正法眼蔵嗣書の巻より 11 仏祖たちは、眼前に釈迦牟尼仏にまみえ奉る眼を正伝してきたのである、仏祖たちが 正伝してきた眼は釈迦牟尼仏より以前から親しく伝えられたものである。 仏祖たちはそれぞれの正眼によって時と処に関わらずに釈迦牟尼仏を現出しているので ある。 このようであって、釈迦牟尼仏を尊び、釈迦牟尼仏を慕い奉るのは、この面授の 正伝を重んじその趣旨にを尊び、師との間の面授を出遇いがたいものとして敬い 重んじて師を礼拝せねばならない。それはとりもなおさず釈迦如来を礼拝し 奉ることである。新たに仏法を面授する如来が正伝するところを、面授によって シテイのそれぞれの主体としての自己之すべてが授受される正伝のありのまま を拝見するのは、自己自身のこととしてもいとおしまねばならず、客体として の自己のこととしても護持せねばならない。 23 尚古がいうように書籍に学ぶのみで嗣法することが出来るなら、経典を読んで 物事を明らかにするものはみな釈迦牟尼仏に直接嗣法するのか、けっして そのようなことはない。経書によって発明するものも、必ず正師の許しを求めるのであ る。 お前は雲門の語録さえもまだ読んでいないのだ、己の眼をもって己を見ていないのだ。 このような未熟な者たちは多いのだ。お前はあらためて草履を履き草履を履きつぶして 正師を求めて仏法を学ばねばならない。 「仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単 伝なり。このゆえに、無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するにあたはず、仏の印 証をえざれば仏となることなし。仏にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上 なりと印することあらん。 仏の印証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟するなり。このゆへに、仏仏証嗣 し、祖祖証契するといふなり。」 この巻きは道元さまが先師天童山の住職如浄禅師より正しい仏法を受け継ぎ、わが国 に曹洞宗を正しく伝えられた時の様子と嗣法の心について述べられた巻であります。仏 法を継承することを嗣法といいますが、曹洞宗ではこの嗣法を大変重要なものと位置づ けています。これが乱れたならば、仏教が堕落しかねないからであります。大変厳粛な ものであります。 曹洞宗では仏法を正しく伝えた証、つまり嗣法の証として師匠は弟子に「嗣書」とい うものを与えます。しかし、それは単に形式だけのものであってはなにもなりません。 法を嗣ぐことが「嗣法」でありますが、道元さまはこの嗣法こそ最も厳粛で大切なこと と説かれています。つまり嗣法とはどのようなものであるか、その本当の意味、心はな にであるかということを、この嗣書の巻とか、面授の巻で説かれました。これが正しく 行われなければ仏法の堕落につながり、衰退につながるからであります。当時すでにわ が国の仏教は堕落が始まっていたということで、道元さまはこのことへの危機意識をい だいておられたということであります。ここで、この文の意味を一応現代語訳いたしま す。 「お釈迦さまから歴代の仏さまやお祖師さま方が仏法を嗣ぐときは悟りを得た仏が仏 に嗣法し、悟りを得た祖師が祖師に嗣法いたします。それは師の悟りと弟子の悟りが一 致合体することであり、これを証契即通といいます。それは一人の師が一人の弟子にの み法を嗣ぐ単伝であります。だから最上の菩提つまり悟りが成就するのであります。こ の最上最勝の菩提は悟りを得た仏仏祖祖でなければ弟子の悟り、菩提を認証する資格が なく、それはできません。仏の認証を得なければ仏となることができません。したがっ て悟りを得ない人を最尊者などということはできません。 この認証、嗣法を得る時、無師独悟することになります。つまり師と弟子が、円融合 体、一如になるのであります。師と弟子は「さとり」そのものになるのであります」 現代語訳は以上のようになります。ところで道元さまが如浄禅師から印可証明をいた だいたのでありますが、嗣法は面授であります。嫡々の正法を正しく伝えてゆくには、 形はともかく師と弟子が対面し、心の絆が一致合体しなくてはなりません。これを二面 裂破証契即通といいます。二人の人格が悟りということで一つになるのであります。こ れを無師独悟・無自独悟といいます。師資つまり師匠も弟子もいない、ただ法があるだ けであるというのであります。しかし、形式としての嗣書もまた大切なものであります 。道元さまは龍門仏眼派の嗣書を閲覧する機会があり、大変感激されています。正師を 求めて中国宋の国に渡り、ついに求める生涯の師、如浄禅師に出会うことができます。 これはまさに因縁としかいいようのない、眼に見えない不思議な糸で二人は結ばれてい たといえましょう。如浄禅師は道元さまを一目見るなり、吾が仏法はこの日本から来た 僧侶に伝えようと心に決められるのであり、道元さまは如浄禅師こそ長い間、さがし求 めていた正師であると直感し、感激の余り眠れなかったといわれます。 「宝鏡記」という道元さまが宋の国での求法の様子を書き記した日記に次の様なこと が書かれています。ある時道元さまは本師如浄禅師に仏道についてたずねることの許可 を求めました。如浄禅師は道元さまに「あなたは今後昼夜を問わずいつでも、袈裟もつ けなくて普段の服装で私の部屋へ来て、たずねたいことがあればなんでも質問しなさい 。わたしはあなたを父親が子供の無礼を許すように許して、あなたを迎えましょう。」 と言われました。これは師如浄禅師が如何に道元さまが求法の道念があつく、また器量 、知識も深いことを見抜いていたからでしょう。道元さまは如浄禅師から印可を受け「 身心脱落」という言葉を残しておられます。これは如浄さまと道元さまとの二人格が一 つになったことを意味しています。この巻は現在の仏教寺院内のこととのみ片付けられ ない、現代社会に対する一つの問題、テーマをも投げかけているようにも思えます。 『葛藤をもて葛藤に面授して、さらに断絶せず』 p161「本巻の大意」より ’面授とは、仏教界における宇宙秩序の伝承に当り、師匠と弟子とが現実に顔と顔とを 合わせ、一対一の形で全人格的な伝承を行なうことをいう。そして仏教界において何故 この現実に顔と顔とを合わせた一対一の伝承が不可欠のものとされるかというと、師匠 と弟子との間において伝承されるものは、単に文字や言葉によって表現された思想でも なければ、感覚的に把えられた個別の体験でもなく、それは真理体得者となり得ている 師匠と、同じく真理体得者となり得たところの弟子との間において行なわれる全人格的 な伝承であるからである。’ p170 『震旦国以東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり。あらたに如来をみたてまつる 正眼をあひつたへきたれり。 釋迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらな るにあらざれども、倶時の面授あり。』 ≪訳文抜粋≫ 「中国以東の国において、釈尊以来の正しい伝統を荷っている流派においてのみ、一対 一で伝授を行ない、一対一で受領を行なうということが行なわれているのであり、鮮明 に釈尊のお姿を拝見申し上げるところの正しい眼というものを、〈師匠から弟子へと〉 次々に伝承して来たのである。 釈尊のお姿を礼拝する際には、〈摩訶迦葉尊者からこの道元に至るまでの〉五十一人の 祖師方や過去七仏の方々が、横にならんでいるとか、たてに並んでいるとかということ はないのであるが、〈しかも〉一斉に一対一の伝授を受けるのである。」 師と弟子が現実の場で真摯に向き合う瞬間、「真実」を求める者同士の授受の行い、こ そ言葉で言えないしかし決定的な何かである。その「瞬間」は歴史におけるすべての’ 面授’の瞬間と合同∋等価であるといえる。 正法眼蔵第五十一 面授 〈文底下種独一本門〉とは、〈言葉=事象〉の〈文底=奧底〉に〈正法眼蔵=生の 全体性=妙法の曼荼羅〉を把握する〈方法的原理〉である。それを〈修行=行持〉する とき、〈私=われわれ〉の〈生きる場〉に、〈友情と連帯〉が蘇生する。〈事象=言葉 〉の〈文底=奧底〉を〈道得=言述〉するとき、〈われわれ=私〉は目に見えない〈唯 心〉の法理を〈思考=造作〉してしまう。そのような〈造作=思考〉は、〈文底下種独 一本門〉から遠ざかる。 〈実存=妙法〉は、あくまでも〈色心不二=始源の時=久遠即末法〉であり、〈善悪 不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉なのである。〈私=われわれ〉がいかに〈 緻密・深遠・高尚〉と感嘆し、称讃する〈道得=論理〉も、〈只管打坐=境智冥合〉の 〈修行=行持〉がなければ、〈生命〉の〈分断化=脱益化〉を引きづり続けることにな る。道元は『正法眼蔵』を〈説著=道得〉することによって、〈釈尊=諸仏〉が〈道得 =説著〉する〈生死不二=色心不二〉の〈曼荼羅〉を〈面受=承継〉し、〈展開=現成 〉しているのである。 爾時釈迦牟尼仏、西天竺国霊山会上、百万衆中、拈優曇華瞬目。於時摩訶迦葉尊者、 破顔微笑《爾(そ)の時に釈迦牟尼仏、西天竺国霊山会上(りようぜんえじよう)、百万衆 の中にして、優曇華を拈じて瞬目す。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑(はがんみしよう)せ り》。釈迦牟尼仏言、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉《釈迦牟尼仏言(のたまわ) く、吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に附嘱す》。 これすなはち、仏々祖々、面授正法眼蔵の道理なり。七仏の正伝して迦葉尊者にいた る。迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者にいたる、菩提達磨尊者、みづから震旦国 に降儀して、正宗太祖普大師慧可尊者に面授す。五伝して曹谿山大鑑慧能大師にいたる 。一十七授して先師大宋国慶元府太白名山天童古仏にいたる。 大宋宝慶(ほうきよう)元年乙酉(いつゆう)五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙 高台に焼香礼拝す。先師古仏はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにい はく、仏々祖々、面授の法門現成せり。これすなはち霊山(りようぜん)の拈華なり、嵩 山(すうざん)の得髄なり。黄梅の伝衣なり、洞山(とうざん)の面授なり。これは仏祖の 眼蔵面授なり。吾屋裡のみあり、餘人は夢也未見聞在なり。 法華経迹門は〈宇宙即生命〉を物本事迹の視点でとらえ、法華経本文は〈生命即宇宙 〉を事本物迹の視点でとらえている。法華経迹門は〈声聞縁覚=菩薩〉への〈記別=面 授〉を説き、法華経本門は〈地涌菩薩〉への〈附嘱=面授〉を説いている。それは〈諸 法実相=色心不二〉となり、〈久遠実成=久遠即末法〉となる。〈法華経=釈尊〉が展 開する〈地上会=物本事迹〉と〈虚空会=事本物迹〉は、〈地涌=空涌〉し〈いま、こ こに〉開く〈始源の時〉に同時進行している。〈始源の時〉とは、〈いま、ここに〉生 きる〈私=われわれ〉一人ひとりの己心にほかならない。それは〈自他不二=善悪不二 〉となり、〈因果倶時=久遠即末法〉となる。そこで〈釈尊=諸仏〉は、〈肯定即否定 ・能動即受動〉の法理を〈常住此説法〉するのである。 〈成仏=妙法〉の〈記別=面授=附嘱〉は、すべて〈釈尊=諸仏〉から〈諸仏=迦 葉〉への〈嗣法=面授〉となる。〈われわれ=私〉一人ひとりの己心における〈釈尊〉 から〈迦葉〉への〈面授=嗣法〉のみが、〈唯仏与仏=師弟不二=法水写瓶〉なのであ る。〈釈尊〉は〈霊山会〉となり、〈拈優曇華〉となり、〈瞬目〉となり、〈摩訶迦葉 〉となり、〈破顔〉となり、〈微笑〉となる。さらに〈微笑〉は〈釈尊〉となる。 そこに描き出される〈曼荼羅=妙法〉は(七仏)となり、〈二十八代面授〉となり、〈 菩提達磨=釈尊〉となり、(迦葉=慧可)となり、五伝して(諸仏=大鑑慧能)となり 、十七伝して(天童如浄=釈尊)となる。道元の〈天童如浄=釈尊〉への〈焼香礼拝〉は 、〈霊山の拈華〉となり、〈嵩山(すうざん)の得髄)となり、〈黄梅の伝衣〉となり、 〈洞山(とうざん)の面授〉となり、〈仏祖=釈尊〉の〈授決=面授〉となる。 この面授の道理は、釈迦牟尼仏まのあたり、迦葉仏の会下(えげ)にして面授し、護持 しきたれるがゆゑに仏祖面なり。仏面より面授せざれば、諸仏にあらざるなり。釈迦牟 尼仏まのあたり、迦葉尊者をみること親附なり。阿難・羅?羅(らごら)といへども、迦 葉の親附におよばず。諸大菩薩といへども、迦葉の親附におよばず、迦葉尊者の座に坐 することえず。世尊と迦葉と、同坐し同衣しきたるを、一代の仏儀とせり。迦葉尊者し たしく世尊の面授を面授せり、心授せり、見授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を供養恭敬 (くようきようけい)、礼拝奉覲(らいはいぶごん)したてまつれり。その粉骨砕身、いく 千万変といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如来の面目を面授せり。 釈迦牟尼仏、まさしく迦葉尊者をみまします。迦葉尊者、まのあたり阿難尊者をみる 。阿難尊者、まのあたり迦葉尊者の仏面を礼拝す。これ面授なり。阿難尊者この面授を 住持して、商那和修(しょうなわしゅ)を接して面授す。商那和修尊者、まさしく阿難尊 者を奉覲(ぶごん)するに、唯面与面(ゆいめんよめん)、面授し面受す。かくのごとく代 々嫡々(ちゃくちゃく)の祖師、ともに弟子は師にまみえ、師は弟子をみるによりて面授 しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは、仏々祖々にあらず。たとへば 、水を朝宗(ちょうそう)せしめて宗派を長ぜしめ、燈を続(ぞく)して光明(こうみょう) つねならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり。また?啄(そったく)の迅機 (じんき)なるなり。 この〈面授=正伝〉は〈迦葉仏=諸仏=七仏〉となり、〈七仏=諸仏=釈迦牟尼仏〉 となり、〈釈迦牟尼仏=諸仏=七仏〉は〈仏祖面〉となる。さらに〈仏祖面〉は〈七仏 =諸仏=迦葉仏〉となる。〈仏面〉とは〈森羅万象〉が照らし合い、響き合いながら描 き出す〈妙法の曼荼羅〉にほかならない。〈迦葉の親附〉は〈親附の釈尊〉となり、〈 釈尊の親附〉は〈親附の迦葉〉となる。そこに〈阿難・羅?羅・諸大菩薩〉の付け入る 〈余地=過不足〉はない。 〈釈尊と迦葉〉の〈同坐・同衣〉は〈二仏並坐〉となり、〈二仏並坐〉は〈仏儀= 面授〉となる。〈正法眼蔵=妙法の曼荼羅〉と〈只管打坐=対坐=境智冥合〉するとき 、〈われわれ=妙法の当体〉と〈妙法の曼荼羅〉は〈並坐二仏〉となる。その〈面授= 仏儀〉は、〈いま、ここに〉開く〈自他不二〉なる〈己心〉に現成する。道元は、〈迦 葉尊者したしく世尊の面授を面授せり、心授せり、見授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を 供養恭敬(くようきようけい)、礼拝奉覲(らいはいぶごん)したてまつれり。その粉骨砕 身、いく千万変といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如来の面目を面授せ り〉と〈敷衍=展開〉している。 〈道元=正法眼蔵〉を〈道得=解説〉した〈論考=道得〉によって、〈正法眼蔵= 道元〉を〈面受=正伝〉することはできない。〈道元=正法眼蔵〉と〈面受=対坐〉す る〈方法的原理〉を展開しているのは、〈道元=諸仏〉と〈諸仏=日蓮〉のほかにいな い。〈正法眼蔵=道元〉と、どのように〈対坐=面受〉するのか。それは誰も肩代わり できない〈私=われわれ〉一人ひとりの〈発心=求道〉なのである。 〈面授=正伝〉は〈釈尊・迦葉〉となり、〈迦葉・阿難〉となり、〈阿難・商那和 修(しょうなわしゅ)〉となり、〈代々嫡々祖師〉となる。〈奉覲阿難〉は〈釈尊奉覲〉 を現成し、〈仏面礼拝〉を現成し、〈唯面与面(ゆいめんよめん)〉を現成し、〈面授面 受〉を現成する。道元は〈代々嫡々(ちゃくちゃく)の祖師、ともに弟子は師にまみえ、 師は弟子をみるによりて面授しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは、 仏々祖々にあらず。たとへば、水を朝宗(ちょうそう)せしめて宗派を長ぜしめ、燈を続 (ぞく)して光明(こうみょう)つねならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり 。また?啄(そったく)の迅機(じんき)なるなり〉と〈展開=敷衍〉している。〈本枝一 如〉は〈境智冥合〉を示し、〈?啄(そったく)の迅機(じんき)〉は〈直至成道=即身成 仏〉を示している。そこに〈言葉=事象〉が響き合い、照らし合いながら〈収斂=拡散 〉し、〈拡散=収斂〉する〈妙法の曼荼羅〉が浮かび上がる。 しかあればすなはち、まのあたり釈迦牟尼仏を、まぼりたてまつりて、一期の日夜を つめり。仏前に照臨せられたてまつりて一代の日夜をつめり。これいく無量劫を往来せ りとしらず。しづかにおもひやりて随喜すべきなり。 釈迦牟尼仏の仏面を礼拝したてまつりし、釈迦牟尼仏の仏眼を、わがまなこにうつし たてまつり、わがまなこを仏眼にうつしたてまつりし仏眼晴なり、仏面目なり。これを あひつたへて、いまにいたるまで、一世も間断せず面授しきたれるは、この面授なり。 而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この正伝面授を礼 拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。迦葉尊者等の二十八仏祖を 礼拝供養したてまつるなり。 仏祖の面目眼晴、かくのごとし。この仏祖にまみゆるは、釈迦牟尼仏等の七仏にみえ たてまつるなり。仏祖したしく自己を面授する正当恁麼時(しょうとういんもじ)なり。 面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤(かっとう)をもて葛藤に面授して、さらに断絶せ ず。眼を開(かい)して眼に眼授し、眼受す。面授は面処の受授なり。心を拈じて心に心 授し、心受す。身を現じて身を身授するなり。他方他国もこれを本祖とせり。震旦国以 東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり、あらたに如来をみたてまつる正眼をあひ つたへきたれり。 〈面授〉とは己心の師から弟子、己心の弟子から師への〈面授〉にほかならない。己 心の師と弟子が互いに面授し合うのである。過去・現在・未来の仏が〈いま、ここに〉 開く〈色心不二・久遠即末法〉なる〈時空=場〉に〈授決=面授=受決〉する。〈妙法 の曼陀羅〉と〈妙法の当体〉が照らし合い響き合うとき、〈森羅万象〉がそのまま〈釈 尊=諸仏〉の現成となる。 〈唯面与面・嫡々の祖師〉という〈譬喩=喩説〉は〈妙法の曼陀羅〉を表し、〈面授 し面受す・弟子は師にみえ、師は弟子を見る〉という〈喩説=譬喩〉は、〈妙法の曼荼 羅〉との〈唱題=境智冥合〉を表す。〈水を朝宗せしめ、燈を続し〉は〈勤行=行持〉 となる。〈光明つねならしむ〉は〈修証不二〉の現成である。〈億千万法するにも本枝 一如〉は〈久遠即末法・色心不二〉となり、〈?啄の迅機〉は〈直至道場=即身成仏〉 となる。 道元は、〈而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この 正伝面授を礼拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。迦葉尊者等の 二十八仏祖を礼拝供養したてまつるなり〉と〈説著=道得〉している。〈数十代の嫡々 〉は〈七仏釈迦牟尼仏〉となり、〈二十八祖仏〉となる。〈法要〉は〈正法眼蔵〉と現 成し、〈化儀〉は〈只管打坐〉と現成する。 〈仏祖の面目眼晴(めんもくがんぜい)〉は〈色心不二〉を表す。〈釈尊=諸仏〉と 〈諸仏=迦葉〉は互いに見つめ合う。そのとき〈釈尊=師〉は〈弟子=迦葉〉となり、 〈迦葉=弟子〉は〈師=釈尊〉となる。〈仏祖〉は〈自己〉に〈面授〉し、〈自己〉は 〈仏祖〉に〈面授〉する。道元の〈面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤をもて葛藤に 面授して、さらに断絶せず。眼を開して眼に眼授し、眼受す。面をあらはして面に面授 し、面受す。面受は面処の受授なり。心を拈じて心に心授し、心受す。身を現じて身を 身授するなり〉という〈道得=説著〉は、〈事の一念三千=妙法の曼荼羅〉を描き出す 。 〈仏祖したしく自己を面授する正当恁麼時なり〉とは、そこに開く〈色心不二・久 遠即末法〉なる〈時空=場〉である。〈面授仏の面授仏に面授〉し、〈眼を開して眼に 眼授し、眼受す。面授は面処の受授なり〉とは、〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉で ある。〈葛藤をもて葛藤に面授してさらに断絶せず〉とは、〈意味=心法〉と〈力=色 法〉が渦を巻いてわき立つ〈曼陀羅〉である。〈心を拈じて心を心授し、心受す〉は〈 心法〉の成仏、〈身を現じて身を身授する〉は〈色法〉の成仏となる。〈妙法の曼陀羅 〉は〈色心不二=一極〉なる〈生命=妙法〉を顕している。 釈迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つら なるにあらざれども、倶時(くじ)の面授あり。一世も師をみざれば弟子にあらず、弟子 をみざれば師にあらず。さだまりて、あひみあひみえて、面授しきたれり。嗣法しきた れるは、祖宗の面授処道現成なり。このゆゑに、如来の面光を直拈(じきねん)しきたれ るなり。 しかあればすなはち、千年万年、百劫億劫(ひゃっこうおっこう)といへども、この面 授これ釈迦牟尼仏の面現成授(めんげんじょうじゅ)なり。この仏祖現成せるには、世尊 (せそん)・迦葉(かしょう)、五十一世、七代祖宗(そそう)の影現成(ようげんじょう)な り、光現成(こうげんじょう)なり。身現成なり、心現成なり。失脚来(しっきゃらい)な り、尖鼻来(せんびらい)なり。一言いまだ領覧(りんらん)せず、半句いまだ不会(ふう い)せずといふとも、師すでに裏頭(りちょう)より弟子をみ、弟子すでに頂にん(ちんに ん)より師を拝しきたれるは、正伝の面授なり。 〈五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらなるにあらざれども、倶時 の面授あり〉の〈ならべるにあらず、つらなるにあらざれども〉は〈色心不二〉を表し 、〈倶時の面授〉は〈久遠即末法〉を表す。〈世尊・迦葉、五十一世、七代祖宗の影現 成〉は〈妙法の曼荼羅〉の〈相貌=色法〉となり、〈光現成〉〉は〈妙法の曼陀羅〉の 〈功徳=心法〉となる。〈身現成なり、心現成なり〉は〈色心不二〉を示し、〈失脚来 なり、尖鼻来なり〉は〈久遠即末法〉を示す。〈師すでに裏頭より弟子をみ、弟子すで に頂にんより師を拝しきたれるは、正伝の面授なり〉は、〈因果倶時=能動即受動〉で ある。〈因果異時=能動対受動〉の心で、〈他者〉を〈大日如来〉のように崇めて、そ の前にひれ伏すとき、〈己心の魔〉が目を覚ます。 かくのごとくの面授を尊重すべきなり。わづかに心跡を心田にあらはせるがごとく ならん、かならずしも太尊貴生(たいそんきさん)なるべからず。換面(わんめん)に面受 し、廻頭(ういとう)に面授あらんは、面皮厚三寸なるべし、面皮薄一丈なるべし。すな はちの面皮、それ諸仏大円鏡なるべし。大円鑑を面皮とせるがゆゑに、内外無瑕翳(な いげむかえい)なり。大円鑑の大円鑑を面授しきたれるなり。 まのあたり釈迦牟尼仏をみたてまつる正眼を正伝しきたれるは、釈迦牟尼仏よりも親 曾なり。眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむるなり。かるがゆゑに、釈迦牟 尼仏を、おもくしたてまつり、釈迦牟尼仏を恋慕したてまつらんは、この面授正伝をお もくし尊宗し、難値難遇の敬重礼拝(きようじゆうらいはい)すべし。すなはち如来を礼 拝したてまつるなり。如来に面授せられたてまつるなり。あらたに面授如来の正伝参学 の宛然なるを拝見するは、自己なりとおもひきたりつる、自己なりとも、他己なりとも 、愛惜(あいじやく)すべきなり、護持すべきなり。 〈かくのごとくの面授〉とは、〈釈尊=諸仏〉を〈承継=面受〉する〈三昧=只管打 坐〉にほかならない。〈わづかに心跡を心田にあらはせるがごとく〉は、〈文底秘沈= 眼晴〉を示している。〈太尊貴生(たいそんきさん)なるべからず〉は〈凡夫即極〉を表 し、〈換面(わんめん)・廻頭(ういとう)〉は〈いま、ここに〉開く〈一瞬一瞬=始源の 時〉を表す。〈文上=表層〉の参学は〈換面〉となり、〈文底=奧底〉の参学は〈廻頭 〉となる。〈面皮厚三寸・面皮薄一丈〉は、〈肯定即否定・能動即受動〉の〈譬喩=喩 説〉であり、その〈面皮=相貌〉は〈諸仏大円鏡=妙法の曼荼羅〉となる。〈諸仏大円 鏡〉は〈内外無瑕翳(ないげむかえい)〉となり、〈無瑕翳内外〉は〈大円鏡諸仏〉とな る。 〈眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむる〉の〈眼尖〉は〈只管打坐〉と なり、〈前後三々〉は〈始源の時〉となり、〈釈迦牟尼仏見出現〉は〈師弟不二=境智 冥合〉となる。〈敬重礼拝(きようじゆうらいはい)〉は〈難値難遇〉なのであり、〈難 遇難値〉は〈礼拝敬重〉なのである。道元の〈あらたに面授如来の正伝参学の宛然なる を拝見するは、自己なりとおもひきたりつる、自己なりとも、他己なりとも、愛惜(あ いじやく)すべきなり、護持すべきなり〉という〈公案=命題〉は、何を〈聞著=道得 〉しているのか。〈自己〉は〈他己〉をはらみ、〈他己〉は〈自己〉をはらむ。〈愛著 〉は〈護持〉をはらみ、〈護持〉は〈愛著〉をはらむ。〈肯定〉は〈否定〉をはらみ、 〈否定〉は〈肯定〉をはらむ。そのさらなる〈文底=奧底〉が問われるのである。
2016年7月23日土曜日
面授之巻
諸法実相
諸法実相 「諸法」というのは、もろもろのものですね。「もの」というか、ここに現 成(げんじょう)しておる全部の姿がすべて諸法、それがそのままに実相であると。 昔は「現象即実在」というふうな、あれは明治大正の頃ですかね、 「現象即実在、実在即現象」というような言い方で申しておったと同じことなんですが ね。 すべての存在しているもの。私たち人間も含めて、あるいは花も木も建物も 全部含めて、それが真実の姿であると。 【定義】 ①一切の存在を、存在そのものから見れば、平等相でありながら差別相を具えるように 、ただ単独に存在していることを諸法実相という。なお、現代語にある「平等社会」と いうような意味での「平等」ではなくて、存在それ自体がもつかけがえの無さを「平等 」と呼ぶのである。 ②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では50巻、75巻本では43巻。寛元元年( 1243)9月に、吉峰寺にて学人に示された。 【内容】 ①存在自体が、真実の姿をしているのか、それとも実体がない事実を受けて仮の姿であ るのかという論争は、仏教史としては長い論争があったようだが、諸大乗経典にあって も、「諸法実相」と「諸法虚妄」は大きな問題になったようである。然るに、「諸法実 相」については、その後の影響を考えれば『法華経』「方便品」にある以下の一句が象 徴的である。 唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。 仏と仏とが、良く究めてきたのは、諸法実相の道理だということであり、この論理が敷 衍されて、一切の存在が現実には差別相を具えていても、実際には悟りの姿そのもので あるというような解釈まで行われるようになった。そのもっとも顕著な例が、中世の日 本天台で行われた本覚思想であろう。 ②道元禅師は①に挙げた『法華経』の一句を敷衍して、『正法眼蔵』の一巻を著した。 そこでは、「唯仏与仏」は、「唯仏」と「与仏」というそれぞれに独立した仏祖の存在 であり、それぞれに独立した存在であるということを「乃能究尽」とした。そして、「 唯仏」と「与仏」は、まさに「諸法」が「諸法」として自らを明らかにし、「実相」が 「実相」として自らを明らかにすることであるとされて、それこそ仏祖現成の事実であ るとした。 仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり、諸法は如是相なり、如是性なり、如 是身なり、如是心なり、如是世界なり、如是雲雨なり、如是行住坐臥なり、如是憂喜動 静なり、如是?杖払子なり、如是拈華破顔なり、如是嗣法授記なり、如是参学弁道なり 、如是松操竹節なり。 さらに、『法華経』の句を縦横無尽に使用しながら、「相」についての解釈を展開され 、実相とはまさに、存在が自ら自身のあり方である生死去来が真実人体であることに気 づくことであるとされる。 発心・修行・菩提・涅槃を挙して、生死去来真実人体を参究し接取するに、把定し放行 す。これを命脈として華開結果す。これを骨髄として迦葉阿難あり。 また、仮の姿である方便と、真実の姿である実相とが、この現実にあっては本質的に違 いがないことを唱え、さらに、方便であると考えられがちな菩薩と、真実の姿であると される如来とが、本質的に違いがないという見解も提唱されていく。 いはゆる一切菩薩は、一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類にあらず、老少なし、勝劣なし 。此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自佗にあらず。過現当来箇にあらざれども、作仏 は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏し、始覚地に成仏す。無量百千万億度作仏せる菩 薩あり。作仏よりのちは行を廃してさらに所作あるべからずといふは、いまだ仏祖の道 をしらざる凡夫なり。いはゆる一切菩薩は、一切諸仏の本祖なり。一切諸仏は、一切菩 薩の本師なり。 また、同巻中には道元禅師が中国天童山の如浄禅師の下で修行している際に行われた、 或る夜間の普説及び入室について、非常に臨場感のある描写を行っており、当時の状況 を伝える貴重な資料ともなっている。その普説に於いて、如浄禅師は諸法実相の道理を 提唱しながら、まもなくに近づいた夏安居の開始か近いこと、そして安居の心構えと春 先の季候の良い時期には奮って坐禅すべきことなどが説かれた。 かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおぼえり。この夜は微月わづかに楼 閣よりもりきたり。杜鵑しきりになくといへども、静間の夜なりき。 「仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり。如是性なり 。如是身なり。如是心なり。如是世界なり。如是雲雨なり。如是行住座臥なり。如是憂 喜動静なり。如是柱杖払子なり。如是拈華破顔なり。如是嗣法授記なり。如是参学弁道 なり。如是松操竹節なり。」 般若心経に諸法空相という言葉があります。この言葉は般若心経の根本の教えを一言 で言い表した言葉であります。 これは「この世のすべてのものごとは空であり実体がない、仮に和合したものである」 ということであります。そしてこの諸法空相と諸法実相 とは、結局同じことを意味する言葉なのであります。この諸法実相という言葉は法華経 方便品に出て参ります。道元さまは正法眼蔵の多くの巻にこの法華経典より引用され、 その言葉が引用されています。そしてこの諸法実相も悟り、真理を表す言葉として引用 されたのであります。 実相とは現象を有るがままに有らしめているものは仏(真理)であるという意味であ ります。したがって諸法の一つである私たち人間も仏であり、真理としての存在という ことになります。仏道修行はこのことに気づき、行持し、体現することであります。こ の世のあらゆる存在はそのありのままの姿が、ただちに真実の姿であるということにな ります。そこにおいては、ありのままの姿以外には何らかの観念的な理想の側面から、 ありのままの姿を批判的に見るという唯心論的な立場でもなく、また逆に感覚的な側面 からのみそれを眺め、諸法を物質的な要素のみから見るという唯物論的な立場でもない 。つまりあらゆる存在はあるがままに有るのであって、右にも左にも偏らない存在とし てとらえられなければならないのであります。ここに諸法実相という言葉は、その簡潔 な言葉の中に仏教の世界観の究極が秘められているというのであります。 ここに引用いたしました一節は諸法実相の巻の冒頭の一節であります。道元さまはこの 諸法実相の巻を寛元元年九月、吉峰寺において衆に説かれました。どの巻もそうであり ますが、道元さまはその巻で説こうとされる要訣をまず冒頭の一節において説かれまし た。ここに引用いたしました一節につきましても、やはり難解な言葉があり、理解に苦 しむ文章でもあります。一応私なりに現代語訳をさせていただきます。 (お釈迦様がこの世に現れ、達磨さまが中国に渡られたのは、そのことそのままが、 ありのままの真実である。この世の諸々の実在は、それがそのまま真実の実在である。 それがそのままものごとの本質である。それがそのままありのままの物体である。それ がそのままありのままの心理作用である。それがそのままありのままの世界である。眼 前の雲や雨はそれがそのままありのままの天然現象である。日常の立ち居振る舞いはそ のままありのままの日常生活である。日常の感情の起伏もそれがそのまま真実の感情の 起伏である。僧侶が使用する柱杖払子などの仏具もすべてそのまま真実の柱杖払子であ る。お釈迦様から迦葉尊者へ仏法が伝えられた故事の拈華破顔の事実もそのまま仏性の 現成であり、単伝の仏法である。・・・) 道元さまはこのようにこと細かに例をあげて説いておられます。これを今一度要約す れば、仏の出世も祖師の西来もそのままの姿が実相であり、真理の現成である。お釈迦 様に代表される諸佛の出世は諸法実相の体現の相としての現成であり、諸佛が諸佛自体 として真理そのものの現成である。また、眼前の一切の森羅万象の現象、人生の一切の 行動、仏道の一切の発心、修行、菩提、涅槃等の仏行そのままが真理の現成である。 人間の苦しみの原因は欲望(貪欲)にあります。欲望とは自分の心に思うがままにな って欲しいと心に願うことであります。例えば人間生まれることは、その瞬間に死を約 束されることであります。いくら年をとりたくないと願ってもかないません。これが苦 しみであります。こだわりや欲望から少しでも脱することが出来れば、苦しみからも抜 け出せるのであります。この世の全てのものは因縁によって仮に和合して、仮に姿、形 、行動として現成しているにすぎません。 全てのものは空であり無常であります。ものごとの真実の相を見定めて、とらわれを 無くし、仏の真心に生きなければなりません。 宇宙悠久の道理に従った生き方をしなければなりません。 道元さまの傘松道詠の一つを 紹介いたします。 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」 ーーーーーーーーーー 神奈川県南足柄市(みなみあしがらし)大雄山(だいゆうざん)。ゆるやかな坂を上って 、最乗寺(さいじょうじ)へ向かう参道は眩(まぶ)しいばかりの緑に包まれています。参 道に沿って著莪(しゃが)の花が白い花を咲かせ、私たちの目を楽しませてくれます。 春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて涼しかりけり 金光: 今日は、神奈川県南足柄市にあります大雄山最乗寺にお邪魔しております。 最乗寺の山主(さんしゅ)余語翆巌老師に、「諸法実相(しょほうじっそう)」ということ についていろいろお話をして頂きたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。よ く「諸法実相」という言葉は、仏教の説明で聞くわけでございますが、これはどういう 意味なんでございましょうか。 余語: 字の意味を、ちょっと申しておきますと、 金光: 書いて頂いたものがありますので、ちょっとこれを拝見さして頂きます。 余語: 「諸法」というのは、もろもろのものですね。「もの」というか、ここに現 成(げんじょう)しておる全部の姿がすべて諸法、それがそのままに実相であると。昔は 「現象即実在」というふうな、あれは明治大正の頃ですかね、「現象即実在、実在即現 象」というような言い方で申しておったと同じことなんですがね。 金光: すべての存在しているもの。私たち人間も含めて、あるいは花も木も建物も 全部含めて、それが真実の姿であると。 余語: ところが普通はですね、本当の永遠のものとか、無限者というようなものは 、この移ろいゆくとは別にあるような考えをもっておる方の人が多いんじゃないかと。 金光: どっか違いところに無限の方がいると。 余語: そういうふうにして、今即今現成している自分を含めてそういうものが、ど うも本当のものでなくて、影じゃないか、というふうな考え方が多いんでしょうな。 金光: 殊に「空(くう)」という言葉を聞いたり、あるいは「非」とか、「無」とか という言葉が仏教に随分でてきますと、何となく現実のものは、 余語: 違うんですね。昔から―昔というより禅録によく出てくる言葉の中に、 百草頭上無辺春(ひゃくそうとうじょうむへんのはる) 「頭」は、ほとりですね。百の草のほとりに無辺の春が現じておる、という。 信手拈来用得親(てにまかせねんじきたってもちいいてひたしし) これが両方で対になるんですがね。百草―草花、いろいろな花のほとりに限りなき春が 現じておるんだと。黄色い花も、赤い花も、紫の花も、それぞれの姿において、無限の 春の顔と言いますかね、無限の春を、そういう形で現じておるのだと。だから黄色いの が良くて紫が悪いというふうな道理もないと。だから「手に信(まか)せ」というのは、 手当たり次第にもってきてね、どれもこれも親しいものであると。そこに好悪(こうお) の念もないのが当たり前だけれども、人間のそういうものが入ってくると、良いとか悪 いとか言っていますけどもね。春というのは、絵に描くわけにいかんですね。 金光: 掴まえるわけにもいかんわけですね。 余語: 表現のしようがないものでしょう。だから花という上に現じておるわけです ね。そういう赤い花は赤い花という春の顔である。花の上に赤い花という形をして、春 が現じておるというわけですね。だから、 春在梅花入画図(はるはばいかにありてがとにいる) 春を描こうと思えば、梅の花と書けば、大体春だということになるわけでしょう。初め て絵になったという。春が描くことができたわけですね。梅の花を描けば、そういうふ うに現実にそこにあるものの上に捉えきれない無限のものが現れておるわけですね。 金光: 先ほど一番最初の「諸法実相」というのも、こういう形で出ておると。 余語: それから梅花とか、花というものは、現実の有限のものなんですよ。限定が できない、掴まえられない無限者というふうなものが、有限者の上にのみ出てくること がある。難しいことを言うと、そういうことなんでしょうな。今ここにあるこの五尺の 身体、そういうものを非常に軽んずる傾向がありやせんかと思うんですがね。六祖慧能 (えのう)が、門人の行昌に示した「無常者仏性也(むじょうはぶっしょうなり)」という 言葉があります。仏性というのは、常住不変のものというふうに思われている無常変転 常なきもの、それが仏性だという。世の常のすがたは移り変わり移り変わりして、その 移ろいゆくすがたを、世間のことはよろずたわごとですべて儚きものというふうに受け 取って世間虚仮(こけ)、唯仏是真というようにも言われる。されどよく思えば、有限の 移ろいゆく無常が無限のものの一歩一歩ということができる。無限者、永遠のものが、 有限を離れてどこかに別に存在するように思うのは大いなる錯覚である。無常というも のは移ろいゆくものですよ、儚いもの、それが仏性なんだ、という。仏性というものは 永遠なものなんですね。 その読み方も「無常も仏性なり」と読むがいいか、「無常は仏 性なり」と読むのがいいのか。そういう迷いはありますが、とにかく移ろいゆくものの 上に、本源のものが現じているという考え方ですね。諸法は実相なり、という。諸法と 実相とは同じもの。諸法というものは、現成の姿であって、移ろいゆき常無きものだ、 というふうに思いがちなんですが、その上にこそ真実が、現実になる場所があるという 、そういう考え方でしょうな。 金光: そうすると、そういう世界を、例えばよく知られている「般若心経」なんか も、そういう世界のことを述べているわけでございますか。 余語: 無い。その中に花あり、月あり、楼台あり、と出てくるでしょう。それを「 無一物中」ということは、「無の一物」と、そういうふうに読んでみたらわかりそうな 気がする。すべてが無の一物としてね。一切のものが、無というすべての根源たるもの の現れた一つひとつのものであって、そういうものがこのような世界に現成しておるん だから、花あり月あり楼台あり、という言った方が分かり易いような気もするんですが ね。あれは雪峰義存(せっぽうぎそん)和尚の弟子の玄沙師備(げんしゃしび)という人で すがね、その人が雪峰山で修行しておって、遍参―雲水修行に天下を回るというふうな ことで出掛けようと思ってですね、雪峰山の山門に至って、足を石に「築著(ちくじゃ く)し」とありますが、生爪を剥がしたんですね。「痛い!」と言うわけですね。それ で考えたんだろうと思うんですがね、昔から「是身非有痛従何来」この身あるにあらず 、痛(つう)いずれよりきたる、という文句。普通の誰が見てもよくわかる言葉ですがね 。こういう表現ですね。この身体はあるのではないと。痛みいずれよりかきたる、とい うんですが、普通は昔からの教えに従うと、この五尺の身体は、因縁仮和合のものであ って、実体のある存在ではないと古来より教えられてきている。強いて言えば、似有― 有るに似た何かがある―とでもいうべきか、そのような存在であるという。それはその ように受領しても、この痛みは尋常でない、痛いのは実に痛いんだ。痛烈に痛いんだか らね。どっかからきたるんかという疑問を呈して、雪峰山へまた旅に出ずに帰ってきて しまう。そういう話がある。ところがそういうのは普通の受け取り方には違いないです ね。本当はこれは自分の一切の身体はあるものとは違うから執着するな、ということは わからんことはないけども、痛みとはどっかからきたんだ、というふうな疑問の生まれ てくるように、このままではどうも落ち着かない解釈になる。よう考えますと、この「 非」という字は、「是の身は非の有(う)なり、痛み何(が)より来る」と読んでみたらど うかと。「痛何(が)より来たる」と、疑問でなくて、「何(が)」というのは不特定の言 葉でしょう。「何(なに)」という字はね。それも「非」とよく似た意味になって、 金光: 「非」と「何」と共通のものであると。 余語: 痛みも何(が)より来たんだと。この身体は非の有であり、痛みは何(が)より 来たんだ、という疑問でなくて、肯定ですね。受け取り方。だからそういうふうな読み 方でね、大変に違った絶対者のとらえ方だと思うんです。だからごてごていうなという わけです。さっきの「諸法実相」と同じことです。実相が諸法に顔をしてそこに出てお るんだから。人間の面(つら)でもみんなが注文したものでないから、その通りに天の授 かりに違いないものだ。そういう受け取り方になっていくんでしょうな。読み方で大変 に変わるというのは、金光さんもご承知のように、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅ じょうしつうぶっしょう)」というのがありますね。「一切衆生悉有仏性」とあって、 これは「悉く仏性有り」と読む時は、仏性を持っておるという意味、所有しているとい う。昔の書物を見ましても、仏性ということは一体何じゃというわけですが、仏になれ る性質、そういうのが生まれつきあるのか、それとも途中でそういうものが身にくっつ いてくるのかというふうな議論がありますがね。仏性というものは一体何だという決め 方が難しいですね。仏になれる性質ということは、仏という仏の姿というものが非常に 素晴らしく万徳円満のお姿をしておられるのが仏様様だと。そういうふうになれるよう な本質を持っておるというふうに、大体そう考えておるんじゃないかな。だから仏性と いう尊いものがあるから、普段は妄想煩悩に覆われておる。修行して、そういうものを 取り去って仏様になるように修行するんだと。 金光: 磨かないとダメだというふうに、 余語: そういう考え方ですがね。そうすると、そういう仏性があるというと、そう いうことになる。ところが道元さまは、「悉有(しつう)は仏性なり」と読むんですね。 悉く有るというのは「悉有(しつう)」と読む。悉くの存在、それが仏性だという。そう いう読み下しをなさると、さっきの「この身は非の有なり」と同じように、全部が仏性 なんですね。「悉有の一悉を衆生という」と、人間なんていうのはその一有(いちう)― 一部分に違いない。そういう意味が明歴歴(めいれきれき)とわかってくる。全部の存在 が仏性だと。ちょっと難しいんですがね。犬に仏性が有るか無いか、というのが、公案 に一つあります。狗子(くし)(犬)に仏性が有るかと問われて趙州(じょうしゅう)和尚 は、「有る」と答える。問僧は、仏性は尊く優れたものとの考えをもっているために、 「仏性というすばらしいものが、どうして犬のようなつまらないものの中に入っている のですか」と訊く。趙州は、「仏性がよく承知しておって殊更に犬の中に入っておるん だ」という、そういう答え方ですね。一般的に言えば、好きこのんで入っておるんだ、 と、そういうんですがね。全部が仏性なんですよ。犬と他のものとも、ものが全部仏性 がそうなっておるんだと。仏性というものを、綺麗な素晴らしい存在だと考える人は、 そういうことがわからん。一切の清浄の法界、現成の世界は―世界中そういう考え方は 共通のように思いますがね―この世界は清浄の世界から生まれてきたものだ、とそうい うふうに考えるんですね。そうしたら神様がお造りになったこの世界というものも、清 浄たるべきものであるのに、何故そうなっておらんかという、弁解をする。天地清浄、 法界清浄のものに、人間が手垢を付けておるような状態が、今の人間の寸法か、人間の 判断で考える世界があって、これは解決が付かなくなるんですね。犬にも仏性があるよ 、という時に、そういう問答があって、それからもう一人の僧には、「それは無いよ」 という。犬には仏性は入って無いんだ、という。 金光: 同じ趙州和尚が? 余語: 同じ趙州が。後で困るんですね、みんな。「何故無いんですか」と言ったら 、その答えは、趙州和尚は、「業障(ごっしょう)があるから仏性はないんだ」と。業障 というものがいっぱいあって、仏性は入る余地がないんだ、というような意味の答えを 、「業障あるがためなり」というんですがね。それは、「業障も仏性だ」というんです 。そういうふうな断定はちょっとできませんがね。一切法界清浄の世界だということが わかると、一切が清浄なんですね。清浄という言葉を使うから、不清浄というのですね 。どれもこれも、煎じ詰めてみますと、「揀擇(けんじゃく)することなかれ」と、三祖 僧?(そうさん)の『信心銘(しんじんめい)』にありますがね。有名な「唯嫌揀擇(ゆいけ んけんじゃく)」ですね。こういう『信心銘』の「唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」唯( ただ)揀擇(けんじゃく)を嫌う―「よりごのみをするな」ということである。「比べあ うな」ということである。この句が全部を覆い尽くしているような気がしますね。全部 そうなってくるように、とにかく全部が仏性の姿だと。それを相手によりごのみするな 、ということになると、人間の価値判断が妄想になるんですな。善悪を分けること、美 醜(びしゅう)を分けること、全部妄想と言っていいくらい、そういう妄想だということ がわかれば、宗教の風光がよくわかってくるんじゃないかと思うんですが。 金光: 人間のソロバンがまったく通用しない世界と言いますか。 余語: これもよく言いますがね、葬式の時は、「死は汚れだ」というて、お仏壇の 前にこう紙張ってやるでしょう。生まれることは人間のソロバンでは大変嬉しいことに 見える。死ぬことはよくないことだ。そう分けることが人間の寸法ですね。それは当然 の感情ですけども、よく考えてみると、死ぬことも、生きることも天地の姿でしょう。 「花は散る散る常住実相」と言いますね、「花は咲く咲く常住実相」どれもこれも天地 の姿だ。死ぬことだけが汚れだというのは、こんなものはくだらん。 金光: そうすると、無常は仏性というのも、今のお話まったく同じことですね。 余語: みんな同じことに通じますがね。だから本当はそういうふうな死だけを汚れ とする考え方、そうだからというて、今から死んだ時おこわ焚くわけにもいきませんけ どね。そういう価値判断は妄想だということがわかると非常に楽になると思うんですが ね。 金光: 人間が苦しむのは、大体自分が苦しむので、その苦しんでいる自分のいろん な、これは嫌だとか、これさえなければ、とすぐ思うんですけれども、そういうのを離 れられるわけですね。 余語: それは実際の痛みは離れるわけにいかんでしょうけどね。見る立場にあるん じゃないかな。大体死ぬことも、立派に死にたい、というふうに考えるんですがね。 金光: 諸法実相ということも、これは計る秤はないわけですね。 余語: ありません。そのままなんですからね。「そんな重い物をよく持って来られ たもんじゃ」というのは、お互い一個の存在がどこからどうなっておるかよくわかりま せんでしょう。誰も答えようがない。そのこと自体昔の言い方ですと、「運水搬柴(う んすいはんさい)、是神通(これじんずう)」というわけです。これ普通に生きている、 特別なことをすることは要らんことなんですね。どの人のいのちも、この人のいのちも 、そのようにして神通の姿のままで生きておるんですからね。計る秤がないんだから。 自分のやったことが立派だとか、立派でないとかね、偶然にそういうことになって、こ の世の中でできた人は、それは結構な、そういうふうに力があってできる。できん人は できん人で結構なんですね。どの人の人生も、この人の人生も、そのままで足りておる んですね。お釈迦様のお悟りの時に、どういうふうだったかというと、伝記をみますと 、暁に明星をご覧になってお悟りになったと。そしておっしゃったことには、「我與大 地有情 同時成道」我と大地有情と同時に成道す、という言い方をされたことになって おるんですね。 「諸法実相」の巻き5.: 「法華経の「真実相を示す」(前回記事)というのは、諸法実相の言葉を世界全体に聞 かしめることであり、世界全体に仏道を成ぜしめることだ。また、実相すなわち諸法の 道理を、全ての人にうなずかしめることであり、その道理をあらゆる事物の上に出現せ しめることだ。 つまり、過去7仏から6祖・慧能までの40仏・40祖の究極の悟りは、ことごとくこの経 に属しているのである。経文に「全てこの法華経に属する」といわれているとおりであ る。この経の所属である。僧堂で用いる坐布や禅板が、そのまま無上の悟りであるとい うことも、皆この経に属しているのだ。「捻華破願」や「礼拝得髄」も、共にこの経に 属しており、この経の所属である。それこそ「方便門を開いて真実相を示す」というこ となのだ。 然るに近来の大宋国における道理に暗いやからは、肝心なところが分からず・要所を見 ず、実相の説をあたかも虚妄の言の様に考えている。それどころか老子・荘子の言説を 尊んで、それを仏祖の大道と同一だといっている[ここの部分は、歴史的資料として、 中国禅宗の根本性格を知る上で重要だ]。また儒・仏・道の3教は一致すべきだといって いる。あるいは3教はあたかも鼎(かなえ)の三脚であり、一本でも欠ければくつがえ るであろうという。愚かさも極まった。若し仮に三教の一致が正しいなら、仏教が印度 に現れるとき、儒教や道教も同時に現れねば成らぬ。だが実際はシャカは「天上天下唯 我独尊」といわれたのだ」。 道教では人間は、修業によって仙人となり、神々の一員となって永遠に生きることにな っている。また儒教では人間は死後、一定期間霊として残り、その後はまとめて「ご先 祖様」になって永遠に生きる。国家が公認すれば神となって永遠に生きることも可能と されている。だが道元の禅では、 「「弁道話」の巻き」 で明らかなとおり、この様な個別・具体的な死後の霊魂を認めない。 「「即心是仏」の巻き」 で明らかなとおり、宇宙全体が自己の心だと考える(他人の存在をそもそも認めないの だから、別に自他の区別を立てる必要も存在しない)。だからそもそも死は存在しない 。時間自体を自分が造っていると考えるから、「永遠」ということも「刹那」というこ ともどちらも存在していない。 だが当時の中国禅はそうではなかった。当HP記事 「84.「禅宗とは何か?(資料編3)」071024」 で、六祖・慧能が死亡した後、次の様な不思議な現象が起きたとされていることを紹介 した。 「恵能大師はこう語り、静かに息を引き取った。享年76歳。 大師が逝去された日、寺の境内には、不思議な香気が盛んにおこって数日たっても消え なかった。山は崩れ地は震え、木々は枯れて真っ白になり、日月は光が消え、風雲の気 配も只事でなかった。11月になると遺体から白光が現れ、真っ直ぐに天を貫き、2日 たってから漸く消えた。韶州長官が碑を立てた。人々は今もお祭りをしている」 つまり六祖・慧能は仙人に成ったと考えられていたのである。 「三教一致の説は、赤子の言葉にさえ及ばぬ。この様なやからが多くなった。彼らは或 いは人間界・天上界の指導者となり、或いは帝王の師匠となっている。これが大宋国の 仏法の衰微の現状だ。先師・天童如浄はこれを深く戒められた。 圜悟(えんご)禅師が言われるに、 「生死去来、すべてこれ真実人体である」と。 この言葉から、自分をも知り、仏法をも量るべきだ。 長沙景岑(けいしん)がいうに、 「尽十方界は真実人体、尽十方界は自己の光明裏である」と。 この様な言葉は、今の大宋国における諸方の長老たちには、およそ参学すべき道理であ るとは知られていない。まして彼らがどうして実際に参学できようか。若しこの言葉を 彼らに突きつけたならば、只赤面して沈黙するのみだろう。 先師・天童如浄はある時こういわれた。 「今の諸方の長老たちは、古を照らすこともなく、今を照らすこともない。仏法の道理 を完全に失っているのである。十方世界などと言っているが、その道理をどうして知る ことが出来ようか。その心には未だ一度も聞いたことがないようだ」と。 私はこれが本当かどうか確かめる為、実際に諸方の長老たちに問うてみたのである。そ の結果、先師の言葉は正しかった。 哀れむべきだ。虚妄の説を成し、長老の職を汚しているとは」。
2016年7月9日土曜日
見仏記
01 ここに言われる「諸相を見る、非相を見る」とは、自己を透脱した認識の体得であり 万象の真相に通達するものである。このようなこととして、万象にその本質である 空相を見るのは真実をみるのである。このすべてを透脱する認識眼は、仏法によって 保たれている世界に開かれた仏眼の現成であり、これを見仏というのである。 如来を見るとはこのような認識の透脱をいうのである。このように仏眼の活路を 通達して、如来に参ずるのである。己の見る諸相を脱し己の諸相空相の覚りを 脱し、認識の世界の外に己の覚りの脱するとき、世界は数々の蔓や枝が茂っている とはいえ、仏たる認識を学び、仏たる認識を修行し、仏たる認識を脱落し、仏たる 認識を働かせ、仏たる認識を自在に使って、どのような事象にも、随所に仏を 見るのである。 このような見仏は、無尽の面、無尽の身、無尽の心、無尽の手眼による見仏である。 発心して己の脚によって仏道に発心してこのかた、修行し、努力し、 覚りを究めていく行くのも、みな自己を脱落して如来の世界に走りいる 眼晴の働きであり、全身心の働きである。 02 このようであるから、自己としての全世界、他者としての全世界の、 あちらこちらの所在を見るということは、すべて同じ見仏という修行 による外はないのである。如来の言う「若見諸相非相」の言葉を取り上げて 参学眼のない者たちが思うのは、「諸相は相ではないとみるとき、 すなわち如来を見るのだ」という。その趣旨は「ここに言われる諸相はただの 相ではない、如来の三十二相を見ることをいう」と思うのだ。 まったく如来を小さく考え測るならこのように学ぶこともあるのだろうが、 釈迦のこの言葉の意味はそのようなものではない。知るべきである、 諸相を見て取り、非相を見て取るとき、「如来を見る」のである。 ここには如来があり、非如来がある。 09 釈迦牟尼仏は一切の菩薩に告げて言われた。 「禅定に深く入り、十万仏を見る」と。 全世界は深いとのみ表現されるのである、全世界は東西南北上下乾坤良巽 の仏の世界であるからだ。すなわち広いのではない、おおきいのではない、 小さいのではない、狭いのではない。一方を取り上げればそれに随って 他方も連なって示されるのだ。このようなことから十方は「全収」と いうのである。大小広狭などの概念によって測りうるものではない。 すべてを収め外側はないのであるから、十方世界は入るのみである。 この尽世界に深く入ることそのものが禅定である、「深く禅定に入る」 とは、「十方の仏を見る」のである。深く入っても誰もいない処に在所を 得るのだから、十方に仏を見るほかはない。たとえ何事かをしても、 誰も受け取ることがなく、人の言葉も行為も用いるところがないのが 禅定であるから、仏は十方所在するのである。深く入るとは永久に出ることが ないのである。禅定の中に十方仏に会うとは、ただ眠り如来になるのである、 坐臥する生き仏になるのである。禅定に入り込んだら頭を出すことはできない。 17 釈迦牟尼仏は言われた。「諸人の仏の教えを体得し、柔和で素直なものは、皆 私の身が、ここにあって説法するのを見るのである」 あらゆる仏の本質的な姿は、泥をかぶり水にぬれた姿である、波に随い波間のままに 進む姿である、衆生の迷いや苦悩を、わがこととしてそれに順応するのである。 それを体得するものを、吾また是くの如し、汝又是くの如しとする「柔和で素直な もの」というのである。忍ほかのない娑婆世界の泥の裡で仏を見、すべてに順応する 素直な心において仏をみるのである、そして「仏がここにあって法を説く姿を 見る席」に己も列するのである。 19 ここに言われる「仏にまみえた」とは、自己なる仏を見たとは言われてはいない、 他者である仏を見たとは言われていない、ただ見仏なのだ。一枝の梅とは一枝の 梅を見ることである。一枝の梅はそれを見る眼とともにある。見仏は明々たる 梅花の開花である。
2016年7月8日金曜日
全機之巻
01 現成とは生である。生はそのまま現成である。生が現成するとき、生が全面的に 現成しないということではない、生とは生の全現成にほかならない。 生が現成するとき、当然のこととして死も同時に全面的に現成しないことはない。 02 こうした生と死のからくりが、生を生たらしめ、死を死たらしめる。 このからくりの現れとしての人が生きて在る時とは、必ずしも小というのでもない。 人の生死にともなって全世界が現成するわけでもなく、また人の生死は人にとって 生死にともなう彼の全世界であるから、部分として限られた世界でもない。 長短といった量の問題からは離れている。現在する生は生死のからくりのなかにあり、 このからくりが現在する生なのだ。 03 生は来るのではない。生は去るのではない。そのまま即時的な生の現というわけではな い、 そのままの即時的な生を成というのではない。そうであるが、生は六根全身の 働きの現れである、死は六根全身のはたらきの現れである。知るべきである。 自己は無限の現象を内在しており、そのなかに生があり、死があるのだ。 06 園梧は言った、「生は全機の現成である、死は全機の現成である」と。 この言葉の意味を明らかにし究めねばならない。究めるというのは、「生は全機の 現成である」とする道理は、生の初めと終わりとは関係なく、何物も、全大地、全宇宙 さえも、死が人のすべての働きとして現成することを妨げないだけではなく、生が 人のすべての働きとして現成するすることをも妨げないのである。こうしたことだから 、 生は死を妨げない、死は生を妨げないのだ。全大地、全宇宙は生にも伴っている、 死にもともなっている。 全機の説明 人の主体、六根全身の積極的なはたらき。機は機織の機、活らき、作用 全機:「人間存在のすべての可能性を発揮する偉大な活動」 機:「仏の教化をうけて働くことのできる能力」 機関:「主観/客観」の区別なく、自己と世界が一つに融け合い存立しているさま。そ の全体的な作用を「全機」という。 諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。 :仏の道を究め尽くした奥義とは、あらゆる条件付けにとらわれない自由な境地に抜け 出ていること(透脱)であり、いまここにありのままあるということ(現成)である。 その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。 :その透脱というのは、生が生を離れ超え出ており、死も死を離れ超え出ている状態で ある。 このゆゑに、出生死あり、入生死あり、ともに究尽の大道なり。 :そのために、生死を超えた生死を生き、生死に没入した生死を生きることが、どちら もともに仏道の究極なのである。 捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。 :生死を離れること、そして生死をありのまま受け入れること、どちらもともに究極の 真理である。 全機とは、すべての働きという意味なのでしょうが、ここでは、真実のすべての働きが 現成しているのが、生であり、死であると述べておられるように思います。 いずれにせよ、生死に向き合った巻です。これは、増谷文雄さんが書いておられるよ うに、いつもの興聖寺ではなく、六波羅蜜の波多野義重の屋敷で行われた説法であり、 日々死に向き合って暮らしている在俗の人間に向けて説かれたものであるように思えま す。 全機の中の言葉 この巻にも、いくつもの美しい言葉が登場しますが、今回は、二つの言葉を紹介し ましょう。 「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しか あれども、生は全機現なり、死は全機現なり。 しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。」 生は、いずこかより来たれるものでなく、いずこかへ去るゆくものでもない。同時 に、生はなにかが現われたものではなく、なにかが成ったものでもない。 そうであるけれども、生はすべての働きが現成したものであり、死もすべての働き が現成したものである。 知るべきである。自己のうちに無限の法があるのであり、この真理の中に生も死も あるのである。 「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」 これが、全機というものだということでしょう。 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむ ような思考の展開がなされます。 「生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。 このふねは、われ帆をつかひ、われかじをとれり。 われさををさすといへども、 ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。 われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。」 ここで、「ふね」とは、生のことです。「われ」はわれですが、ひとまず、われとは 、この肉体をもって今の世に生をうけている自分の核となる認識主体というように仮定 して読んでいってみましょう。 ふねを棹さすごとく、自分の意思でこの生を生きていると思えるけれども、ふねが自 分をのせているように生そのもののなかに自分は依拠している。 一方、私の認識において、この生があり、この世界が存在しているとも言うことがで きる。私が、舟にのっているから、舟は舟として働いているのである。 この機微を参究すると、天も水も岸もすべて舟の時節となる。すなわち、全世界は生 のうちにある。 「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」 これが、全機というものだということでしょう。 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむ ような思考の展開がなされます。 【定義】 ①機は機用でありはたらきのこと。それそのものが何ものとも相対せずに存在している ことを全機という。 ②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では41巻、75巻本では22巻。仁治3年(1 243)12月17日に、京都六波羅蜜寺側の波多野義重の陣中に於ける説示。 【内容】 ①臨済宗楊岐派の圜悟克勤は、この「全機」という言葉を好み、以下のような説示が残 っている。 全機は直に正法藏を明らかにす。 『圜悟仏果禅師語録』巻20 ②なお、同じ圜悟克勤には以下のような言葉も残っている。 生も也、全機現。死も也、全機現。 『圜悟仏果禅師語録』巻17 道元禅師はこの言葉に基づいて、『正法眼蔵』「全機」巻を著している。まさに生死と もに仏の一切のはたらきが現れきっており、同時に仏のはたらきによって現れているこ とを示している。 諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは 生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆえに、出生死あり、入生死あり、とも に究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。現成これ生なり 、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成 にあらずといふことなし。 <1> 真理の体験 仏道の究極は、“透脱(とうだつ)”であり、“現成(げんじょう)”である。 “透脱”とは、生においては生を解脱(げだつ)し、死においては死を解脱すること である。 生死を離れること、生死に没入することが、いずれも仏道の究極である。また、生死を 捨 て、生死を救うことが、いずれも仏道の究極である。 <要約> 人間の生き方の究極は、徹底した自己否定と、それによって可能な徹底した自己肯定であ る。 “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、われの生命を実現して い ることである。それが実現するときには、生命のすべてが現れないはずがなく、死のす べてが現れないはずがない。 <要約> 一旦、小さな自分を捨ててしまえば、それよりも更に大きな普遍的生命、即ち、命の 全体を 体験することができる。 (1)・・・・・ 「 さて...“透脱”と“現成”の意味は、本文の中で的確に説明されているので、こ こ では形式的な説明は必要ないと思います... その上で、“透脱”という、相矛盾する意味の上に成立する概念とは、はたしてどの ようなものでしょうか?仏教の経典では、このような説明手法が多く用いられていま す。それは、その真に説明する所が、言語を超越しているからでしょう。2つの概念の 矛盾を超越した所に、“悟りの境地”があり、経典の“学びの本質”があるからです、 」 ********** (2)・・・・・ 生死を離れ、生死に没入し...生を解脱し、死を解脱する... 「そこに...どのような人格が析出するのでしょうか。『正法眼蔵』の執筆者/道元 禅 師は、そこに“仏道の究極”があると言っておられます。そこに、“悟りの境地”があ ると いうのです。 いわゆる仏典は、それこそ仏教文化圏に、山のようにあります。仏教には、聖書(キ リスト教)やコーラン(イスラム教)のような、唯一絶対という聖典はありません。し かし、すべ てが“仏道の究極”を指し示しています。仏教は、“信仰の道”というよりも、“智慧の 道” と言われるのは、こういう所にも表れています。 それにしても、これはどういう意味なのでしょうか。私はこれは、“無心に、現在行 っ ている行為・状況に、没頭せよ”ということだと思います。言い換えれば、“そのこと 以 外は考えず、その中に深く深く没入せよ”、それが“悟りの境地”を体現するというこ と です。 私たちは、山の頂上に登り...時には、息が止るほどにその絶景に感動します。 その瞬間は、その感動に没入し、それ以外のことは考えません。そうした純粋な混じ り気のない心が、まさに“悟りの境地”ときわめて近いものです。 サッカーをすればサッカーに没頭し、他のことは何も考えない。絵を描けば絵に没 頭し、音楽ならば音楽に没頭する。他のことは何も考えず、深く深く没入する。それ が、“生死を離れ、生死に没入”するということです。そこに、“仏道の究極”が見え、 “悟りの境地”もまた、そのすぐ近くにあるということでしょう。 しかし、言葉の上での理解は、宝物箱の一番上の、透明なセロファン紙を剥(は)が したようなものです。肝心の宝物は、まさにその中にあります。母親と未分化の赤ん 坊の心/穢(けが)れのない純粋な子供の心/青少年の心は、“悟りの境地”に近い とは、このような“無心の心”を言うのでしょう。 一番上のセロファン紙の意味は、大人にとっても同じことです。その下に、幾重も の修行体験を経て、更に幾重もの包みがあるのが見えてきます。そして、宝物箱の “悟りの言葉”のより深い意味を、より深く理解し、更に深淵な“悟り”の境地へと迫 って行きます。人生の意味は、まさにこの、“真理の体験”の中にこそあるのでしょう 」 (3)・・・・・ “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、“われの生命”を実現 していることである。 「“われの生命”...そして、“命のすべて”...とは、非常に含蓄のある言葉で す。 無限の深い意味を持っています。この世とは、何はともあれ、“われの眼”で見た“一人 称の世界”なのです。“君”や“彼”という、2人称や3人称は、眼前するリアリティ ーの 中には存在しません。リアリティーは、あくまでも1人称の“唯心”から見た、“巨大 な全 体”なのです。 小説のように...3人称の、“彼から見た風景”というのは、眼前するリアリティ ーの 世界には存在しないのです。それは、相互主体性を反映した、フィクション(小説、虚 構)の 世界でのみ成立するのです。 では...この世のすべての認識、すべての存在に関わる“我”とは...一体何者 な のでしょうか。“われの命”、“命のすべて”とは...一体何なのか。これは、単な る 1生物個体の自我を超越した、はるかに大きな背景...“心の領域”の広野が垣間 見えてきます。 仏道では、この風景を“唯心”といいます...“唯心”とは、言い換えれば、“た だ1つ の、不可分な、巨大な全体”です。この巨大な全体には、局所や部分というものが存在 しません。だから、不可分な全体なのです。これが、今まさに眼前するリアリティーの姿 であり、現代物理学と共通します。 さて...リアリティーを名詞によって差別化し、動詞で波動させたのが、“言語的 亜 空間世界”です。人類は、この“言語的亜空間”に文明を築き上げ、展開しているので す。3人称の視界が開かれるのは、この亜空間におけるフィクションだからです。その フィクションの中に住む人間は、まさに相互主体性世界を展開し、豊かな文化を花開 かせているわけです。これもまた、深淵な生命進化と構造化の、偉大なベクトルの上 にあることなのでしょうか... “物の領域”と“心の領域”の統合されたものが...いわゆる“この世の姿”で す。 21世紀は、膨大な未知なる領域...まさに“心の領域”の解明が、大いに進むと言 われます。このことが、様々な宗教に及ぼす影響も、また計り知れないものがあると 思われます...」 <2> 実在と夢・・・物理空間と認知 このような体験が、生を生としてあらしめ、死を死としてあらしめるのである。この よう な体験が実現するとき、それは大きいともいえず小さいともいえず、無限であるともい えず有限であるともいえず、長いともいえず短いともいえず、遠くにあるともいえず近く にあるともいえない。 われわれの今の命は、このような体験によってあらしめられるのであり、同時にわ れわれの命がこのような体験をあらしめてゆくのである。 <要約> 普遍者としての体験は、無我の体験である。そこでは、すべての個的要素が問題でなくな る。しか し、同時にそれは、生きるという個的な体験によってしか実現されないのである。 |
2016年6月20日月曜日
渓声山色
渓声便是広長舌
(けいせいすなわちこれこうちょうぜつ) (蘇東坡) | |
中国北宋時代の詩人蘇東坡の詩。蘇東坡は文学者であると共に役人でもあったが、 皇帝のをそしった罪で湖北省の黄州へ左遷された。その罪がとかれ、しばらく弟の いる に参禅した。そのとき与えられたのが無情説法の公案であった。 山川草木など情のないものの説法の声を聞けというものだ。 | |
![]() | 因に僧問う。無情も還た説法を解すや否やと。国師云く、常に 説いて熾然、説いて間歇無しと。僧云く某甲甚麼ぞ聞かず。 国師云く汝自ら聞かずとて他の聞く者を妨ぐべからず。 僧云く未審什麼人が聞くことを得るや。師云く諸聖聞くことを 得ると。 云々 (参考に一部掲載) 蘇東坡はしばらく廬山に留まり座禅を組みこの公案に取り 組んだ。だがついに答えを出せず、常総禅師のもとを辞して、 から離れず馬に揺られながらも考え続けていた。いや考える というのでなく、全身全霊で公案に取り組んでいたのだ。 |
そんな旅の途中とある谷川へさしかかったとき、ごうごうと岩をも砕くような流れ の轟音に東坡はがらりと心境が開けたという、その心境を詩にしたのが、 渓声便是広長舌 けいせいすなわちこれこうちょうぜつ 山色豈非清浄身 さんしきあにしょうじょうしんにあらざらんや 夜来八万四千偈 やらいはちまんしせんのげ 他日如何人挙似 たじついかんかひとにこじせん の詩である。 | |
渓声即ち是れ広長舌・・広長舌とは、仏という立場の 方の特徴とする三十ニの瑞相の一つ。絶え間なく 響く谷川の轟音。そして山色豈清浄身に非らざらんや ・・山の青々とした風光、緑深き木々の森、森羅万象 のそのすべてが将にそのまま清浄なる仏の姿であり、 ご説法である。 | ![]() |
| 夜来八万四千の偈・・朝から晩まで絶えることのない如来の無限のご説法を聞く ことが出来るではないか。他日如何が人に挙示せん・・このすばらしい仏のご説法 の感激を誰に、どう伝えようか、言葉でも言い表せない筆舌しがたいことだ。 “ 野に山に仏の教えはみつるれども仏の教えと聞く人ぞなし” との歌にも通じよう。 実に、谷や川、山や木々は無情であり、何ら人の心があるわけではない。 けれど、その無情の山川草木から偉大なる仏の教えを見つけ、聞きだし心洗う ことが出来る優れた感性、能力を人は頂いているのだ。すべての計らい、捉われ から解き放ち、謙虚に大自然に抱かれて見るとき、自ずから清浄法身仏の雄弁なる ご説法にふれることが出来よう。 この山水経との姉妹篇ともいうべき巻に渓声山色の巻があります。 この中で道元さまは 「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」 と山水の功徳を詠っておられます。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、 天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿で あるということで、これは宋の蘇東坡居士の詩を思い浮かべられて詠まれた詩でありま しょう。 蘇東披居士の詩は 「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 夜来八萬四千偈 他日如何挙似人」 であります。谷川の水の流れる音も仏の声であり、姿であります。清浄身とは法身の仏 さまということであり、法をもって身とする仏さまであります。それが山であり川であ るというのであります。 私たちは自然の中にあるとき、自分の生命が自然の生命の本質と一致し一体化する 瞬間がある。 「正修行のとき、渓声渓色、山色山声、ともに、八万四千褐げをおしまざるなり。 自己もしく名利身心を不借すれば、渓山もまたいんもの不借あり」 正しく修行していれば、谷川のせせらぎの音も、谷川の姿、景色も、山の景色も、 山の声、山の音、風の音、様々な音、あるいは静けさそのもの、それらのものは 皆すべて八万四千げを惜しまない。八万四千はありとあらゆるものものであり、 褐げは詩句の説法を言い、すべてが数知れぬ説法の詩を語っている。 さらに、自分が名声や利益を捨て、体や心を惜しまずなg出せば、谷川や山もまた 同じように真理を語ることを惜しまない。利欲、エゴなどを捨てることことで、 初めて本当の自分というものが見えてくる。 真の自分が谷や山と一致してくる。人間が天地自然と一体化するのには、死力を 尽くして自分を捨て去ったときに向こうから訪れてくるもの、その瞬間がある。 ―渓声便ち是れ広長舌、山色豈に清浄身に非ざらんや―(『碧巌録』三十七則) 夜中に坐禅していると、渓川を流れる水のせせらぎがお釈迦様の説法と聞こえ、月の照 る山の峰を仰ぐと、お釈迦様の清らかなおからだに見えてくる、という有名な蘇東坡の 句。 スタインベックの「朝めし」という短編を読んで、これこそ禅の世界ではないかと思 ったことがある。「こうしたことが、私を楽しさでいっぱいにしてくれるのだ」から始 まるこの短編は、ロッキー山脈の中腹で綿摘みの一家と食べたパンと、ベーコンと、熱 いコーヒーという、ごく日常的な朝飯のひとときの思い出である。 夜が明けて間もないころ、山を登っていく。濃い藍色の山の背後から射してくる光、 テントから出てきた父と息子の鬚に光る露、若い女が赤ん坊を抱えて、馴れた手つきで 焼くベーコンの匂い、赤ん坊がお乳を吸う音、男たちの「おはよう」という、愛想の良 くも悪くもない挨拶などなど。 「それだけのことなのだ。もちろん私にも、なぜそれが楽しかったのか、理由は分か っている。だが、そこには、思いだすたびに暖かい思いに襲われる、ある偉大な美の要 素があった」と作者は結んでいる。 さりげなく終わってしまう日常的な朝飯を、まだ冷え冷えとする清浄な山の空気の中 で、朝日をいっぱい浴びながら食べたとき、著者スタインベックはそこにある「偉大な 美の要素」を見たのである。そういうものを見たり感じたりする力は、われわれにも与 えられているはずである。にもかかわらずその歓びを、わが手にし得ないのはなぜか。 答えは簡単明瞭。われわれの心が濁っていて、美しい物を見たり聞いたりする感性の 窓が閉ざされているからである。さればわれわれは、もっと励んで五感の窓を磨かなけ ればならないであろう。 「渓声山色」、この言葉が有名なのは、日本曹洞宗の開祖である道元さんの遺された「 正法眼蔵.渓声山色」によってですが、道元さんのオリジナルというわけではなく、宋 の詩人、東坡居士蘇軾の偈(げ) 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 夜来八万四千偈 他日如何挙似人 が、その語源となっております。 ----極めて超安直に意訳すれば--- ******************************* 谷川のせせらぎを聞いて真理を会得した この事を他の人にどのように説明したらいいのか。 ************************************* ----とでも、なるでしょうか?--- したがって、「渓声山色」をたんに「山や渓谷の風景」とするとかなり外れるような気 がします。 もっと深い、哲学的な意味のある言葉と考えるべきでしょう。 ちなみに正法眼蔵はいうまでもなく仏教書であり宗教書ですが、その中のいくつかの巻 は、それをひとつの自然観、宇宙観として読んでみると極めて味わい深いものがありま す..... と、いうことで、その正法眼蔵から「渓声山色」をHPのタイトルに拝借いたしました。 「渓声山色」の巻の他にも「山水経」「梅華」などは特に人気があるようです。 渓声便是広長舌 (けいせいすなわちこれこうちょうぜつ) (蘇東坡) 中国北宋時代の詩人蘇東坡の詩。蘇東坡は文学者であると共に役人でもあったが、 皇帝のをそしった罪で湖北省の黄州へ左遷された。その罪がとかれ、しばらく弟の いる州へ行こうと旅立つ。そのとき立ち寄ったのが廬山・恵林寺で、照覚常総禅師 に参禅した。そのとき与えられたのが無情説法の公案であった。 山川草木など情のないものの説法の声を聞けというものだ。 因に僧問う。無情も還た説法を解すや否やと。国師云く、常に 説いて熾然、説いて間歇無しと。僧云く某甲甚麼ぞ聞かず。 国師云く汝自ら聞かずとて他の聞く者を妨ぐべからず。 僧云く未審什麼人が聞くことを得るや。師云く諸聖聞くことを 得ると。 云々 (参考に一部掲載) 蘇東坡はしばらく廬山に留まり座禅を組みこの公案に取り 組んだ。だがついに答えを出せず、常総禅師のもとを辞して、 州へ向かうことにした。だがその無情説法の公案は彼の脳裏 から離れず馬に揺られながらも考え続けていた。いや考える というのでなく、全身全霊で公案に取り組んでいたのだ。 そんな旅の途中とある谷川へさしかかったとき、ごうごうと岩をも砕くような流れ の轟音に東坡はがらりと心境が開けたという、その心境を詩にしたのが、 渓声便是広長舌 けいせいすなわちこれこうちょうぜつ 山色豈非清浄身 さんしきあにしょうじょうしんにあらざらんや 夜来八万四千偈 やらいはちまんしせんのげ 他日如何人挙似 たじついかんかひとにこじせん の詩である。 渓声即ち是れ広長舌・・広長舌とは、仏という立場の 方の特徴とする三十ニの瑞相の一つ。絶え間なく 響く谷川の轟音。そして山色豈清浄身に非らざらんや ・・山の青々とした風光、緑深き木々の森、森羅万象 のそのすべてが将にそのまま清浄なる仏の姿であり、 ご説法である。 夜来八万四千の偈・・朝から晩まで絶えることのない如来の無限のご説法を聞く ことが出来るではないか。他日如何が人に挙示せん・・このすばらしい仏のご説法 の感激を誰に、どう伝えようか、言葉でも言い表せない筆舌しがたいことだ。 正法眼蔵渓声山色の04の項である。 “ 野に山に仏の教えはみつるれども仏の教えと聞く人ぞなし” との歌にも通じよう。 実に、谷や川、山や木々は無情であり、何ら人の心があるわけではない。 けれど、その無情の山川草木から偉大なる仏の教えを見つけ、聞きだし心洗う ことが出来る優れた感性、能力を人は頂いているのだ。すべての計らい、捉われ から解き放ち、謙虚に大自然に抱かれて見るとき、自ずから清浄法身仏の雄弁なる ご説法にふれることが出来よう。 あるとき、道路を併浄ひんじょうするちなみに、かわらほとばしりて、竹にあたりて ひびきをなすにきくに、豁然かつねんとして大悟す。 06 渓流の音を聞いて覚りを得たこの故事は、さらに後世に益することが多い。 しかし憐れむべきことに、人は幾度とも覚者の説法を聞きながら、その教えを 身につけることがないのである。ましてやどうして蘇武のように山色を見、渓流の音 を聞くことがあろうか。覚りの境地を開示する一句なりと、半句なりと、八万四千 の褐に接しようとも、中々人は覚りを身につけることがないのである。 見事ではないか、渓声山色の褐にはかくれた仏の声が現存しているではないか。 さらに慶ぶべきである。この褐に仏性が現前する時節因縁を見るのである。渓声山色 の褐には、倦むことのない味覚さえも、色声香身の五境そのものが現れている ではないか。そうではあるが、また、そこには仏性の現前が親しいとも覚え、仏性が 隠れている様子が親しいとも覚えるのだ。 渓流の音量などはかかわりもないではないか。 渓流の音は夜の音の中に停止し、山は渓流の音の中に流れる。これまで蘇武は春秋に 流れる山水の声にこのように仏性を聞くこともなかった、夜の音に仏性を聞き取る ことは少なかった。いまや、修行者もまた、渓声山色の「山は流れ、水は流れず」 から学道に入る門を開くべきである。 「あるとき、道路を併浄ひんじょうするちなみに、かわらほとばしりて、竹に あたりて響きなすをきくに、豁然として大悟す。 徹底して自分の体で体得することの重要性」 11 一撃に知る所を亡じ、 さらに自ら衆治せず。 動容古路に揚がり、悄然の機に堕ちず。 所々跡なく、 声色外の威儀なり。 諸方の道に達する者、 みな上々の機という。 竹の一撃の響きに、知識に頼ることを失いました、 もはや自分の知恵によって仏法を求めることはないでしょう。 草の庵の日常は昔からの覚者の道に通じていました、 ひっそりと待っている罠に堕ちることはもうないでしょう。 行いのなかに何処にも執着を留めず闊達となり、 凡情の中の立ち居とは境地が違います。 諸方の道に達した覚者の働きは、 みな透脱の中の働きだといいます。 16 知るべきである、蘇武の山色渓声の褐に示された境地によらなければ釈迦牟尼から 魔訶へと仏法は展開せず、達磨から二祖隻可へと嗣法されることもなかった。 渓声山水の覚りによって自然界の認識と衆生世界ん認識とは同じ場を得た。 釈迦が明星を見て得た覚りも同質の覚りであり、この覚りによって諸覚者の覚りが あるのだ。このような人々が、仏法を求める志の強く深かった先覚なので。 この昔の覚りのありように、今の人々は、かならず参入してそれを自分のものと しなければならぬ。今も俗世間の功利に拘らない真実の修行は、 このような志を立てねばならない。釈迦在世のインドから時間も場所も遠く離れた 現代においては真に仏法を求める人は稀である。しかしいないわけではない。 28 正しい修行のとき、渓の声、渓の色、山の色山の声は、あげてみなお前に雄弁に 語りかけることを惜しまないのだ。仏法修行において、もし名利や心身を惜しま なければ、渓と山もまたそのようにお前のために語り掛けることを惜しまない。 たとえ蘇武がたまたま聴いた夜来の経験のように、お前に渓の声山の色が八万四千 の褐げとなって現れることもあり、また現れないこともあるけれど、自然の声が 色が姿が、人の自然の姿と一如にそのまま現れるような力量をお前がいまだ具えて いないならば、誰がお前を自然そのままの悟りを得た覚者と認めようか。 | |
2016年6月13日月曜日
山水経
この山水経との姉妹篇ともいうべき巻に渓声山色の巻があります。 この中で道元さまは 「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」 と山水の功徳を詠っておられます。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、 天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿で あるということで、これは宋の蘇東坡居士の詩を思い浮かべられて詠まれた詩でありま しょう。 蘇東披居士の詩は 「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 夜来八萬四千偈 他日如何挙似人」 であります。谷川の水の流れる音も仏の声であり、姿であります。清浄身とは法身の仏 さまということであり、法をもって身とする仏さまであります。それが山であり川であ るというのであります。 「而今の山水は、古仏の道現成なり。 ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。 而今の活計なり。朕兆未崩の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。 山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。 順風の妙功、さだめて山より透脱するなり」
道元さまがお示しになった正法眼蔵九十五巻の中で経のつく巻はこの山水経 以外にはありません。道元さまはこの巻を仁治元年十月十八日、興聖宝林寺 において修行僧達にお説きになりました。現在で申せば十一月、晩秋の頃でしょうか。 巻の冒頭の一節こそ道元さまが「山水経」で説かんとされたまとめであり、 最も大切な一節であります。特に「而今の山水は、古仏の道現成なり」 の一句こそ全てであります。 その而今とは(にこん)と読み、単にいわゆる「今」ではなく、すでに触れた有時 の巻で問題とされた而今であります。つまり無限の過去から現在に到る今であり、 永遠の未来をひっくるめた今であります。時間空間をあげて而今の他に何もない、 それは無限の過去を経過してきた存在であり、同時に無限の未来を将来する存在 でもあります。時間は空間をはなれては存在しない。また、空間のなき時間も 有り得ないのであります。それで時間といっても、空間といっても、自己と いっても全く同一物であり、これを「而今」という言葉で言い表しているので あります。二千五百年前にお釈迦様がインドで法を説き、七百余年前道元禅師 が法を説かれましたが、それが脈々として現在にあるのであります。 眼前の山水も而今なる山水として真理の現成であり、仏さまやお祖師さまの仏法 の現成であります。山も水もあるがままにあるべきようにあって、さまざまな姿 を現しているのであります。このことが「古仏の道現成なり、ともに法位に住して、 究尽の功徳を成せり」であり、山は山、水は水で究尽の功徳を成しており、 山は三世十法尽くしており、水は全宇宙を尽くしているのであります。 悟りの姿であります。本来の自己、悟りの相であります。 それはこの世界の成立以前の消息であって、それが今も生きてはたらいているので あります。万物の兆しもない、いにしえからのことであり、その現成は古今を 貫くものであります。而今であります。 視点を変えれば、今我々が観ている山や水は、そのまま真理に到達した先覚者、 覚りを開いた昔の人が体験した山水として姿を現し、そのまま宇宙と一体化し、 つながっている。 我々が観ている目の前の自然、見られている自然という概念を超えた、それらをすべて ひっくるめた永遠に続いてきた自然世界があり、それがそこに姿を見せている、 それが山水経の基本である。 山水は一大経巻そのものであり真理そのものであります。悟りを体現した仏の眼 に映ずる山水、仏心に映ずる山水であります。諸法実相であります。それは山は山 として高く広く、水は水としてすみわたって清く、本来のはたらきを現成したもので、 一つ一つが宇宙の実相、真理を物語る究尽の功徳を現成しているのであります。 ここに今一度道元さまのお詩を紹介させていただきます。 「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」 「而今の山水は、古仏の道現成なり。 ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。 而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。 山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。 順風の妙功、さだめて山より透脱するなり」
「古仏の道現成なり」
眼の前の山水は、古仏は仏法の経ををそのままに表し、今においても経を説き続けている。
「ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり」山、川ともにそこにあること。極めつくしたはたらきを現出している。
空劫とは永遠無限の時間であり、 「今目の前にある山は、その山ができる以前の宇宙生成の状況そのものだからこそ、 今ここに生き生きと実現している。
朕兆未萌とはまだ芽生える以前の状態であり、萌芽状態の山水そのものであるから、 すでに本質が現れるなどという状態を超えたもの。 本来の悟りが悟りの影を残さず、超越している。
伝統的伝承的な付加物を一切排除する。山は常に歩を運び、川は流れずという命題を
考え、「物となって考え、物となって行う」ことが必要である。 243ページ 01 ここに言う山水とは、古仏の解脱の相をあらわす言葉である。山も水もともに本来 ありのままの場にて、真実を極めつくしている。空劫以前のあらゆる世界存在以前の すがたにあることによって、普遍的な現在を活き活きと示している。 ものの兆しも現れぬ前の現存在であることによって、有事現成という存在の事態 を超えている。 山の諸相は広大無辺であるから、皇帝が得た道徳は山から通じ、皇帝の修行も 山において解脱を得たのである。 「運歩のゆえに常なり。青山の運歩は、其疾如風よりもすみやかなれども、 山中人は不覚不知なり。山中とは、世界裏の花開げかいなり」 青山とは動かない山を言っている。 また、運歩とは常に動くこと。 山は一見動いていないように見えるけれど、長い時間の中では、常にわずかながら 動いている、という。絶えず変化している。 人間も山とともに宇宙の中にいる以上、青山がいくら早く動いても自覚していない。 花が開くとは、一瞬の姿をとらえること。 すなわち、山中で宇宙の真実を知ることができない人間は、悟らず、知らず、聞かず、 真理を知ることができない。山が動くということを疑うものは、自分が山の中に いることを自覚していない、 したがって、自分が歩くということの本当の意味が分かっていない。 不変というものの大きな変化、永遠の中の今という関係を山水の中に考える必要 がある。 02 和尚は衆に示していった、「青山は常に歩みを運ぶ、石女は夜に児を生む」と。 大自然である山は、存在に具わる性姿相のすべてを尽くして欠けるところがない。 このため、常に安定した存在であり、そして常に歩みを運ぶのである。山が歩みを運ぶ 本性を、正に審らかにせねばならない。大自然である山の歩みは大自然である人の 歩みと同じであるはずだ。大自然である山も常に変容しているのだ。だから人間が 歩み行くのに同じように見えないからと言って、山が歩みを運ぶことを疑って はならない。 03 ここに説かれた覚者の言葉は、はっきりと歩むと示している。 これこそ本義を得たものである。「常に歩みを運ぶ」の言葉が衆に示されている ことを究めるべきだ。歩むのであるから常住である。常に変わらぬ歩みである。 青山の歩みは風よりも速やかであるが、山中にいる人はそれを覚らずまた 知らずである。山中の人も常に歩んでいるからである。山中とは世界のうちに 花開く場である。山中の人は世界の花開と場を共にしている。山の外にいる 人は山の歩みを知らず覚らずである。山を見ることのない人は悟ることもなく 知ることもなく、見ることもなく聞くこともない。いずれにせよ存在とは こうした道理の中にある。もし、山が歩んでいることに疑いを持つならば、 自分が歩んでいることを知らないのだ。自分が歩んでいないのではない、 自分が歩んでいることに気が付かないのだ。自己とは歩むものだと知るならば、 そのとき、青山が歩んでいることを知るはずだ。 04 自然存在としての青山はもともと有情でもない、非情でもない、眼耳鼻舌心意など 六根の作用とは無縁である、自己もまたもともとの自然存在として有情でもない、 非情でもない。青山とは大自然そのものを意味するのであるから、青山が 歩んでいることことに疑いを持つことはできない。諸所の教えにある十法界または 四法界などの世界観に準じて、青山を観照しても仕方がないのである。 道元の場合は、季節は変わりゆくものではなく、移りいかない。 春は春、夏は夏と言う絶対的な切り口はあるが、基本はすべて同じ。自然を 抒情的に流れ行くものとしてではなく、変化の中に永遠の原理を知る。 14 およそ山水を観るのに、種類に随って異なることがある。水を観照するするとき、 水を瓔珞と観るものがある、天衆がそうである。しかし人間が観ている水を天衆 が瓔珞と観るわけではない。我々が水を何々と観る形を彼らが水と観ることも あるだろう。彼らにとって瓔珞と観えるものをわれわれ人間は水と観るのだ。水を 不思議な華と観る者がある、天衆がそうである。そうであっても、彼らが花を 水として用いているのではない。鬼にとっては水は猛火と見え、濃血ともみえる そうだ。 竜宮に住む魚に取って水は宮殿にも見え、立派な楼閣とも見えるだろう。 人間が水を、あるいは七宝摩尼珠と観る、あるいは樹林や土塊と観る、あるいは清浄 解脱の法性と観る、あるいは真実人体と観る、あるいは身体の相心の性と観る、 人間がこれらを水と観るのは、人間にあっても彼ら天衆や鬼や魚にはない観照 である。これを殺すも活かすもそれぞれの因縁である。 「山は超古超今より大聖の所居しょこなり、賢人聖人ともに山を堂奥とせり、山を 身心とせり」(山水経) 25 山は古今を超えて大いなる聖人の住むところである、賢人聖人は、ともに山を心の 堂奥とした、山の本質を心身としたのである。賢人聖人によって山はその真の姿を 現している。およそ山は、どれほどの数の大聖人大賢人が入りあつまったのだろうかと 思われるけれど、賢人聖人が山に入ってからというもの1人として人に逢うこと ことはないのである。ただ山のはたらきを現成するのみであって、彼らの証跡は 全く残っていない。世間で山を眺めるときと、山中にあって山に逢うときとは、 観照の質においてはるかに異なっている。 26 だいたい山は国土に属しているとはいっても、山を愛する人、山を知る人に属する のだ。山が必然としてその主たる人を愛するとき、聖人賢人などの徳の高い人は 山に入るのだ。聖人賢人が山に住むとき、山はこれらの人と一如になるから、樹々も 岩石も鬱然となり、禽獣も霊も奇譚を現し、聖人賢人の徳を蒙り、その伴侶ともなり、 従者ともなる。知るべきである。山は賢者を好む実を備え、聖人を好む実を備え ているのだ。 31 古仏は言う、 「山は是山なり、水是水なり」と。 この言葉は、やまを是やまと言っているのではない、山は是やまといっている。 そうであるから、やまを学ぶべきである、山をこのように究めれば山の本質が 現れる。山は日常の生活レベルで感じるやまではなく、この山は絶対真実のある 山なのである。それであれば、無限絶対の境地を考えられる功夫になるといっている。 天然自然の山や水は「おのずから賢をなし、聖をなすなり」。 山水とはこのような山水であり、山水はそのまま祖師の賢を現し、祖師の聖を 現している。山水はそのまま仏経である。 ーーーーーー http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/shobo/h1syobou.11.html 今ここに見られる山水は、諸仏の方々の悟った境地をあらわされている。山は山 になりきっており、水は水になりきっていて、その他のなにものでもない。 それはあらゆる時を越えた山水であるから、今ここに実現している。 あらゆる時を越えた自己であるから、自己であることを解脱(げだつ)している。 (自然は真理が実現されるところであり、自己が自己を発見する所である。) 山の働きは大きくて限りないから、雲に乗って空を行くものは、必ず山から出てい る。風に従って進むものは、必ず山から解脱している。 (常識の立場を離れて、山の真実に迫ることによって、自己を知り、自己を解脱す ることができる。) 太陽山の道楷(どうかい)和尚が一山の僧たちに示していった。 「青山(せいざん)は常に運歩し、石女(うまずめ)は夜(よる)子を生む」 山の働きに欠けたとはろはないから、山は常に安住し、常に歩むのである。その ことを詳しく学ぶべきである。山の歩みは人の歩みと同じなのであって、たとえ表面 的にはそのように見えなくても、それを疑ってはならない。ここで道楷和尚のいって いることは、仏道の根本問題なのであるから、真剣に学びなさい。 (山が動かないと考えるのは、常識的見解に過ぎない。その奥にある静中の動、 動中の静を見徹すべきである。) 青山は歩むことによって、安住している。その歩みは風より速いが、山になり きっている人はそのことに気がつかない。山の中には一切世界が開いているが、 山になりきっている人はそのことに気がつかない。山を見る眼がないものもまた、 そのような道理を知ることがなく、見ることも聞くこともない。 (「山が歩む」ということは、消滅するものの中に永遠の相を見ることである。 それに気づいても気がつかなくても、我々は永遠の世界を生きているのである。) もし山の歩みを疑うならば、自己の歩みも本当に分かっていないのである。自己 の歩みがないのではなく、自己の歩みを未だ知らず、未だ明らかにしていないので ある。自己の歩みを知るように、青山の歩みを知るべきである。われわれが青山を 見るとき、青山も自己も、生物でも無生物でもなく、両者の間には何の隔たりもな い。そのため青山の歩みを疑うことができないのである。 (我が山を見ることによって、我が山と一体になる。それを、「山が歩く」 といっても、「山が山を見る」といってもよいのである。) 世界全体という立場から、青山(せいざん)を明らかにすべきであることを、人は知 ら ない。しかし真実を知るためには、そのような立場から、青山の歩み、即ち自己の 歩みを検(しら)べてみる必要がある。それがあらゆる時を越えて前へ進むばかりで なく、後ろへ退き歩み、歩み退くことを検べてみる必要がある。 もしその歩みに休みがあるならば、諸仏祖たちは現れなかったであろう。もしそ の歩みに極まりがあるならば、仏の教えは今日まで伝わらなかったであろう。進歩 も休まず、退歩も休まない。進歩は退歩にそむかず、退歩は進歩にそむかない。 このことを、「山が流れる」といい、「流れるのは山である」というのである。 (ここにいう「山」とは、一瞬のとどこおりもない、永遠の万物流転の様相に ほかならない) 青山自身も歩むことを学び、東山自身も、水上を行くことを学ぶから、山を学ぶこ とは、山が山を学ぶことである。山が山の姿のまま、自分のことを学んできたのであ る。それを、 「青山が歩むことなどはできない。東山が水上を行くことなどはできない」 といって、山をそしってはならない。自己の考えが足りないから、青山運歩のことば を怪しむのである。見聞が浅いから、 「山が流れる」ということばに驚くのである。そのようなものたちは、 「水が流れる」ということばさえよくわかっていないのに、自己のあさはかな 見解に溺(おぼ)れている。このように、山の働きのすべてが、真理を現わしている のである。山には山の歩みがあり、山の流れがあり、山が山を生むときがある。 山が山を学んで諸仏らとなることによって、諸仏祖がこのように実現しているのである 。 (我が山を学ぶだけでは、いつまで経っても山のことはわからない。山が山を学ぶ という心境に至った時にはじめて、山の真実を知ることができる。) <一番最初の文節> 今ここに見られる山水は、諸仏の方々の悟った境地を現わされている。 山は山になりきっており、水は水になりきっている。その他のなにものでも ない。それはあらゆる時を越えた山水であるから、今ここに実現してい る。あらゆる時を越えた自己であるから、自己であることを解脱している。 (1) 今ここに見られる山水 とは、これはまさに今私たちが眼前に見ている 山や水です。このきわめて安定しているように見える山や水ですが、これは 実際にそれほど安定しているものなのでしょうか? 目の前にある飽き飽きするような山、水、・・・・・・ では、去年の山水は、いずこにあるのか・・・・・ それから少年の頃の山水は・・・・・ 全ては、遠くはかない夢の様です・・・・・ あの大地、あの膨大な質量は、全て記憶に変換され、私の脳の中に収まっ ています。 ここで、私が何を言いたいのかといえば、いわゆる常識というものを、一 度すべて御破算にしてほしいということです。そして、あらためて真実とい うものを見つめる目を持ってほしいということです。そうでなければ、この書 を読み進むのは、なかなか難しいでしょう。 (2) 諸仏の方々の悟った境地 とは、どのようなものでしょうか?それは、 山は山になりきり、水は水になりきっていること、全てが過不足なく、それ そのものになりきっていることです。 (3) このあたりの感覚は、禅を学んでいくうちに、少しづつ分かってきます。 例えば、山を知るには、自分も山になってみることです。水を知るには、自 分も水になり、水に溶け込んでみることです。あるいは、花を知ろうと思っ たなら、自分もその花と一体化し、風に吹かれてみることです。 たとえ、 「山は草木、土石、土塀によって成り立っている」 という見方があっても、それはとりたてて疑ったり迷ったりすべきことではなく、また それによって山のすべてがわかるわけではない。また、 「山は宝玉の輝くところである」 と見る時があっても、そればかりが真実ではない。また、 「山は諸仏が修行するところである」 という考えがあってもそのような考えに執着してはならない。また、 「山は仏の不思議な働きを現わしている」 という最も適切な考え方が現れても、真実はそればかりではない。それぞれの考え はそれぞれの立場に基づいているのであって、いずれも諸仏祖が悟ったこととは異 なる狭い考え方である。 このように、物と心をわけて考えることは、釈尊の戒められたところである。心と 本質をわけて説くことは諸仏祖の求めなかったところである。まして、心や本質を表 面的に見ようとすることは、異教徒のすることである。そして、言句にこだわること は、悟りの道ではない。 このような立場を超えることがある。それが今ここにいう 「青山が常に歩む」 「東山が水上を行く」 ということである。このことを詳しく学ぶべきである。 (「主観と客観」 「理想と現実」 「目覚めたものと迷うもの」 という対立的な 見方や、表面的な議論を否定することが、「山が歩く」ということなのである。) (1)傍線の部分 このように、物と心をわけて考えることは、釈尊の戒められたところである。 心と本質をわけて説くことは諸仏祖の求めなかったところである。 このことの意味を、自分なりに、真剣に考えてみてください。自分自身の心と、客 観的存在である物質とは、どのような関係にあるのか。釈尊は、何を戒められたの か。諸仏祖は、どのように説いているのか。 この 「東山が水上を行く」 ということばが、諸仏祖の悟った真実であることを知る べきである。諸水が東山の麓に現れるから諸山が雲に乗り、天を歩むのである。諸 水の上にあるのは諸山であり、登りも下りも、ともに水上を行くのである。諸山のつ まさきは、諸水を歩み、諸水を躍らせるから、その歩みは自由自在に修行・悟りを実 現しているのである。 ( 「山が水上を行く」 ということは、我が解脱しているということにほかならない。 このことがわかれば、先覚者の境地が自由自在に理解される。) 水はもともと、強弱、湿乾、動静、冷暖、有無といった差別を超えている。固まれ ば金剛石よりも堅く、誰もそれを破ることはできない。融ければ乳水よりも柔らかく、 誰もそれを破ることはできない。従って、水が具え現わしている性質を疑うことはで きない。 われわれはしばらく、諸方の水をありのままに見ることを学ぶべきである。人間 や天人が水を学ぶときばかりが、学ぶときではない。水が水を見て、水を学ぶこと がある。水が水を悟るのであるから、水が水のことを説いているのである。われわ れはそのようにして、自己が自己にあう道を実現すべきである。他者が他者を学 び究め、それを超えていくことを学ぶべきである。 ( ここにいう 「水」 とは、解脱の境地を言うのである。) (1) 傍線部分。 水が水を見て、水を学ぶことがある。・・・・・とは、どのようなことでしょうか。そ れにはまず、自分が水になってみることです。自分が、水と一体になってみることで す。そこから、水が水を見て、水を学ぶことが始まります。 (2) 以下の傍線部分で、道元禅師はさらに懇切丁寧に、足下の道を指し示していま す。 およそ山水の見方は、見るものの種類によってさまざまに異なる。ある経典によ れば、われわれが水と呼んでいるものが、天人たちには玉飾りに見えるという。そ れでは天人たちは、われわれが何と思っているものを水とするのであろうか。とにか くわれわれは、彼らが玉飾りと思っているものを水と考えているのである。また天人 たちは、水を麗しい花とみるというが、それを水として用いているわけではない。餓 鬼は水を猛火と見、濃血とみる。竜魚は水を宮殿、楼閣、宝玉とみる。あるものは 水を樹林、土塀とみる。あるいは悟りの本質とみる、真実の人体とみる。あるいは 心、姿とみる。人間はそれを水とみる。水はこのように、それぞれの立場によって、 生かしたり殺したりされるのである。 このように諸類によって見方が同じでないことを、しばらく考えてみるべきである。 一つのものを見るに、その見方が様々にあるのであろうか。それとも様々にあるも のを、われわれが一つのものと見誤っているのであろうか。このことを繰り返し考え てみるべきである。このように、修行悟りの道も、一つや二つではないのである。学 び究めるべきところが、様々にあることを理解しなさい。 ( 同じものでも、見る立場が異なれば、別のものに見えることを知って、広い視野 で学ぶべきである。 ) 更にこのことを考えてみると、たとえ諸類によって水が様々に見られるとしても、 水そのものというものはなく、また、諸類共通の水というものはないようである。しか し水はわれわれの身心によって勝手に生じたものでもなく、行いによって生じたもの でもなく、自己や他者によって生じたものでもない。 水はただ水でありながら、水であることを解脱しているのである。従って水は物質 的要素、色彩的要素、感覚的要素を解脱しながら、しかも物質として実現しているの である。 従って、今のこの世界が、何によって成り立っているかを明らかにすることはむず かしい。世界が円盤状の物質の上に乗っていると考えるのは、主観的にも客観的に も真実ではなく、あさはかな論にすぎない。何ものかに頼らなければ安住することが できないと思うから、そのように考えるのである。 ( 解脱の立場から世界を見るならば、世界のすべての物事がなにものにも とらわれず、ありのままの姿で実現していることを知るのである。) ところが、竜魚が水を宮殿と見るときには、ちょうど人がこの世の宮殿を見るとき のように、宮殿が流れるとは思わないであろう。もし傍観者がいて、 「おまえが宮殿と見ているものは実は流水なのだ」 といえば、われわれがいま 「山が流れる」 ということばを聞いて驚くように、竜魚は忽ち驚き疑うであろう。しかし中には、 「宮殿楼閣の欄干や柱がみな流水だということもありうる」 というように理解する竜魚もあろう。この道理について静かに思いをめぐらすべきで ある。 われわれはこのようにして、対立した見方を超えることを学ばねばならない。それ でなければ凡夫の身心を理解することができず、諸仏祖の国土、凡夫の国土、凡 夫の宮殿を正しく理解することができない。 いま人間は、海の中にあるもの、河の中にあるものが水であることを知っている が、竜魚やそのほかのものたちが、どのようなものを水として用いているかを知らな い。自分が水と考えているものを、どの類もみな水として用いているに違いないと、 愚かにひとりぎめしてはならない。 いま仏道を学ぶものが水について学ぶとき、人間の考えだけに止まっていてはな らない。進んで仏道の上での水を学ぶべきである。諸仏祖が自由自在に用いてい る水をどのように見ればよいかを学ぶべきである。先覚者の境地に水があるかない かを学ぶべきである。 ( 常識的な考えにとどまらずに、進んで解脱者の境地を学ぶべきである。) 山は常に、すぐれた聖人たちの住居である。賢人も聖人も、ともに山を住居とし、 山を身心としている。賢人聖人によって山の真実の姿が現れるのである。およそ山 にはどれほど多くの聖賢が集まっているかと考えられるのであるが、彼らが山に入 ってからこのかた、誰も、その一人にも会ったことがないのである。ただ山の働きが 実現しているばかりであって、彼らが山に入った形跡は残っていないのである。 世間から山を眺めるときと、山の中で山に会うときでは、山の姿は遥かに異なる。 従って、山が流れないという見方は、水が流れないという竜魚の見方と同じであっ てはならない。人間や天人は、それぞれの世界に安住しており、それを他類が疑っ たり疑わなかったりする。 そこでわれわれは、「山が流れる」 ということばを諸仏祖に学ぶべきである。徒に 驚きや疑いにまかせておいてはならない。同じことについて、一方は流れるといい、 一方は流れないという。あるときは流れるといい、あるときは流れないという。このこ とを学ばなければ、仏の教えを学んだとはいえない。 諸仏祖がいっている。 「・・・焦熱地獄へ行きたくないならば、仏の教えをそしってはならない・・・」 このことばを、身心の全てに銘記しなさい。身心の内外に銘記しなさい。形のな いところにも、形のあるところにも銘記しなさい。あるいは木にも、石にも、田にも、 里にも銘記しなさい。 ( 「山に入る」とは、解脱するということである。ひとたび解脱すれば、解脱した あとかたさえ残らないのである。) (1) 傍線部分・・・・・ 同じことについて、一方は流れるといい、一方は流れないという。あるときは流れ るといい、あるときは流れないという。このことを学ばなければ、仏の教えを学んだ とはいえない。 では...山は流れるのか、流れないのか、 いったいどっちなのだ...というよう に、二元論的に考えてはいけないということです。山は山であり、水は水であるとい うことです。水が水を見て、水を学ぶということをお考えください。
もともと山は国家に属しているとはいえ、山を愛する人に属している。山がその主 を愛するとき、聖賢、高徳の人は必ず山に入る。聖賢が山に住むとき、山はかれら に属するから、樹石は繁茂し、鳥獣はすぐれている。それは聖賢たちがかれらに徳 を及ぼすからである。山が賢人聖人を好むことを知るべきである。 帝王たちがしばしば山に行幸して、賢人を拝し聖人を拝して教えを乞うたことは、 古今の勝れた事実である。そのようなときには、帝は師礼をもって敬い、世間のしき たりに従わない。帝の権威が山の賢人に及ぶことは全くないのである。帝たちは山 が俗界から離れていることを知っていたに違いない。 黄帝がこうどう山に広成を訪ねた昔、帝は師を敬って膝で進み、ぬかづいて道を 問うた。また釈尊は、昔、父王の王宮を出て山に入られた。しかし父王は山を恨ま ず、山にあって王子釈尊を導いた者達を怪しまなかった。釈尊は、十二年の修行期 間を殆ど山で過ごされ、悟りを開かれたのも山においてである。転輪王(てんりんおう / インド伝説の理想王) のような力を持った父王ですら、なお山に対して無理強いする ことを しなかったのである。 山は人間界のものでもなく、天界のものでもないことを知りなさい。人間のおしは かりによって山を考えてはならない。人間の狭い考えに促われさえしなければ、誰も 山の流れることや、山の流れないことを疑わないであろう。 (ひとたび 「山は流れない」 という観念を打破したならば、「山は流れる」 という観念も打破しなければならない。) また、昔から賢人聖人たちが水に住むこともある。水に住むとき、魚を釣ることも あり、人を釣ることもあり、道を釣ることもある。いずれも水中の勝れたおもむきであ る。更に進んでは、自己を釣ることもあろう、釣を釣ることもあろう、釣に釣られるこ と もあろう、道に釣られることもあろう。 昔、徳誠和尚が唐の武宗の弾圧にあって、あわただしく薬山を離れ、華亭江の 上に舟を浮かべて住んでいた時に、後に華亭江の賢聖と呼ばれた爽山(かつさん)を 弟子とした。これこそ、魚を釣ることではなかろうか、人を釣ることではなかろうか、 水を釣ることではなかろうか。爽山が徳誠に会うことができたのは、彼が自分をすて て徳誠に学んだからである。徳誠が爽山に接したということは、彼がまことの自己 に会ったということである。 (人が人に会うということは、真実の自分に会うということである。よき師に会い、 よき後継者に会うことによって、自分の価値を生かして行くことである。) 世界の中に水があるばかりでなく、水の中にも世界がある。水中がそうであるば かりでなく、雲の中にも自己の世界がある。風の中にも、火の中にも、地の中にも、 存在世界の中にも、一茎の草の中にも、一本の杖の中にも、自己の世界がある。 そして自己の世界のあるところには、必ず諸仏祖の世界がある。このことを、よくよく 学ぶべきである。 (解脱者の立場から見れば、世界中の全てのものが、等しく解脱者の境地にある。) (1) 傍線部分・・・・・ 風の中にも、火の中にも、地の中にも、存在世界の中にも、一茎の草の中にも、 一本の杖の中にも、自己の世界がある。そして自己の世界のあるところには、必ず 諸仏祖の世界がある。 ーーーーーーー 而今(にこん)の山水は、古佛の道(どう)現成(げんじょう)なり。ともに法位に住 して、究盡(ぐうじん)の功徳を成ぜり。空劫(くうこう)己前(いぜん)の消息なる がゆゑに、而今の活計(かっけい)なり。朕兆(ちんちょう)未萌(みほう)の自己な るゆゑに、現成の透脱なり。 道元禅師の『正法眼蔵』第二十九の「山水経」の冒頭です。『正法眼蔵』は特にむつか しい内容の禅書ですが、右の文章も、とりわけむつかしい。禅のさとりというものは、 山、川、ただそのものです。余計な形容詞はいけません。山はただ山であって、それ以 外のものの付属は許しません。山は山そのものでそれでよし。そのほかには、本来、な にひとつない。これが本来無一物ということです。 而今の山水は、古い古佛の道現成なりとは、目の前の、山や川は、古佛先師たちが悟っ たそのままだということでしょう。 ともに法位に住して。山も川も、古佛先師も、ともに悟りの世界に入って。究盡の功徳 を成ぜり、とは、究めきたり究めつくして、山は山、川は川で本来無一物、余分なカス などひとつもないとおちついたという意。 空劫目前の消息なるがゆゑに。長い長い劫というはどの昔から、山は山、川は川という 消息を残しているではありませんか。 山は昔から山。山が途中で川になったりはしません。そこに、悟りの一貫性があるとい いたいのでしょう。 山は山、川は川であり、それが今の世も、一つも変ってはいません。ただ、人間だけが 昔から右往左往していて、一貫性がないではありませんか。しかし、この私の命そのも のも、父母未生以前から、生きつながれてきた自己そのものであります。これを、朕兆 未萌の自己と道元禅師はいわれました。だからこそ、自分は何者なのか、一つ、坐禅し 徹底して、自己を透脱せよ、といわれたのです。 では、どのようにして、自己を透脱したらよろしいのでしょうか。それは、坐禅がもっ ともよいといわれます。 坐禅してみると、おなかの、つまり、臍下丹田から吸うときに、気がのどのほうにのぼ ってくることを実感するでしょう。そして吐くときに気をつけなくてはならないのは、 気そのものを元の臍下丹田に吐き、のぼってきたものを丹(はら)におしこめます。こ れを何回もやるのが、丹錬です。 迷いや、短気なども湧いてきたら、丹におしこめる。何度も何度も、それを繰り返しま す。そうやって、丹(はら)をかためよ、丹をつくれ、丹にしまっておけと。 ーーーーーーーーーーー 而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功を成ぜり。空劫已前 の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透なり。 山の功高廣なるをもて、乘雲の道かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透 するなり。 大陽山楷和尚示衆云、山常運歩、石女夜生兒。 山はそなはるべき功の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運 歩の功、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人 間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。 いま佛の道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辨すべし。運 歩のゆゑに常なり。山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覺不知な り、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、 不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいま だしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あき らめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに山の運歩をもしるべきなり。 山すでに有にあらず、非にあらず。自己すでに有にあらず、非にあらず。いま山の運歩 を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として山を照鑑すべしとしらず。山の運歩 、および自己の運歩、あきらかに點すべきなり。退歩歩退、ともに點あるべし。 未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、點 すべし。運歩もし休することあらば、佛不出現なり。運歩もし窮極あらば、佛法不到今 日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩の とき進歩を乖向せず。この功を山流とし、流山とす。 山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の 身心をあらためず、山の面目ながら廻途參學しきたれり。 山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見處のい やしきゆゑに、山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおど ろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。 しかあれば、所積の功を擧せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山 兒を生ずる時節あり、山の佛となる道理によりて、佛かくのごとく出現せるなり。 たとひ草木土石牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現 成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるる時節現成すとも、實歸にあらず。たと ひ佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ佛不思議の功と見現 成の頂をうとも、如實これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを佛の 道業とするにあらず、一隅の管見なり。 轉境轉心は大聖の所呵なり、心性は佛の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滯言 滯句は解の道著にあらず。かくのごとくの境界を透せるあり、いはゆる山常運歩なり、 東山水上行なり。審細に參究すべし。 石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。 これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、 人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒 の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證な りと參學すべし、究徹すべし。 雲門匡眞大師いはく、東山水上行。 この道現成の宗旨は、山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷盧 等現成せり、修證せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨 髓、修證活計に透ならん。 いま現在大宋國に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小實の撃不能なるとこ ろなり。かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話のごときは、無理會 話なり。その意旨は、もろもろの念慮にかかはれる語話は佛の禪話にあらず。無理會話 、これ佛の語話なり。かるがゆゑに、黄檗の行棒および臨濟の擧喝、これら理會および がたく、念慮にかかはれず、これを朕兆未萌已前の大悟とするなり。先の方便、おほく 葛藤斷句をもちゐるといふは無理會なり。 かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、參學眼なし。いふにたらざる小子 なり。宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子六群禿子おほし。あはれ むべし、佛の大道の癈するなり。これらが所解、なほ小乘聲聞におよばず、外道よりも おろかなり。俗にあらずにあらず、人にあらず天にあらず、學佛道の畜生よりもおろか なり。禿子がいふ無理會話、なんぢのみ無理會なり、佛はしかあらず。なんぢに理會せ られざればとて、佛の理會路を參學せざるべからず。 たとひ畢竟じて無理會なるべくは、なんぢがいまいふ理會もあたるべからず。 しかのごときのたぐひ、宋朝の方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれむ べし、 かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透することをしらず。 在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。 かれらがいまの無理會の邪計なるのみなり。たれかなんぢにを しふる、天眞の師範なしといへども、自然の外道兒なり。 しるべし、この東山水上行は佛の骨髓なり。水は東山の脚下に現成せり。このゆゑに、 山くもにのり、天をあゆむ。水の頂は山なり、向上直下の行歩、ともに水上なり。山の 脚尖よく水を行歩し、水を出せしむるゆゑに、運歩七縱八横なり、修證不無なり。 水は強弱にあらず、濕乾にあらず、動靜にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟 にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融しては乳水よ りもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。しかあればすなはち、現成所有の功をあや しむことあたはず。しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を參學すべし。人 天の水をみるときのみの參學にあらず、水の水をみる參學あり、水の水を修證するがゆ ゑに。水の水を道著する參究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。他己 の他己を參徹する活路を進退すべし、跳出すべし。 おほよそ山水をみること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに瓔珞とみる ものあり。しかあれども瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、か れが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、花を 水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、樓 臺とみる。あるいは七寶摩尼珠とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは淨解の法性 とみる、あるいは眞實人體とみる。あるいは身相心性とみる。人間これを水とみる、殺 活の因なり。 すでに隨類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境をみるに見しなじななり とやせん、象を一境なりと誤錯せりとやせん、功夫の頂にさらに功夫すべし。 しかあればすなはち、修證辨道も一般兩般なるべからず、究竟の境界も千種萬般な るべきなり。さらにこの宗旨を憶想するに、類の水たとひおほしといへども、本水なき がごとし、類の水なきがごとし。しかあれども、隨類の水、それ心によらず身によらず 、業より生ぜず、依自にあらず依他にあらず、依水の透あり。 しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は黄赤白黒等にあらず、色聲香味觸法等 にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。かくのごとくなれば、而今 の國土宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。空輪風輪にかか れると道著する、わがまことにあらず、他のまことにあらず。小見の測度を擬議するな り。かかれるところなくは住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。 佛言、一切法畢竟解、無有所住(一切法は畢竟解なり、所住有ること無し)。 しるべし、解にして繋縛なしといへども法住位せり。しかあるに、人間の水をみるに、 流注してとどまらざるとみる一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり。いは ゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。一曲にもながれ、九淵に もながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。 文子曰、水之道、上天爲雨露、下地爲江河(水の道、天に上りては雨露を爲す。地に下 りては江河を爲す)。 いま俗のいふところ、なほかくのごとし。佛の兒孫と稱ぜんともがら、俗よりもくらか らんは、もともはづべし。いはく、水の道は水の所知覺にあらざれども、水よく現行す 。水の不知覺にあらざれども、水よく現行するなり。 上天爲雨露といふ、しるべし、水はいくそばくの上天上方へものぼりて雨露をなすなり 。雨露は世界にしたがふてしなじななり。水のいたらざるところあるといふは小乘聲聞 經なり、あるいは外道の邪なり。水は火焔裏にもいたるなり、心念思量分別裏にもいた るなり、覺知佛性裏にもいたるなり。 下地爲江河。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。江河のよく賢人となる。 いま凡愚庸流のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。しかにはあらず 、水のなかに江海をなせり。しかあれば、江海ならぬところにも水はあり、水の下地す るとき、江海の功をなすのみなり。 また、水の江海をなしつるところなれば世界あるべからず、佛土あるべからずと學すべ からず。一滴のなかにも無量の佛國土現成なり。しかあれば、佛土のなかに水あるにあ らず、水裏に佛土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかかはれず、法界にかかはれ ず。しかも、かくのごとくなりといへども、水現成の公案なり。 佛のいたるところには水かならずいたる。水のいたるところ、佛かならず現成するなり 。これによりて、佛かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。 しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外の典籍にあらず。水之道は、 上下縱横に通達するなり。しかあるに、佛經のなかに、火風は上にのぼり、地水は下に くだる。この上下は、參學するところあり。いはゆる佛道の上下を參學するなり。 いはゆる地水のゆくところを下とするなり。下を地水のゆくところとするにあらず。火 風の ゆくところは上なり。法界かならずしも上下四維の量にかかはるべからざれども、四大 五大六大等の行處によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。無想天はかみ、阿 鼻獄はしもとせるにあらず。阿鼻も盡法界なり、無想も盡法界なり。 しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし、さらにな がれゆくと知見すべからず。もし傍觀ありて、なんぢが宮殿は流水なりと爲せんときは 、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。さら に宮殿樓閣の欄露柱は、かくのごとくの著ありと保任することもあらん。 この料理、しづかにおもひきたり、おもひもてゆくべし。この邊表に透を學せざれば、 凡夫の身心を解せるにあらず、佛の國土を究盡せるにあらず。凡夫の國土を究盡せる にあらず、凡夫の宮殿を究盡せるにあらず。 いま人間には、海のこころ、江のこころを、ふかく水と知見せりといへども、龍魚等、 いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見す るを、いづれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。いま學佛のともがら、 水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。 すすみて佛道のみづを參學すべし。佛のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか 所見すると參學すべきなり、佛の屋裏また水ありや水なしやと參學すべきなり。 山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり 。賢人聖人によりて山は現成せるなり。おほよそ山は、いくそばくの大聖大賢いりあつ まれるらんとおぼゆれども、山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり 。ただ山の活計の現成するのみなり、さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。 世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂眼睛はるかにことなり。 不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一齊なるべからず。人天の自界にところ をうる、他類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。しかあれば、山流の句を佛に學 すべし、 驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり、拈一はこれ不流なり。一囘は流なり、一囘 は 不流なり。この參究なきがごときは、如來正法輪にあらず。 古佛いはく、欲得不招無間業、莫謗如來正法輪(無間の業を招かざることを得んと欲は ば、、如來正法輪を謗ずること莫れ)。 この道を、皮肉骨髓に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘ずべし。 若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。 おほよそ山は國界に屬せりといへども、山を愛する人に屬するなり。山かならず主を愛 するとき、聖賢高やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに屬するがゆゑに、 樹石鬱茂なり、禽獸靈秀なり。これ聖賢のをかうぶらしむるゆゑなり。しるべし、山は 賢をこのむ實あり、聖をこのむ實あり。 帝者おほく山に幸して賢人を拜し、大聖を拜問するは、古今の勝躅なり。このとき、師 禮をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。聖化のおよぶところ、またく山賢を強 爲することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。華封のそのかみ、黄帝これ を拜するに、膝行して廣成にとふしなり。釋牟尼佛かつて父王の宮をいでて山へいれり 。しかあれども、父王やまをうらみず、父王やまにありて太子ををしふるともがらをあ やしまず。十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ 山を強爲せず。 しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず、人慮の 測度をもて山を知見すべからず。もし人間の流に比準せずは、たれか山流山不流等を疑 著せん。 あるいはむかしよりの賢人聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり 、人をつるあり、道をつるあり。これともに古來水中の風流なり。さらにすすみて自己 をつるあるべし、釣をつるあるべし、釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。 むかし誠和尚、たちまちに藥山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭江の賢聖をえた るなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざ らんや。 人の誠をみることをうるは、誠なり。誠の人を接するは、人にあふなり。 世界に水ありいふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあら ず、雲中にも有世界あり、風中にも有世界あり、火中にも有世界あり、地中にも有世界 あり。法界中にも有世界あり、一莖草中にも有世界あり、一杖中にも有世界あり。有世 界あるがごときは、そのところかならず佛世界あり。かくのごとくの道理、よくよく參 學すべし。 しかあれば、水はこれ眞龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のこと ば、水を謗ずるなり。たとへば非流と強爲するがゆゑに。水は水の如是實相のみなり、 水是水功なり、流にあらず。一水の流を參究し、不流を參究するに、萬法の究盡たちま ちに現成するなり。 山も寶にかくるる山あり、澤にかくるる山あり、空にかくるる山あり、山にかくるる山 あり、藏に藏山する參學あり。 古佛云、山是山水是水。 この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やま を參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。 かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。 正法眼藏山水經第二十九
2016年5月31日火曜日
摩訶般若波羅蜜
摩訶般若波羅蜜 般若とは智慧であり、波羅蜜とは到彼岸をさす。 実相を照らしつくす智慧は生死の彼岸を渡って、涅槃の彼岸に至る船である。 この最上の智慧を「般若波羅蜜」という。 01 観自在菩薩は、この宗旨を始めて人に説いて、次のように述べた 「色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり」と。すべての存在は そのようである。すべての現象はその様である。 また、仏に十二の智慧がある、色、声しょう、香、味、触、意 (しきしょうこうみそくい)と、これに対して、それぞれ、 見、聞、嗅、味、触、知(けんもんしゅうみそくち) の了別作用がある眼識、耳識にしき、鼻識、舌識、身識、意識をいう。 眼耳鼻舌身意の人の六根と、これに対応する色声香味触意の六境とにかかわる 智慧である。 これは六根六境の十二の智慧が互いにかかわるところから情識が生じることをいう。 また、十八の智慧がある。六根六境と眼耳鼻舌身意の六識である。 また人の世の真理について苦集滅道の智慧がある。 また修行について布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若の六つの智慧がある。 また一つの完成された智慧が、あらたに阿のく多羅三みゃく三菩提と漢訳された 無上正等正覚である。無上正等正覚はその古い訳であって、無上の覚りのことである。 また三つの智慧がある、過去、現在、未来にかかわる智慧である。 また、六つの智慧がある、地、水、火、風、空性、認識作用の六大である。 また、四つの智慧がある、世の常に行われている行、住、坐、臥にかかわる智慧 である。 |
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