻転生説が暗黙の前提であった。輪廻転生説
とは前生・現世・来世の三世輪廻観のことである。この現世の前には前世があり、また
現世の後には来世があるとする。前世の死は現世の生となり、現世の死は来世の生とな
り――すなわち死したものは生じて、生じたものは死して、死したものは生じて、その
サイクルは永遠に続いてゆくという考えである。この見地から仏教でいわれている生死
を考えなければならない。つまり仏教における生死の「生」とは、わたしたちが通常用
いているがごとく”生きる”という意味でもなければ、”生活”という意味でもない。
じつに”生じる”の意である。そこで仏教でいう生死とはなにかというと、生じたもの
は死して、死したものは生じて――すなわち生は死となるもので、死は生となるもので
あるのだ。この仏教の生死観を想定において道元は正法眼蔵を記されている。ここを徹
底的に腹に入れておかなければ仏教も正法眼蔵も道元禅師の真意もわかりはしない。
仏教では四苦ということをいう。四苦とは生老病死のことである。この四苦にしても三
世輪廻観から理解しなければならない。たとえば四苦のひとつとして「老」を苦の一つ
としてあげているが、老いることを苦とする、その根拠は老いそのものが苦なのでもな
く、現世の生に執着するがゆえの苦でもなく、老いは現世の死の予兆であるから苦なの
でもない。老いることは現世の死に続いている。その現世の死は来世の生に続いている
。すなわち仏教において老を苦とするのは、さらなる再生への恐怖を根拠としているの
である。これは四苦の「病」についても同様である。老が老そのものを苦としないのと
同様に病も病そのものが苦なのではない。病は現世の死の予兆であり、その現世の死は
来世の生の予兆であるから苦なのである。つまり四苦の生老病死の四つは別々の苦しみ
なのではない。苦とは本質的に一つである。仏教の苦とは繰り返すこと、すなわち永続
性・永遠性・連続性への恐怖である。そしてそれは三世輪廻観を前提としている。この
永続性に対する苦からの解放、これが仏教がテーマとしているものである。
さて本文の参究に入ろう。じつのところ前節の「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらし
て岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむを
しるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる
。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」云々
はここの文章で説かんとしていることの伏線である。前節で万物万象は滅といえばこと
ごとく滅であり、常住といえばことごとく常住であると述べたわけだが、それは滅と常
住が一つであることを意味する。すなわち生滅と不生不滅は一つである。それは万法わ
れにあらぬ道理であり、生滅する個別的実体というものはない。実在するものはただ一
つの不生不滅の当体があるのみであり、では生滅はなにかというと、生滅するものは不
生不滅の仮象的あらわれであり、不生不滅の当体のあらわれる際の形式である。不生不
滅の当体は生滅をもってしてあらわれるのである。生滅は不生不滅の当体の機関である
。不生不滅の当体――すなわち仏は生滅をもってしてあらわれているのである。以上を
頭にいれて参究しよう。
まずは「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを
、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」。薪が燃え尽きて灰となる。しかしその燃え
尽きた灰が薪にはならないという。これはわかりやすい。当然といえば当然である。し
かし道元は続けて「しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」とあるように
灰は後、薪は前と受け取ってはならないと説かれる。ここで常識と大いに異なることを
述べられる。わたしたちにとって灰は後、薪は前とはあたりまえのことではないかと思
われる。それをわざわざこのように説かれるのはどういうことだろう。わたしたちは灰
が後で薪が前と考える。ここでもうわたしたちは「万法のわれにあらぬ道理」を忘却し
ているのだ。万法はそれぞれ個別的実体を持ち、その個別的実体が薪から灰へと連続継
続していると思い込んでいるのである。
さて果たして薪と灰は連続継続しているものだろうか。ここでめをしたしくしてみてみ
よう。めをしたしくしてみれば灰の時は灰以外のものは何もない。灰が全部である。ま
た薪の時は薪以外のものは何一つありはしない。薪から灰へと前後があるようにみえる
が、実際のところはその前と後は連続継続していないのである。灰と薪はまったく別の
ものとして受け取られるのである。「前後裁断」として受け取られるのである。すなわ
ち灰の時は灰がすべてであり、すべてが灰をもって現成しており、現われている灰の中
には灰以外の一切のものが隠れているのである。またそれは薪の時も同様である。
さてここで薪と灰のたとえを出されたのはいかなる意図があってのことか。それは次の
「かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、
さらに生とならず」と説かれているのをみればわかるだろう。それは生死(生滅)のな
んたるかを説かんとするためである。
「人のしぬるのち、さらに生とならず」すなわち人は死んでから生まれるものではない
。また生まれて死ぬものでもない。めをしたしくしてみれば前後裁断であり、生の時は
生以外のものは何一つない。生がすべてだ。また死の時は死以外のものは何一つない。
死がすべてだ。すべて――すなわち生じたこともなく滅することもなく常に現在してい
る、世界そのものである全体大生命(仏)が生として死として仮象的に現成しているの
である。生死は仮象としてあらわれている不生不滅の仏そのものである。それ故に生は
もともと生ずることのないものの仮のあらわれであり、仮りに生としてあらわれている
生ずることのないものである。
そこで「生の死となるといわざる」「死の生にならざる」云々とあり、これらは仏法と
して定められているものだというがまったくその通りである。生は死になることはない
。もともと不生であり、生じたことのないものが死するわけがない。同様に死は生にな
ることはない。死したものは生じることはない。なんとなれば死することはないのだか
ら。死は死することのないものの仮象的あらわれであり、仮象的にあらわれている死す
ることのないそのものである。すなわち不滅であるゆえににほかならない。生滅は不生
不滅の仏のあらわれであり、生滅としてあらわれている不生不滅の仏そのものであり、
いわば不生不滅と生滅は一つなのである。
だからこそ生滅する身があり、それとは別に不生不滅の心があり、その不生不滅の心が
、生滅する肉体に受肉転生してゆくという見解は誤りである。この誤りに気づけば、身
は滅するものであり、心は不滅であり、このような身心を別のものとする考えに立脚し
ている輪廻転生説は吹き飛んでしまう。
次に「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬
の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり」。ここでいう「一時」とは先述の
前後裁断のことである。だからこの場合の「一時」とは時間の流れにおける、或るひと
ときなどといったものではない。たとえば生とあらわれている、その生は常にいまここ
に実在している全体大生命である不生不滅の仏の顕現であり、それゆえにその生には過
去現在未来のあらゆる時が入っている。「一時」とは尽時なのである。尽時が一時とあ
らわれているのである。そして時間と空間は切り離すことはできぬ。だからこの「一時
」には尽界が入っている。それゆえに生のときは生がすべてであり、すべてが生とあら
われているのであり、それゆえに生以外のものはなにもない。また同様に死のときは死
がすべてであり、死以外のものはなにもない。
それはたとえばそれは春と冬のようなものだと道元はいう。冬が去って春が来るわけだ
が、わたしたちはあくまで春は春として、冬は冬として考える。すなわち春と冬は前後
裁断であり、冬から春が出現するのではないのである。このように生から死が出現する
のでもなく、死から生が出現するものでもない。このとき従来考えていた輪廻観はない
。生を超えて、死を超えて、この世界もわれもことごとくは不生不滅の仏の現成である
ことを知るのである。ここから仏行がはじまる。坐禅とか看経のみが仏行なのではない
。あらゆるものが仏行なのであり、また行仏として現じてくるのである。

身心に法いまだ参せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。
法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。
たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみる
に、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、
のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、
瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらく
まろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法またしかあり。
塵中格外、おほく樣子を帯せりといへども、參学眼
力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、
方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、
よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくの
ごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

道元は冒頭で「身心に法いまだ參せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に
充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」と提言する。以下に続く文章はその提
言の説明である。順をおって説明してゆこう。
すでに述べたように「身心に法いまだ參せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし
身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」は真に仏道を体得した人の境涯
である。身心が仏法で充足している人、すなわち仏法を体現した人は「おれは未だ仏法
を究めつくしていない」といった自覚を持つ。しかし、その身心が未だ仏法に参じてい
ないもの、すなわち仏法を体現しておらぬ人は「おれは仏法はすでに足りている」と思
う。ようするに真に道を究めている人は自らが道を究めているとは思わず、道を究めて
おらぬ人は自らが道を究めていると思う。
ところでこれはなにも出世間的な仏法に限らず世間のことでも、その道の達人というも
のは自分自身は道を究めていないものだと自覚しているものだと思われている。かよう
に彼らはとても謙虚な姿勢を持つものだと考えられている。しかし大多数の人たちはそ
の道理はわからず、その道を究めた人の境涯とはそんなものだろうと漠然と考えている
にすぎない。なぜ「身心に法いまだ參せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身
心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」なのか。それがわからなければ道
元禅がわかったとはいえない。
ではその道理はなにか。「たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、た
だまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし」たとえば船にのって海の中にい
でて四方を見渡すと、海はただまろく見える。さらに他の相はみえない。そこで海はま
るいと思う。しかし海はまるいのではない。すなわち「のこれる海徳つくすべからざる
なり」である。海は魚には宮殿のごとくみえ、天人には瓔珞のごとくみえる。海はまる
いだけではない。他の相がある。「ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみ
ゆるのみなり」。他の相はあるのだが見えないのである。ただ自分のまなこのおよぶと
ころがまろく見えるのみなのである。以上を枕言として本論がはじまる。すなわち「か
れがごとく、万法またしかあり」前節であげた喩えのように万法もこれと同じなのであ
る。それが俗世間(塵中)のことであろうと出世間(格外)のことであろうとも、そこ
にはさまざまな様子があるのだが、ただ自分の参学眼力の及ぶところのみを見取会取す
るだけであり、その自分が見取会取したもののみがすべてではない。その背後には自分
の見取会取したもののみならず、そのほかのものがたくさんある。これは先述の「一方
を証すれば一方はくらし」と関連している。真理はあくまで全部ではなく一部分として
把握される。そして把握されるのはわたしたちの力量に対応している。ここで知るべき
は誰であろうと真理は全部そのままを把握できるのではない。あくまで一部分を通じて
しか把握できないのである。真理は五感を超越している。人間はその五感を超越したも
のを仮に五感――視覚・聴覚などのものに翻訳して把握する。もちろんそれは氷山の一
角にすぎない。
そこで仏に開眼しているものはそれを知悉している。おのれが認識している一部分だけ
が全部だとは思わない。「万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海
徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし」万法の家風を聞かんと思
うならば、すなわちすべての世界の本当のありかたを知ろうと思うならば、今の自分に
認識される見方だけがすべてではない。他にもたくさんの見方があることを知らなけれ
ばならない。自分の見方のみを世界の真相と思ってはならないのである。その自分の見
方は真の世界のほんの一部の見方にすぎずに、その自分の見方以外にも未知の見方があ
ることを踏まえなければならない。すなわち仏に開眼した人はどのようなものにも自分
にとって未知のものがこめられているものとみなす。だからその認識は彼の生活におい
て無限の修行とあらわれてくる。無限の修行にこそ悟りというものがある。無限の修行
にこそ真の仏道というものがある。自分の見方のほかに未知なるものを認めること、そ
れは無限の修行とあらわれるのであり、その無限の修行にこそ、自分のひとかたの見方
のみならず、自分のひとかたの見方の背後に隠れている未知のありかたに参じる生活が
ある。しかも「かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしる
べし」であって、どのようなものであれ、今自分がみているもののみならず、その背後
には無尽蔵のものがある。それは海のごとき広大なもののみではないのだ。一滴の小さ
な水もそうなのだ。あの一滴の水の中にも無尽蔵の未知のものがあるのだ。この直下に
も未知をみる。これがしっかり体得できれば相当なもので、この認識こそが道元の真骨
頂である。
魚の水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、
とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚鳥いまだ
むかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。
要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際を
つくさずといふ事なく、処処に踏せずといふことなしといへども、
鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづれば
たちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。
以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚
なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者
あること、かくのごとし。しかあるを、水をきはめ、そら
をきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、
水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。
このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。
このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。
このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず
佗にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあら
ざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

ここはこの世界の現成公案以外のなにものでもないことを説かれているものである。凡
夫的認識ではこの世界を因縁とか生滅の概念を用いて見ている。しかし開眼してみれば
この世界は因縁生滅するものにあらず、時を超えて空間を超えて現象を超えて、それら
を超越したもののあらわれであり、そのようにあらわれているそのもの自身にほかなら
ぬと道元は説かれているのである。
本文をみてみよう。まず「魚の水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、
とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚鳥いまだむかしよりみづそらをはな
れず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり」。魚が水を行くにあたって水
にきわはない。それはなぜか。魚にとって水が世界だからである。水の外に世界なぞな
いからである。それゆえにメダカのような小さな魚であろうが鯨であろうが水を行くに
水にはきわというものはない。きわがないということは水は必ずしも魚を制約制限する
ものではないことを意味する。水は魚にとって監獄のごときものではない。魚はいまだ
水から離れたことはないが、しかし水の中に居って魚は自由自在なのである。つぎの「
只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり」云々は魚鳥が水空の中にありながら
自由自在である、その際の水空の用い方を説かれているものである。魚鳥にはさまざま
な種類があるが、それぞれにより、その用い方には大小があるというのである。メダカ
は水を小さく使っている。メダカの行動範囲は小川を出でない。鯨は大海をかけめぐっ
ている。水を大きく用いているのである。このように魚の種類により水の使い方には大
小があるが、しかしその自由度においては大小はない。いわば大小はありながら大小を
超越しているわけである。ここの喩えは要するにむかしより魚鳥は水空の中にいながら
、どのようなものも自由自在の境涯に居るというのである。
しかし、ここからが大切なところである。魚鳥はこのように水空を自由自在に用いてい
るのだが、その水空と魚鳥は別のものではないのである。「鳥もしそらをいづればたち
まちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す」であって、魚鳥は自由自在に水空を
使っているのだが、その水空から出てしまったら死んでしまう。水空があるがゆえに魚
鳥は魚鳥であるのである。すなわち魚鳥は水空と別に魚鳥という独自の生命を持ってい
るのではない。そのような独自の生命が自由自在に水空を使っているのではないのであ
る。「以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし」と説かれているように魚は水をもっ
て生命としており、鳥は空をもって生命としているのであると説かれるのである。
この喩えで道元はなにを説かんとしているのか。魚鳥はわたしたちに対応しており、魚
鳥における空水に対応するのは現前している現実世界にほかならない。すなわちこの現
実世界と自己は別ではなく、この現実世界が自己の生命であり、この現実世界の外に自
己の生命はないことをいうのである。自己と世界と生命の三つは一つであり、この三つ
は不即不離であり、だからこの現前の世界を離れては生命から離れてしまうのである。
そこで「以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし」はこの現前の世界から離れてはな
らぬことをいうのである。続けて「以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、
以命為魚なるべし」といわれる。すなわち、鳥は鳥を以て命と為す、魚は魚を以て命と
為す、鳥は命を以て鳥と為す、魚は命を以て魚と為す……、これは自己と世界と生命の
三つで一つであることを更に徹底させるためにいうのである。
続けて「このほかさらに進歩あるべし。修証あり」。「このほか」の「この」とは先述
の自己と世界と生命の一つであることを指している。そこでこのほかにさらに進歩修証
があるとは、自己・生命・世界の三つで一つのところからさらに進歩修証があるという
のである。どういうことかというと、自己・生命・世界は三つで一つである。それは生
命は唯一なるものであることを意味する。その唯一なる生命は自己と世界と現れて、無
限に進歩しており、その進歩に極点はないのである。唯一なる生命は自己と世界と現れ
て、自己は現前の世界を唯一なる生命(仏)の説法として聞いて、その説法のままに行
じてゆく。その自己の修行は唯一なる生命の修行であるのだ。このようにして唯一なる
生命は無限に進歩修証しているのである。そして「その寿者命者あること、かくのごと
し」。寿者命者とは単純に寿命あるものと受け取ってよい。すなわち魚鳥を例としてあ
げたわけだが、魚鳥のみに止まらず、あらゆをあらゆるものは唯一なる生命のあらわれ
、唯一なる生命の化身なのである。生命は複数あるものではないのである。
次の節「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚
あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず」を参究する。さて
鳥・空・命の三つは一つである。あらゆるものは唯一なる生命のあらわれ、唯一なる生
命の化身である。生命は複数あるものではない。
それ故に空をきわめてから、その後に空を行こうとしたり、あるいは水をきわめてから
後に水を行こうとしても、その魚鳥は水空のどこにも道を得ることはないだろう、とこ
ろを得ることはないだろうといわれる。あまりにもっともなことである。絶対に鳥は空
をきわめてから空を行くことはできないし、魚も水もきわめてから水を行くことはでき
ない、といわれる。しかしこれを理解するのは至難である。わたしたちは空をきわめて
後、あるいは水をきわめて後、行かんとしている。老子は千里の道も一歩からというが
、わたしたちは一歩から行こうとせず、いきなり遠くの千里に到達しようとする。だが
一歩から行かんとしなければ永遠に千里に到達することはできない。
鳥が空を飛ぶための道と処、魚が水を泳ぐための道と処、すなわちわたしたちが唯一な
る生命(すなわち仏)として生きるための道と処、それは今の自分をとりまいている現
実なのである。今の自分をとりまいている現実、それは人により千差万別である。だが
、それこそがその人にとって、その人が仏として生きるためのもっとも適切な道であり
処なのである。わたしたちが仏として生きるための道と処は各人の境涯に応じて既にあ
らわれているのである。常にあらわれているのである。既に用意されているのである。
常に用意されているのである。

わたしたちが仏として生きるための道と処、それはわたしたちが今直面している現実の
ほかにないのである。

そして自分の直面している現実のほかに自己の命はない、すなわち仏はないと踏まえて
生きてゆく時、その行い、その行為にしたがって、そのいまのところ、そのいまの道、
すなわち今の自分の直面している現実が現成公案するのである。

現成公案するとは、今の自分の直面している現実が仏そのもののあらわれとなることで
ある。

すなわち今の現実が「大にあらず小にあらず、自にあらず佗にあらず、さきよりあるに
あらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり」となるのである。それ
は大小を超えて、自他を超えて、時を越えて、唯一なる大生命そのもののあらわれと化
すのである。
しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、
遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、
しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の
究尽と同生し、同參するゆゑにしかあるなり。得処かならず
自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。
証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも
現成にあらず、見成これ何必なり。

「しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり
」は先にのべたところの概略である。人が仏道を修証する、すなわち人が仏そのものを
生きるとは一法を得ては、その一法に通じてゆき、一行に遇っては、その一行を修めて
ゆくありかた以外にないのである。つまり一法一行に通じることがじつは万法万行に通
じることなわけである。
その一法一行に通じてゆくとは別言すると脚下照顧である。脚下照顧とは自分の足下を
顧みよということだが、仏道を生きるとは自分の足下を生きること以外にないのである
。そして自分の足下こそは現実に自分が歩んでゆけるものである。他人の足下を自分が
歩んでゆけるはずがない。自分の足下以外に自分の歩んでいけるところも道もないので
ある。自分の足下が見えてきたとき、その人は仏道が見えてきたのである。その自分の
足下、すなわち一法一行こそは万法万行すなわち全体大生命たる仏そのものに通じてい
るのである。仏そのものに通じるには、この一法一行である自分の足下のほかにないの
である。
なぜ自分の足下のほかにところも道もないのだろうか。仏そのもの、すなわち全体大生
命は「わたし」としてわたしを現しているのである。だからわたしが生きている、それ
は仏そのもののあらわれなのである。それ故におのれの足下を生きる、現前の現実のほ
かにわが命はないと心得て、現前の為すべきことを素直に行なってゆく、それはじつは
仏そのものの行いの顕現なのである。自己が行なうことのできること、それは現前の為
すべきことのみであり、それ以外に自己のできることはない。しかしそれを行なうこと
こそが聖なる行いであり、それはおのれの行いであると同時に仏そのものの行いであり
、その行いは仏そのものに参じて、仏そのものとして生きていることなのである。自己
が脚下照顧と生きることは同時に仏の自己表現なのだ。修行が悟りのあらわしであり、
悟りは修行とあらわれるのである。
かくして仏そのものに通達する、そのところ、その道はそれらしき顔をして現れてくる
のではない。必ずわが足下、すなわち自分の立っている平坦平凡なところとして道とし
て、別言すると今ここの日常茶飯事として不断に現れているのである。真に仏道に通達
せんとするならば、それは日常生活の諸般のほかにないのである。ところがわたしたち
は仏道に通達する、その道に条件をつけて考えてしまう。禅堂に赴いて座禅を組まねば
通達できないとか、賢くならねば通達できぬとか、裕福にならねば通達できぬとか、清
貧の生活を営まねば通達できぬとか、とかく勝手に条件を付けて考えている。しかし仏
道には条件はない。無条件にある。すなわちわが足下にある。わたしたちはすでに仏道
という道の上を歩まされているのである。だからその道を歩めばいい。仏道がわれわれ
に現れるとき、それはかならずわが足下の道として現れる。足下の道、それはあまりに
平凡であるが、その平凡の偉大なることに気づいたとき、その平凡の道の常にわたしを
生かしていたことに気づいたとき、その平凡の道以外におのれの道はないと気づいたと
き、かれは仏道に通達しはじめたのである。
次に「しらるるきはのしるからざるは」とはこの道通達の実際の様子をいう。「しらる
るきわ」とは知られるきわのことであるが、それは万法万行のことである。その万法万
行のきわは知られることがない。つまり一法一行に通達することで万法万行に通達する
のであるが、すなわち仏そのものに通じて、仏そのもののあらわれとして生きるのであ
るが、その仏そのものに通じていること、その仏の境涯は自己にはっきりと知られるこ
とはない。つまり概念観念として自己にはっきりと知られることはないのである。はっ
きりと知られることはないのだが、その一法一行に通達していることは仏法に同参同生
しているのであるから、悟りの境涯はそれを自己が知る知らないはじつは関係ないので
ある。そこで次に「得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふこ
となかれ」となる。わたしたちは得一法通一法、遇一行修一行によりおのれを含めた世
界の一切の現成公案である境涯を得るのであるが、その得られた境涯は観念概念として
把握されることはないし、だからその境涯は観念概念に変換してはならぬのであるし、
観念概念として現れると思ってはならぬし、観念概念として学ぶことができると思って
もならぬのである。
そこで続いて「証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見
成これ何必なり」となる。ここも現成公案の観念概念として学ぶことのできぬことを説
くのである。証究とは現成公案のことであり、端的にいうとさとりのことである。その
さとりはすみやかに現成するわけであるが、なぜすみやかに現成するかというと、それ
はわれわれがもともと現成公案だからである。別言するとわれわれは仏そのもののあら
われとしてあるからである。そこで「密有」とは密かに有るものということであり、こ
れもわたしたちが本来現成公案そのもの、本来仏そのものであることをいうのである。
しかしわたしたちが本来仏であることはかならずしも現成することはないといわれる。
わたしたちは本来仏であるが、しかし誰でも現成公案できるものではない、誰でも仏に
目覚めることはできるものではない、誰でも悟りを開くことはできるものではない。「
見成これ何必なり」だれでも本来仏であるが誰でも必ずしも仏に成れるものではない。
ではどうしたら仏に成れるのか。どうしたら現成公案を現成公案できるのか。もちろん
概念観念として学ぶにあらず、得一法通一法、遇一行修一行の修行によるのである。そ
こでその例として次に禅問答を引用されるのである。それをみてみよう。

麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、
なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも
、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。いはく、いかならんか
これ無処不周底の道理。ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。仏法の証
験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬを
りもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なる
がゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
正法眼蔵現成公案第一
これは天元年中秋のころ、かきて鎮西の俗弟子楊光秀にあたふ。
建長壬子拾勒

まず引用されている禅問答の概要についてみてみよう。麻谷山宝徹禅師とは馬祖道一の
法を嗣いだ禅僧のことである。麻谷山宝徹禅師が扇をつかって扇いでいると、僧侶がや
ってきて問うてきたのである。「風の性質は常住であり、いたる処に偏在しているもの
であるのに、なぜ和尚は扇を使かわれるのですか」。そこで宝徹禅師は答えて言うには
「君はただ風の性質が常住であることのみを知っているだけで、処としていたらずとい
うことのない道理を知らんのだよ」。「風のいたるところに偏在しているという道理と
はなんなのですか」。すると宝徹禅師はその問いには直接答えずに、ただ扇を使って扇
ぐのみであった。すると僧侶はその宝徹禅師に対して礼拝したのだった。
さてこの禅問答のやりとりはいかなる意味を持っているのか。風とは仏のことである。
その仏は風のごとく常住である。常住すなわち生じたこともなく滅することもないもの
である。すなわちあらゆるものは仏そのもののあらわれである。別言すると一切衆生悉
有仏性である。では一切衆生悉有仏性であるならば修行をしなくてもよいのか。そうで
はない。常住なる風がそこに現れるには扇ぐという行いがなければならぬことと同様に
、常住なる仏があらわれるには、仏をあらわすには、そこに修行という行いが不可欠な
のである。しかるにこの僧侶は風は常住であるから扇ぐことは必要ない、すなわち本来
仏であるから修行なんぞ必要ないと考えていたのである。その自分の考え違いを宝徹禅
師の応対により気づいたのである。気づいたから、そこで宝徹禅師に礼拝したのである
。
以上から「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべ
からず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬな
り。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪
を参熟せり」の内容の意味はもうわかるだろう。「仏法の証験、正伝の活路」すなわち
仏として生活する、観念としてではなく生きた仏そのものを生きる、それはここに挙げ
た問答のごときものであるというのである。この僧侶は風性は常住だから扇を使う必要
はないと思っていた。風性は常住だから扇を使わぬとも風を聞くべきと思っていたので
ある。つまり仏性は常住であり自己は本来仏なのだから、修行する必要はないと思って
いたのである。修行はしないままで仏であることを知るのが悟りであり、修行をして本
来仏であることを知るのは迷いと思っていたのである。しかしそのような境涯では「常
住をもしらず、風性をもしらぬなり」であり、じつは風性の常住も知らず、そもそも風
性のなんたるかも知らないのである。風性は常住であるからこそ、その風を現成せしめ
るのは扇を使うように、仏性は常住である、われわれは本来仏である、だからこそ修行
により仏は現成するのである。「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇
酪を参熟せり」その現成する仏という風により、この大地の黄金であることを知り、長
江の蘇酪であることを知るのである。すなわち穢土と思っているこの世界の本来涅槃で
あるのだが、この世界の本来涅槃であることは修行により現成するのである。もちろん
その修行とは先述の得一法通一法、遇一行修一行にほかならない。現成公案、ないしは
仏道とは脚下照顧に尽きるのである。自分の足下に道が見えはじめた時、仏道が見えは
じめたのであり、自分の足下を生きることのほかに修行もなければ悟りもない。自分の
足下を生きることこそは修行の究極であり、その修行は仏そのものの自己表現なのであ
る。すなわち現成公案なのである。(了)